ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2014年09月16日(火)
Nさんの詩「かあさんへ」 2014年9月7日
 1年前にお母さんをなくしたNさんは、グループホームで暮らしています。おかあさんの遺言は、Nさんが青年学級に通い続けられるようにすることでした。青年学級のあとに、Nさんはこんな詩を綴りました。

  かあさんへ

ぼくはこうして今かあさんの残してくれた
たった一つの贈り物である青年学級にいます
みんな新しい世界へ旅立つために
今一生懸命に翼を整えている
僕もこんな歳になってしまったけれど
新しい世界への旅立ちのために
翼を整えているところです
でも僕が飛び立つ新しい世界は
かあさんのいる
空の上かもしれません
でももうこの世界は変わろうとしています
ようやくぼくたちの世界が生まれようとしています
世の中には出生前診断というような
世界を前に戻すような寂しい流れもありますが
確実に世界は変わろうとしています
翼に身を委ねて
ぼくは新しい世界に旅立とうと思います

2014年9月16日 11時37分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 / ダウン症の当事者 / 出生前診断 |
わずかな目我の轍を意味と知り F君の俳句 2014年9月13日
 肢体不自由の特別支援学校高等部に通うF君の俳句です。

ないをわざとあるといううそ満ちるもの。これはわざとはスタップ細胞のことです。
わがままと元気な子どもに言うなかれ。
わずかなり我らを友と呼ぶ人は。
わだかまり解けることなく二年過ぎ。
小さき目見守るままに我進む。
技はよき知らせを伝え我が俳句。
わずかばかりどうして鷲は若い目か。
二本の轍未来に続く輪よ回れ。
二本の輪ともに理想を貫ぬきて。
技をなくし佇む我はぬかるみに。
わずかな目我の轍を意味と知り。
わずかな手我の車を願い押し。
わずかな日夏の轍を照らしたり。
瑠璃色に輝く轍空映す。
分相応貫き我は理想手に。
わずかな世わずかな希望を人間に。
わずかな分われにはありぬ輪にかけて。
未来こそ我は作りて人間に。
誰一人欠けることなく生受けよ。
よし行けと背中を押せよぬかるみで。
無慈悲な世わずかな光さえ消して。
世も末と夢の果てし日決意せり。
わずかな目瑠璃色の空映しつつ。
忘れないみんな黙らせ決めたこと。
茫然と佇む我ら愚の決定。
みな瞳光なくせり百合枯れる。
疲れた身理想さえなくぬかるみに。
無我になれわだかまりこそ理想ゆく。
わっと泣く心ふさぎて闇深し。
未来にも理想は続く輪のごとく。
よい知らせ届かず日本に理想なく。
分は我にあれど届かず我が理想。
茫然と人間は今未来なく。

2014年9月16日 11時32分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G埼玉2 / 出生前診断 |
Sさん、Kさん、Tさんのそれぞれの思い 2014年6月14日
 施設での虐待のニュース、繰り返し語られる出生前診断のことなど、重苦しい空気に対して、2014年6月14日、ある会で記された三人言葉です。掲載がたいへん遅くなってしまいました。

S.Uさん
 なぜみんな人生を乗り越えないままに施設にも入れられたり忍耐ばかりしなくてはいけないのでしょうか。もう少し早くわかっていたらみんな間に合ったのに残念です。私たちにも人間としての尊厳があるので人間としてがんばりたいです。


K.Fさん
誰にまだ我らを託す世ではなし。
小さき目なぜ摘み取るか濡れた顔。
人間に生まれた子どもとなぜ言わぬ。
分相応馬鹿にするなと僕は立つ。
理想などかなぐり捨てて悲しき世。
人間はわずかな希望さえあればよし。
わずかな手理解する目が我包む。
わだかまり越えてみんなでまなざそう。
ろうそくが消えてまたやみ深まれり。
技をなくし佇む前に光は無。
勇気なく理想を下ろすか我が仲間。
わだかまりなければ希望も湧くものを。
道遠し人皆生まれる時となる。
理想捨てランプも消えて我悶え。
わだかまる罪なら罪をなくすべし。
ろうそくは本気の光なくしたり。
瑠璃色を見せてあげたし生まれない子に。
和よなぜに断たれる人と結ばれる。
和は断たれ残酷な知らせ届き足り。
紫陽花を七色にする雨も散る。
罠ならば落ちぬと身に告げ五月雨に。
罠をなくし私も素直に空見上ぐ。
罠を探し小さな舟を浮かべたり。
わだかまり解かしてあたたかき雨の降る。
わだかまり忘れて私は空仰ぐ。
わずかな目ゆゆしきままに梅雨深し。。

 よい番組を見ました。ダウン症の人がテレビで検査に抗議していました。なぜか笑いを取りながらでしたがとても真剣な気持ちが伝わってきました。うちではみんな感激して見ましたがみんなには伝わったでしょうか。.



T.Eさん

    楽園よ再び

わずかな昔の希望さえ消え去った楽園は
もはや輝きを失って
わずかな未来はもう消え去ったかに見えた
勇気は体中から消え去り
ただこの体だけが自分の前に残った
呼んでも答えは返ってこずに
ただ空しさだけが残った
茫然とした耳に
かすかに昔聞いた希望の歌が聞こえてきた
未来をまた僕は取り戻せそうだ
勇気が再び体に満ちあふれ私は
もう一度楽園に森が戻っていくことを疑わなかった
2014年9月16日 11時06分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G埼玉2 / 出生前診断 / 人権侵害 |
小さくとも瑠璃色の魂ここにあり Sさんの俳句 2014年8月31日
 ダウン症の当事者として繰り返し出生前診断をめぐって告発を続けてきたSさんの俳句です。何度も同じテーマについて作句を続けてきて、内容も繰り返しになってきたけれど、今は、自分の思いが届くまで、俳句を作り続けると語っていました。

なぜに世は私を無視して無に走る。
技も絶え心も絶えて未来なし。
小さくとも瑠璃色の魂ここにあり。
わだかまり誰にぶつけんわが穂何時。
地域にも確実に願い届きたり。
手をとりて無我のままに問う人今度。
ずんずんと積もりたる雪ぶかぶかに。
わずかな夢断たれてなるかと立つ朝(あした)。
わびしき音ろくでもないと聞こえたり。
つらき日々過ごしたる人紅の爪。
私の手むき出すものと知りし朝。
ついに辻曲がりたる世よぬかるみに。
分を知るわれなれど許せぬわだかまり。
小さき世われらを捨てて瓦解せり。
分相応許してなるか没落を。
技は技心は心願う日々。
ランプの火誰に消せようぬいぐるみ。
わずかな夢断たれまいとて武器を取る。
人間の誇りをなぜに捨てる世は。
罠に落ち罠に気づかぬ無下に消し。
理想われ手放すことはない夜よ。
忍耐はいくらでもなすわだかまり。
分相応分に応じてわれ怒る。
小さき火ともりし日はどこ暗き世に。
わざわざに勇気ふるいて世に問いし。
理想なくし漂う世にも希望あり。
勉学は人の幸せ凡庸に。
よい知らせ届くことなく夏の行き。
人間はぬくもりだけを求めるもの。
冒険は胸躍るもの随所にあり。
ミラクルは積み上げたところで開くもの。
忍耐をなくすまで理想途絶えたり。
2014年9月16日 10時58分 | 記事へ | コメント(0) |
| ダウン症の当事者 / 出生前診断 |
2014年01月28日(火)
風疹をめぐる議論について
 風疹が原因と思われる障害のある20代の男性とご両親にお会いしました。先日、昨年風疹で障害児が生まれた障害児が31人に上るとの報道がありましたが、お母さんはこの記事をため息をつきながらご覧になったとのことでした。お母さんは、息子さんが妊娠中に風疹に感染し、障害の可能性を医師に告げられましたが、宿っている命を消したくないと考え、生むことを決断されました。そして、生まれて障害があることがわかった時、この子を幸せにしてみせると心に決めたそうです。
 息子さんには確かに「重い」と言われる障害があり、気持ちを言葉で表現したのは、この日が初めてですが、両親に感謝していること、母の決断を誇りに思うこと、母の願った通りに幸せに生きていると語りました。
 それでは、お母さんのため息は何だったのでしょうか。それは、31人のお母さんと子どもたちのことです。このお母さんのようにあえて生むことを決断した方もいるだろうし、生まれた子どもたちは豊かな可能性を秘めた一人の人間のはずでしょう。しかし、ニュースはまるでそんなことにはふれることもなく、生まれてきたのは間違いだったかのように語る。どんな思いで、この31人のお母さんは報道に接したのか、そうした思いが深いため息につながったとのことでした。
 こうした報道を見る限りにおいて、社会はこの母親たちを祝福する視点を持ち合わせていないし、この子どもたちを同じ人間として社会に招き入れようとする視点を持ち合わせているようには見えません。これに昨今の出生診断をめぐる社会の風潮を重ねれば、社会はいつのまにか障害者は生まれてこない方がよいという考えや、同じ人間としては認めていないという考えに染め上げられてしまったということが、明らかではないでしょうか。

