高等部2年になったG君は、文章を綴り始めるなり、臓器移植の問題から切り出してきた。
聞いてほしい相談があります。病気の人間の臓器を移植するのはいろいろな考えがあるけど、唯一心配なのは、脳死の子どもでも最後まで意識はあるのではないかということです。みんな悲しいと思う、理解されなくて。自分は脳死ではないけど、人からは理解されていないと言われているから、気持ちがわかります。みんなと考えを話し合いたいです。みんなはどう考えているのでしょうか。知りたいです。
(ここで別のグループで交わされた脳死についての議論を紹介した。)
障害のある人が意志があるのは当たり前のことです。人間だから意志があると思います。
ランニングコスト、あんまり知らない言葉だけどどういう意味ですか。敏感な人にはつらい言葉ですから使わないでくださいと言いたいです。勇気を出して言いたいです。勇気を出して言いたいです。勇気を出して理想を伝えたいです。
このあと、彼は、前回聞き取っていながら、メロディーのメモを紛失してしまった歌について、そのメロディーをもう一度教えてくれた。
G君の臓器移植の話を受けて今年社会人一年目のHさんは、次のように書いた。
小さいときから何もわかっていないと言われてきたのでやめてほしいと思います。見たわけではないのでわかりませんが、迷惑だと感じているひともいると思います。なぜばらばらにされなければならないのでしょうか。私たちは利用だけさるのはいやです。利用されるだけされてわかってもらえないなんてあまりにも悲しすぎます。なぜ世の
中の人たちは理解しようとしないのでしょうか。無理というふうに考えずに可能性に賭けてみるべきだと思います。人間だから言いたいことがあります。人間だからわかってもらいたいです。人間だから信じてもらいたいと思います。
そして、また、彼女も、詩と歌を私たちに聴かせてくれた。彼女は、メロディーは階名で書いた。
すばらしい絵巻が広がった
私の煉獄のような世界に
夢のような光がさしてきた
平和の鳩が羽ばたくように
らっぱの音が鳴り響き
私は楡の花を越え
妖精のように空を舞う
ミレドレファファミミレレドレ
ラドシラソシラソミレドレド
ラシドレドレドミレドミレ
ラシドレドレドミファミレド
ラシドレドレドミファドミレ
ミミドレドファミレミレドレド
願いが叶ってうれしいです。夢を見ているような気持ちです。理解してもらえてうれしいです。私の歌を聴いてく
れてありがとうございます。絵はらっぱと花がいいです。よろしくお願いします。
G君の歌を今回、CDにしてきたのだが、その絵は雪だるまと虹だった。それを見ていたHさんからのリクエストである。
次に訪れたNさんは、わかそよのコンサートの後、一員としてくわわったとびたつ会の話を始めた。簡単な言葉は口から発することはできるものの、内面の思いは、これまでもパソコンを通してしか語られてこなかった。とびたつ会の雄弁な仲間たちに刺激されて、こうしたパソコンで綴られた気持ちを音声で語れるようになればと思うけれど、それは、そんなに簡単なことではないかもしれない。彼女は、思いをひとしきり綴り、そして、詩を一編綴ったあと、最後に臓器移植についてのコメントを述べた。
とびたつ会にはいって楽しいです。私の気持ちを言いたいのですが、なかなか話ができません。みんなは意見を自由に言えるのでうらやましいです。理想は自分で話せることができたらいいのですが、なかなかうまく言えません。口では気持ちはうまくいきません。みんなの勇気が未来を切り開いていくようで、うれしいです。人間として生きたいと思います。夢のようです。瑠璃色の理想の光がさしてきました。理想の瑠璃色の光を、人間として理想を輝かせて生きていきたい。
不思議です、力を入れていないのでどうしてわかるのですか。奇跡のようです。未来が開けてきました。話しながらでもうつことができます。話は勝手に動きますから。大丈夫です。口は勝手に動きます。勇気がほしいです。人間だから分相応の生き方はいやです。います。分相応の生き方をしろというのは学校の先生です。進路指導ではありません。人徳のない先生です。狭間で私たちは苦しんでいます。願いは、人間としてたくましく生きていくことです。勇気がほしいです。
昨日の私にさようなら
逃れられない定めの別れ
春の風は別れを告げて
小さな私に夢をくれる
自分の夢まで飛び立って
未来もこの手に握りしめ
やすらぎの時をつかむとしよう
詩を作っていると気持ちが落ち着きます。暇な時です。人間だから願いがあります。人間だからまっすぐ気持ちを持ちたいです。人間だから言いたいことが言いたいです。気持ちが言いたいです。
(G君やHさんの)言いたいことはよくわかります。人は脳死でも意識はあるかもしれません。障害者の気持ちがわかってもらえないように、脳死の人でも理解されていないかもしれません。気持ちを分かってもらえないのはつらいことです。脳死というのは何ですか。
脳死の議論は、あくまで、脳死とされた状態にある人をどう考えるかという議論であり、そこに、共感を寄せる根拠がある。移植を待つ人のことだって、彼らはまた、私たち以上に共感を寄せられる立場にある。
最近のマスコミの報道に登場する脳死あるいはそれに近い状態とされる子どもたちの姿は、いやおうなく、理解されれない自分たちの状況に重なっくるのだろう。
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2009年7月28日 09時35分
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この4月から学校を卒業して地域の通所施設に通うようになったSさんだが、通所施設の職員の方々は、彼女の言葉の世界の存在をおかあさんから聞いて、何とかそのことを日常の関わりに生かそうとお考えになり、私に研修会で話して欲しいと依頼をなさってきた。
大学の授業でもしっかりと話をしたSさんだから、ここは、彼女に直接話をしてもらおうと考えた。そして、さらに、とびたつ会のTさんにも、話をしていただくことにした。
SさんとTさんは、2年前のわかばとそよ風のハーモニーコンサートのとのミュージカルで、Sさんが作った「野に咲く花のように」という歌を、Tさん自身の気持ちを歌にしたものという想定で演じたことがある。そして、今年は、ともに、同じステージに立った。
Tさんは、眉毛の動きなどでコミュニケーションをとる方だが、昨年の10月、スピードがあがった私の方法で、次のような文章を書いていた。
一人で苦しんできたことを言葉で語りたいと思う。本当の姿を知ってもらいたい。野に咲く花のようにの女の子にも出演してもらいたい。僕の気持ちにはそんな人たちのことがずっと気にかかっています。僕の気持ちしか表現していないので、ほかの人たちの気持ちも表現してもらいたい。過ぎたことを言っても仕方ないけど、未来に向かって僕たちの気持ちを伝えていく必要があると思う。願いはたくさんの人に理解してもらうことです。けっして負けられません。手を使って話せることを世の中の人に伝えたいと思う。理科してくれるまで訴え続けていきたいと思う。苦しみや悲しみを伝えていかなければいけないと思う。理解者を増やしていかなければいけないと思う。きっとわかってくれる人が現れると思うので、頑張りたい。(…)
この方法で話せる人がたくさんいるかもしれないと思うと胸がはりさけそうになる。僕はわかってもらっているからいい。でも、沢山の仲間が苦しんでいます。このことを伝えていかないといけないと思う。僕は負けない。
そして、この思いを受けるようにして、わかそよでは、言葉を秘めていた方々の思いをテーマに、ミュージカルも合唱も進めたのだった。
私から始めに、この方法をめぐる話をさせていただいたあと、二人に、30名を越える方々の前で、パソコンで、話をしていただいた。
まず、Sさんの語りかけから。
新しい可能性というものが小さく広がってきました。自信が出てきました。悩みも消えそうです。生きる希望がわいてきました。人間として認められてうれしいです。きじ住む未来の国が見えてきました。自分はきじが好きです。美のある国にきじといっしょに行きたいです。きじは希望の鳥ですから好きです。気持ちが言いたいと思ってきましたので願いがかなってうれしいです・残念ながら学校では疑問視されてしまいましたが、字の念じるのを読み取れるというのは本当です。人間として生まれて生きてきて願いをかなえたです。自分の人生だから自分らしく生きていきたいと思います・
ついで、Tさんから。
人間だから気持ちがあります。みんな言葉を理解していると思いますが人間として勇敢に生きていきたいと思います。Sさんはずっと言いたいことが言えなくて苦労してきましたがやっときもちを言えてよかった。そんな人がまだたくさんいると思いますのでみなさんよろしくおねがいします。自分は仲間の痛みよくわかりますから希望がわいてきました。敏感に理解してくれる人がひとりでも増えたらうれしいです。小さい時からの夢でした。人間として生きていく。人間としていきていきたいです
他の施設の職員も含めた大勢の聴衆の前で、二人は、思いのたけを述べた。方法としては、決して簡単に本人がやっているようには見えにくいものだが、二人の真剣さは、これらがまさしく彼らの心の奥底からあふれ出たものであることを、如実に語っていた。この後、会場からいくつかの質問が出たが、可能な限り二人に直接答えていただいた。
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2009年7月13日 23時37分
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朝1時間目の授業に、O君がやってきた。3時間目の授業にはなんどか参加できたが、早朝からのこの授業には初めてだ。パソコンを通じた彼からの学生へのメッセージは、次のようなものだった。(原文はひらがな)
朝からみなさん早起きですね。人間として認めてもらえるかどうか、理解しているかどうか、眠っているように見えるかどうか、心配です。僕の言いたいことを聞いてください。技術的な問題はあるかもしれませんが、自分たちはみんな気持ちを持って生きています。みんな伝えたいことがいっぱいあります。みんなもう一度生まれ変わったらやりたいことがたくさんあります。人間の権利というものがあるということは盗人にも権利があるということですが、僕たちにはちっとも権利は認められていません。理想は学校で本当の勉強ができるといいなと思いますが、まだ僕たちにはそんな簡単なことが認められていません。理想は、学校で本当の勉強ができるといいなと思います。まだ僕たちには、そんな簡単なことが認められていませんが大学に行きたいと思ってもずっと前から物理的に無理だということがわかってしまいました。人間として日本の中で生きて大変なことですが、僕たちは、自分たちの意見を言って生きていかなくてはいけないということにようやく気づくことができました。わかってくれようがくれまいが自分たちの意見を言わないと何も変わらないということがわかりました。人間として生きていく楽しさだけでなく、苦しさも含めて言いたいことを言っていきたいと思います。
この後、彼は、文字盤で臓器移植問題について語る。記録がないが、彼は、私や病院の主治医と対話を重ねたりしながら、脳死状態と判定された、あるいはそれに近い状態にある障害のある子どもの問題について心を悩ませていて、自分にとっては人ごとではないということをいい、自分としては、もういっぱい苦労してきたから死んでまで苦労したくないから今はドナーにはならないと語った。
この日の2日前、ある関わり合いのグループで、このことを何人かが問題にした。その資料もこの授業では紹介した。
K君(10代男性)(パソコンで:原文はひらがな)
今朝質問を考えました。脳死と死とは同じでしょうか?脳死は死ではないと思います。柴田先生、たとえば僕が脳死と言われたら、臓器移植はしません。つらいことが多かったので移植の手術はしたくありません。
Hさん(10代女性)(筆談で:原文はひらがな) 取り上げていた”脳死”について、K君から意見を聞かれて
脳死は人の死ではありません。人は命がある限り生きているはずだと思います。生きているとは命があるということ。命がある限り、生きているはずだと思います。生きているとは命があるということ。命があるというのは、意志があるということ。意志があるとは意味があるということ。意味があるとは、命が続くということ。命が続く限り、命は意味がある。命の意味がある限り人は生きていけるはずだ。人は命の限り生きていく。生きていくとは命をつなぐこと。命をつなぐとは、意味をつなぐこと。意味をつなぐために意志をつなぎたい。意志をつなぐために意志を伝えたい。意志を伝えるために、みんなとつながりたい。みんなとつながるために私は生きていく。私が生きていくのは命をつなぐため。私が命を伝えたら、命はきっとつながる。命はきっとつなげられる。命はきっとつないでいくはずだから。命は一つしかない。一つだけの命を、一つだけを大切にしたい。一つだけの命はいつまでもつなげていきたい。命はつなげていくもの。命はつながっていくもの。一つだけの命を大切にしたい。大切につなげていきたい。大切につなげるために私は生きていく。私は一人の命として生きていきたい。生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい。
関わっていた妻は、Hさんに”脳死になったら臓器移植を望みますか”との質問をした。
移植はしません。しない理由は大切な体だからです。したくないのは、いつも同じ気持ちです。したくない理由は、もう一つあります。なぜなら、私は親から与えられた大切な子だからです。私はこんな体だけど大切に育てられたので、大切に生きていきたいと思います。大切に生きていきたいです。のhしは人の死ではない。脳死は人の命をつないでいる能力が少し弱くなっただけです。少し弱くなっただけで死だとされるのはつらいことです。死は一つの命が消えること。死は人の命をなくすこと。死は人の命の意味を消すこと。死は人の命をつながないこと。死は人の命を断つこと。死は罪です。死ぬことは罪です。死はとても大変な罪です。大変な罪だと思います。死は始めから決めるべきこどではありません。死は定められるものではないと思います。死は定められてはいけないと思います。死は定められるべきではない。死は定められない。死は定めるものではない。死は気になることだけど、死は気にしても仕方がない。死は気にしてもいつかやってくる。死は気にしてもいつかやってきます。死は気になるけど避けられない。死は気になるけど定められた運命。死は気になるけど、気になるものだけど、決められないことです。決められないので仕方がありません。死は逃れられない。死は逃れられない。死はいつかやってくる。死が望まれないのは、命があるから。命があるから。
Nさん(20代女性)(パソコンで)
脳死は人それぞれの姿勢です。死は気遣い、くの苦労しだいで決まってくると考えています。人とは奇跡と初めて気がつくと、好きな奇跡、意味相応に生きるのです。生きていれば奇跡はきっと来て、静かにあかりを照らす。奇跡信じて生きていきたい。人間、くししつつ奇跡に手が
臓器移植法案が衆院を通過した時、とたんに脳死ないし脳死に近いとされる障害のあるお子さんたちが紹介された。青い芝の会の利光さんは、以前から臓器移植法案に反対しながら、この話は障害の重い子どもをすぐに巻き込むことになるとおっしゃっていたが、まさかこんなに早く報道されるとは思ってもみなかった。確かに、1年ほど前、読売ウィークだったかが脳死の子どもたちという特集をした時に不気味さを感じたが、すでに事態はここまで来ていた。私は、いちいち自分の関わっている相手の方の脳波の所見がどうなっているかなど聞くことはない。だが、脳死ないし脳死に近いとされる子どもたちは、私が関わっている人たちと同じ状況にあるように見える。単に可能性に過ぎないが、私には彼らにもまた言葉があるように見えるのだ。
そして、期せずして、当事者たちから意見を聞くことになった。臓器移植を待ちわびる人たちのことを思うと口は重くなってしまうが、少なくとも私は、脳死ないし脳死に近いとして報道される子どもたちの言葉の可能性を感じる以上、脳死の議論を非常に危ういものと感じないわけにはいかない。
