手書きで気持ちを伝える○○君は、2編の詩を携えてやってきた。
最初の詩は、12月に亡くなった仲間のことを偲ぶものである。
人はみな 光りにもどり ねむる
人はみな 神のもと 光りのままで ねむる
人を愛し 人に愛され 光り 成長をとげる
君はまた そこへ もどっていったんだね
2編目は、幼い少女を歌った小品だ。
君は わらった
ヒラヒラと キラキラと
君は ないた
ピチピチと キュッキュッと
君は うごいた
スイスイと
スカートをヒラリなびかせて
やさしい母の手をひっぱり
もも色の風を感じ
自由におよく魚のように
詩について、話し合ったあと、少し彼は、今の自分の状況を嘆いた。
そこで話を切り替えて、詩とは言わないまでも、なにげなく、いろいろなものを見て感じていることを話してというと、少し、気持ちを取り直して、花と川の話をした。そして、そんな時、生きていてよかったと感じ、その感動を母に伝えたいために詩を書くと語った。
話は、さらに、仏像の話へと発展する。鎌倉時代の仏像が見たいと彼は言う。私は、仏像をじっくりながめてその感動を生に言葉にしたことはないが、その感動を記した他人の文章ならいろいろ読んだことがあると伝えた。そして、仏像には、たぶん、その時代を生きた人々の、苦しみや悲しみや願いがこもっていると伝えた。彼は、今度は、仏像の話をしたいと行って、さわやかな表情をして、帰っていった。
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2009年1月17日 22時26分
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手を添えてもらって行う手書き文字で、小学生の頃からこれまでたくさんの詩を書いてきた中学3年生の少年は、しばらく、詩が作れないで困っていたが、9月に続き、今回も詩を携えてやってきた。
2編の詩を、そのまま、ここに記しておきたい。
月の光の下で
月の光にてらされて
一輪の花
首をうなだれ
かぼそく咲く
落としたしずくは
天にとどく
大いなる母よ
ここに咲け
あなたの涙が
力となり
人々のいやしと
かわるから
夕日の上にぼくは立つ
ぜったいにくじけない
あきらめない
ぼくは夕日の上に立つ
なお、彼とは、後者は、詩というよりも、個人的な意志表明のようなものだねということで、話が落ち着いた。いつか、また、この思いは、詩として昇華されるかもしれない。
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2008年11月15日 23時01分
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歩くこともでき、日常生活の動作もかなり自分でこなせるけれども、限られた言葉しか発声できない○○君に、2スイッチワープロを試みて、数ヶ月が過ぎた。もっと体の動きに困難を感じている方々に行っている援助をすれば、すらすらと文章を綴れるのだが、彼は、前に、自分でやれるようになりたいときっぱりと宣言しているので、今、私の課題はどうやったら彼が独力でワープロを操作できるようにしてあげられるかということである。
彼の運動をめぐる困難は、2スイッチワープロをやってみて、初めて明らかになった。スライドスイッチやプッシュスイッチを一回だけオンオフするだけだったら、それほど困難はない。しかし、繰り返しリズミカルにそれを行い、しかもあるタイミングでもう一つのスイッチをオンするとなると、急に大変になる。
楽なスイッチを探すのはこれからだが、2スイッチワープロのプログラムを、少し変えてみることにした。行や段を進めて行くスイッチを、これまでは、一回ごとにオンしていたのを、一回オンすると、オフにするまでは行や段が進んで行くようにしたのである。
思いついてプログラムを改良したのは、前夜のこと。やっつけ仕事もいいところだった。
○○君と会うと、さっそくこの改良型の2スイッチワープロを試してみた。すると、少なくとも送るほうのスイッチに関しては、独力でやることができた。残された課題は、決定の方のスイッチの操作をいかに独力でやるかということだが、工夫次第で何とかなりそうに思えた。
そんなふうにして、彼が、独力で綴った文は、以下のようなものだった。
りかいしてみせます
すてきなひとになりたい
うすいきほ
ここで、時間も迫ってきたので、たくさん援助する方法で改めて続きを書いてもらった。すると以下のように続いた。
うすいきぼうでもよいから
もっと先がありそうだったが、やさしい彼は、次の仲間にゆずることの方を大事にした。
短い言葉の中に、強い意志と、リアルな現実を見すえるまなざしを感じた。
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2008年10月26日 01時26分
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今日、すてきな2編の詩が届いた。○○君の表現手段は、支えられての手がきだが、先日の関わりあいで2編の詩を書き出した。
いつもなら、そのまま受け取るところだが、今回は、意見を求められたので、率直にいくつかの意見を述べた。これだけ立ち入った意見を言ったのは初めてかもしれない。ただ、あくまで私の言葉が詩の中に入ってしまうことは慎重に避けて意見を述べた。
私に詩の素養があるわけではない。ただ、青年学級で歌を作り続けてきたことを便りにしながらの意見である。
だが、彼は真剣に受け止めてくれた。そして、その場で何度か遂行を重ねたけれども、もう一度家で考えてくるからということだった。
そうやって届けられた詩は、2編目が、最後の1ページが抜けていたので、まだ、完成形ではないが、あまりにもすてきなので、紹介することにした。
雨ふりの朝
ぼくがおきると母は長そでをもってきた
「今日は雨でさむいの」
やさしくわらった
ぼくはえがおにつられて笑った
みそ汁のにおいと玉子焼きのにおい
とうめいのグラスがカチカチなった