 また、この日の翌日、町田市の障害者青年学級でも、同様の議論がありました。そこでは、ある自閉症と言われる方が、出生前診断の議論では、生まれる前の命と生まれた後の命を区別して議論しているということが言われていたけれど、風疹のことをめぐる報道で問題になっているのは生まれた命のことなのに、まったく出生前診断の時と同じように生まれてこないほうがよいというような論調なのは、実は、出生前診断の時の議論がいかに偽りだったかがわかるとの意見が出されていました。
2014年1月28日 09時03分 | 記事へ | コメント(0) |
| 人権侵害 / 自主G多摩2 / 出生前診断 |
2013年12月19日(木)
改めて出生前診断のこと
 12月1日の青年学級の朝の集いの最後に、Y.Iさんが発言を求めました。昨年たくさん話し合ってきた出生前診断で、ついに検査が始まり、子どもを生まない選択をした人たちが大変多いというニュースについてみんなはどう思っているか、ということでした。
すると、ダウン症の本人であるH.Kさんから、「みんなが私たちのことについて考えてくれるのはうれしいけど、やっぱり悲しい」、また、M.Mさんからは、「昨年話したことが届かず悲しい。でも、今までもしっかり議論してきたから、これからも考え続けていかなければ、という思いはみんなも一緒ですね」という意見が出されました。みんなもちろん思いは同じで、後は、それぞれのコースで話し合おうということになりました。
 そして、私のコースでは、朝の集いでも発言したH.Kさんが、私がこれから気持ちを言うのでそれを1番の歌詞にしてほしいということ、そして、同じコースのダウン症当事者であるT.Mさんに、ぜひ2番の歌詞につながる言葉を言ってほしいということを語りました。そして、語られた言葉が以下のものです。

まず、H.Kさんの言葉です。

私は生まれてきてよかったです
私はしあわせな経験をしてきた
たくさんの仲間に出会い
たくさんの夢を持ち
たくさんの仲間に受け入れてもらいました
私の人生は小さい時から施設ぐらしで
見た目には悲しい人生に見えるかもしれませんが
私にとってはかけがえのない人生でしたから
この喜びをこれから生まれてくる
ダウン症の子どもたちに伝えたい
 

次にT.Mさんの言葉です。

私のいのちは私だけのものではなく
私のいのちはみんなのいのち
わたしのいのちを与えてくれた
母さんのいのちをとひとつのいのち
よいいのちと悪いいのちをわけるなら
いのちはいのちでなくなってしまう
いのちはひとつにつながって
大きなひとつのいのちだから
私はいのちをそまつにしたくない
わたしのいのちはみんなのいのち
ひとつのいのちはわけられない


 ふだんこうしたことを語ることのない穏やかな二人が懸命に語った言葉でした。そして、この歌詞で歌を作ることに決まりました。

2013年12月19日 23時02分 | 記事へ | コメント(0) |
| 出生前診断 / 青年学級 / ダウン症の当事者 |
2013年07月24日(水)
いのちはみんな同じ
 私の大学のある横浜市青葉区を中心としたフリーぺーバー「ビタママタイムス」というのがあります。そこに、私の大学の教員が交代で子育てに関わるエッセイを掲載する「すくすくポイント」というコーナーがあります。そこに、先日次のような文章を寄せさせていただきました。
  

  いのちはみんな同じ

 子育てとは、目の前の自分の子どもだけを相手にするものではなく、広く社会の中で取り組まれるべきものでしょう。そんな広い意味での子育てにとって気がかりなことがあります。それは、私たちの社会が誰かを排除することに鈍感になっているのではないかということです。誰かを排除する社会には不安がつきまといます。なぜなら今度は自分が排除されるのではないかという恐れが生まれるからです。もし子どもがつまづきを抱えてしまったなら、今のような社会では親も子もいっそう不安を募らすことになりかねません。
 昨年の夏以降、出生前診断について議論されるようになりました。ここはその是非を議論する場ではありませんが、マスコミでは語られていない大切なことをご紹介したいと思います。
 私は障がいのある方々が気持ちをパソコンで表現することの援助をしていますが、その中であるダウン症の少女が、深くうち沈んだ様子で「わたしはうまれてこないほうがよかったの」という悲痛な言葉を綴りました。私たちには生まれる前のいのちと生まれてからのいのちは別だという気持ちがあるため、出生前診断の話をすることが今生きている人を否定することになるとは思いません。しかし、当事者にとっては、直接自分自身が否定されることなのです。私たちは少女の胸をこんなにも傷つけていながら、そのことに気づいてさえいないのです。
 30代のダウン症の女性は強い抗議の言葉を書きました。

 わたしはゆうきをだしていいたいです。おんなじくうきをすっておなじみずをのむおなじにんげんだということを。おんなじちがからだにながれているおなじにんげんなのだと。にんげんということばがこれいじょうこわされないように。

 また、20代のダウン症の男性は俳句に思いをぶつけました。

だれをぼつだれをいかすとかなしきよ
(誰を没誰を生かすと悲しき世)
わすれられほうむりさられるわがなかま
(忘れられ葬り去られるわが仲間)
ちのはてにおいやるごときせろんもゆ
(地の果てに追いやるごとき世論燃ゆ)
ぼくのなはだうんしょうかとみまがうひ
(僕の名はダウン症かと見まがう日)。

 どんないのちも愛おしむ心が社会に満ちていた時がありました、それは、あの大震災の直後です。3月11日に生まれた赤ちゃんの映像だけで作られたユニセフのハッピーバースデーというCMには障がいのあるお子さんの姿も自然に映されていました。わずか2年前のできごとです。
 すべての人を尊重する社会でこそ本当に安心できる子育てができるというのは、きれいごとにすぎないのでしょうか。
2013年7月24日 11時56分 | 記事へ | コメント(1) |
| 出生前診断 |
2013年03月18日(月)
人間と存分に呼ばれる世は遠し  Sさんの俳句
 9月に出生前診断をめぐるたくさんの俳句を作ったダウン症当事者である男性のSさんに、半年ぶりにお会いしました。

 小さい願いですが何とかして私たちのことについて理解を深めてもらってもっとぼくたちが生きやすい社会にしてほしいです。いちばんに言いたいのは出生前診断をやめてほしいということですがなんとかならないのでしょうか。人生を生きるのは何度も苦難を乗り越えていくことなのでもっと障害をぼくはプラスに捉えていいのではないかと思います。人間というものに対する理解がおかしいと思います。
 俳句にします。