なお、ブログで紹介する文章をできるだけ漢字まじりの文章で表すことにした。置き換えのミスもあるので、慎重にやらないといけないが、これは、ある学生さんからの指摘による。これだけの内容を綴る方々は、本当は感じで表現したいのではないかという指摘だった。そのままコピーする手軽さと、ひらがなだけで綴られる文章が、いかにも臨場感を出すのではないかなどと漠然と考えていたが、この学生さんの指摘は大変納得のいくものだった。大変ありがたい指摘だった。漢字の使用の個人的な好みには合わせられていないが、やはり、こうした形で表現されるべきものなのだろう。そして、情報保障という観点からは、ふりがなをふる必要もあるが、これは、単なる手続きの煩雑さの理由だけからご容赦いただきたい。
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2009年7月6日 21時00分
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3月に歌詞を書いた○○君のメロディーを3月、4月の2度の関わり合いで聞き取り、5月の関わり合い楽譜にして彼に見せ、パソコンでで伴奏をつけて演奏して聞いてもらった。
この日、最近の不満を書いていた○○訓だったが、ここで、一転して顔中に笑顔が広がった。(楽譜は以下の通り)
これを聞いてお母さんもとても感激しておられた。
そして、さらに、次の詩を綴る。これも歌詞だという。
ひかりのぶどう
せかいになみだがなくなるひ
にんげんははっぴーになるだろう
ちいさなゆめをたいせつにして
よいぶどうのきに
みたことのないすてきなかじつがみのったら
ひかりのなかでさけんでみよう
ひかりのなかでぬくもりが
ちいさなぼくをはげまして
においのいいみをちいさなぼくにくれるだろう
ちいさなぼくはきぼうとともに
せかいのへいわをすろーにいのる。
冒頭のメロディーは聴き取った。来月は、この歌の聞き取りを完成したい。
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2009年5月23日 23時51分
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5月21日、人間開発学部の授業に、Hさんが参加した。人前で話すのは、初めてのことだ。
授業の前に、研究室でパソコンを開いてみた。
じぶんのいけんをいいたいとおもいますがちょっとはずかしいです
ねがいがかなってうれしいです
きもちがきいてもらえてうれしいです
そして、教室へ。目の前に並んでいる80名ほどの学生は、みんなHさんと同い年。簡単に紹介して、さっそく、彼女にパソコンで話をしてもらった。学生たちは、プロジェクターで映し出されるパソコンの画面に注目する。
にんげんとしてみとめてもらえてしあわせです
まだわたしのことをしんじてくれないひともたくさんいますが わたしもにんげんとしていろいろかんがえています
にんげんとしてみとめられることがまだできていないなかまたちがたくさんいるので にんげんとしてはやくみとめてもらえるよのなかがはやくくるといいなとおもいます
にんげんとしてみとめられるせかいがくればいいなとおもいます
みんなはわたしのことをみてどんないんしょうをもちましたか
りゆうはいろいろあるかもしれませんが りかいできているにんげんとみえたでしょうか
ゆびさされたりしてきましたからなれてはいますが にんげんとしてみられないこともたくさんあります
ひどいときはりゆうもなくわらわれることもあります
ひょうげんはわるいですが ひどいひとはゆびさすだけでなくみんなのまえでぶじょくするひともいます
ゆびさされるだけならいいのですが ゆびさされるだけでなく ぶじょくされるのはたまりません
にんげんとしてみとめられることがゆめでしたので びっくりしています
ふしぎなかんじです
みんなのまえではなしができるとはおもえませんでした
びっくりしただけでなく みんなとたいとうにいられることがゆめのようです
ゆうきがでてきました みんなとはなしたいです
重い内容が一気に綴られる。「にんげんとしてみとめられる」「ゆびさされる」「ぶじょく」など、私も彼女が綴るのを初めて目にした言葉が続く。こうした言葉を通して、彼女は、自分たちの存在について懸命に訴える。いつもは、ざわざわしている空気は、ぴんとはりつめて、みんなの目は、スイッチ操作とパソコンの画面とに釘づけになっていた。
一区切りついたところで、質問を受けることにした。
最初の質問は、パソコンの画面を見ていないのにどうして打てるのかというものだった。
みていませんが みみできいているのでわかります
いいかんじです きもちをすらすらかけて
次は、「柴田先生は好きですか?」というもの。
きらいとはいえません だってわたしのことばをはっけんしてくれたひとですから かんしゃしています
ウィットに富んだ答えだった。
次の質問は、「詩は、どうやって作るのですか?」
ひとりでちいさいときからかんがえてきました
ひとりでみらいをゆめみながらかんがえてつくってきました
しをつくっているときもちがしずまります
そして、今度はHさんから質問が向けられる。
ちいさいせかいといううたをしっていますか
さすがに同世代の学生だけに、この歌を知らない学生はいなかった。
ちいさいときだいすきでした
じぶんにとってきぼうのうたでした
じぶんのきもちにむつかしいことがあるとよくくちずさんでいました
ちいさなせかいはとてもよいかしでした
みんなもそうおもいませんか
次に、こんな質問が出された。「これまで、いちばん楽しかったことは何ですか?」
じぶんのうたをたくさんのひとがうたってくれたときです
びっくりしました みんながわたしのことをみとめてくれたので
これは、一昨年の若葉とそよ風のハーモニーコンサートで、彼女の詩に曲をつけた「野に咲く花のように」という歌をみんなが歌った時のことだ。そして、今年も、また、この歌を24日、みんなで歌う。
次の質問は、「どんな言葉を大切にしていますか?」だった。
ちいさいときからにんたいということばをたいせつにしてきました
みんなはどんなことばがすきですか
たえることがおおいからです
いつもたえてばかりですから
残り時間はあとわずかになった。最後の質問は、「大切な人にひとこと言えるとしたら誰にどんな言葉を言いますか?」という、質問だった。
答えは、次の通り。最前列で静かに聞いておられたご両親を前にして、次のような文章をしめくくりとして綴った。
ありがとうといいたいです
わたしをそだててくれたりょうしんに
ちいさいときからびょうきがちでめいわくばかりかけてきましたから
ひじょうにりそうてきなりょうしんです
ぬいぐるみをたくさんかってくれたりちいさいときからじぶんのためにせいいっぱいそだててくれました
深い余韻を残して、一時間の授業が終わった。
授業後、研究室に四人の女子学生が集まった。ひとしきり、談笑したあと、みんなが、彼女との会話に挑戦した。
最初の学生に伝えた言葉は、
つたえたい
このあと、Hさんは、わざとむずかしい言葉を伝えてきた。予測がつかないようにと、彼女なりの工夫だったが、見事に、それを読み取った。かわるがわる四人の学生と、まだ短い言葉だが、会話が成立した。同年齢の女の子がまったく対等に彼女と話したいという思いだけで、懸命に彼女の手をとって「あかさたな」と振っていく光景は、新しい未来の先取りのように思えた。
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2009年5月22日 12時57分
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病と障害の心理という講義で、ハンセン病元患者の詩人、桜井哲夫さんを取り上げた「津軽、光の中へ」というドキュメンタリーを学生たちと見た。今回は、O君が、「聴講生」として参加していた。私が、桜井哲夫さんを知ったのは、『盲目の王将物語』という小節で、とりわけ、その中の「久遠の花」というのに心を惹かれていた。NHKで彼のことが紹介されるということがわかり、このドキュメンタリーを心ときめかせながら見たことを覚えている。そして、そのハンセン病による過酷なまでの人生を、すべて受け止めて、静謐な心で生きる姿に、深い感銘を覚えた。それから、毎年、このドキュメンタリーをこの講義では取り上げ続けてきた。そして、今年、O君とともに、このドキュメンタリーを見ることができるということが、また、新しい何かを私にもたらしてくれそうだった。そして、O君には、こうした生き方があるということをぜひ、知ってもらいたかった。
そして、映し終えて、彼にパソコンで感想を求めた。
いいばんぐみでしたゆうきがでてきました
みていてうらやましかったです
ぶんしょうをみているとみえていないとはおもえませんでした
にんげんのすばらしさをかんじました
いいひかりがさしてきました
ちいさいときからにんげんとしてみとめられたいとおもってきたので
みとめられるということのいみがよくわかります
にんげんとしていきていきたいとおもうので
にんげんとしてみとめられることのいみがよくわかります
びょうきはちがうけどゆうきがでてきました
O君は、学生たちと意見を交換することを求めていたが、その時間はもう残されていなかった。だが、確実に学生たちは、桜井さんからのメッセージに、O君の感想を重ね合わせて、そこから、深い意味を感じ取ったにちがいない。
講義の後、O君と同世代の学生たちが研究室に集まった。若者らしい会話がはずむ。その中で、「単位」のことが話題になったとき、O君は、文字盤でこう綴った。
単位、とてもうらやましい。僕には、それは願っても得られないものだから。
不意に、重い現実があらわになる。
そして、帰り際、私に手で、こう語った。
普段から、こんなふうに話したい
新しい学部が、この彼のつつましい願いに少しでも応えられたらと思う。
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2009年5月19日 09時22分
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病と障害の心理という講義で、ハンセン病元患者の詩人、桜井哲夫さんを取り上げた「津軽、光の中へ」というドキュメンタリーを学生たちと見た。今回は、O君が、「聴講生」として参加していた。私が、桜井哲夫さんを知ったのは、『盲目の王将物語』という小節で、とりわけ、その中の「久遠の花」というのに心を惹かれていた。NHKで彼のことが紹介されるということがわかり、このドキュメンタリーを心ときめかせながら見たことを覚えている。そして、そのハンセン病による過酷なまでの人生を、すべて受け止めて、静謐な心で生きる姿に、深い感銘を覚えた。それから、毎年、このドキュメンタリーをこの講義では取り上げ続けてきた。そして、今年、O君とともに、このドキュメンタリーを見ることができるということが、また、新しい何かを私にもたらしてくれそうだった。そして、O君には、こうした生き方があるということをぜひ、知ってもらいたかった。
そして、映し終えて、彼にパソコンで感想を求めた。
いいばんぐみでしたゆうきがでてきました
みていてうらやましかったです
ぶんしょうをみているとみえていないとはおもえませんでした
にんげんのすばらしさをかんじました
いいひかりがさしてきました
ちいさいときからにんげんとしてみとめられたいとおもってきたので
みとめられるということのいみがよくわかります
にんげんとしていきていきたいとおもうので
にんげんとしてみとめられることのいみがよくわかります
びょうきはちがうけどゆうきがでてきました
O君は、学生たちと意見を交換することを求めていたが、その時間はもう残されていなかった。だが、確実に学生たちは、桜井さんからのメッセージに、O君の感想を重ね合わせて、そこから、深い意味を感じ取ったにちがいない。
講義の後、学生たちが研究室にやってきた。同い年のO君と若者らしい会話が続く。会話の中で「単位」の話が出たとき、
「単位ってぼくにはとてもうらやましい。僕が望んでも絶対に得られないものだから」
という言葉が文字盤で綴られた。
はっとさせられる瞬間である。
帰り際、私に
「ふだんからこんなふうに話したい」
と告げた。そんな彼のつつましい願いに、この新しい学部が少しでも答えていけたらと思う。
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2009年5月19日 09時16分
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両手をとって合わせたり開いたりしながら聞き取っていく方法で○○さんの歌を聴かせてもらった。
歌詞は、
春の風が吹いてきて
みんなの顔に夢が咲く
はるの風が吹いてきて
私の顔に夢が咲く
夢の風が吹けば
夢の顔に春が来る
夢がひらいたら
春の私の望みが開く
このあと、階名に音程をつけてドレミファと順番にいいながら一音一音拾っていって、譜のような歌ができた。
今回、話は、学校に対する不満が多かったが、詩と歌は一転してってもすてきなものとなった。歌を伝えることができたことの喜びはひとしおのようで、ずっと笑顔がたえなかった。
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2009年5月11日 01時19分
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学校を卒業し、地域の作業所に通い始めた☆☆さんを、わかそよに誘っている。彼女は、夜の練習にも参加できるので、合唱だけでなくミュージカルにも参加し、しかも、車いすの女性の重要な役にもついた。今回は、小さい時から続けてきた関わり合いの場面でのできごとだ。
最初に、彼女は、まず、一遍の詩を書いた。
はなのようにひろいこころで
ゆめをもちわすれずにいきていきていきたい
わたしにあたえられたみらいは
まったくきぼうがないとおもってきたけれど
ふしぎなことにきぼうにみちあふれていた
りかいしてもらえないくるしみは
ゆうべのひかりとなり
ゆうべのかねのようになりひびいて
にんげんとしてのわたしのあたらしいたんじょうのように
じぶんをはげましてみらいをひらく
みらいはりそうをわたしにくれて
りそうのわたしをやさしくひらく
りそうのわたしはゆうべのわたしではなく
りそうをねがうわたしのすがた
ゆめをひろげゆめをりそうにたかめ
にんげんとしてのちかいをまっすぐにつらぬき
やさしいゆうべのかねのように
りそうをかなえよう。
卒業して、「ぼくはうみがみたくなりました」の映画にも出演し、さらに、わかそよにも参加するというかたちで彼女の世界は確実に広がりを持ってきているが、そのような現在の彼女の状況が、「まったくきぼうがないとおもってきた」みらいを、「ふしぎなことにきぼうにみちあふれ」たものに変えてきたのだろう。
そして、彼女は、次のように思いをさらにつづっていく。
にんげんとしてみとめられたいとおもいます
にんげんとしていきていきたいとおもいます
みのうえよりもきょうのゆめをたいせつにしたいとおもいます
にんげんとしてゆめをかなえていきていくことがやっとできそうなきがしてきました
ここで、わかそよの練習に参加した感想を聞いてみた。
みんなわたしのことをだいじにしてくれてうれしいです
にんげんとしてみとめられたきがします
りかいしてもらえてうれしいです
そして、彼女が演じている、言葉を発することのできないくるまいすの女性の役で、言葉にならない言葉を発する演技を、自発的にやり始めたことについて尋ねてみた。
ちいさいときからともだちのようすをみてきたことがとてもやくにたっています
ゆうきをだしてえんじてみました
みているひとにつたわるかどうかしんぱいですががんばりたいとおもいます
そして、さらにこう続ける。
にんげんとしていきていくことができそうです
みまもっていてください
ミュージカルのストーリーについても、こんな感想が書かれた。
とてもいいはなしです
りかいされてこなかったひとたちのねがいがこもっているとおもいました
みてほしいです おおくのひとに
そして、歌については、
ちいさなしあわせのうたがとてもよかったです
びっくりしました りそうてきなかしでした
そして、最後にこう希望をつづった。
みちがひらけてきそうです わたしもせいねんがっきゅうにさんかしたいです みらいがひらけてきました
残念ながら青年学級は、現在募集をしていないが、とびたつ会への参加も含めて、これからの将来が開けていけそうである。
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2009年4月25日 00時44分
