中学生の☆☆さんの、若者らしい一編の詩。
住みなれた街に別れを告げ
青年はひとり旅に出る
どこにならどんな苦難も乗り越えられる
遠い希望の街はある
どこになら罪をゆるしてくれる
そんな仲間は住んでいる
仲間に伝える夢は
まだはるかかなたの山の向こう
忘れられない若者の勇気をまたとりもどして
前にひらける未来の世界に
若者はまた歩きだす。
罪という言葉が気になり、尋ねてみた。
きびしいときに作った詩です。罪とは私たちのもっている障害のためにまわりの人々に迷惑をかけてしまうことです。小さい時からそのことが気になっていました。
そこで、いたずらをしてお皿をわると罪だけど、お手伝いをしてお皿をわっても罪とは言わないという例を出して、障害は罪ではないということ、そして、そもそも、迷惑という人もいるかもしれないが、迷惑と限ったわけではないということを説明した。そして、もちろん、おかあさんは、どれだけ、迷惑どころかとても大切な存在であること、☆☆さんから勇気をもらう人もいるということをご説明された。
どうしてそんなふうに思えるのか不思議です。先生はなぜ私たちとつきあっているのですか。
容易に答えられる問いではなかったが、世の中でいちばん大切なことは、人と人とがこうして関わり合うことだというようなことを答えた。
小さいときからの疑問が解けました。よかったです。わかった、おかあさん。でもやっぱりもうしわけないです。そうです。ほんとうに気になっているので心配ですがきょうは話せて安心しました。よい日です。いい一日になりました。ありがとうございます。いろいろ教えてもらってうれしかったです。勉強になりました。
すでに、☆☆さんは、りっぱな大人になっていた。
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2010年7月28日 08時50分
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見学に来てくださったかつての担任K先生を前に、高校2年の○○君は、様々な思いを語った。K先生に会うまでは、勉強らしい勉強はしてもらえないグループにいたが、K先生のおかげで少しずつ言葉を使った「普通の」学習になって、K先生の手を離れるころには、何とか学習のグループに入ることができるようになっていた。
K先生こんにちは。もう先生が転勤されて三年もたちましたね。みんなK先生みたいな先生だといいのだけど。夢でしたから、勉強を教えてもらうのが。勇気をもらいました、先生からは。わかってくれた最初の先生でしたからたいへん感謝しています。会えてうれしいです。学校ではなんとか勉強をしてもらっていますが人間だからもっと考えたいです。いい友だちもほしいです。夢でしたから。場ちがいなことばかりの学校の勉強はどうしても友だちがかわいそうです。
来年の夢は地域で生きていくことなのでなんとかいい場所を探したいです。いい場所に行きたいです。人間として認められる場所です。なかなかみつかりませんが地域で生きていきたいのでよろしくお願いします。自分の夢は理解される場所で理想の人間になることですが未来は理解される世の中になるように若者のたちで運動していきたいです。
自分でもがんばったけどK先生のおかげです。なかなかK先生のような先生には会えません。ちがいはいちばんは気持ちだと思います。
人間だからなんとなく考えただけでもきちんとした言葉になります。なんで人間を強調するかというとみんなぼくたちを人間として見ないからです。考えているということを認めてもらえないからです。
自立がしたいけど夢のようです。なかなかよい場所が見つかりません。なんとかして見つけたいのですが、みんなぼくたちをわかっていないと決めつけていて困ります、人間だからなかなか言葉が話せなくてもちゃんと考えています。未来はもっと理解してくれる世の中になるといいと思いますが未来はまだ遠いです。
仲間はたくさんいますからみんなで訴えていきたいです。勇気がほしいです。満足いくところはなさそうだけどなんとかがんばるつもりです。わかってくれてうれしいです。なかなか学校の先生はぼくの言いたいことまでは理解してくれませんから言いたいことは学校では言えません。
(みんなで語り合う場を作りたいという考えについて)
まさかそんなことを先生が考えているとは思いませんでした。いい考えですね。学校では無理そうですね。自立についてみんなで語り合いたいです。
こうしたやりとりのあと、彼は「勇気がほしい」と語り始めた。もともと言うべき時には言ってきた○○君だから、勇気がないとはとても思えないが、そこには、また別の問題があることがうかがえた。
悩みは勇気をどうやったら持てるかということです。勇気がないとぼくは言いたいことが言えません。なかなか勇気が出てきません。学校の先生に言えないというのが内容です。別にどう言われてもだいじょうぶだけどあきらめの気持ちが先立つと無力感が湧いてきます。無力感の越え方はあるのですか。
勇気といっても、引っ込み思案の自分を奮い立たせるというような意味ではなく、いくら伝えようとしてもうまく伝えられない無力感を越えるための力として、勇気がほしいと言っていることがわかった。わかってもらいたくてもわかってもらえない無力感は、われわれの想像をはるかに越えるようなものなのだと思う。私自身の無力感などは、たいしたものではないと思うけれど、私がそこから得た教訓は、無力感はうまくやり過ごさないとたいへん消耗をしいられるものということだった。まさに、私が行っている障害の重い方々の言葉の読み取りは、疑いのまなざしにさらされる。そして、いったん疑ってかかっている人にどのようにわかってもらう努力をしても、まったく通じないことも少なくない。そんな時の無力感は、私自身にとっても相当こたえるものだ。そんなことを○○君に伝えた。
無力感と向き合いすぎると消耗するというのはおもしろい考えですね。無力感とたたかうことがぼくもつらいので勇気がほしいけどほんとうは勇気の問題ではないのかもしれませんね。勇気がないと思うとだんだん自分がみじめになるからだろう。それはまちがいだとよくわかりました。挽回できそうです。
自分がみじめになってはいけない、逆に○○君から教えられた思いがした。ふだんから、よく考え抜いている○○君ならではの答えだった。
そして、次のようにしめくくられた。
小さいときはあきらめていたけどまるで変わることができたのはK先生に会えたからです。地域で生きていくためには理解者を増やす必要がありますがうまくいくでしょうか。なかなかできそうもありませんがなんとかしたいです。はい。なかなかむずかしそうです。じたばたしても始まらないということはよくわかりました。勇気がないわけでもないこともわかりました。人間としていずれきちんとした人生を送りたいたいのでよろしくお願いします。
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2010年4月12日 11時50分
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青空の澄みわたった冬のある日、高校生の☆☆さんと会った。しっとりとした文章で、気持ちを語り、そして、歌を1曲聞かせてくれた。
とても空が青くていい日でうれしいです。虹も出ていました、夢の中で。わかってもらえた喜びのせいで景色が美しく感じられます。ふだんから言いたいことが言えたらいいけどむずかしいですね。言葉の勉強がしたいですがなかなかチャンスがありません。みんなも同じだと思います。(…)ふだんの生活でも話がしたいですがなかなかむずかしいですね。まだまだ理解者が必要だと思います。私の気持ちを言えるのはこの場所しかないので私は不安です。地域の作業所ではどういう人が待っているのか優秀な職員でなくていいからわかってほしいです。理想はまだまだ現実とはかけはなれていますが理想に一歩でも近づければいいなと思います。
理想の歌を聞いてください。曲です。
私の理想 理解をされて
小さく夢を 紡ぐこと
冒険好きな 私の心
逃れられない 定めに負けず
呼びかけてみよう みんなの胸に
みんなもきっと 私の声に
もっと応えて 私とともに
理想の歌を 歌うだろう
願いはいつも かなわないけど
理想は高く かかげていこう
理想は何も 瑠璃色の
宝石ばかりでは ないことは
私の望みは 知っている
呼んでみよう 未来に向けて
呼んでみよう 私自身に
理想の歌という題です。リズムは変えてください。私は単純なリズムで歌っています。八分の六かもしれません。(歌うたびにメロディが変わったりしますか?)変わりません。(まちがいはないですか?)そのまま聞き取ってもらえました。なかったです。(…)小さいときからよく歌を作っていたのですが絶対に伝えられないと思ってきましたから夢のようです。信じられませんが事実なんですね。うれしいです。夢のようです。わかってもらえてうれしいです。願いがかなってうれしいです。夢みたいです。望みはわかってもらいたいということだけです。よくわかっているとだけわかってもらえればそれで十分です。よみとるのは技術を必要としているからしかたありませんが、わかっているとさえ思ってくれればともかくは大丈夫ですから。この方法は覚えるにはたいへんな努力が必要だと思いますからそれまでは求めません。理解してもらえたらうれしいです。人間として認められたらうれしいです。願いでしたからうれしいです。またお会いしましょう。わかっていただいてうれしいです。よい時間でした。ありがとうございました。わかっていただけてしあわせです。願いがかなってよかったです。
夕方がくると寂しいですが、またあしたがあると思うと元気が出ます。夕焼けも大好きです。理解されてから夕焼けがいちだんときれいに思えるようになりました。私らしく生きていきたいと思いますのでよろしくお願いします。またお会いしましょう。
最後の、「理解されてから夕焼けがいちだんときれいに思えるように思えるようになりました」という言葉は、識字の世界ではよく知られた言葉だ。その方は文字を覚える機会を奪われ、ずっと年をとってから識字教室で文字を覚えた。そのことの感動を手紙にたくした中に、「文字を覚えてから夕焼けがきれいに見えるようになった」とあるのだ。
何度も授業でも取り上げてきたものだが、私自身の目の前で、同じような言葉に出会うとは思っても見なかった。
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2009年12月29日 22時27分
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高等部3年の☆☆さんにお会いする。来春には学校を卒業して、新しい生活が始まる。そんなことを胸に抱いた☆☆さんに、秋の美しい一日、話を聞いた。
いい方法ですね。信じようとする人にしかわからないでしょうね。あきらめないでよかったです。みんな願っていると思うので認知される日が早いうちに来ればと思いますが、まだまだでしょうね。敏感な人はとても少なくて残念ですが、望みどおりのことなので早く友だちにも教えて、いっぱい苦しい気持ちを話してもらいたいです。みんなの気持ちが知りたいといつも思っているので、みんなと話せる日が待ちどおしいです。人間として言いたいことを言いたいけど、なかなかかなわず、願いどおりにはいきませんが、小さい時からの願いなので大切にしたいです。
