ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2012年04月22日(日)
夏までの日本
 東日本大震災について語られた言葉をまとめた文章を読んできた☆☆さんは、次のように語った。

 地震の文集にとても感動しました。挽歌の詩がとてもよかったです。私の詩も入れていただいてとてもうれしかったです。夏の終わり頃から日本がまた本に戻ったというのにも共感しました。私も夏までの日本は何かいつもとは違って人々が優しいと思ったのでみんなも同じ考えだったことに驚きました。雪の野原の象の詩もとても悲しくて美しい話でした。なぜあんな詩ができるのだろうととても不思議ですがみんなそれぞれわざわざなってしまった障害と真摯に向かい合っているからですね。わざわざというのは変な表現かもしれませんが私たちはまるで津波の被災者のようなものだという言い方に似た表現です。私たちがあんなにも深く津波について考えているということはまだ世の中の人は全然知らないでしょうね。なぜ挽歌がよかったかというとわずかな文明の危機よりもどうにもならない悲しみの方が大事だと思うからです。存分に泣くことができないと人は悲しみからなかなか解放されないと思うので泣けるだけ泣けるような段階にならないと難しいと思いますがまだその段階ではないと思います。挽歌を私もいつか作りたいと思います。
夏までの日本という詩を作りましたから聞いてください。


 そして、次の詩が綴られた。


  夏までの日本

犠牲になった人の悲しみがまだ癒えていないというのに
町にはまた明かりがともり
人々は喜びにまた元気に笑えるようになった
しかし夏までの日本は悲しみの中に優しい眼差しをないまぜにした
理想の演奏を奏でるオーケストラのようだった
みんなその調べに耳を傾けながら
本当の涙を流しながら
人間の生きる意味を問い続けていた
私たちは障害のために
いつもかすかにそんな調べを奏で続けていたが
初めて世の中の人たちが
そういう調べに律儀に耳を傾ける姿を
目の当たりにした
まだ悲しみは癒えないままなのに
なぜ人はその調べから遠ざかろうとするのだろう
楽な生き方よりもその調べから
目をそらさないことの中にこそ
本当の光が隠されているのに
世の中はまた私たちを置き去りにして
もとの世界に戻ってしまった
呼びかけよう
もう一度夏までのあの調べに耳を傾け
本当の光を探すように
2012年4月22日 23時54分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
2012年03月19日(月)
震災忌 中学生の少年の俳句
 震災をめぐる俳句を中学生の少年がたくさん準備して待っていてくれた。俳句という表現の形式は、限られた文字数に言葉を凝縮することを要求するものだが、日常の生活の中で、周囲の出来事に感覚を研ぎ澄ませながら、また、それにふさわしい言葉を厳選しているということがひしひしと伝わってくる。それにしても、50句を超える俳句を一気に書いてしまうこと自体がすでに驚きだ。
 なお、彼は、「わだ」という言葉をテレビの万葉集の解説で聞いたらしく(「わだ」とは曲がっているという意味で入り江を意味する言葉である)、そこから「わだかまり」や「わたのはら」「わだつみ」などとの関連を自ら考えたそうで、今回の俳句の随所にその考えの跡が見られる。まったく独習のわけだが、ほんとうは、もっときちんと教えてもらいたいという強い思いがあるのだろうと思われた。

わざと泣く子どもの声はしあわせに
夏の夜もわざわざ私は忍耐す
これは夏の夜はみんな楽しんでいるのに僕たちはがまんしているからです。
小さき身勇気を認めて色づけり
わざと湧く歓声のように笑いけり 
これは満足した僕の気持ちです 
疑念なき赤ちゃんの目に理想さす 
忘れたる津波のことを敏感に 
津波なき世を夢見ては涙落つ 
見られても見られなくても唯祈る 
よいどんとかけ声はすれど進まぬ手 
わずかだがあかりは見えて夜を行く 
びろうどの着物はなくてただわんと 
わんとは泣き声です。
笑いなし未来をなぜか断たれし日 
理想消え勇気も消えたあの日過ぎ 
びろうどはなくとも胸に誇りあり 
勇気だけ洋服にして若者は 
理解され涙を拭く手休まりて 
わたの原わずかな怒り人をのむ 
ぶつかりしその涙なお湧きにけり 
瓶を割るどうとでもなれどうでもいい 
理想湧く瓶の破片の鋭き角 
わずかな理想悩みを抱いてまた先へ
わだかまるその先は月の海
理想湧くわだかまる海の流れから 
小さい手みどりごを抱きともに前 
わずかながら希望は見えて波静か 
震災忌理想もようやく回復す 
震災忌夜通し泣きてまた歩む
どうにもと理想を捨てた震災忌 
夏の轍まだ見えぬまま震災忌
震災忌逃げてもどこにも救いなし 
震災忌涙があふれ誓いあらた 
震災忌びろうどをそっと波にかけ 
つらい日も思い出となり震災忌 
人間がなぜ喜ぶか理由知る 
未来本に誰も書けずに震災忌 
茫然と立ちすくむ丘強き声 
理想見え強い声する震災忌 
わだかまる波のごとくに人泣けり 
わだつみの夜の叫びは誰に向く 
わだつみに理想なきわれ身を委ね 
誤解されわだかまり解け理想湧く 
未来わずかなぜ涙涸れずに夜もふけ 
わだつみの忘れじの色瑠璃深く 
わだつみの忘れじの夢じんとなる 
わだつみに漕ぎいでし舟希望乗せ 
わだつみの底に眠りし魂(たま)の燃え 
火が燃えるの燃えです。
夏の轍よき夢へと導びかん 
未来止まり夏の轍の途絶えたり 
未来の輪なかなか見えずもがくリボン 
わずかに夜明けぬるを知る波の凪ぎ 
勇気知るわずかなあかりに明ける夜に 
日の射して波きらめきて帯となる 
わずかな灯ともして偲ぶ震災忌 


 
2012年3月19日 01時22分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2012年03月11日(日)
3月11日 改めて  二人の詩と俳句
 昨年の3月31日、○○君が家で作ってきた詩を見せてもらった。その詩は、被災地の中に身を置いて書かれたものだった。それを読みながら、ともかく、この詩には前書きとしての説明があったほうがいいと思い、その場でそれを求めたところ、すぐに○○君は前書きを書いたが、それは、なぜ詩が被災地に立っている立場から書かれなければならなかったかを雄弁に語っていた。前書きと詩は以下の通りである。

 ぼくの母は陸前高田出身で、祖母は被災し、二晩を高寿園で過ごしました。ぼくは高田で生まれ、松原やマイヤで遊んでいました。高田の道が瓦礫になってしまったのですが、見覚えがありました。行ったことがあると感じたら、その瓦礫の中にぼくが立っていました。そしてその立っている場所から風景が見えました。じいちゃんの家、港のところに市場があるのも見えました。

とうさんとかあさんが
白無垢を着て
袴をはいて
並んでとった写真も
僕が子供のとき
弾いたというピアノも
一瞬で流された
なーんにもなくなってしまったけど
母の手がここにあった
うすい毛布一枚かけて
手を握り合った
この手さえあれば
生きていけると思った

潮風を受けながら
カモメと働くおばさんも
こたつにあたりながら
ワイドショーを見ているじいちゃんも
一瞬でさらわれた
残された僕らは
瓦礫の中に取り残された
けれど僕らは生きている
死んでもよかったと泣き叫ぶ
それでも
生きていかなくっちゃいけないから
泣きながら
振り返りながら
生きていく


 彼がこの前の年に書いた詩は、あるコンテストで入選の内定が決まっていたのだが、私が不覚にもブログに掲載していたことがわかって、非公開というルールに抵触してしまったため、入選は見送られた。その話を聞いてまだそれほど時間がたっていなかったことと、この詩のすごさがわかっていただけに、そのコンテストにぜひ応募すべき詩だと考えたので、今日までブログに公開することは控えてきた。だが、残念ながら、今回は、最初から不採択になったとのことで、あらためて、1年後の3月11日にブログに掲載させていただくことにした。
 この詩を見せてもらった3月31日、陸前高田のおばあちゃんは、東京の彼の家に身を寄せておられた。足下に津波の波をかぶりながら、逃げきったとのことで、振り返った時には、一緒に逃げたはずの人が見当たらなかったというような話も聞いた。
 この2編の詩は、公開は控えていたが、授業で紹介したことがあり、その時には、多くの言葉の中で、とりわけ印象に残る詩として感想が語られた作品だ。

 さらに、同様に、同じコンテストで不採択になった俳句も紹介したい。彼の震災の俳句は8月と2月に紹介したが、以下の作品は伏せたままだった。改めて、紹介しておきたい。

 雪の舞う 地震の朝の 鳥静か
 夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
 若き日の 記念の写真 砂と空
 望みを背 また立ち上がる 強き足
 涙かれ 涙はいずる 土用波
 地震さえ なければと思う 夏過ぎぬ
 

  
2012年3月11日 00時47分 | 記事へ |
| 東日本大震災 |
2012年03月06日(火)
「ゆいさん」から託された願い 毎日新聞への投稿
 ある関わり合いの場で、パソコンで綴った文章を新聞に投稿してほしいというふうに頼まれた。意を決したような強い内容に、私は一瞬ひるみそうになったが、私たちにそういう純粋な思いを遮る権利はまったくないと思った。しかし、本人が特定されると、いろいろむずかしいことが起こることが予想されたので、匿名でいいかと尋ねたところ、「なまえさえないのはつらいです。ゆいさんと書いてください」と返事が返ってきた。そこで名前だけを出すということで投稿したところ、3月5日の毎日新聞の「みんなの広場」に掲載された。


 この問題提起は、現代の障害観の根本的な見直しを迫るものだ。容易には受け入れられるものではないだろうが、同じ思いをしている人たちに届けばと思う。
 この日、彼女は、こうした思いを次のような詩でも表現した。

 私たちの世界

地震と津波でひっくりかえった私たちの世界
なつかしい街並みも小さいときに遊んだ公園も
みんな流され消えてしまった
なぜ自然はそんなにむごいのか
理解しきれぬごんごんとしたゆゆしい思いが
私をできない存在へと追いやろうとする
だけど人間はけっして希望をなくさなかった
人間は夢をなくさずにもう一度立ち上がり
人々はどうしようもない悲しみをかかえながらも
紅色(べにいろ)の未来をめざし
望みを背にして歩き始めた
分相応の人になるのではなく願いをめざす人になって
人間としての誇りをかかげて
夜の闇から朝の光にむかって歩み始めた
私もまだ被災者のように取り残されたままだけど
いつか世の中に認められる日が来るだろう
その日を夢見て今を生きていこう
2012年3月6日 22時58分 | 記事へ |
| 東日本大震災 |
2012年02月15日(水)
津波の歌
 青年学級の学級生のKさんは、すでに両親を亡くし、今、都内のある病院に入院している。彼女は、昨年の5月に開かれた若葉とそよ風のハーモニーコンサートで、津波の詩を仲間に朗読してもらった。
 その当時、彼女は、町田市内の施設に入所していたのだが、その後、体調の変化などから、入院を余儀なくされた。
 もともと、しゃべることも文章を書くこともできた彼女は進行性の障害で、あるときから車いすになり、発話も不可能になった。医学的には言葉も失われたと考えられた。
 そのような状況で母親が亡くなり、当時の状況では、どこか離れた施設にはいらざるをえない状況にあったのだが、若い担当者たちが、アパートで共同生活をしながら、建設予定だった地元の施設ができるまで持ちこたえて、無事、地域の施設に入所を果たした。そして、青年学級には、毎回、スタッフの送迎によって参加していた。
 そんな彼女が豊かな言葉をきちんと持ち続けていたことが明らかになったのが、2008年の夏のこと。それから、パソコンを使った新しいコミュニケーションが開かれてきた。そうした状況にある人が歌を作っているということも、それを伝える手段を共同で考え出したのも、彼女を通してだった。
 2009年のわかそよでは、彼女をモデルにし、彼女の作った歌を劇中に使ってミュージカルが作られた。
 そんな彼女が、昨年の夏、私たちの前から姿を消した。
 そして、そんな彼女の元をスタッフの山之内さんととびたつ会の支援者である松田さんが、先日、訪問してきて、彼女の思いを聞き取ってきた。

 今日はよく来てくれました。なんだか夢のようです。山之内さんはお元気でしたか。私はさびしくすごしています。みんなと会って、また歌をうたったり、笑ったりしたいです。もっと会える時を大切にして過ごしたいです。私の願いは多くの人たちとはなしをして、楽しく充実した時間を過ごすことです。また青年学級にもぜひ参加したいです。
(山之内−神野さんの津波の詩がうたになりましたよ。)
 はい、参加しますから、お願いですからつれて行ってくれませんか。伝えたいことは私の本当の気持ちです。心の中にある気持ちをぶちまけたい気持ちです。理解してくれようとするやさしさは感じていますが、なかなか通じなくてつらいことがあります。とてもうれしいです。来てくれてありがとう。
(もうすぐあの地震から1年ですね。津波の詩を書いていてそれが歌になっていますが、津波と今の神野さんをどのように思っていますか)
 それはとても似ているところもあるかもしれません。地震の被害は津波もあって、とても大きなものでした。私は、わからないほどの大きな被害になんともいえない不安を感じました。私は病院に入院したあと、津波に巻き込まれたように何が何だかわからないまま過ご
してきました。それはそれはとても不安な気持ちでした。あの津波を経験した人たちは忘れない記憶として思いをはせるのでしようが、希望をもって立ち上がろうとしていることでしょう。私はまだ希望を持てずにいますが、きっと希望をみいだして、みんなのところにもどりたいと思います。

(青年学級はもうすぐ成果発表会ですが、ひとこと伝えたいことはありますか)
 成果発表会には参加したいと思っています。

 私の関わっているコースでは、Kさんの詩に曲をつけて、被災地のある施設に送ろうとこの間ビデオ撮影したところだ。歌詞は以下の通りである。

いつも穏やかだった海が突然きばをむいて
理想をすべてうちくだいた
私はわたしの大切な生きる意味を
失いそうになってしまったけれど
人々の立ち上がる姿に勇気づけられた
なぜだろう人は理想をうちくだかれても
再び立ち上がることができる
人間はなぜそんなに強いのか
私もこんな体で自分の気持ちさえ
うまく伝えることもできないけれど
私も勇気をもってまた立ち上がってゆこう
冒険をまた始めよう


 歌は次のURLで聞くことが可能である。

http://douga.zaq.ne.jp/viewvideo.jspx?Movie=48444399/48444399peevee450767.flv
2012年2月15日 23時00分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
震災俳句
 夏に、たくさんの震災の俳句を聞かせてくれた○○君のお宅を半年ぶりに訪問した。今回も、たくさんの俳句を作っていて、パソコンを開くといきなり、俳句から始まった。今回も40あまりの俳句が一気に綴られた。じっと暖めたれてきたものだ。難解なものにはその都度、説明を入れてもらった。

抜群の力を出して復興す
小さい目懐かしき野をふと見つめ
被災地の緑を夏が深めゆく
ランプの灯待つ人によい願いほめ
若い日の夢も破れた深い海
夕焼けの磨かれた空ぼろの底
 「ぼろ」とは涙が流れたことを言ったものです。正確ではないけれど書きました。唯一の理解者は自分だからこれでいいです。
小さい目罪なく輝きどこ目ざす
未来の手心に触れて隅々に
未来の手理想をつかみ僕をさす
ごみの先道は望みにつながりて
強く握る手は冒険の揺れるまま
楽な日を取りもどし櫓が揺れる
ずんずんと逃げ出さないで積まれた和
理知的な瞳は何に愚を感ず
 なかなか復興が進まないのは理知的な目には愚かに映っているはずなのできっと何かを罪深く感じているはずだから書きました。
ずっと沖 涙の船が遠ざかる
理想の世なかなか来ずに復興す
地位賭けて闘う人のない日本
日本の夢理想を賭けて和をつなぐ
夜ずっと夢にうなされふと目覚め
忘られた歴史に瑠璃の光さし
 昔から津波は何度も襲いかかってきたのにみんなそのことを忘れてしまっているのだけどまた改めて思い出されたということです。
夢の先不気味な声にゴンゴンと
 なつかしい町並みの彼方に新しい街並みをまた作り直してもまた津波に破壊されるかもしれないということです。それ(ゴンゴン)はずっとさいなまれることの表現です。
夜の闇強い笑いを盛り上げず
理解されず夜の暗さに森を行く
被災地に行けば涙のろうそくも
自らの力のなさに轍踏む
 自らの力のなさを嘆きながら轍を追えずに踏んでいる様子です。車は被災地の復興の象徴です。 夏も過ぎまた世は戻り秋刀魚せる
日の当たる轍もまっすぐ未来さす
唯一見た空の果てなる南星
 南の空に一瞬見えた星に未来を願ったということです。
日が沈み波の音のみ休みなし
理想さえろうそくと光れば綿々と
綿々と願いを紡ぐということです。
若き日の忘られぬ道流されず
分相応自らに課さず道を行く
実る穂にセシウムの付き虚しさよ
わずかでもセシウム付けば捨てられて
わずかな音 聞こえることなき悶々と
ビルを支えし原発は惨めな姿をさらし泣く
昔には戻れないとはおかしき世
わずかな灯 分捕らず共に分かち合う
水のゆき轍に残る夢の跡
ランプの灯ともりし道に咲く花を
 わずかな理解者しかなかなか増えないのですがこうして俳句を作っているととても気持ちが落ち着きます。俳句はおしまいです。


 なお、夏の彼の俳句のうち、いくつかをある詩のコンテストに出していた。残念ながら、入選することはなかったが、未発表という条件だったので、このブログでの公表も避けていたので、改めて紹介する。

夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
雪の舞う地震の朝の 鳥静か 
涙枯れ 涙は出ずる 土用波
若き日の記念の写真 砂と空
望みを背 また立ち上がる強き足
地震さえなければと泣く夏過ぎぬ 
     