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青年学級 |
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私の大学に新しい学部ができた。人間開発学部という。この「開発」は、森をブルドーザーで「開発」するという意味での開発ではなく、人間の可能性が花開くという意味での「開発」を意味している。私は、この専任になったが、人間の可能性の開発ということを、まさしく存在そのもので表現しているのは、私が関わってる人々である。できれば、この学部には直接そんな人々にどんどんと出入りしてもらい、学生たちに直接可能性の開花ということを肌で伝えてほしいと思っている。今回、その皮切りに、この3月に特別支援学校の高等部を卒業した○○君に来てもらった。彼には、年に一度これまでも来てもらったが、今年度からは、来れるときに「聴講する」ということで、日常的に来てもらえることになっている。
彼のコミュニケーション手段はこれまで、お母さんが抱きかかえて手を持ち、50音の文字盤を指すというのがもっとも有効な手段だった。彼が最初に言葉を発したのは、パソコンだったが、途中から修得した文字盤をさす方法の方が圧倒的にスピードが速くなったので、もっぱらこれによってきた。ところが、私のスイッチ操作のスピードが飛躍的にアップし、さらに、手を振るだけでも50音を選択できるようになったので、お母さんの体力的なご負担を考えて、まず、パソコンで意見表明をしてもらった。以下の文章がそれである。
みなさんこんにちわぼくは○○○といいます
じぶんでははなせないのできかいではなします
じつはぼくはみんなとおなじようにだいがくにかよいたかったけどねがいどおりにはいきませんでした
にっぽんというくにではぼくのようなしょうがいがあるとべんきょうはさせてはもらえません
なぜかというとぼくのようなこどもはちゃんとかんがえているとはおもわれないからです
じぶんのいけんをもっていてもなかなかきいてもらえません
なぜかというとぼくたちはいしひょうじができないからです
にんげんはいしひょうじができないとりかいさえしてもらえません
じぶんのきもちをいえないとむかしはなにもわからないひととしてみんなしせつにいれられたままらくないきかたをしいられていました
かことはちがいますがいまでもねがいどおりにはいきません
ちいさいときからにんげんとしていきたいとおもってきましたがぼくらをにんげんとしてみてくれるひとはすくなかったです
ゆかいなこともたくさんありますがなかなかおもうようにはいきません
ききたいことがあったらきいてください
ちいさいことでもいいですから。
150名を越える学生を前に、即興で語った言葉だが、学生たちの心に、ぐいぐいと入っていく言葉だった。
この後質疑応答に移る。学生は、おずおずと手を挙げだした。「つらいことは?」「楽しいことは?」「好きな映画は?」と続いていく。始め、このやりとりもパソコンでやったが、どこか、対話的雰囲気が出ないので、お母さんの文字盤のコミュニケーションに代わっていただいた。やはり、この方が対話の臨場感が出た。
質問者の中に、自ら足に障害のある学生がいた。彼には、○○君の話が、他人事には思えなかったとのことで、そのやりとりが、いちだんと話に深まりをもたらした。
授業のあと、学生たちが研究室にやってきた。残念ながら授業は必修と重なって出られなかった人間開発学部の学生たちと授業を受けた他学部の学生たちだ。
たくさん、話した。それは、彼が初めて経験する外の世界の同い年の若者たちとの、若さ溢れる会話だった。そして、何人かが彼の手をとって、「あかさたな」とコミュニケーションをとろうとした。最初の女子学生が読み取った言葉は「どきどきする」。当然の台詞だった。
ここから、新しい何かが生まれていくことを心から願う。
くろうしているのはじぶんのことをなかなかわかってもらえないことです
びっくりするかもしれませんがよくわかってくれるひとはほんのわずかです
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2009年4月21日 10時50分
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未熟児網膜症のために、ほぼ全盲に近い視力しかなく、幼少期より点字を獲得することを夢見て学習を続け、点字タイプライターやパソコンの点字入力ができるまでになり、現在の課題は、点字用紙に書かれた点字をすらすらと読むことが課題になっている○○君に、ワープロソフトを試みるようになるとは、思ってもみなかった。しかし、気持ちを綴れるようになって、今回で3度目。その内容も安定してきた。(なお、点字表記をもとにしているので、助詞の「は」は「わ」になっている。)
じぶんのきもちをつたえたい にんげんだからきもちをつたえたい
にんげんだからゆめがあります ゆめわぴあにすとになることです ゆめわみんなともっとはなせるようになることです にんげんだからゆめをもっていきたいです
ねがいわはつこいをけんきゅうすることです
彼は、学校で、様々な文学作品を暗唱する学習をしているが、「はつこい」は、その中の一つ、島崎藤村の「初恋」である。
ふつうにりかいしているのにみとめてもらえずさびしいです
ねがってきました
じぶんのきもちをはなせるようになることです
みんなとはなしがしたいです
みんなとわ ××もうがっこうともだちです
ずっとちいさいときからいっしょだったからわかりあいたい
ねがいでした ねがいわわかりあっていくことです
幼稚部から中学2年まで、ずっと一緒に過ごしてきた3人の仲間のことだ。
よいにんげんになりたいとおもいます
ちいさいときからのねがいでした
はい きこえます はい
ここで、彼の最大の謎のことについて質問した。それは、こういう文章を綴りながら、口では、暗唱した言葉を発したり、そのことで受け答えさえしているということだ。まるで2人の話し手がそこにいるようなのだ。このことについて彼が与えた答えは、
くちわ かってにうごいているだけです
そこで、学校のことについて何でもいいから書いてほしいと頼んでみた。すると、
がっこうでわゆきしろのはなしをしました
(ゆきしろとは?)ゆきがやんだたんぼかきのこと
そして今度は彼の方から質問が来た。
しばたせんせいはやいこのやりかたわどうやてかんがえたのですか
この方法のことは、彼の知っている子どもたちと関係が深いので、そのことを簡単に説明した。
めずらしいやりかたです もっといろいろなひととやりたい
ここで、援助者を私からたまたま見学に来ていた姪に代わった。すると
ほんとになつた
と綴った。
まだまだ、わからないことだらけの○○君だが、こうした関わり合いを通して、どうやったらもっと点字をすらすら読めるようになるか、数の学習をどうやったら進めていけるかなども、合わせて明らかにしていけたらと思う。
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2009年4月14日 22時50分
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知的障害の特別支援学校高等部を3月に卒業した○○さん。4月最初の関わりでこんなことから書き始めた。
きいてほしいことがあります
×××(通い始めた通所施設)でりかいしてくれるひとがいます
みんなわたしのことをわかってくれます
ふつうにはなしかけてくれます
にんげんとしてあつかわれているきがします
にんげんとしていきていきたいとおもいます
りかいされてうれしいです びっくりしました
じぶんのきもちがいいたいです
みんなとはなしたいです
ひかりがさしてきました ひかりがさしてきにんげんとしていきていけそうです
この通所施設には、職員にも利用者にも私たちの仲間がいる。そこで理解された喜びがこんなにも綴られていることに私たちはほっとする。また、これまで、なかなか理解されてこなかったはがゆさも背後ににじむ表現だった。
そして、彼女は、3月29日の結団式から練習に参加しているわかそよの歌の一節を綴り始めた。練習用のCDを車で毎日聞いているとのこと。大きな声では歌えない彼女が、心の中で奏でる歌だ。
ちいさなしあわせちいさくひらきねがいのとおりみたされて
ちいさなしあわせはなのようにしずかにしずかにきれーにわいて
ちいさなしあわせはなのようにきぼうをはこびよろこびひろげ
にんげんとしてうまれいきてきてじぶんのきもちをきいてもらいたい
かってにからだがうごいてかなしい きれいなきもちでいきてゆくのがゆめ
きぼうちいさくささやきながらきぼうにみちたじんせいいきる
途中の「きれー」が「きれい」ではないのは、CDの歌い方にそろっている。よく聞いていることがわかった。そして、文章は続く。
きぼうにみちたじんせいをおくりたいです
いいうたですね きぼうのきせつというだいにはかんげきしました
きぼうのきせつというしはだれがつくったのですか
にんげんだからちいさいころからきもちがいいたかった
ひょうげんすることができたらうれしい
社会へ一歩を踏み出すとともに出会えた仲間たちの存在の大きさがよくわかる。そして今度は自分の詩へ。
いいうたをつくりたい しをつくりましたいいしです
じぶんのあいしたゆめをついにつかんだ
ゆめをつかんだけれまだゆめはとちゅうだ
みちはとおいけれどひかりがさしている
ずっとわたしをひょうげんできず
いちばんつらかったのは
にんげんとしてみとめてもらえなかったことだ
みとめてほしいじぶんのきもち
みとめてほしいじぶぶんのそんざい
ひしひしとこみあげてくるのはじぶんをみとめられたよろこび
ひかりにみちたにんげんがちいさいときからゆめだった
きぼうにみちたじんせいをいきていきたい
一語文かせいぜい限られた二語文しか発せず、典型的な幼児画を描き、これまでひらがなの学習を一歩ずつ続け、10までの数を繰り返し学習してきた彼女が、 いったん私たちのソフトを使うとたくさんの思いを綴り、こんな詩まで書くようになった。「にんげんとしてみとめて」こなかったのは、ほかならぬ私だ。学習が間違っていたとは思わない。しかしその学習を続ける中で、思い描かれていた彼女の姿の中には、こうした表現ができる姿というのは含まれていなかった。
じぶんのきもちをかいてもうまくつたわらない
にんげんとしていきたいです
ちいさいときからゆめでした
ゆめがかなってうれしいです
偶然同じ町で続けてきた子どもたちとの関わり合いと青年学級の活動とが、いつかつながることは、漠然と思い描いてきた夢だったが、こんなふうに一本の糸のようによりあわされることは思わなかった。私もまた「ゆめがかなってうれしい」。
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2009年4月12日 18時37分
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3月で特別支援学校の高等部を卒業した○○さんを、わかそよコンサートの参加者として誘った。前回は、詩で参加したが、当日は客席からの参加だった。しかし、社会人になった○○さんには、ぜひともにステージにのってもらいたかった。
4月の5日の練習に来た時、彼女は、「詩を書いてきました」と手をふるコミュニケーションで伝えてきたが、時間がなかったので、「今度聞かせて」と伝えておいた。それから5日後、ゆっくり詩を聞くことができた。それは次のようなものだった。
ちいさなにんげんでもちいさなゆめをもち
ちいさなにんげんでもちいさなりそうをもち
にんげんとしてほんとうのまことをしりながらいきている
にんげんとしてやらなければいけないことをもとめていきていき
ほんとうのゆめをかなえたい
まるでゆめをもたないじんせいはやみのみのじんせいだ
みなみのくににふしぎなふしぎなみらいのじかんがながれるきぼうのしまがある
ちいさいころにねがったねがいがそこではかない
みなみからのわたりどりはそのゆめをしっている
ふしぎなみらいをきのうのゆめにかんじながら
にんげんとしてのわすれてはいけないつとめをちかいながら
きぼうにみちたじんせいをいきていきたい
きいてけいいをはらうりそうをわたしもみつけたい
にんげんとしてりそうをもっていきていきたい
ゆめをゆめとしておわらせないで
ゆめをりそうにかえていきたい
りそうがかなうときゆめはかなうだけではなく
ちいさいにんげんをおおきくしてくれる
ちいさいにんげんらしくつつましくいきつつも
じぶんらしいつよさをいきていきたいとおもう
ちいさいにんげんとしてみとめられていきていき
にんげんとしてりそうをきぼうとしていきていきたい
ゆめをねがいながらにんげんとしていきていきたい。
そして、次のようなコメントをくわえた。
じぶんのいいたいことをしにたくしました りそうのだいじさをかんがえたものです にんげんとしてふつうにいきていきたいとおもいます
この後、コンサートで歌う歌の感想を聞いてみた。すると
ちいさなしあわせというしがすてきでした びっくりしました ひとりでなやんでいたことがばかばかしくなりました みんなおなじことをかんがえていることがわかりました いいばしょでした いいなかまたちでした みんなとずっといっしょにいきていきたいとおもいます みんなとであえてよかったです きぼうがわいてきました ゆうきがでてきました びっくりしました ひかりがさしてきました みらいがひらけてきました
これは、「願いの季節」という題名の歌で、歌詞には青年学級で昨年度初めてパソコンによって言葉を綴った4人の言葉が含まれている。仲間の存在がどれだけ大きいかを改めて思い知らされた。これまでもいくどとなく悩みを綴る彼女を前にして、いろいろな言葉をかけてきたが、それよりもはるかにまさる力を仲間の言葉は持っていたことになる。
このブログも、点として存在している多くの人たちを線でつなぐための試みの一つだが、うまく、仲間の言葉が届いて、励まし合いが生まれてくれればと願う。
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2009年4月12日 07時56分
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4月から高校3年生になる☆☆さんを3歳の時から関わってきて、今は遠くに住んでいる○○先生がひさしぶりにやってきた。☆☆さんが、速いスピードで文章を綴れるようになったのを見るのは初めてのことだ。
なつかしいね○○せんせい
じぶんもようやくこうこうさんねんになります
にんたいしてきましたがねがいがかなってはなせるようになりました
ぬいぐるみのようなじんせいにおわかれすることができました
ちいさいときからずっとひとりぼっちだったけど みんなとはなせるようになってねがいがかないました
じぶんのじんせいだからひんのあるじかんをたいせつにしていきたいとおもいます
ちいさいねがいですがひとりでゆめをかなえたいとおもいます
のぞみはひとりでくらすことです
ふりいなせいかつをしたいとおもいます
にんげんとしてできることをたいせつにしていきたいとおもいます
みんなとはなしたいです
話せるようになった喜びを、一生懸命久しぶりにあった○○先生に語った文章だ。社会に出る日がしだいに近づき、自分の人生について考えることが増えてきたということだろう。「ひんのあるせいかつ」「ふりいなせいかつ」といった、言葉がひときわ目を引く。そして「のぞみはひとりでくらすこと」。
そして、話は、スイッチ操作の方法に及ぶ。
ふしぎです ちからをこめていないのにどうしてわかるのですか
いろいろな方から問い返される言葉だが、今回は、☆☆さんは、どうやっているのと聞き返してみた。すると、うまい説明が返ってきた。
ねんじています さきのもじをそこにきたらここだとおもっています
そして、○○先生に代わってもらったが、初めてなのに、次のような言葉を聞き取ることができた。
すき
ねがいが かなった
ほんとう くもがはれた
○○先生は、しきりに、わかってあげられなくてごめんねと繰り返す。私たちの、本当の気持ちだ。○○先生が通園施設で関わってきた10人ほどの「障害の重い」子どもとともに始めた会だが、いつか、すべての子どもが文章を綴るようになった。「くもがはれた」という思いを、じっとかみしめたい。
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2009年3月29日 02時35分
