ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2011年08月29日(月)
光道園の職員の方々への手紙
 今年も福井県鯖江市の施設、光道園に合宿でおじゃまし、利用者の方々の深い思いに接することができた。ここでは、その言葉を整理して光道園にお送りする際に添えた手紙を掲載させていただく。やや長めだが、現在の私の考えを示したものだから、何かの参考になればと考えるからだ。


光道園のみなさま

                          柴田保之

 今年もたくさんのよい出会いをさせていただいてありがとうございました。
 1昨年より点字や数の基礎学習の間に、パソコンを使って入所者の方の気持ちを聞くことを始めるようになりました。
入所者の方が示す行動や発せられる言葉からはなかなか想像のつきにくいような言葉が次々と豊かに紡ぎ出されていくのでにわかには信じられないことかと思います。
 この方法は、初めは相手の実際に起こる運動だけでスイッチ操作をしていたので、現在のやり方とは違い、ご本人が確実に文字を選んでいることがわかりやすかったのですが、それはけっこうむずかしいもので、可能な方は一部の脳性マヒの方に限られていました。
そこから、少しずつ関わりを深めていく中で、現在の方法にたどりついてきたわけですが、その経過の中で次のような変化が起こっていきました。
 まず、基本的には、スイッチを二つ使っており、最初は二つのプッシュスイッチを押し分けるか、レールの両端についたスイッチを押すと引くとで操作していたのですが、本人の自発的な動きを待つだけでなく、次第に相手の動きと一体化した感じで一緒に手を動かすようになりました。特に力が弱くてはいりにくいような人の場合は、それが効果的だったのですが、そういう援助の中で、一つのスイッチを押していて次のスイッチに移る時、次の新しい運動を準備するために違った力が入ることを発見しました。それがわかるとそれは一つの合図の役割を果たすようになり、その力が入ったところで、もう一つのスイッチはこちらが押すようになりました。レールのスイッチも同じで、一緒に手前に弾く動きをしていると、次に向こう側に押す動きをする前に準備の力が入ることもわかり、それを合図として使うことができるようになりました。 
 つまり、一緒にプッシュスイッチを押したりレールのスイッチを引いたりして、「あ、か、さ、た、な」と進めていくと、選びたいところで合図をくれるというようになったのです。
この方法を見つけるまでは、自発的な動きに大変個人差があったので、一人一人関わりの仕方が異なっていたのですが、この準備の力としての合図は、みんな共通のもので、それまでなかなか自発的な運動だけではワープロに必要なスイッチ操作が困難な人でも、金と合図は送れるので、言葉を読みとることが可能になりました。
 この方法を発見してから、徐々にスピードをあげていきました。スピードをあげる際には、相手にはもう自発的な運動は求めず、こちらが相手の手を動かしてただ手を添えてもらうことだけを求めるようにして、プッシュスイッチを押す動きやレールのスイッチを引く動きを私の方で連続的にして、徐々にスピードをあげていったのです。すると、スピードについて行けなくなるひとが出て来ないばかりか、「速いほうが楽だ」という言葉が書かれるようになったのです。そこで、思い切ってスピードをどんどん速くしていったのですが、今度は、「不思議だ」という言葉をもらうようになりました。それは、ある速さを超えると「自分で力を入れているという自覚がなくなる」というのです。それでは何をしているのかと問い返すと、「じっと耳を澄ませていて、選びたい行や文字が来た時にここだと思うと読み取られていく」というのです。
 私の方では関わりに変化を与えたのはスピードだけでしたから、読みとっているものは基本的には相手の体にわずかにこもる力であることは変わりありません。ということは、私は相手が「ここだ」と思った時に体にこもる力を感じ取っているということになります。考えてみれば力を入れるのも「ここだ」と思うのも脳の中の指令のようなものですから、結果的に同じような力が体にこもるのは納得がいきました。
 一方、介助に慣れていくにつれ、私自身にも変化が生じてきました。それは、最初は、相手の力を感じたからスイッチの反復操作を止めるというように、まず力を感じ取ったところを自覚していたのですが、力がこもったことを私自身が気づいたと感じる前に、スイッチの反復操作が止まるようになったのです。これは、いわゆる反射的な運動になったわけです。最初は意識しないと乗れなかった自転車に無意識に乗れるようになるのと同じプロセスです。
 そんな時、パソコンが手もとになくて話しをしたいと思ったことがありました。そこでとっさに手を振りながら「あかさたな」と唱えてみる方法を考えたのです。すると、選びたい行で、しっかりと合図を送ってくれたのです。これで、パソコンがなくても言葉を聞き取ることが可能になりました。
