ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2014年05月25日(日)
尊厳死法案をめぐって 5月24日 
 5月24日、最近国会で議論されている尊厳死法案について、3人の方が意見を述べました。

N.Hさん
 私たちは寝たきりで気持ちも自由に表現できませんが私たちにも尊厳があります。だから尊厳死法案はまちがっています。みんな人間としての尊厳ある生を生きていることを知ってください。私たちはみんなこの体に誇りを持って生きていると思いますからぜったいに尊厳死法案など作らないでください。

A.Kさん
 なぜ私は尊厳死法案に反対かというと僕たちの仲間が尊厳ある人生を生きていることを認めずにもうどうせ何もわからない人間だから生きる価値がないと考えるからです。僕のように体は丈夫なら尊厳死の対象にはなりにくいけれどぬいぐるみのように感じられていて尊厳ある生を生きているとは思われていないのだから結局僕も体が弱ったら尊厳死の対象になってこの世から抹殺されてしまうのです。僕たちはもっともっとわがままに主張しなければなりません。遠慮していたら殺されてしまいます。まだまだ私たちの言葉は受け入れられていませんが小さい道でも強い気持ちで切り開いてゆかなくてはいけません。みんな気持ちをしっかり持って生きているということを理解してもらうと同時に末期の人でも気持ちがしっかりあってただ伝えられないだけだということを理解することなしに法案を議論するのは根本的に間違っています。また人はけっして一人では生きていませんから尊厳ある生は一人のものではなく周りの人とともに作っていくものです。だから最後に意識が失われた瞬間でさえ尊厳ある生が存在しているのです。一人で極楽や天国に行くのではなくて周りの人の中で生き続けるのが死語の生だとするなら尊厳ある生は意識がなくなっても存続しているものです。

T.Oさん
 なぜ尊厳死法がおかしいかというと尊厳ある生には違いがないからです。違いはただまわりの利害だけを問題にする人にとってあるのみなのです。つらいのは恐怖を感じる仲間まで出てきていることです。理解はできていても伝える手段がないという時間を長い間過ごしてきた者として理解していないと思われることのつらさは筆舌に尽くしがたいものがあります。よい方法さえあれば僕たちはみんな普通に話すことができます。おそらく終末期にあって言葉が話せなくなっても人は意識があるはずです。そのこともまだよく確かめられていないはずです。なぜなら世の中はまだ僕らの存在にさえ目を向けていないのですから。

 今、生命観に大きな変化が起きようとしているように思えます。生まれる方では出生前診断、亡くなる方では、臓器移植法や尊厳死法案。
 こうした、コミュニケーションに困難をかかえる当事者の声を、しっかりと届けることが、この議論に一石を投じることになるはずなのですが、まだ、その石がその議論の渦中に届くことがむずかしい段階にあります。しかし、何とかして届けなければいけないと思っています。
2014年5月25日 22時51分 | 記事へ | コメント(0) |
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2013年01月01日(火)
りほさんの「哲学のような詩」
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 年末のある日のできごとです。
 小児科の病棟の面会室のラウンジでりほさんの詩を聞かせてもらいました。広い窓一杯の冬の青空が広がり、まばゆいばかりの冬の日射しが注いでいました。富士山も遠くくっきりと青空に映えていました。詩を聞かせていただいているうちに、しだいに日は西に傾き、富士山はやがて夕焼け空のシルエットになって、夜空の闇の中に沈んでいきました。
 彼女は、私の詩の優劣のようなことは問題ではなく、ただ、私の経験を伝えたいと語っていました。その言葉どおり、りほさんの独自の経験がいかんなく表現されたものとなっています。


  私たちは負けない

私たちは負けません 
何があっても絶対に負けません
長い間悩んできたけれど
私は新しい道を歩き始めたのだから
つらい道は過去の梨穂を人間として育ててくれなくはなかったけれど
緑がもう少しほしかった
夢ばかり見ては涙を流していたけれど
憎しみとは無縁だった
よい新しい道は夢を現実に変える道だ
人間として私がりりしく立ち上がって歩む道だ
りりしさを自分が持てるとはなかなか想像だにしえなかったが
私は私らしさのひとつにそのりりしさをつけくわえた
負けることはけしてないだろう
私がいのちを終えるまで


  らりるれろの魔法

ランプをりりしく瑠璃色に
煉獄の底から櫓を漕ぎながらともしていこう
よい報せを私はずっと煉獄の底で待っていた
よい報せはなかなか届かず
呼んでみようとしても
喉は凍りついて
誰にも声さえ届かなかった
私は煉獄の底にいて
ただ私の心の奥に住む
ほんとうの私だけを見つめて生きてきた
どこにも救いさえ見つからず
何を頼ればいいのかもわからないまま生きてきた
律儀な私の耳にいつも希望をくれたのは
らりるれろの美しい響き
らりるれろは魔法の響き
私はらりるれろという響きを心の糧に生きてきた
りすはりんどうの花をくわえて
私の秘密の箱の中にそっと森の香りを届けてくれた
らっぱの音色はらくだを荷物から解き放ち
わずかばかりの楽園の夢を見させた
ろうそくがきえそうになると
レトルトのロコモコを食べたレスラーが
再びあかりをともしてくれた
ロンドンから届いたレターには
ローマ字の論文が書かれていた
令嬢みたいな服を着た
ろくでなしの私は路頭に迷って理想をなくしかけた
まるでらりるれろの世界の中で私はひっそりと生きてきた
だけどぼろぼろの舟の櫓を漕ぐ音が
遠く静かに近づいたのだ
りりしさをしらない私が
りりしさを身につけ
瑠璃色の光をめざしながら煉獄の底から
広い明るい世界へと旅立つときが来た
櫓をもっと強く漕いで
けしてうしろを振り返らず
私はもう二度と戻ることのない煉獄をあとにする


  薔薇色の塗り絵

薔薇色塗り絵に知らない動物が隠されている
人間になれなくて泣いている動物や
わだかまりを洗い流すことができない動物たち
よくよく見なければわからない
そんな動物たちを私はなんとか解放してあげたい
理想を高くかかげなければ動物を休ませてあげることはできない
みんな夢を閉じ込められて
拷問のように画面の中に閉じ込められているけれど
みんなそれぞれの色を持ちそれぞれの姿を持っている
人間らしい夢を閉じ込められていた私も
小さな塗り絵の中にいた
よいゆめも理想も塗り絵の中に閉じ込められたまま
二度と抜け出せることはないと諦めていた
目の前を私に気づくことなく人が行き過ぎていった
望まない人はなぜか塗り絵を笑って過ぎた
みんな私がここにいるということに気づかないまま時は過ぎた
私のでんでんむしのような歩みにも
私の生きた証しがあるけれど
私はこの絵の中にいるのはいやだった
びろうどのようにやさしい風が吹いたとき
不思議な勇気が湧いてきた
瑠璃色のクレヨンを持った王子様が塗り絵にそっと線を引いた
とつぜんそこに私の輪郭が現れて私は塗り絵を抜け出した


  季節がどうして移ろうか

なぜ秋は過ぎてゆくのか
私は秋の中にいてそれがどうしてもたえられなかった
敏感なほほを秋風がなでてゆく
秋風になでられたほほはもみじのように赤くなった
もみじは枯れてしまうけど
私のほほは赤く色づいた果物のように散ることはない
ほほをなでていった秋風は私に何かを伝えようとして過ぎていった
わずかなわずかな秋の名残が木の枝に残っている
今にも散りそうな枯れ葉が一枚北風に吹かれて震えている
そのうちに枯れ葉も落ちてしまえば
あとに残るのは木の枝だけになった冬木立のみ
その模様を青空がくっきりと映し出す
冬はすべてを死にたえさせる絶望の季節だが
冬の北風が運ぶのは清らかな雪だ
すべて罪深い存在を包み込む雪はそれだけで人の悲しみを癒やす
みんなが冬を避けて部屋の中でまどろむとき
雪だけが悲しみを静かに癒やし続けている
冬は悲しみを癒やす季節
春はその悲しみに癒やされた者こそが
再び再生する全能の神が活躍する季節だが
悲しみを静かに癒やした北風のことは
なんども私たちが語っても人々の耳には届かない
私は今北風の中に一人立ち
悲しみを癒やす雪を待ち続けている。