2012年2月15日 00時35分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2012年02月01日(水)
夏の轍(わだち)
 最近、俳句に真剣に取り組み始めた○○君は、また、秀逸な句を用意してきた。結構難解な俳句も少なくなかったので、その場で解説をしてもらった。

長き夜 淡々と煩悩 どこでそぐ
 煩悩をどこか理解される場所でそぎ落としたいけれどなかなか見つからないということです。

強き藁 縄となわれて炭を包む
 なぜ縄を使うのですか。理想的な包み方なのですか。なぜなのだろうと思っている内に浮かびました。

鍋をなぜ瑠璃色にして血わく ふと。
 鍋には頑張ってもきれいな色には鳴らないので瑠璃色に塗ってあげたくなりました。血わくとは血が騒ぐという意味です。謎めいた俳句です。

虹の夢疲れた涙の空に架かる。
 疲れた涙の水蒸気だから虹が架かりました。

楽な道 自分の前に道のなき。
わが理想 人間となり輝く日。
 障害の俳句です。

見られても誰に恥じるところなし。
理想とはわずかに見えて遠きもの。
人間で敏感に見える道の前。
 道は道路で道の前には誰かが立っていて僕らを見つめているということです。僕たちはどうしても人間として認められにくいので敏感な人が必要なのになかなかそういう人が現れないと言うことです。

実の母つらく中あたるは強き愛。
 はいだいじょうぶです。フィクションですから。障害がある子どもに厳しくする母親がいるので作りました。

力ほしい なぜ見えないの夜明け星。
夕月のわずかな明かりに櫓をこげり。
湯を沸かすやかんの煙しんしんと。

夏に見し轍(わだち)の消えて 迷い道。
 震災のことです。夏まではみんな理想を語っていたけれど秋になると全く語られなくなりました。そのことですが誰か同じことを言っているのですか。

誰が泣く すすり泣く声 乗せし風。
轍が冬見えし時あり 除夜の鐘。
 紅白の中ではみんな理想を語っていました。それが良かったです。長渕剛の歌がよかったです。地震をきっかけに昔の長渕に戻った気がしたということをお母さんが言っていました。長渕剛のことを先生が知っているとは思いませんでした。長渕剛だけではなくみんないい歌を真剣に歌っていました。よい元日が迎えられました。なぜ先生はわかるのか不思議ですがたくさんの仲間の言葉を聞いているからなのですね。よくわかりましたが夏の轍は残念でした。できるならそのまま小さくてもいいから消えないでほしかったです。夏の轍という言葉はとても気に入っている言葉です。(轍の数は)二本です。車いすの轍のイメージです。そうですか、轍という言葉を使っている人がいるのですか。それを教えてください。

罪の泣き嬰児の泣き力湧く。
 なかなか泣き止まない子どもを見て作りました。はい泣く子は育つということをばらばらにして作り直したものです。

どこまでも何艘の船続く海。
小さい目なぜ光るのか理想知り。

夏の轍未来に続け 戻らずに。
夏の轍日本を強く導けと。
敏感な動物のごとく無我の我。


 夏までの日本の特別な空気、それは、○○君にとって、日本が理想に向かってひたむきに進んでいるように見え、そこには、まっすぐ理想に向かう日本の足跡としての轍が見えていた。それを彼は夏の轍と名付けた。秋以降は、その轍が消えて、また元に戻ってしまったかのように見えてしまった。しかし、大晦日の紅白歌合戦の歌の中に、あの夏の轍がまた見えたというのである。
 
2012年2月1日 21時29分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
2012年01月18日(水)
紅白のこと、野田総理のこと、足手まといになること
 7月の終わりにだんだんと震災のことが語られなくなっていく状況を「なんなのこれは」と危惧していた○○君が、年明けに次のような文章を書いた。

 いい疑問が解けました。それは世の中の人がみんな被災地のことを忘れていなかったことです。良い時間を過ごせたのは紅白歌合戦でした。日本中の人がどよめきと共に被災地の人の声を聞こうとしていたのがゴンゴン伝わってきました。だからとても安心しました。まざまざと被災地の大変な様子を映し出していて茫然とする番組もありましたが僕には紅白歌合戦が何よりも救いでした。
 夏の頃はとても失望していました。世の中の人が何も努力してくれないように思えたからです。そうでした。ほんとうにそんな感じでした。夏も終わって秋になっても政治家は馬鹿みたいなことばかり言ってましたが野田総理が僕たちのような障害者の言葉を使って演説をしたからとてもうれしかったです。先生も知っていましたか。どうして知っているのですか。
紅白に救われたこと、そして大越桂さんが野田総理によって紹介されたことがうれしかったということだった。ここで私が12月に大越さんのもとを訪問し、石巻にも足を伸ばしたことを告げた。そこから、話はまた、まったく別の話に展開していった。

 養護学校の生徒は逃げ遅れたと思いますがきっと頑張って生き抜いたので感謝して亡くなったと思います。なぜなら僕たちはいつもそういう気持で生きているからです。誰かの足手まといになるのはいやなのでどこで何が起こっても僕たちは覚悟ができています。わずかな希望ですが仲間の気持ちを伝えてほしいです。なぜならきっと助けられずに泣いている母さんたちがいるはずだからです。そういう母さんたちに仲間はきっと感謝の気持ちで亡くなったということを伝えたいからです。どうして先生はそこまで聞き出せるのですか。僕もまさかそこまで話す気持はなかったけれどつい話してしまいました。まるで誘導されたみたいですがもちろんどのような誘導もありませんでした。そうですね。みんなの気持ちですね。

 自分たちは足手まといになりたくないということ、そして感謝の気持ちで亡くなることができるという究極の思いを聞かせていただいた。
 ○○さんとしては、この話はあえてするつもりはなかったようなのだが、いつのまにかその話をしてしまったことをめぐって、このようなことを書いたようだった。私は、おそらく私がいろいろな人たちの言葉を聞いているので、時間差や場所の隔たりはあるけれど、私を介してみんなが一つの語りの場を作ることになっているというようなことがあるのではないかと説明をしてみた。けして誘導するわけではないけれど、ほんの一言の言葉や相づちがそういうことを生み出しているのかもしれない。
 ○○さんはそのことに納得してくれたようだった。
2012年1月18日 00時53分 | 記事へ |
| 自主G23区2 / 東日本大震災 |
2011年12月03日(土)
みんなのあかりコース 東日本大震災の取り組み 11月20日その3
 寡黙な50代のSさんは自分でも作文を書けないわけではないが、あえてパソコンを要求してきた。そして、以下の文章を綴った。

 なぜ津波はすべてを奪っていったのだろう。津波の力に僕は遠い過去のどうにもならない運命の力を重ねている。遠い昔の運命の力は僕の人生を切り裂いた。遠い昔の運命の力は根こそぎ僕の人生を流していった。わずかな明かりは今こうして何でも話せる方法が見つかったことだ。悩みも苦しみもたくさんどこかに流し去り、新しい人生を始めよう。津波もいつか遠くなり、被災地の人にも丸く明るい月が射す日が来るだろう。その日が待たれるけれど今は静かにまだ乾かない涙に耐えていよう。

 津波と障害を重ね合わせた人の文章はたくさん紹介してきた。しかし、Sさんの表現は、50代の方だからこそのものだ。自分の障害をめぐる若き日々のどうにもならない思いと、つらい経験。それを彼は、すべてを根こそぎ奪っていく津波と重ね合わせた。そして、最後に、被災地の方々へ静かな祈りを捧げる。たくさんの苦悩を越えてきた彼だからこそ、涙に耐えるという言葉が深く響いた。

 また、5月のわかそよのステージ上でみずからの津波の詩を紹介された40代のNさんは、次のような言葉を書いた。

 理解できないと思われているのにあんな詩を書いても誰も信じてはくれませんが満足できています。私たちをわかってくれない世の中がこの津波で変わりそうでしたがなかなか難しそうでしたが、そろいもそろって同じことを考えていたのですね。私たちは本当の仲間だということがよくわかりました。わずかな灯りがともったばかりなのでもっともっと考え続けていきたいです。

 これは、先に紹介したMさんやIさんの言葉を聞いて深い連帯感を感じたことを表現したものだ。そして、続けて次の詩を書いた。これは、この日の活動で、亡くなった障害者のことについての記事をみんなで見たことを受けたものだと思われる。

 挽歌

挽歌を一つ歌ってみたい
亡くなった仲間に向けて
まだ僕たちの時代は来ていないのに
見届けられずに逝ってしまった
未来はまだまだ遠いまま
つらい日々はまだまだ続く
だけどわずかな希望は見えている
わずかな希望は理解されて
初めて気持ちが言えたことだ。


 本当は、ここで終わったわけではなかった。たまたま私を急ぎのことで呼びにきたスタッフがいて、そこで、さっと彼が身を引くようにして句点をふったものである。あまりにもやさしい彼の配慮だった。
2011年12月3日 00時24分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
2011年12月02日(金)
みんなのあかりコース東日本大震災の取り組み11月20日その2
 同じグループホームで暮らす40代の女性のMさんと30代の男性のIさんは、次のような文章を綴った。
 まず、Mさんの文章。

 びっくりしました、みんながわずかな希望という言葉をたくさん使っていたことに。初めての人もいるかもしれませんが、涙ばかり流している私たちはみんな希望を大事にしているのでよくわかりました。夏休みは津波のことばかり考えていました。なぜあんなにたくさんの人が亡くならなければいけなかったのか。私たちをまるでわからない日本中の人たちを、だんだん理解してくれそうな人たちに変えてくれそうな気がしていましたが、それは幻だったのかもしれません。でも人間としての煩悩を抱えながらゴンゴンと生きなければならない私たちにとっては夏までの日本人はとても素敵でした。よい心が人間には備わっているということがわかりました。

 そして、Iさんは次のように書いた。

 わずかな希望は私たちをわかってくれなかった世の中が被災地の人の悲しみを理解しようとしていたことです。わずかな希望ですがわずかであっても実現された奇跡のような時間でした。地震と津波を乗り越えてまた世の中は復興するかもしれないけれど、僕たちをまた忘れ去らないようにしてもらいたいです。私たちのことを受け入れられる世の中こそ理想の社会になるはずですから。

 MさんもIさんも、ともに、夏までの時間は、特別だったという。まだまだ震災からの復興は道なかばであり、被災地の人々の苦悩は深いが、少なくともこの関東地方では、意識していなければ震災はすでに過ぎ去ったものであるかのように感じてしまう。そのような中で生まれて思いである。IさんもMさんも、今はグループホームで暮らしているが、そもそもは、都内の他の場所から町田の施設に入所してきた方である。その時点では地域で生きることができなかったことになる。もちろん、今は、まさにこの町田という地域の中で生き、仲間もたくさんできている。お二人とも、けっして流暢とは言えないが、日常生活を過ごす上では、会話に不自由をすることはない。しかし、話し言葉で表現されたものは、内面の言葉の何分の一しか表現されておらず、時には、口をついて出た言葉が意に反していることさえあることをパソコンでの言葉を通して知った。こうした見かけの姿と、内面とのギャップは、どれだけ彼らを傷つけてきただろうか。
 ところで、Iさんに対して、「Iさんが書いた言葉は、Mさんと似ているけれど、それはどうしてなのでしょうか」とあえて尋ねてみた。すると答えは次のようなものだった。

 Mさんとは一緒にテレビを見たりしてそういう話をしましたから同じ意見なんだと思います。

 なるほごと思った。仲間だけの場面だったら突然流暢に話すというわけではないだろう。しかし、ともに本当は語りたいことをたくさん持っていてもうまく表現できないことを互いに痛いほどわかり合っているから、短い言葉が深いメッセージを伝えあうことを可能にしているのだと思った。
 いずれにしても、夏までの「奇跡のような時間」をただの奇跡として終わらせてはならない。大変困難なことかもしれないが、東日本大震災からの復興が新しい社会の原理を伴うものであることを節に願う。原理とはただ、MさんやIさんを大切にする社会ということだけである。
2011年12月2日 23時58分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
みんなのあかりコース 東日本大震災のとりくみ 11月20日その1
 町田市障がい者青年学級のみんなのあかりコースでは、3月の成果発表会に向けて、東日本大震災をテーマに取り組んでいくことにした。そこで、11月20日の活動では、この半年間に青年学級やとびたつ会のメンバーが折りにふれて書いてきた震災に関わる文章をみんなで読み合って、それぞれが作文を書くことになった。独力で原稿用紙に向かったかたももちろんいるが、パソコンによって作文を書いた人もいる。
 まず、この日、もっとも衝撃的だったSさんの文章を紹介する。Sさんは視覚障害があり、いつもガイドヘルパーさんといらっしゃる。まだパソコンに取り組んだことはなかったが、みんながパソコンに向かう様子をみて、ぜひSさんの気持もパソコンで聞いてみたいとおっしゃった。そこで、さっそく挑戦した。彼がさっと綴った文章は、以下の通りだ。

 若くないけれど僕は地震の時にはとても感動したことがあります。唯一の希望という言葉が今日は語られましたが、僕もそのことばかり考えていたのでとても共感しました。僕も目が不自由なのでもし津波が来たら逃げられないと思いますが、何度も考えたのは母のことです。もし僕のために母が逃げ遅れたらどうしようということです。僕は母にはなるべく逃げてほしいです。私のために自分の人生を使い果たした母が僕のせいでなくなるのは耐えられませんが、まなざしを見ていると申し訳ないのですが、私を置いて逃げてほしいです。なぜなら僕が唯一母にできることはそれだけだからです。

 Sさんのお母さんのことをよく知っているガイドヘルパーさんは、ひときわこのSさんの思いが心にしみわたったようだった。もう40代の半ばを過ぎたSさんのお母さんだから、ほんとうにご高齢で、文字通りSさんのためにその人生を捧げてこられてことだろう。そのお母さんに向けたあまりにも深い思いだった。

 
2011年12月2日 23時47分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
2011年09月30日(金)
東日本大震災に思う 9月26日
 残暑がようやく勢いをなくし始めた9月の終わり、障害のある兄弟のあまりにも深い会話に私は接することができた。最初にまず、兄の○○君がこう語った。

 地震について書きます。犠牲になった人たちに捧げる詩です

小さな幸せ流していった
何もかも流していった
わずかに残った忘恩の声
和と和を大事にすることがとても大事だということを
僕はなぜか理解した
全然希望は見えないけれど
びっくりしたのは人々が助け合いの心をなくさなかったことだ
人間としての最後の証しなのだろう
わずかな希望はそこから生まれそうだ
よい知らせはまだ届かないけれど
茫然と立ちすくむわずかなぞろぞろと湧く悲しみを
どうにか癒やしてくれそうだ
ずっと前から願っていた夢をもう一度取り戻し
勇気を持って立ち上がれたら
ふたたび望みはかなうだろう
理解を超えた悲しみも理解を超えた煩悩も
理解を超えた汚れた未来も
すべてまたきれいによみがえるだろう
その日をぼくは静かに祈る
一人遠いこの場所で
よい願いの開く日まで。

 地震の後ずっと色々なことを考えていましたがなかなか夏を過ぎても本当の復興はやってきません。そのことを詩にしました。わずかな理解者しかいないのでぼくたちのこんな思いは伝わりませんが、とても悲しみと嘆きを持ってこの半年を生きてきました。理解されなくてもいいけれど世の中の人に私たちの思いは伝えたいです。深く見つめてきたので私たちのことがわかるのですね。ありがとうございます。(弟に)代わります


 私には、この詩が、これまで多くの障害のある人たちによって綴られてきた詩や言葉に比べてある重さを持っていることが印象的だった。大震災から半年を過ぎた時だからこそ繰り出されてきた言葉なのだろうと思わずにはいられなかったので、そのことを○○君に話した。
 すると、弟の◇◇君は、すぐにそれを受けて次のように綴った。

 いい詩でしたね。でも先生が言ったように僕の詩よりも重いですね。確かにまだまだ被災地には悲しみがあふれているみたいで悲しみから立ち上がれてはいない人も多いですね。でもわずかな希望に支えられて立ち上がろうとしている人たちもたくさんいてそれが救いです。夏を頑張って過ごした人たちもきっといることでしょう。わかってほしいです。ランプの明かりを灯していきたいので理想を大事に生きていきたいです。微妙なニュアンスの違いがあってもなろうとしてなったわけではない障害を持っている立場からの気持ちは共通ですね。僕の死はなかなかすてきだったと言ってくれましたが、ばらばらと涙をこぼしている人にはそんな僕の思いは届くでしょうか。わかりました。なかなか僕たちの言葉は届かないのでしょうがわずかな希望は僕たちのわずかな声を先生が聞き取ってくれていることです。僕たちの声がいつか世の中に届く日が来ることが楽しみです。まだまだ時間がかかるかと思いますがよろしくお願いします。ここで話はいったん理解されないもどかしさに移っていったがその中で、次のような言葉にたどり着く。

 僕たちの言葉は別に優れているとか関係ないのでよい悪いなどは言わないでください。

 ここで私は良い悪いとは別に端的によい言葉があると言い、それは悪いの反対語のよいとはちがうと言った。すると◇◇君はこう答える。

 わかります。悪いの反対語ではないよいは大事な言葉です。
 
 ここで話が一区切り着いたという思いがしたのだが、ここでもう一度何かを語り出そうとする気配を感じた時、私は彼がさらに重い話をするのではないかと一瞬たじろいでしまい、そのことを口にした。そして、次の言葉が繰り出されてきたのだ。