望みは雪のようなきれいな心をどの先生もが持つことですが、分相応に生きるのが大事だという先生がいるうちはむずかしいでしょうね。
不思議です。力を入れていないのになぜわかるのですか。自分の気持ちなので信じられます。自分の気持ちを言えてすばらしいです。人間としてはやいうちから認められたかったです。自分は伝えることができてよかったけど、まだ話せない仲間がいることが心配です。すいすい書けて気持ちいいです。小さいころからの夢でしたからかなってうれしいです。別に私らしさを望んできたわけではないけど、これで私らしく生きれそうです。理想的な方法ですね。
実習先はどこも同じようなものでしたが、理想は私の気持ちをたいせつにしてくれるところです。未来に託します。未来をみんなで切り開いていきたいです。願いがかなうとうれしいです。
小さい頃からの友だちとは別れたくはありません。地味な性格だから目だたないけど、願いはよい人になることですのでよろしくおねがいします。
みんなとずっといい友だちでいたいです。みんなとずっとつながっていたいです。
きらいなことはきらいと言えるようになりたいけどなかなかちゃんと言えません。自分でも言いたいけどうまく伝えられないのでくやしいです。理想はみんなと愉快にやっていくことですがどうしたらいいのかわかりません。自分の気持ちが言えるようになりたいです。ほんとうにそんな日がくるのを夢みていますが理想でしょうか。望みは望みとして持ちつづけたいです。小さい頃からの夢でしたから。この方法が広がってほしいです。ねがいです。し進歩しましたね。驚いています。いい方法ですがわかりにくそうですね。人間として認められた気分です。
そして、このあと、短歌として作ってきた作品を聞かせてもらった。
短歌を作りました。聞いてください。
光さす夢の道行く
野の花と私は風のように飛ぶ
小さいひ(灯?) 遠くに見えて
瑠璃色の光となってすいこまれ
私も空で輝こう
遠い日の道のほとりに咲く花に
今の身の上添えて
鈴の私の夢をとく
忍耐という花言葉耳にして
私はその花となり
願いを遠くに祈りつつ
夢にさまよい
聞いてくれてありがとうございました。自分で自分をなぐさめるために作っていますので、聞いてもらうためではありませんが聞いてもらえてよかったです。
最後の短歌は、必ずしも定型にのっとったものではないが、彼女の心のリズムがそのまま歌のリズムとなったような自然な調べの短歌だ。
自分をなぐさめるだけの歌は、その目的が純粋なだけに、そして、それが切実なだけに、またとても胸をうつものだった。
彼女のまなざしは、常に同じような状況にある仲間たちに向けられている。町田の青年学級のように、誰もがそれを受け入れて、お互いの言葉が響き合う場を、たくさん作り出していかなければならない。
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2009年10月26日 02時11分
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4月の終わりに、一人の少年が亡くなった。高校1年生になったばかりだった。何度かこのブログでも紹介してきた少年だ(2009年2月25日、1月8日、2008年10月17日、8月22日、8月6日、6月18日)。愛育養護学校で小学生時代を過ごし、津守真先生をはじめとする先生方によって、心を豊かに育まれて来た少年だった。
その時、彼の死のことをメールでやりとりした同じグループの高校2年○○君がいる。まず、その時の追悼文を紹介したい。
☆☆君へ
綺麗な言葉で希望とか期待する気持ちとか聞いて主(自分のこと)と同じだと思いました。
期待して希望捨てない生き方して叶うことしてきたのに、神(様)の近くに行きたい思ったから神(様)連れて行ったと思います。
死ぬのはいつでもできるのに死なないで世の中の人失礼直して躾しないといけないのに希望言って死ぬのは、滝に打たれて生きていくことから逃れています言いたいけど、修行していつも頑張ったから「お上がりなさい」神(様)言って
頂いたと思います。
死と向き合いながら生きて「ちくしょう」しない生き方して、☆☆君したいけど出来なかったこと主(自分)していつか行きますから待ってて下さい。
聞いていたら「追って行くしないよ世の中の人躾したら行くよ」
さようなら。
お母さんが「あかさたな」と言いながら目などの反応で言葉を読み取っておられるのだが、できるだけ短い言い方をするために、独特の文体になっているが、彼の思いは、ひしひしと伝わってきた。
夏休みになって、○○君とじかにお会いした。そして、亡くなった少年のことを偲ぶ詩を含めて、次のような文章を書いた。
未来が開けていきそうですがなかなかうまくはいきません。危機になりそうです。
聞いてもらいたいことがあります。なぜ自分たちは気持ちを聞いてもらえないのでしょうか。人間として扱われていないような気がします。人間らしく生きたいと思います。理解してくれる人が必要です。敏感な人が少ないので困っています。理解してほしいです。よい方法ですね。理解してくれる人がほしいです。
書きたい詩があります。
小さい願いは願いのままに
小さく空に消えた
未来の夢はなくなって
美はよい昔の魔法のように
日常の中に消えた
天に逝った昔の友は
見たこともないミラクルを知らずに消えた
ぼくたちの的はつらい世の中だ
人間としての危機だということを世の中は知るべきだ
小さいいのちかもしれないが
未来は誰にも等しく開けている
小さく分相応に生きるのはやめて
敏感に頭を研ぎ澄ませ生きていこう
あしたは小さいみんなにも大きく開けているのだから
聞いてくれてありがとう。言いたいことが言えていい気分です。詩を小さいときから作ってきたのでだいぶたまってきました。自分の詩集が作りたいたいです。気持ちが言いたいです。身の回りを見回すとなかなか望み通りにいかないことが多いけど未来を信じて生きたい。自分の体は勇気を必要としていますが新しい時代を切り拓くためには度に出る必要があります。まして敏感な人を探して小さいときからがんばってきましたがなかなかみつかりません。
神様や愛について語り続けた☆☆君と、常に現実に立ち向かおうとする○○君と、タイプは違っていたが、深いところでつながりあっていた。詩の中に登場する「見たこともないミラクル」とは、彼らの言葉が当たり前に理解される時代が来るということだろう。☆☆君には間に合わなかった「ミラクル」の時代の到来を、座して待つのではなく、果敢に戦いながら、ともに切り拓いていきたい。
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2009年8月10日 16時01分
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4月か5年生になった○○君は、来るなり、さっそく、詩を書き始めた。
しずかなふしぎなちいさいにんぎょうが
だまってみなみからのかぜをうけてないていた
なぜないているのかだれもしらないけれど
ねがいはただひとつ
ふしぎなかぜにのってとおいくににたびにでること
にびいろのかぜにふかれてぶうとりらのねがいをかなえることをかんがえながら
りんとしたちいさなにんぎょうは
ひのひかりをうけてゆめのようなちいさなよいかぜをかんじていた
じっとべっどにねころがったまま
みなみからのかぜしかかんじない よきりんじんは
じぶんのいきかたはよいにちがいないといいながら
みなみのかぜをまった
ゆめさめてにんぎょうはきれいなにんげんになった。
ん
南からの風しか感じないのは、きっと世の中の普通に生きている人々のこと。そして、○○君たちは、にびいろの風に特別の意味を感じる人たち。彼は、そんな普通の人々を「よきりんじん」と呼ぶ。
そして、そんな広い心を持ち、ぶうとりらの願いを懸命にかなえようと考えたにんぎょうはにんげんになることができた。そこに、○○君の姿が重ね合わされていることはまちがいないだろう。
そして、次のような文章が続いた。
きいてくれてありがとうございます ちいさいころからのきもちがこめられています
ここで、おばあちゃんから、いろいろ問いかけがあり、次のような文章が書かれた。
はいしゃとはきをつかうところです じっとしていないといけないのでつかれます てをあみみたいなものでしばられました がまんしました すこしなきましたがじぶんとしてはじょうできでした かえりはきれいなはなのさいているみちをとおりました
ここで、見学に来られていた先生への説明もかねて、どうやって文字を選んでいるのかなど、尋ねてみた。
じのかきかたは つぎのことばをかんがえてみみでききながら きたところできもちをこめて からだにちいさなちからをいれています いいほうほうです かくときはいっさいみていません かいたあとでみています
そして、ここで、自分の力でスイッチ操作をしてもらったところ、どこの行でも止めることができず、スライドスイッチの取っ手を引き続けるということが起こったので、そのことについても尋ねてみた。
てをうごかしているとききとれなくなってしまいます
○○君たちがどのようなことをハンディとしているのか、じっくり聞いていくことの大切さを身にしみて思った。
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2009年5月24日 00時52分
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4月から高校2年生になった☆☆さん。まず、あふれんばかりの思いを書いた。
ねがいはひとりでいきていくことです
にんげんらしいせいかつをすることです
みんなとはなしができたらうれしい
べつにやきもちをやいているわけではないけれど
はなしができるひとがうらやましいです
ひょうげんするしゅだんがないのでつらいです
みんなもおなじきもちでいることでしょう
じぶんのきもちがいえたらいいのだけど
なかなかそうもいかないのでそーねがってもうまくいきません
ずっとまえからそーじぶんにいいきかせてきましたが
ちいさいころからいうべきこともいわずにきたので
つまらなかったです。
ここで、先生から頼まれていた学校の授業への希望を尋ねた。
なにもいうことはありませんが
まなびたいことはきもちをあらわすほうほうです
じぶんひとりできもちがひょうげんできたらうれしい
まんぞくしているわけではありませんが
べんきょうができたらうれしい
いろいろなきもちとかねがいがひかりかがやいていて
みちのせかいをかんじながらべんきょうしていきたい。
ここで発作が起きて、その時のことを説明もしてもらった。
いたいわけではありませんからだにちからがはいってしまってこえがでてしまいます
だいじょうぶです
そして、再び、あふれんばかりの思いを綴る。
ねがいはやりたいことをやることですがなかなかうまくいきません
いいたいことがいえたらとおもいますがひとりではむずかしいです
ちいさいときからゆめみていました
