旅行の途中で、ある地方都市に立ち寄って、4歳半の男の子にお会いした。「自閉症」と呼ばれている男の子だった。
すでに筆談で気持ちを話し始めているお子さんだが、私は、手を振る方法とパソコンとで気持ちを聞かせていただいた。触られのがあまり好きではないらしいので、手首をそっと触れるだけですむ私の方法は、幸い特別な抵抗は感じなかったようだった。
コミュニケーションの方法を説明したり、話しをし始めたとたん、表情がゆるみ、自分から手を出してくるようになった。そうして書いた言葉は次のように始まった。
わかってほしいけどなかなかおとなはわかってくれない
ちいさいときからずっとよいこだといわれたかったからぼくはさびしかった
なんどもかあさんをこまらせてわるいこだったからかなしい
なぜせんせいはそんなにやさしいの
そうです ぼくのともだちはみんなどこへもひょうげんできなくてないてばかりいます
ぜんぶわかっていますからだいじょうぶです
なかなかからだをおさえられないでこまっています
(泣くのは)だれかがぼくたちをばかにしたときです
なきたくなるのはかあさんにわるいことをしたときとばかにされたときです
だっこはじんじんしていやです
(泣いている時は)やさしくながめてくれたらそれでいい
(朝方に泣くのは)それはおもいだすからです なくのはいつもおもいだすからです
4歳半とはいえ、しっかりとした認識を持っている。あまりに早熟と思われるだろうか。だが、私の考えでは、おそらく、同年齢の子どもたちも、同じような力を持っているのだが、まだまだ自分で話すのはたいへんなのではないだろうか。ただし、この男の子の場合、こうした文章は、理解されない状況の中でより深まっているはずだ。
ここで、詩を作っていないか尋ねてみた。
すると「あります」と応えて次の詩を書いた。
なくしたりそう
なくしたりそうにもういちど
であえるようにとぼくはいのる
なくしたりそうはばらばらと
みずのむこうにしずんでいった
だけどぼくにはちからがなくて
むこうのせかいにゆけなくて
なまえもしらないわかものに
ちからがほしいとみかづきのよるに
びろうどのみらいがほしくておねがいをしたが
まだちからはぼくにはとどかない
だけどなぜだかきぼうがわいて
ゆうきがちいさくわいてきた
おしまい
なかなかひょうげんできなかったけど ながいぶんしょうもかけてかんげきです
また、今年は、かわいがってくれたおじいちゃんの新盆だったのことだったが、そのことについても、聞いておいた方がいいだろうと考えて尋ねてみた。すると、次のような詩のような文章を綴った。
どうしてひとはなくなるの
まざまざとぼくはみせつけられた
なかなかひとりでちいさなじぶんのかなしみをゆえなかったけれど
ぼくにもかなしみはある
ちいさいけれどおおきなかなしみがある
なみだをながしてないてみても
ちいさなびいどろのかなしみはいえなかった
ばんがきてほしがそらにでたとき
ようやくほしになったとおもっておちついた
幼い子どもであっても、その子どもの理解の範囲の中で死というむずかしい事実にも向かい合っているのだ。
こうした豊かな心を持った存在としてとらえることが常識になる世の中はまだまだ遠い。しかし、そうしたまなざしとは全くちがうまなざしは、日々幼い心を傷つけ続けているということをいつまでも放置してよいはずがない。
確かにコミュニケーションには、特別な方法が必要だったが、その方法を通して出会った男の子は、笑顔のとてもすてきな男の子だった。
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