 ところで僕たちのような存在は津波の時には足手まといになってしまうのでそのことがとても気になっています。なぜなら僕たちのような存在を救おうとして何人もの人が亡くなったからです。僕のかあさんもたぶんもっとも僕たちから離れられない人間なので僕はそれを思うと胸が締め付けられる思いです。僕も兄も本当はどこにいても気持ちが通じているのでわかるのですが、僕たちはかあさんには僕たちを置いて逃げてほしいです。僕たちは覚悟ができていますから。かあさん係に僕たちを置いていっても決してうらむどころか、逃げてくれてありがとうと思います。別れはいつかやってくるものですから。かあさんだけには助かってほしいです。感謝の気持ちで僕たちは波にのまれることができますから。波にのまれるのは僕たちだけで十分ですから。きっとそんなできごともあったはずですから、どうにかして僕たちの気持ちを届けたいです。もしかしたら子どもを見殺しにして泣き続けている人がいたら、きっと感謝の気持ちで亡くなったと言ってあげたいです。泣くのはもうやめてくださいと言いたいです。わかってくれますか。さっき先生は僕がこの話をすることがわかったのですか。そうですか。僕たちはみんなたぶん同じ気持ちです。 

 この、あまりのも重い話に対して兄はすぐにこう答えた。

 まさか◇◇がその話までするとは思わなかったけど、僕ももちろん同じ気持ちです。だまっておこうかと思いましたが、僕はそのことをずっと考えて眠れませんでした。私たちのような存在でも犠牲になれることがあるとしたら、そういう場面しかないかもしれませんから、そんなことまで考えているとは誰も思わないでしょうね。だけど僕たちはみんな、ご覧なさい僕たちをという誇り高い生き方をしていますから大丈夫です。かあさんにも見せてください。僕たちの本当の気持ちですから。先生ぐらいですね、この話に驚かないのは。でもさすがに動揺は隠せませんでしたね。とても深い話をさせてもらえてありがとうございました。

 たまたまおかあさんはこの時所用で関を外しておられた。私は一瞬この文章をおかあさんに見せてよいのか迷ったのだ。それを独り言のように言うと、はっきりと見せてほしいと返してきたのである。もちろんこの文章は戻ってこられたお母さんに手渡した。さっと文章に目を通したお母さんは、これは、ゆっくり家で読まなきゃねと、二人におっしゃった。兄弟と母の間に存在するあまりにも深く美しい絆がそこにあった。

2011年9月30日 00時14分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
2011年08月29日(月)
東日本大震災に思う 8月19日
 施設で暮らしている30代の○○さんが帰宅する日に会わせてお宅でお会いした。せっかくいい方法が見つかったというのに、なかなか広がらない現状を嘆いたあと、彼は、震災の話に移っていった。

 何度も泣きそうになったのは地震と津波のことでした。まさか泣き出しはしませんでしたがわからなくなってしまいました。なぜあんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのでしょうか。わからなくて毎日考えていますが答えがどうしても見つかりません。なぜ私たちはわからないと考えられているのかという問題よりももっと大きな問題でした。敏感に感じる人は誰でも悩んだことでしょう。ばらばらになってしまった親子や人を助けようとして亡くなってしまった人のことを思うと悲しくてたまりません。どうしてみんながびいどろの未来を失ってしまったのかとても理解できませんが救いになったのは人々が立ち上がろうとする姿とそれを応援しようとする人々の気持ちでした。小さい頃からなかなか理解されなかった思い出は何度も泣きそうな気持ちを呼び起こしましたが、泣かずにすんだのはこんなに僕を応援してくれる人たちがいるという気持ちでしたから。七色の虹を見たような気がしました。こんなに世の中にはまだ理想が残っているということが心からよい朗報でした。唯一の勇気の源でした。分相応と見られるだけの僕たちですが僕たちのような苦しみを持っている者にしかわからないことかもしれません。涙はけして乾くことはないけれどわずかな希望は私たちはそんな苦しみの中でも希望を持ち続けてきたように被災地の人たちも必ず希望を見つけられるということです。みんなの気持ちもきっと同じだと思うので何とかしてこのことを世の中に伝えてください。
 何度もこのことを先生に伝えたかったので今日はとてもうれしかったです。なかなか会えないので黙ったままずっと考えていました。わかってもらえてよかったです。
 とても揺れたのでぞっとしましたが電気も消えなかったし、みんな無事だったので安心しました。でもテレビで津波のことが伝えられてとんでもないことが起こったことを知り茫然としてしまいました。どうしてこんなことが起こるのかと悩みました。そんな地震と津波のことが言えてよかったです


 まったく互いに情報を伝え合うことのない状況の中で今回も、多くの障害の重い人たちとの共通の思いが書かれた。地震と津波から5ヶ月が過ぎたが、○○さんにはずっと会うことができなかった。この日々の中で、ずっとこうした思いを暖め続けていたのだと思う。
2011年8月29日 17時15分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2011年08月18日(木)
東日本大震災に思う 7月9日
 ○○君の話は、原発と政治への嘆きから始まった。

 夏らしくはなりましたがなかなか福島の原発は収まらないし、津波もまだまだ復興の兆しも見つからないどうなっていくのだろうと思っていたら政治がおかしくなってしまいました。僕の考えは政治に本当に必要なものは誠実さだと思います。僕たちは文字通り障害を持って生きているのでもし世の中が理想をなくしたら真っ先に生きていけなくなってしまいます。だから総理大臣はもっと理想を語る必要があると思います。まずいのは何でもかんでも批判ばかりしている人です。そんな人が多すぎると思います。僕たちどんなに我慢しても大丈夫ですが理想のない世の中では生きていくことができません。なるべく一人で生きていきたいけれどなかなかまだそのことが理解されていないので難しいですね。。

 そして、彼は一篇の詩を用意していた。

地震の詩をまた作りました。

文明の願いだった原子力
その夢が生活を切り裂き
私たちは電気を使うことさえ困難になり
違った暮らしを探し始めたが
それもなかなか問題だらけ
すべての未来は閉ざされて
何もわからない人間は
ただ茫然と立ちすくむだけだった
しかし私たちは知っている
なつかしいふるさとの美しい景色を
その景色の中にあった人々の生活を
小さいことかもしれないが
私たちもまた障害という重荷を背負いながら生きている
その意味を私たちは知らないが
その意味はきっと津波の意味と似たものだ
だから私たちにはわかっている
いつか希望がやってくるということを
理不尽な仕打ちをどれほど受けても
人は必ず立ち上がることができるということを
涙はいつか乾くということを
だから立ち上がりたいときに
人は必ず立ち上がれるということを
だから私は待ち続けよう
人々が立ち上がれるその日まで


2011年8月18日 00時37分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2011年08月14日(日)
東日本大震災に思う 8月13日 小さい象はなぜ泣くの
 1月にお会いした中学生の○○君と久しぶりにお会いした。そこで、彼は、いきなり次の詩を綴った。

  小さい象はなぜ泣くの

立春の近づいたある冬の朝のこと
何一つ見えない道の上に
不思議な象が立っていた
小さな象は道を遠く見つめて
雪に染まった野原に向かって
理想の声で勇気を出して叫び声を上げた
敏感な象の耳には
「なるべくなら頑張って理想をかなえるように」と
「わざわざ森の奥から出てきたのだから」と声が聞こえた
なぜだろう
象にはやがて来る大きな災難が見えていた
唯一の救いは必ず人々は立ち上がるだろうということだ
涙を流しながら
象は自分のよい願いをがむしゃらに投げ出して
場末のわずかな花のつぼみに息を吹きかけた
「夢にまで見た花よ
今年の春はとても悲しい春になるだろう
だから花よ今年は涙を隠すように心を込めて咲いてくれ
がんばって咲けば花に人々の悲しみは癒されるだろう
夏になればまた青い空が力を人に与えるだろう
だからどうか美しく咲いてくれ」
そういって象は静かに涙を流して
ゆっくりと野原の彼方に消えていった


 連日の猛暑の中、突然立春のことから始まった詩は、大震災の話につながっていった。
 ○○君はさらに次のように続けた。

 この間からずっと地震のことを考えていました。ばかばかしい話ばかりが聞こえてくるようになったので僕はとても嘆いていました。ぶつぶつ言ってばかりいる世の中に本当の大切なことを伝えたかったので詩を考えました。忍耐が大切だということは僕たちがよくよく証明してきたことなのでどうしてそのいい自分たちの経験が役に立たないのかと考えていました。唯一の救いは希望があれば人は必ず立ち上がれるということです。悩みは尽きなくても必ず希望は訪れるということを伝えたかったです。よいやり方ですね。わかってもらえてうれしかったです。

2011年8月14日 08時03分 | 記事へ |
| 他の地域 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 7月24日 
 重複障害教育研究所で先月に引き続きIさんとMさんとの対話を聞かせていただくことができた。
 Iさんは、まず、冒頭に、先月私に申し出た発表のことから話を始めた。
I:「私の勇気を理解してもらえたでしょうか。茫然としたままでろうそくの明かりが消えてしまわないようにするために私は私の意見を伝えてもらいたいです。全国大会のことです。私は勇気を出しますのでよろしくお願いします。私の意見は発表してもらえますか。(…)茫然としていた人々のことは私も未だに気がかりです。理想があまり語られなくなって私も気にかかっていました。理想が語られないと本当に復興は物質的なものになってしまうので、精神の復興はむずかしくなると思います。なぜまた物質的な話になってしまうのでしょうか。私たちは物質的なことでは絶対に救われないのでまた精神的な話をしてもらいたいです。物質的な話より精神的な話でないと本当には人々は救われないと思います。地震の後はよく精神的な話がなされていましたが、全く話されなくなってしまったのでとても心配です。特に政治家は物質的なことばかりで誰も精神的なことを言いません。仕方ないかもしれませんがマンネリ化した議論ばかりで残念です。でも被災地の人の言葉は今でもとても心に響きます。特に存分に悲しみを乗り越えた人の言葉は精神的な深さを持っていました。」

 今回は、前回の議論を引き継ぎながら、さらに「物質的」、「精神的」という言葉で理想についての話が重ねられた。そこへ、Mさんがお見えになり、二人の対話へとつづいたのだが、なんとIさんはいきなり、Mさんに「文明観」について尋ねた。

I:「Mさんに聞きたいことがあります。Mさんの文明観について聞きたいです。Mさんは自然と私たちの関係についてどんなふうに考えていますか。私は自然とただ共存するというのは間違いとは言わないけれど満足はいきません。なぜなら私たちは自然のままでは生きていけないからです。自然とは闘わざるを得ないのが人間の宿命だと思いますから。」

M:「ランプの明かりをともすためにはやはり自然とは闘わなくてはいけませんね。待てよと思うためには自然との共存は必要なことですが、理想はやはりうまくどう自然を従えていくかということだと思います。私たちは自然のままでは生きられないですから自然と闘わないと生きられません。でも自然との共存もまた大切な考えだと思います。唯一の基準は人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうかです。なかなかむずかしい問題ですがよくまた考えてみたいです。」

I:「夢のようです。ランプの明かりならもうともりましたね。こんな話題が二人でできるのですから。」

M:「私はとても不思議です。みんなきっと茫然と立ち尽くした経験から立ち上がってきたので通じ合えるのでしょうね。誰でもわかり合えるとは思わないけれど私たちはわかり合えそうです。この研究所に来ている人たちだったらきっと。」


 今回の大震災は、地震と津波という自然災害と原発の事故という人災との両面から自然と人間との関係が問われた。そのことをストレートに問いかけたものだが、ここでも障害が重要な論点となった。自然がもたらした障害をあるがままに受け入れたなら自分たちは生きていくことができず、自然とは闘わざるをえないという認識である。Mさんは、その議論にさらに「人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうか」というのが基準だという認識を付け加えた。そばにいて通訳をしていた私は何の事前の申し合わせもないのに繰り出されてくる確かな言葉のやりとりに、二人がいかに深い思索の日常を送っているかを思わずにはいられなかった。
2011年8月14日 01時00分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年08月13日(土)
東日本大震災に思う 6月26日 二人の女性の会話と詩
 6月の通所指導ではIさんとMさんの二人がパソコンで対話をすることができた。
I「地震の話をしたいです。万人にとって全く未経験の話でとても私は理想を失いそうになってしまいましたがようやく理想を取り戻すことができました。私の理想はどんなときでも人は希望を失わないということですが理想がなくなりそうでした。ランプの明かりが消えてしまいそうでした。ランプの明かりは私には見えませんが私にとっては希望の象徴のようなものです。私の理想は私などのように障害を持っている人間にとってはとても大切なものです。私たちは理想がない世界ではただの困った存在に過ぎません。私たちにとって理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界です。まさに中島先生がそういう世界を理想としていた先生でしたが場所だけではなくそこに宿る精神こそが大事です。唯一の場所というわけではありませんがとても精神の優れためったにない場所だと思います。中島先生の精神を受け継いだ知子先生を中心にした先生たちがまだまだよい精神を守ってくれているので私たちは安心していますが、中島先生の話をもっと多くの人たちに聞いてほしいのですが、もう元気な姿にも声にも接することができないのがとても残念です。中島先生の録音テープをまた今年も聞けるのがとても楽しみです。」
I「ところでMさんはどこにいるのですか。Mさんは地震についてどう思ったかもし文章があったら聞かせてください。ランプのあかりということばはみんな使うのですか。私だけではないということがわかってよかったです。みんなも地震のことがわかったら自分たちのことが理解できると思っているということも私と同じです。みんなも地震のことを考えているということがわかってよかったですがなぜみんなも茫然として茫然としたところから立ち上がれるのかがわかりました。人は希望さえあれば生きられるということがわかってよかったです。Mさんの考えは素晴らしかったです。ランプの明かりを一緒にともせたらいいですね。何だか私ばかりが話してしまいましたね。Mさんの意見も聞きたいです。」
M「疑問があります。茫然とした人たちは茫然としたところからもう脱したのでしょうか。私はそれが心配です。よそのどうでもいい話はよく聞こえてくるけれど、茫然とした人たちのことがあまり紹介されないのがなんだかとても気がかりです。みんな肉親を亡くしてもう生きていられないと思った人はどうなったでしょうか。どこかにいると思うのですか私はとても気になっています。Iさんはどう思いますか。教えてください。」
I「私は茫然とした人たちはどうしているか全然わかりませんが、理想がないとその人たちは生きていけないということだけは事実だと思います。私たちは何度も茫然としてきたのでもう慣れてしまいましたが、なかなかむずかしいことでしょうが私たちは勇気を出して訴えていかなくてはなりません。Mさんもきっと同じだと思いますが、私たちはまるで津波にあったのと同じような障害を持ってきたので茫然としていてもいつかは初めは立ち上がらないわけにはいかないのは変わらないでしょう。私たちの理想はどうしても世の中には伝わりにくいのでまなざしを高く持って世の中に向かっていかなくてはいけませんが、なるべくなら世の中の人に伝えてもらえたらうれしいです。先生にお願いがあります。私たちの言葉を中島先生のように研究会で伝えてください。去年の懇親会では私の言葉を伝えていただいてうれしかったですが本当に信じてくれた人は少ししかいなかったようでしたから今年こそは伝えてほしいです。中島先生にも私たちの感謝の言葉を伝えたかったです。どうしてなかなか受け入れられないのか私にはわかりませんが茫然としているばかりではなく力強く立ち上がらなくてはいけません。そばにいる先生たちにも伝えたいです。よろしくお願いします。」
M「ぜひ私たちの言葉を伝えましょう。どんなに小さな存在でも私たちには理想があるということを伝えてほしいです。私たちの希望は誰でも理解できるようなものではありませんが、みんなにもわかってもらいたいです。理想さえあれば私たちは生きていけますがなかなかそのことがわかってもらえないので勇気を出して頑張りたいと思います。」


 大震災を通して理想が重要であるということが再確認され、そこから改めて自分たちのことを振り返ると、「理想がない世界ではただの困った存在」「理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界」ということが改めて再認識されている。そして、重複障害教育研究所という場所がその理想を宿した場所であるということに話が及んだ。
 そしてMさんはそれを受け、「茫然とした人たちは茫然としたところからもう脱したのでしょうか」と問いかける。これは、震災から日が経つにつれ、「どうでもいい話はよく聞こえてくるけれど」本当に心が傷ついた人たちに大切な話が聞こえなくなってしまったことを危ぶんだものだ。それに対するIさんの答えは、だからこそ理想が語られなければならないという強い主張を帯びている。そして、二人の気持ちはそこから自分たちの声を届けたいというふうに発展していく。もちろん、それが容易ではないことは十分承知した上でのことだが、二人はその役目を私に果たすよう申し入れてきた。(なお、その宿題は8月7日の「重複障害教育研究会第39回全国大会」で不十分ながら果たさせていただいた。)

 そこから二人の会話は、詩の話へと移っていった。

M「模様という詩を作りました。聞いてください

模様はいろいろ心を彩り
私たちに生きる希望を与えてくれる
手にとって眺めることはとても大変だけど
みんな心に模様をつけて
ゆえなき誹謗から自分を守り
ゆえなき苦悩から解き放たれる
しかし心に模様を持って
ランプの明かりを灯していこう
模様は心に希望を与え
茫然とした心から人を立ち上がらせる
未来から尊い冒険を私たちにもたらす
模様をなるべく美しく
理想を高く掲げていこう
私たちの心には
いつも誉れ高い模様が輝き
私たちを冒険へと誘う

I:Mさんはいつも詩を作っているのですか。私の詩も聞いてください。

鳥の声に私は理想の声を聞く
鳥の声は遠い昔の思い出をやさしく運び
私を懐かしい夢へといざなう
懐かしい思い出はいつもかあさんと紡いできたもの
よい仲間たちの笑い声がいつも聞こえる
ばらばらになった友だちはみんな元気でいるだろうか
みんなどこかできっと同じ鳥の声に同じ理想の声を聞き
懐かしい思い出を抱きしめながら
明日の理想を夢みていることだろう
ばらばらになっても私たちの心はともに一つの誓いを持って
同じ明日に向かって光を感じながら生きているだろう
なぜ光は私たちを照らしてくれるのか
そのわけはわからないけれど
まだ見ぬ希望がある限り
私は鳥の声に導かれながら旅を続ける。