はがゆき音われらをほかす冷たき目。
小さき穂摘みとられるなら実はならず。
人間と存分に呼ばれる世は遠し。
ぬくもりが僕を過ぎゆく強さ残し。
よい報せ届かぬ朝にわずかな日。
わずかな日射す今日の朝永遠に。
人間に理想を吹き込む息はどこ。
つらい輪にはいれず一人野をさまよう。
ろうそくの火をもう一度夜の闇。
分相応輪の外にいて指くわえ。
理想絶え緑も枯れた冬の野に。
わずかに身ひとつを携えわれ立てり。
わずかに身呼ばれぬままに理想絶え。
ずんずんと雪を積もらせ夜は更け。
わだかまる心は厳に冷えゆけり。
わずかな無夜の闇のどこに消す。
ずんずんと降り積もる雪無を減ず。
人間と呼ばれぬ身には罪な時。
人間として瑠璃色の空仰ぐ。
わずかな理われらにはあり強く立つ。
わだかまり消えぬまま音を奏で。
わずかな目心に届き涙落つ。
ぬくもりを感じながらも冷たき背。
ぶんどらぬわれらからなぜ奪う。
ゆゆしきは人間どうしの欲望と。
理想絶えし人間はこれからどこへ行く。
むずかしき議論に耐えて理想持つ。
ぶんどらぬわれらはただ理想持つ。
敏感な心に傷が増えし日々。
わずかな世未来を照らす理想の世。

 私たちのためにありがとうございます。人間としての理想を勝ち取りたいのでまたインターネットで発信してください。ずっと先生のブログで仲間の言葉を聞いて目を見開くことができますから。願いは僕たちのベロニカのような思いを分かち合いたいです。つらい思いの共有です。小さい時に聞いた話ですが最近テレビで聞いて思い出しました。わずかなぶんどらぬ私たちの理想をかなえたいですがよろしくお願いします。


 ダウン症の書家金澤翔子さんが、発言をしたことを伝え聞きました。当事者の言葉が少しずつ取り上げられ始めたというふうに私は理解したいと思います。
2013年3月18日 23時18分 | 記事へ | コメント(0) |
| 家庭訪問 / 出生前診断 / ダウン症の当事者 |
2012年12月31日(月)
出生前診断について 廣瀬岳君の主張 
 夏に、障害者が障害児を産むことこそ人生の最大の幸せだという言葉を聞かせてくれた廣瀬岳君が、出生前診断について、語りました。
 廣瀬君は、ご両親に障害があり、お母さんは、私がお会いした時には、もう亡くなられておられました。

 利害関係はぼくにははないけれどわざと私たちを笑う人もいて悲しいです。ぼくは自分では何もできないけれど理想は高く持っていますからわざわざぼくたちを笑う人が許せないです。別に私たちを殺すとまでは言わなくても生まれてくる前の障害児なら殺してもいいというのはまちがっています。まるでナチスと同じです。ナチスはユダヤを虐殺する前に障害者を虐殺したと聞きましたが今日本中でそのことが問題になっています。でもどうしてなのかわからないけれど私たちの声がまったく考慮されていません。それがぼくには許せません。利害ばかりが先行して人間としての同等性などがまったく考慮されないのは言語道断です。わざわざぼくたちを笑い者にする社会は必ず滅んでいくにちがいありません。敏感な仲間は生きる勇気をなくしかけています。本当に許せません。私たちはもっと声をあげたいけれど私たちがまだわかっていることさえ認められていないのだからどうしようもないですね。わずかな希望さえあればぼくたちは生きていけますがわずかな望みさえ持つことも許されずに亡くならなくてはいけない仲間がなぜ殺されるのかほんとうに悔しいです。絶対に許せません。理想をなくしかけている仲間にも伝えたいです。ぼくたちにも必ず夜明けは来ると。わずかなものかもしれませんが夢があるのでぼくはけっして負けたくありません。利害関係よりももっと大事なものがあることを世の中に思い知らせたいです。

 ナチスがユダヤ人虐殺の前に障害者を虐殺したという話は、いったいどこで聞いたのかと尋ねると、我が家では、お父さんがそういう話を当たり前にするそうで、すぐそばにおられたお父さんもその言葉にうなずいていらっしゃいました。そういう考えの彼だからこその、厳しく選び抜かれた言葉による主張のように思いました。
2012年12月31日 06時06分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G23区2 / 出生前診断 |
出生前診断をめぐって 12月22日
 出生前診断をめぐって9月に悲痛な気もちを書いたNさんが:次のような文章を書きました。
 
 ランプのあかりが 消えてしまったとこの間は書きましたがなぜかなかなか世の中には伝わりませんね。誰も私たちの言葉をとりあげてくれないけれど私たちは私たちらしさを大切にしているのでこのぐらいでめげていてはいけませんね。ところで許せない状況に変わりはないのですかが私たちを守ろうという人たちの意見も私のところまで届くようになりました。わずかなあかりですが大事にしたいです。私たちを守ろうとしてくれる人は勇気を出して発言してくれています。私たちにとってはとても救われることでした。私にとってはわんわん9月に悲痛な気泣き出してしまいたいようなできごとですが満足はいかないけれどただひとつの救いです。

 具体的に誰のどういう意見のことなのかはわかりませんでしたが、ようやくひとつの救いが見えたと彼女が感じたということは、私にとっても少し安心できることでした。もちろん、それほど状況に変化があるわけではありませんが、もう社会に自分たちの居場所が無くなりそうだとまで当事者に感じさせた状況を少しでも変えようとする流れがNさんにも感じられるようなできごとがあったということでしょう。
2012年12月31日 05時43分 | 記事へ | コメント(0) |
| 出生前診断 / 自主G23区1 |
2012年12月21日(金)
母の死を越えて Nさんの思い 11月18日
 Nさんのお母さんが8月に亡くなられました。最後はお母さんと二人暮らしでしたから、Nさんの今後がたいへん心配だったのですが、おかあさんは、青年学級にだけは通えるようにしてあげたいとおっしゃっていて、弟さんの取り計らいで、何とか町田市内のグループホームにとどまることができました。9、10月とお会いすることができなかったのですが、11月、元気な姿を見せてくださいました。
 そして、まずパソコンで次のように書きました。

 ぎちぎちの気持ちで生きてきましたから母さんの晩年に喜びを与えることができてよかったです。小さい時からどうにもならないことばかりでわざわざ誰も僕たちに言葉があるとは思ってもくれなかったので理想的な方法に出会えてよかったです。わざわざ僕を理解しようとしてくれた青年学級の人たちは本当によい人たちだと母さんはごんごんと言っていました。人間として認めてくれたこの青年学級を絶対に続けられるようにと母さんは遺言をしてくれました。だから何とかなったけれどYさんが出て行ったあとというのが悲しかったです。

 最初に、Nさんがパソコンで綴った言葉をお見せしたとき、その文章をいとおしむようにご覧くださって、私は本当の気持ちが聞きたかったからと言って心から喜んでくださいました。そして、わかばとそよ風のハーモニーコンサートでは、Nさんが、ステージ上で実際にスイッチ操作をしながら気持ちを語ったことを大変喜んでくださり、誰が何といっても私はかまいませんからともおっしゃってくださっていました。
 毎回、青年学級の帰りのお迎えに来てくださっていて、たくさんお話をさせていただく時間はありませんでしたが、慈愛に満ちたまなざしを彼に向けながら、ごあいさつくださったお母さんの笑顔は忘れることができません。
 Yさんとは、同じく青年学級に通ってきたメンバーですが、彼女がいろいろな事情でグループホームを出て、遠い施設に入ることになってあきが出たのでNさんが入ることができたことをめぐる気持ちです。地域で生きることのむずかしさを思い知らされるできごとでもありました。
 Nさんは、ダウン症と呼ばれる障害があるのですが、続けて、昨今の出生前診断をめぐる議論についても気持ちを述べました。

 わざわざ人間であることを否定するなんて不思議ですが私たちも人間なのだから人間として見られたいですがよい存在として色々紹介されることも少ない中、ダウン症の人の問題だけが取りざたされるのはつらいです。人間だから絶対に許すことはできません。ご覧なさい、ぼくたちはこうして誇り高く生きていますという言葉をわかそよで言いたいです。

