ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2009年09月03日(木)
詩、歌、そして哲学
久しぶりに高校3年生の○○君にお会いした。まず、パソコンの前に、手を振る方法で会話をし、お母さんに方法をお伝えした。そして、パソコンに移る。
最初は、率直な感想から始まったが、しだいに、内容は重みを増し、「分相応」という言葉に至る。

 不思議です。なぜわかるのですか。理想的なやりかたですね。未来が開けてきました。耳をすませていてここだと思っています。楽です。楽です。ふだんからやれればうれしいです。みなさんにも教えたいです。未来の方法ですか。未来にはやれるようになりますか。自分の気持ちが伝えたいのでよろしくお願いします。まだです。理解してくれてうれしいです。小さいころからわからない子どもと言われてきたので分相応の生き方をしてきましたが乗り越えられそうです。みんなも同じだと思うけど、毎日毎日夢を見ています、わかってもらえる日のことを。みんな理解されたいと願っていますがなかなかわかってもらえないのであきらめて分相応に生きることにしています。

 ここで、私は、○○君に分相応という言葉を多くの人たちが使うけれど、いったいどこで耳にした言葉なのかと問いかけた。彼は、ある強さを持った少年なので、きっちり答えてくれると思ったからだ。

 言われたことがあります。愉快ではありませんが先生に言われました。自分の分をわきまえろと言われることがよくあります。悩んでいました。こんなふうに言われてくやしいです
。みんな隠れて言われています。人間性の問題だと思います。

これも悲しい現実の一つだ。あまり、この話題に時間を費やすのももったいないので、ここで、詩について尋ねた。

 小さいときから作ってきましたので聞いてください。

      理想の世界

知らない理想の世界に 理想の風にのって行ってみたい
夢をなくさないで理想を高くかかげて
凛としたろうそくの火のような強さで
理想の世界に旅立とう
理想の国は望んだ私を受け入れて 未来の希望をくれるだろう
私をはぐくみ 私をよい人間にしてくれるだろう
私を見たこともない 私でさえ知らない世界に誘うだろう
理想の世界はなぜ凛とした私を受け入れてくれないのか
理想の国の扉はなぜ開かないのか
理想の国をめざしながら 私は一人静かに祈る

 
 彼の詩は、夢を描くだけでは終わらない。扉が開かない現実もきっちりと表現される。そして、さらに、次のように言葉を続けた。

 なぜ扉はまだあかないのでしょうか。望めばきっと開かれるという言葉を聞いたことがありますがほんとうでしょうか。

 切ない問いかけだった。答えに窮したが、次のように答えた。簡単に望んで得られるものだったら、わざわざ扉が開くというようなことまで言わない。やはりなかなか得られないものだから、そういう言い方になる。本当に得られるかどうか、それはわからないけれど、あきらめたらその時点でもう得られなくなってしまう。望んでも望んでも扉は開かなくても、明日は開くかもしれない。だから、扉を開かせるためには、望み続けるしかないのではないかと。すると彼はこう答えた。

 自分の言いたいことがわかってもらえてうれしいです。

 彼は、私の語ったことぐらい、自分でも考えていたのだろう。それが、この答えに現れている。そして、同じ考えを聞いて、とても喜んでくれた。
 さらに、歌を作っていないかと問いかけた。やはり、彼も歌を作っていた。

   夢を待つ

不思議な不思議な夢の国
理解を求め理解を願い
夢をたくさんそよ風に
夢をよく見た空高く
私の指を折ながら
何度も数えて夢を待つ。



 小さいときからつらいときに歌を作って歌っていました。聞いてもらえるとは思いませんでした。忘れていました、小さいときに希望をいっぱい持って生きていたことを。理想がかなう日が待ち遠しいです。来年から社会人になるのでがんばりたいです。

ここで、彼に、詩や歌以外に、自分の中で暖めてきたものはないか、尋ねてみた。すると「哲学」と答えが返ってきた。また、一つ、長い沈黙の世界を生きる心が創造しているものを教えてもらった。