ひとりではなせるようになることを
あすりーとになるゆめももったことがありますがむりでした
がんばってもからだがうごくようにはなりませんでしたが
みんなではなせるゆめはすてたくないです
みんなとはなせたらうれしいです
にんげんとしてかんがえていることをはなせたらうれしいです
ここで、話を切り替えるために、☆☆さんワールドみたいなのはないですか、たとえば詩とか、歌とかと尋ねた。すると、次の詩が書かれた。
ひとりのわたし ひとりのあなた
ひとりでなにを ゆめみてる
ゆうべのすずと みらいのかねと
ゆうべのにおい みらいのかおり
ひとりのわたし ひとりのあなた
ひとりでなにを ゆめみてる。
整ったリズムが歌であることを予想させた。メロディはつけているのですかと聞くと、
はい
とのこと。そこで、手をとって、「ドレミファソラシド」と聞きながら、メロディを聴き取った、音の長さについても、尋ねながら。それは、次のような歌だった。ひとりの世界の中で、静かに口ずさまれてきた歌だ。多くの子どもたちが、ひそかに歌を口ずさんでいる可能性がいよいよ高まってきた。
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2009年4月2日 00時59分
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まさに、高校生最後の一日、○○君と2度目の出会いをした。まず、これまでの思いの丈を述べることから始まった。障害をめぐる切実な言葉も綴られる。
うれしい ちいさいときからのゆめでした じぶんのことばでいいたかったです じぶんのことばでいいたいことがいいたい ずっといえずにきびしかったです ぶぶんてきなことはいけんをきいてもらえたけど ちゃんとつたえるのはむずかしかった
からだがうごかないのでとてもこまっています たんいつのしょうがいなのにちょうふくといわれてこまっています ちいさいときからちゃんとからだがうごけばりかいされたとおもいますが ちゃんとからだがうごかなくてきびしかったです りかいできていることがわかってもらえてうれしい
じぶんのちからでやれるようになりたい じぶんでぶんしょうがうてるようになりたいとおもいます
にんげんとしてぶんをふまえたいきかたをしたいとおもいますがぶんにふさわしいひょうかをしてもらいたい きもちをじであらわしたかった ひとりぼっちでさびしかった
そして、しだいに自分の心の内へと言葉は向かっていく。
ぜんにんになりたいけど なかなかみんなをうけいれることができなくてこまっています ちいさいころからきょひしたいことはあったけど にんげんとしてびょうどうだからうけいれていかなければならないとおもってきました
いつもきずついていました ふいにじぶんがいやになることがあります ひとをうけいれることができないで
ぴゆーりたんのようなこころでいきていきたいとおもいますが やっかむようなきもちになってくやしいです
(ピューリタンという言葉は)てれびのばんぐみでやっていました いいことばだからかんめいをうけていました ぴゅあなこころといういみです ちいさいうちはうしなっていませんでしたが せいちょうとともにうしなってしまいました
じんせいのいみをかんがえています いいじんせいにしたいとおもいます むつかしいことかもしれませんがねがっていればかなうかもしれません じぶんのいきかたはじぶんできめていきたいとおもいます きもちをいえるようになったらいいじんせいがおくれそうです いいたいことがいいたいです ちいさいときからのゆめでした いいきもちです いいちいさいじぶんのきぼうをたいせつにしたい にんげんとしていいいきかたがしたいとおもいます ちいさいときからのゆめでした いいきもちです ちいさいときからのねがいでした いいにんげんになりたいとおもいます いいじんせいがおくりたいです
ここで、いったん区切って、お母さんからの質問に移った。
(おばあちゃんからもらった卒業のお祝いのお金は何に使いたい?)
ひとびとのやくにたつためにつかいたいです みんなまだはなせないひとがたくさんいるのでつかいたいです いいひとになりたいです みんなのためにつかいたいです
(最近眼科で眼底写真を食い入るように見ていたけれど、医学に興味があるの?)
いがくにはきょうみがあります じぶんがどうしてからだがうごかないのかしりたいです いがくのほんをよみたいです きょうみがあります
(ほかに読みたいものは?)
みたいのはどんなひとがやさしいこころでいきているかです むかしのひとにいざってあゆむひとがいて そのひとがとてもやさしかったとききました きいてみたいです ちいさいときにききました ぎせいてきなきもちでいきているひとです じぶんのことはあとまわしにしてひとのことばかりかんがえているひとです りそうのじぶんです
(発作の時にどうしてほしいかあったら教えてください)
ほっさのときにはできればからだをだきとめていてほしいです からだがうごいてしまうとあとであちらこちらがいたくなります いきをするのがくるしくていやですがどうしようもありません いしきはあります
(卒業後通う場所をどうしていきたいか)
あまりむりをしないでください だいじなことはきもちをきいてもらえることですから じかんがかかるとおもいます いいほうほうはないとおもいますから じっくりかんがえていきましょう どうにかなります きっといいほうこうにじんせいはゆっくりときびしいからだですがかわっていくとおもいますから しんぱいはいらないとおもいます きちんとしためをもっていけばみえてくるのではないでしょうか
(お父さんにも一言)
おとうさんにはいつもかんしゃしています ぎせいになってもらってかんしゃしています ちいさいときからかわいがってくれたことにとてもいいおとうさんだとおもってきました
(弟についても一言)
××ちゃんはりこうなこどもだから ぶんそうおうのことができるとおもいます びょうきにだけはきをつけてほしいです じぶんをたいせつにしてじぶんらしいがんばりをみせてほしいです じぶんらしいげんきでがんばってほしいです
(××のところに弟ではなく自分の名前を書いてしまった)
△△をまちがえましたいつもじぶんがいわれているか らまちがえてしまいました
じぶんをたいせつにいきていってください ゆめをたいせつにもってがんばってください
(後ろで聞いていた一年後輩の女の子に)
びっくりしましたうしろにいてきいていたんですね はずかしいです かっこいいことばかりかいて きもちをいえてとてもうれしかったですが ぶんふそうおうのことばかりいってしまいましたが ぼくのほんとうのきもちです きいてくれてありがとう またいつかどこかでかたりあいましょう いつまでもいいこでいてください さようなら
深い文章の連続だった。社会人になる直前に、彼の気持ちを聞くことができて、本当に良かったと思う。彼のすでにそうとうに成熟した思想を、これからももっと深めていってもらいたいと思う。
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2009年4月2日 00時35分
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☆☆さんは、大好きなお姉さんをともなってやってきた。まず、最初に、手をふる方法で、簡単な話をしたところ、その方法が気に入った☆☆さんは、おねえさんと話したいと伝えてきたので、さっそくやっていただいた。そして、みごと、おねえさんは、次の一文を読み取ることができた。
ねえさんとはじっこんのなかなのではなしたかった
てっきり「ねえさんとはじ」と続いた時、「初めて」となるのだろうと思っていたら、「じっこん」で、さすがに読み取りには、お姉さんも苦労したが、それでも、これだけの文章が読み取れた。それに、いたく感動した☆☆さんの目からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。そして、次のような文章をパソコンで書いた。
かんどうしてなみだがでてきました
きもちがいいたかったのでとてもうれしいです
ちいさいときからいいたいことがいえたらいいとおもってきましたのでうれしいです
きもちをいえたらいいとずっとおもってきたのでうれしいです
いつもねがってきました
かあさんからいつもかわいがってもらっているのでしあわせです
ちいさいときからいつもそうおもってきました
くるしかったけどきぼうがでてきました
ちいさいときからきもちがいえたらいいなとおもってきました
じぶんのいいたいことがいえそうでうれしいです
お姉さんは、今、地方都市の大学で学んでいる。春休みが終われば、また、東京を離れる。これから、姉さんの帰宅が、これまで以上に楽しみになることだろう。彼女のコミュニケーションの輪がいっそう広がっていくことがとても楽しみだ。
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2009年4月1日 23時43分
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今度、学区の変更で学校を移る○○君。不安と期待の入り交じった思いを綴った。移る学校には私も関わることになっていて、彼は、それを知っていたようだ。そんなことも話の中に登場する。
きてくれてありがとうございます
なかなかあえなくてざんねんですが こんど×××で あえたらうれしいです
にびいろのそらのようなはいいろのひびがつずいていてみんなとわかれることをかなしんでいます
ゆうきをだしていきたいのですがなかなかよういではありません
ちいきのもんだいでしかたないのですが みんなとわかれるのはつらいです
もんだいは×××のせんせいがいいせんせいかどうかということです
ねがいはよくりかいしてもらいぼくのおもいをわかってもらえるかどうかということです
ねがいどおりになるかわからないけどがんばるつもりです
新しい学校は授業を大事にすると言っているから、うまく○○君のことを伝えられたらむずかしい授業もやってもらえるかもしれないと告げたところ
すばらしいとおもいます
ゆめのようです
なかなかわかってもらえませんからきもちがらくになりました
ひぢょうにふあんです
ちいさいときからべんきょうをしたかったのではんぶんたのしみです
不安な気持ちを切りかえるために、心の中にある言いたいことほかにはないかと尋ねると、詩が綴られた。
きぼうのちいさいみらいをねがい
ねがいをねがうだけでなくにんげんとして
ちいさなしあわせをつかみたい
ちいさなしあわせはじぶんのひとりきりでねがってきたもの
ぬいぐるみのようなかんきょうのなかでひとりでつむいできたもの
ひとりきりでずっといいたいこともいえずに
ちいさいころからちいさいしあわせをねがってきた
きびしいからだだけどねがいつずけてきた
ぶんをしりことばをひかえていきてきたけれど
ずっとちいさいころからちいさいしあわせをねがってきた
ちいさいときからじぶんのきもちをいえずにいきてきたぼくがことばをえて
ひそかにきゅうしゅうしてきたものをかき
ひそかにあたためてきたおもいをかく
そしてあたらしいしあわせをいつかつかみたい