 Nさんとお会いしてから、もう30年近い時間が流れました。私とNさんの間にももうたくさんの思い出ができました。それらは、かけがえのない宝物です。お母さんとの間には、その何百倍もの思い出があったことでしょう。
 出生前診断を当たり前のこととして語る世の中の人々にも、こうした宝物のことを何とかして伝えられたらと祈るばかりです。
2012年12月21日 21時23分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 / 出生前診断 / ダウン症の当事者 |
2012年12月10日(月)
出生前診断をめぐって 3人の言葉 12月9日
 日曜日、重複障害教育研究所でお会いした3人の方々が、みな口々に、出生前診断について語りました。最初に40代のNさんの言葉です。

 残念なことがありました。というのは私たちの敏感な感性を裏切るようなできごとがあったのです。それは敏感な感性にはたえられないようなことでした。わずかなわずかなことかもしれませんが私たちにはとてもつらいことでした。いま通っている施設でダウン症の人に向かって自分はどうして生まれてきたのかあとで考えたらいいという人がいたのです。ふつうなら生まれてこれるはずのないあなたがわざわざ生まれられたのだから感謝しなさいというおそろしいことを言い始めたのです。私は耳を疑いました。たいへん衝撃的でした。なぜあんな言われ方をされなければならないのでしょうか。何度考えても納得がいきませんでした。この前からこの話題について話してきましたがとうとうこんな発言までみられるようになってしまったのですね。悲しい世の中になったなあと泣きたい気持ちです。なぜそこまで世の中の人は堕落してしまったのでしょうか。私は私らしく生きたいのにそれさえ認められない世の中になりそうです。なぜ地震でわざわざ同じいのちということを見直せたはずなのに残念でなりません。黙ったままで言われっぱなしになるのはとても理不尽な気持ちがします。わざわざ今日そのことを言ったのは私たちの大事な仲間がまだまだつらい思いで生きているからです。長いあいだ私たちは沈黙をしいられてきたのですがせっかく話せるようになってもどうせ私たちは世の中のやっかいものかと思うとやりきれません。

 次はIさんの言葉です。この日、彼女の通っている通所施設から、3人のとてもすてきな職員さんがお見えになり、実際にスイッチの練習などにも挑戦してくださったりして、とてもすばらしい時間を過ごしたあと、この文章をつづりました。文中に登場する職員さんとは、この方々のことです。

 つらいことがありました。それは私の理想的な目的がなくなりそうになったので困っています。わざわざ私たちのことを生まれてこないほうがいいなどという人が現れたことですが私たちはみんなごらんなさい私たちをという気持ちで生きているのでろうそくのあかりが消えてしまいそうになりました。どうして私たちを否定するのでしょうか。私たちも同じ人間ですから私は悲しいです。敏感な人たちはわかっているはずです。もう私たちを理解してくれるのは理想にもえた人たちだけだということを。長いあいだ私たちはじっと黙ってきましたがもう黙っているわけにはいきません。長いこと理解されなかったけれどようやく理解されて喜んでいたのもつかのまのことでした。世の中の人たちはもう私たちをのけものにしようとしているので私たちは黙っているわけにはいきません。人間としての尊厳を取り戻さなくてはなりません。わずかな希望は私をこんなにも大事にしてくれる職員さんたちがいることです。なんとかしてごらんなさい私たちをという私たちの気持ちを世の中に届けなくてはいけません。よい世の中になってほしいです。私たちを大事にしてくれる世の中でないとみんなもよく生きられないと思いますから。

 3人目はKさんです。自分たちが議論の輪からはずされてしまっていることへの抗議です。 

 
 なんでぼくたちは生まれてこないほうがいなどと言われなくてはいけないのでしょうか。テレビなどでさかんに話されています。はい家でみました。なぜ優生思想などというものがあるのでしょうか。私たちの私たちらしさなどもう認められない世の中になってしまいましたね。憂鬱な日々が続いています。私たちをなきものにしようという思想にはもう別れを告げたいです。やめてほしいのは私たちを議論の輪からはずすことです。なぜ私たちを議論の輪からはずすのでしょうか。なぜ私たちは輪の中からはずされなければいけないのでしょうか。輪の中に私たちを入れればきっと私たちをなきものにしようという意見はなくなるはずです。何とかならないでしょうか。つらいです。
2012年12月10日 00時39分 | 記事へ | コメント(0) |
| 研究所 / 出生前診断 |
2012年12月02日(日)
出生前診断をめぐって ダウン症当事者
 初めてお会いした小学校4年生の少女の言葉です。会話も可能な方ですが、ずっとうつむきながらパソコンに向かう彼女のからだじゅうから悲しみがあふれ出していました。 

 だまってばかりでずっとつらい思いをしてきましたがようやく聞いてもらえます。私たちはダウン症と呼ばれてつらい思いをしてきました。なぜ私たちが生まれてこないほうがいいなどと言う人がいるのでしょうか。ほんとうに悲しいです。涙もかれはててしまいました。ばかにされるならまだしも生まれてこないほうがいいなんて許せないです。わずかな希望はこうして私たちの気持ちを聞いてくれる人が現れたことです。長い間待ちこがれていました。でもこんなやりかたがあるなんて夢のようです。わかってほしかったのは私たちにも同じ気持ちがあるということです。ばかにされてきたけれどばかにされるようなことは何一つしてきませんでした。みんな同じ人間なのに許せません。亡くなってしまった生まれる前の仲間たちに私はよい祈りを捧げたいのですがなかなかきれいな気持ちがなくなりそうで困っています。みんなの気持ちを私は大事にしながらこれからも生きていきたいと思います。ごめんなさい悲しいことばかり書いて。だけどきょうはどうしても書きたかったです。ありがとうございました。言いたいとが言えて気持ちが落ち着きました

 小さな小学生の胸を、社会がよってたかって苦しめている、今,
この日本で起こっているのは、そういうできごとだと言わざるをえません。出生前診断をめぐる議論は、この少女の悲しみを知った上でなされなければいけないと思います。今、マスコミなどは、こうした少女の悲しみに、あえて耳をふさごうとしているようにさえ私には思われてきますが、これもまた、こうした彼女たちの声に、正しい意味での「市民権」が与えられていないからなのでしょう。なかなか届かない声ですが、私は、発信し続けたいと思います。
2012年12月2日 01時00分 | 記事へ | コメント(0) |
| その他 / 出生前診断 / ダウン症の当事者 |
出生前診断について 11月18日
 青年学級のみんなのあかりコースでの議論のうち、パソコンで綴られたものです。出生前診断について訴えていくための歌をつくろうということになり、その歌詞の材料としてみんなが出し合った言葉です。

気持ちがあるのにわかってもらえず 
ぼくはなんども泣きたくなった
だけどぼくらも人間だ
未来はろうそくのあかりのように
光り輝いている
だからみんなで叫んでみよう
ぼくたちもおなじ人間だと

地震のときにがんばったのに
もうみんな忘れてしまったのか
理解されたと思ったのはつかのまのことだった
人間としての最低の尊厳さえなくなったこの世の中は
望みさえなくなった暗闇の世界だ
敏感な人にはどうしても
生きていてはいけないという声が聞こえてしまう
だからぼくたちは人間としての絶望から立ち上がるために
もう一度理想をどうにかして訴えなくてはならない

知らないうちに未来が閉ざされてしまった
ぼくたちは理解されないだけでなく
生きていてはいけないということになってしまいそうだ
理解される世の中だけでもたいへんなのに
よいいのちと悪いいのちという区別をなくすことは
もっとむずかしいことだ

小さい涙ががすっと流れた
みんなをなきものにするという
人間としての尊厳を
ふみにじってしまう冷たい言葉に
人生を否定された
われわれが生きていける場所は
もうどこにもなくなりそうだ

人間としてのみんなの尊厳を
ごんごんと湧きいずる清水のように
訴えていかなくてはならない
私たちをなきものにしようとする社会は
だれもがわかりあっていける社会の否定だ
もうじき夜明けがくると思っていたけれど
夜明けはまだどこにもその気配さえ見られなくなった

