筆談で世界が広がった少女の思い1
ある都内の特別支援学校でのできごと。2年前にパソコンで文字を表現できるようになった現在小3の女の子は、現在手を添えられることによる筆談で気持ちを表現している。先生も家族も筆談の支援が可能で、表現の世界が格段に広がった。
そんな彼女に、あえて、パソコンで表現してもらった。それは、一
緒に話がしてみたかったからである。
きもちをいいたいとおもってきました
いいたいことがいえるようになれたらいいなとおもってきたのでひつだんができるようになっていいたいことがいえるようになっていいいきかたができそうです
きぼうがわいてきました きぼうがいっぱいねがいとともにでてきました
ひつだんができるようになっていいたいことがいえるようになってからきもちがおだやかになってきました
いいきもちです にちじょうかいわをしているようなかんじです
いいほうほうですね きもちいいです
ここで「いたい」という彼女の限られた音声言語が発せられた。「あしが痛いの?」とお母さんが聞くと、
あしじゃなくてきびしいからだのことです
との答えがあって、次のような文が続いた。。
じぶんのからだだけどちいさいときからどうしようもなかった
いしとからだがばらばらなのでつらかったけどきもちがいえるようになってきがらくになりました きぼうがわいてきました
かみさまはいるとおもいます
ここで、担任の先生やお母さんとの筆談に頻繁に登場してくる神のことについて、お母さんから彼女に質問が投げかけられた。
じぶんのきもちをきいてくれてきもちがやすらぐかみさまがいます
ひとにはみえませんがりかいしてくれるたいせつなそんざいです
ここで、私は、多くの子どもたちが作り出している想像上の友だちと同じ役割の存在だろうと説明を加えると、さらに担任の先生は、さっき突然泣き出したのもそれと関係あるのと尋ねた。すると次のように綴られた。
きていたのは☆☆ちゃんです
いきていたときにきもちをかけなかったのでかなしがっています
ちいさいころからいっしょだったからいつまでもいっしょです
きもちをひとりでもおおくのひとにきいてもらいたい
りかいしてもらいたいです
☆☆ちゃんのことは私も知っていた。前におじゃました時に、彼女は給食の時間、同室となる☆☆ちゃんのことを私に紹介しようとる。そこで、小声で、☆☆ちゃんも言葉があると言いたいの?と尋ねると
、うれしそうな表情をした。しかし。それっきりになってしまっていて、10月におじゃました時に逝去の事実を知らされた。間に合わなかったのだ。その無念の思いが、彼女に☆☆さんの「霊的な存在」を生み出し、その思いを代わりに伝えているのである。あまりにも厳しい事実でありながら、その厳しさ自体が知られていないのである。短い言葉だが、上の5行の中には、私たちの社会の未熟さが隠されている。
ここで話を変えて、詩について尋ねてみた。すると、次の詩が書かれた。
うつくしいにわにいるしずかなことりにいいたい
ちいさいとりはどうしてきれいなの
いいとりはいいました
いましろいはながいっぱいさいているところに
つれていってください
ちいさいとりはいいました
しろいはなのさくくには きたのほうにあります
きたのほうにあって いざめざそうとすると
だれもいけないところです
じぶんのこころにすなおになると
いくべきほうがくがみえてきます
ねがいをもってあしたをみつめていれば
きっとみえてくるでしょう
きたのくににあるしろいはなをさがしに
きたのくにをめざして
わたしはひとりたびだつ。
こうした幻想的な世界を思い浮かべて、希望を育てていくという心の働きは、気持ちをきいてくれて心が安らぐかみさまがいるという心の世界と相通じるものだろう。
また、彼女は、すでに先生と詩も書いているのだが、それとひと味違うのは、これが、自分一人の世界の中で、幻想的な世界を思い浮かべて、思うように体がいかない自分をいやしているというもので、人に聞いてもらうことを前提としていないところかもしれない。
ところで、途中で、「いたい」と声を出しながら、一方で文章をよどみなく綴っていることについて、あらためて尋ねてみた。答えは、
きもちがかってにこえになるのでできる
ということだったが、どうも、声だけではなく、きもちが体の動きにもなっているように思われた。
ここで、お母さんから、一緒に見に行ったミュージカルのことを聞いたら「いみがわからなかった」と筆談で返してきたので、とてもがっかりしたのだけど、それはどういうことだったの?と質問がきた。
がっかりしないでおかあさん
いいみゅーじかるでした
きゅうにきかれたのでいいかげんにこたえてしまいました
かなしいものがたりでした
いいみゅーじかるでした
きりすときょうのかんがえがかんどうてきでした
なんでもゆるすというかんがえがすてきでした
さらに、餅つき大会で、去年の記憶とつながっているのだろうかと思わされるようなことがあったので、そのことも尋ねた。
きおくのことはいいかげんにいってしまいました
こわいきもちはなくなりません
きねがぶつかってきそうだからです
いきているみたいでこわい
答えは以上の通りだった。
どんどん、豊かに広がっている彼女の世界が、本当にすばらしかった。
そして、これが、学校の実践として、日々営まれていることが、本当に貴重に思われたし、新しい時代を先取りした姿があるように思われた。
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2008年12月25日 22時21分
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