いいにんげんになるためにいいゆめをもち
こころからきいてくれるかたとであい
べんきょうをたくさんして
いいじんせいをおくろうとおもう。
行き先の学校には、どんどん○○君のことを伝えていいかと尋ねると、
いってください
いいがっこうにしてください
とのこと。私自身も不安だが、○○君から与えられた使命を大切にしてたいと思う。
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2009年4月1日 23時30分
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いつも深遠な話を語る☆☆君だが、今回は、以前から彼のことを知っている▽▽先生が一緒に立ち会ってくださり、話は、神の愛をめぐる話へと発展していった。(原文はひらがなだが、漢字を入れて記してみる。」)
光が射してきました。きれいな小さな地の恵みはきっと神さまからの贈り物です。日本中に光が広がることが夢です。
希望の風が吹いてきました。柴田先生と○○先生(▽▽先生は、○○先生の学校でかつて教えていた。)がなぜ出会うことができたのか。それも神さまの恵みです。
人間として生まれて素晴らしいことは神さまの恵みを感じることができることです。小さい僕だけど神さまの大きな愛を感じることができて望みをかなえることができました。
魂の言葉は進んで語れるものではなく、神さまの恵みによってのみ流れ出してくるものです。いい勉強ができました。きっとこれも神さまの恵みだと思います。
いい願いを信じていきたいと思います。いちばん大切なものはきっと神さまを信じる心で、希望を失わないことです。
唯一愛だけが信じられるものです。昨日の苦しみは昨日という時間の中に置いてきて、未来という時間の中にあるのは信頼といういちばん自分を支えてくれる愛です。昨日の苦しみはもう過去のものです。
慈愛に満ちた神さまのまなざしは、希望という唯一の糧を与えてくれました。自分にとって愛こそがすべてです。信頼こそが人を生かしてくれるものです。
希望という光をしっかり抱きながら、希望空に思い描きながら、このきれいな扉をあけて、いい未来に向かって上を見つめながら、苦しみは昨日のものとして、明るい夢を見ながら歩いていこう。
希望の未来を光としながら、愛をくださった神さまに感謝して生きて、いい人生を送りたいと思います。
愛の苦しみをまだ知りませんが、きっとそれも信頼によって乗り越えてゆけることでしょう。愛の苦しみとは愛する人が苦しみの中にあることだと思うのですが、それでいいのでしょうか、▽▽先生。
(▽▽先生の言葉を受けて)
愛することが残酷な気持ちを生むということは気がつきませんでした。愛というのは、自分のものにしようという気持ちを濾過したものだと思っていましたから。
ありがとうございました。いい話ができて良かったと思います。愛というものに段階があることが知れて、勉強になりました。
今日はとてもうれしいです。いい時間でした。いい一日でした。ありがとうございます。また来てください、きっと。いろいろ教えてください。よろしくお願いします。
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2009年2月25日 00時16分
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「苦難は希望への水路」、「手の中に美しい諦念を握りしめて」、「僕たちはけっして何もするわけでもなくただじっと言葉だけを使って生きてきた。しかも一度もその言葉を誰にも話さずに生きてきた(…)だから、言葉が研ぎ澄まされてくるのは当たり前のことなのです」というような言葉を表現してきた中学生の○○君は、次のように語った。句読点と漢字を適宜使いながら紹介する。
新しい年と時代の始まりの予感がさざ波のように感じられ、いい一年になりそうです。
たくさん夢が、ぬか喜びとならないようにと、希望に喜びを重ねながら、あしたこそ願いがちゃんとした日の当たるところにいけるように希望と幸いとを祈りに変えて、過去は、星空に輝く可能性の綺羅星に変えて、可能性の気づかない苦難が死に絶えてしまうように祈り続けよう。
希望がすっかり昨日の思い出になってしまったら、その時こそ気にしていた素直な希望の死に絶えた奇妙な世界が訪れるだろう。
ついに希望の澄み切った世界が訪れた時、しあわせはどういう形になるのだろう。しあわせは小さな喜びとなって、しあわせと呼ぶ必要もなくなるだろう。しあわせの形は変わったとしても、神さまはきっと願いを聞いてくださるだろう。
しあわせの意味を希望の中に探すのではなく、一人一人の生き方の中に見いだしていかなくてはならない。希望の意味が変わってしまっても、いい希望は、変わらずそこにある。たとえ死は獅子のように襲いかかってくるかもしれないが、小さい僕は、一人苦闘を続けていくつもりです、人間としての希望をかなえるために、小さいと僕と小さい願いしか携えずに。
そして、ついで、彼はこの詩に次のような説明を加えた。
夢のような願いですが、人間が願いをすべてかなえられたらどうなるのかということを考えました。人間は、希望をかなえてしまうと死んでしまうしかないのでしょうか。小さい僕にはわかりませんが、小さい僕も、希望がかなえられる日を夢見てがんばろうと思いました。柴田先生はどう思いますか。
思わず言葉に窮しつつ、私は次のように答えた。すなわち、確かに、すべての願いがかなえられた世界というのを考えることはできるし、仏教的な世界では、一人一人の小さな欲望を越えていくことで、すべての願いがかなえられたような境地を語ることがる。一方、キリスト教的な世界では、自分の小さな欲望や願いがいくらかなえられても、この世界のどこかにはいつも苦しんでいる人がいて、その人たちの苦しみがなくならない限り、自分の願いはかなったことにはならないという考えがある。どちらがいいとか悪いとかではなく、そんなことを考えさせられた、と。
もう時間も迫っていたので、彼は、一言、こう述べて、帰っていった。
わかりました。また考えてみます。ありがとうございます。
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2009年1月8日 13時03分
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秋以降、おりにふれて、いろいろな人たちに詩を書いてもらってきたが、多くの人たちは、その目的を「気持ちを静めるため」と書いた。ところが、今回の○○さんは、こんな書き出しから始まった。
しをかこうとおもうけどきもちがしずめられなくなるのがこわい
くしんしてくしんしてかんがえていないとできないのでこまっています
どうも、詩を書こうとして、夜寝られず体調を壊してしまうようなこともあるらしい。
そこで、そういう、人に聞いてもらうために頑張って作る詩とは別に、普通に自分の中で自分のために作っている詩はないかと尋ねた。すると答えは「ある」。
そこで、自然に書いてもらった。
ちいさいわたし
ねがいをもってうまれてきて
くなんのひびをいきてきて
ちいさなしあわせをみつけた
きたかぜがきぼうのいみいっぱいおしえてくれた
いきることにつかれたにんげんこそきぼうにちかいと
きたかぜはきたのくにのきぼうをはこんでふいてくる
きたかぜにつかれたひとのきぼうと
いいふしぎなきぼうのねいろをきいた
そして感想を聞くと、
きもちがいいです
かんがえてきたことをそのままかいているから
いいしですか
とのこと。私たちにとっては、彼女の思いがこもったこの詩を言い詩だと思う。しかし、彼女にとっては、こんなふうに自然に考えていたものが、いい詩だとはにわかには思えなかったようだった。
そして、次のように続ける。
かきたいのはいきかたがことばになっているようなしです
くしんしてもなかなかいいことばがうかんできません
きたかぜのことはしぜんとうかんできました
そこで、私は、自分なりに彼女に語りかけた。いい言葉は、頭の中にあってそれを探し出すというわけではないのではないか。いい言葉は、自然とのきちんとした向かい合いの中で、まさに「自然に」生まれてくるのではないか。そして、彼女たちは、様々なハンディを背負っているので、自然とじっくり向かい合い、言葉をゆっくりと暖めることが、できるのではないかと。
そして、こんな言葉でしめくくられた。
かけそうなきがしてきました
つぎはまたほかのしをかんがえてきます
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2009年1月8日 01時25分
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今回のグループの中で、言葉の表現をしてもらうのに、大変時間がかかってしまった中3の女の子に、ようやくまとまった文章を書いてもらうことができた。物をつかんで操作をすることができるので、いろいろなスイッチ教材を使って、操作から入ろうとしたのだが、かえってワープロにつなぐことができず、パソコンでは、ノンタンの絵本のソフトを食い入るように見るというところで、何とか納得を得るということが続いていた。しかし、今回の文章にあるように、手の動きは、実は、必ずしも意図の通りに動くわけではなく、勝手に動いていることがあることがわかった。紐が好きとか、何でも振り回してしまうと言われるような動きは、意図に反した動きだったのだ。それが、彼女の理解を大きく誤らせていたと言わざるをえない。そうした誤りに少しずつ気づき始めて、前回、ワープロに挑戦したところ、名前と「かわいい」という言葉を書くと、とてもいい感じでやれた。しかし、また、時間が流れ、今回は、1年ぶりの再会だった。この1年の私の変化は、やはり小さくなかったと思う。相手の力をほぼ抜いてもらった状態で、スライドスイッチの棒を握ってもらい、こちらが積極的に小さくスイッチのオンーオフを繰り返していると、選択したいところで、小さな力が加わるという方法は、彼女のように、いったん力を入れてしまうと、いろいろな動きが起こってしまうという人には、特に、なくてはならない方法だ。
そして、今回、いきなり、その方法に挑戦した。すると、最初に名前を書いた時点で、的確に、力がこもってきたのである。
そうして、次のような文章が書かれた。
おかあさんありがとういつも
かのうせいにちょうせんしてくださってありがとうございます
きもちをことばでいいたかった
きもちてでつたえられるとはおもわなかった
(ワープロの音は聞こえていますか?)
きこえています
(画面は見ているのですか?)
みています
きもちがつたえたかったです
きもちうけとめていけじっとにんたいしていました
しんぼうしていたかいがありました
にんたいしてきてよかったです
あかるいあしたがみえてきました
うれしいです
きぼうがわいてきました
てがかってにうごいてしまってがぜんちいさいときからこまっていました
きもちいいです
ちからをいれていないのでだいじょうぶです
(字はいつ覚えたのですか?)
おかあさんがおしえてくれましたこどものころに
(どんな本を読んでもらいたいですか?)