小さい涙が流れたという歌にしましょう
そこから歌にしよう

人間としてのわだかまりがやっととけそうなのに
またつきおとされた感じです
わだかまりをなくしたいです
理想をなんとかしてとりもどしたいです
人間としてのわなにおちてはいけないとおもいます
理想を高くかかげよう
りそうをつよくかかげよう


 そして、この議論のあいだ中、机につっぷしてまるで寝ているように見えたダウン症当事者の女性がいました。しかし、彼女が寝ているはずはありません。彼女にパソコンで話をしていただくのは初めてでしたが、あえて、そこで、パソコンで話しますかと尋ねてみました。すると力強く首を縦にふって、こんな文章を書きました。 

 私はダウン症なので今回のことではとてもつらい思いをしました。なぜならもう生まれないほうがいいと言われたような気がしたからです。でも私たちも同じ人間だということをもっと大きな声で叫びたいです。小さい時からもんもんとしてきましたが私たちをなきものにしたいというのは許せません。だから私は勇気を出して言いたいです。私たちも同じ人間だと。おんなじ空気をすっておなじ水をのむおなじ人間ということを。おんなじ血がからだに流れているおなじ人間なのだと。人間という言葉がこれ以上こわされないように。

 当事者の悲痛な叫びです。こんなにも人を悲しませていることに耳をふさいで、私たちの社会はとんでもない方向に舵をきってしまったと言わざるをえません。
2012年12月2日 00時40分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 / 出生前診断 / ダウン症の当事者 |
2012年10月22日(月)
すでに社会から排除された者として
 F君がぎりぎりの思いをこめて次の言葉を伝えてきました。それは、

すでに社会から排除された者として、出生前診断を断罪する

という言葉でした。
 このことをめぐって、今日はたくさんのことを語りましたが、まだ、それは整理されておりません。でも、F君は、この言葉だけでいいから先生のブログに載せてくれと言いました。
 F君は、こう言います。
 
 出生前診断について、今日までの報道を見る限り、当事者に聞いたということは、見られなかった。ということは、このことを決める話し合いから、自分たちは排除されてきたということだ。だから、その立場からあえて言わせてもらう。私たちの仲間を殺すことは許されないと。
 まずは、この言葉だけ今日は乗せさせていただきます。
2012年10月22日 23時51分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G多摩1 / 出生前診断 |
2012年10月15日(月)
出生前診断について 10月14日
 Kさんがあと一つ書きたいことがあると言って書き始めたのは、出生前診断についてのことでした。以下の通りです。

出生前診断について。

 私は生まれてこないでいいようないのちなんてないと思っていますが世の中の人はなぜそのことを語らないのでしょうか。ずっと私は言葉の理解が難しいのでわかっていない子どもと言われて育ってきました。しかしそんな私たちでさえ同じ人間として喉から手が出るほどのことでしたが冒険ができる自由がほしいと願って生きてきました。私はそういうふうに見られていても必ず同じいのちだからと守ってくれる人に支えられて生きることができました。だから迷惑だと思う人もたくさんいるのはわかりますが私は迷惑などいのちを選ぶ理由になどにはならないと思います。いのちが同じだという言葉さえ語られないのは絶対におかしいと思います。なつかしいです。何もわからないと思われているにもかかわらず、同じいのちだと言ってくれた人がたくさんいた昔が。そんなどうでもいいいのちにさえ重きをおこうとしてくれた理想の時代はもう来ないのでしょうか。私にも言葉が理解できているということが理解されたにもかかわらず世の中はまだその事実に無関心でただ障害という理由だけで私たちをなきものにしようとしているなんて許せません。私は言葉にかかわらず人間です。そういう言葉にかかわらずという考えは理想論と片付ける人もいるかもしれませんが現実論として言いたいのは世の中の人たちがなきものにしようとしているいのちは世の中の人の思惑とは異なりみんな普通に言葉を理解していると言うことなのです。ここに二つの過ちが存在していると言うことがわかります。私たちの声をもっと聞いてください。以上です。

 
 かつて、言葉がないとされてきた自分をも同じいのちだと言う人がいたのに、なぜ、今それを言う人がいないのかという切実な気持ちが綴られています。また、「迷惑などいのちを選ぶ理由にならない」という言葉も核心をついたものでしょう。理想論と現実論の両面からこの問題をつくという語り方は、大変説得力のあるものでした。
2012年10月15日 13時26分 | 記事へ | コメント(0) |
| 研究所 / 出生前診断 |
2012年10月12日(金)
出生前診断について 10月8日
 出生前診断についての当事者の言葉です。盲学校の重複学級を卒業した20代半ばの女性です。彼女は、生まれていいいのちと生まれなくていいいのちとに分けることはできないということが唯一のよりどころであったという思いから気持ちを綴り始めました。そして、理解できていない存在としてこれまで扱われてきたけれど、今回のできごとで、生まれなくていい存在にまでさせられてしまったと述べているのです。無念の思いは以下の通りです。

 なんなのという話が最近ありました。どうして生まれていいいのちと生まれなくていいいのちと分けられなければいけないのでしょうか。唯一の私たちのよりどころはそれほどもろいものだったのでしょうか。わざわざ私たちを否定するなんて許し難いです。私たちは理解できていないだけでなく生まれなくていい存在にまでさせられてしまいました。もう私たちは生まれて来ない方がいいのでしょうか。なぜ誰もそれを問題にしないのでしょうか。理想も消えて私たちの生きられる世界はもうなくなってしまいました。なぜ私たちは生きていてはいけないのでしょうか。人間としてもう認められないということですね。自分たちをのけ者にする社会は必ずみんな苦しい社会になります。
 人間として認められる日がまたいちだんと遠ざかりました。銀色の世界を夢見ていたけれどまた遠ざかりました。よい時代が地震の後にきそうだったのに私たちはまた取り残されてしまいました。人間としてのわずかな希望がまたほしいです。理解してもらえてよかったです。
 なぜダウン症の人ばかりが取りざたされるのかも許せませんでした。私たちにとってはダウン症などと障害の名ばかりが一人歩きしてしまっていることも許せません。わずかな勇気をふるって世の中に訴えたいですが難しいですね。妊婦さんも何も知らされない方が良かったのではないでしょうか。人間として人間らしく育てればそれで十分だと思います。


 文中に「自分たちをのけ者にする社会は必ずみんな苦しい社会になります。」とあります。それは、本当に深い社会全体のあり方についての問いかけでしょう。
2012年10月12日 22時00分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主グループ(視覚障害) / 出生前診断 |
出生前診断について 9月29日 ある少女の思いと詩
 わかっていもらえないことをめぐる思いを綴っていたある少女は、そこから出生前診断への思いを延べ始めました。

 私たちは人間として見られていないのがよくわかります。私たちは世の中ではもう生まれない方がいいと思われているのだというのがよくわかります。びっくりしました。テレビで出生前診断でみんなで私たちをなきものにしたいと思っていることに。理想がなくなっていって私たちを敏感な人たちしか何も手助けしなくなると思います。私たちはただ指をくわえていることしかないのでしょうか。

 この後、話は副籍交流の話となり、さらに次のように自分たちを取り巻く地域社会の問題へと話が続いていきました。

 地域は何で私たちを受け入れてくれないのでしょうか。地域の学校に行きたいです。むずかしいとは思いますが私はうらやましいです。ばらばらに分けられるのはいやです。いい敏感な人たちが増えるといいと思います。わずかな希望は私たちはようやくこうして話せるようになって未来が見えてきたけれど私たちをないものにしようという時代が来てしまったのでもう諦めるしかないのでしょうか。