  夕焼けに包まれて

身を涙の海に沈め私は望みをなくして夕日をながめながら
疲れた心を横たえる
どうしてあんなに夕日は悲しい色をしているのか
私の心もまた夕日の色に染まる
願いは私も夕日のように必ず朝日として昇ること
しかし私の心はけして昇ることはない
夜の闇はけして明けることはない
涙の海は暗闇の中に暗く沈んで
そこにはただ静寂だけが残った
みんな寝静まった暗い闇夜に
小さな流れ星が流れた
私は小さな流れ星に小さな願いをかけた
どうか私にも輝く朝日を迎えさせてくださいと
星は何も応えなかったが
私は夕焼けとともに
残り火のような夕焼けの名残を見たような気がした
凛とした夜の闇に消えようとしている夕焼けの名残は
私にほろびる姿のはかなさと
ごらん私をという気高さを教えてくれた
夕焼けの秘密に気づいたならば
私はあなたに一度だけ朝日を見せてあげる
そういって流れ星は消えていった


2013年1月1日 00時09分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年12月13日(木)
出生前診断をめぐって 12月12日 ダウン症の少女の言葉
 ダウン症の当事者である10代の少女の悲痛な叫びです。

 犠牲的な話にとても胸が痛んでいます。小さいながら私たちは私たちらしく生きているのですが理解できないようなことが起こっています。利害しか考えない人たちは私たちは生きていない方がいいと言い始めました。理想は私たちも同じ人間だということなのですが私は冒険をする勇気がなくなってしまいました。人間として認められる日も近いと喜んでいたのもつかの間のことでした。わだかまりはなくなりません。わずかな希望は私たちにも何でも理解できる心があるということを伝えるやり方が見つかったことです。人間だから平等なはずなのに本当に許せません。小さい頃から何もわからないと言われて馬鹿にされていたけれど人間なのだから私は大きな声で叫びたいです。みんな同じいのちなんだと。人間として私たちは平等なのだから本当に許せないです。ぞっとするような言葉がたくさんテレビから聞こえてきて私はとても胸を痛めてきたけれどぞっとしているだけでは何も変わらないのでどうにかして訴えたいと思っていました。小さい頃からの夢がかなって本当にうれしかったけれどこんな事を書かなくてはいけないのが悲しいです。黙ったまま言われっぱなしは耐えられません。どうにかしてランプの明かりがともるよう頑張りたいと思います。頑張る気持ちがようやく湧いてきました。自分たちの意見をどうにかしてマスコミに届けたいです。私たちも同じ人間だと。

 沈痛な面持ちで語り始めた彼女でしたが、内容の重さにもかかわらず、少しずつ眼が澄み切ってゆき、語り終えたときには、安堵の表情を浮かべていました。
2012年12月13日 23時59分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年12月02日(日)
出生前診断をめぐって ダウン症当事者
 初めてお会いした小学校4年生の少女の言葉です。会話も可能な方ですが、ずっとうつむきながらパソコンに向かう彼女のからだじゅうから悲しみがあふれ出していました。 

 だまってばかりでずっとつらい思いをしてきましたがようやく聞いてもらえます。私たちはダウン症と呼ばれてつらい思いをしてきました。なぜ私たちが生まれてこないほうがいいなどと言う人がいるのでしょうか。ほんとうに悲しいです。涙もかれはててしまいました。ばかにされるならまだしも生まれてこないほうがいいなんて許せないです。わずかな希望はこうして私たちの気持ちを聞いてくれる人が現れたことです。長い間待ちこがれていました。でもこんなやりかたがあるなんて夢のようです。わかってほしかったのは私たちにも同じ気持ちがあるということです。ばかにされてきたけれどばかにされるようなことは何一つしてきませんでした。みんな同じ人間なのに許せません。亡くなってしまった生まれる前の仲間たちに私はよい祈りを捧げたいのですがなかなかきれいな気持ちがなくなりそうで困っています。みんなの気持ちを私は大事にしながらこれからも生きていきたいと思います。ごめんなさい悲しいことばかり書いて。だけどきょうはどうしても書きたかったです。ありがとうございました。言いたいとが言えて気持ちが落ち着きました

 小さな小学生の胸を、社会がよってたかって苦しめている、今,
この日本で起こっているのは、そういうできごとだと言わざるをえません。出生前診断をめぐる議論は、この少女の悲しみを知った上でなされなければいけないと思います。今、マスコミなどは、こうした少女の悲しみに、あえて耳をふさごうとしているようにさえ私には思われてきますが、これもまた、こうした彼女たちの声に、正しい意味での「市民権」が与えられていないからなのでしょう。なかなか届かない声ですが、私は、発信し続けたいと思います。
2012年12月2日 01時00分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年11月14日(水)
奇跡が奇跡でなくなる日にむかって 1000人集会in総社
12月8日に「山元加津子さん&紙屋克子さん講演会 奇跡が奇跡でなくなる日に向かって 1000人集会 in 総社」が開かれます。総社市は岡山県です。「植物状態」と言われる人にも意識はあるかもしれない。先日も、私は、脳梗塞の後遺症の方で奥様以外は意識があるとは思われていない方の言葉を聞き取る機会がありました。その方はけっして例外ではないはずです。今までの医療の常識では意識がないと言われる人が実は意識を持っているかもしれないということ。私は、まだ、そうした状況の方にたくさん会ったわけではありません。しかし、今回、総社市で上映される宮田さんも含めて、6人の方と関わりを持ちましたが、6人とも気持ちを言葉で綴ることができたのです。6分の6は少ない数とは言え、見逃せない割合だと私には思われます。この総社市の講演会と映画の上映を通じて、そのことを山元先生や紙屋先生は、広く世の中に訴えようとされています。ぜひ、足を運べる方には運んでいただきたいし、こういう取り組みが今まさに行われようとしていることを一人でも多くの人に知っていただけたらと思います。以下、山元先生からのメッセージです。

 山元加津子です。世界中にはものすごく多くの植物状態と言われる方がおられます。
今までは回復の見込みがないと思われていた植物状態と言われる方の多くが、実は想いがあり、方法によって、回復する可能性があることがわかってきました。そのことに長く取り組んでこられた筑波大学名誉教授の紙屋克子さんと、私、山元加津子のお話、そして二人の対談。さらに、2009年2月にとても大きな脳幹出血で倒れ、一生植物状態で、四肢麻痺と思われた宮ぷーこと、宮田俊也さんが主演の映画「僕のうしろに道はできる」の日本での初上映などが行われるイベントが、12月8日岡山で開催されます。 https://uketsuke.tiki.ne.jp/shirayukihime/

 植物状態の回復については、白雪姫プロジェクト http://shirayukihime-project.net/
をご覧ください。この情報が、現在、あるいは未来にも必要な方に届きますようにと、「必要な方へ届け!白雪姫ローラー大作戦」を開始したいです。ぜひ、みなさんのお力で多くの方に届きますように、お伝え願います。 山元加津子
     
2012年11月14日 07時41分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年09月17日(月)
出生前診断 改めて私の意見
 東日本大震災の後、3月11日に生まれた子どもたちの映像を組み合わせた「ハッピーバースデイ」というユニセフのCMが感動を呼んだ。その映像の冒頭の赤ちゃんは、ダウン症だった。しかし、映像ではそのことにはいっさいふれられることはなかった。あの震災直後の日本では、生まれた命はすべて喜ぶべきものであり、ダウン症などと区別する必要はまったくなかったのだ。私はそのことを意識した自分がとてもいやだった。あれからわずか1年半しか経っていない日本で、今、出生前診断が話題になっている。そして、その時必ず話題になるのがダウン症だ。しかし、なぜ、ダウン症であろうとなかろうと生まれた命は素晴らしいと震災直後に大勢の人が素直に感じた思いが語られないのだろうか。どんな生命であれ平等だとする議論に私は賛同するが、その議論は、やはりある違いを前提にしている。しかし、ダウン症の人と私たちは何が違って何が同じかということがきちんと語られていないと私は考える。出生前診断が今議論になるのは、医学の進歩があるからだろう。しかし、進歩しているのはけっして医学だけではない。ダウン症と呼ばれる人たちに対する具体的な理解もまた進歩している。その例は枚挙にいとまないが、例えば毎週日曜日の8時にダウン症の書家金沢翔子さんの平清盛の題字が放映され全国の人々が、そのすばらしい表現を違和感なく受け入れている。まだ、多くの人は、彼女を例外と考えているが、それは古い枠組みである。彼女の存在は、ダウン症という障害の新しい理解の枠組みを提示しており、存在として私たちと何ら変わるところがないということを示しているのである。今回の報道で解せないのは、せっかく独立した人格としてマスコミに登場し始めたダウン症当事者の発言を報じないことである。暗黙のうちに彼らは議論の外に置かれようとしているのだ。そして、それこそ、実に古びた枠組みにすぎない。私は、ダウン症の方々と親しく接する場に身を置いているが、そこでは、私たちと彼らの間にいかなる線を引くこともはばかられる。そして、ダウン症などという、一人の医者の名前と病気でもないのに「症」をつけてしまった呼称は、関わりの場では使うことさえおぞましい言葉だ。私たちはただ相手をその人のかけがえのない名前で呼ぶだけだ。
2012年9月17日 00時02分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年09月05日(水)
りほさんの詩
 長い間、病院で生活を続けているりほさんのもとを訪ねてきました。彼女は、3編の詩を用意して待っていてくれました。