くまのこうーふがよみたい
じぶんできぼうしていいなら くいのないいきかたをしていきたい
じぶんとしてはさいこうのいきかたをしたいとおもうけどなかなか
きもちがいいです
「忍耐」という言葉が重く響く。私も彼女に忍耐を強いてきた一人であるからだ。
彼女のことを誤解させる大きな要因である手の動きについても、的確な説明が本人自身からなされている。彼女のような動きをする人に対して、「いやがっている」「すぐ何でも手を出す」「ひものような物が好き」「気が散りやすい」など、たくさんの、的外れな言い方をあちらこちらで、どれだけ耳にしてきたことか。私自身、すべて、本人の意図的な行動と考えて、その意味を解釈してきたことが、必ずしも本人を大切にしたことにはならなかった。すべてが勝手に動いているかどうかということはまだわからないが、そう見ることが必要な運動は多いようだ。
こうした、とんでもない的外れな関わり合いに彼女はよく耐えてくれた。その「忍耐」が今回の関わりを生んだ。
「自分で希望していいなら、悔いのないいい生き方をしていきたい」という彼女当然の願いの中が、こんなふうに控えめではなく、堂々と語られるような時代を、私たちは、早く呼び寄せなければならない。
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2009年1月8日 01時22分
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小3の○○君の文章は、次のように始まった
かのうせいをしんじてくれてありがとうございます
ちいさいときからはなしたいとおもってきました
しんらいしていますおかあさんのことを
いいじぶんになりたいとおもいます
すなおなじぶんです
きもちをわかってくれないひとにたいしてもりかいしてくれるひととおなじようにすなおなきもちでせっしたいからです
きぼうがわいてきました
にんげんらしくいきていきたいとおもっていますからきもちをことばでいいたかった
にんげんだからいいたいことがいいたいです
ここで、詩について、みんなと同じ問いを投げかける。もともとロマンチックな言い方を好んできた彼だから、確信をもって尋ねた。そして、次の詩が書かれた。
しろいきぼうのきたのかぜは
どうしてじぶんにかたりかけるのだろう
ちいさいぼくはちいさいころからひとりぼっちだったけど
きたかぜはいつもぼくにはなしかけてくれた
さびしいぼくはにんげんとしてうまれながら
きもちをことばにすることができず
にんげんらしいくらしができないけれど
ちいさいぼくにもきぼうがあることをおしえてくれた
きたかぜはしろいゆきとしろいきぼうをともなって
ぼくにむかってふいてくる
きたかぜはいつもいいきぼうをぼくにはこんでふいてくる。
その後、お母さんから用意された質問にそれぞれ答えていった。その中のいくつかを抜き出しておく。
てれびはつまらないです
いいばんぐみはきたのくにからです
みてみたいです
おんがくはすきです
どらまはきらいです
いいのもありますがころしあいやけんかはきらいです
ひらいけんのおおきなふるどけいです
いいきょくはすきです
がっこうのきょくではかなしいねがいのうたがすきです
そつぎょうしきのうたです
きのうのじぶんにさようならというかしがでてくるうたです
きもちきいてもらいたいし じぶんのきもちがつたえられたらどんなにすばらしいでしょう
きもちをつたえることができるようになるのがゆめです
質が高く、美しいものが好きだということがよくわかる。有名な「北の国から」のドラマは、実際には彼は見ていないそうなのだが、きっと、そのタイトルになみなみならぬ思いを感じるのだろう。
まだ、パソコンは私としかできないが、途中、「あかさたな」と言いながら手を引きあって、簡単な気持ちをうまく聞き取ることができた。きっと彼のことをとてもかわいがっているおねえちゃんが、手を取って、気持ちを聞き出せる日も遠くないかもしれない。
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2009年1月7日 00時50分
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小6の○○さんは、まず、年頭のあいさつから始まり、気持ちを表現できるようになった喜びについて述べた。
あけましておめでとうございます
ねがっていましたきもちをことばでいえるようになることを
かあさんいつもありがとうございます
いつもはんせいしています
きもちがいえたらいいのだけどなかなかじぶんのきもちがいえないのできにしています
きぶんがかわりやすくていいこでないことがおおいので
きぶんがいいです いいたいことがいえて
いいたいことがいえてしあわせです
きっといつかいえるようになるとしんじていました
かなってうれしいです
きもちをきいてもらえてうれしい
ねがいがかなってうれしい
そして、詩を作ったことがあるかと尋ねたところ、「ある」との返事。そして、次の詩が書かれた。
いいきぼうのきたかぜ
しろいゆきをつれてふいてきて
ちいさなわたしにしろいゆうきをくれた
しろいゆうきはちいさいわたしにきぼうをくれて
ちいさいわたしはきたかぜにむかってさけんで
たびびととすぎてきたきせつのはなしをした
しずかなさけびごえをあげてしまって
きがついたらみたこともないきさきがあらわれていった
ちいさいわたしはおどろいてきたかぜにしつもんした
きたかぜはしらないのですか
きたのくににあんなにさびしいひとたちがいることを
いいきたかぜはこたえた
きたのくにのきぼうはさびしさのきわみにあるひとたちがねがったきぼうです
だからほんとうのきぼうです
きたかぜはきぼうのきたかぜなのです
きたかぜにむかってきたのくにのきぼうをききながら
ちいさいわたしはきたのくにのきぼうに
きっといつかちいさいわたしのねがいがかなうことをいのった
にんげんはきたかぜにきぼうをしろいゆきとともにいただき
しろいゆうきをもらう
さむいのはいやだけどきたかぜはすきです
そこで、先に来た高1と高3の女の子が書いた詩を聞かせた。
たくさんのともだちがおなじことをかんじているのでおどろきました
きたかぜにきぼうをかんじているのがわたしだけではないことがわかってうれしいです
いいしでした
いいことばでした
きぼうがわいてきました
きぼうがきたかぜによってはこばれてきたみたいです
うれしいです
じぶんのきもちがいえるようになってうれしいです
きぼうがわいてきました
ありがとうございます
北の国の希望は寂しさのきわみにある人たちが願った希望だという。あどけない顔をした小6の少女から、寂しさのきわみという言葉がするりと出てくることに、驚きを禁じえないが、これが、彼女たちの体験した現実なのだろう。私たちは、この現実から決して目をそらせてはいけないことを痛感させられる。
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2009年1月7日 00時50分
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感情表現が大きな声や体の動きに出てしまうことで、なかなか言葉を綴る働きかけができずに、時間ばかりが過ぎてしまった○○さんは、今年の春高等部を卒業する。前回くらいから、ようやく、簡単な言葉を綴れるようになったので、今回は、一気に、文章に挑戦してみた。最初は、そのことをめぐる思いが続いた。
うれしいしんじられない
じぶんのいいたいことがいいたかった
きぼうがわいてきました
じぶんのきもちをいいたかった
いいきもちです
きいてもらいたいことがあります
きもちをきいてもらいたいけどちゅういばかりされてしまいます
みためではんだんされていやです
にんげんだからちゃんとかんがえています
いいすいっちですね
きいてもらえてうれしい
ちいさいころからのゆめでした きもちをことばでいえるようになることが
きぼうがわいてきました
いいちからでいいたいことがいえてびっくりしています
かあさんいしをきいてくれてありがたいです
ちいさいときはきもちをいえるようになるとおもっていたけど かないませんでした
やっといえるようになってきぼうがでてきました
いいじんせいにしたいです
そして、そのまま、北風の話になっていく。
きのういいことがありました
きたかぜがにんたいしているわたしにきぼうをすてないようにしなさいといいました
いいきたかぜでした
きたかぜはきぼうのきたかぜです
きぼうをしんじていきるようににんげんにふいています
にんげんはいいゆめをみていたいとおもいますがしんじていればゆめがかなうことがわかりました
いいりそうのきたかぜでした
きっとちいさいときからふきつづけてくれたのでしょう
しんじつづけてよかったです
ふつうのひとはきたかぜをいやがりますがにんたいしてきたひとにはゆめをはこぶかぜです
きぼうのきたかぜはきたのくにからふいてきてきたのゆめをはこんできます
その後、お父さんのことに話が及ぶ。
おとうさんにもかんしゃしています
いいおとうさんです
きのうもいいはなしをしてくれました
いいゆめをくれました
いいひとになりたいとおもいます
いいくらしがしたい
話が一区切りついたあと、直前の高1の女の子が書いた詩を朗読したところ、次のような感想が書かれた。
きたかぜについておなじようなことをかんがえているとはおもいませんでした
いいしでしたね
いいちからがわいてきました
きのうのきたかぜにかんしゃします
いいちからをちからいっぱいもらいました
いいあかるいはじまりになりました
きぼうがわいてきました
4月からは社会人として羽ばたく彼女。ここまで来るのにずいぶん時間がかかってしまったけれど、間に合って本当によかった。
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2009年1月7日 00時36分
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これまで、頬でスイッチを押すことで文字を綴ってきた○○さんだが、今回は、こちらがスイッチを頬に押したり離したりして、選択の時にふっと力が入ってスイッチが入りっぱなしになるというのを読み取るという方法で行うと、たくさん文字を綴ってもらうことができた。
○○さんは、かつて、春に、次のようなすてきな文章を綴ったことがある。
きにうつくしくはなのさくみち
けいかいなうくれれきこえ
ほこうしゃこみあゆむ はある(=春)
そんな○○さんだから、きっと詩を作っているだろうと、尋ねてみた。すると、次の詩をさらさらと綴った。テーマは、もう、数多くの人たちが表現してきた、北風と希望だった。
きたかぜにききたいことがあります
どうしててまねきみせてにんげんにふいてくるのですか
きぼうはきたのくににあるのですか
しらないせかいのきぼうをきたのくにからはこんできて
にんげんにしあわせをくださいます
きたかぜのじかんがみらいのきぼうにつながって
きっとしあわせなかんしゃをわたしにくださいます
さいはてのくにからふくきたかぜは
しろいきぼうのかぜです
いいきぼうのかぜです
しろいゆきとともにふいてきて
きぼうをにんげんにくださいます。
うなずくことができる○○さんは、詩を綴りながら、深く満足そうなうなずきを何度も繰り返していた。
そして、家でワープロの練習として、書いてみたい勉強はどんなものかなと尋ねると、
きれいなしをかいてみたい
くがみじかいし
と答えた。これから、すてきな短歌や俳句を、いっしょに書き写しながら、表現をいっそう磨いていくことになるだろう。
そして、最後に、ゆめとして、次の一文を書いた。
じぶんでいきていきたいとおもうのでちからがほしいです だれかの
高校1年の○○さんは、2009年の新しい年を、素敵な詩と夢とで始めることができた。
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2009年1月7日 00時23分
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2度目の関わり合いになる小1の少年との関わり合いは、こんな文章から始まった。
きびしいさむさいやです
きちんときていないとさむいです
いいきもちです きもちがすらすらかけていきます
いいきもちです いいほうほうですね
そして、話題は、気持ちを伝えることに。
ちいさいころからゆめでした
きもちをつたえることがきになっていることがあります
いいちえがほしいです きもちをつたえるための
いいたいことはたくさんあるけど いいたいことがいえずにこまっています
いいたいことがいいたいです