やさしい時間が今ある
あたりまえの時間がある
それなのにぼくは早く早くとわがままいって
母をあわてさせた
二人だけの朝
にじが出た日
ぼくはおばさんと車イスに乗って出かけた
母でない人と出かけたのは初めてだ。
ぼくが草や花が好きなことに気ずいて声をかける。
「君はみどりの好きな子ですか。私も大好き。」
おばさんの声ははずんでいた。
「いいえ、ぼくは母さんの好きな草や花が好きなんです。」
こころの中でつぶやいた。
おばさんはしらないだろうな、
花の中に母が笑い、
草の中に母が泣いていることを。
ゆっくりと頭を上げると
にじが見えた
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2008年9月7日 01時05分
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土曜日の学習会、また、いろいろな発見があった。
○○君は、もう、ずいぶん長いことこの会で学習を続けてきた少年。見ることにハンディがあるのか、ちらっとでも見ることができる時には、それなりの弁別をすることができるのだが、その回数が少なく、なかなか先に進めないということで、足踏みのような学習を続けてきた彼に、徐々に2スイッチワープロのソフトを導入してきて、先月、初めて自分から単語を綴ることができた(使ったスイッチは二つのプッシュスイッチである)。その言葉は「うれしい いきたいそと」というものだったが、それに続けて1週前の母の日のことを書いてもらったところ、「おかあさんありがとう」と書いて、お母さんをとても喜ばせるということがあった。
それから、ひと月後の関わり合いで、彼は突然「くやしい」という言葉から気持ちを綴り始めた。せっかく文字を綴ることができたのだが、なかなかすぐには認められないことをめぐるものだった。そこで、私は、どうやって文字を覚えたかなど、教えてくれるとそれだけわかってもらいやすくなると思うと提案したところ、「こどものとき ともだちがべんきょうをしていたのをみておぼえた」と答えが返ってきた。そして「はやとくんがわかってくれたけどほかのひとはだれもわかってくれなかった」と続く。はやと君とは誰かとさらに尋ねると、「じぶんでつくったともだちです」と。孤独な心の世界が作り上げた想像上の友人がここにもいた。もちろん彼はまた、暖かい家族の愛情の中で生きてきたことも事実だ。「よくめんどうをみてくれてほんとうにかんしゃしています おとうさんもよくあそんでくれてすてきなかぞくです」と文章は結ばれた。
△△君は、2スイッチワープロで文字を綴ることをずっとしてきたが、ここのところ、ずっとオートスキャン方式の1スイッチのワープロで文章を綴ることにチャレンジしてきた。なかなか手こずっていたが、いつか独力で文章を綴ることを夢見てである。その彼が、ようやくスムーズに文章が綴れるようになり始めた。そして、綴った文章は、「このあいだじっしゅうにいきました。うまくいってよかった。じんせいをいっしょにいきるなかまがいればうれしい。」というもの。実習先には、多くの先輩がいた。人生を一緒に生きる仲間を探す大人の世界への旅立ちがもうすぐそこに迫っているということだ。最初に出会った頃、童顔だった彼は、いつか、ひきしまった顔つきの青年になった。
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2008年6月22日 01時21分
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毎月一度集まっているグループでのできごとだ。脳性マヒのための構音障害のせいではっきりとした発語はむずかしいものの、「はいといいえ」や、身振り、表情などで日常のコミュニケーションは豊かにとれている一人の少年がいる。そのグループの中では身体障害の程度がいちばん「軽く」、学習も文字と数の学習に照準を合わせてこれまで関わり合いを続けてきた。彼が示す行動も、どのように教材がとらえられているかを示唆してくれるもので、私たちにとっては、「先生」であった。そして、きっと文字を自由に読めるようになれば、トーキングエイドのような機器を使いこなしてコミュニケーションをとるにちがいないと思っていた。だが、「あいうえお」の5文字の弁別でも不正確さを残している彼には、まだまだ踏まねばならないステップがあるように思われていた。
ところが、最近になって文字の弁別のあとに、手をとって文字を書いてもらったところ、円運動で書く部分などが実に正確で、文字の成り立ちをよく理解しているように思われ、弁別学習における彼の姿との間にギャップのようなものを感じたのである。
私たちは、文字や数の問題は、「認識」の問題と考えることになれているが、彼の場合、思った以上に見え方の問題がからんでいるのかもしれないということを改めて考えるようになった。
そして、ひとしきり文字の弁別学習を行った後、パソコンでワープロに挑戦してみた。すると、けっこう画面をみながら文字を選べることがわかった。
昨日もそうやって選んでできた文章が、次のようなものだった。
さぎょうしょじっしゅうがんばり しごとみつけたい
たすけあってまいにちしごとしていきたい
どこか、あどけない彼を、知らず知らずのうちに大人として見てこれなかった自分を、恥じるばかりだ。
それとともに、彼のような状況にある子どもの書き言葉の問題を、今新たにつきつけられることになった。彼には、確かな弁別の力を身につけてもらいたい。だが、一方で、すでに存在する彼の豊かな表現の力を十分にかたちにする責任もまた、私たちにはあるはずだ。
高等部2年になった彼は職場実習が始まる。こうした表現する力を秘めた存在として、卒業後の社会に受け止めてもらえたらと思う。
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2008年5月18日 23時15分
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