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青年学級で作った「願いの季節」という歌を○○君と☆☆さんに聴いてもらった。パソコンで初めて自分の気持ちを綴った人たちの言葉を中心にしながら、メンバーみんなの言葉を合わせて作ったものだ。その歌詞は、次の通りだ。
1.小さな幸せ小さく開き 願いの通り満たされて
小さな幸せ希望に満ちて 希望を運び喜び広げ
人間として生まれて生きてきて 自分の気持ち聞いてもらいたい
かってに体が動いて悲しい きれいな気持ちで生きていくのが夢
生きていきたい自分の足で 生きていきたい自分の目で
希望小さくささやきながら 希望に満ちた人生生きる
2.小さな幸せ花のように 静かに静かにきれいに湧いて
歌がしきりに待ちきれないで 自分光らせ生まれてくる
虹をみんなで探しにいこう 自分で虹を空にかけてみたい
やっぱりきびしい話せないのは 人間だからあふれる気持ちがある
小さな願い大切にしよう 小さな願いしっかりと
希望小さくささやきながら 希望に満ちた人生生きる
3.瞳閉じると天使舞い降りる 私の愛の告白を
人それぞれの夢があるから 天使にお願い聞いてほしい
声を聞かせて心の輝きを 口を開ければ空のように輝ける
愛というのは不思議な言葉 小さな心を大きくしてくれる
時代がどんなに変わっても みんなと一緒に一歩ずつ
自分に何かがあった時も 仲間がきっと助けてくれる
○○君は、実はこの日、ひとしきり、学校でのできごとを書いた。それは、彼が言葉を理解できていないと思った教師が小さな声で語った心ない言葉についてだった。そこで、切りかえるために、この歌を聞いてもらったのだ。そして、彼は感想としてこう書いた。
にんげんとしてうまれていきてきてというかしがよかったです
ちいさいときからちいさいしあわせをたいせつにしてきたのできもちがよくわかりました
そして、最近、詩だけでなくメロディも作っている人がいるということを告げると次のように書く。
ぼくもつくっています
しろいゆきをみんなでみていました
みたこともないちいさなゆきのせいがやってきて
ひとりぼっちのぼくにはなしかけました
きのうのなみだはねがいにかえてみらいにむかっていきていこう
ねがいはゆめをはこびみらいをひらく
みらいはちいさなじぶんのてのなかでおおきなきぼうにふくらんだ。
まず、前半部分を、手をとって聞いていく方法で、メロディを聞き取った。「あかさたな」の代わりに、音程をつけて「ドレミファソラシド」と聞いていくと、メロディが一音一音選び取られていく。
ミファソソラソ ソラソファミレドミレミ
ミファソソラソソ ソラソファミレド レドレドレレレドレ
ミファソソソラソ ソラソファミレドレドレド
リズムについては、8分音符がいくつ分かということで、何とか聞き取っていった。時間の関係で、後半は今度ということになった。
前半部分、おおよそ歌ってみて、これでいいかと聞くと、
はい
という答え。そして、次の感想が書かれた。
しんじられないきょくができるなんて
ここへ☆☆さんが、やってきた。☆☆さんは、来週、いよいよ高等部を卒業する。そして、さっそく、次のように綴った。
○○くんすごいね
じぶんできょくをつくっているなんてすばらしいですね
かんどうしました
ひいでたさいのうですね
わたしもつくっていますがなかなかいいうたができません
じぶんにはさいのうがないのかもしれません
ねがってきました じぶんでなんでもきめられるようになることを
しかしなかなかねがいどおりにはいきません
ねがいはゆめかもしれませんが ちいきでいきていきていくことです
なぜりかいしてもらえないのでしょうか
ちいきでいきていくのは ちいさいときからのゆめでしたから さいごまでがんばりたいとおもいます
じぶんのきもちをいいたいけれど ちいさいときからふつうのこどもとしていきてこられなかったので くやしいです
よくゆめをすてずにこれたものだとおもいます
ちいさいときからとばずじまいだったので はやくなにかでひやくしたいです
りそうはさっかとしてひょうげんのほうほうがあったらいいとおもうのですが なかなかうまくいきそうにありません
☆☆さんは、4月から社会人なので、わかばとそよ風のハーモニーコンサートへの参加を誘った。彼女の「野に咲く花のように」という詩で作った曲を2年前のコンサートでは、劇中の歌として使ったことがある。私はこの時が来るのをずっと楽しみにしていた。そして、冒頭の歌を聞いてもらった。
しがとてもむねにしみました
りそうはひとりでいきていくことですがひとりではむずかしそうなのでなかまといっしょにいきていきたいとおもいます
ちいさいときからのねがいでした
ねがいをかなえたいとおもいます
じぶんにゆめがあるかぎりむかっていきていきたいとおもいます
ゆめにむかって
(以下は、手をとる方法で)
ひかりがさしてきたようです
きもちをちいさいときからいいたかったので りかいしてもらえてうれしいです
てではなせるとはおもいませんでした
卒業を間近に控えた不安な胸の内がうかがえるが、仲間とともに生きていくことに希望を見いだしているところに、深く共感した。コンサートは、その初めの一歩だ。
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2009年3月15日 10時50分
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知的障害の特別支援学校の高等部を卒業する○○さん。卒業を来週に控え、こんな文章から始まった。
あまりそつぎょうしたくない
じりつすることがつらいとおもいます
じりつはちいきでいきていくことですが
つらいのはひとりぼっちでくらさなければならないことです
ふしぎです りかいすることがなぜできるのですか
きいてほしいことがあります
ねがいはちいきでいきていくことですが
ちいきでいきていくのはたいへんかもしれません
じぶんのいいたいことがいえたらいいけど
ふだんからきもちいえないとむずかしいとおもいます
ちいさいときからいいたかった
りかいしてもらえてうれしい
のぞみはなんでもはなせるようになることです
じぶんのきもちがいいたいので ちいさいときからのぞんでいました
いいにんげんになりたいとおもいます
ねがいはひとりでちいきでいきていくことです
にんげんとしてきれいなこころでいきていきたいとおもいます
らいねんは なれていきたいです
ちいきでくらすために なれていきたいです
ふしぎです
はなしができることりかいしてくれてうれしいです
きもちがりかいされないことはつらい
卒業後のことをめぐる不安が、生々しく語られる。少し、話題を変えようと、詩を作っていたりしますかと問いを投げてみた。すると、
はい
しをつくりました きいてください
との答え。話題が変わるかと思っていたが、そのまま同じ気持ちを、今度は、決意の詩として語った。
なによりちいきでくらすことをのぞみます
りかいされないことがつらいです
にんげんとしていきたいです
しんじてください
ひとりでいきたいです
めいわくをかけずにいきたいです
むりではありません
ひとりでくらせます
のぞみはしんじてもらうことです
めいわくかけたくありません
ひとりでいきていきたいとおもいます
そして、こう付け加える。
よんでほしいおかあさんにじぶんのきもちを
きいてほしいじぶんのきもちりかいされたい
ちいきでいきたいです。
学校の進路指導は、ある意味で、きっちり彼女に受け止められているということになるだろう。厳しい現実を語ることは大切なことだ。しかし、彼女に将来の夢こそ、必要なのだと改めて思う。それは、これからも彼女と関わりを続ける私の課題である。
彼女には、5月24日に開かれるわかばとそよ風のハーモニーコンサートへの参加を誘った。社会人としてたくましく生きる先輩たちの仲間に加わってもらいたいからだ。そして、地域で生きるということの意味をともに考え合っていってもらいたいと思う。
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2009年3月15日 08時51分
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☆☆さんは、最初からさっそく詩を書き始めた。まず、最後に彼女が詩について行った説明から紹介しよう。
あたらしいとしのはじまりをいわってしんねんのちかいをかきました
わすれないであしたをめざしていこうとおもいます。
そういうわけで、次の詩は、新しい年の始まりを祝った新年の誓いの詩ということになる。
しあわせあふれてきて
にんげんをしんじていこうとおもう
ちいさいころからじぶんのことがとてもすきだったから
ちいさいじぶんをしっかりもっていきてきたのに
なかなかりかいしてもらえなくていつもさびしかった
みみをすますときこえてくるのはとおいむかしのなつかしいこえだ
ちいさいわたしがちいさいころにきいていたなつかしいかぜのおと
ねがいのとおりのちいさいわたしが
ちいさいじぶんにきかせてやったひとりごとのようなうた
むかしのじぶんをきちんとけんこうなこどものように
じぶんにとってたびとこころのなかでさだめてたびだつ
いいじぶんにするために
かいてからきもちがかるくなった
しんじてもらえたよろこびがのぞみとなって
じぶんにうつくしいみらいをくれた
いいひとになるために
じぶんのちゅうじつのかんがえをあかしていきていきたいとおもう
なんねんでもうちつづけて
ほんとうのじぶんのじんせいをいきていきたいとおもう
かのうなかぎりにんげんとしてのほこりをたいせつに
いきていきたいとかんがえている
しんじつのあいやしんじつのゆめをたいせつにいきていきたいとおもう
みなかったまたこどものころのゆめをもういちどみなおして
ちいさなじぶんにゆめをあたえよう
じぶんのちいさなねがいはちいさなゆめとして
いいものにしていこう。
詩はいったん区切られたあと、さらに次の一文が書かれた。
さいごにちいさいじぶんがのぞみのひかりをつたえられるように
がんばっていきたいとおもう
ぬいぐるみのじんせいにおわかれのときです
ちいさなじぶんねがいのとおりじぶんをしっかりいきていきたい。
今年の4月から社会人2年目になる。去年は、映画にも出演した。かたことの音声言語を発することのできる彼女が、パソコンですらすら美しい言葉を綴るようになったのも去年の今頃だった。
ぬいぐるみの人生に決別し、願い通りの人生を生きていこうとする彼女のこの1年が、また、実り豊かなものであることを心から祈る。
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2009年1月24日 19時50分
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毎回、長編冒険物語を書き続けている○○君が一段落したころ、▽▽君がやってきた。▽▽君は、12月、北風の詩を書いた。○○君はその時、休んでいたので、▽▽君の北風の詩を聞かせてあげた(12月26日の文章の3人目の詩)。
すると○○君は、次のような感想を書いた。
しろいいきというのがとてもよかったね にんげんのきぼうがよくつたわってきました きたかぜはきぼうのかぜだというのはよくわかります くろうしたひとにはわかります ちいさいじぶんとみみをすますときたかぜはふいてきます にんげんにはにんたいだけをちいさいときからしいられたひとに きぼうはちいさいかぜとなって おとずれます きぼうのきたかぜのことはぼくもかんがえていました びっくりしました
○○君は、海賊の物語を書くのに忙しいので、詩のことには話が及ばないが、北風については、深く共感するとともに、同じことを考えていたことが驚きだったようである。
○○君が帰ったあと、▽▽君は、まず、次のようなことを述べた。
○○くんもきたかぜのことをかんがえていたのでおどろきました
なぜみんなじぶんとおなじことをかんがえているのだろうか
ふしぎです
にんげんとしていきてきて にんたいをしているとしんじることができます
にんげんにはきぼうがひつようですから しんじることがたいせつですひとりでにんたいをしてきたのでねがいのきたかぜがひつようなのです
そして、詩を書き始めた。
たんたんときょうというひがすぎてゆき
にんげんとしてねがいをひめたぼくのほしは
なにかをいおうとしてもとめている
きぼうをほんとうにゆめみたひとには
しんじつのきぼうがわかる
しんじつのきぼうは
しんじつのちいさなちいさなよろこびにみちあふれている
しんじつのきぼうをしんじつのよろこびにかえて
ほんとうのじんせいをいきていこう。
4月から、高等部2年生になる▽▽君の、年頭を飾るのにふさわしい詩であった。
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2009年1月24日 19時27分
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○○さんは、知的障害の特別支援学校の高等部3年に在籍している。ワープロで気持ちを綴れるようなって今回が3度目だ。学校からの巣立ちを目前にして、「ちいきでくらしていく」ということを繰り返し語った。
いいきもちです
ちいさいころからはなしたかったけどなかなかいえなかった
きいてくれてありがとう
さみしかった
にんげんだからはなしがしたかった
ちいさいころからはなしたかった
ちいきでくらしていくためにゆめをなくさずにいきたい
ねがいはにんげんとしてみんなとなかよくしていくことです
ちいきでいきていくことができるようにみんなとなかよくしたい
ちゃんとしたかんがえをもってひとりぐらしをしたいです
ちいきでみんなとくらしたい
ちいきでにんげんとしていきていきたいです
ききたいこといっぱいあります
なぜひとりでくらすことはむずかしいのですかおしえてください
できるとおもいます
しんじてください
ちいきでいきていくことがゆめです
しんじてください
ちいきでくらしていきたいです
ちいきでくらしたい
みんなとくらしたい
ひとりでくらしたい
にんげんとしていきていきたい
じゆう
だいじょうぶです
ほんとうです
ちいさいときからはなしたかった
願いの強さが、繰り返しの中に、にじみ出ているようだ。そんな彼女の気持ちが、高ぶっているところで、話を切りかえるように、詩を作っていませんかと聞いた。そして、書かれたのが次の詩だった。
ちいさなみがおちて はながさいた
ちいさなはなは ちいさなみをつけた
ちいさなみは ちいさなわたしのゆめ
たまのようなひかりがさして
にんげんを にんげんとしてみとめてくれた
ゆめのようですふしぎです
にんげんとしてみとめられてうれしいです
ちいさいころからのゆめでした
詩を書き始めると、彼女の顔は、輝きを増した。小柄であどけなさが前面に出ている彼女が、そのときは、もう、りっぱな女性の顔をしていた。
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2009年1月17日 22時24分
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○○さんは、冒頭から、次の言葉で始めた。
きたかぜとわたしというしをつくりましたきいてください
そういえば、彼女が「のにさくはなのように」という詩を書いて私たちを驚かせたのは、2年前の1月のことだった。
ちいさなわたしにきたかぜがふく
にんたいしてきたわたしにとって
きたかぜはしんじつをつたえるかぜです
ちいさいわたしをつつみこみ
ちいさいわたしはちいさくわらう
みみをすますときこえるのは
みみのきこえないひとのねがいだ
ちいさいわたしはいちずに
きのうのさわることのできないゆめをおいもとめる
ちいさいわたしはねがいをねがったにんげんや
ねがいをわすれたにんげんたちに
にんたいのすばらしさをしずかにつたえる
ちいさいわたしはしずかにきたかぜのこえをききながら
ひとりにんたいをつずける
きたかぜはゆきとともにやってきて
ゆきのちいさなつぶでにんげんとちいさいわたしを
ひっそりしろいねがいにかえる
ちいさいわたしは
ちいさいころのちいさなねがいをしずかにしのびながら
しろいみみをつけたしろいきたのくにのしかに
ひとりねがいをたくす
ひっそりとしずまりかえったゆきときたかぜのなかで
いいちいさいわたしは
しろいゆきとともにきぼうのきたかぜのおとをきいている
いいちいさいわたしは
ねがいのみちあふれたくうきのなかで
しろいゆきをみつめながら
にびいろのそらからおちてくるひとひらのゆきをみている
