二人の少年との関わり合い
火曜日、二人の中学生の少年と関わった。
一人目は、ほとんど体を動かすことのできない少年で、最初の出会いから1年9ヶ月が経過した。
「(…)りかいしてもらうよろこびにこみあげてろましょ(ロマ書)のことばをおもいだしました。ふだんからこころがけていました、しんじていればかならずとびらはひらかれると。とわ(永遠)というものにふれたきもちがします。くなんのひびがへいあんのひびにかわりました。(…)」最近、彼が以前通っていた学校の先生方に、文字が綴れるようになったことをわかってもらえ、喜んでもらえたとのことで、今日の文章は、それを受けたものだ。彼は、その学校で、いろいろな話をしてもらってきたそうだ。その中には、聖書の話もあったとのこと。意思表示の困難な彼がいちばん集中するのは、むずかしい話の時といわれていたという。「へいわがくればいいうちゅうがえいえんにじかんのあるかぎりいつのひかちいさないのちがうまれてそだっていくようにしあわせがいっぱいにひ(ろが)りますように」というような世界平和の問題などを綴ってきた彼の心を育んできたのは、そうした学校での日々だったに違いない。スイッチの援助はあくまで、技術の提供にすぎない。心を育む日々の営みの大切さを改めて思った。
二人目の少年は、歩くこともできるが、なかなか手の運動のコントロールや「はいーいいえ」の表現がむずかしい少年だ。初めて会ったが、私はもはや躊躇することはなかった。そして、いきなり、400文字を越える文章を綴った。「おかあさんよくかわいがってくれてありがとう。てがつかえてうれしい。このすいっちがほしい。ずっとさがしつずけてきましたいいたいことがいえるほうほう。ねがいがかなってうれしいです。」と始まり、「わかっていたべんきょういっぱいしたから。ひとりでちいさいときにてれびやえほんで。」と、どうやって文字を覚えたかを説明した。彼の思いは、「べんきょうがしたい」「もっとおしえてもらいたい」という強い学びへの気持ち。数についての知識を尋ねてみると、「3÷3=1 81÷9=9 32÷4=8」と綴った。そして、「わりざんはうまくわれないときどうすればいいの。にぶんのいちというのはどういういみなの。ほんとうのねがいはぶんすうとしょうすうについてききたい。」と続いた。彼の学びを阻んでいるのは、ただ常識の壁のみである。私は、ただ、早くその事実に気づかされた人間に過ぎないが、早く気づかされた人間の責務として、この常識の壁に一刻も早く穴をあけなければならないと思う。そして、彼の心に寄り添い心を育む日々の営みが、もっともっと濃いものになることを願う。
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2008年6月18日 00時35分
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