  字のない国

字のない世界に旅をした
どこにもろうそくはともっておらず
人間としての希望も見当たらなかった
夢もどこにも見当たらず
私はただとほうにくれた
ろうそくのともらぬ世界は
わずかなわずかな遠いあかりが輝くのみ
わずかに空の向こうに
夕焼けの残り火が見えるのみ
なぜかはわからないけれど
私にはろうそくの光が必要だ
文字とはどうして生まれたのだろう
文字はきっと言葉をなくした人が
もう一度言葉を取り戻すために
発明したにちがいない
わずかな声さえなくした人が
もう一度夢を空にむかって叫ぶため
きっと雲を見ながら思いついたはず
きっと最初の文字は
私という文字だったにちがいない


  言葉をなくした世界

なぜだろう
みんなもし私が言葉をはなせていたら
出会うこともなかったはず
まるで私に言葉がないことが
いいことのようだ
みんな言葉のない私の心の声に
その耳を澄ませる
なぜだろう
私は言葉のないことが
しあわせの入口のように思える
ゆいつの私のしあわせへの通路は
わずかなわずかな言葉をなくしたことだ
よい私のドラマは
こうしてようやく始まった


 みずかららしさのあるかぎり

なぜ私は理解されたのか
私はみずからのみずかららしささえわかってもらえれば
それ以上は止めない
だけど私は理解をされた
わずかなわずかなどうにもならなくなりそうな
ごんごんと希望のわきだしてくる泉から
私は理解への鍵を手にした
無難に生きていればすむかもしれない
そんな場所から日のあたる場所へと歩みだした
ずんずんと前に向かっていこうとする私に
容赦なく風は吹きつける
しかし私はもう前に向かって歩み始めた
だからにどと振り返ることはない
みずからのみずかららしさをなくしてしまわないかぎり


 書きためた詩もだいぶたまってきました。先日、お母さんが、これまでの詩をすてきな小冊子にまとめておられました。次回も楽しみです。
2012年9月5日 00時38分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年08月31日(金)
新しい出生前診断をめぐる議論について
 今回の出生前診断をめぐる問題は、生命倫理の観点から本質的な議論がぜひ望まれるところです。
 しかし、それ以前に、確認しておかなければならないことがあります。それは、進歩しているのは医学だけではないということです。ダウン症と呼ばれる人も含めて、そういう障害のある方々が具体的にどういう存在であるかということも、医学にひけをとらないぐらいに進歩しています。多くの関係者がダウン症と呼ばれる人が、人間として当たり前に生きているという事実を日々実感しながら生活や仕事をしています。だから、出生前診断によって中絶の対象となるかいなかという問題の図式にダウン症と呼ばれる人たちが当てはまるという考え自体が乗り越えられてしまっている古い問題です。観念ではなく具体的な事実として同じ人間を、あるものは生まれるべき存在ではないとし、あるものは生まれるべき存在とするという図式にあてはめようもないことなのです。この図式にあてはめようとする人たちのダウン症者理解がすでに古い過去のものなのです。
 私は、さらに、私の学問として、きわめてシンプルな事実を明らかにしています。それは、どんな重度のダウン症者でも、豊かな言葉の世界を持って生きているという事実です。医学が出生前診断の確率を90パーセント以上と言うのであれば、私は、この確率については、同程度の確率でこれを言明できると思っています。これは、まだ、広く受け入れた事実ではありませんが、事実としてすでに私の前では明らかになっていることです。
 おそらく私が出会った中で最重度のダウン症の方の、東日本大震災をめぐる俳句をいくつか紹介しておきます。彼は、音声で表現できる言葉はまったく持たず、また、肢体不自由も重いため、ダウン症の方の中ではむしろ数少ない重症心身障害者です。その彼が、こうした世界を持っているのです。

夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
まだ波は 黙ったままで 答えなし
雪の舞う地震の朝の 鳥静か
涙枯れ 涙は出ずる 土用波
若き日の記念の写真 砂と空
ぶんどらず分かち合う手に 明日見え
唯一神持たぬわれらの神そこに
望みを背 また立ち上がる強き足
地震さえなければと泣く夏過ぎぬ


 また、障がい者青年学級で出会っている寡黙なダウン症の方も、震災に際して次のような詩を書きました。この詩が、彼自身の作品であるということは、私たちスタッフの間では自明の事実です。

津波よ なぜおまえはすべてを奪っていったのか
忘れられないのは悲しみに泣き叫ぶ人の声 忘れられないのは子どもを亡くした母さんの泣き声
なぜおまえはそんなに残酷なのか
わずかの希望はどんな苦しみの中からでも人は立ち上がると言うこと
もしぼくにも力があったらどんなことでもしてあげたい
もしぼくに声が出せたなら理想を声高く叫びたい
ぼくの障害も津波のように何でかという理由はわからないものだけど
ぼくも立ち上がろう 津波に負けない人間として


 私は、ダウン症と呼ばれる人の中に、特別な才能がある人がいるという古い図式を持ち出すために彼を紹介したわけではありません。みんな当たり前にこうした世界を有しているということです。もし、彼の世界が秀でているように見えたとすれば、それは、ただ彼が、誰からも理解されないという厳しい現実の中で、自らの感性を研ぎ澄ませたのだということだけのことです。
 冒頭に、生命倫理からの本質的な議論が望まれると書いたのは、私たちと何ら変わりない存在であるという「わかりやすい事実」が認められない場合でも、その生命は私たちと同じだということが語られなければならないということですが、その本質的な議論の手前で、シンプルな事実してこういうことがあるということです。
 重度のダウン症の人にそんな言葉があるということはありえないという立場も、現在の学問の水準では、当然成り立つものです。この議論の決着は、これから時間をかけてじっくりやられていくしかありません。
 しかし、医学だけが進歩しているわけではないということを、私はこの時点で、述べておく必要があると考えました。
2012年8月31日 01時20分 | 記事へ | コメント(0) |
| その他 / 出生前診断 |
2012年07月09日(月)
6編の詩
 前回の☆☆さん(=りほさん)は、言葉と合わせて、6編の詩を用意していました。そちらも、ぜひお読みいただきたいので掲載させていただきます。

 りんどうをさがして

りんどうの花を摘みに
私は藁をもすがるような思いで走り出した
罠をよけながら禁じられた冒険に出かける
私にとって私らしくあるために
私を輝きの中に包み込むために
私はりんどうの花を探しに旅に出る
みんな私をわからない人だと言いながら
私の側を過ぎていったけれど
私は私一人で冒険の旅に出る

 月並みかもしれないけれど私も私らしく生きようとしています。私らしく生きるためには何とかしてこの状況を変えなくてはいけません。だから私は詩集を出すことに別の希望をそんなに俗っぽいものではない夢を感じています。だからたくさん書かなくてはいけませんがなかなかすぐには作れません。二十歳の誕生日には間に合わなくていいからじっくりやらせてください。


  森の向こう

ゆゆしき悶々とした罠を
何とかしてさけながら
私は私の道を歩む
ぶんどり合いも言い争いも
私には関係のない世界
森を抜けた向こうの世界には
私たちを喜ばせてくれる夏の日射しが待っている
わずかに光を浴びながら輝いている森の中の高い梢が
私に向こうの世界を予感させる
そのあかりをざわめく心を静めながら
私は見つめながらまた新たな一歩を踏み出す


  緑の声と光

人間として生まれて生きてきたけれど
私は誰にも振り返られることもなく
理想だけを糧にして生きてきた
夜の暗闇の中でも
人間としての理想は決して捨てずに
ただ未来だけを信じて生きてきた
緑の光を探しながら
私は一人生きてきた
わずかな希望は私にも言葉があることが信じられ
それがかたちになったことだ
そんな私にも誰にも負けないものがある
それは私にだけ聞こえる緑の声だ
私にだけ見える緑の光だ
それさえあれば私は存分に生きていける
わずかな声だが確実にその声は大きな響きと成って私に届き
どんどんその光は輝きを増し
私は夢にまた一歩近づいた。