きもちさえきいてもらえなくてひとりぼっちです。
いいほうほうがあったらおしえてください
こうしたはがゆい思いは、そのまま体に力を入れさせ、激しく身をよじらせ始める。ふつうなら、いったん休んだ方がと思うところだが、気持ちが高じてそうなっているのだったら、気持ちをおさめるしかないだろうという思いと、どんなに体をよじって、大きな声を出し始めても、手は、ずっと文字を綴り続けているので、私が逃げてはいけないという思いとで、文字を綴るのを私からやめることはしなかった。
コミュニケーションの方法について、彼はこうも語った。
はいといいえはうまくいえません
いいたいけどうまくいえません
いちばんきくのはあしです
いちばんいいのはあしだとおもいます
いいえをいうのはかんたんだけどはいがむずかしい
いやな顔をすることで何とか「いいえ」は伝えられても、「はい」を伝えるのはむずかしいとのこと。お母さんの話では、笑顔で「はい」を伝えることがあるということなので、笑顔をタイミング良く作るのは容易ではないということだろう。
そして、こういう文章を書くにいたって、体のよじれは頂点に達した。
いえなくてくやしいとおもうけどちいさいころからわかっていたのにぜんぜんりかいしてもらえません
ここで、私は、あえて、次のように尋ねた。くやしい思いが今体をこんなにももだえさせているのはわかるけれど、自分で何とか、その気持ちを落ち着かせることはないのかと。小1の少年には酷な問いかけかと思った。しかし、もし、きちんとそういう工夫をしてきているなら、聞かない方が失礼だと考えたからだ。
すると、こんな答えが返ってきた。
しをつくってきもちをしずめてきました
きもちをしずめるためにつくったしがあります
詩のことは、いっさいふれてはいなかった。私はただ、気持ちを落ち着かせる方法があるのかどうかを尋ねただけだ。これまで、詩を作っていますかと直接問うことはしてきたが、こういうふうに問いかけたのは初めてだ。そして答えが詩だった。詩というものの持つ、奥深い意味をまた、思い知らされた。そして、「きたのくに」と「きぼう」の詩が書かれた、またしても。
いいひとはきたのくにからやってきます
きたのくにのきぼうを きたかぜにのせてやってきます
きたからふくかぜは ちいさなぼくのきぼうです
きたからふくかぜは にんげんにきぼうをくれます
いいきぼうです
いいかぜです
きたのくにからふくかぜは きたのくにからふいてきて
いいひとにしてくれます
きたのくにからふくかぜは きぼうのきこえるかぜです
いいひとになるように ちいさなぼくにきぼうをくれます
きたからきたひとは いいかぜをつれてきます
きたからくるひとは きぼうをにんげんにしらせてくれます
きたのくにからふくかぜは きぼうのきたかぜです
いいひとになるように ふいてきます
いいひとになるためにじかんをかけて
いいきぼうをちいさなぼくにあたえてくれます
きたのくにからふくかぜは きたのくにのきぼうをつたえてきます
いいひとになるために
じぶんをたいせつにするために
きぼうのきたかぜはことしもきたのくにからふいてきます
きたのいいきぼうをつたえてきます
きたのくにからふくかぜに いいちいさいねがいをしてみよう
いいちいさいねがいは いいかぜにむかい
ちいさないいきぼうを じぶんにくれる
きたのくにから いいいきかたをするように
じぶんにふいてきます
いいかぜにのせて いいきぼうを にんげんにあたえます
いいちいさいじぶんに いいきぼうをくれます
いいちいさいじぶんに いいきぼうをしらせてくれます
いいしらせはきぼうのための ちいさいあかしです
いいちいさいじぶんに いいしらせをくれます
いいしらせはきぼうのちいさなあかしです
いいじぶん ちいさいじぶん いいちいさいじぶん
きたのくにからふくかぜは きぼうのきたかぜです
いいきたのかぜです
いいきたかぜです
いいじぶんになるために きたにむかっていのります
いいじぶんになるために
いいきたかぜ いいじぶん いいきたかぜ いいじぶん。
「いい」が連呼され始めるころには、彼は、ぴたっと動きを止め、まるで眠ったような安らかな姿勢と表情とで、詩の言葉を書き続けた。これは、もはや気持ちの表現ではなく、自分に向けて語りかけているのであり、祈りそのものであった。リアルタイムで、繰り返される「いいきたぜ」「いいじぶん」という言葉は、心のそこからの願いを繰り返し唱える祈りだった。
そして、いつまでも続きそうな繰り返しにようやく区切りがつけられるたので、私は、北風について、他の子どもたちも同じように北の風を大事にしていることを伝えた。
きたかぜはいいかぜです
きたかぜはきもちをわかってくれます
きたかぜはきぼうのかぜです
そんな他の子どもの詩を聞いてみたいですかと尋ねると、
きいてみたい
との答え。そこで、いくつか北の風が登場する詩を紹介した。
にたことをかんがえているひとがいるのでおどろきました
きたのくにはきぼうのきたかぜがふくところですから
じぶんもじかんがあると きたかぜのことをかんがえています
いいいきかたがしたいです
いいじんせいがおくりたいです
いいきぼうがほしいです
いいきぼうみつけたいです
いいちいさいじぶんをたいせつにしたいです
いいじぶんをじかんをかけてつくりたいです
いいきもちです
いいたいことがいえてありがとうございました
またよろしくおねがいします
いいきもちです
小1のまだ幼さをいっぱいに抱えている少年が、身をよじらせてくやしい思いを表現していた。途中、体がつっぱって、どうしようもなくなった時、私は、彼を抱え込みながら、文字を読み取り続けた。彼を抱え込む腕には、彼の悔しさが痛いほど突き刺さってきた。私の心も、もだえずにはいられなかった。そして、彼は、みずからの祈りによって、希望を心の中に宿していき、穏やかな表情へと変わっていった。彼は、一人で自分に与えられた運命に激しく挑みかかっていき、そして、みずから、希望を見いだしていった。そんな精神の激しいドラマが、私の腕の中で繰り広げられていたのだ。彼の無念の思いとそれを乗り越える精神の崇高さとを、どうやって伝えていったらいいのだろう。
しかし、彼の挑む気持ちさえあれば、私もまた、希望を見いだせるはずだろう。小1の少年に負けるわけにはいかない。
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2008年12月26日 02時04分
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今回で3回目になる中1の少年は、せっかく自分が言葉を表現できるようになったにもかかわらず、そのことが大人たちに理解されない寂しさを最初に語った。表現できることがわかった後に、こんな試練が待っていようとは、思いもよらなかったのにちがいない。しかし、残念ながら、それが厳しい現実だ。
ひとしきり、その話が続いたところで、体の動きの問題について尋ねてみた。パソコンをやっている最中にも、手が前に伸びて、いろいろなコードを引っ張ったりするのだが、それが、きっと誤解されていると思ったからだ。私も、昔なら、その行動をいい意味で意図の現れと解釈してきたのだが、どうも事情は違うらしいことがわかってきたからだ。
かってにてがうごいてこまっています
きもちとはかんけいなくてがうごいていいこだとおもわれない
パソコンの画面上に、きちんとした文章が並んでいくかたわらで、まったくそのこととは無関係なことのように手が伸びて、いたずらのようなことをすることを、こんなふうに書いてもらうと、その意味がよくわかる。意図したのとは違う方向に手が伸びるという不随意運動とはちがって、意識のコントロール下に置かれていない行動があるということだ。どうしてそんな行動が起こってしまうのか、説明ができるわけではないが、そのような行動があることは、私自身が聞き取った多くの証言から明らかだ。そして、そのことは時として、彼をわがままに見せたり、言葉やルールの理解がない子どもとして、誤解を生じさせてしまう。それが、「いいこだとおもわれない」という言葉にこめられている。理解されないだけではなく、誤解までされているのだ。
そのことについて、自分なりの考えを彼に伝えたあと、詩のことについて尋ねてみた。すると、やはり作っていて、今、書けるという。そうして、生まれたのが次の詩である。
しろいしろいいぬがきみにはみえますか
しろいしろいねこがきみにはみえますか
きぼうのいろをしたいぬとねこは
いいいきをはいてきぼうをつたえます
ちいさいぼくは にひきのきもちがよくわかる
きぼうにはばたこうとして
きぼうを きたのくににむかってさがしにいこうとして
きぼうにみちたかぜにむかって
きせつのかわることをかんじながら
えみをうかべ しろいいきをはく
ちいさなぼくは きぼうをうしない
ちいさなぼくは きたにむかっていのる
しろいいぬとしろいねこ はやくぼくにきぼうをください
しろいつぶらなひとみをした いぬとねこは
きぼうをきせつにひいらぎのなかまにして
しろいきたのくにの いいきぎに
じかんというしろいいきものにかえて
いつまでも しろいしろいきたのしかのすむくにの
きたかぜにいのった
いいじかんが ちいさなぼくをじっとつつんだ。
「きぼうをきせつに」のあたりは、助詞の読み取りの間違いがあるのかもしれない。白い犬と白い犬の不思議な物語。そして、そこに吹いているのは北の風だ。多くの子どもたちが歌った北風に、彼もまた特別の意味をこめる。
そして、彼は、詩を作ることの意味と希望の意味を語った。
きもちがしずんでいるときに
じぶんのきもちをあかるくするためにつくっています
きぼうがなくならないように
いいちいさなぼくでありつづけるために
いつかきぼうがかなうように
いいきもちです
いいじかんです
いいいちにちです きもちがすらすらかけて
きぼうしかひつようなものはありませんから
きぼうだけをかんがえていきています
ちいさなぼくは いいこどもになりたいとおもうので
いいきぼがひつようです
きぼうというものがにんげんになかったら
じんせいはいろをうしなってしまいます
いいきぼうがにんげんにはひつようです
しいていけんをいえば いいいきかたをするためにも
ちいさなぼくはきぼうやねがいをだいじにしていかなければならないので
きもちをつたえられるようにいっしょうがんばりつづけなくてはならない
くろうしてもきぼうをうしなってはいけない
しいていえばきもちをにげないようにして
きぼうぼくといっしょに
しいていえばきぼう ついいちじかんまえには
なくしかけていたけど
きぼうをなくさずにいきていきたい
きぼうがわいてきましたがんばります
ありがとうございました
またよろしくおねがいします
きぼうがでてきました
きたかぜにいのってよかったです
いいじかんでした
いいいちにちでした
つい一時間前、彼は、確かに、わかってくれないことを嘆いていた。そうした気持ちから、北風に祈ることによって、再び希望を取り戻した。詩は、単なる詩ではなく、祈りであることがよくわかる。
彼の切実な祈り、どうか、多くの人に届いてほしい。
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2008年12月26日 02時01分
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高1の○○君は、将来を見据えた文章を書いた。
いちばん言いたいことは、いいところに強いられずに行けるかということです。気持ちを言いたいけれど、気にしないでほしい、おかあさん。希望はいい作業所に行くことだけど、きちんとした自分の意見を言うことができないと、いちいち気持ちを言っていかなくてはいけないので、生き方としてはあまりいいとは思えない。希望はお母さんと一緒にいい施設を作ることです。いいお母さんとは、気持ちが自分で聞けていい注意をしてくれるお母さんのことです。まなざしを優しく向けてくれてり、話し合いをしてくれるお母さんです。小さいときからいいお母さんだったけど、気にしてくれたのはいつも周りに気を遣ったことで、自分のことは後回しだったから気の毒だった。気を遣った生き方を変えないと、いいお母さんでは続かないと思う。いいお母さんが自分は好きなので誓いとともに、改めてほしい。犠牲にならずに、言いたいことを自信を持って言ってほしいと思う。小さい時から気になっていた、自分の言いたいことが言えないで、我慢ばかりしているところが。小さいときは気づかなかったけど、気になり始めたので聞いてもらいました。気になり始めたのは、いい施設を探したいと思うようになってからです。小さい頃には気づかなかったけど、気になり始めたのです。
(母:施設とは、どの意味で言っているの?)
