人間開発学部の「聴講生」
私の大学に新しい学部ができた。人間開発学部という。この「開発」は、森をブルドーザーで「開発」するという意味での開発ではなく、人間の可能性が花開くという意味での「開発」を意味している。私は、この専任になったが、人間の可能性の開発ということを、まさしく存在そのもので表現しているのは、私が関わってる人々である。できれば、この学部には直接そんな人々にどんどんと出入りしてもらい、学生たちに直接可能性の開花ということを肌で伝えてほしいと思っている。今回、その皮切りに、この3月に特別支援学校の高等部を卒業した○○君に来てもらった。彼には、年に一度これまでも来てもらったが、今年度からは、来れるときに「聴講する」ということで、日常的に来てもらえることになっている。
彼のコミュニケーション手段はこれまで、お母さんが抱きかかえて手を持ち、50音の文字盤を指すというのがもっとも有効な手段だった。彼が最初に言葉を発したのは、パソコンだったが、途中から修得した文字盤をさす方法の方が圧倒的にスピードが速くなったので、もっぱらこれによってきた。ところが、私のスイッチ操作のスピードが飛躍的にアップし、さらに、手を振るだけでも50音を選択できるようになったので、お母さんの体力的なご負担を考えて、まず、パソコンで意見表明をしてもらった。以下の文章がそれである。
みなさんこんにちわぼくは○○○といいます
じぶんでははなせないのできかいではなします
じつはぼくはみんなとおなじようにだいがくにかよいたかったけどねがいどおりにはいきませんでした
にっぽんというくにではぼくのようなしょうがいがあるとべんきょうはさせてはもらえません
なぜかというとぼくのようなこどもはちゃんとかんがえているとはおもわれないからです
じぶんのいけんをもっていてもなかなかきいてもらえません
なぜかというとぼくたちはいしひょうじができないからです
にんげんはいしひょうじができないとりかいさえしてもらえません
じぶんのきもちをいえないとむかしはなにもわからないひととしてみんなしせつにいれられたままらくないきかたをしいられていました
かことはちがいますがいまでもねがいどおりにはいきません
ちいさいときからにんげんとしていきたいとおもってきましたがぼくらをにんげんとしてみてくれるひとはすくなかったです
ゆかいなこともたくさんありますがなかなかおもうようにはいきません
ききたいことがあったらきいてください
ちいさいことでもいいですから。
150名を越える学生を前に、即興で語った言葉だが、学生たちの心に、ぐいぐいと入っていく言葉だった。
この後質疑応答に移る。学生は、おずおずと手を挙げだした。「つらいことは?」「楽しいことは?」「好きな映画は?」と続いていく。始め、このやりとりもパソコンでやったが、どこか、対話的雰囲気が出ないので、お母さんの文字盤のコミュニケーションに代わっていただいた。やはり、この方が対話の臨場感が出た。
質問者の中に、自ら足に障害のある学生がいた。彼には、○○君の話が、他人事には思えなかったとのことで、そのやりとりが、いちだんと話に深まりをもたらした。
授業のあと、学生たちが研究室にやってきた。残念ながら授業は必修と重なって出られなかった人間開発学部の学生たちと授業を受けた他学部の学生たちだ。
たくさん、話した。それは、彼が初めて経験する外の世界の同い年の若者たちとの、若さ溢れる会話だった。そして、何人かが彼の手をとって、「あかさたな」とコミュニケーションをとろうとした。最初の女子学生が読み取った言葉は「どきどきする」。当然の台詞だった。
ここから、新しい何かが生まれていくことを心から願う。
くろうしているのはじぶんのことをなかなかわかってもらえないことです
びっくりするかもしれませんがよくわかってくれるひとはほんのわずかです
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2009年4月21日 10時50分
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自主G多摩1 |
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