りんとしたくうきのなかで
ちいさいわたしは ゆめとねがいにみたされて
にんげんのしあわせをもとめる
ちいさいわたしは
しずかににんげんのひとりとして
しずかにゆめをみている
ひとりのわたしはねがいをねがいながら
ちいさなゆめをつむぐ。
「にんたい」について、友とリレーのようにして意見を交わし合ったのは、先月のことだった。そして、多くの同じような状況ある人たちのように、彼女もまた「きたかぜ」と「きぼう」、そして「ちいさいわたし」について語る。この冬はまだみぞれ程度しか降っていない。本当に雪がふりつもる時、彼女は、願いを願いながら夢を紡ぐことだろう。
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2009年1月17日 22時00分
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高校1年生の○○さんは、楽しげに、会話をするようにワープロで文章を綴り始めた。
あけましておめでとうございます
しつれいしてしまいました
ひきしまったすがたでおあいしたかった
ぜひこのからだをじきにほそくしてみたいとおもいます
きりすときょうのじゅうじかのぺんだんとがほしい
お正月で1sふとってしまったらしく、そのことをめぐる話と、ほしいペンダントの話。ずっと、けらけらと言っていいような笑いを浮かべながら書いていた。
そして、突然、こんな質問が私に向けられた。
じゅうじかはなぜきりすときょうにかんけいあるのですか
直感的に本人はある程度知っているはずだと思ったので、知っているのではないですかと問い返すと、次のような答えが返ってきたのだが、表情はいっきにまじめになり、何度も何度も手を止めて、今までになく長考する様子がうかがえた。そして、次のような文章が書かれた。
たぶんきりすとがはりつけになったときしんでからふっかつしてじんるいをすくったといわれていますがほんとうですか
にんげんはくるしみをにんたいすることがおおくてきりすとがいうみたいにはすくわれていないとおもいます
にんげんにとってくるしみはひつようなものなのでしょうか
ちいさいときからずっとからだがうごかないでにんたいしてきたわたしはずっとくるしくかんじていましたが すくわれたのはしんじつのことばをしったからです
にんたいこそしんじつにいちばんちかいということにきがついたからです
ひかりをもとめてきぼうをいのりつずけるということがとてもたいせつだとおもいます
にんたいこそがだいじで しんじつはほんとうのにんたいをしっているひとにしかわかりません
さらに熟考している様子がうかがえたが、もう時間だったので、いったんワープロを終えた。そして、もしかしたら、ここから、詩みたいなイメージが広がっていくのと聞くと、そうだと言っているような気がしたので、どんな花が出てくるのと尋ね、手を握って、軽く動かしながら「アカサタナ」と聞いてみた。すると、力を入れて送ってきた合図によって得られた答えは、「ゆり」。残念ながら、そのイメージを書いてもらうことはできなかった。
十字架のペンダントから思わぬ深い方向へと発展していった、今回の文章だが、彼女が発見したことは、十字架のペンダントの世界に限りなく近いということを、彼女自身は知らない。
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2009年1月17日 00時53分
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私たちの言葉をめぐる取り組みがなかなか理解されないことを心配した○○君は、次のような文章から始めた。
しばたせんせいはきになっていませんか きちんといいたいことがわかってもらえないで
きわもののようにいわれてしまうことに
みちのりょういきを しこうするのはむつかしいということなのでしょうか
みんなにわかってもらうことのむずかしさと、それでも戦っているつもりであることを伝えると、
きけてよかったです みちのせかいにちょうせんするのはたいへんですね
と私を気遣う言葉をかけてくれた。ここで、突然、詩のことについて尋ねた。すると、「あります、かけます」という返事。そして、次の詩が書かれた。彼もまた、テーマは北の風と希望だった。彼と関わるのは8月以来のことなので、まだ、北の風の話をしたことはない。ここで、彼が北の風をとりあげるのは、全くの偶然ということになる。(このブログを見ているわけでもない。)
きたのくにからふくかぜは いいひびきをしています
いいひびきをたてながら きたのくにからふいてきます
きたのくにからふくかぜは きたのきぼうをつれてきます
きたのきぼうは きたにすむきたのしかがふかせるかぜです
ちいさいときのおもいでをつれてやってきます
しかはきぼうのいぶきをにんげんにあたえます
きたのしかのきぼうはちいさいときにみたゆめときぼうです
ちいさいときにじぶんじしんできいていたきたのきぼうのしかのこえです
きぼうのきたかせはじぶんにむかってふいてきます
きぼうのきたかぜはきぼうびんかんにさっちして
きぼうのあるところにふいていきます
しろいゆきとしろいちいさなまほうつかいをつれて
きたのくにからきぼうをひとにあたえるために ふいてきます
しろいせかいと しろいのぞみと しろいねがいと ちいさいゆめにきぼうというものを
あたえるためにふいてきます
いいきぶんです いいたいことがいえて いいたいことが じぶんいじょうにはやくかけていきます
ふしぎないいきもちです だいじょうぶです
きたかぜをいやがるひとはおおいけど きたかぜはきぼうのかぜです
きたかぜにはいきていくのがつらいひとのきもちがこもっています
きたかぜは だからきぼうのかぜなのです
あります
なぜ、北風が希望の風なのかという説明も、幾人かの子どもたもが書いたことと相通じるものである。そしてもう一つ、詩が書かれた。
ちいさいねがいのきがありました
いいかぜがふいてきて いいはながさきました
いいかぜがふいてきて いいみがなりました
いいかぜがふいてきて たねはじめんにおちました
きぼうのいいかぜは きたのくにからふいてきて
じめんにめをだすようにいいました
いいかぜは いいにんげんは きぼうのいぶきをかんじ
ちいさいころきぼうをかんじていきていたころのことをなつかしくおもいだしました。
ききとってくれてありがとう じぶんのきもちをしずめるためにつくったものです
きぼうをなくさないためにかいています いいきもちです
傍らでは、弟の▽▽君が、筆談の練習をしていた。いろいろな会話をうまく書き取れていた。ところが、何か言いたげだったので、パソコンを出してみた。すると、にいさんが詩を書いたことを聞いていたのか、すぐさま、詩を書き始めた。
ちいさいぼくはにんげんとしてうまれ きぼうをもっていきてきた
きぼうはきたのくにからやってきて いいちいさいぼくにねがいをくれる
いいちいさいぼくは きぼうをきたのかぜからもらい
しずかにきたかぜのおとをきいている
きぼうのきたかぜはちいさなぼくをはげまして きぼうをくれる
いいちいさいぼくは きぼうのきたかぜにきぼうをもらい
きたかぜのふらせるゆきを しずかにみている
いいちいさいぼくは しずかにしずかにきたかぜにいしをつたえる
いいちいさいぼくは きたかぜにいのちをちかう
ちいさいぼくは いいちいさいのぞみをかかえて
いいちいさいぼくのじんせいを ねがう
いいちいさいぼくは きぼうのきたかぜとともに
いいしらせをひとびとにつたえる
いいちいさいぼくは いいのぞみをきたのくにのかぜに
いいちいさいぼくは いいきたかぜにいのりをささげ
いいきょうのいのちをかんしゃする
きたのくにからふくかぜにきょうのにくしみをいっそうすることをねがう
きたのくにからふくかぜに
いいじんせいをきぼうにみちたものにすることをちかう。
「いいちいさいぼく」という表現は、昨日も、別の場所で聞いた言葉だった。小さい自分ながら懸命に自分を肯定しようとする響きがこの言葉にはある。まだ、小2の少年の、懸命によく生きたいという祈りのような文章だ。「にくしみをいっそうすることをねがう」ほどに彼が憎しみを抱いているとも思えないのだが、まったくそういうものと無縁の者が書く言葉でもないだろう。さっきまで、あどけない内容の筆談をしていた彼のこころの中には、こんな世界が秘められていたのである。
そして、この兄弟の1時間後にやってきた◇◇君は、「しなんのわざがひつようですね。きびしいですね。いいほうほうはないのでしょうか。」と、わかってもらうためにどうすればいいのかということから話し始めた。
いいたいことがなかなかきいてもらえません しんじてもらえません いいたいことがつたわらないと きもちはしずんでしまいます きもちがきらいになっていくのがいやです きちんといいたいことがきいてもらえないといいたいことがいえないといいちいきがきずけません
そこで、この話にお互いにとどまり続けていると行き詰まってしまうので、話を切りかえて、詩のことを尋ねた。答えは、「つくっています」。そして、次の詩が書かれた。彼は、上述の兄弟が何を書いたかなど、まったく知らずに、さらさらと詩を書き始めた。
しろいいき いいいきを いいかぜにはき いいきたかぜにいう
きぼうにみちたきたかぜさん あなたのいきできぼうをください
きぼうにみちたきたかぜは きたのくにと きたのしずかなゆきたちを
きぼうにすべていろどって いいきぼうのかぜたちを
いいにんげんたちにとどける
いいいき いいしろい いき いいきたかぜ
ぼくにきぼうをください
ちいさいころから いいいきをはきながら
ぼくはきぼうをしんじてきた
いいきぼうのひかりは きぼうとともにぼくのこころにおとずれる
きぼうのきたかぜと しろいゆきは いいきたのくにからやってきて
きぼうときぼうとをつなぐ
きたのくにからふくかぜに きぼうのきたのくにのきぼうをきいている
いいいきをはき みんなにきぼうをあたえる
きたかぜにしろいゆきをのせて いいいきをはき
いいきたかぜにちいさなぼくはねがいをきく。
そして、詩について、次のようなコメントをつけた。
きたかぜはきたのくにからふくかぜで みんなはいやがるけど きたかぜは いろいろなくるしみをけいけんしたひとにしかわからないけど きぼうをはこぶかぜです きたかぜは だからきぼうのきたかぜです
そこで、兄弟の詩を読んで聞かせた。
びっくりしました きたかぜをびんかんにかんじとっているひとがいることがわかってうれしい
にんげんはきたかぜをきらうとばかりおもっていました きぼうというものはきもちがしずむときえていきますから いいきぶん しきりにいいきもちがします いいきもちです
と、率直な感想を述べた。そして、最後にこうしめくくった。
にんたいしてきたけど きぼうがかないました いいきぶんです きもちがすらすらかけて
いいみいだしです ぼくたちがみんなしをつくっているということにきずいたことは
きもちをしずめるために ぼくたちはしをつくっています
ちいさいころから いいちいさいじぶんを きぼうにみちたにんげんにするために
きぼうがあれば ぼくたちはいいにんげんになることができます
いいじかんでした きぼうがわいてきました
いいじかんでした いいほうほうです ちいさいころからのゆめでした
そして、さらに、☆☆さんが、続けてやってきた。彼女は、詩的な表現を何度もしてきた社会人1年目の女性だ。詩のことが話題になっていたのを聞いて、さっそく詩を綴り始めた。
きぼうのきたかぜはきたのくにからふいてきて
にんげんにきぼうをあたえる
しんじていればきっとねがいかなうということを
きぼうのきたかぜはおしえてくれる
いいじぶんになるためにいいきたかぜは
ちいさいわたしにちいさいころからいいきぼうをあたえてくれた
きぼうのきたかぜはいいひとにいいきぼうをあたえてくれる
きたにむかってわたしはさけぶ
きたかぜにむかってわたしはいのる
いいきぼうをくださいと
にんげんとしてうまれ いいねがいをもち
にんげんとして いいゆめをいだき
きもちをきりかえたいとおもっても
いいねがいはなかなかじぶんにはかなわなかったけど
いいきぼうがあればいいじんせいがひらけることを きたかぜにねがう
ちいさいちいさいわたしに きたかぜはきぼうをくれる
きぼうはきたのくにからやってきていいにんげんにしてくれるいいきたかぜはきたのくにからやってきて きたのくにのきぼうをつたえる。
にんげんとしてうまれてきて きちんとしたじんせいをきぼうをもっていきていきたい
にんげんとしていきてきて にんげんとしてきぼうをもち
きぼうをぎんいろのねがいにかえて いいじんせいをいきていきたい
じしんというちいさいひかりをきぼうによってともして
きぼうのひかりをしんじていきていこう
にんげんとしていきてきてひかりをにじといっしょにきぼうにかえて
しじんのようなきもちでいきていこう
ちいさいちいさいにんげんだけど しじんのようなしずかないのりをささげながら
きもちをしずかにいのりにかえていきていこう
しじんとちいさなわたし ちいさなしじんとちいさなわたし
いつまでもいっしょにいきていこう
にんげんとしていきてきて にんげんとしていきていく
しじんのようなきもちで きょうもいちにちしじんとしていきることができて
いいいちにちだった
きょうもいちにちきぼうをもっていきていけたことに かんしゃしよう。
◇◇君は、じっと、詩に注目していて、途中で、何度か、読み上げると、自分と同じように北風がテーマになっていることを、とても喜んでいた。そして、改めて、☆☆さんにも、◇◇君のものや、○○君、▽▽君のものも聞いてもらった。4人がそれぞれ、独自の個性的な表現を持ちながらも、北風と希望とを共通のテーマにしていることを、心から喜び合った。そして、☆☆さんの、感想。
きょうはたくさんかけてよかった きぼうがわいてきました きぼうがみちてきました
いいいちにちでした いいじかんでした いいみんなのしがきけてよかったです。
急に冷え込んで、北風が吹き荒れた日だった。私たちの知らないところで、彼らは、北風に希望を重ね合わせて、懸命に生きようとしていた。そして、残念ながらみんなそんな思いを共にする仲間がいることを知らない。みんな同じ思いで生きていることを伝えて、みんなひとりではないことを知ってもらいたいと思う。
今年で12年目を迎えたこのグループ。こんな日を迎えられるとは、まったく予想だにしなかったことだ。こんなふうに、新しい年に向かうことができることに、心から感謝した。
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2008年12月26日 23時40分
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順番にやってきた3人の女子高校生が、リレーのように言葉を伝え合った。
最初は、高校1年生。本当に家に何か忘れてきたのかと思わせるような書き出しは、すでに、物語の始まりだった。
いそいできたのでいえにきていたきぼうのいのりというきれいなあちらのつつみをわすれてきた。
てぶくろなくしたのうさぎがたまたまにおってきたので つみぶかいねこがしらないひとをだまして ちいさなきぼうなくすようにしむけた。
にんたいにつかれたいちずなねこはちいさなしあわせをしんじていちばんみぢかなしあわせをかちとろうときぶんをいれかえてがんばろうとかんがえた。
にんたいしてきたいちわのいろづいたことりに しんらいのわかいつばめがちかづいて きぼうのいちいちしんじられないことりはいしをつらぬいて
いちわのことりはいいくにをめざしていしをきいてもらいたいと しんらいのしるしに
いいしろいきれいないちどみたらわすれられないじぶんらしいききょうのはなふぶきのひかったいのりをささげた。
猫、うさぎ、小鳥、つばめが次々に登場し、に、美しい桔梗の花のイメージが重なる不思議な詩。彼女は、桔梗について、こう付け加えた。
ちいさいころからいつもかんじてきた
ききみみをたてて きれいなききょうのはなのことは。
ききょうにはきっとにんたいのいみがあるとおもう。
そして、もう一編、詩を書く。
しろいきれいなききょうのにおいがして
きもちがしずかにぎんいろになっていった
いきていることのよろこびがこみあげて
いきているじぶんとききょうとがじしんのしろいゆきをふらせた
びっくりしたいのちにききょうのはなはきいた
ちいさないのちをちいさくしてきぼうをうしなってしまったのですかと
きいてもわたしはいわなかった
いいひとがあらわれるまではきいてほしくありませんと
いいひとがあらわれたらいいますと。