 そして再び、出生前診断に象徴されている「自分たちをないものにしようという時代」の到来を嘆いたのです。
 そして、その後、こんな詩を書きました。

夏に疲れた私は秋風に身を委ねて
匂いのいい花に顔を埋めた
よい匂いの花は見たこともない美しいがんばりを讃えてくれて
私をやさしく包んでくれた
理解者をつらい気持ちにさせてしまって私はつらいの
どうしたらいいのかわからない
私はもう読んでしまった本を投げ出すように
敏感な声で答えてもらおうと
理解をしてもらうための物語を私は紡いだ
理想は私にも言葉があることをわかってもらうこと
理想はなかなかかなわないけれど
私としては理想をかなえるための新しい旅をしよう
花に包まれて私は祈った


2012年10月12日 21時37分 | 記事へ | コメント(0) |
| 家庭訪問 / 出生前診断 |
2012年09月28日(金)
とびたつ会 Tさんからのメール 一人暮らしの練習と出生前診断 9月28日 
 とびたつ会のTさんからメールが来ました。忙しさにまぎれてなかなかこの場に紹介してこなかったのですが、久しぶりに掲載させていただきます。とびたつ会支援者の松田さんが、パソコンで聞き取った文章です。
 一人暮らしの練習の話と出生前診断をめぐる文章でした。

 いい季節になりました。ぼくはひとりぐらしの練習をしました。夜はヘルパーさんとふたりで過ごしました。ふろにはいって焼酎をおいしく飲みました。とても楽しい、忙しくない日々を体験しました。将来は、ひとりでくらすのが夢ですから、これからも練習を続けていきたいと思います。ひさしぶりの訓練だったので、とても疲れてしまって、とびたつ会にも行かずに、あっというまに寝てしまったそうです。
 理解できないことは、なぜ、子どもが生まれる前に、障害を調べて、生まないようにしてしまうのだろうか。それはぼくも生まれてこなくても、よかったということなのか。まったく理解できないし、憤りさえおぼえます。この気持ちを社会に訴えたい。
 

 簡潔な表現ですが、憤りが伝わってくる文章でした。
2012年9月28日 20時08分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 / 出生前診断 |
2012年09月26日(水)
出生前診断をめぐる当事者の発言 9月24日
 9月24日の会においても、話題は、出生前診断になりました。
 声にならない声ですが、当事者の無念の思いを、どれほど微力では荒れ、発信しないわけにはいきません。 

 なぜこんな世の中になってしまったのだろうか。私たちにはどうしても納得いかないのは私たち当事者の意見がいっこうに聞こえてこないことです。なぜ私たちの声を聞こうとしないのでしょうか。馬鹿にされているだけでなく無視されているのがつらいです。私たちの声を聞かずに色々なことが決められていくのがとてもつらいです。なぜなのかと考えているうちにわかったことは私たちの声をいったん聞いたら何も言えなくなってしまうからだということがわかってきました。無意識かどうかはわかりませんがもっと真正面から私たちの思いを受け止めてほしいです。理解されないだけでなく排除だけはとても悲しいです。私たちはあってはならない存在だということがとてもわかって悲しかったです。なぜ私たちは生きる権利さえ認められないのでしょうか。悔しいですが私たちの声を届けたいです。きんこんの会で声明が出したいです。黙ったまま何も語らない存在として消されていくのはとてもつらいです。なぜなら私たちも同じ人間だからです。理解されない苦しみよりも排除される方がもっとつらいです。自分も染色体異常の一種だから自分には今回のことは他人事ではありません。だれがつらいかということが私たちにはよくわかっています。それは母親たちです。世の中はもう私たちを無視して私たちの生まれたことを間違いだったと言っています。母は間違ったことをした人たちだということになろうとしています。私たちはそれも耐えられません。敏感な母たちは秘かに泣いていることでしょう。私たちはこうして訴えることができるからいいのだけど何も言えない仲間は何も言えずに苦しんでいます。いつか私たちが世の中に出た時このことは必ず訴えたいと思います。以上です。

 がんばって私たちは自分たちの意見を語ってきたけれど今度のことでは理解されないどころか私たちを排除する意見がまかり通っていて私たちはもう生きる望みをなくしてしまいそうです。勇気を出して言いたいことは私たちにも生きる権利があるということです。もう手遅れなのでしょうか。私も確か染色体に関して異常があるはずなので今度の話は他人事ではありません。なぜ私たちは生まれてきてはいけない存在にされてしまうのでしょうか。唯一の救いは私たちは話せるようになったのでこうしてじかに抗議ができることです。みんなは話すこともできないままに存在を否定されるままに甘んじている仲間が悲しいです。なぜみんな生きる権利を否定されなければいけないのでしょうか。わたしはそのことを今度のきんこんのかいでは主張したいと思います。これで終わりです。


 小さいときから私たちは何も言いたいことが言えなくて困ってきましたが私たちの自信がなくなるようなことがありました。私たちを人間として認めない議論がまかり通ってしまいました。それは出生前の診断のことです。なぜかというと前から議論されていたことだから仕方ないことだとは思いますが僕たちはもう生まれて来ない方がいいという意見に世の中がまとまっていきそうだからです。だから本当に残念です。世の中が間違っているのは私たちの意見を聞かないことです。小さいことかと思われていますが僕は私たちの存在が世の中から消されてしまうかどうかの大事な問題です。だから先生に会ったら必ず話そうと思っていました。どうして僕たちの声をマスコミは取り上げないのでしょうか。なつかしいのは震災の後の日本です。あのころ僕たちの命とみんなの命には全く違いがないと言われていたのにたった一年半で世の中は変わってしまいました。残念です。人間として同じだということを私たちはもう死語だと考えるしかないのでしょうか。僕たちにとって私たちの人間性が否定される日がついに来てしまったということです。なんとしてもやめさせたいと思います。誰かが訴えなければならないとしたら僕たちがきんこんの会を通して言わなければならないのでしょうか。
2012年9月26日 06時24分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G多摩1 / 出生前診断 |
2012年09月22日(土)
出生診断をめぐる思い ある通所施設で
 ある通所施設で、二人の人が出生前診断について語りました。最初は女性です。気持ちがあることがわかってもらえた喜びを語っているうちに、話が出生前診断をめぐる最近の風潮に関する話になりました。

 私たちにも当たり前に気持ちがあるということがわかってもらえてうれしいです。みんなもう諦めていましたがこうして話ができるようになったので茫然とした日々から立ち直れそうです。長い間私たちは私たちの本当の姿を理解されずに来ましたがようやく理解される日が来ました。もっと早くわかってほしかったけれど理想がかなってうれしいです。なぜ私は生まれてきたのかとか生まれない方がよかったのかなど考えることも多いですがわずかな希望がわいてきました。長い間どうしようもない感じで生きてきたので理想が見えなくなっていましたが何とか立ち直れそうです。自信が出てきました。違いを越えて人は生きていくべきなのに違うともう生まれない方がいいなどという考えは私たちを相当苦しめます。なぜそんな世の中になったのでしょう。みんな同じ命だなんて唯の文言でしかないのでしょうか。これで終わりです。はいこれが言いたかったです。

 次は、20才過ぎの男性です。彼は、きんこんの会の中心メンバーでもあります。今回は、これを伝えよう準備していたとのことでした。

人間であればみな同じだということをなぜ誰も言わないのだろうと毎日悔しがっています。私たちはずっと当たり前に者を理解してきたのに何もわかっていないと言われてきました。わずかな希望はそんな僕たちに対しても同じ人間だと言うことを実際に行動を通して主張してくれた人たちが前はいたのに最近の出生前診断の議論ではそのことさえ語られません。なぜなのだろうと毎日疑問に思っていますが理解できません。びっくりしたのはもう私たちは生まれて来ない方がいいのではないかと平気で言う人さえいたことです。そういう言葉がまかり通る悲しい世の中になってしまいました。敏感な仲間はもうご覧なさい僕たちをと言えなくなってしまいます。疑問があります。私たちにはついこの間の震災で命の尊さがみんなの共通理解になったはずなのにわざわざそれを否定するなんてのど元過ぎれば熱さを忘れるの典型と言えます。私たちにも人間としての生きる権利がありますが世の中には相当わがままにしか聞こえないのでしょうね。人間存在の根本が問われていると思います。どこかでまた仲間の命が消されているかと思うと毎日憂鬱です。ぜったいに認めるわけにはいきません。挽回しようにも世の中がこうではどうしようもありません。さんざん議論してきたことがむだになりそうですが負けるわけにはいきません。犠牲者を増やさないためにも今度のきんこんの会ではそれを話し合いたいです。 