 人生を生きるための哲学を考えています。
「やるときにはやらなければ機会は永遠に失われる。」
小さいときから考えてきたことです。
「唯一の希望は唯一の信頼とともに自分を最後に支えるものだ。」
理想がなかなかかなわなくても希望と信頼を失ってはいけないということです。
「二つとない理想は信じ合うということでそれさえあれば何でも乗り越えていくことができます。」
忘れないように毎日思い出しています。たくさんあります。人間として認められた気がします。わかってもらえてうれしいです


 これだけの哲学を持っている彼だからこそ、先ほどの「望めば扉は開かれるのか」という私への問いかけの答えをすでに持っていたのであろう。
 表現の閉ざされた奥深さがまた、一つ明らかになった。

2009年9月3日 00時07分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年02月12日(木)
二人の女性の詩を交えたやりとりから
 社会人の女性○○さんと、2度目の再会。昨年の11月に初めて会った。最初に、手だけで話す方法でいろいろと話し、お母さんにも代わってもらったりした。そんな中で、スイッチとソフトをさしあげてから、ずいぶんとおうちで努力なさったらしいが、なかなかうまくいかず、彼女にため息をつかれ、あきれられてしまうという話になり、彼女にため息の真意を尋ねてみた。すると、パソコンで、

かあさんががんばっているのにできなくてとてもすまないというきもちです
よくやってくれてかんしゃしています
がんばっているかあさんにたいしていつももうしわけないきもちでいっぱいです

 という答え。お互いの深い深い気遣いは、時々、こういうすれ違いを生んでしまう。美しいすれ違いだが、お母さんはずいぶん気持ちが大変だったご様子だった。しかし、この言葉にお母さんも救われたようなご様子。さっそく彼女のほほを両手ではさみこんでおられた。
 そして、詩の話をしてみた。

つくっています
(書いてもらえますか?)はい

 そして次の詩が書かれた。

みたことのないけしきがわたしのまえにひろがって
ゆきがひとひらおちてくる
きたかぜがやさしくわたしをつつみ
ねがいどおりにしろいせかいがひろがる
いいねがいをたずさえて
しろいゆきがきたかぜにのってふってくる
きたかぜはくるしみにつかれたひとたちの
ほんとうのきぼうをしっている
きたかぜはきぼうのかぜ
ひとりぼっちのわたしの
きぼうのよりかかるやすらぎのかぜ
ちいさいころからことばをはなせなかったわたしが
べつのゆめをもとうとしてくるしんできたことをしっている
いいかぜがふいてねがいがかない
ちいさないいちかいをたて
わたしはあたらしいじぶんにうまれかわる
きのうのくるしみはあしたのきぼうにかわり
じぶんというそんざいにめざめた

 ここで、私は、多くの同じ立場の仲間が、希望と北風を結びつけた詩を書いていると話すと、

きたかぜのいみをわかるのはほんとうのくるしみをしっているひとです
わかっているともだちがいてうれしいです

 と返事が返ってきた。
 こうした詩のやりとりの最中に次の◇◇さんがお見えになった。現在、高校1年生の女性だ。初めての方だが、○○さんの幼いころからの知り合いだという。5つほど年齢が違うようだ。おそらく確実に聞いているはずと考えたので、詩を改めて読み上げ、さらに、○○さんの手を取って、◇◇さんへのメッセージをお願いした。すると、「きっとはなせるようになるからあきらめないでがんばって」というような言葉を贈ってくれた。
 そして、そこで◇◇さんにバトンタッチして、まず、手をとって話す方法に挑戦すると、さっそく素敵な詩だというような言葉が返ってくる。しばらく、○○さんとその方法でやりとりした後、改めて、パソコンに移った。