鳥の声に誘われてという題にします。」

M「ばらばらになった友だちのことが私もとても懐かしいですがその中には亡くなった友達もいてちょっと悲しくなりました。理想は友だちがいつまでも元気で居続けてもらうことです。ばらばらになった友だちのことをいつか私も詩にしたいです。涙が出てきました。みんなのことを考えていると。人間として認められる日がやっと来たのにまにあわなかった友がかわいそうです。唯一の友の名前はどこでなくしてしまったのか思い出せませんが私たちの友だちは私たちにとってかけがえのない存在なのですが私はもう名前さえ忘れてしまいました。勇気を出して私もまた明日に向かって歩き続けたいです。○○家にはいつも笑いが絶えないけれどどこかいつも悲しみが漂っているのはせっかく生まれた私に障害があったからです。それはふだんは誰も語りませんが場合によってそれがふき出してきます。茫然としてはいませんがどこか○○家は悲しいです。」
I「地震はまだまだ人々を涙の中から解き放ってくれないけれど必ず人々は立ち上がれるはずです。それは私たちがすでに証明してきたことですから。」
M「私たちの声を必ず届けてくださいね。よろしくお願いします。」

 最後に再び地震の話に戻り、二人は、自分たちの声をしっかりと届けてほしいと念を押して密度の濃い会話を終えた。
2011年8月13日 09時23分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年08月12日(金)
東日本大震災に思う 7月10日
 7月、☆☆さんは震災後の政治の現状を嘆くところから話を始めた。 

 いい気持ちだったのにまたばかばかしい政治家の話で残念です。行き過ぎた政治家の言葉はよくないけれどなぜなのかわからないけれど名ほどある人がではどうしようもありません。満足のいく人はいないのかもしれないけれど何とかならないのかと思ってしまいます。

 もちろん彼女の嘆きは、テレビに登場するコメンテーターのそれとはまったく異なるものだ。彼女が嘆くのは、理想が語られなくなってしまったことだ。
 
 私たちにとってランプの明かりを灯してくれそうな人は被災地の人たちです。凡庸な人たちは何とか立ち上がろうとしているけれどなかなかわからないのは唯一の希望は私たちのような存在にとっては理想がないと何ともならないのにさっぱりわからないのは理想を語る人がいないことです。もっと高い理想がないと私たちまで生きる希望を失ってしまいそうです。ランプの灯りが消えてしまわないように私たちをもっともっと世の中で発言させてもらえたらと思ったりしています。なかなかむずかしいとは思いますが私たちにしかわからないことがあると思うので私たちにも今回だけは言わせてもらいたいです。私たちにとってわずかな希望は理想さえあれば人間は生きていけるということです。まだまだ復興には時間がかかるのかもしれないけれど私たちのようにずっと黙々と生きるしかなかった人間にとってはよい地域の絆や人々の理想こそが大切だということがよくわかっているので理想こそが今必要だということは自明の理です。悩みは尽きないかもしれないけれど理想さえあればろうそくに明かりはともるはずです。わかってほしいです。 

 大震災の後の思索の積み重ねから、理想がないところでは生きてゆくことがかなわないという自分たちの立っている場所をしっかりと見据えた上で、わずかな希望があれば人は生きてゆけるという思いと、地域の人々の理想こそが大切だという考えを、できれば声高に語りたいけれども、それがとうていかないそうにないはがゆさ。そういうものがあふれた彼女の言葉だった。
2011年8月12日 11時58分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年08月03日(水)
東日本大震災に思う 6月25日
 中学生の○○君は、地震について、こんなしっとりとした詩を書いた。

なぜだろう
地震はこんなにもたくさんの人々の
心と心の絆を流してしまった
海はどうして残酷にも
すべてを奪い取っていったのか
しきりに自らのためでなく
他人のために働こうとする人たちのおかげで
世の中は希望をつなぎ止めることができたけれど
もう少しで私たちの世界は
絶望に鬱々とした日々を過ごしていただろう
しかし私たちの希望は
世の中の人々の頑張る姿によって守られた
地震の滅亡から私たちを救い出せたのは
何よりも勇気あふれる姿だった


 しかし、彼は、この詩の前に、次のような被災地の現実は別の社会の現実を嘆くところから始めた。

 言いたいことがあります。疑問なのは政治家がなかなか誤解されるようなことしかしないことです。ぶつぶつ言うよりも大事なことは被災地が早く復興することなのに私たちはわずかな希望だけをたよりに生きているので希望がなくなってしまうと生きられないことがわかっているので希望がない世の中になったらくれぐれも希望のない政治はやめさせてほしいです。話し合いは厳しいかしれないけれどいい政治をしてほしいです。理想はみんなで力を合わせていい社会を作ってほしいです。

 地震が投げかけた人間についての根本的な問いが、しだいに時間の経過とともに薄らいでいき、理想の語られない政治家たちのふるまいが逆に、自分たちの存在を脅かし始めたのだ。理想が語られる世界でのみ自分たちは生きていける。だから、この災害を通して語られた理想が、自分たちの生きてゆける社会でもあることを思わせたが、ここに来て、被災地の方々の言葉は別にして、政治家などの言葉に理想が見えなくなってしまい、このままでいいのだろうかという思いが湧いてきたのである。

 20代後半の◇◇さんも、また、同様のことを述べた。

 近年まれに見る政治の混乱に僕たちはとても絶望している。なぜなら何度もよくどんな場合でもどんな困難でもよい願いの平和な祈りで頑張ってきたのに、政治家はまるでそんなことを理解できずに自分たちの支持ばかりを求めてどうして大事なことは後回しにするのだろう。理想をなくしては生きられないのにどうしてそれがわからないのだろう。なぜ理想が理解できないのだろうか。僕たちは理想をなくしたら生きられないように被災地の人たちも理想がないとこれから前に向かって生きることが出来なくなってしまうのが心配です。僕は人々の絆を大切にすることが一番だと思います。わかっている人はたくさんいると思いますがまるで政治家には理解できないみたいです。夢のようなことかもしれませんがまだまだ政治が頑張るときなので政治家には頑張ってもらわなならばいけません。どうして世の中の人はわかっているのに政治家はわからないのでしょうか。どうして政治家はわからないのかはわからないのですがなるべく理解どういう形であっても、もうすぐよい未来が来るということを国民に心から伝えてほしいです。


 また、同じく20代後半の◎◎さんは、次のような詩を作ってきた。いのちの問題として代診足をとらえ、その思いを重い詩にしてきた。


津波に流されたはかなく刹那ないのちが
生きる絆を教えて
いのち危険な海岸に死屍累々と
瓦礫の中で進んでいく姿が
奇跡を残すようにも感じながらも
家族の意志が傷つかぬよう
過ぎていく時間とともに
進めていくしかないのだという
現実が危険とともに
明るく光の彼方を灯しながら
今精一杯に残された人ともに生き
そういう世界を進まずには
人間という地道な生き方の生物は
生き延びずにきただろう
しき(?)ずれながら一歩ずつ
死に際すさまじさと格闘しては
風にも負けずの生き方は出来ない
優しさ静かにほのかに漂い
望みのすべて世間にそこそこに
染め直す仕立ての布を着せるように
筋書きをのっけて進みたい
風阻害するのが季節ならば風起こすのも季節
意見違うもの存在もつじつま合わせとならず
望み世間に与えるため
2011年8月3日 00時10分 | 記事へ |
| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
2011年08月02日(火)
東日本大震災に思う 6月19日
 青年学級でEさんは、この日は特に気持ちを落ち着かせることができなかった。その理由は本人にもはっきりわかっているのだが、どうにもならなかったようだ。そんな一日の活動のあと、学級でパソコンを開くとその落ち着けなかった自分の思いをぶつけるように深い集中をして言葉を紡ぎ出した。内容は、地震のことだった。

 地震さえなかったならみんな亡くならなかったのにとても悲しいです。なぜあんなにたくさんよい人たちが亡くなったのかわからなくてとても困りましたがおかあさんを見ているとなんとなくわかってきたことは被災地の人も何とか立ち上がろうとしていることです。なかなかわかってもらえないのはぼくたちと同じだと思うので人ごととは思えませんでした。まさかのんびり過ごしていたのに被害にあうとは思わなかった人たちが大津波に巻き込まれるとは夢にも思わなかったと思うと本当につらいです。なかなか復興が本格的に始まらないのがつらいですが理想を大切にこの困難に立ち向かってほしいです。勇気の見えなくなりそうな世の中が続いていますがよい時代が来ることが僕の願いです。みんなも同じ気持ちだということがわかそよでわかってよかったです。僕も津波の詩を作りました。

津波よ僕はわからない
わざわざ子どもを飲み込んで
わざわざ望みを打ち砕いて
おまえは何を望んだのか
ろうそくの火はもうどこにも見えないが
私たちは負けない
また私たちは立ち上がる
おまえが私たちの理想をすべて打ち砕くまで
だが私たちの理想は消して砕けることはない
私たちの理想は永遠に不滅だ


 Eさんのお母さんはふだんから関わっているNPOの関係で何度か被災地を訪れている。そんなことを背景にして綴られた言葉と詩である。
 この詩は、お母さんによって被災地にも届けられた。ご覧になった被災地の方々はとても好意的に受け取ってくださったとのことだった。
inihon daisinn
2011年8月2日 13時04分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
2011年07月12日(火)
東日本大震災に思う 6月7日
 研究室を訪れた☆☆さんは、お会いするのは2度目だが、今回は地震の話から始まった。

 聞いてほしいことがあります。なぜ地震で悲しいことがあんなにたくさん起こったのでしょうか。なぜというわけはないかもしれないけれど私はとても悩んでいます。
私たちは障害があることでとても苦しんできたのでよく苦しみのいやなことがわかるけれど私たちはどうにもならない悲しみもいつかはだんだん静まっていくことを知っているけれど被災地の人たちはどうにもならない悲しみと戦っていて大変ですから何とかしてあげたいです。人間としてのどうにもならない気持ちを何とかして静めてあげたいけれどなかなか難しいです。でも地域の支え合いや遠くからかけつけた人たちの行為(好意?)でみんな何とか希望を取り戻しつつあることが救いです。


 震災と自分との重ね合わせなど、支え合いに希望を見いだしているところなど、やはり、同じ立場の仲間たちと共通の心を持っていた。
2011年7月12日 21時48分 | 記事へ |
| 大学 / 東日本大震災 |
2011年07月11日(月)
東日本大震災に思う 6月5日
 視覚障害と知的障害が重複しているとされる方々のグループと、震災後3度目にお会いし、3月に「私たちも理不尽な障害に苦しんでいるけれどもっともっと理不尽なできごとでした。」「私たちはまるで津波のあとに取り残されたようなものです。なかなか救いの手が伸びてきません。」と書いた二〇代の女性☆☆さんは次のように思いを綴った。人々の立ち上がるすがたなどのニュースを耳にする中で、少しずつ、地震や津波のとらえ方が発展していっていることがわかる。、

 地震のことですが私は地震の意味が少しずつわかり始めました。本当に悲惨な出来事でしたがようやく本当の意味が理解できました。私たちは敏感な人にしか理解してもらえませんがようやくみんな希望を取り戻すことができて理想を取り戻すことができました。唯一の理想は私たちのようにまるで人間として理解されていない存在も生きる意味があるように人間はみんな生きる意味を持っているということです。私たちのように何もわかっていないと思われていないので瑠璃色の光が見えてきました。みんな悩みながらも希望を持ち続けようとしているので私たちも希望を持ち続けようと思います。私たちはわずかな希望がありさえすれば生きていけるのでようやく被災地の人たちも希望を取り戻すことができそうです。
 被災地のことはよくわかりませんが何とか人々が立ち上がろうとしているのが救いです。地震はすべての希望を打ち砕きそうでしたがまた希望を取り戻すことができました。理想をなくした社会では私たちは生きていけないので茫然としていましたが社会がまた理想を取り戻せたので私たちもまた生きて行けそうです。わずかな希望を大切に人はまた生きていけそうです。
 小さいことですが夢の中でどうしてもわかってもらえずに指をくわえるしかないという場面を見ましたがとても怖かったですみんなもそう思っていると思うのでわかってもらいたいです。


 理想をなくした社会では私たちは生きていけないと書いているように、物質中心の見方や損得勘定ばかりの現実主義の世の中では、経済的な意味での生産性をほとんど持たない障害者は生きることができない。重い障害があってもそれを可能にしているのは、社会がともに支え合うという理想を持っているからだ。震災の直後は、あまりの惨状にその理想が見えなくなってしまいそうだったが、ようやくその理想が、被災地の復興のために立ち上がった人々を通してもう一度見えてきたということだ。
2011年7月11日 13時08分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月28日 僕たちは文明を作る人間
 計画停電やガソリンの問題登で3月の会を見送っていたグループと5月28日、お会いした。大震災から2か月半が過ぎ、この間、様々に考え抜いてきたと思われる○○君は、その悩みながら続けてきた思索のあとを見せてくれた。

 地震のことについて書きます。僕は今度の地震で理想を失いそうになりましたがなぜあんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのか僕はとても悩みました。私たちは理不尽な障害を持っているので理想をとても大切にしているのであの地震ではわからなくなってしまいそうでした。なぜ人は生きるのかとか。人のためになぜ生きるのかとかわからなくなりそうでしたがようやくまた理想を取り戻せました。それはよい心の人たちがたくさん出てきたからです。よい人たちはみんな希望を語ります。まるで悩みが消えたわけではないけれどもう少し頑張れば希望が見えるということがわかりました。なぜ人はもっと優しくなれないのかとずっと悩んできたけれどもろもろの困難こそが人を優しくするということがよくわかりましたから困難というものの持つ意味がよくわかりました。文明の進歩も困難を乗り越えるところにあるので僕たちの障害はきっと文明の進歩につながるはずですから文明を作る人間なのだということがよくわかりました。もうわからないことが起こっても大丈夫です。毎日考えていましたがようやく普通の生活に戻れました。

 「僕たちの障害も文明の進歩につながるはずですから文明をつくる人間なのだ」という認識は、苦しみぬいた思索の末にたどりついたひとつの力強い結論だった。
2011年7月11日 09時24分 | 記事へ |
| 自主G多摩3 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月23日
 特別支援学校の高等部を卒業して今年から社会人になった☆☆さんは、地震への思いを次のように綴った。

 もう地震がなくなったからよかったけれど地震の時はとても怖かったです。未来も全部なくなったように感じましたがのんきな性格なので未来をまた取り戻すことができました。なぜよく地震があるのかその理由はわからないけれどなぜ地震がそんなに学校もすべて飲み込むような津波まで呼び起こしてしまったのか信じられません。なぜ津波はあんなにたくさんの人たちの命を奪っていったのでしょうか。まだ人間の小ささを感じさせられました。敏感な人たちはなかなか望みを取り戻せなかったと思いますが何とか勇気を取り戻して希望を持って生きていってほしいと思っています。勇気をなくして悩んでいる人たちのことが人間としてとても気にかかっていましたが少しずつみんな勇気を取り戻せてよかったです。みんなのことがとても心配でしたがどうしても未来をもう一度取り戻してもらいたかったですからよかったです。犠牲になった人たちをもう一度よみがえらせてあげたいけれどどうしても無理なことなのでただただ悲しいです。唯一の救いは日本中の人々が団結して東北の人々を応援していることです。ランプの灯りがなくなりそうでしたが悩みはどうして私たちのことはほおって置かれたままなのかということです。私たちにももっと目を向けてほしいと感じていますがなかなかよい解決策がなくて小さい頃からほおって置かれていたので慣れてはいますがさすがに待ちくたびれました。望みは私たちの本当の姿を理解してほしいからここでの姿を見てもらいたいです。

 後半は、震災の復興と比較しながら、依然として取り残されたままの自分たちのことが語られた。(もちろん、被災地の復興をうらやんだりしているわけでは決してない。)

 次は、特別支援学校の高等部の少年の言葉である。

 どうして地震と津波が起こったのでしょうか。ぼくはずっと悩んでいますがびっくりしたのはわずかな希望さえあれば人は生きていけるということです。理解を超えた出来事にもう少しで希望をなくしてしまいそうでした。なぜなにも悪いことをしていない人が亡くならなければならなかったかが全く理解できません。地震の後しばらくは何もする気が起こりませんでした。びっくりしたのは人々が理想をけして失わずにまた立ち上がったことです。敏感な僕たちにはもうどうしようもない出来事のように感じられましたがなんとか理想を取り戻せたということが驚きでした。みんなきっともう終わりだと感じたと思うのですがちゃんと立ち上がれたのはどんな状況でも人は支え合えるということだということがわかったからだと思います。地域の支え合いだけでなく全国の人々が支え合っているということがわかって人々は立ち上がれたのだと思います。人間のすばらしさを思い知ることができてよかったです。地域の支え合いが僕たちにも必要です。僕たちにも支えが必要だから地震とは違うけれど僕たちの悩みも地震に似ていて茫然と立ちつくすしかないものです。地震も障害も自然が与えた理不尽な仕打ちです。理想のなくなった社会では僕たちは生きていけません。ぐずぐずしていたら地域で生きられなくなりそうなので理想がなくならないことが願いです。理想のなくならない限り僕たちにも未来はなくならないでしょう。なかなかむずかしいことでしょうががんばりたいと思います。地震から茫然としていたけれどなかなか茫然としたところを抜け出せなかったけれど何とか抜け出せそうです。

 「理想がなくなった社会では僕たちは生きていけません」という言葉は、このあと、多くの人が語り始めたことだ。復興の途上で理想の大切さ感じられてくるとともに、一方でマスコミなどで語られる言葉から理想が影を潜め始めたことと関係していると思われる。
 復興にたしかに物理的なものが大きな位置を占める。しかし、その影に隠れて理想が語られなくなることは、もっとおそろしいことだと私には思われた。
2011年7月11日 09時12分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月21日 春の東北路
 1年以上お会いしていなかった☆☆さんに5月21日にお会いした。彼女は今年二十歳になった。3月下旬に成人のお祝いの会をしますとのご案内が妻に届いていたが、大震災で延期になっていた。しかし、少しずつ世の中が落ち着きを取り戻してきたこともあり、翌日のの日曜日に会は開かれることとなっていた。そんな日に、彼女が綴ったのは、次の1編の詩だった。
 

