ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2009年07月28日(火)
臓器移植問題、そして詩と歌
 高等部2年になったG君は、文章を綴り始めるなり、臓器移植の問題から切り出してきた。

聞いてほしい相談があります。病気の人間の臓器を移植するのはいろいろな考えがあるけど、唯一心配なのは、脳死の子どもでも最後まで意識はあるのではないかということです。みんな悲しいと思う、理解されなくて。自分は脳死ではないけど、人からは理解されていないと言われているから、気持ちがわかります。みんなと考えを話し合いたいです。みんなはどう考えているのでしょうか。知りたいです。
(ここで別のグループで交わされた脳死についての議論を紹介した。)
 障害のある人が意志があるのは当たり前のことです。人間だから意志があると思います。
 ランニングコスト、あんまり知らない言葉だけどどういう意味ですか。敏感な人にはつらい言葉ですから使わないでくださいと言いたいです。勇気を出して言いたいです。勇気を出して言いたいです。勇気を出して理想を伝えたいです。

 このあと、彼は、前回聞き取っていながら、メロディーのメモを紛失してしまった歌について、そのメロディーをもう一度教えてくれた。
 G君の臓器移植の話を受けて今年社会人一年目のHさんは、次のように書いた。
 
 小さいときから何もわかっていないと言われてきたのでやめてほしいと思います。見たわけではないのでわかりませんが、迷惑だと感じているひともいると思います。なぜばらばらにされなければならないのでしょうか。私たちは利用だけさるのはいやです。利用されるだけされてわかってもらえないなんてあまりにも悲しすぎます。なぜ世の
中の人たちは理解しようとしないのでしょうか。無理というふうに考えずに可能性に賭けてみるべきだと思います。人間だから言いたいことがあります。人間だからわかってもらいたいです。人間だから信じてもらいたいと思います。


 そして、また、彼女も、詩と歌を私たちに聴かせてくれた。彼女は、メロディーは階名で書いた。

すばらしい絵巻が広がった
私の煉獄のような世界に
夢のような光がさしてきた
平和の鳩が羽ばたくように
らっぱの音が鳴り響き
私は楡の花を越え
妖精のように空を舞う

ミレドレファファミミレレドレ
ラドシラソシラソミレドレド
ラシドレドレドミレドミレ
ラシドレドレドミファミレド
ラシドレドレドミファドミレ
ミミドレドファミレミレドレド

願いが叶ってうれしいです。夢を見ているような気持ちです。理解してもらえてうれしいです。私の歌を聴いてく
れてありがとうございます。絵はらっぱと花がいいです。よろしくお願いします。


 G君の歌を今回、CDにしてきたのだが、その絵は雪だるまと虹だった。それを見ていたHさんからのリクエストである。
 次に訪れたNさんは、わかそよのコンサートの後、一員としてくわわったとびたつ会の話を始めた。簡単な言葉は口から発することはできるものの、内面の思いは、これまでもパソコンを通してしか語られてこなかった。とびたつ会の雄弁な仲間たちに刺激されて、こうしたパソコンで綴られた気持ちを音声で語れるようになればと思うけれど、それは、そんなに簡単なことではないかもしれない。彼女は、思いをひとしきり綴り、そして、詩を一編綴ったあと、最後に臓器移植についてのコメントを述べた。

 とびたつ会にはいって楽しいです。私の気持ちを言いたいのですが、なかなか話ができません。みんなは意見を自由に言えるのでうらやましいです。理想は自分で話せることができたらいいのですが、なかなかうまく言えません。口では気持ちはうまくいきません。みんなの勇気が未来を切り開いていくようで、うれしいです。人間として生きたいと思います。夢のようです。瑠璃色の理想の光がさしてきました。理想の瑠璃色の光を、人間として理想を輝かせて生きていきたい。
 不思議です、力を入れていないのでどうしてわかるのですか。奇跡のようです。未来が開けてきました。話しながらでもうつことができます。話は勝手に動きますから。大丈夫です。口は勝手に動きます。勇気がほしいです。人間だから分相応の生き方はいやです。います。分相応の生き方をしろというのは学校の先生です。進路指導ではありません。人徳のない先生です。狭間で私たちは苦しんでいます。願いは、人間としてたくましく生きていくことです。勇気がほしいです。

昨日の私にさようなら
逃れられない定めの別れ
春の風は別れを告げて
小さな私に夢をくれる
自分の夢まで飛び立って
未来もこの手に握りしめ
やすらぎの時をつかむとしよう

 詩を作っていると気持ちが落ち着きます。暇な時です。人間だから願いがあります。人間だからまっすぐ気持ちを持ちたいです。人間だから言いたいことが言いたいです。気持ちが言いたいです。

 (G君やHさんの)言いたいことはよくわかります。人は脳死でも意識はあるかもしれません。障害者の気持ちがわかってもらえないように、脳死の人でも理解されていないかもしれません。気持ちを分かってもらえないのはつらいことです。脳死というのは何ですか。

 脳死の議論は、あくまで、脳死とされた状態にある人をどう考えるかという議論であり、そこに、共感を寄せる根拠がある。移植を待つ人のことだって、彼らはまた、私たち以上に共感を寄せられる立場にある。
 最近のマスコミの報道に登場する脳死あるいはそれに近い状態とされる子どもたちの姿は、いやおうなく、理解されれない自分たちの状況に重なっくるのだろう。

2009年7月28日 09時35分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 自主G多摩1 |
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