初めての出会いの場で
冷たく降り続いた雨がようやくあがった日曜日、さわやかな空気の中を新しい関わり合いの場へ向かった。4人の高校生と会うためだ。 初めての出会いはいつも緊張する。特別に事前の情報をあえていただくことはしないから、どんなお子さんが待っているのか、会ってのお楽しみということになる。しかも、いったん相手にお会いしてしまうと、障害の状況など頭越しに話されることは、ご本人もけっして気持ちのいいことではないと思うので、それもできるだけしない。会ったときの印象がすべてになる。しかし、実は、印象は多くを語ってはくれない。これまでいろいろな人が関わってその方に言葉があるとは思わなかったわけだから、最初の印象から言葉をつづれる人であると感じることは少ない。今日も、それは同じだった。ただ、最近は、その印象をあえて信じないことができるようなった。私の感じた印象がいかにいいかげんなものか、もう、いやというほど思い知らされてきたからだ。あれこれ迷うよりは、言葉をつづれることに賭けてみた方がいい結果に出会えることがわかってきたのだ。
今日は、4人の方がみんな200文字をゆうに越える長い文章をそれぞれに綴ってくださった。
最初の方の言葉は、とても大人びた、しっとりした言葉が並んでいた。「わかってくださってかんしゃします。なかなかりかいしてくれるひとがいなくていつもひとりでなやんでいました。さびしかったけどほうほうがみつかってうれしいです。」「くなんのひびでした。ねがっていましたこのひがくることを。とうとうそのひがやってきました。ちいさいころことばがしゃべれたらいいなとおもっていましたがもうあきらめていましたのでとてもうれしいです。」
「さびしかった」「くなんのひび」「あきらめていました」という言葉が、胸に突き刺さってくる。身の引き締まるような言葉の連続だった。
二人目の方の言葉は、終始笑顔で綴られたものだが、ユニークな言葉があちこちにおどっていた。
「おかあさんかけたよ。わかってもらえてありがとう。」「ついにかけた。くるしかったわかってもらえなくて わかってくれてうれしい」「べんきょうができてともだちがよろこんでくれるとおもう くうそうじょうのともだちです」「もじこのほうほうでかけることがわかったのでねんがじょうもかける ねんがじょうがかきたかった」「ちいさいころにおかあさんがほんでおしえてくれたながいあいだかきたいとおもってきました」
空想上の友達の存在をまた語る方に出会ってしまった。人は本当に人を求めて生きているのだということが痛感される。
3人目の方は、りりしい若者。歩くこともできるし、自分で食事も口に運べるとのことだが、やはり運動にハンディがあり、気持ちの表現がむずかしようだった。その彼の言葉は、次のようなもの。「かあさんこれまでねがってた いろいろきもちいえるようになること」[りかいしてちゃんとげんきをだしすばらしいくらしをしたい」
「ふいにおとずれたきかい てをつかうこと」「てがそんなにうまくつかえないのにこまっている ていろいろなえらびかたをしてもうまいぐあいにはつたわらない」「ちいさいころからわかっていました おかあさんがよくえほんをよんでくれたのでおぼえました」
4人目の方は、笑顔のすてきな若者。「ばんざいできたむずかしいとおもっていたけどかんたんだった」「みんなもできてよかった○○さんやし△△さんや◇◇くんはどんなことをかいたの みんなすごいね ねがいがかなえられてみんなよかったねさんにんともいろんなおもいをしていきていることがわかった」「ねがいはすきなひととけっこんすることです ほかにもたくさんありますけっこんができるかどうかわからないけどこのままですぎていくのはいやだ たいへんかもしれないけどむちゃくちゃがんばればできるかもしれない」
友だちの快挙を自分のことのように喜んでいた。夢も語った。「むちゃくちゃがんばれば」という言葉に強い意志を感じた。
最初に出会った日に、全員が200文字を越える長文を綴ったのは初めてのことかもしれない。実にたくさんの方々と一歩ずつ方法を洗練させることによって、ここまでたどり着くことができたというのが実感だ。今日の方々も含め、ただただ感謝あるのみだ。
帰りの高速道路から見えたひさしぶりの夕焼けがきれいだった。こうした出会いを通して、確実に私の心が洗われていくのを感じる。
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2008年6月1日 22時56分
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自主G23区3 |
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しばちゃんのことばって暖かいから大好きです。私は、こどもたちが喜ぶような教育を授業をできるかな。。。最近大学の仕事に追われて授業準備をする気力もなく。時間に追われる毎日です。