     春の東北路

春が今年はとても悲しい
わずかな希望に満たされた春を
今、私はひとり
こうしてただ涙と小さな小さな望みだけをいだいて
さいはての国に届くように
静かな祈りをささげる
遠い遠いさいはての国には
悲しみを癒す希望の呼び声が住んでいる
人間は何も知らないけれど
自らをとてもいつくしむことができるだろう
東北路は今年はどんな春を迎えたのだろう
みんな悲しみに言葉をなくしていることだろう
みんな家族や友達をなくし
茫然と春を迎えていることだろう
なぜ津波はあんなにも残酷な仕打ちを人間にしたのだろう
東北路に誰も知らないよい知らせがさいはての国から届けられた
それは桜のはなびらに書かれた秘密の言葉だ
決して希望は捨てないようにという呪文
それを受け取った東北の人はわかったはずだ
そして人々は立ち上がった


2011年7月11日 09時02分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月15日
 重複障害教育研究所でお二人の方の気持ちをパソコンで聞いた。4月10日(ブログ掲載の日付は4月15日)に引き続いての言葉となる。
 最初は、20代後半の☆☆さん。文中に登場するお父さんは、お仕事の人間関係のつながりから、被災地のボランティアにも出かけてきたとのことだった。

 ずっと考えているのは地震のことです。泣き虫のお父さんは毎日泣いています。もう少しで私も生きる希望をなくしてしまいそうでしたがろうそくの灯りがともったのは全国から支援が届いて被災地の人達も何とか望みをつなぐことができているからです。人間としてどうしても許せないのはそんなときでもよくないことをする人がいることです。誰かは知らないけれど留守の家に盗みに入るようなどうしようもない人がいるのは許せません。小さい私たちの存在ですが理想はとても高いので空高く昇ってゆけるように頑張りたいです。もう少しで被災地も落ち着くと思うので私たちもそろそろ涙を拭かなければなりません。みんなもどうにかしてもう一度希望を取り戻そうとしていると思うので私もまた元気に未来を願うのを日常にしたいです。わずかな希望でもあれば人は立ち上がることができると思うので何とかなるというそういう気持を取り戻したいです。夢を取り戻そうという気持ちがまた湧いてきてよかったです。私たちの友だちはみんな無事でしたが本当に被災地の障害者のことが心配です。人間の問題が突きつけられたので私も毎日そればかり考えてしまいます。問題をどうにかして乗り越えたいと思います。

 次は、20代の男性○○さんの言葉だ。
 
 少しの時間ですが聞いてもらいたいことがあります。なぜこんなに津波で人が亡くなってしまったの。不思議で不思議で仕方ありません。みんなのことがかわいそうで、僕はいつも泣いています。でももう少しのしんぼうですね。もう少しで被災地の希望を取り戻せそうです。でも私の家や私の子どもを返してという人たちの声は消えませんがいつかそういう人たちも希望を取り戻せると思いますからいつかそういう日が来ることを信じています。こんなに悲しいことがたくさんあったので私たちのように苦しみを経験してきた者はいつかこの経験を生かしてみんなの役に立てればと思いますが、まだまだ僕たちのことは理解されないので残念ですがもう少しのしんぼうですね。

 自分たちの苦しみの経験を役立てたいとの強い思いが胸をうつ。私はこの声を届けることさえできていない。無力感に感じずにはいられない。

2011年7月11日 08時46分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年07月10日(日)
東日本大震災に思う 5月1日
 静岡に住む高校生の少年のもとを久しぶりに訪れた。今回は、まず、手を添えて行う筆談の練習から試みた。簡単な言葉の練習をしてから、私の手を振る方法を通して、「僕の好きな言葉はなんでしょう」という問いを筆談の援助の練習をしているお母さんに出した。そして、彼が書いた言葉は感謝だった。お母さんにはうまくこの言葉は伝わったのだが、この言葉は、春の選抜高校野球の選手宣誓のなかから選んだと私に伝えて来たのである。やはり、彼もまた、この大きな災害をめぐって、様々な思索をめぐらせていたのだ。
 そして、パソコンでは以下のように綴った。

 いつのまにか理想が消えてしまいそうでしたが世の中の人がみんな黙ってなくて被災地のことを考えていい言葉をたくさん伝えようとしていてそれが理想を取り戻させてくれました。人間の理想をもう一度取り戻せてろうそくにまた明かりがともりました。私たちはいつも伝えられない苦しさを感じているので被災地の人たちの悲しさがよくわかりますから地震のことは頭から離れません。小さい時からよく悲しい出来事があると一緒に悲しんでいましたがこんなに大きな悲しみは初めてで理想をなくしそうになっていましたがようやくまた取り戻せました。

 
2011年7月10日 23時38分 | 記事へ |
| 東日本大震災 / 他の地域 |
東日本大震災に思う 4月30日
 震災の後、このグループとの関わり合いは2度目となる。みんなこのひと月の間、胸を痛め続けていた。 
 最初は高校生の○○さんの言葉。

 聞いてほしいことがあります。地震の後どうしてこんなに悲しいことが起こるのかと思ってきたけれどばらばらになった家族がまた一つになったり茫然としていた人がまた元気になったり私たちのように絶望から立ち上がるのを見てまた希望が湧いてきました。わずかの希望さえあれば人は生きてゆけるということが証明されました。わずかの希望であっても私たちが生きてゆけたように元気になった人の笑顔がとても救いです。わずかの希望があれば人は生きてゆけるので悩みや苦しみがあっても人は生きられるのですね。みんなの気持ちを聞いてみたいです。みんなの文章が見たいです。
小さな僕たちの意見ですがわかってもらいたいと思ってい益す。私たちの私たちらしさを伝えたいです。地震のいいところが生まれたような気がします。みんなはまた立ち上がれるということがわかりました。聞いてよかったです。理想をまた取り戻せそうです。日本の残酷な災害がまた平和への少しずつの望みとして私たちにも歴史は刻まれていくのですね。瑠璃色の光が射してきました。地震を乗り越えるためにがんばれそうです。理想を再び取り戻して生きていけそうです。理想はなかなかかなわないけれどいつかかなうと期待しながら生きていきたいと思います。悩みはなくなることはないけれど悩みを乗り越えてゆかなくては未来は開けないということがよくわかりました。分相応の人生をもう乗り越えて生きてゆかなくてはいけないと思いますからよろしくお願いします。なぜ人はつらいことがあっても美しい心をなくさないのか不思議だったけれどどうしてなのかがわかりました。それは地震でそうだったように私たちを認めてもらいたいという気持ちと似ていて希望があるからです。わずかの希望さえあればなんとか生きていけるということがわかったのでよかったです。


 次は、同じく高校生の◇◇さんの言葉。 理想は楽な生き方をすることですが私たちはなかなかわかってもらえないので私たちはつらい生き方をするしかないのですが津波でなくなった人のことを考えるとつらい人生を生きなくてもよかった人までがつらい人生を強いられて僕はかわいそうでなりません。なぜそんな残酷なことが起こるのかと考えていますがその答えは見つかりません。なぜなのかと考えているうちに一つわかったことがあります。それは僕たちの苦しみにも意味があるように被災者の苦しみにも意味があるということです。私たちの苦しみの意味はなかなか伝えられないけれど私たちはもっと世の中に私たちの生きている意味を伝えなければなりません。なかなかわかってもらえないけれど理想はもっと私たちの言葉を届けて世の中の人にもっと私たちの悶々とした思いを伝えていくことです。私たちの悶々とした思いは理想をなかなかかなえられないことですが私たちをもっと輝かせなければいけません。そんなことを考えているとまたわからなくなったのは人々がなぜ私たちのことをなかなか理解してくれないのかということです。なかなかわかってもらえなくて私たちはもうどうにでも慣れという思いにとらえられそうになります。だけど私たちはまだ諦めるわけにはいきません。私たちの言葉を世の中に届けるためにはどうすればいいのかわかりませんが理想はこうやって気持ちを伝えられると言うことを世の中が認めることです。どうしてなかなか理解されないのかわかりませんがもう少しの辛抱ですね。

 △△さんのも高校生だが、だが、彼は今回、被災地をテーマにした詩を作ってきた。



 地震の話からします。なかなか涙は乾きませんがようやくわずかな希望が出てきました。なかなか理解されないけれど涙を流すことよりも立ち上がる人々の勇気の方が目立つようになりました。部分的なことなのですが文明の危機だと思われるのはどうにもならない原子力です。わかったようなことばかり言う学者ばかりの割にはどうにもならないのが問題です。私たちは別に原子力がなくても生きていけると思うので早く他のエネルギーに転換すべきだと思います。私たちはもうすぐ爆発的に人口が増えたり何度も困難なことに出会うと思うので早く新しいエネルギーを何とかして見つけないと行けません。それが今日いちばん気になっていたことです。勇気づけられたことは理想をなくさずに人々が立ち上がっていることです。なぜなのかはわからないけれど人は立ち上がる強さを持っているのですね。人間はとても小さいけれど強いと言うことがよくわかりました。文明もそうやってどうにか続いてきたのですね。早く元の生活に戻れる日が来ることを待ち望んでいます。小さな希望という詩を作りました。

小さな希望の小さな勇気
わずかなわずかなぼくの目指す理想の光
どうしてなのかわからないが
わずかな夢はここまでみんなを引っ張ってきた
浜から吹く風は
夕焼けを浴びて美しい空を染める
みんなは家路を急ぐけれど
夕日はなかなか沈まない
私たちは夕日の輝きのように力強く
また立ち上がろう
たとえ失われた命は返らなくても
涙は乾かなくても
夕日はそんな悲しみをすべて包み込んで沈んでゆく
水平線の向こうには誰も知らない未来が待っている
その空の向こうには夜の暗闇が待っているが
涙はろうそくの明かりを何度も何度も映し出し
明るい光を照らし出す
そんな未来がある限り
人間はまた立ち上がる
意地悪な自然と向かい合いながら
よくわからない明日に向かって


 最後は、この4月から社会人になった☆☆さんの言葉だ。

 こんにちは。とても悲しい出来事が続いていて私はとても悩んでいます。忘れたくても忘れられません。小さい子どもや仲間たちが亡くなってつらかったです。小さい子どもたちを助けようとしても助けられなかった母さんたちの悲しさが伝わってきました。強く結ばれた絆が一瞬で断ち切られて悲しかったです。なぜなんだろうと私なりに考えてみましたがとても難しくてわかりませんが唯一の希望はみんながまた希望を胸にして立ち上がったことです。私はなかなか気持ちが言えなくて苦労してきたので苦しみについてたくさん考えてきましたがよくわからなくなってしまいましたがまるで私たちも津波の被害者のようなものなので私たちも希望を大切に生きていこうと気づきました。まだまだ悲しみは癒えませんが早くまた元の平和な世の中に戻ってほしいです。なかなか言う機会がなかったので言えてほっとしました。
2011年7月10日 13時46分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 4月29日
東日本大震災に思う 2011年4月29日
 視覚障害と知的障害の重複障害と呼ばれる○○さんは、1月前に続いkて、大震災をめぐる2度目の言葉を書いた。

 地震について書きます。とても大きな地震と津波が来てたくさんの人が亡くなりとても悲しいです。被害にあった人の中には小さい子どもも含まれていてそれが悲しかったです。どうしてなのかわからなかったけど唯一の救いは人々が涙を越えて立ち上がろうとしていることです。未来のために望みを失わないようにしていることですがなかなか僕たちのようにみんなから理解されなかった人間はその苦しみを理解できるのですが、地域の人たちはもう少しでわずかなずんずんとこみ上げてくる悲しみを耐えることのやり方を知らないと教えてあげたいです。悩みは乗り越えられるということを僕たちは知っていますから。絶対に悩みは消えていくと言うことを知っているのでわかってほしいです。小さいときからとてもぬいぐるみのようで困っていましたが。ようやく悩みを話せるようになったのでとてもうれしいです。苦心して覚えた悶々とした気持ちの伝え方は悶々とした気持ちだけではなくて喜びの気持ちを伝えるための方法でもあるのでこの方法が伝わるように地域の人とまた喜びを伝え会えるようになれればと願っています。なぜこんなに苦しみが続くのか僕たちにはよくわかりますのでみんなも大丈夫です。僕たちはそういうことには慣れていますからよくわかります。悩みは必ず取り除かれると言うことを理解していますのでよろしく心をどんな煩悩に平安を乱されても気持を静かにしていれば必ずわずかな希望であっても持っていれば必ず越えていければどうにかなるのだということを伝えたいです。

 また、同じく☆☆さんも震災について2度目の言葉を書いた。

 日本中の人が地震のことで困っているというのになぜ私たちは何もできないのだろうと考えてしまいます。悩みを聞いてあげることもできないし悩みを解決することもできないで本当に困っています。犠牲者の中に車いすの人もいたということを聞きましたが本当に残酷な話ですね。小さくてもいいから希望の火がほしいです。みんなも今度のことでよい心が育ってきたのでぜひ私たちにも明るい光が射してくることが願いです。

2011年7月10日 13時39分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) / 東日本大震災 |
2011年05月16日(月)
大震災をめぐる言葉 4月25日その3
 4月25日の文章の中で、わかそよに参加する3人の言葉をまとめて紹介したい。この言葉は、何らかのかたちで、わかそよの当日、参加者にお伝えしたいと考えている。

 映画にも出演し、わかそよでは一昨年はミュージカルで準主役も経験した○○さんの言葉。もちろん今年もミュージカルに参加する。
 
 津波はなぜ私たちの大事な世の中を壊してしまったのでしょうか。早く元ののどかな世界に戻ってほしいです。分相応の生き方ではいやですが行き過ぎた生活はよくないと言うことがよくわかりました。なぜ人はどんな大変な状況でも挑戦を続けられるのでしょうか。みんなも同じですが私たちは私たちを表現することにも困難を抱えているので勇気を出さないと生きていけませんがそれは被災地の人の置かれた状況と同じです。私たちのことなど誰も振り返らないけれど私たちもまた被災者のようなものなのかもしれません。地震で色々なことを考えましたがもし私たちの言葉を世の中の人が聞いてくれるならもっと私たちはいい暮らしができるでしょう。なるべく世の中の人たちに伝えてください。名前もないようなものですが勇気を出して言っていきたいです。

 3年前は、観客席から、1昨年はステージ上で参加した◇◇さんは、「野に咲く花のように」の作詞者。津波について次のような言葉と詩を書いた。なお彼女のご両親は福島県の出身である。

 残念なことがあります。原発の事故がありました。福島がとてもつらい状況です。でもみんな大丈夫だから安心しました。避難はしなくてもよいということですが、福島全体がつらいです。原発があるからテレビで毎日やっていて私はとても心配しています。原発で働いている人々のことが心配です。被害にあっているのに毎日働いているのはかわいそうでたまりません。家もなくなって家族もいなくなってつらいと思います。どうしてつらいのにはたらいて。いえないのでしょうか。自分たちがやらなければいけないと思って毎日のぞんでいるのでしょうか。自分のことよりも原発を安定させるためにやってくださっているのだと思います。福島の人々を守るために頑張っておられるのだと思います。私は何もできないけれど祈って暮らしていますので人間がやるしかないので、みんなで考えて乗り越えていきましょう。少しずつでもいいから前に進んでいきましょう。それを言いたかったので今日は来ましたので、つらい今の状況をみんなと話し合いたいと思います。
 米のことを言っていましたね。つらいけどみんなで考えていきましょう。避難した人が疲れて倒れてしまわないうちに何とかなる方法を考えていかないと疲れて倒れてしまうからつらいです。
 
 津波の意味
私は勇気をもらおう
黙ったままで生きてきて何もわからないと言われてきたけれど
私もまた本当の希望の意味を知っている
黙ったままで理解されず小さな胸を痛めてきたけれど 私は理想を忘れない
悩み苦しむ私の姿を何度奮い立たせてきたことだろう
わかってほしい 私たちもまた被災者のように生きているということを
わかってほしい 私たちは黙々と希望を紡いでいるということを
小さな光かさしている ランプの明かりがともっている
人生は本当に残酷な試練を私たちに課すけれど
また私たちは立ち上がる
涙を越えてもう一度


 ☆☆さんも1昨年に引き続いての参加となる。彼女の言葉がわかそよで紹介されるのは、今回が初めてとなる。

 なぜなのだろう。津波であんなにたくさんの人が亡くなったのは理解することができない。涙ばかり流しています。万能な機械があれば人々をもっと助けられたのにみんながかわいそうでした。涙を流してばかりでなく人々の勇気にもすごく感動しました。地域で生きていくことの意味をまた考えさせられました。敏感な人たちが集まっている地域では私たちを本当の人間として受け入れてくれるだろうと思いました。誰でも支え合えれば生きていけると思いましたがなかなか難しいのでしょうか。もう少し私たちを認めてくれる世の中でないと難しいのでしょうか。名前も知られずに亡くなった人たちのように私たちもまた忘れられた存在です。望みは人間として私たちを認めてほしいということです。勇気を出して私たちも訴えていきたいです。わずかな希望でも人は生きていけることがわかりましたから私たちもがんばれると思いました。だから涙を流していただけではありません。涙と共に希望も感じていました。
 茫然としていましたがそろそろ立ち上がろうと思います。ゆゆしきことは原発です。理想のエネルギーと言われていたのに悪魔のエネルギーになってしまいました。ぞっとしています。なぜあんなにもろかったのでしょうか。何度となくみんなが考えを巡らしてきたのに残念です。地域の人たちがばらばらに避難させられて残念です。同じ地域の人は茫然としているでしょう。みんなが引き裂かれて。
2011年5月16日 07時20分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 青年学級 / 東日本大震災 |
大震災をめぐる言葉 4月25日その2
 小学生の○○君は、新学期の様子を、いい先生にまた担任をしてもらえた喜びとともに語ったあと、次のように語った。