いいたいことがいえたらいいとおもってきました
きもちをいいたかった きぼうがわいてきました
きぼうのきたかぜのことはよくわかります
くるしみをしっているひとにだけきたかぜはやさしくふきます
きたかぜはきたのくににねむるかなしみをあつめてふいてかなしみをしずめてくれます
きたかぜはだからきぼうのかぜです

 そして、自分も詩を作っているということで、次のような言葉と詩が続いた。

きいてください

きのうのかなしみはきょうのよろこび
しらないちいさならんぷがともるように
わたしのこころにきぼうがともる
きぼうのともったらんぷをたかくかかげて
めのまえのくるしみをあかるくてらそう
そうかんがえるとしあわせがみえてくる
ちいさなあかりでもきぼうのあかり
たとえゆうだちがきてもきえることはない
ねがいはきっとかない
ゆめはきっとげんじつになる
くるしみのむこうにいいしあわせがひかっている
いいしあわせにむかってとびたとう

 この詩を聞いた○○さんも、◇◇さんが、言葉で気持ちを表現できたことを、心から喜び、また、この詩についても、とても素敵な詩と感想を述べ、ここで帰路についた。
 そして、◇◇さんの文章は、さらに続く。

ねがいがかなってうれしいです きぼうがかなってうれしいです じぶんでひとりぐらしがしたい ちいさいころからのゆめでした きぼうはけっこんすることですがむずかしいかもしれません いちばんいいとおもうのはすてきなひとにであえることです いいひとにであいたいとおもいます ちいさいころにかあさんがえほんでおしえてくれました いつもねがっていました じできもちをつたえたいとりかいがえられてうれしい 

ちいさいときからのゆめでした
ちいさいときにはいつかはなせるようになるとおもっていましたが きっともうだめかとあきらめていました でもはなせることがわかってかんげきしています 

ありがとうございました またよろしくおねがいします

 高校1年生の彼女は、もう、しっかりと大人になることを考えながら生きている。そして、その中には、もう、自分は話せることはないかもしれないという思いも含まれていた。
 私のような人間が、一人の人間の生きる希望に関わるということはとても大それたことだ。今、そういう関わり合いの中に自分が身を置かせていただいていることに、不思議な感謝の念を抱く。その感謝は、きっと、これまで出会ってきた障害の重い多くの人々と、今まさに出会っている目の前の人に向けるべきものであろう。
2009年2月12日 17時06分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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とおいくにのかなしみをあいしながら…
 高校2年生の☆☆さんは、まず、こんな悩みから始まった。

なやんでいることがあります 
ちいさいものですがきになっています 
じぶんでくらしていくためにはどんなふうにすればいいのでしょうか 
ちいさいときはりょうしんといっしょがいいとおもってきましたが
だんだんせいちょうするにつれて
じぶんひとりでいきていきたいとおもうようになってきました 
くらしていくにはどうすればいいのでしょうか
 
 この問いを受けて、まず、「重度の身体障害があって一人暮らしをしている人の

ことをテレビで見たり実際に会ったりしたことはありますか。」と問いかけた。その答え

は、

しっています あったことがあります 

 とのこと。そこで、今、やっている介助は、通訳だと考えることができるということと、

もし、いろいろな人が手をとって「ア行、カ行…」と聞いていく方法で簡単に気持ち

をきけるようになったら、そういう人と同じ立場に立てるのではないかということを伝え

、今はまだ、理解者が少なくてむずかしいけれど、必ず世の中は変わるだろうし、そ

のときは、一人暮らしも可能になるのではないかと語りかけた。すると、

きいてよかった きぼうがわいてきました 
いそぐつもりはありませんがいつかじつげんしたらうれしいです 
にんげんとしていきていきたいとおもいますが なかなかひとりでいいたいことがいえ

