私の大学のある横浜市青葉区を中心としたフリーぺーバー「ビタママタイムス」というのがあります。そこに、私の大学の教員が交代で子育てに関わるエッセイを掲載する「すくすくポイント」というコーナーがあります。そこに、先日次のような文章を寄せさせていただきました。
いのちはみんな同じ
子育てとは、目の前の自分の子どもだけを相手にするものではなく、広く社会の中で取り組まれるべきものでしょう。そんな広い意味での子育てにとって気がかりなことがあります。それは、私たちの社会が誰かを排除することに鈍感になっているのではないかということです。誰かを排除する社会には不安がつきまといます。なぜなら今度は自分が排除されるのではないかという恐れが生まれるからです。もし子どもがつまづきを抱えてしまったなら、今のような社会では親も子もいっそう不安を募らすことになりかねません。
昨年の夏以降、出生前診断について議論されるようになりました。ここはその是非を議論する場ではありませんが、マスコミでは語られていない大切なことをご紹介したいと思います。
私は障がいのある方々が気持ちをパソコンで表現することの援助をしていますが、その中であるダウン症の少女が、深くうち沈んだ様子で「わたしはうまれてこないほうがよかったの」という悲痛な言葉を綴りました。私たちには生まれる前のいのちと生まれてからのいのちは別だという気持ちがあるため、出生前診断の話をすることが今生きている人を否定することになるとは思いません。しかし、当事者にとっては、直接自分自身が否定されることなのです。私たちは少女の胸をこんなにも傷つけていながら、そのことに気づいてさえいないのです。
30代のダウン症の女性は強い抗議の言葉を書きました。
わたしはゆうきをだしていいたいです。おんなじくうきをすっておなじみずをのむおなじにんげんだということを。おんなじちがからだにながれているおなじにんげんなのだと。にんげんということばがこれいじょうこわされないように。
また、20代のダウン症の男性は俳句に思いをぶつけました。
だれをぼつだれをいかすとかなしきよ
(誰を没誰を生かすと悲しき世)
わすれられほうむりさられるわがなかま
(忘れられ葬り去られるわが仲間)
ちのはてにおいやるごときせろんもゆ
(地の果てに追いやるごとき世論燃ゆ)
ぼくのなはだうんしょうかとみまがうひ
(僕の名はダウン症かと見まがう日)。
どんないのちも愛おしむ心が社会に満ちていた時がありました、それは、あの大震災の直後です。3月11日に生まれた赤ちゃんの映像だけで作られたユニセフのハッピーバースデーというCMには障がいのあるお子さんの姿も自然に映されていました。わずか2年前のできごとです。
すべての人を尊重する社会でこそ本当に安心できる子育てができるというのは、きれいごとにすぎないのでしょうか。
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