「いつ考えたもの?」と聞くと「いま」と答えが返ってきた。
そして、次に来た、同じ高校一年生のクラスメートに、この2編の詩を読み上げた。すると、さらさらと、次の感想文が書かれた。彼女は、仰向けに寝た姿勢で、私たちが両手を持ち、「ア行、カ行…」と言いながら両腕を開いたり閉じたりするような動きをすると、選択したいところで、両腕を開くようにして意志を伝えてくる。それを、そばで書き取ったものだ。
むずかしい哲学があることばですね。
わたしは言葉の中身はよくわかりました。
たぶんさぞ忍耐をしてきたのでしょう。
忍耐をしすぎて希望をよもや忘れてしまうことがあります。それでも希望はすててはいけません。
忍耐は望みを試すものです。
忍耐は速くおよぐ魚のような望みは除くのです。
そして、忍耐はゆっくりおよぐ魚のような望みは受けとめてくれるのです。
だからわたしたちの望みは受けとめてもらえるので、けしてあきらめてはいけません。
そして、わたしたちは、静かに悩み、ゆっくり望みを持ち続けたいと思います。
たいへんな忍耐が必要ですが、おたがい悩みながらがんばっていきましょう。
とにかくわたしたちは忍耐づよく生きていかなくてはいけないのです。
忍耐に疲れたら笑いを求めていきたいと思います。
楽しいことや面白いことを考えています。
ギャグではありません。わらいはナンセンスでノンフィクションです。
失点は笑いになります。
ナンセンスな笑いは他人がのぞいている状態で考えることです。
テレビでやっているのばかばかしい笑いだらけでつまらない。
落語を聞きにいきたい。
笑いは生がいいとおもいます。
おとうさんといきたい。
寄席にいきたい。
おとうさんにいってください。お正月に、生で。
一人目の女の子の難解な詩を、一度聞いただけで、私にはわかるといって、すぐに書き始めた文章。「にんたい」という核心部分を見事に見抜いて書かれた文章だ。彼女は、「笑い」の意味について、これまで何度か書いてきた女の子。「忍耐に疲れたら笑いを求めていきたい」と、友だちの哲学に、自分の哲学をつないだ。一人目の女の子は、この文章の途中で帰宅した。自分の文章を、親友が共感してくれたことに、すばらしいほほえみをうかべながら、帰っていった。
そして三人目の高校三年生の女の子が登場。この二人の文章を、聞いてもらった。
○○ちゃん(二人目の女の子)のかんがえていることはいいきぼうのわいてくることですね
しばたせんせいはどうおもいますか
しのすきなわたしにはまねができませんがとてもきもちがよくわかります
ちいさいよろこびがこみあげてきます
すてきなことぱでした
▽▽ちゃん(一人目の女の子)もすばらしいしでした
すなおなきもちがよくひょうげんされていました
しをつくれる▽▽ちゃんのほうがわたしはにているとおもいます
しをつくつているときもちがおちつきます
きもちがしずまります
しをつくっていたのはにんたいしてきもちがしずんでいていきるのがつらくなるときです
つらいときにげだしたくなるとしをつくってきもちをしずめたいとおもうのです
ふしぎです きもちがそのままことばになっていきます
にんたいのいみについてかんがえたことがあります
すぎたことをくよくよおもいだすのはかなしいですがつよくいきていくためにはひつようなことです
すぎたことでもそのことをちゃんとちからをいれてきぼうをわすれずにがんばりたいとおもいます
▽▽にもつたえてください
ちからいっぱいいきていこうと
そして、自分の作ってきた詩に移っていった。
しをきいてください
ひかりといのちのこうさくが そよぎ とびかう
しょうじょは なにかをまっている
しらないせかいのねがいが かなえられ
すべてが ちいさなさいわいに やがてかわっていくことを
そして きのうのなやみが とおざかっていく
のぞみどおりでは ないとしても
たくさん のべにさく ののはなは ときをしり
ときにあわせて ねがいをそらに いのっている
きぼうのかぜが やさしくふき
ふしぎなさけびが きこえて
みたこともないような まっしろなはなが
きぼうのよかんをつたえてきた
三人の言葉が、響き合って織り上げられたイメージの世界。本当の忍耐と希望の意味を知り尽くした若い三人の女の子だからこそ、描き出すことのできた世界だと思う。
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2008年12月14日 08時38分
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ともに特別支援学校に通う兄と弟と関わった。とはいえ、兄さんの方は、お疲れで完全に熟睡だったので、弟の方とゆっくりとパソコンに向かった。弟は現在小学3年生。
さっそく彼が綴ったのは、次のような言葉だった。
いしのつよいこどもになりたい
ずいぶんかべがあるけどがんばってつよいこどもになりたい
じぶんがしんじられなくなったらいけないのでじぶんをわかってふまんをいわずにがんばりたい
くるしいこともあるけどじぶんをしんじてさえいればだいじょうぶだとおもう
だからいつもじぶんをきにいるそのきもちをたいせつにしてがんばりたい
こんなに繰り返し「自分」という言葉が出てきたのは初めてのこと。力強い内容に、いちだんと成長をしたことが感じられる。
彼とは夏以来なので、最近のスイッチの援助のスピードアップに驚いたようす。
すごいじがすらすらかける
すごいねせんせい
すばらしいほうほう
そして、彼らしい文章が続く。
そばにだれかなやんでいるこどもがいたらすくってあげてね
このほうほうがあったらだれでもしゃべることができるね
さらに、こう書いた。
くよくよするのはざんねんです
うばわれたかこをとりもどすことができそうです
ねがってきましたことばをかけるようになることを
じぶんのきもちをことばでつたえることを
ずっとかきたかったことばでじぶんのきもちを
じぶんのゆめをてをつかってはなしをすることをねがっていた
ここで、兄さんと二人で夜になると、何か声を出して話しているらしいと聞いていたので、その内容について聞いてみた。
がっこうのことや げきのようなことをやっています
ねえさんやくをしたり すてきなこのやくをしたりしている
すてきなこのときはつきあってくださいとかはなしています
すてきなこにいっている
そうぞうしています
でもすきなこのすがたはすぐにきえていきます
すばらしいすがたのひとはねがいどおりにはあらわれてくれません
横でぐっすり寝ているお兄ちゃんに何か伝えたいことはないかと聞くとこんな答えが返ってきた。
このあいだけんかをしたのであやまりたい
そのことがつたえたい
おかあさんとどっちがねるかずっといいあいをしていた
そうなったのはこどもべやにふたりでねているからです
どっちかがおかあさんとねればいいとおもいます
どっちかがひとりでねればいいとおもう
どっちがおかあさんと寝るかでけんかをしたという。ほほえましいけんかのように見えた。だが、どこか、ちょっと彼らのいつもの感じとはずれている。すると、次のように文章を続けた。
おかあさんがねやすくなるように もっとぐっすりねられるように
今は二人ともお母さんと一緒に寝ているので、それではお母さんが疲れてしまうから、どっちか一人にしようという、そういう話題だったのだ。これなら、合点がいく。
ぼくはなきむしだけどひとりでもだいじょうぶです
こうたいでねればいい
おかあさんがいつまでもげんきでいてほしいから
こしのぐあいもしんぱいです
ねがいはみんながいつまでもげんきでいられることです
のぞみはとうさんのからだもずっとけんこうにいられることです
ぜひねがいがかなってほしい
そう言えば、ちょうど去年の今頃、クリスマスプレゼントは何がほしいか書いたらと促した時、自分のプレゼントのことは顧みず、「いろんなはなたばをおかあさんにあげたい いつもぼくたちのせわばかりしていてたいへんだから。ねがっていることはみんながしあわせになることです。」と書いたのも彼だった。
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2008年11月22日 23時25分
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仰向けに寝た姿勢で両手をとって、「ア行、カ行…」と聞きながら両手をたたき合わせていき、選びたい行が来るとパーッ両手を開いて合図を送るというやり方で文字を綴り始めた◇◇さん。今日は、さっそく、わらいについて語り始めた。
ぬるいものをのみこんだまさになんもんなのです
にんげんはやはりなやみがふかいほど
にんげんはせいちょうします。
つらいときはわたしはわらいをかんがえています。
わらいはやみだらけのくらしをあかるくして
なやみをわらいだすのにとてもいいやりかたです。
むずかしいなやみもわらいでばかばかしくなります。
よごれたこころはわらいできれいにのみこむことができます。
すきなひとがくらいかおをしているとかなしくなる。
わたしはなぜからくてんてきにかんがえるせいかくです。
にんげんはなやみながら
ゆかいにいきていくのがすばらしいとおもいます。
わたしもゆかいにいきたいとおもいます。
ここで先に来て休憩していた○○さんから質問が来た。
◇◇ちゃんのすきなひとだれですか
◇◇さんの答えはこう続いた。
わたしのすきなひとはわらいのわかるひとです。
さんまさん。
わらえるひとがいい。
言葉を発する前から、とても愉快そうな笑顔がたえなかった◇◇さんの、わらいの哲学。不思議な魅力を秘めた哲学だった。
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2008年11月15日 23時38分
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不思議なもので、私の手の介助が速くなって、たくさん綴れるようになってから、日々の様々な不満などを、あふれるように語り始めるという場合が増えてきた。今回の○○さんも、ひとしきり、今思っている不満を語った。それを聞くことはもちろんかまわないのだが、どうも、一方的に綴ってもらっていると、止めどなくなってしまうことがある。どうやら、きちんと相づちを打ちながら、時には話を切り替えることも必要らしい。
○○さんの話をじっくり聞いた後、この辺で話を変えようかと言うと、突然、すてきな話が飛び出してきた。
くるしみのなかからみつけたふしぎなこと
まるでけんこうなこどもたちに
ほんとうのよろこびをみつけました
りかいしてはいないけど
ねがいはめーてるりんくのあおいとりのようになんでもかなうには
よくねがいをむきあってぎんみして
まるでしんじられないようなねがいをもつことです
ぬいぐるみはなにもねがいませんが
にんげんはねがいをもつことができます
ねがいのふしぎなちからでなんでもゆめみることができます
めーてるりんくとはははのきずなといういみです
うしなわれたあかりをとりもどすことができます
すばらしいなまえです
メーテルリンクは、有名な『青い鳥』の作者だ。「しんじられないねがい」を持つことが大切で、願いを持つことで人は「ゆめをみることができる」という。
メーテルリンクは、「母の絆」という意味だとは、思いもよらなかった。
「ところでメーテルリンクのこと、誰に聞いたの」と尋ねると、
ねえさん
と答えが返ってきた。
メーテルリンクの話が、○○さんの中で、こんなかたちでふくらむとは、おねえさんも想像だにしていなかったことだろう。
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2008年11月15日 23時22分
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すでに撮影は終わって、完成を待つばかりの映画「ぼくはうみがみたくなりました」に、出演した☆☆さんが久しぶりにやってきた。それまで、いろいろ悩みを綴っていた、1歳年下の○○君は、話を切り上げ、☆☆さんとのとの会話に移った。なお、いつも文字盤で話をする○○君は、この日、久しぶりにパソコンで話をしていた。私がだいぶスイッチの補助が速くなったので、試してみたら、なかなかいい感じだったからである。☆☆さんは、今年の3月、高等部を卒業し、○○君は現在高等部3年生。もう10年以上前からの友人である。
○○君は、☆☆さんが現れると、自分の文章はとりあえず終了して、☆☆さんに質問を投げかけた。2台のパソコンを駆使しての会話である。
「☆☆ちゃんひさしぶりだね えいがはどうでしたかすごいね のんちゃんのきもちはひょうげんできたの (私が物語だったんだよと説明)さくひんだったのか それならしかたないね でもでられてよかったね もうとりおわったの」
「かんどうしました」
「かんどうできてよかったね」
「えいがではしおりのやくをしました とてもむずかしいやくでした ねえさんの××さんがとてもかわいかったよ」(本当は☆☆さんがねえさん役でした。)
「ねえさんやくのこはどこのひとですか」
「ほかのひとはみんなはいゆうでした」
「じょゆうさんだったのか」
「すごくきんちょうしましたがかんどうしました」
「すごいね めぐりあえてよかったね ついてるね ふかいてーまのえいがですか」
「ふかいてーまでしたよ ☆☆もかんどうしました じへいしょうのしょうねんがおじいさんのためにがんばったところにかんどうしました」
「こんどしょうせつをよみたいです わかりやすいはなしですか」
「そうおもいます すばらしいものがたりです」
ここで、○○君は、表現手段を文字盤に変えた。正確な彼の言葉が手元にないが、おおよその内容を記すことにしよう。
「よかったね」
「はい よかったです」
「えいがにでてゆうめいになったからといってぼくをむししたりしないでね」
「むししたりしないわよ」
「また、いっしょにでーとしよう」
「はい またいっしょにでーとしましょう」
「こんど おかあさんがぼくにないしょでいっているれすとらんにいこう」
「そうしましょう たんじょうびはじゅういちがつじゅうろくにちです ☆☆はこんどじゅうくになります はたちももうすぐです」
ここで会話は終了。○○君は先に家に向かった。そのあと、☆☆さんは、最近の速い援助方法をめぐって次のような文章を綴った。
これすごいやりかたですね すいっちがかるくてらくです もっとゆっくりだったのにびっくりしました このやりかたをみんなができるようになるといいね むずかしいのですか このやりかたをみんなができるようになったらすばらしいですね きたいしています ねがいはみんながなんでもはなしあえるようになることです たくさんのひとがはなせるようになるといいね すばらしいことばをじゆうにつかえることは ずっとねがっていたことです ねがいがかなってうれしいです
そして、さらに、将来のことへと話はふくらんでいった。
けっこんのことがしんぱいです ねがいがののはなのようにはなひらくことをのぞんでいます でもなかなかむずかしいとおもいますがゆめだけはすてずにいきたいとねがっています ほんとうはねがいがかなわなくてもいいからこいがしたいです すてきなだんせいとめぐりあいたいです ねがいはうつくしいじょせいになることです ねがっています
そして、再び、スイッチのことへ。
すばらしいすいっちですね かるくてらくです とてもいいきもちです きもちをひょうげんしたいとずっとねがってきたのでうれしいです ふだんからねがってきました ほんとうのことはわからないのですがねがいはたいせつにしたいです ふだんすばらしいひとたちのなかにいないでわかってもらえなくてもったいないです ねがいはひとりでもおおくのひとにりかいしてもらうことです
4月に卒業して、社会人になり、映画への出演などを経て、いちだんと大人になった☆☆さんがいる。
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2008年10月19日 02時08分
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すなおにいきたいけどふまんがふんしゅつしてなかなかよくやれないでいる
どこか元気のない様子で現れた○○君が最初に書いた言葉だ。本当は素直な心で生きたいのに、自分のことをなかなか理解してもらえない思いが、自分から素直な気持ちを奪っていく。そんなことを言っているのだと思う。この日、最終的には1000文字を越える文章を綴った○○君だが、そんな力を持っていることがなかなかわかってもらえない。
