はなのあいだをとびかうちょうのように…
コートのいらない暖かい日射しの一日、病院を訪問した。最初は中学生の☆☆さん。
こんにちわ、きてくださってありがとうございます
と、手をふって聞く方法であいさつをしてくれたあと、
すいっちでやってみたらどうなりますか。
と提案がきた。理由を聞くと、横で書き取る先生が大変だからということだった。そこで、プッシュ型のスイッチを使って、パソコンでやってみることにした。そして書かれたのは、次のような文章だった。
いいかんじです ねがいがかなってびっくりしています ゆめのようでいいきもちでかんどうしています ずっとねがってきたのでなんだかしんじれないきもちです しんじてもらえてかんしゃしています
きょうはたとえばみんなをつれて にほんじゅうののはらにはながさいたようなきもちです ののはなのようになもないわたしですが ゆめをみながらはなのあいだをとびかうちょうのように るんるんととびまわっています てんのひかりをあびてへいわなむかしのふしぎなこえをききながら むかしのじぶんのきもちをおもいだしていると よいほんでもよんでいるようなきぶんになります ぶんしょうとしてかいてみると よけいにきちんとしたすてきなきぶんになることができます くるしくてもきもちをひょうげんすることができるとくるしみはきえさっていきます じぶんでぬいぐるみのようにおもってきましたが にんげんとしていきていることをこころからじっかんできます ちいさいときからずいぶんとおまわりをしてきたけれど ようやくみらいがひらけてきました すばらしいはじまりです どこにもいけないわたしですが のぞめばののはなをめぐるちょうのようにどこへでもいくことができます げんきだったころにはそうぞうもつかなかったようなきもちですが けっしてふこうではありません くるしさのなかにはまたよろこびがあることがはっけんできました ねがいがかなってかんげきです
すてきなほうほうをかんがえてくださってありがとうございます ○○○くんがまっているのでおわります
そこでとなりのベッドの小2の○○君に代わろうと思ったが、一つだけ、先生が聞いておきたいとおっしゃっていたことがあったので、それを尋ねた。それは、同じ病院に最近入院している中学3年の女の子に、ひとこと卒業のお祝いを書きたいので、その言葉を聞いてほしいということだった。
ののはなのように ほほにほこりをもっていきましょうね
よいゆめをわすれないようにいきましょう
これからもよろしくねどんなときもきぼうをたいせつに
☆☆より ××さんへ
これでおねがいします
そして、この様子をずっと隣で聞き耳を立てて聞いていた○○君もさっそく、パソコンでやるとどんな感じになるのと聞いてきたのでパソコンで挑戦した。
すなおにいきていきたいとおもいます すなおなきもちのつもりでもだれかをきずつけてしまうのがつらいです ふしぎです すらすらぶんしょうがかけていきます なぜわかるのですか ふしぎです じぶんではちからをいれていないのになぜよみとれるのですか ここだとおもっています ふしぎですがよいやりかたです ちいさいころからなんでもきもちがいえたらいいなとおもってきたので うれしいです すみません くびがいたいです すこしやすみます
その後、首の疲れがとれないらしいので、スイッチはやめて、手だけで聞いていった。
すると、いろいろな気持ちを話しているうちに、私の大学はどこにあるのと尋ねてきた。渋谷と答えると、ラジオをよく聞いている彼はわかったとのことで、すてきなおねえさんたちのいるところですねというようなことを、言ってきた。だが、ここから、彼は、一気に話の方向を変えてきた。
内容は、自分はずっと病院にいて、外に出たことがないので、外に出て、いろいろなものを見たり聞いたりしたいというようなことだった。そして、小さいときから気持ちを伝えたかったという思いが語られていく。そんな中で、彼は、なぜ、ぼくは外に出られないのか問いかけてきた。ずっと、病院の中で育ってきた彼の、当然の叫びである。答えに窮した私は、私にはその質問に答える資格はないということと、☆☆さんの書いたことを聞いてほしいということだった。そして、○○君に☆☆さんの文章を読み上げた。
懸命に耳をすませて聞いていた○○君は、同じ状況にある☆☆さんの言葉だからこそよくわかるということを言った。
そのことを☆☆さんに伝えると☆☆さんは、今度はパソコンは使わずに、次のようなことを語った。
願いは願いとしてたとえかなわなくても持ち続けることが大事で、人は、希望や夢を持っていれば幸せに生きることができる、というような言葉だった。決して負け惜しみではなく、人間というものを深くとらえた言葉だと思った。
○○君は、さらに、自分たちと同じ状況にある子どもたちと、こうした気持ちを伝え合いたいと語った。
私が学生のころ、よく、限界状況を生きるという言葉を目にした。自ら全く動くことができず、狭いベッドに限られた世界を生きるというのは、まさに、その限界状況にほかならない。その中で、紡ぎ出される言葉の中に、幸せに生きることができるということが含まれているということの重みに圧倒された時間だった。
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2009年3月18日 08時38分
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小児科病棟 |
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