ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2012年04月11日(水)
最低の人権は言葉を否定されないこと 最大の人権は表現の自由
 石川県の特別支援学校の山元加津子先生の元同僚である宮田俊也先生の、脳幹出血からの回復の記録を映画にとり続けておられる岩崎靖子さんにご訪問していただきました。田園都市線沿線にお住まいの仁科さんもご一緒でした。インターネットに岩崎さんが撮られている宮ぷーの回復の記録は以前授業でも取り上げ、学生たちに大きな感動を呼んだことがありましたので、岩崎さんの名前やお仕事は存じ上げていたのですが、お会いするのは初めてです。
山元先生からお電話をいただいて急遽決まった話だったので、すぐに動いていただけそうな大野剛資さんに手伝ってもらうことにしました。大野さんは詩集『きじの奏で』の著者です。
 簡単なあいさつなどは、私が体に触りながら「あかさたな」と聞いていくやり方で行いましたが、中心の部分は、パソコンで表現していただきました。
 最初に、かつて、本人の実際の動きを私が援助していた時代の方法を実演してもらいました。まだ文字数も少なかった時代です。別に打ち合わせをしていたわけではありませんが、彼は俳句という、短い字数の形式を選んでくれました。
 
やさしき手差し出した人がためわれ祈る
ぐんぐんいい季節が近づきましたね。うきうきした希望に満ちた祈りをがんばって俳句にしました。


 そして、こちらが積極的にスイッチを動かしていく援助の方法に移って、まず、私が方法を説明しながらスイッチの援助をしていることと同時進行で、自由に語ってもらいました。
 
 がんばって僕もいっぱい詩を作ってきましたがぼくがまさか詩集まで出版できるとは思いませんでした。なぜ詩を書いているかというとぼくたちは分相応の生き方を超えていくために夢を持つ必要があるからです。詩の中に私たちは夢を探し詩の中で過去の痛みを癒やすのです。いつまでも詩は外に出ることはないと思っていましたが突然柴田先生がなつかしいですが僕にパソコンを出してくれて言葉を聞き取ってくれました。僕はぞくぞくするくらい感激しました。わずかな希望が何倍にもふくれあがって私たちは希望に満ちた人生を生きることができるようになりました。(…)僕は単語が話せたのだけど全く気持ちを表現できなかったので僕は何度も諦めかけてきました。わざわざ僕たちと関わろうとする人もいないしわざわざ笑いながら近づいてくれる人も少なかったからもう僕の人生は何も理解されることもなく終わるのだと思っていました。まさかこんな方法が見つかるとは思いませんでした。わざわざという言葉が繰り返されているのはまさに僕たちとつきあっても何の得にもならないからです。(…)
ここから、岩崎さんとのやりとりになりました。

「理解されるようになってよかったことは何ですか?」

 なつかしいなつかしい話になりますが理解されてから何より母さんががんばった成果を確かめられたことが大きいです。僕を普通の小学校に通わせた意味など世の中の人にはただの親の見栄ぐらいにしか見なされてきませんでしたが僕にとって本当に意味があったことが証明されました。人生が広がったことが次に大きなことでした。人生に強く向かい会うことができるようになりました。人生がまったく違うものになりました。涙を流した日も過去の懐かしい思い出になりました。(詩はいつから作っているのですか?)
僕が詩を作るようになったのはもうずいぶん前のことです。僕が人間であることを認めてもらえないかと思っていたときどうにかして自分の思いを伝えたいけれど伝えられないのでわが道を行くしかないと思い詩を作り始めました。楽な私という詩を確か小学校の中学年の時に作りました。私たちの仲間もみんな詩を作っているのですがみんな同じような気持ちからだと思います。わずかな未来をみんな信じて理想を失わないようにと詩を作り続けてきました。

「言葉を表現するということにどんな意味を感じていますか?」

 理解し合えるということがみんなの究極の目標なので理解し合えたらごんごんと喜びが湧いてきます。理解し合えた喜びを頼りに僕らは生きているのでわがままかもしれないけれど僕は人と話が存分にしたいです。なつかしいのは小学生の頃はみんな純粋な気持ちでたくさん僕に話しかけてくれました。それがだんだん中学生になるとみんな話しかけてくれなくなりとても寂しかったです。なぜみんな話さなくなったかというと僕は何もわかっていないと思われるようになったからです。忘れられないのは柴田先生が初めてうちに来てくれた日のことです。たぶん先生も僕が何でもわかっているとは思っていなかったと思うのですが先生は笑いながらたくさん話しかけてきましたしいろいろなスイッチを出してくれたのでとても楽しかったです。小さいことですがいきなり最初にひらがなを出した時は驚きました。最初はうまくいかなかったのですが僕にひらがななど出した人は初めてでした。それからしばらくは小さなことですが簡単なソフトで試行錯誤をしてくれだんだんひらがなに到達しました。そしてなつかしいですが初めて僕が「ありがとうぱそこん」と書いてから突然先生がパソコンで気持ちを聞き取ることに真剣に取り組んでくれていつしか長い文が読めるようになったのです。最初の質問からそれてしまいましたがもっともいいたいことは柴田先生も奈苗先生も理解し合えることをとても大事にしてくれたということです。そういうことがこういう成果を生んだのだと思います。

「社会に訴えたいことはありますか。」

 わかってもらいたいことはみんな言葉を持っているということです。先生も名前に使っていますが人間として最低の人権は言葉を否定されないということです。最大の人権は表現の自由です。人間として生まれて生きてきて僕たちはようなしの存在と言われてきましたが確かに何も作ることもできないし問題もたくさん起こしてしまうけれど僕たちも人間として生きたいのです。まだまだ僕たちは理解されていませんが僕たちを受け入れられる社会こそが本当に人を大切にできる社会なので何とかして僕たちを認めない社会にはなってほしくありません。ばかにされた日々もあったけれど僕たちをばかにしない社会こそが理想の社会だと思います。理想なのかもしれませんが何とかしてそういう社会を実現したいです。地域で生きるという言葉がありますがそういう言葉にはそういう思いが込められているのです。なつかしいです。奈苗先生が初めて僕の気持ちを読みとってくれた日のことが。あれがすべての始まりでした。そしてここまで来れたのがまるで夢のようです。なつかしくまた今日の日が思い出されるよう前に進んでいきたいです。

 ところで、山元先生は、白雪姫プロジェクトというのをお始めになりました。宮田さんの回復のプロセスの経験から、眠ってしまった白雪姫が王子の口づけに目覚めるように、今意識障害と言われている人が、再び表現手段を取りもどしたり、病気そのものからの回復をすることの可能性をもっと広く世の中に伝えていこうとする希望に満ちたプロジェクトです。私も応援団として参加させていただきました。
 こうしてたくさんの人々のつながりの中で、どんどんと広がりが生まれてくることがとてもありがたく思われます。


2012年4月11日 23時40分 | 記事へ |
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