二人の女性の詩を交えたやりとりから
社会人の女性○○さんと、2度目の再会。昨年の11月に初めて会った。最初に、手だけで話す方法でいろいろと話し、お母さんにも代わってもらったりした。そんな中で、スイッチとソフトをさしあげてから、ずいぶんとおうちで努力なさったらしいが、なかなかうまくいかず、彼女にため息をつかれ、あきれられてしまうという話になり、彼女にため息の真意を尋ねてみた。すると、パソコンで、
かあさんががんばっているのにできなくてとてもすまないというきもちです
よくやってくれてかんしゃしています
がんばっているかあさんにたいしていつももうしわけないきもちでいっぱいです
という答え。お互いの深い深い気遣いは、時々、こういうすれ違いを生んでしまう。美しいすれ違いだが、お母さんはずいぶん気持ちが大変だったご様子だった。しかし、この言葉にお母さんも救われたようなご様子。さっそく彼女のほほを両手ではさみこんでおられた。
そして、詩の話をしてみた。
つくっています
(書いてもらえますか?)はい
そして次の詩が書かれた。
みたことのないけしきがわたしのまえにひろがって
ゆきがひとひらおちてくる
きたかぜがやさしくわたしをつつみ
ねがいどおりにしろいせかいがひろがる
いいねがいをたずさえて
しろいゆきがきたかぜにのってふってくる
きたかぜはくるしみにつかれたひとたちの
ほんとうのきぼうをしっている
きたかぜはきぼうのかぜ
ひとりぼっちのわたしの
きぼうのよりかかるやすらぎのかぜ
ちいさいころからことばをはなせなかったわたしが
べつのゆめをもとうとしてくるしんできたことをしっている
いいかぜがふいてねがいがかない
ちいさないいちかいをたて
わたしはあたらしいじぶんにうまれかわる
きのうのくるしみはあしたのきぼうにかわり
じぶんというそんざいにめざめた
ここで、私は、多くの同じ立場の仲間が、希望と北風を結びつけた詩を書いていると話すと、
きたかぜのいみをわかるのはほんとうのくるしみをしっているひとです
わかっているともだちがいてうれしいです
と返事が返ってきた。
こうした詩のやりとりの最中に次の◇◇さんがお見えになった。現在、高校1年生の女性だ。初めての方だが、○○さんの幼いころからの知り合いだという。5つほど年齢が違うようだ。おそらく確実に聞いているはずと考えたので、詩を改めて読み上げ、さらに、○○さんの手を取って、◇◇さんへのメッセージをお願いした。すると、「きっとはなせるようになるからあきらめないでがんばって」というような言葉を贈ってくれた。
そして、そこで◇◇さんにバトンタッチして、まず、手をとって話す方法に挑戦すると、さっそく素敵な詩だというような言葉が返ってくる。しばらく、○○さんとその方法でやりとりした後、改めて、パソコンに移った。
いいたいことがいえたらいいとおもってきました
きもちをいいたかった きぼうがわいてきました
きぼうのきたかぜのことはよくわかります
くるしみをしっているひとにだけきたかぜはやさしくふきます
きたかぜはきたのくににねむるかなしみをあつめてふいてかなしみをしずめてくれます
きたかぜはだからきぼうのかぜです
そして、自分も詩を作っているということで、次のような言葉と詩が続いた。
きいてください
きのうのかなしみはきょうのよろこび
しらないちいさならんぷがともるように
わたしのこころにきぼうがともる
きぼうのともったらんぷをたかくかかげて
めのまえのくるしみをあかるくてらそう
そうかんがえるとしあわせがみえてくる
ちいさなあかりでもきぼうのあかり
たとえゆうだちがきてもきえることはない
ねがいはきっとかない
ゆめはきっとげんじつになる
くるしみのむこうにいいしあわせがひかっている
いいしあわせにむかってとびたとう
この詩を聞いた○○さんも、◇◇さんが、言葉で気持ちを表現できたことを、心から喜び、また、この詩についても、とても素敵な詩と感想を述べ、ここで帰路についた。
そして、◇◇さんの文章は、さらに続く。
ねがいがかなってうれしいです きぼうがかなってうれしいです じぶんでひとりぐらしがしたい ちいさいころからのゆめでした きぼうはけっこんすることですがむずかしいかもしれません いちばんいいとおもうのはすてきなひとにであえることです いいひとにであいたいとおもいます ちいさいころにかあさんがえほんでおしえてくれました いつもねがっていました じできもちをつたえたいとりかいがえられてうれしい
ちいさいときからのゆめでした
ちいさいときにはいつかはなせるようになるとおもっていましたが きっともうだめかとあきらめていました でもはなせることがわかってかんげきしています
ありがとうございました またよろしくおねがいします
高校1年生の彼女は、もう、しっかりと大人になることを考えながら生きている。そして、その中には、もう、自分は話せることはないかもしれないという思いも含まれていた。
私のような人間が、一人の人間の生きる希望に関わるということはとても大それたことだ。今、そういう関わり合いの中に自分が身を置かせていただいていることに、不思議な感謝の念を抱く。その感謝は、きっと、これまで出会ってきた障害の重い多くの人々と、今まさに出会っている目の前の人に向けるべきものであろう。
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2009年2月12日 17時06分
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