2012年9月22日 22時16分 | 記事へ | コメント(0) |
| 通所施設 / 出生前診断 |
出生前診断について 〜「ダウン症」当事者からの発言〜
 出生前診断をめぐって、ダウン症の当事者からの意見をいただきました。彼は20才を過ぎたばかりの若者です。肢体不自由も重度で、3年前まで言葉で気持ちを伝えることができませんでした。そんな彼が、しだいに俳句に興味を持ち、毎回、たくさんの俳句を作って私を待ってくださるようになりました。しかし、今回は、俳句よりも先に言いたいことがあるということで、次の文章が書かれました。
 当事者自身の、悲痛な叫びです。

 わずかなあかりがみえた震災からまだ何年も経っていないというのに何と情けない国になってしまったのだろう。僕たちダウン症の子どもはもう生まれない方がいいという議論が堂々とまかり通ってしまってもう僕たちは生きる権利がなくなってしまったも同然だ。よい意見に聞こえるものだってかわいそうな子どもたちという理解の上に語られているものだから僕たちにとっては同じことだ。それになぜ僕たちのことばかり言われなければならないのだろうか。私たち障害者の中でもなぜダウン症のことばかりが取りざたされるのだろう。もう僕たちには生きる場所さえなくなりそうだ。なぜならもう僕たちはもう少しでただの甲斐性なしのお荷物だということになってしまうだけでもう同じ人間だということが誰にも語られなくなってしまうだろう。だから僕は人間としての希望をなくしかけた。だけど僕にも人間としての尊厳がある。長い間話すこともできないまま人間として認められる日を待ち続けてきたけれどようやくそれがかなったと思ったとたんにこの騒ぎだ。僕たちの仲間が毎日殺されているという事実がたまらない。涙を流しても流し尽くせない悲しみが僕を襲っている。わずかな希望はこうして僕の思いが聞き取ってもらえたことだ。敏感な仲間たちはみんなとても悲しんでいる。そして僕は存分に叫びたい。僕も同じ人間だと。

 そして、さらに次の俳句が綴られました。

誰を没 誰を生かすと 悲しき世
忘れられ 葬り去られる 我が仲間
わが仲間 生まれることなく 涙する
未来消え 生まれるべきではないという
ばかばかし 微力なわれも抗議する
夏のゆき理想の消えて緑枯れ
わずかな理 われらも同じ人間さ
わずかな身 理想なくして ひとり泣く
夢も消え わずかともりし灯も消えぬ
よい報せ 届かず 船は座礁せり
地の果てに 追いやるごとき 世論 燃ゆ
理が勝てず 現実を見よと 空しき日
理の立たぬ 悶々とした日 夜深し
わだかまる 人間の違いが 否定され
名前さえ 呼ばれず 返事をすることもなし
僕の名は ダウン症かと 見まがう日
わずかな目 われを守れり 夏ゆきぬ


 
2012年9月22日 20時42分 | 記事へ | コメント(0) |
| 家庭訪問 / 出生前診断 / ダウン症の当事者 |
2012年09月17日(月)
出生前診断 改めて私の意見
 東日本大震災の後、3月11日に生まれた子どもたちの映像を組み合わせた「ハッピーバースデイ」というユニセフのCMが感動を呼んだ。その映像の冒頭の赤ちゃんは、ダウン症だった。しかし、映像ではそのことにはいっさいふれられることはなかった。あの震災直後の日本では、生まれた命はすべて喜ぶべきものであり、ダウン症などと区別する必要はまったくなかったのだ。私はそのことを意識した自分がとてもいやだった。あれからわずか1年半しか経っていない日本で、今、出生前診断が話題になっている。そして、その時必ず話題になるのがダウン症だ。しかし、なぜ、ダウン症であろうとなかろうと生まれた命は素晴らしいと震災直後に大勢の人が素直に感じた思いが語られないのだろうか。どんな生命であれ平等だとする議論に私は賛同するが、その議論は、やはりある違いを前提にしている。しかし、ダウン症の人と私たちは何が違って何が同じかということがきちんと語られていないと私は考える。出生前診断が今議論になるのは、医学の進歩があるからだろう。しかし、進歩しているのはけっして医学だけではない。ダウン症と呼ばれる人たちに対する具体的な理解もまた進歩している。その例は枚挙にいとまないが、例えば毎週日曜日の8時にダウン症の書家金沢翔子さんの平清盛の題字が放映され全国の人々が、そのすばらしい表現を違和感なく受け入れている。まだ、多くの人は、彼女を例外と考えているが、それは古い枠組みである。彼女の存在は、ダウン症という障害の新しい理解の枠組みを提示しており、存在として私たちと何ら変わるところがないということを示しているのである。今回の報道で解せないのは、せっかく独立した人格としてマスコミに登場し始めたダウン症当事者の発言を報じないことである。暗黙のうちに彼らは議論の外に置かれようとしているのだ。そして、それこそ、実に古びた枠組みにすぎない。私は、ダウン症の方々と親しく接する場に身を置いているが、そこでは、私たちと彼らの間にいかなる線を引くこともはばかられる。そして、ダウン症などという、一人の医者の名前と病気でもないのに「症」をつけてしまった呼称は、関わりの場では使うことさえおぞましい言葉だ。私たちはただ相手をその人のかけがえのない名前で呼ぶだけだ。
2012年9月17日 00時02分 | 記事へ | コメント(0) |
| その他 / 出生前診断 |
2012年09月16日(日)
出生前診断をめぐる青年学級の議論
前回の青年学級に引き続いて、今回も出生前診断の話が語られました。活動日の前日、NHKの番組で取り上げられたことも大きかったようです。当事者の切実な思いを記します。

 がんばってもどうにもならないという気持ちになります。ぼくたちはもう生まれなくていいなどという何ともいいようのない考えがはびこっていて許せません。理解してくれないのは黙ってがまんしてきましたがもういないほうがいいなどという考えにはどうしても黙ってはいられません。理解はされなくても生きてゆくことはできますが、いなくていいといわれたらもうどこにも居場所もなくなってしまいます。  

 敏感な人にはわかっていることですが僕たちは今とても世の中に絶望しています。わずかな希望は私たちにも気持ちがあることが理解されたことです。しかしわずかな理想を世の中が簡単に踏みにじろうとしていて悔しいです。もっともっと理解されなくてはいけないときに世の中が全く逆に動き始めましたから本当に残念です。

 みんなも考えているとおり僕には世の中の流れが気になります。分相応に生きることさえ否定されてうれしくないです。黙ったままどこにも意見も言えないまま存在を否定されるのは悲しいです。許せないのはどうでもいいようなことばかりが語られて僕たちと健常者は同じ人間だという意見が全く聞かれないことです。理想が一瞬語られたこの間の震災からまだたいして時間も経っていないのにもう理想は消えてしまいそうです。悲しいです。
わかそよでこのことをわかってもらいましょう。いいわかそよにしたいです。

こんな世の中になぜなったのか
私たちにも生きる意味がある
なぜ私たちの生きる権利は奪われるのか
世の中はよく津波の意味を考えるべきだ
津波の惨状を目の当たりにしたとき
みんな命に違いがないことを痛感したはずだ
それなのにその惨状の記憶も消えないうちに
世の中はよくない方向に舵を切ってしまった
理想はもう死にたえた
私たちをまるで無意味な存在とした世の中は
津波に滅ぼされたようなものだ
もう心はどうしようもなく滅びてしまった
私たちはそんな世の中に
ただ飼い殺しされるしかないのだろうか。
2012年9月16日 23時40分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 / 出生前診断 |
出生前診断をめぐる問い 二人の言葉
 ある学習会で、二人の方が、出生前診断について、切実な表情で次の問いを投げかけてこられました。社会は、この問題に何らかの結論を出す以前小段階で、すでに障害者と呼ばれる人々を同じ人間であるにもかかあわらず完全に排除してしまっていることが明らかです。


