ある女性の逝去
隔月で通っている通所施設の女性が逝去された。自発的に動かせる体の場所はほとんどなく、スイッチを通した関わり合いは、ことごとく失敗して何年も経過してきた方だ。ところが、体調が安定してきた昨年の12月、彼女は、突然文字をパソコンで綴った。「うれしい ぱぱいろいろありがとう ままいままでありがとう」という両親への感謝をつづったものだった。そして2月の文章は、53文字で、昔の仲間に手紙を書きたいという思いだった。最後の関わりとなった4月、文章は、427文字と飛躍的に長くなったが、冒頭は、「くやしいのしんじてはなやくさのようにほこりをろまんいっぱいにもちつついきていてもしんじてもらえないの」というものだった。現在の常識では、彼女ほどの重い障害を持っている方が、いきなり文章をつづるということは、にわかには受け入れがたいことである。私も、もっと時間を重ねていく中で、徐々に理解されていけばよいと考えていた。しかし、彼女にとっては、せっかくつづれた思いが思うように届かないことははがゆかったことだろう。そして、文章は、さらに「ねがいはたくさんのひとにしんじてもらえることです。」と続いた。しかし、文末は、「のぞみをすてないでよかったねわたしたち。りかいしてくれてもっとわたしたちのことをよのなかにつたえてください。ろまんいっぱいにこれからもいきてゆこうね。」と希望の言葉で結ばれた。
ご葬儀で、私は、ご家族に初めて彼女の文章を手渡した。生前にお渡しできなかったのは、本当に残念だったが、それは、私の力のなさのなせるわざだった。
ご葬儀は、彼女がどれほどご家族や周囲に愛されて日々を生きていたかをうかがわせる心のこもったものだった。言葉を越えたつながりの中で彼女が幸せに生きていたことをしみじみと感じた。
死という冷厳な事実の前には、ただ立ちすくむしかないのだけれど、やはり、「もっとわたしたちのことをよのなかにつたえてください」という彼女の思いを、しっかりと受け止めて、また明日からの関わり合いの場に向かおうと、思いを新たにしているところだ。そして、少しでも、はやく、彼女たちが言葉を豊かにもっているということが、当たり前の常識となる日がくればと思う。
|
2008年5月12日 00時35分
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
通所施設 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/yshibata1958/trackback/1/