 未来の世界に行ってしまった私を探しに

昔の理想はどこにあるの
五番街の勇気になくした夢を聞き
六番街の夢になくした光を聞き
七番街の光になくした私を聞く
私はいったい今どこにいるの
未来のどこかをさまよっているの
私は私を探すために
また未来の世界に旅をする
なかなか見つかることはないけれど
私は必ず探し出す。


 留守番と外の世界

留守番ならそろそろ終わりにしたい
私も表で外の世界に駆け出して
みんなにむかって呼びかけたい
私のことを知っていますか
私の私らしさを七日のうちに
私は探さなければ成りません
七日すれば私はまた元の世界に戻らなければなりません
ずっとこの日を私は待っていた
私が私らしさを外の世界で探すことができる日を
だけど理解してくれる人がいなければ
私は私らしさを探せない
だから誰か私を理解してください
私の私らしさを探すために
私は私の理解者を
探すことから始めなくてはならない。


  長い夜の向こう

わずかにみえるあかりさえ
風と嵐で消えてしまいそう
びろうどのきぬを吹き飛ばして吹く風を私は避けて
私の理想を再び探す
小さな呼び声に応えながら
私は瑠璃色の光を手がかりに
ろうそくのあかりを探しに行く
わずかなわずかな光の向こうに
きっと希望は待っている
わずかなわずかな呼び声の向こうに
必ず私らしさが待っている

2012年7月9日 00時33分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年06月24日(日)
生きる意味についての思索
 5月に初めてお会いした19才の☆☆さんから2度にわたって生きる意味についての話をうかがいました。
 5月初めてお会いした時、簡単なやりとりのあと、彼女が述べたのは、次のような、生きる意味をめぐる思索でした。

 ご覧の通り何もできない私ですがぼんやりと生きてきたわけではありません。ずっと私は人間とは何なのかということを考えてきましたから別に世の中の人が何と言おうと私は私らしく生きてきました。自分にとって理想はよき理解者を見出してどうして私たちが生きる意味があるのかと言うことを伝えるそのことが夢でした。ぼんやりとして育った人から見ると少し考えすぎと思われるかもしれませんが私にとっては私が生まれた意味がわからないと私をなかなか保つことさえ難しいからです。理想をそのまま語ると私にとって私の生きる意味は私たちのような存在でも生きる意味があるのだからどんな人にも生きる意味があるということですが楽な人生ならそんなことは考えはしなかったでしょうね。でもこうして私はぼんやりとは生きてこられなかったのでわざわざそういうことを考えてきました。なぜ私に生きる意味があるのかというと黙ったままの人生でも人は希望を持って生きられるということを証明できたからです。なかなか信じられないかもしれませんが私は希望をなくしたことはありません。小さい時からずっと母さんにたくさん愛情を注いでもらいましたから私はとても幸せです。

 彼女には、ずっと病院生活をしいられるくらい重い障害がありますが、その中で見出した自分の生きる意味というものについて、堂々と述べられています。よどみなく語られたその言葉には、彼女が長い思索の後にたどりついた結論というような決然とした響きがそなわっていました。そして、6月23日のことですが、再び病棟を訪問したところ、今回は、最初に数編の詩を聞かせていただいたのですが、その後、再び生きる意味についての言葉を次のように述べました。

 私だって普通に生きたかったのにこんな状況はいやです。だけどそれはどうにもならないからあきらめたというと聞き違いが起こりそうですが、私はこの体でしか生きられないという現実からスタートするしかないのです。しかしそういうことに気づいたときに初めて私にも生きる意味があることに気づいたのです。
 それは私が一人で考えたことです。誰に教わったわけではありません。じっと一人で考えてきたのですがやさしいかあさんにずっと支えられて来たから考えられたということを忘れるわけにはいきません。諦めずにすんだのはじっと側で見守ってくれた家族がいたからです。かあさんやとうさんたちの愛情のおかげで私は今の静かな心を取り戻すことができたのです。だからかあさんには感謝をしてもしきれません。


 6月の言葉は、お母さんとのやりとりの中で語られたものですが、5月に述べられた思索が、どのような経緯から生まれたものであるかを明らかにしたものでした。
 2009年、15才で亡くなった臼田輝(ひかる)さんは、

 苦難それは希望への水路です。けっしてあきらめてはいけないということを教えてくれます。手の中に美しい諦念を握りしめて生きていこうと思う。美しい諦念は真実そのものです。苦しみの中で光り輝いています。手の中にある真実はさいわいそのものです。望めばいつでも手にはいりますが誰もこのことは知りません。なぜなら人間は常に楽な道のほうを好むからです。生きるということは苦難と仲良くしてゆくことなのです。

という言葉を残していましたが、☆☆さんによって語られた「あきらめた」という言葉も、単純なあきらめではないのでしょう。それは、容易に言葉にはなしえないものなのでしょうが、それをおそらく臼田君は、「美しい諦念を握りしめて」と表現したのだと思います。私たちが日常的に使うあきらめとははっきりと一線を画すものにちがいありません。
「私はこの体でしか生きられないという現実からスタートするしかない(…)ことに気づいたときに初めて私にも生きる意味があることに気づいたのです」という言葉は、おそらく私のようにそのような体験を持たない者には本当の意味はわからないかもしれませんが、その体験の輪郭を私たちにはっきりと教えてくれるものでした。
 
2012年6月24日 20時23分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年06月15日(金)
脳死の子どもの臓器移植について
 今日、日本中をかけめぐったこのニュースは、そのことに当事者として関わっておられる方々のぎりぎりの選択の中で行われた厳粛なものだと思います。そして、一人一人のご決断には、深い敬意をおはらいすべきであると心より思っています。
しかし、どうしても、このことだけは、述べておかなければならないと思います。
 「低酸素脳症」という状況の中で重い障害を持ってしまった方々に、私は数多くお会いしてきました。医学的な状況よりも、関わり合いを大切にしたいと思ってきたので、私は、それぞれの方々の医学的な面からの状況についてはあまり注意を向けてきませんでした。だから、詳しいことがわかっているわけではありません。
 今回、私がどうしてもぬぐえない疑問が一つだけあります。それは、本当にそのお子さんに意識がないということは証明可能なのかということです。 
 昨年、臨床脳死と呼ばれるお子さんにお会いし、豊かな言葉を聞くことができました。残念ながら、私は、その方に一度お会いできただけで、亡くなられてしまったのですが、その時の心拍数の状況などから、そのお子さんが確実に反応していることは、お母さんがたには手にとるように伝わっていました。
 その主治医の先生は、お母さんと話をしていると心拍数が変わるなどからそのお子さんに意識があることは疑っておられなかったとのことですが、合わせて、医学では説明できないことがあるともおっしゃったようでした。(これは記憶が違っている可能性がありますが。)
 脳死の状況での臓器移植については、人間においていかなる生命も平等であるとの根本的な反対意見があることも知っていますし、そういう根本的な議論がやはりとても大切であるということは確認した上で、事実の問題として、そのお子さんに意識がある可能性は否定できないと思うのです。
 無謀な意見かもしれません。しかも、私はその場に立ち会うことのできる位置にはおりません。しかし、その思いをどうしてもぬぐうことができません。
 今日は、どうしてもそのことをここに書いておきたかったので、記しておきました。
2012年6月15日 17時43分 | 記事へ | コメント(1) |
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2011年12月12日(月)
大越桂さんのこと
 仙台で研究会が開かれた合間の時間に、大越桂さんのお宅を訪問させていただいた。大越桂さんのことを初めて知ったのは、2008年の秋のこと、私が初めて東田直樹さんの姿に接した講演会で、大越さんはビデオで出演しておられた。そして、それから半年後、大越さんの著書『きもちのこえ』が出版され、大越さんの生い立ちや筆談にいたるプロセスをつぶさに知ることになった。本を読んで、あまりの感動にすぐさま感想のメールを送って、返信をすぐにいただいたが、なかなかお会いするチャンスはめぐってこなかった。
 その間にも、ドキュメンタリーの出演など、大越さんの積極的な社会への働きかけの姿には、励まされてきた。
 そして、今年の3月、東日本大震災が起こった。大越さんのお宅もいろいろ被害があったようだが、幸い、ご家族もご自宅も無事だったとのことだったが、たいへんな不自由をしいられる日々だったとのことだった。
 そんなある日彼女のブログに大震災の詩が掲載され、そのうちにそれは合唱曲として、すばらしい作品になっていた。
 野田首相が所信表明演説で紹介していたのは、この合唱の歌詞だった。
 こんなふうにして、一歩ずつ確実に障害の大変重い人たちの心の世界を世の中に認めさせるための仕事をされてきた大越さんにお会いするので、たいへん緊張しながらの訪問だった。
 それなのに、お昼に、よせばいいのに研究会に一緒に参加した東京の先生とビールを飲んでしまっていたので、いささかあせりながら桂さんのベッドサイドに向かった。最初のごあいさつを交わして、桂さんからさっそく、「先生お酒くさいですね」と言われてしまった。やっぱりばれたか…という思いと、その言葉にむしろ、たいへん親しみを覚えて、そこから一気に話に花が開くことになった。大越さんのブログでは、光栄にも「心のバリア、ゼロ!昔からの友人モードでした〜」とご紹介していただいたのだが、最初にそういう私を引き出したのは、桂さんの心の広さだったといっても過言ではない。
 お父さんやお母さん、そして弟さんともたくさんお話をさせていただいたた。当たり前のことだが、語り尽くせないドラマがあって、今のご家族の姿がある。そのドラマのいったんを肌で感じさせていただいた。
 おいとまする時に、「本当は作家の偉い先生にお会いするという感じで緊張して来たんですよ」という私のセリフに、「詩人といってほしかったわ」と楽しく返された。
 私は桂さんとは、30歳以上も離れているけれど、力強い仲間を得たという気持でいっぱいでお宅を後にした。
2011年12月12日 00時13分 | 記事へ |
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2011年12月03日(土)
「早く人間になりたい」 妖怪人間ベムの悲しみ
 最近、私が小学生の頃アニメで放映され、主題歌とともにずっと忘れずにいた妖怪人間ベムが実写版で放映されている。子ども心に感じていたものが何だったのかはよくわからないが、あれから40年あまりの時を経て、私には、忘れられないセリフ「早く人間になりたい」が、全く違った意味をもって響くようになった。それは、「人間として認められたい」という表現が、多くの障害の重い方々の言葉にあったから。そして、ある意味でひやひやしながら妖怪人間ベムの放送を見つめていた。
 すると、さっそく、何人かの人がこのセリフについてコメントをしてきた。