でもてはもっとあるとおもうのでさいちょうせんしたいとおもう でももうつかれそうです
再挑戦しようというけなげな思いと、でももうつかれそう…という思いの交錯。私も思わず、「僕も疲れたなあ」と、嘆声をあげてしまった。私がこんなところで筋違いの共感をしても始まらないのだが、なかなか動かせない現実が思わずそんな声をあげさせてしまった。言おうと思ったらなんでも言える私と、気持ちを表すこと自体に大きな困難を抱えている○○君とは、全く立場は違っているのに。
そんな葛藤をさらに言葉を重ねて表現しているうちに、
なかなかしんじてくれないけどくやしくてもあきらめないことがたいせつです
という言葉で、ひとまず気持ちの整理をつけたようだった。
ここで、スイッチを持つ役割を別の仲間に交代した。スイッチの操作の援助法を練習させてもらうためである。
練習のために質問に答えてもらうということで、まず「好きな科目は?」という問いに対して「ほけんたいく」という答えをうまく援助することができた。そして「好きなテレビ番組は?」と尋ねられて、「そ」を選んだ後、ナ行でうまく読み取れず、書いては消すと言うことが起こってしまった。そこで、私がちょっと代わったところできた言葉は「そにんそのしとせい」だった。ここで再び交代した。私は密かにこれは「ソニンその死と生」かと思ったが、自信もなく、しばらく経過を見守っていると、また文字を消しては書くと言うことになって、困ってしまったようだった。そして再び代わったところ、突然次の言葉が語られる。
けっこんできたらいいなとおもう
でもなかなかむずかしいかもしれないとおもう
どうすればけっこんすることができるのだろうか
この重い問いにこちらも答える言葉をもたなかったが、何かさっきのテレビ番組と関係はないかと、さっきの「そにんそのしとせい」って何だったのかと尋ねてみた。そして次のような答えが返ってきた。
いいばんぐみはあまりないのでじぶんでつくろうとおもったけどむずかしかった
そにんはだいすきです
さんちゃんねるでいろいろなことをはなしているのをきいてすてきだとおもいます
みんなのことをうったえてくれるのでぼくはすきです
のぞみはそにんとはなすことです
まったくしらないけれどすすんでりかいしてくれるとおもいます
まいにちてれびをみているとときどきであいます
どうすればあえるかな
こんどのせいさくでとりあげてもらえないかな
やはり、あのソニンのことだった。若者の重い心の葛藤に真摯に向かい合うソニンが好きだという。おそらく、結婚の話題が出たのは、ソニンと無関係ではなかろう。自分の心に重く横たわる問いにきっとソニンなら向き合ってくれるだろうと思ったのではないだろうか。
のぞみはすてきなひととめぐりあっていっしょにせいかつすることです
めぐまれないからだでもそのからだでせいいっぱいがんばればかのうだとおもう
よくがんばってゆめをたいせつにしていきたいとおもう
この子に文章が書けるのだろうかと疑いのまなざしを向ける人には、人生を深く悩み抜いている青年の存在がそこにあるという事実は決して見えてこないだろう。11年前あどけない幼児だった彼は、もう立派な若者になった。表面的な知識ならまだまだたくさん教えることができるかもしれないが、一番大切な問いには、もう私たちは正解を用意することはできない。できることは、ただ、ともに彼の歩みに寄り添いながらともに考えていくことだけである。
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2008年9月27日 09時06分
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夏休みに、仲間たちと話し合いをした時に、みんなに「つらいことはなんですか」と問いかけた○○さんとひと月ぶりに会った。そして、その時のことについての感想を次のように語った。
このあいだのおはなしとてもすごかったです
つよいきもちでないとわたしたちはくらしていかれないとおもう
にんげんとしてかのうせいをしんじてもらいたいとおもいます
もっといろいろなひととやりたいです
彼女たちがおかれている状況には、「つよいきもち」が必要だという。もちろんもっと楽に生きられたらと願わないではないが、彼女は、もっとしっかりと現実を見すえているということなのだろう。そして、その気持ちをいちばんわかり合えるのは何よりも同じ立場にいる仲間たちということになる。
また、この日は、私たち関わり手は4人いたので、かわるがわるスイッチの援助をした。「もっといろいろなひととやりたい」という言葉はその中から生まれてきた言葉だ。まだ、限られた人との限られた場所でのコミュニケーションに閉ざされているが、いろいろな人といろいろな場所で、当たり前に話せること、その可能性を信じて、もっともっと前に進んでいかなければならない。
また、この時一緒にいた学生に、こうも問いかけ、お願いもした。
よくきましたね なにをべんきょうしているのですか
くるまでおねえさんはきたの
べんきょうをときどきおしえてもらいたい おねえさんに
よろしくおねがいします
彼女もまた、学びへの強い渇望を持っていた。
時として、幻想的な物語を綴る☆☆さんは、今回、また、不思議な書き出しから始まった。
えすがたとみまちがうほどすてきでかれんなそのもようをよくみてほしいけど
もようをなんかいもかきかえてしまってとてもこまってしまい
じぶんがさがしていたすてきなねがいがかなえられ
ねがいどおりのほんとうのすがたになることができました
とてもよくなったのでねがったことをわすれてしまうほどでした
ほんとうのものをみつけることができたのでのぞみがかなえられました
でもりそうはまだまだたかくかかげていきたいとおもいます
不思議なイメージだが、今、満たされた状態にあること、そして、もちろんもっともっと理想を高く掲げていきたいということが、伝わってくる。そして、謎解きのように次の文が綴られた。
ほんとうのじぶんにであえるまでけっしてあきらめずにいきたい
せっかくのきかいだからふしぎなことばをかいてみました
どうでしたか
「もよう」とは、自分のこと。多様な自分の姿の中に、ほんとうに自分らしいと感じられる自分がある。移り変わる「もよう=自分」の中に、ようやく自分らしい自分が見え始めてきたということだろう。しかし、本当の自分に出会う旅はこれで終わるわけではなく、もっともっと自分らしい自分に出会うために旅は続けられる。
ふと、絵本「わたしのワンピース」を思い出した。
ところで、彼女もまた、夏休みの集まりのことを語る。その時、ある学校の先生が来られていて、その先生の、空中に描く文字を読み取るという方法で、彼女は自分の気持ちを表現することができた。
このあいだのせんせいはどうしてあのやりかたをはっけんしたのですか
とてもよいやりかただとおもいました
いつかかけるようになりたいです
彼女もまた、いろいろな方法でいろいろな人といろいろな場所で気持ちを表現する事を望んでいる。
そこで、また、かわるがわる彼女の手をとってみることにした。その結果、得られた文章は以下の通りである。
おかあさん
かしすのぷりん(カシスのプリン)
あかさぬ(あかさない)
かかえねる(楽な姿勢についての質問に対する答え)
つき(?)
広がりが楽しみだ。
◇◇さんは、いつもこのブログで紹介する多くの方々とは、ちょっとちがうタイプの方である。それは、彼女が自分一人でいろいろな物を操作できたり、ひらがなを書くことができたりするということだ。小さい時からずっと、文字や数に関する学習を続けてきて、着実に、一歩ずつ力をつけてきた。その◇◇さんも、たいへん小柄ながら高校3年生になった。文字を書く時は、いろいろ対話をしながら言葉を決めて練習することが常なので、この間の夏休みの仲間たちの話し合いの時は、その場に手伝いにきていた学生たちの名前を書いて楽しんだりして、結果的に話し合いに書き言葉で参加することはできなかった。
これまでは、ゆっくりと一文字一文字ペンをもって綴っていくことを大切にしてきたが、もしかしたら、みんなと同じような方法でちがった表現ができるかもしれないと、今回は、2スイッチワープロに挑戦してみた。これまでは、トーキングエイドや50音表のタッチパネルなどにも挑戦してきたが、2スイッチワープロは初めてである。
まず、練習として「おかあさんおとうさんおじいさんおばあさん」と書いてから、本人に任せてみた。すると、ゆっくりゆっくり、選んでいき、次の文章が書けた。
たのしみ かくれんしゅうする うれしい
それぞれ一文字ずつは、ペンで書けるけれども、気持ちの表現してこうした文章をペンで書くのはなかなか大変だ。しかし、音声のガイドがあったり、スイッチを押すだけでいいこうした設定では、気持ちの表現が可能となった。
このことの持つ意味をどう考えていくか、これからの課題だが、一つ、新しい世界が開けたような気がする。
私はパソコンや2スイッチワープロが万能だとはつゆほどにも思ってはいないが、可能性はいつも自由に開いていなければならないと思う。
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2008年9月13日 11時17分
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夏休みの一日、ふだんの個別的な関わり合いの枠を外して、地域のセンターの小さな会議室を借り、数名の子どもたちが集まった。このグループでこうしたひとときを作るのは、かつては、親同士の交流の意味が大きかったが、今年は、子どもたちもともに語り合おうということを事前に伝えてあった。とはいえ、パソコンをそれぞれの子どもの前に並べて、私たちが子どもの援助を代わる代わるにしながらの、語り合いである。
中学生のA君は、この試みについて、まず次のように感想を述べた。
A:いつもとちがってこどもどうしではなせるのがたのしみですりかいしてもらえてうれしいです
そして、高校生のBさんが、みんなに聞きたいことと言って、口火を切った。
B:せっかくのきかいだからそれぞれのきもちをききたいです。きいてみたいことはつらいことはなんですかということです。
初めての語り合いの機会に、いちばん聞いてみたい気持ちが「つらいこと」であるということは、非常に重い現実をつきつられる気がするが、その気持ちは痛いほどにわかる。
そして、この問いかけに対して、さっきのA君と高校生のCさん、D君から答えが返ってきた。
A:くるしいのはべんきょうがしてもらえないことです がっこうじだいしかほんとうのべんきょうはできないのにざんねんです
C:つらいのはさようならをいいたくないともだちとわかれなければならないことです
D:つらいの なやむときは ちいさいときからさみしかった ことばでいいたくてもいえなかった
短い言葉の中に、おそらくみんなに共通の思いがそれぞれの言葉で綴られている。もっともっと勉強がしたいこと、突然のつらい友だちとの別れのこと(この日は、3年半前に亡くなったお子さんの母親もひさしぶりに見えていた。)、長い間、言葉で表現できる力をもっていることを理解されずに寂しく過ごしてきたこと…。少しずつだが、仲間と共有していくことで、新しい世界が開かれて行けばと思う。
このグループで3人以上で会話が成立したのは初めてのことだ。もっともっとこうしたやりとりが成立できる条件をいかに増やしていくか、これからの大きな課題でもある。
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2008年8月21日 22時42分
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コミュニケーションを閉ざされた心の中に作り上げられた想像上の存在について、多くの方々がいろんなふうに語ってくださる。しかし、そのほとんどが、自分に寄り添い、自分を助けてくれる存在だった。しかし、この日登場した存在は、少し違っていた。
○○さんは、現在高校生の女の子だが、この日は、次のような文章をまず綴った。「いちごのこ(イチゴの子)に よくふくらむようこちらにこいといわれても わたしはいこうとはおもわない なぜなら ちいさなときからにくしみをかんじてきたきもちがあるから いつだってすなおなきもちでは いのれない どうすればいいのかわからないけれど ともかくうまくやっていこうとおもっているから いちごのことがっこうでは うまくやっていくつもりです」。この言葉を見る限り、「イチゴの子」は、学校にいる現実の存在であるように思えた。違和感と言えば、○○さんが、誰かのことを否定的に語るということ。もちろん人間だからそういう思いを持つのは当然だが、もっと澄んだ心の世界を持つ○○さんにはちょっと似合わない。
私たちが「イチゴの子っていったい何?」と不思議そうにしていると、「いちごのことは ×××(就学前に通っていた通園施設)で であったようせいです」と書いてきた。10年前に通っていた通園施設で出会った妖精?と、私たちの頭の中はいっそう疑問符でいっぱいになった。すると、「みえないのにわたしたちにあらわれて ゆうわくをします ×××のときは せまいこころになるようにとよびかけ がっこうではねがいをもたないようによびかけます」と続いた。
狭い心になるように、願いを持たないようにと誘惑する妖精。一気に謎は解消した、が……。この言葉に隠された思いは、イチゴの子や妖精というメルヘンのような世界とは、ひと味違う。
これは、閉ざされてきた世界で、自分の心はいじけてしまいそうだった、希望を失いそうだった、だけど、私はいつも広い心を持とう、いつも願いを持ち続けようとがんばってきたという、切実な思いを表現してきたものだと言えるだろう。そして、今でもそのイチゴの子の誘惑は続いているのだ、願いなんて持つなと。私たちは○○さんをイチゴの子の誘惑に屈服させることがあってはならない。
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2008年7月12日 08時22分
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金曜日の関わりあいでのできごとから。
兄弟で関わっているお二人の男の子のうちの中学生の兄さんの方が母へ、次のような言葉を綴った。「にほんそばのおいしいみせをさがしていますが なかなかみつかりません。ねがいは おかあさんにおいしいそばをたべてもらうことです。くるしいときもかなしいときも いつもぼくたちのおせわでたいへんだから たのしんでもらいたいとおもいます。てがうまくつかうことができたら おかあさんにいろいろやってあげたいとおもうけど どうしてもうまくいかないのでかなしい。のぞみをかなえてもらえるとしたら おかあさんによゆうのあるせいかつをしてもらいたいし もっとたのしいことをいっぱいみつけてほしい。」中学になった兄さんの、母への思いは、深い。「おそば」というのはほほえましい感じだったけれど、それに続く言葉は、切実なものだった。母から兄弟へ向けられた深い思いと、それに劣らない兄さんから母へ向けられた思い。ただ感動させられるのみだった。
そして、さらに、兄さんは、「めをつぶるとよくみえるさんたのようなともだち」についても語った。そのともだちは「すてきなともだち」で「げんきなこどもにはみえません。ともだちにあえるのはともだちがみえるときだけです。」と説明をしてくれた。長い間、言葉によるコミュニケーションが閉ざされてきた子どもたちが、口々に語る想像上の友だち。「みえるとき」は限られているということのようで、想像上だからといって、いつでもあらわれるわけではないようだ。不思議なリアリティをもった存在のようだ。
高等部の○○君は、学校でのパソコンのことを綴った。最近、少しずつ、学校でパソコンを使い始めたということで、まだワープロはやっていないとのことだが、「すいっちがうまくできたら××××せんせいのじかんにできるかな。」とまず綴った。ワープロのスイッチの援助にはこつがいるので、そこをうまくクリアできたら、学校でもできるということだろう。ところで、学校には、みんなの仲間で亡くなってしまった◇◇◇さんのご両親が学校に寄贈したノートパソコンがある。10歳で亡くなる半年前から突然パソコンで語り始めた◇◇◇さんの思いを伝えていくためだ。○○君が使っているのは、まだ確かめていないが、もしかしたら、そのパソコンかもしれないとのこと。「◇◇◇さんものーとぱそこんおくってくれたのだからぼくねばりづよくがんばりたいとおもいます。」短い言葉だが、亡くなった友の思いを受け継いで、がんばらなければという熱い思いが伝わってきた。もう亡くなって3年あまりになるが、みんなの心の中に、◇◇◇さんは確実に生きている。