ないのでこまっています 
いのっています いつも
ぎんせかいのようにすてきなせかいがくることを 

 と答えが返ってきた。前の時も詩を書いてくれた☆☆さんならではの、美しい表

現だった。そこで、詩を書いてくれますかと聞くと、

きいてほしいですがしんじてもらえないのはかなしいです

 という答えが返ってきた。とてもすばらしい詩だったのだが、必ずしも、みんなに喜

んでもらったというわけではないようだった。それでも、いろいろと語りかけると、

きいてください

 と改めて述べて、次の詩を綴った。


いつもわたしはきいている
ちいさいときずっとくるしんでいたころに
がいこくのきれいなうたをきいて
こころがやすらいだときのうしなわれたこえを

ちいさいころにきいていたがいこくのうたは
かなしいいのりにみちていた
みたこともないとおいくにのかなしみをあいしながら
やさしいねがいをいつもみつづけていた
きっといつかねがいがかない
きれいなこころでちいさいころをおもいだせるひがくることを

いつもいのっていた 
きれいなこころをうしなわないことを
いつもきぼうがくなんにみちたじんせいをかえてくれることを
いつもねがってきた
じぶんのきもちがいえるようになることを
いつもゆめみていた
にんげんとしてきもちがそんちょうされるひがくることを

いしをもったにんげんだから
きいてもらいたい じぶんのきもち
きいてもらいたい くやしいきもち

いいかぜがふいてきて 
わたしのねがいがとつぜんかなった
いいかぜがふいてきて 
わたしのだいじなゆめがかなえられた

かこのくなんはかこのものとして
いいかぜをかんじながら
いいじんせいをいきていきたい

きのうのかなしみはあしたというひのきぼうにかえて
いいいちにちをきょうもいきられたことにかんしゃしながら
いいねがいをたいせつにして
きぼうにみちたじんせいをいきていこう


 再び胸を深くうつ詩だった。
2009年2月12日 01時18分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年11月04日(火)
「たびだち」の詩 
 ☆☆さんは、この日で3度目だが、今回は、学校でなかなかわかってもらえないことの悩みから始まった。綴っている途中、手に力が入ったりして、手をもたれるこの方法自体がいやになったかのような印象さえしたので、聞いてみたら、

きもちがおさまらない
じぶんでできるといいけどてがうまくうごかないのでこのやりかたがいいです

と返事をくれた。
 このあと、少しやりとりがあって、次のような文章が綴られた。

すばらしいですはなしができるということは
そんなことをかんがえているとなやみばかりかいているのがつまらなくなってきます

 そして、話はがらりと変わって、スイスに行くという話になった。

たのしいことはこんどもういちどすいすにいくことです
ふだんはいけないのでとてもたのしみです
いいきぶんです
すいすのことをかんがえるとわくわくします
ことしのふゆはなんだかまちどおしくなってきました
すいすではすぐれたおんがくをききたいです
すばらしいえもみたいです

 私はてっきりスイスに行く予定があるのだと思っていたら、お母さんが、そういう予定にはなっていないけど行きたいのと声をかけると、

いってみたいです
すいすではあるぷすのやまをみたいです
まっしろなゆきばかりのけしきがとてもそらのあおさをひきたててにあっているでしょうこのわたしに
かんがえておいてね
にほんにもいいところがあったらおしえてください

と、行きたいという思いとともに、とても美しい表現が綴られた。そこで、私は、詩みたいだけど、詩を作ったことはありますかと尋ねた。すると、「あります」と返事が返ってきて、一気に、一編の詩が書かれた。以下の通りだ。


        たびだち
   
うつくしくひろがるこのせかいにわたしはうまれてきた
なにひとつかわることのないからだでうまれ
ことばもたずさえて
しかしそのことはだれにもしられずにきた
なやみもくるしみもすべてひめたまま
このせかいでいきてきた
そんなわたしがことばをもった
こころいっぱいひらき
たびだとう