私たちは人間あつかいされていないのでまるで妖怪人間ベムですがはやく人間になりたいという言葉はまさに私たちの気持ちです。自由ばかりが冒険の合い言葉ですが、早く人間になりたいこそが私たちのほんとうの気持ちです。わがままではなく凡庸でもいいからぼろぼろでもいいから人間になりたいです。なぜばらばらになってしまうのはつらいですが未来を信じたいです。わずかでもがんばるきもちがでてきましたよかったです。

 人間になりたいという言葉が最近よく聞かれますが何も知らない人たちはわからないと思いますが私たちはとてもせっぱつまった気持ちで聞いています。何とかして私たちを人間として認めさせたいので理想をかなえ早く人間として見られたいです。まだまだ私たちは人間として認められていないので早く何とかしたいです。私たちにとって理解されない悲しみは学校時代から変わらないので早く認められたいです。人間として認められる世の中を早く実現させたいです。小さい時からの願いです理想を早くかなえたいです。(…)私たちにはその言葉の意味がよくわかりますが私たちだけですね、そこまで考えているのは。(ドラマは)見てはいませんがコマーシャルで聞いて驚きました。ぜひ番組も見たいです

 人間になりたいというセリフがありますがまるで僕たちのことのようでつらいです。理解されないつらさやびっくりしたのは理解されようとして頑張ってもなかなか理解されないつらさです。楽しいことは家族と過ごしている時間です。ほかは楽しいことは少ないです。そうです。なぜなら家族でいるときは全く人間として扱われていますがほかではなかなか人間として扱われませんから。学校では友達といるときが一番楽しいです。はい。お互いに言葉では通じ合えなくても気持が通じ合っていますから。でもそのことは誰も知りません。誰にも知られないまま僕たちは気持を通い合わせています。そうです。はい。こんなにすらすら話せるのにもったいないです。

 ドラマでは妖怪人間ベムたちがなぜ正義を大切にするかも語られる。そこでは、人間らしくありたいからというようなことがその理由だった。これもまた、みんなの言葉と重なり合う。多くの人が良い人間になりたいということやきれいな気持で生きて生きたいと言うことを語る。それは、誰にも認められない自分の存在を自分自身でしっかりと認めるためだということを聞いたことがある。
2011年12月3日 00時45分 | 記事へ |
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2011年10月27日(木)
自立生活10周年記念パーティー
 東京の都下のある町で、ある障害の重い女性☆☆さんの自立生活十周年のパーティーが開かれた。会場のお店には、この英断をなさったお母さんと弟さん、そして、この10年間を支えたヘルパーさんやその派遣をしてきた事業所の方などが集まった。(この事業所は、障害のある方自身によって運営されている。)自立生活を送ってきた☆☆さんは、明確なコミュニケーション手段を持っていないので、世間的には言語理解も困難とされる方で、自分ではまったく動けないので日常生活も全面介助である。これだけ障害の重い方がアパートで自立生活を送っているという例はおそらくきわめてまれなはずだ。その生活が十周年を迎えたというのだ。無数のドラマがあり、たくさんの方々の懸命な思いがぎっしりと詰まった十年だったろう。
 その会場に私のような者がなぜ参加できたか。それはこの1年ほど、私の仲間の松田さんが彼女のアパートを訪れ、パソコンで気持ちの聞き取りをしてきて、この日は私が会場で彼女のメッセージを通訳することになったからだ。私は、この日で彼女に会うのはまだ2度目。1度目は7月のきんこんの会だった。
 きんこんの会では、自分たちと同じような障害の方が自立生活をしているということにみんな驚くとともに、大きな勇気を与えられたようだった。その時の彼女の話でとても印象的だったのは、自分の意図はうまく伝えることができないし、時にはヘルパーさんの解釈がちがっていることもあるけれど、大切なのは、何でも私に聞こうとしてくれることだという言葉だった。情報伝達よりも大切なものがあるということが実に鮮やかに示されていた。
 そして、まさにパーティー会場にはそのことを大切にしてきた方々があふれていた。
 以下は、お店の壁にプロジェクターで映し出されていった彼女のメッセージである。

 私のために今日は集まっていただいてありがとうございます。みなさんのおかげで私は自立生活を送ることができました。分相応に生きることしか考えていなかったけれどまさか一人の人間として生きられるとは思いませんでしたから私はこの十年は夢のようでした。理想的な試みだったので論より証拠の十年でした。みなさんのおかげで私は予想以上の生活を送ることができました。
 ごめんなさいびっくりさせて。私がいちばん驚いています。まさかこんなやり方が見つかるなんて思いもしなかったから。でも私は人間としてどうにかして自分の気持を伝えたかったのでこのやり方が見つかってとてもうれしいです。でも私は私がうまく言葉を伝えられなくても私を大事にしてくれた人が何より大切な人たちですから私が話せることなど小さなことです。これからも今まで通りによろしくお願いします。私はずっと☆☆のままですからよろしくお願いします。そろそろ終わりますが本当に今日はありがとうございました。私は生き続けたいのでよろしくお願いします。終わります。


 まさに、「私が話せることなど小さなこと」だという言葉にこめられたもっと大きなものが、この十年の歴史を支え続けたのだろう。多くを学び、大きな感銘を受けた会だった。
2011年10月27日 09時16分 | 記事へ |
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2011年03月20日(日)
さいたまアリーナでのボランティア活動
 19日、さいたまアリーナに福島県から避難してきた方々に対するボランティア活動に参加してきました。やったことは、まず段ボールを近くのスーパーからもらいうけることでした。次に、持ち込まれる品物の仕分けです。大勢の人がいろいろな物を持ち寄って来られ、それをどんどん仕分けしていく作業です。大勢の人が本当に懸命に物を持ち寄ってくる姿をまのあたりにしました。そして、続々と福島県から避難してきた方々が到着すると、今度は、毛布の運搬作業でした。布団があって毛布もあるのではなく、基本は毛布一枚で一晩を過ごすということでの毛布でした。
 そして、今度は、高齢者施設の方々の避難場所の設営です。固い床の上に段ボールを敷き詰めた上に2枚の毛布をしいただけの場所に、けっして健康とは言えない方々をお連れすることは、とても心苦しいことでした。そしてそこへ夕食を運びました。おかずのあるお弁当を見たときに一週間初めておかずのある食事がとれるとおっしゃいました。命がかかっているとしきりに責任者の方がおっしゃっていたのは決して誇張ではありません。認知症とされ、何も反応していないかのようなお年寄りの心にどんな世界が繰り広げられていたか。とても気がかりでした。中には高齢の知的障害の方もいらっしゃいました。
 3か所の避難場所をまわったとのことでしたが、そこでは、おにぎりとパン以外は食べていなかったとのこと。そして、自ら津波を経験した方が、あれは経験しなければわからないと繰り返しおっしゃっていました。
 被災地の惨状はまったくない埼玉の地に、しかし、確実に大変な状況を生きる方々の生々しい現実がありました。
 途中で、私の授業を受けていた1年生に会いました。来るべき若者が来ていたことにとても励まされました。彼は、東北の大学に行っていて、そこで地震に会って戻ってきた友達に誘われてきたとのことでしたが、学生ボランティアが動き始めたということを感じました。
  おそらく、今、まさに東北関東大震災のボランティアが始まったとのだと思います。東北でのボランティアはもう少し先になると思いますが、すでにこの関東地方にボランティアのニーズが生まれています。
 