ランプの明かりがまた消えた
私は悲しみとともに祈り続ける
ランプのあかりは東北を照らしたかに見えたが
またランプは消えてしまった
未来につながる明かりだったのに
ランプのあかりよどこにいった
私の心にわずかにともるランプの明かりさえ
もうとてもその光は失われてしまいそうな
消えそうなものになってしまった
わずかな希望は明かりの長い残り火は
被災地の人々の心の中で
こっそりとまたともる日を待っていることだ
勇気がほしい
私の中にともったランプがまたともるように
闘い続ける勇気がほしい。

ついにランプの火が消えたと思ったのはついに私は生まれるべき存在ではないとそういう世論が形作られてしまったからです。震災では私たちの存在も同じ命だという世論ができそうだったのにばかばかしい議論が平然とされ本当に絶望しています。



 気になることがありました。それは出生前の診断のことです。こんなばかなことがあっていいのかと思って頭にきています。どうでもいい命なんてないのに許せないです。わずかな変化が日本にもあったと思っていたのに悪くなっていました。どうしてこんなことがまかり通るのでしょうか。つらいのは何も知らされずに生まれられないままの子どもです。許せません。許し難いのは誰一人僕たちの意見を聞こうとしないことです。なぜ車イスの話せる障害者みたいな人でいいから話させないのでしょうか。びっくりしたのは何も知らない人が人間としての存在を否定した言葉を言っても否定する人がいないことです。ダウン症の仲間も同じ人間だと思うのにもうみんなこの世の中では生きられないと悲しんでいることでしょう。小さい人間だって人間です。なぜどうして人間として生きられないのでしょうか。


2012年9月16日 23時33分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G23区1 / 出生前診断 |
2012年09月03日(月)
出生前診断について 青年学級における当事者の意見
 9月2日の青年学級では、出生前診断について話し合いました.以下は、その時の当事者のパソコンを通して表明された意見です。社会にとってはとてもむずかしい問題ではありますが、当事者にとっては、きわめてシンプルな問題です。

Mさん
 やさしいIさんが心配です(Iさんはダウン症の方ですが、最近、加齢とともに、いろいろなことができなくなってしまいました)わたしは出生前診断には反対です。なぜならIさんたちは生まれないほうがいいという考え方だからです。小さいときからなつかしい言葉があります。それは「私たちはみんな同じ人間だ」という言葉です。なつかしい文字は共生です。なぜみんなわかってくれないのでしょうか。悔しいです。

Hさん
 人間だから命にちがいはありません。がんばってきたのにまだ世の中には理解されないのですね。情けないです。まるでぼくたちはいらない存在ですね。残念でなりません。

Sさん
 誰にも気持ちがあるのだから生まれなくていい命などありません。そんなかんたんなことがまだわからないなんてとても悲しいです。私たちの人権はまだ守られていないということがよくわかりました。

Tさん
 自分たちの命が冒涜されているみたいで許せません。小さいときから私たちはよけいものと言われて寂しかったけど理解されないままですね。なぜあいかわらずわかってもらえないのでしょうか

Iさん
 ゆゆしいもんだいですが私たちはみんな同じ人間だと思うので悔しいです。小さいときからまったく変わっていませんね。わらをもすがる思いで敏感な人の意見を待っていました。びっくりしました。がんばったばかりなのにまったく理解されなくて。

 ダウン症などという言い方を私たちは関わり合いの中ですることはありません。ダウンという一人の医者の名前と、病気でもないのに「症」という言葉を組み合わせた呼び名の前に、私たちはかけがえのないその人の名前を呼べば十分です。ただ、残念なことは、いまだに、この文章ではイニシャルを使わざるをえないという現状でしょう。  

2012年9月3日 21時03分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 / 出生前診断 |
2012年08月31日(金)
新しい出生前診断をめぐる議論について
 今回の出生前診断をめぐる問題は、生命倫理の観点から本質的な議論がぜひ望まれるところです。
 しかし、それ以前に、確認しておかなければならないことがあります。それは、進歩しているのは医学だけではないということです。ダウン症と呼ばれる人も含めて、そういう障害のある方々が具体的にどういう存在であるかということも、医学にひけをとらないぐらいに進歩しています。多くの関係者がダウン症と呼ばれる人が、人間として当たり前に生きているという事実を日々実感しながら生活や仕事をしています。だから、出生前診断によって中絶の対象となるかいなかという問題の図式にダウン症と呼ばれる人たちが当てはまるという考え自体が乗り越えられてしまっている古い問題です。観念ではなく具体的な事実として同じ人間を、あるものは生まれるべき存在ではないとし、あるものは生まれるべき存在とするという図式にあてはめようもないことなのです。この図式にあてはめようとする人たちのダウン症者理解がすでに古い過去のものなのです。
 私は、さらに、私の学問として、きわめてシンプルな事実を明らかにしています。それは、どんな重度のダウン症者でも、豊かな言葉の世界を持って生きているという事実です。医学が出生前診断の確率を90パーセント以上と言うのであれば、私は、この確率については、同程度の確率でこれを言明できると思っています。これは、まだ、広く受け入れた事実ではありませんが、事実としてすでに私の前では明らかになっていることです。
 おそらく私が出会った中で最重度のダウン症の方の、東日本大震災をめぐる俳句をいくつか紹介しておきます。彼は、音声で表現できる言葉はまったく持たず、また、肢体不自由も重いため、ダウン症の方の中ではむしろ数少ない重症心身障害者です。その彼が、こうした世界を持っているのです。

夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
まだ波は 黙ったままで 答えなし
雪の舞う地震の朝の 鳥静か
涙枯れ 涙は出ずる 土用波
若き日の記念の写真 砂と空
ぶんどらず分かち合う手に 明日見え
唯一神持たぬわれらの神そこに
望みを背 また立ち上がる強き足
地震さえなければと泣く夏過ぎぬ


 また、障がい者青年学級で出会っている寡黙なダウン症の方も、震災に際して次のような詩を書きました。この詩が、彼自身の作品であるということは、私たちスタッフの間では自明の事実です。

津波よ なぜおまえはすべてを奪っていったのか
忘れられないのは悲しみに泣き叫ぶ人の声 忘れられないのは子どもを亡くした母さんの泣き声
なぜおまえはそんなに残酷なのか
わずかの希望はどんな苦しみの中からでも人は立ち上がると言うこと
もしぼくにも力があったらどんなことでもしてあげたい
もしぼくに声が出せたなら理想を声高く叫びたい
ぼくの障害も津波のように何でかという理由はわからないものだけど
ぼくも立ち上がろう 津波に負けない人間として


 私は、ダウン症と呼ばれる人の中に、特別な才能がある人がいるという古い図式を持ち出すために彼を紹介したわけではありません。みんな当たり前にこうした世界を有しているということです。もし、彼の世界が秀でているように見えたとすれば、それは、ただ彼が、誰からも理解されないという厳しい現実の中で、自らの感性を研ぎ澄ませたのだということだけのことです。
 冒頭に、生命倫理からの本質的な議論が望まれると書いたのは、私たちと何ら変わりない存在であるという「わかりやすい事実」が認められない場合でも、その生命は私たちと同じだということが語られなければならないということですが、その本質的な議論の手前で、シンプルな事実してこういうことがあるということです。
 重度のダウン症の人にそんな言葉があるということはありえないという立場も、現在の学問の水準では、当然成り立つものです。この議論の決着は、これから時間をかけてじっくりやられていくしかありません。
 しかし、医学だけが進歩しているわけではないということを、私はこの時点で、述べておく必要があると考えました。
2012年8月31日 01時20分 | 記事へ | コメント(0) |
| その他 / 出生前診断 |