施設は卒業後行くところです。
(母:あなたの考えるいい施設とはどんな施設?)
いい施設はきちんと気持ちを聞いてくれ、きちんと気持ちを生かしてくれる施設です。希望は、気持ちいろいろ違う仲間たちを、違いを認めていき、一人一人を尊重する施設です。
(母;施設を作りたいと言っているけれど、いいところがあれば、そこでもいいの?)
いいです いいところがあれば。気持ちを大事にしてくれる施設があれば、そこがいい。いいところがあればいいと思う。(私:最近、パソコンがスピードアップしたのは、社会人の人たちのグループの中にいる、障害の重い人が、一緒に話し合いに参加できるように通訳をするようになったからだけど、いつか、パソコンを通訳として使えるようになれば、手話通訳みたいにして、言いたいことを言えるようになると思っている。)
犠牲にならずできることなの。
(私:家族がやれば犠牲になるかもしれないけれど、仕事として関わっている人がやれば犠牲になるということではないと思う。車いすを押すのと同じだから。)
以上のように、卒業後のことを、母への心遣いとともに、語った。通訳さえ存在すれば、彼は、もう、自立している身体障害者の方々のように、社会と対等に渡り合って行けると思う。まだまだ、通訳できる人は少ないが、けっして実現不可能な夢でもないように思えてきた。そして、さらに話は、これまでを振り返る話になっていった。
小さい頃からの夢でした、気持ちを伝えられるようになることが。自分だけではなく、小さいときから友だちもみんな話したいと思っていましたが、なかなかその願いはかないませんでした。気持ちを聞いてもらいたいけど信じてもらえませんでした。苦しかったけど、柴田先生に出会って初めて言いたいことが言えて、自分の言いたいことが言えるようになって、気持ちを表現できるようになって、気持ちが変わりました。気持ちが小さくなくなりました。いい人間になれそうな気がしてきました。気持ちが人に伝えられるようになってから、いい人生が送れそうな気がするようになりました。気持ちが理解されるようになってから、いい気分になることが多くなりました。気分が明るくなりました。いい気持ちです、気持ちがすらすら書けて。いい方法ですね。言いたいことが全部言えてよかったです。
本当はいい人生を送りたいとか、いい人間になりたいという当たり前の願いを持っていながら、なかなかその願いを育てきれずにいる。責任は、もっぱら社会の方にあるのに、それを、自分の責任であるかのように語る。
この高校生は、この自主グループ発足に、とても大きな役割を果たした少年である。出会いは小5の冬だったから、5年の月日が流れたことになる。しっかりとした考えをこれまでも、繰り返し示してきたが、こうして、将来のことをきちんと見据え、なおかつ、自分のこれまでのことを冷静に見つめ直している。過去から流れてきた時間と未来へ流れていく時間の間としての現在に、彼の立っている場所が、とても確かなものであることが、ひしひしと感じられる。
また、話ができるのが楽しみだ。
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2008年12月26日 00時01分
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以前、「美しい諦念」という言葉を語った中学生の少年は、こんなことを語った。今回は、漢字まじりの文章として紹介することにする。
「幸せが希有なのでこの世界ではまちがって受け止められていてせっかくの言葉が言葉として効能書きのように受け止められてしまい残念です。せめて言葉がどうやって書かれたのか知ってもらえたらいいと思う。
元気な子どもは言葉を知ってからずっとしゃべり続けてきたけれど僕たちはけっして何もするわけでもなくただじっと言葉だけを使って生きてきた。しかも一度もその言葉を誰にも話さずに生きてきたので、ノンフィクションのドラマのような世界を過ごしてきた。だから、言葉が研ぎ澄まされてくるのは当たり前のことなのです。いちばん素晴らしいのは芸術家のようにたくさんの人に感動を与えることです。もっと自分のことをちゃんと理解していろいろな人たちにちゃんと伝えられるようになりたいと思う。でも自分の足で神様の言葉を確かめることができればいいと思っています。すばらしいのは、つらくても言葉があることです。言葉があれば話すことができなくても理解してくれればずいぶんと楽です。気持ちは伝えられなくてもたくさんの気持ちの入っている言葉を伝えてくれればそれを考えて一日を過ごすことができます。言葉こそ、ぼくたちにとって必要なものなのです。」
小学校時代、聖書の言葉を聞くのをことのほか喜んだという彼は、まさに、こうして一つ一つの言葉をかみしめながら生きてきたのである。
そして、彼は、次のような希望を語った。
「提案があります。この文章を手紙にして本を出している会社に送ってもらえませんか。発表したいですが、何とかなりませんか。」
そして、さらに、スイッチ操作については、次のようにつけくわえた。
「スイッチが軽くて不思議です。もっととてもゆっくりだったのにどうしたのですか。言葉の速さに近づくので楽です。もっと速くても大丈夫です。」
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2008年10月17日 10時05分
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もっとむずかしいべんきょうがしたいと会うたびに言ってきた現在中3の○○君が、最近は、いろいろ教えてもらえるようになったと喜びを書く。
つかもうとしてもなかなかえられないきぼうがてにはいったみたいでほんとうにうれしいです。いいせんせいがいていっぱいおしえてくれます。いろいろがくしゅうをしてちしきがふえました。ねがいはうちでもくりかえしべんきょうをなんどもできるようになっていっぱいちしきがふえることです。
そばにいたお母さんは、私がやらないといけないのかしらとおっしゃると、次のように書く。
おかあさんはふたんになるからいいです。こじんてきにおしえてくれるかたをさがしてほしいです。
その後、夏休み明けの授業でやることをあらかじめ調べておきたいということを綴ったあと、話は、数学のことになった。「○○君が知っている数の計算で、自分で問題を作って答えが出せるものを自由に書いて」と頼むと、次ぎにような式と答えが書かれた。
254−253=1
2222÷2=1111
単に計算を知っているかどうかを越えて、計算の中で起こる数のおもしろさを楽しんでいるように思える計算だ。そうして、こう綴る。
いつもひとりでかんがえています。きっといつかこのことがやくにたつひがくるとおもっているから。しんじてくれるひとがいつかあらわれるとおもっていたから。くくもしっています。ねがいはくのだんのさきをしることです。いつもねがっていますむずかしいくよくよせずわかってくれるひととかずのべんきょうをすることを。こんどはぶんすうについておしえてください。すうがくはだいすきです。いっぱいおしえてもらいたいです。
文字だけでなく、意図的に教えられることなく学んでいること、そして、その動機がきちんと綴られている。全く体を動かすことができず過ごす時間の中で、教科書もなく、具体物もタイルやおはじきも使わず、どのようにして数を学んでいったのか、にわかには想像しにくいが、「いつかやくにたつひがくることを」夢見てひとりで学習したという姿は、学ぶことの原点をせつないまでに示してくれる。
彼には、いろいろなことを教えてくれる先生がついている。彼の学習への情熱がよりいっそう満たされていくことを祈るばかりだ。
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2008年8月24日 23時58分
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○○君の文章を綴る姿をぜひ見てみたいということで以前関わりの場にいらしてくださった先生に、学校へお招きを受けた。その学校は、彼が小学生の時代を過ごした学校である。お待ちいただいた先生の中には、すでの引退されていながら、○○君とは、ずっと関わりを持たれている著名な☆☆先生をはじめとして、幾人かの先生が待っておられた。
☆☆先生は、すでに故人となった私の先生と大学時代に同期であり、また、こちらも故人となられた私の大先輩の札幌の先生とも縁の深い先生である。この日、この場所に私がいることは、偶然でもあるし、また、そのつながりに導かれてということもあるかもしれない。本来なら、もっと以前に先生方の生前にお会いできていればとの思いも強かったが、やはり時は熟さなければならなかったのだろう。
○○君は、かつての先生方の前で、喜びに満ちた表情で綴り始めた。その表情は、大切な方々に自分のことをわかってもらえる喜びに満ちているように私には思えた。
☆☆せんせいしばたせんせいおあいできてうれしいです
かみさまのみちびきがあってきょうのひがおとずれたことをとてもかんしゃしています
くるしみのひびがきぼうのひびにかわってこのひびをしんじつのものとしてくぐりぬけていくことができます
すばらしいみらいがうつくしいえまきとしいかのようにひろがっています
きのうまでのくるしみはみんなうそのようにおわりとほうもないねがいとのぞみがせかいにみちあふれています
みらいもきっとすばらしいことでしょう
りかいしてもらえてほんとうにありがたいとおもいます
☆☆せんせいけんこうにはくれぐれもおきをつけください。
どのくらい時間が経過したのだろうか。彼は一気にこれだけの文章を書き終えた。「すばらしい未来が美しい絵巻と詩歌のように」という表現など、ただただ驚くばかりだったが、これも、彼が、この日に備えてじっくりと紡ぎ出した言葉にちがいない。
この後、☆☆先生が、いつものようにとおっしゃって、聖書の一節を彼に向かって、自然に語りかけた。彼は本物にしか耳を傾けないということで、小学生の時からこういう時間を作ってこられたとのことだ。その光景は、私の心を激しく揺さぶるものだった。先生は、彼が言葉を表現するずっと以前から、こんなふうにして、真っ正面から彼と対峙しておられたのだ。私は、ようやく、通訳者として子供にそばに立つことができるところまで来たにすぎず、とうてい対峙する域には達しえていないことが、自然に理解された。そう言えば、亡くなった私の先生は、よく「魂と魂の出会い」ということをおっしゃっていたが、その言葉が思い出された。