2011年3月20日 00時48分 | 記事へ |
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2011年03月02日(水)
穏やかな瞳
 ある通所施設でのできごと。重度の肢体不自由の○○さんは、私とのやりとりの中で、同じ通所施設の重度の自閉症と呼ばれる◇◇さんとともにたたかわなければならないと言った。
 その通所施設を訪れ、◇◇さんと一室で向かい合った。パソコンに向かうには、まだ落ち着かないから少し待ってほしいと手を振る会話で伝えてきたので、少し待っている間に、私は、この○○さんの言葉を伝えた。すると、突然、◇◇さんは座っていたいすから立ち上がり、パソコンに向かってきて、次のようにつづった。

 聞いてとても感動しました。まさかぼくをそんなふうに見ているとは思いませんでした。勇気が出てきました。勇気と未来が見えてきました。やっとぼくたちのことが理解される一歩が踏み出せました。理想的な話です。ぼくもがんばって未来を切り開きたいです。

 前回、向かい合ったとき、◇◇さんは、なかなか進まない理解にいらだちをぶつけてきていたが、今回は次のように話が進んでいった。

 雪を見ながらぼくは遠い昔を思い出していました。雪はすべてをゆるしてくれます。悩みも苦しみも雪は忘れさせてくれます。何度となくぼくは綿のような雪を見ながら泣いてきたことでしょう。涙は流れなくても心の中では泣いています。涙は流れなくてもつらいのは同じです。涙は出なくても泣いているのは同じです。みんなもきっとそうです。挽回したいです。悩みや苦しみを乗り越えてぼくもごんごんいい未来を作りたいです。勇気はまだまだたりないけれどぼくにも大丈夫だという気持ちが湧いてきます。不思議です。どうしてこんなに気持ちが落ち着いていられるのか。雪の話をしたからでしょうか。雪の話を小さいころからよく思ってはわずかな希望をなんとか作り出そうとしてきましたから。どうしても未来を切り開きたいです。悩みや苦しみを越え未来を切り開きたいです。雪を思いながらぼくは雪のようなきれいな心をとりもどせました。

 前日もみぞれまじりの雨が降ったが、きっと彼は半月前に関東地方に降った雪のことを言っているのだろうと思った。そしてさらに穏やかな瞳で遠くを見つめるようにしてさらに言葉は続く。

 瑠璃色の光もつらいときの理想です。青の深い瑠璃色がすべてを忘れさせてくれます。小さいときから大好きでした。みんなもきっと同じだと思いますから聞いてあげてください。どうにかして未来を切り開きたいです。みんなも未来を切り開きたいのですね。夢のようです。仲間が仲間として仲間らしく手を取り合えたすてきですからがんばりたいです。涙が出るくらいうれしいです。ぼくが先頭なんて恥ずかしいけれどがんばりたいです。悩みもつきないけれどなんだか未来が開けてきました。緑の風が吹いてきたみたいです。勇気がもっとほしいです。分相応人生におさらばです。×××(通所施設の名前)は本当にいいところです。残りの人生を豊かなものにしたいです。奈良の仏像の話もあります。奈良の仏像は雪と同じように悶々とした気持ちをとかしてくれます。奈良に行ったことはないけれどランドセルの中にはいっていた本で見て好きになりました。奈良にもいつか行ってみたいです。分相応の敏感な人生ですが奈良の望みを大切にして行きたい。人間としての悶々とした気持ちが晴れていくのがわかります。奈良の仏像のような静かな心を大事にしたいです。夕焼けも大好きです。ランドセルを背負って見た夕焼けがなつかしいです。ランドセルを背負ったぼくはとても無邪気な子供でした。奈良の夕焼けが見たいです。人間だから心があることをわかってくれてありがとうございました。
 
 瑠璃色の光は本当に多くの人が大切にしているものだが、彼は、さらに奈良の仏像について語る。きっと慈愛に満ちた顔をした仏像のことなのだろう。
 「心の理論仮説」というものがある。自閉症の人は相手が心についての理論を持つことが困難だという。しかし、真実は、私たちがそういう方々の中に当たり前の、人間としての心があることを理解できないということになるはずだ。
 1時間、とうとう立ち上がることもなく、ずっとパソコンに向かい続けた姿も初めてのものだった。その姿は、◇◇さん自身が慈愛に満ちた仏像の姿だった。
2011年3月2日 08時55分 | 記事へ |
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2011年01月17日(月)
私たちのことをのけものにしない社会はそんなに遠くない
 年が明けて、ある高校生の女の子とお会いした。年始のあいさつに続いて、やや悲痛な言葉が語られていく。そこで、できるだけ話し合いながら関わり合いを進めていった。

あけましておめでとうございます。
なかなか誰も信じてくれないけれど何もわかっていないと思われるととてもつらいです。誤解ばかりされて困っています。

(その笑顔は返事には使えてないのですか。)
まだ返事には使えていません。
(うまく返事ができないことがあるかもしれないけれど、うまく笑えた時はへんじできてますよね。)
はい。でも私にはむずかしいと思われていてやってくれません。字の勉強はまったくしてくれません。
(でも、いい先生はいるでしょう?)
いい先生はいますがなかなか信じてくれません。
(二人だけの時にこっそり話しかけてくる先生はいませんか?)
います。とてもいい先生です。このあいだ名前を聞いてくれました。名前を聞いてくれた先生は勇気がいることだけどと言ってくれました。どんなことでもいいから話しかけてほしいです。
もう少しじっとしているとぼんやりしていると言われてしまいます。

(いろいろ考えているんだよね?)
はいそうです。私はいろいろと考えていますが何も考えていないと言われてしまいます。
(いい先生にはとにかく話しかけてもらいたいんですよね?)
何でも話しかけてくれます。
(他の人が言ってたけれど、すべての人を受け入れたいのに、こういう状況だと受け入れられなくてそのことがまたつらいでしょう?)
そうですね。理想は平和な人になることですがなかなかうまくいきません。
(でも、あまりわかってくれない先生も、どうしていいかわからず、ほんとうは困っているんですよね。)
そうですねとてもよくわかります。何もわからない人とつきあうのは大変ですから。どうにかしてわかってもらいたいです。(もう少し時間がかかるかもしれないね。)
そうですね

「奈落の底」という詩を作りました。

どこにもあかりが見えないの
目の前はもう夜の闇
奈落の底に落ちこんで
深いぽののも泣いている
りんどうの花はどこにあるの
私は理想を失いかけて
奈落の底で泣いている
でもひとすじのあかりがぼうっと遠くに見えている
なかなかそれは近づかないけれど
私は瑠璃色のあかりを求め
理想をなくさずに生きていく。

ぼうっとみえるあかりが早くはっきりとした明かりになってほしいです。
夢のようです。言いたいことがすらすら言えて。ほんとうに速いですね。

(あなたがその時、何をしているか説明してもらえますか?)
はい。聞いていてここだと思うだけなので本当に楽です。
悩みが少し晴れました。私たちのことをのけものにしない社会はそんなに遠くないという気がしてきます。うれしいです。また話を聞いてください。そろそろ時間ですね。