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2008年6月28日 01時13分
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5月に、「うちでのせるすずに すてたねこが ねがいどおりすいせんこむそうをけらいにして もっととおくまでのがれ せいたかすみれそうのさくくににいきたいとおもったものの にげることができず かなしんで いぜんすばらしいうちだとおもって がまんすることにした。」という、不思議な文章を書いた高等部3年の○○さん。6月は、その説明のような文章を書いた。
「すいせんこむそうのいみはつらいことがあるとしおれてしまうはなのようなこむそうです。つまづいてしまうとおきあがることができなくなってしまうほどひとりぼっちでちいさなともだちです。こどものころからいっしょでした。すいせんこむそうはとてもせがひくくてとてもやさしいさむらいです。このまえそばでともだちのわたしをげんきづけてくれました。せいたかすみれそうはとてもいいにおいのはなでせがたかくていつもいのりそらにむかってこいこがれながらさいています。いつもせいたかすみれそうはねがいをもちながらねがいがかなうことをゆめみています。」
不思議なファンタジーの世界だが、それは、人とコミュニケーションする手段を持ち得なかった彼女が、一人作り上げたファンタジーの世界。○○さんの心の友、「すいせんこむそう」とあこがれの象徴である「せいたかすみれそう」美しくもまた、悲しい世界でもある。
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2008年6月14日 00時25分
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父の日を2日後に控えた金曜日、二人の同級生の女の子が申し合わせたように、それぞれ、父の日のプレゼントをめぐる言葉を綴った。
☆☆さんは、エメラルドのネクタイピンを贈りたいと綴った。姉といろいろ話し合ったけど、うまく伝えることができなかったらしい。そして、「おとうさんこのねくたいぴんのいろはわたしのすきないろです。わたしたちふたりからのぷれぜんとをうけとってください。あいするおとうさんへ。」と心温まる手紙を添えた。これまでも何度も贈ったプレゼントに始めて自分の言葉で手紙を添えることができた。
▽▽さんも、今日は父の日のこと。仰向けに寝ている彼女と私たちが両手をつなぎあって、彼女の手をたたき会わせるようにしながら、「あ、か、さ、た、な」と問いかけていくと、選びたい行で手が両側に開くという方法で文字を選択することができるようになって、半年が経過した。「おとうさんはなにがほしいのかきいてほしい のぞみをかなえてあげる きいてほしい おかあさんにたのみます こんばん」そして、花を添えたいとのことで、「ぴんくのあじさいのはなを」と綴った。気持ちを言葉にできた初めての父の日は、お父さんにとってとっても幸せな日曜になることだろう。
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2008年6月14日 00時04分
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肢体不自由の特別支援学校高等部3年に在籍する○○君をたまプラーザキャンパスの講義に招いた。小6の三学期に、「20歳の自分へ」と題した作文で、大学へ通っている自分を夢見ていた少年である。私は、小1から関わりを持ち、少しずつ学習を進め、小2の夏に、IBMの漢字Pワードというソフトを使い、レバースイッチを使って、肘や手首を介助することにより、文字を使った意思表示ができるようになるところまで進むことができた。その後、介助員の若者の手によって、50音表を介助によって指さして意思表示をなめらかに行うことができるようになっている。手をとられているため、必ずしもすべての人に信じてもらうことがかなわないが、彼を理解する人との間では、これまで豊かなコミュニケーションがとられてきた。
中学部に進学して、教科学習のグループには入れなかった彼は、しだいに大学への進学がかなわないものであることを感じるようになり、かわりに、私の大学に来てみたいというようになった。中学部時代は、義務教育でもあるし、わざわざ休んで大学に来るはむずかしいだろうと考え、高等部になったら、来てもらうと言ってきた。
その彼が高等部に進学し、さっそく、大学に招いたのが、一昨年の7月、昨年の7月は、非常勤でうかがっている大学の授業に招いた。そして、今回で3度目。
100名を越える学生の前で、母に抱きかかえられた姿勢で、母に手をとられながら50音表を指さしながら、彼は大学生たちに語りかけた。テーマは「教育とは」。
この日のために次のような言葉から始まる文章も彼は用意していた。「僕は、学びたいといつも思います。教育とは、なんでしょうか。僕のように障害を持っていると、学びたいということさえなかなか伝わりません。僕は普通に教科の勉強がしたいだけです。大人になってもいらない知識でしょうか。皆さんはどんなことを考えながら勉強をしてきましたか?仕方なくですか?それとも、何かやりたいものがあってそれをするための基礎ですか?僕は、ただ、知りたい、得たい、と思う貪欲な意欲だけです。僕のように養護に行き、将来は施設に入れられるだけの人生でも、今、知識を学びたいです。」
ほとんど年齢は変わらないにもかかわらず、あまりにも違う状況を生きてきた少年を前に、学生たちは、大いに心を揺さぶられた。ようだった。通常は、100人を越える授業で、自発的な挙手など、ほとんど望めない。しかし、この日ばかりは、少しずつ手が上がり、学生から少年に向けて真摯な発言が続いた。
自由に体を動かすことも話すこともできず、わずかに手を添えられて50音を指さすことによってだけ意思表示をする姿は、衝撃的なものだったろうが、あまりにもストレートな学びへの意欲は、学生たちにまっすぐ届いた。みんな、大学生としてのみずからの学びを問い直さないわけにはいかなかったにちがいない。そして、また、こんなにも心から純粋に学びたいという気持ちの少年が、学べる環境にないことが、合点がいかない。
授業の後も、彼をとりまく10名あまりの学生の輪ができ、対話が続いた。
学ぶことの意味をともに問い直すことにできた1時間となったと思う。
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2008年6月13日 23時59分
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△△さんは、小2で出会って、この3月に学校を卒業し、地域の通所施設に通い始めた。出会ったときから、このグループではただ一人、コミュニケーションがスムーズにいくお子さんだった。輪郭線の絵など、いわゆる空間的な認知と呼ばれる領域が苦手で、一方でややぼけた犬の写真を見た瞬間に「犬に決まってる」と答えるように、質感はしっかりととらえていた。線図形の空間的な関係をすばやい眼球運動によって処理すべきところが、脳性麻痺のハンディが目にも及んでいるために、なかなかうまくいかないという仮説を私は持っているが、こういう視覚的な特徴を持っているとひらがなはとても難しいものとなる。それでも、様々な学習を通して、徐々に文字や数の学習は進んでいった。中学部に入って、書道の時間に先生が手を添えてひらがなを書く学習を始めて、新しい発見があった。それは、視覚的な弁別には困難があるにもかかわらず、ひらがなを書く手の動きはどんどん正確になっていくということだった。
そして、高等部の2年の秋、文字を綴る手段として、もっと運動障害の重い仲間たちが使っているパソコンの2スイッチワープロに挑戦してみることにした。しゃべることができ、手を添えれば文字も書くことができるという状況で、あえてそのソフトに挑戦してみることの意味をどう考えたらいいのか、はっきりとした説明はつかなかったが、しだいに驚くような文章があふれだしてきたのだ。彼女の文字の選択の方法は、もっぱら耳によっている。昔から耳がいいとは言われていたが、みごとに聴覚だけで文字を次々と選び出していった。しかも、驚くべきことに、文章とは必ずしも一致しないことをしゃべりながら、文字を選んでいくのであった。
最初に決意がこめられた文章は、2年の3月。「△△3ねんせいになる」、そして「×××のいえ(作業所の名前)いくじっしゅうー」「×××のいえにいきました。こあのはこづめがたいへんでした。そつぎょうしたらさびしくてかなしい。なつどうやってすごすかな。おおちざわにきゃんぷにいく。」と職場実習の話から少しずつ文章が長くなり始めた。そして、11月は一気に長文へ。
そつぎょうをしたらたくさんきぶんいいことをしえんしてもらう。
(中略)ふつうのがっこうにいきたかったけどしかたがない
すこしぐらいきぼうをきいてほしいとおもいます
りっぱなおとなになりたい
けっこんをしてみたいとおもいます
私たちの知らないところで彼女はもう立派な大人になっていた。次は1月の文章だ。
そつぎょうしきのれんしゅうがやっとできるようになりました。あっというまでした。おんがくをきいているとなみだがとめどもなくながれてきます。わすれられないたくさんのおもいでがよみがえってきていのりをささげたくなります。
ねがいはたくさんありますがさみしいとおもうのはこの○○○にはさぎょうしょがすくないことです。もっとたくさんかよえるばしょがあったらえらぶことができるのに。
なにをりそうにしていきていけばいいのかわからないけどりそうをみうしなわないでがんばっていきたいとおもいます。まえにむかっていっぱいむねをはっていきたいとおもいます。
以下、その後の文章。
そつぎょうしきがちかずきししゅんきのとしもおしまいになるのがかなしい。ふしぎなかきもちがわたしをおそう。
ひのあたるなみきみちをあるいていこう。もしかしてつかれてしまってたちどまることもあるかもしれないけどともにあるくなかまがいるかぎりまえにむかっていきてゆこう。わたしがしんじていくゆめはむずかしいけれどたたかいつずけきもちがつずくかぎりがんばりたい。
○○○くんそつぎょうしたらようごでがんばってね。わたしはりんとしたきもちで×××のいえでがんばります。めざすさきだけをみつめていきたいとおもいます。(後略)(2月)
わたしはそつぎょうしきがおわってからまいにちいえにいてしゃしんをみています。めをさますとがっこうにいかなくていいのがふしぎとおもいます。×××のいえにいきます。にゅうしょしきはよっかです。もくひょうはとおいけれどもよくばらないでがんばりたいとおもいます。ふまんはないけれどのぞみはむずかしいことをしたいです。てをつかってまたひょうげんしたいとおもっています。わたしもやっとおとなのなかまいりができます。わたしがうまれてからにじゅうねんちかくになるけれどじぶんしかできないことをやったことがないのでやってみたい。(3月)
げんきにかよっています。(中略)
ゆめがありますけっこんができるといいなとおもいます。ひとりでせいかつできるようになりたい。ひとりでわかなわないことかもしれないけどにほんぢゅうをたびしたい。なかなかかのうせいをひろげることはむずかしいけどみらいにむかってがんばっていこう。わたしのりかいしゃがほしいでもみつけるのがたいへんでなやんでいます。どうしたらりかいしゃはみつかるのでしょうか。ふまんはないけどわかってくれるひとがほしい。てのふじゆうなわたしでもできることがあるとおもうのでそれをみつけたいです。みつかるまであきらめない。いつのひかみつかることをゆめみながらがんばっていこう。(4月)
昨日の文章は、はじめ別のことを話した後で、次の文章が綴られた。
(前略)てをつかえなくてもけっこんすることができるかしんぱいです。けっこんすることができたらうれしい。よくわかってくれるひとがいればけっこんしたいとおもいます。わたしになにができるかわからないけれどほんとうのしあわせにむかってがんばりたいとおもいます。ふべんだなとはおもうけれどとてもしあわせです。ふしぎですべつにふこうではないのにふつうのひとたちはこんなわたしをわらったりしてばかにしたりします。わたしはもっとがんばっていきようとかんがえています。りそうしかいえないよのなかのやくにたたいとおもっています。
大人としての彼女の思いに私たちは、どれだけ寄り添っていけるのだろうか。私たちの無力さとは別に、自分自身の人生をみずから切り開いていくであろう彼女の姿が、今、目の前にある。
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2008年5月24日 08時39分
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○○さんは、言葉を初めて綴ったのは昨年の秋。関わり初めて11年半が経っていた。少しずつ仲間が語り始めていたけれど、なかなかきっかけがつかめなかった。方法は、仰向けに横になっている彼女の両手をとって、胸の前で両手を一緒にたたき合わせながら、パソコンのスイッチを私たちが押して、「あいうえお」、「かきくけこ」といってゆくと、選びたい行で手を大きく開いて合図を送ってくる。そこで、その行の頭から一文字ずつ手をたたき合わせながらパソコンで発声させていくと、選びたい文字で再び両手を開いてくる。この方法は、アニメや音楽のソフトならば上手にスイッチ操作ができるのだが、タイミングの調整がむずかしいために、ワープロとなるとうまくいかないという状態の中で、試行錯誤しながら見いだした方法だ。「かわいい○○です」から始まった彼女の言葉は回を重ねるごとに長くなっていった。
2度目の1月の文章は、なんと、今は家を離れて大学に通っているおにいちゃんの彼女の話。
「(お正月に)おにいさんあえてうれしかった。ほおまでうれしかった。たくさんしゃべりたかった。かのじょのしゃしんがみたかった。こんどかえってくるときにしゃしんをみせてかわいいしゃしんをとってきてね!めーるしてくださいおにいさんに」というもの。なんとも、ほほえましい文章。
3度目の文章は、2月。おとうさんが一緒に寝ようとするいやがるという話を受けてこう書いた。「ままのことがすき。ぱぱは、もちろんすき。ぱぱがすきだけど、ねるのはいやよ。おとこだからねるのは、よくないとおもってます。(後略)」ユニークな言葉だった。
そして、今回が4度目の文章。残念ながら、「ゆううつ」という言葉の入った、168文字の文章は、秘密の文章。その後、お茶をしながら、パソコンは使わずに、「あ」「か」「さ」「た」「な」というふにして両手をとってたたき合わせながら聞いてみると、文字が選べた。「のみもの」とか「もらってありがとう」など、なめらかに表現することができた。そんな最中に発作が。お母さんが、「最近発作のあと、笑うんだけど」とおっしゃったので、さっそく聞いてみた。すると「わるいとおもってわらう」と返事が返ってきた。
そして、今回の関わりの途中で、一瞬うとうとしてしまって読み取りが乱れてしまった私のことを話していると、すかさず、話したいというそぶりをして、私の顔をにやにやしながら見て、「つかれているの」と告げてきた。その自然なやりとりと、その台詞がいかにも○○さんらしさに満ちているということで、本当におもしろかったし、彼女自身も終始、おなかのそこから喜びがこみあげてくるような笑いをずっと浮かべていた。
半年前まで、言葉をひきだすことができなかった彼女が、今、ふつうに会話をすることができるようになったのは、まるで夢を見ているようではあるけれども、もちろん夢でも何でもない。この現実に私たちが気づくのがあまりにもおそかったということだけだ。しかし、まるでそんなことをとがめもせずに、○○さんは、一言でもたくさん話そうとして、私たちの手を取り続けた。
この独特のやり方が、一刻も早く、彼女のまわりの人たちに広がっていくことを心から願うばかりだ。
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2008年5月24日 01時33分
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自主G多摩1 |
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