 現在読みとっている力は本当に小さくなり、触っているだけでもわかるぐらいになりました。その状態だけを見るとまさしくマジックにしか見えないと思うのですが、人間は、そういう感覚の研ぎ澄まし方をいろいろな場面でやっていることにも気づきました。例えば、剣道などでは、相手の竹刀が振り下ろされる運動が見えた時には、もう絶対に逃げられないそうです。だから、実際の竹刀が振り下ろされる前に姿勢などの様々な情報から竹刀が振り下ろされる動きの準備を読みとっているとのことです。それを科学的にとらえるのはむずかしいそうですが、私の読みとっている動きもなかなかうまく説明できません。しかし、これが決してマジックではないということは私自身にはわかっています。また、何人かの人が同じような方法をすでに習得していますので、これが私だけのものではないということも明らかになっています。
 ところで、当事者がやっていることをもう少していねに見ていきますと、文字の選択というのは、普通は、空間的な整理を必要とするものです。目で50音表から探したり、手で50音表から探したり、あるいは、ひらがなを書いたり、点字を構成したりするのは、まさしく空間的な行動になります。学習の中心はこの空間的な行動をより巧みに行えるようにするものですので、その大切さは日常生活動作も含めて明らかでしょう。
 一方、今私の方法においては、空間的な操作がまったく必要ありません。50音表から選ぶのとはまったく違うやり方で相手は一つの音を選んでいるのです。それは、自分の言いたい言葉の音を頭に一音ずつ思い浮かべておいて、その音に一致する行や音が来るのをじっと待つわけです。そしてその音が来た時に、「ここだ」と判断するだけなのです。言わば純粋に時間的な操作になっているわけです。
もちろん、ゆっくりと自発的にスイッチ操作をしていた時には、それは空間的な運動でした。その時は、後どのくらいで目的の行が来るかを考えたり、一行前で次の行だから準備をしたりなど、けっこう複雑なプロセスが進行していたのです。
 ところが、スピードがあがるにつれ、そうしたプロセスが不要になったのです。
 このよいところは、それだけ言葉に集中できることです。空間的な操作のことを考えている場合には、それだけ言葉に集中することができません。だから、なかなか長い文章や複雑な気持ちを言葉にすることができなかったりする人が少なくなかったのです。
 おそらく、簡単な言葉しか話すことができないとされている人たちも、本当は複雑な思いを抱えていても、話すために必要な複雑なプロセスをこなすために、短く簡単な言葉しか発することができないということがあるのだと思います。
 自分でパーキンスブレイラーを操作して毎日日記を書いている人が、内容がなかなか簡単なことから脱しきれないときに、私の方法で文章を書いてみたら複雑な思いを綴ったので、尋ねてみたら、「いっぺんにふたつのことはできません」と返事がありました。とてもわかりやすい言い方だと思いました。
 こうしたことから知的障害っていったいなんなのかという問いがわくようになってきました。いつの間にか、知的な障害は発達の遅れで、相手がうまくしゃべれなかったりすると、それはそういう発達段階にあるから心の奥底の思いも、表面に表れている言葉や行動に反映された「幼い」ものだという認識ができあがっていたと思うのですが、実は、心の奥底には言葉によって紡がれた深い思いがあって、それを表現するプロセスに障害があるということになります。
学習というのは、そうした表現のプロセスを本人が少しずつ発展させていくことを援助するものだということになり、その大切な意味が改めて浮かび上がってくると思います。
 私は、今は、光道園にうかがうと言葉の聞き取りの方に関わる時間が多くなっています。それは、やはり長い間自分の思いを伝えられないでいた方々の思いを少しでも聞き取るということが大切だと思うからです。
 しかし、利用者の方々が少しでも一人で自分の生活を切り開いていく援助をするためには、学習が不可欠ということになります。
この両者のバランスの取り方などの整理はまだ私にもできていませんが、そのようなことを現段階では考えております。
中島先生がかつて、光道園で出されていた冊子に「光道園には詩人や哲学者がたくさんいる」と書かれていたことがありますし、そのような言葉は講義などでおりにふれてうかがっていました。昔は、一つの比喩ように聞いておりましたが、それは、まったく言葉の通りであったことを痛感しております。
 光道園はとてもいい場所だということが多くの利用者の方々によって綴られています。利用者を第一に考えていく光道園の精神は、利用者にほんとうによく伝わっていることを一昨年以来からの取り組みで、実感しております。 
 重複研に通所している40代の女性が、私の関わりで初めて話せるようになった時におっしゃいました。それは、「先生、言葉より大切なものがあるということを忘れないでください。」ということでした。そのことの意味を深く考え直しながら、今は、一人でも多くの人々の秘められた思いを聞き取る仕事をやっているところです。
来年もまた、深い出会いをさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。


2011年8月29日 17時49分 | 記事へ |
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