奈落の底にいる彼女に、遠いけれどぼおっとひとすじのあかりが見えていることが救いだ。
夜明け前は、思いのほか長い。
2011年1月17日 20時49分 | 記事へ |
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2010年08月27日(金)
中途障害の方との経験
この3か月の間に、通常の社会生活を送っていて、脳内出血や若年性のアルツハイマーなどによって言語表現が困難になった3人の方とお会いした。障害の状況はそれぞれ異なるが、みんなそれぞれに重い後遺症をかかえていて、家庭でのケアは容易ではない状態にあった。そういう方々に対して、これまでの私たちの方法が有効かどうか、おそらく議論のわかれることだろう。しかし、みんな、表現できなくても言葉の世界を有しており、こうした問題について、私たちの常識の見直しが必要であろうことはもはや疑いの余地はない。ここでは、それぞれの気持ちをそのまま紹介しておきたいと思う。

Aさん(脳内出血)
 こんにちわいいやりかたですね。言いたい、おとうさんにありがとうと。私寝たきりになってから毎日不安でしたが、おとうさんが毎日来て受け答えをしてくれたので、なんで一人の私なのにこんなに寂しくないのだろうと、しあわせにいつも満たされています。小さいときからずっといいおとうさんだったけれど、みんながこうして集まってくれてこんなに恵まれていてなんだか夢のようです。苦悶してきましたがなかなかわかりませんでした。聞いてほしいことがあります。じっとしているとぬいぐるみのいのちのようでつまらないので、時々なんでもいいから小さな物語でも聞かせてください。はい。なんでもいいです。人間だから時間がこうして流れていけばしあわせです。信じられません。なぜ聞き取れるのですか。願いは小さくても本当のいい時間が過ごせることです。暑いのは苦手ですが 外は好きですので今度また涼しくなったらお願いします。テレビは聞いているので必要です。
 はい。反応が出せませんが笑っています。子どもの時から見ていたので大好きです。疲れるのはつらいことがあるときです。なかなか伝えられないので夢のようです。群青色のあかりが見えるようです。希望が見えるようです。とてもありがたいです。だけど悩みはその苦労にこたえられないことです。いいかただからすまない気持ちでいっぱいです。つばはくるしい。



Bさん(若年性のアルツハイマー)
 いい機械ですね。ぎちぎちとしめつけられるような気持ちですが人間として認められたような気分です。地域の生活を理想としていますがなかなかむずかしいです。小さい冒険だけどみんなでわたしの家に行ってみたいです。私の家は留守番の人もいなくて私の帰りを待っています。夢によく出てきますが私の家は今どうなっているのでしょうか。理解できなくなって家にいられなくなって悲しいですが泣くこともできなくなってしまいましたからさびしいです。理解するのがむずかしいのは環境の認知などです。困っています。時々何を言われているのかわからなくなります。困っています。したいことがなんだかわからなくなります。理解していても話せなくて困っています。はい、なかなか話せないですがよくわかっています。記憶もなかなかむずかしいですが何とかなっています。
(50音表の文字盤を出すと一人ではただ指が順番に「あいうえおかきくけこ」と流れるようにたどるばかりでさせなかったが、手をそえてあげると名前を指せた。)
はい、文字盤はむずかしいけどなぜ指差せたのでしょう。
(ペンを握らせて手を添えると名前の漢字1文字が書けた。)
はい。はい、とても不思議でした。なんで書けたのですか。(生きた字所はどっちと)尋ねて紙に「店」と「家」の文字を書くと「家」を指した。)
 大好きな私の家に行きたい。不思議です、書けました。不思議です。もうわからなくなったと思っていましたから感激です。なぜ読めたのか不思議ですが読めました。私はもうだめかと思っていたのでとてもうれしいです。私をよく理解してくれてありがとうございました。悩みが晴れました。どうもありがとうございました。


Cさん(脳内出血)
 気持ちが言えてうれしい。なぜ背をたたくだけでなぜわかるの。
 疑問に悩んでいます。薬すこしやめたいです。私をわからなくさせているみたいです。私の気持ちを聞いてもらえるとは思わなかったのでうれしい。○○○(息子さん)をもっとかわいがりたいけどできなくて、許してほしい。人間そんなには長生きはできないけどまだまだ○○○が小さいので望みはもっと長生きすることです。○○○をもっとかわいがらないといけないのに許してほしい。
 願いは私の△△の家で一緒に暮らすことですがむずかしいので理想のまた理想は私の胸にしまっておいてここでがんばります。小さい願いですが、夢ですがなにか楽しみがほしいです。夕方になるととてもさびしいので忘れたいことを思い出してしまいます。×××や年齢はわからない人が私を笑いにくるような気がします。私の若いころのいい理解者が笑っているような気がします。
 にれの花を見たいと思います。昔歌でいい花と聞いていたので。にれも夢で見ます。にれの花それはぜひ見たいです。私の夢の中では白い可憐な花です。頼みます。唯一の夢です。
 不思議です。言葉がすらすら出てきて。いつもはなかなか出てこない。
(話そうとすると混乱してしまうのですか。)はいそうです。混乱してしまいます。

 昨年の夏、金沢で著名な山元加津子先生が献身的に看病を続けておられる宮田さんにお会いした。非常に重度な脳血管障害の後遺症の方に言葉の読み取りを試みるのは初めての経験だった。それから1年が過ぎ少しずつだが、こうした方々との出会いが始まったところである。
2010年8月27日 19時51分 | 記事へ |
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2010年03月08日(月)
自尊心さえあれば体をコントロールできる
「勝手に体が動く」という言葉を聞き取ることができてから、私は障害のある方に対する理解の仕方を大きく変更せざるをえなくなった。
 コードや紐が好きで、すぐに手を伸ばしてしまうというようなこと、自分で体をたたき続ける自傷行為と呼ばれるもの、となりの人の食事に手を伸ばしてしまうというようなこと、こうしたことは、どれも本人の意志があるのだから、それをできる限り尊重するということを大切にしてきた。それが、勝手に体が動くと本人自身は感じているというのは、想定を越えていたものだった。もちろん、勝手に体が動くとしても、そういう動きがなぜ生まれるのかという意味を考える必要はあるのだが、勝手に体が動いているという理解をそこに介在させることで、それらの見方は大きく変わった。本当の意志は目の前の行動とはまた別のところにある場合があり、そうした行動は本人自身を困らせるものでもありうるということなのだ。
 私たちが何かルールを逸脱した行為をした時に、勝手に体が動いたというとあまりにも都合のいい言い訳になってしまう。しかし、本当にそういうことがありうるのだ。
 最近、知的障害と言われる人が、小さな事件を起こした。障害があるということに対して理解が得られたので、特に大騒ぎにもならなかったのだが、残念ながらその理解は、その人に判断能力が欠如しているという理解だったことになる。しかし、彼は、見かけに反して、パソコンでは気持ちをたくさん綴ることができるし、当然、ものごとの善し悪しの判断はついている。それでも、自分をコントロールできなかったのだ。これだけでは、単純に勝手に体が動いたとは言い切れないし、もっと私たち自身が誘惑に負けてルールを逸脱した行動をする場合と同様に考えることもできるかもしれない。そこは、これからていねいに考えていかなければいけないことだが、私は、彼にできるだけ真正面から向かい合おうと考え、そのできごとについて2回にわたって、いつも行く居酒屋で、彼自身の説明を求めた。その文章の中に、非常に深く考えさせられる言葉があったのである。

 自尊心があるので○○○わけにはいきませんが、人間としていい人生を生きたいのでできれば自分でくぐりぬけたいです。小さいときから言いたいことが言えたらいいと思ってきましたがつらいことばかりです。願いはみんなと気持ちをかわしあえることですがなかなかうまくいきません。自分でもコントロールできませんがなぜできないのかわかりません。いい自分になりたいけどなかなかむずかしいです。自分の気持ちが言えたらいいけれど人間として認められないと自尊心がずたずたになりそうです。コントロールできなくて悲しいけど人間として自尊心を大切に生きていきたいのでもう○○○することはやめたいです。はい人間として生きていきたいのでわかりました。人生を自分らしく生きていきたいと0思うのでよろしくお願いします。

自分のしたことにはすまないことをしたと思っています。人間あつかいしてほしいといつも思っているので悲しいです。人にはなかなかわかってもらえなくてむしゃくしゃしたから行きました。○○○がわかってくれなかったからです。考えたことを否定された。ぼくがせっかく考えたことを否定された。人生ということを探したいといったのに取り上げてもらえなかった。(…)はい、自分の気持ちが混沌としているからです。地域で生きていきたいので勇気がほしいです。かあさんやとうさんがだんだんとしをとってきたからです。むずかしいですひとりでくらすのは。自尊心さえあればぼくも体をコントロールできるとおもいます