 なぜ、どうしてという疑問が今僕を包んでいます。理想を見失いそうですが忘れられないのは人を助けようとして亡くなった人のことです。理解できないのは理想を大事にしている人が亡くなったことです。未来の日本はそういう人を大事にできることが肝心だと思うのですがどうしてそういう人まで亡くなるのかが理解できません。でも泣きながらでも地震と津波から立ち上がろうとする人を見ていたらわずかな希望を感じました。どんなにつらくても人間は生きる希望を失わないことが唯一の救いでした。私の未来という詩を聞いてください。

理想を掲げて僕は生きる
だけど理想はかなわないこともあることを
僕は地震で思い知らされた
なぜそんなに自然は残酷なのか
僕にはわからないけれど
なぜなのかということはわからなくても
わかっていることは未来は理想をなくしては絶対に作れないということだ
だから人は立ち上がる
悲しみを越えて立ち上がる
涙はかわくことはないけれど
必ず人は立ちあがる
涙を越えて立ち上がる
僕たちも残酷な自然のせいで障害を持っているけれど
僕たちもまた立ち上がる
どんな理不尽な自然であっても
僕たちもまた立ち上がる
未来のために立ち上がる
けして理想を失わず。

 なぜなのかわからなくても唯一の望みは勇気を人が失わないことです。なぜなのかはわからなくても勇気さえあれば人は生きていくことができますから。まことの勇気さえあればわずかな希望さえあれば生きていけますから。分相応はいやですが人間は分を少し忘れてしまったのかもしれません。でも長い時間がかかっても必ず人はまた前のような社会を作れるでしょう。だからもう少しの辛抱だと思います。でも新しい社会は僕たちを認める社会として再生してほしいです。


 語られる思いに、年齢はあまり関係ない。みんな等しく、胸を痛め、徹底的に考え抜いていることがひしひしと伝わってきた。
2011年5月16日 07時13分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
大震災をめぐる言葉 4月25日その1
 今年4月から社会人になった○○君と震災後初めてあった。彼もまた、この一月半の間、心を痛めていた。

 地震でたくさんの人たちが亡くなったことがとても悲しくてなぜそんなことが起こったのかと考えているうちに頑張る気持ちがなくなりそうになってしまいそうでしたが勇気が出たのはわずかな希望でも人々が立ち上がることができるという事実を目にしたからです。人間はどうしてそんなに強いのかと大変不思議な気持ちになりましたが僕たちのことを考えると僕たちの障害も理不尽なものだけど小さい希望さえあれば生きていけるのは同じだということに気付きました。わずかな希望しかなくても人は生きていけるのはなぜなのかなるべくよい私たちらしい答えを出したいけれどまだいい答えが見つかりません。だけどなぜかはわからないけれど勇気がなくなると人は生きていけないことだけは確かだと思いました。なぜかはわからないけれどなかなか忘れられないのは他の人を助けようとして亡くなった人のことです。なぜそんなことをどうしてそんなことがと考えてみても全く答えが見つかりません。わずかな隙間を縫うようにして光が射すのは未来のことです。被災地の人がみんなで力を合わせていい空の下でどんな世界を作るのかとても楽しみです。でもなかなかそううまくいかないのが原発です。未来のことですが原発に頼らないでご飯も炊けてお掃除もできて冷暖房も使える世の中が来ればいいなと思いますがとてもむずかしい問題ですね。ぼくにはよくわからないけれどすぐれた科学者が本気で考えれば簡単だと思います。だからそういう議論が速くされるようになることが僕の願いです。でもまだまだ原発も安心できない状態だからまだまだ先のことになりそうですね。

 ここで私たちの仲間が、1歳10ヶ月を過ぎた赤ちゃんをつれてやってきた。

 よいところでSくん(1歳のお子さん)がきました。Sくんが心の大きな人になれるよう僕は詩を作りました。聞いてください。

時間に流れがあるように
心にも遠く流れてたどり着く流れのあることを
僕たちは知っている
流れはこんなにゆっくりだけど
流れは確かに動いている
流れを動かしているものはよい心と美しい心だ
人間としての未来は流れの向きで決まってくる
流れはいつもゆるやかだけど
流れはけして戻せはしない
どこか遠くの悪い方へ連れて行かれることもある
だから心を遠くまでいい向きのまま進めていき
もう少しの僕たちの行き先に
小さな心をつないでほしい
僕たちが目ざしている場所は
理想のかなう夢の楽園
そこに向かって心の流れを望み通りによい向きに
よいどんな世界が待っているか
期待しながら夢見ていこう
でも存分にろうそくの光は射している
どんな暗闇だって怖くない
人間としての誇りを忘れず
未来に向きを合わせていこう

2011年5月16日 06時56分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
2011年05月15日(日)
わかそよの練習の日 大震災について
 両親も亡くなり、施設で暮らすKさんと、わかそよの練習会場で出会った。私が最初に歌を聞き取るやりかたを発見したのは、1昨年のことだった。そして、1昨年のわかそよでは、Kさんの歌をミュージカルの中で歌うこともできた。そのKさんに、パソコンとスイッチを向けてみた。すると、すぐに彼女はこう綴った。

いつも穏やかだった海が突然牙をむいて理想をすべて打ち砕いた。
私は私の大切な生きる意味を失いそうになってしまったけれど
人々の立ち上がる姿に勇気づけられた。
なぜだろう、人は理想を打ち砕かれても再び立ち上がることができる。
人間はなぜそんなに強いのか。
私もこんな体で自分の気持ちさえうまく伝えることもできないけれど
私も勇気を持ってまた立ち上がっていこう。
冒険をまた始めよう。


 この詩を綴っている間、Nさんが私のすぐ後ろで私たちを見守っていた。そして、綴り終えると、私の服をひっぱった。話を伝えやすくするためにあえて記すが、Tさんは、発話の困難なダウン症の方だ。いつももの静かな彼が、これだけ積極的に何かを伝えてくるのは言いたいことがある時だ。そして、彼は、一篇の詩を綴った。

津波よ
なぜおまえはすべてを奪っていったのか
忘れられないのは
悲しみに泣き叫ぶ人の声
忘れられないのは
子どもを亡くした母さんの泣き声
なぜおまえはそんなに残酷なのか
わずかの希望は
どんな苦しみの中からでも人は立ち上がるということ
もしぼくにも力があったら
どんなことでもしてあげたい
もしぼくに声が出せたなら
理想を声高く叫びたい
ぼくの障害も
津波のようになんでかという理由はわからないものだけど
ぼくも立ち上がろう
津波に負けない人間として


 KさんとNさんの言葉は、わかそよのステージで、朗読の得意な仲間によって読み上げられる。
2011年5月15日 07時08分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
2011年05月02日(月)
再び自然をこの手に従えてたくましく立ち上がろう
 5人の言葉の後半の3人の言葉を紹介したい。
 一人目は、30近い男性の言葉。

 いい時節になったのにぼくはとても悲しいです。理想的な世界がようやく近づいてきそうだったのに大変な地震でもうどうしたらいいのかわからなくなりました。私たちはどうすればいいのでしょうか。世界がひっくり返るとはこのことです。唯一の希望は私たちのような余分な存在でも何とか希望があれば生きていけるように私たちは人間だからずっとわずかばかりの希望さえあれば生きていけるのです。人間としてそういう光を信じて生きていくことが唯一の救いだと思いますから光を大切にしたいです。わずかな光と光さえ失わなければきっと雪のような白くて清らかな未来が開けてくるでしょう。深い闇が日本中を覆っているけれど深い闇もよい光で満たされる日が来るでしょう。名前さえない残された私たちは私たちにしかわからない苦しみを背負ってきたので私たちらしくこの苦しみの意味を伝えられたらと思います。
 でもいつまで待てば僕たちの力が発揮できるのでしょうか。分相応の生き方はまだまだ未来を切り開いてくれないけれどもうごめんです、人間扱いされないのは。未来を切り開きたいです、早く。でも今はまず地震で途方に暮れている人が先かもしれません。でも未来はいつかもっと私たちにとってよいものになってほしいです。わずかな希望がありさえすれば僕たちは大丈夫です。ぶつかりあっている政治家はよい政治をできるよう頑張ってほしいです。
 
地震とは何度となく人を不意打ちにしてきたけれど 
人はいつも立ち上がってきた
ぶるぶるふるえながら 
人間の弱さをかみしめながら
理解できない苦しみも何度も乗り越えて 
人は生き続けてきた
分相応で生きていれば自然に復讐されることもなかっただろう
しかし自然に任せていただけでは人は幸せをつかめないだろう
なぜならこのぼくの障害も自然が与えたもの
自然にただ任せていたならば僕は生きることさえかなわなかった
自然と闘い続けながら 
時には自然に復讐されながら
ぼくはたくましく生きようと思う
だから地震で傷ついた人たちも 
また望みを手に 
再び自然をこの手に従えて 
たくましく立ち上がろう
小さなぼくさえ自然と闘い続けてきたのだから 小さな人だって必ず闘い続けていけるだろう
懐かしい町並みをもう一度取り返して 勝ちどきを上げて
また夜の闇に明かりを灯し 賑やかな笑いを取り戻そう。


 みずからの障害と重ね合わせることによって、どんなに自然から復讐されようとも自然と闘い続けていかなければならないという彼の独特の認識が鮮烈だった。
 次は20代後半の女性の言葉だ。

 聞いてほしいことがあります。地震があってとてもたくさんの人が亡くなって私はつらいです。勇気をなくしてしまいそうでした。みんなどうして煩悩のない若い子どもまで亡くならなければならなかったのでしょうか。私はなぜだろうと考えて人間の生きる意味がわからなくなりそうでした。びっくりしたのはそれでもみんなが希望を失わなかったことです。なぜそんなに人間は強いのだろうとよくよく考えているうちに私の障害と同じだということに気づきました。不思議でしたが私たちも障害があるのに生きていけるのだから被災地の人も生きていけるのだなと思いました。文明の反映と滅亡というと少し大げさですがそんなことも考えました。未来はもっといい世の中が来ると漠然と考えていましたが悩みながら過ごしています。未来はきちんと作っていかないと来ないのだという気持ちがしてきました。未来を作るために私たちは立ち上がる必要があります。小さいのは何でもないけれど大きいのはさすがに困ります。

  森の精
ランプの灯りが消えてしまうかも
すべのない悶々とした夢のような理想の国を探し求めて
私は野原をさまよいながら
雪帽子をかぶった森の精に願いをかけよう
雪帽子をかぶった森の精は目をつぶったまま 
ずっと黙したまま理想を何とかかなえようと
夜の闇を乗り越えて 
日差しが氷を溶かしてくれるのを待っている
自分だけの幸せではなくて 
すべての世界の人の幸せを願っていきたいと思いつつ
無難な森のぼんぼりを取り除いて 
ほんとうの森を探しに行こう
よい知らせが私に届き 
私は森の精にろうそくの灯りをもらって 
暗い森の中を歩き出す
わずかな希望だけを胸に携えて


 後半の詩は、地震に触発されて書いた詩である。絶望の夜を何とか越えていきたいという気持が痛いほど伝わってくる詩だった。
 最後は、20代後半の女性の言葉である。障害のある仲間たちがどう生きているのかを気づかった言葉である。

 みんな地震のこと書いているので書いていいですか。言いようのない自然の恐ろしさが生きる希望の気配を流し素朴な尽くせぬ日常すべてを対岸に流してしまいました。してはいけないことが増えて日本中が静まってしまっています。危機に遭遇したとき友たちはどんな思いでいたのか知りたいです。罪深い世間の中で障害者の仲間たちはくじけそうになっていないか心配です。みな考えていますね。生きていくすべが流された今立ち上がることの大切さを改めて感じています。違いはあっても違いを生かした立ち上がり方を探していきましょう。仲間にも伝えてください。一人一人が抱えた立場で支えていきたいと思います。 
2011年5月2日 15時08分 | 記事へ |
| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
わずかな希望さえあれば人は生きてゆける!
 ある会で、震災をめぐる5人の方々の気持ちを聞いた。まず、そのうちの二人を紹介する。
 最初の言葉は、特別支援学校の高校生の女の子の言葉だ。震災から一月以上が経過して、悲しい気持ちの中に確実に希望が力強く見えてきていることがわかる。

 地震があったので私はとても悲しい気持ちでいっぱいですがなかなか涙も出てきません。いちばんつらかったのは犠牲者の中に子どもがたくさんいたことですがなぜあんなにたくさんの子どもが亡くならなくてはいけないのかいくら考えても理解できませんでした。犠牲になった子どもたちがかわいそうでした。優しい母さんたちもたくさん亡くなったのも悲しかったです。唯一の救いは理想を失わずにみんながもう一度立ち上がろうとしていることです。私たちは自分たちに障害が体にあって苦労してきたのでなぜ人は苦しまなければならないかよくわかっていたつもりでしたがまた理解できなくなりそうでしたが、まだまだみんな頑張っているのでろうそくの明かりは何とか消えなくてすんでいます。

 二人目は、学校を卒業して2年目になる若者の言葉。 

 いい季節がせっかく来たのにまったく悲惨な今回の地震で心が痛んでいます。僕たちの理想はこの世界から苦しみがなくなることなのでとても困っています。小さい子どもやかわいい小学生まで亡くなったのが理解できません。小さい子どもを救えなかった人の気持ちを考えると胸がつぶれそうです。勇気をなくしそうでした。 唯一の救いはわずかであっても人々がもう一度立ち上がろうとしていることです。人間はすごいなと思いました。もう少しで生きる希望をなくしてしまうところでしたからわずかな希望が見つかってよかったです。僕には体に障害があるのでわずかな希望さえあればずっと忍耐できるということがわかっているので勇気をまたもらいました。もう少しの辛抱だと思います。武器は勇気です。人間強い生き物だということを僕たちが一番力強く証明していますから。

 彼の力強い表現に、思わず、このままテレビの公共広告機構のCMになりそうだねと言ったら、次のように返ってきた。

 そうですね。「わずかな希望さえあれば人は生きてゆける」と言ってテレビで訴えたいです。仲間はみんな同じ気持ちだと思いますが確かに語り口が違うのかもしれませんね。そうです。僕たちは望んで障害を持ったわけではないからよくわかります。ご覧なさい僕たちをと言いたいです。僕たちも生きていられるのだからみんな大丈夫だといいです。

 彼はまた小さい頃からの相撲ファンでもあり、震災前からのごたごたについて意見を持っていた。


 相撲のことです。何ということなんだろうと怒っています。人間として恥ずかしいと思いますがぼくはきっと色々な事情があるのだと思いますからまたいい相撲がもう一度見られることを疑ってはいません。どうしてなのかはわからないけれどわずかな望みさえあれば相撲も大丈夫です。そうです。すぐに立ち直れると思います。ぶつぶつ言っている小賢しい大人はみんな間違っています。望みさえあれば何でも切り開くことができるでしょう。そうです。私たちはいつもそうやって生きてきましたから。

 そして最後に「ブロンズの塔」という詩を書いた。

「ブロンズの塔」という詩を聞いてください。

ブロンズの楡の花を模した塔
それを私は望みながら いつか僕にもそんな像が作れるような気がした
願いはノンストップの風の中で砕け散りそうになっているけれど
望みはブロンズの像のように風にも揺るがずに立っている
願いを刻んだブロンズに きょうも私は夢を託す
2011年5月2日 14時57分 | 記事へ |
| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
2011年04月24日(日)
震災についてのある中学生の思い
 まだ、関わり初めて間もない少年の言葉を聞いた。今回2度目だが、1度目はまだ、震災の前だった。
 そして、2度目の文章は、震災の話題が中心となった。

 ぼくはとても悲しんでいることがあります。日本中が悲しんでいることですがなぜたくさんの人が亡くならなければならなかったのでしょうか。ばらばらになった家族や逃げるときに人を助けようとした人が亡くなったりしてあまりにも理不尽な仕打ちだと思いますがどう考えても答えは出てきません。なかなかみんなと笑顔で話し合う気持ちになれなくて困っています。なかなか希望が湧いてきませんでしたがなぜかと考えている内に一つ発見したことがありました。それは小さいことですが小さくても大事なことだと思っていますが伝統的な日本人はそう考えてきたみたいです。美の追究と似ているのかもしれませんが小さいけれど人間には存分に生きさえすればどうなるかは天に任せるという考えです。
 小さいことだけど今のところそれしか理解する方法が考えられません。小さいけれど大事にしたい考えです。なぜだろうと考えているうちにまた泣き出しそうになりました。小さいことだけど何かの勉強には鳴ると思います。小さいけれど何度も考えた結果の答えですのでよい考えかどうかはわかりませんが書いてみました。先生はどう思いますか。


 ここで、彼の言う伝統的とは何のことなのかを尋ねてみた。

 伝統的だと思った理由は何かのことわざで聞いたからです。

 そこで、「人事を尽くして天命を待て」ということわざのことだねと答えてみた。すると答えに続いて、文章が続けられた。

 そうです。それです。未来をあれこれ思い煩うなと言うことだとずっと思ってきながら考えた言葉です。ぼくたちは理不尽な障害と闘ってきたのでいつもそういうことを考えてきましたからよくわかります。
 小さいときから考えてきましたから。名前は忘れましたが人間はなんとちっぽけな存在かという言葉を読んだことがありました。わずかなわずかな希望だけどそういうものがあれば人は生きていけると言うこともぼくたちは知っています。長い障害との闘いの中で見いだしたことです。人間の生きる意味をいつも考えているので今度の出来事には本当に考えさせられました。かあさんもそういうふうに言っていましたね。母さんもずっと悲しんでいますから。夕べも一人で泣いていましたね。ぼくはまだ寝ていませんでしたからよくわかりました。小さいときから母さんは小さいことにも感動してきたので今度の災害はつらかったですよね。