 言葉が表現できるようになったことをめぐる詩だが、言葉で表現できることを知られずに生きてきたことをめぐる切々たる思いが表現されている。こんな深い魂の世界が、ずっと誰にも明かされることなく秘められたというあまりにも重たい事実を、すばらしい言葉で語っていた。新しい彼女の旅立ちに立ち会えていることに、大変厳粛な思いを感じながら、私は、感動で体がうちふるえるのをおさえるのに精一杯だった。
 
2008年11月4日 00時28分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年09月01日(月)
「ごかいされるけど」「ふゆかいです」―誤解とのたたかい
 ○○君の文章は、いきない「くやしいこと」から始まった。「くるまででかけたときのこと」「しんごうでとまっているとき」「うしろからいわれた」とのこと。さらに「でんしゃでこのまえむかいのひとにへんなめでみられました」と、言葉をたくさん重ねながら表現した。
 彼が何を言いたいか、それは、ふつにこの社会の中を生きていれば、容易に察しのつくことだ。しかし、「つまらないことをいってもむだなのでうまくかわしました」というような表現もあり、○○君自身はそんなにめそめそしているわけではないように見える。それを伝え、それで、君はどう考えるのですかと尋ねてみた。すると、

ねがいはみんなによくわかってもらうことです。てもつかえないしきもちもひょうげんできないのでずいぶんごかいされるけどほんとうはなんでもわかっているのでふゆかいです。

と返ってくる。そこで、さらにその誤解のことについてお母さんから、電車の中で声を出していることや、口を手に入れることなどのことを指摘されたので、さらにその意味を尋ねてみると、

こえはなかなかとめられません。ゆびはかってにてがうごくのをとめるためですからしかたありません。かってにうごくのはなかなかとめられません。しせいをあんていさせるいみもあります。きいてもらえてうれしいです。

という返事。「奇声」とか「常同行動」などと不当に言われるこうした行動の意味を、きちんと解き明かしてくれた。そういうことを綴りながらも、彼の手は、時々私の髪の毛をぐっと握りしめてひっぱったり、指に爪が立ったりもする。これらも、私たちの距離が近いために、手が触れて起こっているにすぎないことを、私は迷いなく理解することができた。○○君たちが解かなければならない誤解は、単に、「文章を書ける力があるとは思えない」というものだけでなく、こうした、意図とは別に起こってしまう動きや体を安定させるために起こしている動きのために、なされている誤解をも含んでいることになる。こうした誤解は、そのまま差別と呼んでもよいものだ。だから、彼らの誤解とのたたかいは、そのまま差別とのたたかいでもある。
 ここで、最近よくみんなに尋ねる数の問題について、彼にも聞いてみた。彼が自分で作って答えた問題は、

54−6=48 62÷2=31

 そして、それについてのコメント、

けいさんはひとりでべんきょうした
すうがくもおしえてもらいたいといつもおもっている。

 さらに、勉強への思いはあふれ出す。

うけられるのだったらだいがくだってうけたい。いまはむりかもしれないけどいつかかなうならうれしい。ゆめはいつももちつづけたい。いってみたいです。

 いつか、彼にも、大学で話してもらいたいと思わず、提案した。「いってみたいです」は、そのことに対する答えだ。必ず、約束は果たさなければならない。
 このあと、一緒に手をとってカチカチとスイッチの入力を繰り返す方法について尋ねてみた。

