大野剛資さんの大学の講義1 『きじの奏で』の著者として
4月に詩集『きじの奏で』を出版した大野さんに講義に来ていただいた。プロジェクターでパソコンの画面を映し出してその場で話しをしていただいた。
こんにちわ。僕は大野剛資と言います。誰にも言葉があると思われずにずっと生きてきましたが突然柴田先生が現れてこの取り組みを始めてくれて僕は言葉を話せるようになりました。なかなか簡単な方法ではないのですが勇気を出して今日は皆さんの前で何か話そうと思ってきましたがあまりに大勢の人なのでぞっとする思いがしましたが頑張って話したいと思います。
初等教育学科の1年生100名あまりを前に、なめらかに講義は始まった。
夏休みになると僕は小学校のことを思い出します。夕涼み会や蝉捕りに友だちが連れて行ってくれたり摘んできた花を押し花にしたりしました。みんな僕のことを仲間として認めてくれてとてもすてきな小学生時代を過ごしました。分に応じた生活をしろと世の中の人は言いますが分不相応な生活をさせてもらいました。びっくりするかもしれませんがその当時は全く意思表示はできませんでした。なぜそれでも仲間と通じ合えたかというと敏感な感性の子どもが多かったからだと思います。なぜそんなにうまくいったかというと先生がとてもいい先生だったからです。未来の学校の先生になる人なのでぜひそのことはわかってほしいです。またなんでもよくどこに行きたいかとか何がほしいかとか仲間たちは聞いてくれました。忘れられないのはロードレースの時のことです。何もできない僕の車いすを仲間たちは押してりんどうの咲く山道を一緒に走ってくれました。まるで映画の中にいるようでした。みんなもきっと忘れられない思い出として心にとどめてくれていることでしょう。
彼のような障害の重い人が地域の学校でともに学ぶことをめぐってはこれまでたくさんの議論が繰り返されてきた。彼のように言葉で十分に状況を理解することが困難とされていた方が、実はこのような体験をしていたということは、これまで十分に語ることはできなかったことだ。ドラマのような体験であり、ともに学んだクラスメートたちにも大切な体験として残っていることだろう。
地域で暮らすということがよく言われますが皆さんはどう思いますか。地域に障害者は必ずいるはずですが分相応の生き方を強いられている障害者にはなかなか会う機会さえないのではないでしょうか。何度となく僕もそういう立場に置かれてきたのでよくわかりますが忘れられないのは世の中の人たちから完全に忘れ去られたときのことです。なぜそんなことになったかというともっと僕が声が勝手に出ていたときのことですが何かのコンサートで係の人から出て行ってくださいと言われたことがあります。僕もその気持ちはよくわかったのですが何度も言われるうちに僕たちは社会の中では生きられないのだなと思いました。僕たちのように静かにできない人間には生きる場所はもうないのだと思いました。
一転して、地域で生きることの厳しさに話が及ぶ。コンサートでのこうしたできごとは実は大変むずかしい問題だが、その例の引き方の中に、彼がこの問題をいかに深く考え抜いてきたかが表れていた。
ここでずっとプロジェクターで映し出される文字に対する集中がとぎれたのか、一部の学生の私語が始まった。大野さんの言葉が耳障りがよい言葉だけではなかったことも関係していたかもしれない。私は、それを注意することで壊れてしまう関係性がいやだったので、特にうるさく注意はしなかった。大野さんには、それは、自分たちを排除してきた社会を彷彿とさせるものかもしれなかった。
僕の目的はみんなに僕たちのことを聞いてもらうことでしたがなかなか難しいようですね。どうしても僕たちは理解されないので世の中ではそう簡単には理解が進まないのでろうそくの灯はようやくまだともっていますが僕たちの希望の火はなかなか燃え上がるほどにはなりませんが、こうしてこんな僕が大学で話せるようになったのは前進なのだとは思いますがどうにかしてみなさんにはわかってほしかったです、人間として生きているということを。だけどうまく伝わらなかったみたいで申し訳ありません。
これで終わります。
もちろん大半の学生は終始集中をとぎらせることはなく、深い感銘を受けた1時間であったし、私語をしてしてしまった学生も、理解していないはずはなかった。
いつになく深い感想が寄せられた1時間だった。
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2011年8月11日 08時21分
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