  
2011年4月24日 22時32分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2011年04月15日(金)
大震災をめぐって 重複障害教育研究所において
 明日で大地震と大津波から一月になるという日、重複障害教育研究所に通ってきた3人の方と、東日本大震災について話をした。
 最初は、20代後半の女性○○さん。彼女のお父さんは福島県の事故を起こした原子力発電所のすぐそばの町の出身で、生家は津波の被害はまぬがれたものの、駅を含めた町並みがそっくり津波でなくなったとのこと。お父さんの弟さんは何とか無事だったというが、全町あげての避難指示区域にはっているため、現在は避難所暮らしをしているらしい。

 ところで地震の話を聞いてください。みんな悪いことなど何もしていないのになぜ亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。小さいときからお父さんに連れられていった町がなくなったことがとても悲しいですが何とか亡くならずにおじさんが元気な声を聞かせてくれたのがせめてもの救いでした。なかなか避難先から戻れない便利さの失われた生活をしているので大変ですが満足のいく生活を過ごせるようになることが願いです。ごやっかいになっていることにとても悪いと思っているようなのでとても心配です。早く家に帰ることができたらと思いますが原発はなかなか放射能がなくならないみたいなので迷惑だと思いますがとても澱んだ空気を体に浴びると大変なので日本中が心配していますが。誰を責めるわけにも行かないので仕方ありません。銀色のドームが爆発するのが怖いですがなるべくそういうことが起こらないことが願いです。日本中の人がどうなるかを見守っていますから都合よく解決してほしいです。
 亡くなった人の中にまだ小さい子どももいたのがつらかったです。なぜ小さい子どもまで犠牲にならなくてはならないのかとても理解できませんがどうにかしてそういう子どもの魂がわずかであっても救われたらと思います。人間はちっぽけな存在だということを思い知らされた出来事でしたがつくづく世の中ははかないとおもいました。わずかな希望は私たちのような障害のある人間だけは苦しみの意味を知っているのでその経験が何かの支えになればと思います。何とかして私たちの思いを伝えたいですがむずかしいでしょうか。
 理想は私たちの声を被災地に届けることですが寝ずに考えてもいい方法は浮かびませんでした。小さい声ですが私たちの声も届けられたらと思いますが何とかなりませんか。日本のろうそくになれたらなどと大きなことも考えました。わずかなあかりでも何かの役に立てたらと思いました。私の言いたかったことは以上です。


 この後、○○さんより3歳くらい年下の女性、◇◇さんに交代するが、その合間に二人の会話を援助した。手を振る方法による援助だったため、記録もないが、地震の話も含めて、いろいろな話に花が咲いた。そして、◇◇さんの番になる。

 地震について話します。ランプの明かりが消えそうな思い出生きていました。なぜこんなに悲しいことが起こるのか本当に不思議でしたが魔法のようにすべてがなかったらいいなと何度も思いました。 唯一の救いは私たちにも希望があるように被災地の人たちにも希望があるということです。みんな何もかもなくしてもまだ希望があるということが救いです。未来を切り開きたいので私たちはもっと大きな声で本当のことが言いたいです。私たちのような存在でも未来があるようにどんな状況にあっても人は希望を失わないということです。びっくりしました○○○いさんも同じように地震のことを考えていたということに。みんな同じ気持ちなのですね。疑問は解決しないけれどよい会話ができて気持ちを整理することができました。
 

 3人目は、20代前半の男性▽▽さんである。彼は、現在施設に入所しているが、地震以降、気持ちの高ぶりのために出てしまった大きな声でのどがかれてしまったらしい。
 
 ぼくは地震が起こってからずっと地震と津波のことばかり考えていました。でも、あんなにたくさんの人々が亡くならなくてはいけなかったのかがよくわかりませんが、何か大きな意味あると思うのですが、そういうことを言うと被災地の人に悪いのでもう少しそういう言い方は避けようと思いますが、なかなかそういう気持ちがなくならないので、いつも悩んでいます。何か大きな意味があるなら、乗り越えられると思うのですが何も意味がないならどうしようもなく空しいだけだと思うのです。でも何か大きな意味があるのなら、それがわかれば乗り越えられると思うのですが、なかなかその意味がわからなくて困っています。でもこうして話せて少し落ち着きました。
◇◇さんも同じように地震と津波の話をしたのですか。どういう話ですか。(◇◇さんの文章を伝える。)
 ぼくもそういうことも考えました。ぼくの言いたいことは、ぼくたちはずっと苦しんできたのでよく被災地の人たちの苦しみがわかりますが、そんなにわかるわけでもないので、それは言いませんでしたが、同じように考えていました。でもそれはまだ言葉に出せないよう思っています。まだ、みんな悲しみの中にいるのでそういうことは言えません。でもみんな同じように地震や津波のことを考えていたとは思いませんでした。まさか同じように考えている人がいるとは思いませんでした。ぼくたちは理不尽な障害を持って生まれてきたのでその理不尽なところが共通です。


 今、こういうことを言うのは被災地の方には悪いという彼の気持ちにしたがえば削除すべき部分もあるかもしれないが、きちんと書かれた思いなので、決して誤解を生むこともないと思ったので、そのまま掲載した。
2011年4月15日 23時10分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年04月10日(日)
大震災をめぐる3人の思い 桜の満開の日
 あの大地震と大津波からもうすぐ一月となる。例年より遅れ気味の桜も満開を迎えたが、今年の桜は特別な色合いを帯びた桜のように見える。
 3人のメンバーの会で、それぞれが、大震災への思いを語った。
 最初は、社会人3年目の男性○○さんである。

 日本が地震で大変なことになってしまった。大きな地震と津波でたくさんの人が亡くなったのでとても悲しいです。なぜあんなにたくさんの人が亡くなったのかわからなくて毎日悩んでいます。人間だからみんな自分だけでなく他の人のことも考えていると思うのでみんな混乱しています。ぼくも唯一の希望がなくなりそうな気がしています。人間に生きる意味がないと僕たちはどうしたらいいかわからなくなるからです。勇気を出そうにもなかなか感情がこみ上げてきません。小さな子どもまで亡くなって人間としてどう自分はとらえたらいいのかわからなくなりますがみんなもきっと同じ感じなのでしょうね。みんなもきっと悩んでいるの(でしょうね)。

 ここで、気持ちが高ぶって立ち上がって彼に、気持ちを尋ねるとみんなの気持ちが聞きたいということだった。みんなとは私たちのことだ。問い返されてもきちんとした答えを持ち得ているわけではない私は、つまりながらも、自分の考えを述べた。私の考えは、決して胸をはって言えるものではないが、ただただこの残酷な事実が現実であり、こうした出来事を何度も繰り返しながら人々はまた立ち上がって生きてきたという考えである。おそらくどのように語ってもどれが正解というものはないのではないかと私は思っている。ここで、○○さんに、同じ状況にある仲間の震災に関する文章をいくつか紹介した。涙を懸命にこらえるような表情で○○君はそれらを聞いていたが、その後、次のように書いた。

 疑問は解けないけれどわかり合える仲間がこんなにもいてよかったです。人間の生きる意味はわかりにくいけれど僕も考え続けます。人間の生きる意味もわからないけどびっくりしたのは(みんないろいろかんがえていることです)。
 ぜひぼくたちの考えを伝えてください。名前もないような存在だけどみんな挽回する時期だと考えたらいいということがわかりました。よかったです言いたいことが言えて。夢のようですぼくの気持ちがすらすら言えて。みんなにもぜひ伝えてください。がんばりたいと思います。別に理解されなくても勇気さえあれば大丈夫です。だから自分は大丈夫ですがわずかな希望がみんなにも感じられることが願いです。よい子が元気に生きられることが願いです。ありがとうございました。


 次は社会人2年目の男性◇◇さんである。最近の特に落ち着かない様子だということをご両親がおっしゃっていたが、彼もまた、いきなり、震災の話から始まった。

 僕は今度の地震と津波で若い人も年老いた人も子どもも亡くなったのがとてもつらいです。
苦しかったのはみんなのことが理解できないからです。
僕たちはいつも理不尽な苦しみをかかえているけれど、みんなも同じ理不尽な苦しみをかかえてしまうのがとてもつらいです。僕の言いたいことはいつもみんなのことです。昔からぼくはよくわからないけれど少しだけ苦労の意味をわかっていたので、ぼくはみんなのことが少しわかります。でもできるだけみんなのことをわかりたかったので、今度のことでわからなくなってしまいました。なぜ、あんなにたくさんの人が死ななければならなかったのでしょうか。ぼくにはわかりません。何か意味があるのならそれが知りたいです。むずかいしでしょう。苦しいでしょうがぼくもまた考えてみます。みんなことを言えてよかったです。みんなとは、亡くなった人や被害を受けた人です。
僕はずっと気になっていたので、それを言えてよかったです。わかってくれる人がいないので言えてよかったです。わかってくれてうれしいです。
死ぬか生きるかという気持ちになりそうでしたが、安心しました。苦しかったけれどよかったです。
 堅かった◇◇さんの表情は、少しずつ和らいでいった。言えないままにたまった思いは、今回は、まさに彼を押しつぶしてしまいそうだったのだということがよくわかった。
 3人目は、小学生の男子▽▽君である。

 言いたいことがあります 僕はなぜ地震で優しい人や朗らかな人が亡くならなければならないのかがわかりません。小さいことだけど勇気がなくなりそうでした。わかってもらいたいのは未曾有という被害でも人は生きていかなくてはいけないということです。ずっとそのことを考えています。理想はわずかな希望を持ちさえすれば人間は生きていけるということです。なぜなのかはわからないけれどもう少しで生きる意味がわからなくなるところでした。なぜかはわからないけれど理想をなくしてしまいそうでした。未来をなくしてしまいそうでしたが未来を信じて頑張ろうと思います。楽な生き方をしようとは思わないけれどぼくたちのような障害者はわかってもらえない苦しみからのがれられないので勇気が必要なのですがそれが被災した人たちの置かれた状況と相通じるところだと思います。泣かないでというのは無理だけど僕には理想があるので未来に向かって力強く生きていきたいと思います。小さい頃からの疑問でしたがなぜ僕たちが生きているのかがようやくわかりました。ぼくたちはみんなのことを理解するために生きているということだったということなのですね。よくわかりました。なぜぼくたちが生きているのか。理想の中にまた一つ理想が増えました。わずかな未来でもずっと目ざし続ければ必ず未来が開けるということがわかりました。

 銀色の未来という詩を聞いてください。

銀色の未来の小さなわずかな昔の光だったけれど
今銀色の未来の光は大きな光となってぼくを照らす
勇気さえあれば理想は遠くの勇気を集めて
じっと勇気は強くなる
強くなった勇気は未来をさらに明るく照らすだろう
自分の小さな未来だけではなく
人々の未来をも照らすだろう
勇気を持って生きることこそ未来を切り開く鍵だ
泣き明かした夜も 泣きはらしたまぶたも 
ともによい心の表れとして未来への糧としよう
涙はそんなに長くは水分としては残らない
ゆくあてのない煙と鳴って空に消えていくだろう
みんなを望みのデモンストレーションで飾ろう
なすすべもなく未来を恨むよりもなすべきことを見つめていこう
理想はわずかな勇気さえあれば再び力を取り戻すだろう
よい未来のために強い勇気で頑張ろう
未来は銀色に輝いているはずだから


 もちろんこの詩の背景には、この大震災があることはまちがいない。
2011年4月10日 08時51分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2011年04月03日(日)
大震災をめぐる4人の少年の思い
 大震災をめぐる4人の少年の思いを聞いた。

 ○○君は、この4月から社会人になった。何かを強く言いたいというように大きな声を出しながら部屋にはいってきた。

 人間は備えが必要だと言うことがよくわかりました。備えていないと何もできなくなってしまうのですね。夢のような一月でした。何が何だかわからなくなりそうです。夢ならさてほしいと何度も願っていますがわざと夢を長引かせているわけではなさそうなのでまさしくこれが現実なのだと思い知らされています。敏感な人はランプの明かりが消えそうになっているのではないでしょうか。わざわざむずかしく考えることもないとは思いますがわずかな希望は地震のあとろうそくのあかりをともそうとして日本中の人がわざわざよい心をたくさん被災地の人々に寄せようとしていることです。勇気づけられる人もたくさんいると思いますが勇気だけでは悲しみは乗り越えられないと思うのでつらいです。ぼくたちはわかってくれない悲しみを知っていますがみんなそれと必死に戦っています。わかってくれなくてもしかたないとあきらめている仲間もたくさんいるので未来を切り開くためにはあきらめないことが大切だということがわかっています。わざわざみんなに届けることはむずかしいですがなるべくあきらめないようにしてほしいです。よい未来が被災地にも訪れることを望んでいますが長い時間がかかりそうですね。わかってもらうのに長い時間がかかるのと同じです。
わずかな仲間しかいないけれど何とかしてぼくたちのことをどうにかして世の中に認めさせたいのでがんばりたいです。悩んでいても未来が開けてこないのは何でも同じですね。悩むよりも行動だということもこの災害から教わりましたが勇気はやっぱり必要ですね。わずかな勇気でもあればあきらめと戦えますから運命という考えはなるべく使いたくないけれど今回はそれを強く感じます。
小さい時から何か出来事が起こるたびにいろいろ考えてきましたが夢のようです。それを言うことができて。何でもぼくたちは理解しているのにそれが伝えられなくて残念です。人間として言いたいことがたくさんあるのに言えないのは苦しいので早くこういうやり方を世の中に伝えてほしいです。ろうそくのあかりがともる日を夢みつつぼくも社会人としてがんばりたいと思います。わずかなものかもしれないけれどぼくもせいいっぱいがんばっていくので手助けしてください。よろしくお願いします。


 ◇◇君は、お母さんが陸前高田の出身で、足に津波が押し寄せる中何とか助かったおばあちゃんが、2週間の地元での避難生活の後、今は◇◇君の家に身を寄せていらっしゃる。◇◇君は陸前高田で生まれ、長期休暇には必ず訪れていたという。
 ◇◇君のコミュニケーションの手段はお母さんの援助による筆談で、家で2編の詩を書いてきた。それは、被災地に身を置いて書かれた詩だった 詩の紹介は別の機会に譲るが、筆談で話し言葉のように様々なことを語った。

 津波の映像を見て大変なことが起こったと思いましたが、それは予測していました。こんなことが起きるだろうなって。だけど、こんなに人がたくさん亡くなったり、原発の事故というものが起きるってことは得体の知れない災害です。総増益ません。だから物がないってパニックになるのもしかたないでしょう。でも人は本来、助け合いいたわり合って生活する動物です。科学が発達して人間だけ別の生き物と思っていた人間は思いやりいたわりが大事だと気付かないといけない。気付いて新しい世界を作らないといけない。それができればこの災害をステップにできると思います。ママもそう思う?ぼくは動けないけどわかります。
 人は何のために生まれてきたのか、考えながら生きていかないといけません。大事なことを考えずお金もうけや出世ばかり考えていたら、意味のない人生を送ります。あくせくと金儲けばかりしていると、死ぬときお金のこと気になって、いい臨終できません。ぼくは亡くなった人、なくなった建物や道具に敬意を払っています。それをしてくれる人が増えていけば、なくなった人、物、道具も意味のあるなくなり方となりますから。一人でもそう思う人が増えてほしいです。そんな詩を書きました。被災した人はこれからが大変です。ばあちゃんも軽いパニックですし、これが収まると孤独とのたたかいになるよ私のことわかってくれる人いないって悲しみがわき出てくるでしょう。ママはそれもわかってて、でもがんばって自分のことは自分でしてよって言ってますから。
 ママとぼくもいつか行こうよ。ママ行けなくて申し訳なかったね。


 ◇◇君と同級生の▽▽君は、いくつかの身振りのサインを持っているが、この日両手を胸にあてて、つらいということを全身でアピールしながら現れた。

 聞いてほしいことがあります。なぜこんなに悲しい災害が起こるのでしょうか。みんなわかっているのかもしれないけれどぼくにはよくわかりません。だけどぼくたちはいつも自分の体のことで苦労しているのでとてもつらい人の気持ちはわかります。小さい時から苦労してきたのでぼくにはつらい人の苦しみがよくわかります。理解されない苦しみと大切な人を亡くした悲しみは違うとは思うけれどわかってもらえない苦しみとよく似ているのは人間として一番大事なことに関わっているからです。でも簡単にそういうことを言ってもみんなはどうせわからないと言うかもしれないけれど涙を流しています。つらいのはみんな同じかもしれないけれどぼくたちの悲しみはなかなか理解されないのでよくわかります。人はなぜつらいことにもがんばっていかなければいけないか犠牲になった仲間の分までなぜきちんと

 ここでちょっと中断して、◇◇君のお母さんが陸前高田の出身だということや、それをめぐる様々な話をした。すると、それを承けて▽▽君はさらにこう続けた。

 小さいことなのですが小さいときにみんなと遊んだところがなくなるのはつらいですね 。そんなことにも今度の地震は関係しているのですね。びっくりしました。◇◇くんのおかあさんが東北の出身だったということに。小さいころの思い出も茫然としたままなくさなければならなかったということが。そういうことも含めて今回の災害はとても悲しいことでした。

 ◎◎君も、◇◇君も同級生で、高等部3年になる。一つの詩を間にはさみながら、震災について語った。

 なかなか話せないので私たちの言葉を聞いてもらいたいです。なぜこんなに悲しいことが起こるのかわからないけれど地震はとても大変でした。私たちには私たちの悲しみがあってそれをみんなの悲しみに重ね合わせればよくその意味がわかります。わずかな希望でもあればまた未来は開けてきますが涙はすぐにはかわきませんでした。そのことはきっと同じだとおもいます。涙はかわこうとしてかわくものではないので時間がかかります。涙は時間がかかるけれど希望はすぐにものにすることができます。人間はそういう風にできているのだと思いますがなぜ様子がわからないうちに悲しさだけは湧いてきたのでしょうか。それはどうしてかはわからないけれど人間は悲しみにはとても敏感なのだと思います。敏感なのは希望に対してもです。すぐに希望がとんでもない苦しみの中にあっても茫然とした人間を我に返らせまたつらいことを乗り越えて茫然としたところから立ち上がる勇気を与えてくれます。そしてそこからまた歩き出そうとするものです。人間はそんな風に希望と悲しみの間で生きているということをぼくたちはいやというほど味わってきました。人間はまるで風の前の塵のようなものですがぼくにとってはかけがえのない存在なのでわずかの希望でもあれば生きていけるということを信じています。人間として力強く生きていきたいです。