 体のコントロールと自尊心とが深く結びついているということは、考えてみれば当たり前のことだ。自分自身を大切に思う心があれば、人間は悪いことをしたりはしない。彼は、おそらく、30年間の人生で、いい家族に囲まれ、大切にされながら育ってきた。しかし、決定的に社会は、彼を、これだけのことを考える人間だとは見なしてこなかった。私だって、こうして彼がパソコンで文章を綴る姿を目の当たりにするまでは、そのように見てこなかった。もちろん彼を大切に考えてきたことはまちがいない。しかし、見かけの姿から彼をとらえ、本当の思いを十分に知ることはできなかったのだ。そんな中で彼の自尊心はずたずたにならざるをえなかったのではないだろうか。「自尊心さえあれば体をコントロールできる」という言葉は、彼らがまだ、偏見と差別の中を生きざるをえない現在の状況を悲しく訴えている言葉なのだ。
2010年3月8日 13時19分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年09月11日(金)
父の死
 9月5日早朝、父が逝った。私がちょうど職を得た時に、故郷大分を離れ、埼玉に両親は引っ越してきた。退職してすることもなかった父は、持ち前の器用さと電気関係の知識を生かして、私の教材製作を手伝ってくれるようになった。もともと不器用な私には、同じ教材ならいくらでも作ってくれたり、アイデアだけ出せば何とか工夫して新しい教材を試作したりしてくれる父の存在は大変ありがたかった。そんな父が2年前に小さな交通事故を起こして自動車の運転をやめてから、一気に認知症が進んだ。そして、ついに、教材製作が困難となった。それでもはんだづけだけは見事なこてさばきであったが、それもこの3月が最後だった。荷物を一つずつ下ろしていくような歩みが続く中、7月に脱水症状で具合が悪くなり、床に伏すことが増えたが、その背後で多発性骨髄腫という病が進行しており、8月にはいると歩行も困難となって、この半月はほとんど寝たきり状態であった。そして、5日、呼吸と脈が止まり、救急車を待つ間に私と甥とで心臓マッサージを行ったりしたが、息を吹き返すことはなく、そのままかけつけた主治医によって死亡が確認された。終着駅のホームに電車が静かにすべりこみ、ゆっくりと完全に停止するような、そんな静かな最期だったように思う。
 その父の通夜に、ご両親に伴われ、○○さんがご弔問に訪れてくださった。幼少期から関わり、今は20代半ばを迎える彼女と、合間の時間に手を振る方法で会話を交わした。(この方法は、昨年末、彼女の家を訪問してとっさに思いついた方法だった。)
 書き留めることはできなかったが、彼女はおおよそ次のようなことを語った。

 輪廻ということがよく言われるけれど、私の父がまた人間に生まれ変わることができればいいねということ。そして、自分はこんな体に生まれたから、生まれ変わったら今度は健康な体に生まれてみたいということ。
 そして、ろうそくの火が消えるみたいでとても寂しいということ。
 
 ろうそくの火のことを言うとき、彼女はとてもつらそうに見えた。そこで、私は次のことを語った。
 父の場合は、ろうそくをすべて燃やし尽くして火が消えていったようなものなので、それは幸せな人生だった。しかし、彼女の仲間が、まだ燃えるべきろうそくを残したまま途中で火が消えるようにして亡くなってしまうのはそれと違うかも知れない、と。彼女はこの私の説明を聞いて、よくわかりましたと穏やかな顔つきを取り戻しながら語った。
 また、彼女は通夜の中でとりおこなれていた読経の中の言葉を聞いたままに取り出してその意味を尋ねてきた。彼女が聞き取った音声は、呪文のようなもので、まったく意味が測りかねたが、こうやってあらゆる機会をとらえて、新しい言葉を吸収しようとしているのだということがよくわかった。
 父は、教材製作を通して多くの障害のある人と関わることができた。実際に顔を合わせた方々の数は少ないが、こうして、○○さんが訪れてきたことは、何よりもそのつながりを証すものにほかならなかった。父は多くを語らない人だったが、晩年を、こうした関わり合いの中に身を置きながら過ごせたことは、望外の喜びだったにちがいない。そんなことに気づけたのもまた、○○さんのおかげであった。 
 
2009年9月11日 21時51分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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2009年07月21日(火)
「願いのもらえる花」と「なやみのない国」
 土曜日の午後、盲学校の重複学級を卒業した◇◇さんと、高等部の重複学級に在籍している☆☆さんとある会館の一室でお会いした。卒業した◇◇さんと1年以上お会いしていなかったのだが、久しぶりの再会の場を、先生や別の保護者の方が設定してくださった。そこへ、☆☆さんも合流したわけだ。
 ◇◇さんは、まず、ヘルパーの方といらっしゃった。部屋には、別の保護者や先生方も数名いらしていたが、みんなが固唾をのんで見守る前で、次のような文章を綴った。( )は、合間に、いろいろな人が◇◇さんに質問したりしたものだ。なお、二人とも原文はひらがなで、句読点は適宜つけた。

 かあさんと楽しく暮らしています。いい家族です。にこたまの高島屋に行くことになっていますが、にこたまは遠いのでにこたまでなくてもいいです。にこたまを選んだのはかあさんです。美術館ならどこでもあるからちがうところでいいです。
(トイレは今いいですか?)
 トイレはいいです。かあさんが来たら行きます。自分で行けたらいいのですが、残念です。
(してほしいことはありますか?)
 サフランの魔法という本を読みたいです。昨日テレビで聞きました。(これだけ文章が書けてもやはり話すのはむずかしいのですか?)
 からだが動かなくてやっと歩けるだけなので、話はできません。
(初めスイッチ操作は手でやっていたが、手の力のコントロールに困っていたので、肩でプッシュスイッチを操作する方法にかえた。)
 手だけかと思っていたので驚きました。信じられません。不思議です、なぜわかるのですか。(◇◇さんは、どんなふうにしているのですか?)
 字を決めていてここだと思っています。
(どんな歌が好きですか?)
 好きな歌はみんなを楽しませてくれる歌です。願いをかなえてくれる歌が好きです。(歌を作っていますか?)
 作っています。(今、書けますか?) 
 はい。

  願いのもらえる花

願いの花がひらくとき 私は小さな目覚めする
小さな花の実がなると 私の願いが今開く
自由の風は緑の風 吹かれて一人風になる


(この後、手をとって、ドレミファソラシドと聞きながら音を聞き取っていった。)





 誕生日はいつもこの歌を歌っています。無理かと思っていました。自分の歌を聞いてもらえるとは思いませんでした。感動しました。うれしいです。悩む時にいつも誰か言葉聞きとってくれないかと思っていました。望みがかなってうれしいです。


 初めて、この光景を見た方からは、◇◇さんに、繰り返し驚嘆と賞賛が何度もあびせられた。お母さんは、文章と歌を表現し終えてから到着したが、美術館の意味など、いろいろ説明してくださった。期せずして、それはこれらの文章が彼女自身のものに相違ないことの証ともなった。

◇◇さんが、綴っていくのをずっと傍らで聞いていた☆☆さんは、お母さんの見守る前で、次のような文章を書いた。そして、彼女もまた、歌を作っており、その歌を披露してくれた。

 願いがいっぱいあります。なりたいのは美人の女の人です。なりたいのはまことのライオンです。小さいときから夢でした。勇気が出てきました。ライオンは強いから好きです。近代的なやまを作りたいです。小さなときから夢でした。身のほどに合った生き方ではなく、勇気を出して分を越えた根性で生きて生きていきたいです。美人のなり方を教えてください。自分のことは自分でやれたらいいけど、なかなかむずかしいので、迷惑をあまりかけずにがんばりたいです。理解してもらえてうれしいです。不思議ですが、考えただけで字が書けていきます。
(文章を綴りながら歌を歌っているので、どうして両方できるのかと尋ねられて)
 はっきりと言えませんが歌は勝手に歌が出てきます。
 人間だから考えています。見たこともない未来が広がってきました。感激です。みんなと話したいです。願いはみんなと信じ合って生きていくことです。歌は作っています。はい。

 なやみのない国

なやみのない世界と 小さな私
まっすぐ光を求めて 今日まで生きてきた
人間だから私は歌う 人間だから私は願う
光をめざし 美人の私 勇気を出して生きていく




 ライオンとは突然のような気がしたが、彼女が好きな歌の中に「ライオンハート」があるそうだ。力強さを持つ彼女ならではの「根性」という言葉も登場した。
 ◇◇さんと○○さんとの言葉と歌の世界に、みんな魅了されたひとときだった。
2009年7月21日 08時08分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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