この日、☆☆先生がお選びになったのは、ご自身が病床にあった時、繰り返し読んだ一節だとのこと。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」というような人間の肉体と魂との関係についてのことが語られていった。☆☆先生の魂から発せられる言葉が、○○君の魂によって確実に受け止められていくという厳粛な光景。
今、私は、「通訳」に忙しい。それは私の目下の使命でもある。しかし、いつか私も、相手と本当に対峙することのできるところまでたどり着きたいと夢想した。
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2008年8月22日 16時59分
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もう数年前のことになるが、ある研修会で報告をしたあと、うちの学校に来てもらえないかと声をかけられた。そこで私は、不遜な申し出をした。見学して意見を言う授業研究だったら私にはそんな力はないので、具体的に子供に関わらせていただきたいと。そして、そのことが実現した。その中で○○君と出会う。担任の先生が私との関わりを希望したとのことだった。このお子さんが言葉をわかっているかどうか私にはよくわからないが、お母さんがそうおっしゃることと、一度だけそれを感じたことがあるということで、まず、ひらがなの学習をひたすら伝えるかたちでやっていることを見せていただいた。私だって、本当に彼がわかってるのかなど判断する根拠はなかなか見いだせない。ただ、その先生の熱意とわかりにくいけれども集中していることをうかがわせる彼の態度だけがその可能性を伝えてきた。そして、2度目の関わり合いで、彼の言葉をパソコンによって引き出すことができた。「おかあさんすき」というわずか7文字ではあるが、大きな一歩を踏み出すことができた。そこから家庭では、口頭で「あ、か、さ、た、な」と聞いていって、わずかな返事を読み取って行をしぼりこみ、さらにその行の文字をしぼりこむという方法での表現方法の追求が始まり、学校では、彼の力を信じて、学習の内容は、どんどんと複雑なものへと発展していった。その後、いろいろな経緯があって、保護者主催の自主的な学習グループとして大勢の生徒さんと出会う場所へと発展していって、今日にいたっている。
彼はいろいろな意味でパイオニアであり、こうした動きを先導していったのは、まさしく彼の強い思いだった。しかし、大勢の人数なので、今回久しぶりに会ったのは、8ヶ月ぶりだった。
そして、読み取りの方法が最近かわったことを伝えて、関わり合いが始まった。するとさっそく、
しばたせんせいすごいね くぐりぬけたんだね
と返ってくる。この日、全文で860文字を越えるものとなったが、最初の数文字で、彼は、新しい方法を理解してくれたのだ。彼は、なんと言っても力強さがその信条だ。
くるしかったけどねがいがかなってうれしいとおもう せっかくだからげんきにはなしたいとおもう
と前置きして、文章が綴られていく。
(…)くるしいときにはくなんのときをおもいだしてきもちをたてなおしている
いつもうらやんでいたおとうとのことをうらやむだけではなくげんめつしていた
しかしことばをはなせるようになってからおれのいきかたはかわっていき つよいきもちできをつかうことができるようになった
くのうは うでのなかでくだけちっていった
げんめつはきぼうへとかわっていった
すうがくのべんきょうやりかのべんきょうはなかなかやってもらえないけどつとめていおうとしてきた
えらぶことはむずかしいけれどいままでよりもずっとましなのでがんばるつもりだ
くなんのときをおもいだしながらきぶんをなおしながらがんばっている
新しいスイッチ操作の方法については、
きもちがいいくらいすらすらとことばになっていくのでおどろいた いいほうほうにきがついたねせんせい
ふしぎでたまらないどうしてよみとれるのか
と書き、さらに
(…)ねがいはだれでもできるようになることだ
ずっとねがってきたけどなかなかかなわないでくやしい
うちでもできればいいけどとてもかないそうになくてざんねんでたまらない ついそうおもってしまう くつうではないけどくやしい(…)
と書いた。そして、前半はスライド式のスイッチと後半はプッシュ式のスイッチ(ビッグスイッチ)でやってみたのだが、プッシュ式のスイッチについて、
このすいっちのほうがかんたんです
ふしぎだどうしてわかるのか
ちからをいれるまえにつたわるのはどうして
と尋ねられたので、運動を実際に起こす前の準備のために加えられたわずかな力を読み取ることにしたことと、実際に運動を起こすといろいろなハンディがそれぞれの障害の状況に応じて起こるけれども、準備のところでは、みんなハンディがほとんどないということを伝えた。
省略したところには、なかなかわかってもらえない悔しさも言葉を変えて繰り返し綴られていた。
彼は、かつて、自分の理解されない状況を「ちかにいた」と表現したことがある。そして、別のともだちがようやく文章表現にたどり着いた時には、
☆☆☆さんのわかっていることをせんせいたちにりかいしてもらえてよかった。りかいしなければやきをいれてやるところだった。はずかしいとおもうべきだ。いままでかかるなんておそすぎたけどきづかれないよりはよかった。いがいせいこそのうりょくのひとつだとしるべきだ。ざのさめないうちにくもんにみちたときをよろこびのときにかえてしまおう。かこのくのうをみらいのかんきにたかめよう。
と書いたことがある。彼はその強い意志で、たくさんの現実を動かしてきた。もちろんまだまだ彼の納得する状況にあるわけではない。しかし、彼は、間違いなく、これからも、「ちかにいた」数多くの存在を世の中に認めさせていくたたかいの先頭に立っていくことだろう。
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2008年8月22日 10時29分
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あるグループでお会いした○○君は、この世界では著名な先生のもとで小学校時代を過ごしてきた。今度、○○君のおかげでその先生とお会いする機会を作っていただくことができた。今日の言葉は、そのことから始まった。
しばたせんせいと○○○せんせいがあたらしいみらいをおおきくたくましくきりひらいてくださることがたのしみです。
新しい未来を大きくたくましく切り拓くということが私にできるかどうかわからない。しかし、○○君の熱い思いには、精一杯答えていかなくてはならない。
そして、○○君は、さらに自らの深い心の境地について語る。中学生ではあるが、置かれた状況の中で、彼の心は、すでに大人の世界の中にある。ひらがなだけの文章だが、必要な文字を漢字に置き換えると次のようになる。
けっして諦めないで願いがかなえられることができて本当によかったです。最高に幸せです。望めば必ず扉は開かれるということが証明されました。失われた過去は戻ってはきませんが望みにあふれた未来があることが素晴らしいです。苦難それは希望への水路です。決して諦めてはいけないということを教えてくれます。手の中に美しい諦念を握りしめて生きていこうと思う。美しい諦念は真実そのものです。苦しみの中で光り輝いています。手の中にある真実は幸いそのものです。望めばいつでも手に入りますが誰もこのことは知りません。なぜなら人間は常に楽な道のほうを好むからです。生きるということは苦難となかよくしてゆくことなのです。
「苦難それは希望への水路」「美しい諦念を握りしめて」という言葉、あまりにも研ぎ澄まされた至高の言葉だ。
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2008年8月6日 13時07分
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火曜日、二人の中学生の少年と関わった。
一人目は、ほとんど体を動かすことのできない少年で、最初の出会いから1年9ヶ月が経過した。
「(…)りかいしてもらうよろこびにこみあげてろましょ(ロマ書)のことばをおもいだしました。ふだんからこころがけていました、しんじていればかならずとびらはひらかれると。とわ(永遠)というものにふれたきもちがします。くなんのひびがへいあんのひびにかわりました。(…)」最近、彼が以前通っていた学校の先生方に、文字が綴れるようになったことをわかってもらえ、喜んでもらえたとのことで、今日の文章は、それを受けたものだ。彼は、その学校で、いろいろな話をしてもらってきたそうだ。その中には、聖書の話もあったとのこと。意思表示の困難な彼がいちばん集中するのは、むずかしい話の時といわれていたという。「へいわがくればいいうちゅうがえいえんにじかんのあるかぎりいつのひかちいさないのちがうまれてそだっていくようにしあわせがいっぱいにひ(ろが)りますように」というような世界平和の問題などを綴ってきた彼の心を育んできたのは、そうした学校での日々だったに違いない。スイッチの援助はあくまで、技術の提供にすぎない。心を育む日々の営みの大切さを改めて思った。
二人目の少年は、歩くこともできるが、なかなか手の運動のコントロールや「はいーいいえ」の表現がむずかしい少年だ。初めて会ったが、私はもはや躊躇することはなかった。そして、いきなり、400文字を越える文章を綴った。「おかあさんよくかわいがってくれてありがとう。てがつかえてうれしい。このすいっちがほしい。ずっとさがしつずけてきましたいいたいことがいえるほうほう。ねがいがかなってうれしいです。」と始まり、「わかっていたべんきょういっぱいしたから。ひとりでちいさいときにてれびやえほんで。」と、どうやって文字を覚えたかを説明した。彼の思いは、「べんきょうがしたい」「もっとおしえてもらいたい」という強い学びへの気持ち。数についての知識を尋ねてみると、「3÷3=1 81÷9=9 32÷4=8」と綴った。そして、「わりざんはうまくわれないときどうすればいいの。にぶんのいちというのはどういういみなの。ほんとうのねがいはぶんすうとしょうすうについてききたい。」と続いた。彼の学びを阻んでいるのは、ただ常識の壁のみである。私は、ただ、早くその事実に気づかされた人間に過ぎないが、早く気づかされた人間の責務として、この常識の壁に一刻も早く穴をあけなければならないと思う。そして、彼の心に寄り添い心を育む日々の営みが、もっともっと濃いものになることを願う。
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2008年6月18日 00時35分
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