人間が願いをすべてかなえられたらどうなるのか
「苦難は希望への水路」、「手の中に美しい諦念を握りしめて」、「僕たちはけっして何もするわけでもなくただじっと言葉だけを使って生きてきた。しかも一度もその言葉を誰にも話さずに生きてきた(…)だから、言葉が研ぎ澄まされてくるのは当たり前のことなのです」というような言葉を表現してきた中学生の○○君は、次のように語った。句読点と漢字を適宜使いながら紹介する。
新しい年と時代の始まりの予感がさざ波のように感じられ、いい一年になりそうです。
たくさん夢が、ぬか喜びとならないようにと、希望に喜びを重ねながら、あしたこそ願いがちゃんとした日の当たるところにいけるように希望と幸いとを祈りに変えて、過去は、星空に輝く可能性の綺羅星に変えて、可能性の気づかない苦難が死に絶えてしまうように祈り続けよう。
希望がすっかり昨日の思い出になってしまったら、その時こそ気にしていた素直な希望の死に絶えた奇妙な世界が訪れるだろう。
ついに希望の澄み切った世界が訪れた時、しあわせはどういう形になるのだろう。しあわせは小さな喜びとなって、しあわせと呼ぶ必要もなくなるだろう。しあわせの形は変わったとしても、神さまはきっと願いを聞いてくださるだろう。
しあわせの意味を希望の中に探すのではなく、一人一人の生き方の中に見いだしていかなくてはならない。希望の意味が変わってしまっても、いい希望は、変わらずそこにある。たとえ死は獅子のように襲いかかってくるかもしれないが、小さい僕は、一人苦闘を続けていくつもりです、人間としての希望をかなえるために、小さいと僕と小さい願いしか携えずに。
そして、ついで、彼はこの詩に次のような説明を加えた。
夢のような願いですが、人間が願いをすべてかなえられたらどうなるのかということを考えました。人間は、希望をかなえてしまうと死んでしまうしかないのでしょうか。小さい僕にはわかりませんが、小さい僕も、希望がかなえられる日を夢見てがんばろうと思いました。柴田先生はどう思いますか。
思わず言葉に窮しつつ、私は次のように答えた。すなわち、確かに、すべての願いがかなえられた世界というのを考えることはできるし、仏教的な世界では、一人一人の小さな欲望を越えていくことで、すべての願いがかなえられたような境地を語ることがる。一方、キリスト教的な世界では、自分の小さな欲望や願いがいくらかなえられても、この世界のどこかにはいつも苦しんでいる人がいて、その人たちの苦しみがなくならない限り、自分の願いはかなったことにはならないという考えがある。どちらがいいとか悪いとかではなく、そんなことを考えさせられた、と。
もう時間も迫っていたので、彼は、一言、こう述べて、帰っていった。
わかりました。また考えてみます。ありがとうございます。
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2009年1月8日 13時03分
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