くうきのようです。(…)このほうほうはかんたんです。いい。とてもかんたんなやりかたです。

 さらに、どうしてこんなに速いスピードでほとんど見て確かめたりしないで正確に綴れるか尋ねてみると、

じぶんのかんがえていることだからまちがうはずがありません
すぴいどがはやいほうがかんたんです。ことばをしぜんにはなすことにちかいからです。

というのが答えだった。実に論理的である。
 彼からは、これからも多くのことを教えてもらえそうだ。そして、きっとそれは、私の中にいまだにこびりついている、様々な誤解や偏見を一つずつ取り除いてくれることだろう。
2008年9月1日 00時19分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年07月27日(日)
若者たちの語り合い
先週のこと、都内で、10代の若者たちと出会った。もちろんみんな障害は重い。今日、私は、一つわがままな申し出をした。3人の方に出会うことになっていたが、順番に一人ずつではなく、最初から3人にいてほしいと。それは、ぎりぎりの言葉を本当に聞いてくれわかってくれるのは仲間に違いないと思ったからだ。
最初に綴ったのは、男子生徒で、いきなり重い表現から始まった。「くやしかった がっこうでしんじてもらえず(…)わらわれた」と。いったい何があったと言うのだろう。そしてなかなかスイッチ操作に集中しにくくなったように思われた。そこで、もう一人の男子生徒◇◇君に変わった。すると、「○○くんが じがわかるりかいりょくがあるとはおもえないといってばかにしていたのをみました ほんとうにゆるせないとおもいました そのことがかきたかったのだとおもいます」とみごとな説明をくわえてくれた。言葉だけでも二人の絆は伝わってくるが、言葉には表していない数々の思いが二人の間にはあるはずだ。そして、さらに、「がっこうのせんせいというのはこどものおせわをするだけではだめだとおもいます こどものかのうせいをしんじてみらいをきりひらいていくのがしごとなのではないでしょうか」と綴る。もはやわれわれに返す言葉はない。彼は自分のことについてはついに語らず「つかれたのでかわりましょう」と、女子生徒の☆☆さんにパソコンをゆずった。
☆☆さんは、二人のやりとりを遠巻きに聞いていたが、きっとこの日のために考えてきていたと思われる言葉を一気に綴っていった。「けっこんしたいとおもっていますがどうしたらいいかなやんでいます まねがしたいというのではなく つまとしていきていきたいからです」。結婚という人生の大きな問題に正面から向かい合おうとしている☆☆さん、さらに、「ぬいぐるみのようなじゆうのないじかんだけをすごしているのではなく じゆうなじかんをすごしていきたいです とてもこのままではがまんすることができません」と綴った。そして、「そつぎょうしたかったけど ねがいごとのかなうしゃかいではないのでそつぎょうしたくありません」と、いささか将来を悲観した言葉が続く。しかし、また、彼女は、「くなんをいしきすると いきれなくてこまりますが きぼうをうしなわずにがんばりたいとおもいます きぼうがこんなふうにかたれることを こころのよりどころとしてがんばりたいです みらいをしんじてがんばりたいです」と、もう一度、心を希望に向けて立て直して文章を終えた。様々な葛藤をかかえながら、懸命に自らを鼓舞しようとする力強い姿がそこにあった。
 そして、再び、最初の男子生徒に戻る。「ねることしかできないといわれてゆるせなかった ただしせいをつくることがたいへんだっただけなのに」「どうしてみんなぼくのことをりかいしてくれないのだろう くやしい」という胸にたまった思いをはき出したのち、彼もまた、次のように綴る。「のぞみはくやしさのないがっこうになることですてがつかえるようにがんばったけどなかなかうまくいかなかったけどじをかくことができてほんとうにもっとがんばろうとおもう」「「けっしてかのうせいをあきらめたくはないのでよろしくおねがいします」と。
 自由に語り合うことがむずかしい仲間たちだが、いろいろな思いを抱えながら生きていることを、ともに理解し合いながら青春の時を生きている。短い時間だったが、ともに語り合うことの大切さを感じさせられたひとときとなった。
2008年7月27日 13時11分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年06月01日(日)
初めての出会いの場で
