「ねがいどおりのじんせいをいきていこうね」
小学5年生の○○君と◇◇君は、それぞれに伝えたいことを語ったあと、対話を始めた。学校に上がる前からずっと一緒だった二人は、ようやく言葉を使って会話をすることができるようになった。しかしまだ、スイッチ操作ができる場面は私と出会うときだけなので、二人の間で思いはいっぱい高まっていた。
まず、二人のそれぞれの思いが綴られる。
○○君。「きてくれてありがとう ずっとまっていました つまらないです がっこうがなかなかことばをしんじてもらえません くやしいです きもちを つたえることができたらどんなにすばらしいでしょう。」
◇◇君。「くやしいことがあった みんながことばではなせることをがっこうのせんせいがわかってくれようとしてくれない いいたいことはたくさんあるけどしんじてもらえないとむずかしい なぜせんせいはしんじてくれないのだろうか のぞみはことばでもっときもちをつたえあうようになれることです てをつかってはなせることをはやくわかってもらいたい りかいしゃがほしい べんきょうをしてなんでもしりたい のぞみはことばでみんなとはなすことです。(…)◇◇くんとはなしたい」
そして、二人で一台のパソコンを囲み、スイッチを交代しながら話が始まった。
◇◇君:りかいしてくれるひとがいなくてさびしいね
○○君:くやしいねなかなかわかってもらえなくて
てがつかえるのにだれもてをとってくれないね
すいっちがあればだいじょうぶかな
のぞみはみんながてではなしができるようになることです
よくりかいしてほんとうのきもちがわかってもらえるとうれしい
べんきょうのないようもやさしすぎてつまらないね
◇◇君:すいっちがあってもしんじてもらえないとむずかしいね
しんじてもらえないとてをとってもらうこともできないね
ふしぎだね
ねがいがかなったのにりかいしてくれるおとながすくないなんて
りかいしてくれればおもいをつたえられるのに
(…)
くなんのじんせいですががんばっていこうね
○○君:むずかしいけどなんとかがんばっていこう
なかなかべんきょうもしてもらえないけど
しんじてもらえるようがんばろうね
ゆいいつのゆうじんだからね
ねがいどおりのじんせいになるよういのっていこうね
ずっといつまでもともだちだからね
◇◇君:くるしいときもたのしいときもずっといっしょだったからね
ともだちだからずっとこのままいっしょにいきてゆこうね
○○君:ちいさいときからずっとともだちだからね
よくきもちがわかります
よくよくかんがえてねがいどおりのじんせいをいきてゆこうね
二人のことを学校の先生にわかってもらうためにはどうしたらいいのだろうか。二人が示している外見上の様子は、こうした会話をすることができる子どもたちにはとうてい見えない。現在の常識では、理解されにくいのは無理もないことかもしれない。二人は、自分たちの体の問題についても、次のように語ってくれた。
◇◇君:じっとしていることがむずかしいので からだがいつもうごいてしまうのが りかいされないでこまっています
せんせいにそれをつたえてほしいです
てがいつもくちにはいっているのは すっていないとからだがとまらないからです
きもちとはちがったうごきをするのでこまっています
○○君:いつもからだをうごかしていないとじっとしていられないのでこまります
すこしのじかんならじっとできるけどながいじかんはむりです
つらいりかいされなくて
のむときもすこししかのみこめないのでこまっています
なかなかわかってもらえなくてくやしい
私は、こうした体の動きを何か意味のあるものとしてこれまで様々な考察をくわえてきた。体の動きを止めること、姿勢を作ることとの関係で考えてきたことは、かなりあたっていたとは思う。しかし、当事者からじかに語られると、そこに、自らの体がままならないつらさと、誤解される無念さとがひしひしと伝わってくる。現に私自身も、こうした行動に意味があると考えつつも、それは、言葉を獲得する以前の段階に特有のものと考えてきたのだから。
彼らがのぞむみんなからの理解を得るためにも、こうしたことを一つずつ明らかにしていかなければならないのだと思う。
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2008年8月13日 09時20分
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自主G多摩4 |
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