苦しみの中でを聞いてください

苦しみの中に見つけた希望
それは瑠璃色に輝いて
ぬいぐるみの私に希望を与え
小さな未来を平和に変える
小さな未来は小さいけれど
中でも僕の小さな夢は
小さいままに未来を照らす
無難な生き方捨て去って
存分に未来を夢見よう
未来は大きく膨らんで
未来を世界に伝えよう
敏感な望みは別によいけれど
小さい星の大きな希望
よい願いの開くとき
すてきな未来が開けてくる。

ぐっとずきんと苦しかったです。みんなも同じだったと思います。友哉くんの言葉が気にいりました。◇◇くんのはどんな詩ですか とても共感しました。まさかみんなが自分と同じようなことを考えているとは思わなかったので驚きました。みんなの考えにはとてもわかってもらえない悲しみがあってそれが災害にあった人々たちと重なり合っているのですね。驚きました。茫然としていたのはぼくだけではなかったのですね。だれもが理解されたいと思っているのですね。早く理解されたいです。

2011年4月3日 11時04分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 / 東日本大震災 |
2011年04月02日(土)
震災をめぐる思い
 この3月に学校を卒業して社会人になる○○君も震災について語った。

いい季節なのに悲しいことがみんなをおそってしまったのでとてもつらいです。人間の小ささを思い知らされるできごとでした。何万人もの人が亡くなってしまって行方不明の人も大勢いてぼくらのような障害者はいったいどうしているのかと番組を見るたびもらい泣きしています。わずかな希望はよい人々が何千万もいて本心から心配しているということです。日本中の人が力を合わせれば、きっとがんばってまた元気な日本にもどれることでしょう。未来のみんなはそのことをきっとごまかさずに美談として語るにちがいありませんがそのときこそ勉強してほしいのはぼくたは 黙ったままでずっと生きてきたのでぼくたちのことにも目を向けてほしいということです。ぼくたちも災害で孤立したような存在だから何とかして世の中に認めさせたいです。犠牲者の数は少ないけれど失われた命は同じですからそのことにも目を向けてほしいです。みんな電気で困っていると言っているけれど電気ぐらい大したことではないと思います。なぜなら電気で伝えられなくなるのは電話ぐらいですがぼくたちは電気があろうとなかろうと伝えるすべがないのですから。なろうとしてなったわけではないけれどぼくたちはその状況をしっかり引き受けながら生きていますから被災者の人にもぜひ状況を引き受けてがんばってほしいです。

 自分たちの障害と重ね合わせながら、思いをめぐらせていることがひしひしと伝わってきた。
 また、中学部の☆☆さんも、地震のことについて述べた。

 言いたいことがあるので聞いてください。人間というのがとても大きい自然の前ではたいへん無力なものだということがわかりました。人間というものはとても小さなものなのだということがわかりました。私たちはこんな体だからいつもそのことを思い知らされていますが勇気づけられるのは全国の人たちが沈痛な思いを共有して祈りを捧げていることです。自分のことばかり普段は考えていても人間はいざとなるとすごいと思いました。みんながこの災害についてどう考えているのか知りたいです。私たちのような存在だからわかることがあるということを仲間どうしで話し合いたいです。理想は仲間どうしで会話することですがなかなかむずかしいですね。人間として願いを持って生きたいけれど私たちにはなかなかそのチャンスがめぐってきません。だからとても悲しいです。疑問ですが夢のデトロイトという映画はありますか。夢に出てきたような気がしますがよくわかりません。みんなで植えた花にも七色の花が咲くというイメージです。小さいときからほんとうの理想を探してきたのでやっと泣き虫を克服したのに少しずつ人間として夢を取り戻せそうだったのにどうして理想通りにいかないのでしょうか。悩みはつきません。泣き虫を克服したのに今度の地震でまた泣き虫になってしまいました。そうです。花が咲き誇る夢の未来のイメージです。何となくというよりデトロイトという言葉のイメージが好きだったからです。そうですか。名前がすてきでした。

 デトロイトにこめられた意味はよくわからなかったが、後で調べてみると、デトロイトは美しい街らしい。昔、自動車の工業のさかんな都士とだけ暗記した知識とはちがう知識を彼女は持っていたのかもしれない。この悲しいできごとのその先を懸命に見つめようとして生まれた言葉であることはまちがいない。
2011年4月2日 12時12分 | 記事へ |
| 自主G23区2 / 東日本大震災 |
2011年03月29日(火)
震災をめぐる3人の思い
 桜の開花も近いというのにまだまだ寒い一日、計画停電、交通網の混乱等々の中、災害をめぐる様々な思いを聞いた。
☆☆さんは、やはり、いきなり地震の話からだった。

 いちばんぐったりするのはたくさんの人が亡くなったことです。みんなそれぞれ若い人も年老いた人も来世を信じているならまだ救いもあるけれど人間なんてなんと人生を茫然と見つめるしかない存在なのかと思い知らされるできごとでした。理解を超えたできごとにただただ茫然としているだけですが、私たちはどうにもならないことには慣れてはいるので世間の人たちよりも人間の無力さはわかっているつもりです。私たちの私たちらしさは地震の前にはもろいものですが、私たちを何とかして理解してもらうためにはまだここでくじけてしまうわけにはいきませんが、私らしく生きていくためには私たちの私たちらしさをまたわずかな希望とともに語らなければなりません。地震は外向きには甚大な被害ですが内向きには新たなおごりのいましめでもあります。理想はずっとみんなが号泣することなく暮らしていけることですが、理解を超えた悲しみがあるというのがずっと続いてきた現実ですので何とかしてこの悲しみを乗り越えていくしかないと思います。小さなものかもしれませんが私たちのような存在はこの悲しみを乗り越えていくための何かヒントになるのではないかと思います。ランプのあかりが消えそうでもじっと忍耐していけば必ず光はさしてくるということです。何もできないけれどこういう考えもあるということを今日は伝えたかったです。なるべく多くの人に聞いてもら言いたいのでよろしくお願いします。小さい存在かもしれませんが私たちも小さいながら考えているということを知ってほしいです。ぽおんと何かをほおったときに乱れた空気が生まれても必ずまた静けさが訪れるということを信じていますぞっとするくらい恐ろしいことでも必ず終わりがあることを私はよく知っているので茫然とする日々にも必ず終わりがあることをじっと待ち続けたいと思います。涙はいつかかわくこともずっと経験してきたのでよくわかります。

 そして、一つの詩を聞かせてくれた。

  よい願い

犠牲になった私の友よ
理解されずに未来は閉ざされ
私はいつか私らしさをなくしかけた
だけどわずかな希望があるかぎり
私は私を輝かせるために
わずかなあかりをたよりにしながら
とおい未来に歩き出す
忘れたいのちを捨てないで呼んでみよう
きっと呼びかけに応えて
いのちは応えてくれるはず
人間ははかない存在だけど
必ず小さな未来をもって
人間の限界を越えていくはず
勇気さえあればどんな冒険でもできるだろう
自分の力のとどくところのその向こう側には
どうしても行けないかもしれないけれど
私たちはあきらめない
私たちを自由ないのちとか有限ないのちとか考えるのではなく
来世の冒険に逃げることなく
いま与えられた現実から一歩でも歩み出すための
静かな昔と同じようにゆっくりとでいいから
しっかりと道を切り拓きながら進んでいこう
若い時代は長くはないが無難な道を歩くのではなく道なき道を歩んでいこう
もうすこしで光はさしてくるはずだから
 

 ○○君も、かんたんなあいさつの後、地震の話をした。

 日本中がたいへんなことになってとても悲しいです。指をくわえて見ていることしかできなくてくやしいです。指をくわえて見ていてもなかなか私たちの力ではどうにもならなくてほんとうに悲しいです。ぼくたちは理解されないことでたいへんな悲しみを感じてきたので今度のことはとてもよくわかりますがあまりにも理解を超える悲しみでやっと地震が通り過ぎたと思ったら今度は大津波でどうして神様はそんな苦しみを人間に与えるのかわかりませんが何か意味があるのだろうと思います。地震のことの意味はよくわからないけど何か意味があるとしても悲しすぎると思います。人間にはまるで何もできないというみたいに見えますが人間にも知恵があるので人間として知恵を出すときだと思います。地球規模の異変が起こっているのではないかと心配ですが何万年もぼくは生られるわけではないのどほんとうのことはわかりませんが先生は何か知っていますか。

 もちろん、私に答えられることは、この地震と同じような規模の地震が起こったのは、1000年も前の平安時代であるということと、こうしたことが長い長い地球の歴史が繰り返されて、あの三陸のリアス式海岸の独特の地形も生まれてきたということぐらいだった。
 そして、自分のことに話は向かった。

 小さいときからぼくは何もわからないと言われてきたけどこうしてわかってもらえてほんとうによかったけど勇気を必要としています。なぜならどうしてもぞんぶんに生きるという気持ちになれなくなることがあるからです。でもこうして気持ちが言えると勇気が湧いてきますからまた会いたいですのでよろしくお願いします。

 ◇◇君は、冒頭に、明らかにこの大震災のことを言っているにちがいない一文を書いたあと、話がまた別の方向へと切り替わっていった。

 聞いてもらいたいことがあります。万人にいいおつかいの天使はいないのでしょうか。理想は理解者を増やすことですがなかなかうまくいきません。満足のいくような私たちのわかりかたはないのでしょうか。わずかなあかりしか世の中にはさしていません。部分的なものにとどまって私たちをそれなりに迷いから解き放ってくれますが本格的な理解はほど遠いものです。夢の中にいるみたいです。未来がまだまだぼくたちには遠いものになっています。みんなも悩んでいることでしょうね。人間はなぜ何においても理解を超えたことがあるということに気がつかないのでしょうか。ぼくたちのような用なしのような存在にも心があるということにもっと気づいてほしいです。人間として認められたいですがなかなかぼくたちのことには目が向かないようです。だからぼくたちも世の中に気持ちを訴えていきたいです。春しか待てないのは寂しいです。理解される日を待ち続けたいです。ぼくの言いたいことは以上です。

 ここで、お母さんが、理解してあげられていないのは家族のことなのかしらと尋ねると、

 家族では思いません。闘いの文章です。世の中です。世の中を感じるのはテレビなどです。ぼくたちなどいないかのように話が進むことです。地震がまさにそうです。ぼくたちの仲間のことなど出てきません。福祉ネットワークは特別ですがぼくたちのような障害の人は出てきません。

 ここで、話が地震のことへと一巡して戻ってきた。そこで、最初は地震のことから始まったのに、なぜ話が変わったのかを尋ねてみた。

 それは悲しさだけだから書く言葉が見つからないからです。神様のことは真剣に考えると信じられなくなります。なぜならあまりにも理不尽だからです。ぼくたちの障害もそうですが理不尽なことがあればあるほど神様なんていないという気持ちになってしまいますから何も言えませんがそれでも何かの違う意味でもあるのかとぼくなりに考えていますがそんなふうに思うことが被災した人に悪くて何も言えなくなりますから困っています。よくわからないけど神様よりもいつかわかると信じてきました、ぼくの障害の意味が。選んだわけではありません。何かの意味があると何度も信じようとして少しずつわかり始めたところでしたがよくわからなくなりそうです、この地震で。

 この大きな理解を超えた大きな災害の前に、自分の障害の意味がまたわからなくなりそうだという沈痛な思いが語られた。そして、彼が、この地震の意味を問うということ自体が、苦しみのさなかにある被災者に対して悪いと述べていることも決して見落としてはいけないところだ。
 そして最後に、桜の花の詩を聞かせてくれた。

いつか桜の木の下で
ぼくは疲れた体を横たえて 花びらにうもれてしまいたい
桜の花を待ちながら 今年もぼくはそう願う
桜といえばにおいのように 思い出が静かに浮かんでくる
桜の花と聞くたびに 心は春につつまれる
桜咲く日という言葉 だれかが口にするたびに 勇気がぼくに湧いてくる
ぼくにも心があるように きっと桜も心を持って
みんなのしあわせ願いつつ 静かに生を終えていく
ぼくにもどんなによい花が咲いてくれるか知らないけれど
ぼくもいつか桜のように幸せを祈りながら咲いて
人間として理想の花を咲かせたい
見渡す限りの春がすみ いつ桜は咲くのだろう
それを祈って春を待つ
2011年3月29日 16時00分 | 記事へ |
| 自主G23区2 / 東日本大震災 |
2011年03月17日(木)
東北関東大震災のこと 病室からのまなざし
 東北関東大震災の被災者の方々に心からのお見舞いを申し上げるとともに力強い復興をお祈り申し上げます。

 地震の前の約束をキャンセルせずに病院にうかがった。2時過ぎにうかがうと先に到着しておられた先生から、今日は3時過ぎから停電になるかもしれないと言われた。停電になった際の人工呼吸器等の機器の管理で、看護士さんたちはあわただしく立ち働いておられた。○○君の愛用のラジオは、ずっと震災のニュースを流し続けていた。いつもよりも音量が大きかったのはきっとお医者さんや看護士さんたちも情報がほしくてラジオの音量をあげたのだろう。もし計画停電が実施されれば1時間弱の時間で、☆☆さんと○○君の気持ちを聞かなければならないので、大急ぎでパソコンを開いた。
 ☆☆さんの言葉は、やはり、この大きな災害にかかわることだった。

 いい季節になったと喜んでいたらこんな大変なことになってとても驚いています。
 なぜこんな悲しいことが起こるのかわからないけれど小さいときからどうして私には障害があるのかと考えてきたのでみんなよりはよく考えられるのかもしれないけれど全然わかりません。
 小さいときはよく神さまをうらんだりしたけれどじっと煩悩ということを考えて望みだけは失わないようにしてきたのだけど、理解できないほどのできごとでした。
 びろうどの未来が被災者にも訪れることが唯一の願いですがどうなっていくのかとても心配です。みんなずっと人生を投げ出さなければいいなと思います。


 人間を襲う誰のせいでもない理不尽なできごとについて考え抜いてきたけれど、今回のことはわからないという彼女の気持ちは痛いほど伝わってくるものだった。
 ここで彼女は、私に「先生はどう思いますか。」と尋ねてきた。私には答えきれない問だったが、私は私なりに方丈記の地震や飢饉に関わる記述、良寛の地震に関しての言葉などを印象深く読んでいた自分には、「煩悩」という言葉を使った☆☆さんの考えは親近感を感じたので、「私の考えもあなたの障害ついての考えに近いと思うけれど、それをはっきりというほどわかっているわけではないのでなかなか大きな声で胸をはっては言えない」と答えた。すると彼女はこう続けた。

 ごめんなさい、へんなことを聞いて。本当ですね。本当のことをわかっている人は誰もいないですね。
 小さいときからの疑問でしたがようやく答えが見えそうだったのにまたわからなくなりました。
 人間というのはむずかしい存在ですね。病院にいるとそういうことをよく考えさせられます。


 もっと話を聞きたかったが、限られた時間なので、○○君のベッドのほうに行った。彼もまたこの大きな震災に関するものだった。

 生き死にということを考えました。なぜこんなことが起こるのかよくわからないけれど何千人もの人が亡くなったのがとてもわかりません。人生を途中で断たたれてしまって。よくわからないけど目的というのが本当に持てなくなりそうです。なぜぼくが生きているのか、なぜ私たちの苦しみがあるのかなど、わからなくなりそうですが、理想は理想としていいこんなわかり方があるかぎり目的を大切に生きていきたいです。理解できない悲しみにもきっと意味があるのでしょうね。わかるのはむずかしいかもしれないけれどどうにかしてぼくも生きる意味を見つけたいです。みんなもきっと同じだと思いますから。ぼくもどうにかして生きる意味を見つけ出したいと思います。わずかな希望さえあれば人間は生きていけるということをぼくたちがどこまでも証明してきたのでみんながんばってほしいです。
 私たちの仲間のことがとても心配です。願いはもっと私たちの仲間のこともニュースで伝えてほしいです。ぼくたちのことをもっと理解してほしいです。
 ぼくたちも生きていると世界に向かって言いたいです。分相応ではなくて望みどおりに生きたいですからよろしくお願いします。


 途中、停電の予定時刻が来たけれど、幸い停電はなく、会話も続いた。一緒に訪問した先生は、被災地でたくさんの人々が支えあっているという話を○○君に聞かせた。すると彼はこう語った。

 ぼくたちのことと同じですね。ぼくたちもいろいろな人に支えられているので、ごらんなさいぼくたちのことをと言いたいです。そうですね。未来のみんなの幸せはそこから始まるということですね。
 どうにもならない苦しさも勇気を出せば乗り越えられるということがわかりましたからだれでも人間は同じだと思います。こんなにたくさんの人が亡くなると悲しいけれど大切なことがよくわかるのですね。
 どうにかしてぼくたちのことを世の中に伝えたいけれどみんなぼくたちのことを何も考えていないと思っているのでわかってもらいたいですね。


 ☆☆さんも○○君も、障害という状況の中で生きる自分たちと被災された方々とを重ね合わせて理解しようと懸命だった。
 そして、☆☆さんに向けて次のように書く。
  
 ぼくたちにも勇気を持って生きる心があるということを、人間だから心があるということを、悩みも当然あるけれどみんな希望を持って生きているということを伝えたいですね。☆☆さん。
 
 容易には届けられないけれど、こういう思いで被災地を見つめているまなざしがあるということを、ともかく記しておきたいと思う。

 

2011年3月17日 10時19分 | 記事へ |
| 小児科病棟 / 東日本大震災 |