 冷たく降り続いた雨がようやくあがった日曜日、さわやかな空気の中を新しい関わり合いの場へ向かった。4人の高校生と会うためだ。 初めての出会いはいつも緊張する。特別に事前の情報をあえていただくことはしないから、どんなお子さんが待っているのか、会ってのお楽しみということになる。しかも、いったん相手にお会いしてしまうと、障害の状況など頭越しに話されることは、ご本人もけっして気持ちのいいことではないと思うので、それもできるだけしない。会ったときの印象がすべてになる。しかし、実は、印象は多くを語ってはくれない。これまでいろいろな人が関わってその方に言葉があるとは思わなかったわけだから、最初の印象から言葉をつづれる人であると感じることは少ない。今日も、それは同じだった。ただ、最近は、その印象をあえて信じないことができるようなった。私の感じた印象がいかにいいかげんなものか、もう、いやというほど思い知らされてきたからだ。あれこれ迷うよりは、言葉をつづれることに賭けてみた方がいい結果に出会えることがわかってきたのだ。
 今日は、4人の方がみんな200文字をゆうに越える長い文章をそれぞれに綴ってくださった。
 最初の方の言葉は、とても大人びた、しっとりした言葉が並んでいた。「わかってくださってかんしゃします。なかなかりかいしてくれるひとがいなくていつもひとりでなやんでいました。さびしかったけどほうほうがみつかってうれしいです。」「くなんのひびでした。ねがっていましたこのひがくることを。とうとうそのひがやってきました。ちいさいころことばがしゃべれたらいいなとおもっていましたがもうあきらめていましたのでとてもうれしいです。」
 「さびしかった」「くなんのひび」「あきらめていました」という言葉が、胸に突き刺さってくる。身の引き締まるような言葉の連続だった。
 二人目の方の言葉は、終始笑顔で綴られたものだが、ユニークな言葉があちこちにおどっていた。
「おかあさんかけたよ。わかってもらえてありがとう。」「ついにかけた。くるしかったわかってもらえなくて わかってくれてうれしい」「べんきょうができてともだちがよろこんでくれるとおもう くうそうじょうのともだちです」「もじこのほうほうでかけることがわかったのでねんがじょうもかける ねんがじょうがかきたかった」「ちいさいころにおかあさんがほんでおしえてくれたながいあいだかきたいとおもってきました」
 空想上の友達の存在をまた語る方に出会ってしまった。人は本当に人を求めて生きているのだということが痛感される。
 3人目の方は、りりしい若者。歩くこともできるし、自分で食事も口に運べるとのことだが、やはり運動にハンディがあり、気持ちの表現がむずかしようだった。その彼の言葉は、次のようなもの。「かあさんこれまでねがってた いろいろきもちいえるようになること」[りかいしてちゃんとげんきをだしすばらしいくらしをしたい」
「ふいにおとずれたきかい てをつかうこと」「てがそんなにうまくつかえないのにこまっている ていろいろなえらびかたをしてもうまいぐあいにはつたわらない」「ちいさいころからわかっていました おかあさんがよくえほんをよんでくれたのでおぼえました」
 4人目の方は、笑顔のすてきな若者。「ばんざいできたむずかしいとおもっていたけどかんたんだった」「みんなもできてよかった○○さんやし△△さんや◇◇くんはどんなことをかいたの みんなすごいね ねがいがかなえられてみんなよかったねさんにんともいろんなおもいをしていきていることがわかった」「ねがいはすきなひととけっこんすることです ほかにもたくさんありますけっこんができるかどうかわからないけどこのままですぎていくのはいやだ たいへんかもしれないけどむちゃくちゃがんばればできるかもしれない」
 友だちの快挙を自分のことのように喜んでいた。夢も語った。「むちゃくちゃがんばれば」という言葉に強い意志を感じた。
 最初に出会った日に、全員が200文字を越える長文を綴ったのは初めてのことかもしれない。実にたくさんの方々と一歩ずつ方法を洗練させることによって、ここまでたどり着くことができたというのが実感だ。今日の方々も含め、ただただ感謝あるのみだ。
 帰りの高速道路から見えたひさしぶりの夕焼けがきれいだった。こうした出会いを通して、確実に私の心が洗われていくのを感じる。
2008年6月1日 22時56分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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