5月に初めてお会いした19才の☆☆さんから2度にわたって生きる意味についての話をうかがいました。
5月初めてお会いした時、簡単なやりとりのあと、彼女が述べたのは、次のような、生きる意味をめぐる思索でした。
ご覧の通り何もできない私ですがぼんやりと生きてきたわけではありません。ずっと私は人間とは何なのかということを考えてきましたから別に世の中の人が何と言おうと私は私らしく生きてきました。自分にとって理想はよき理解者を見出してどうして私たちが生きる意味があるのかと言うことを伝えるそのことが夢でした。ぼんやりとして育った人から見ると少し考えすぎと思われるかもしれませんが私にとっては私が生まれた意味がわからないと私をなかなか保つことさえ難しいからです。理想をそのまま語ると私にとって私の生きる意味は私たちのような存在でも生きる意味があるのだからどんな人にも生きる意味があるということですが楽な人生ならそんなことは考えはしなかったでしょうね。でもこうして私はぼんやりとは生きてこられなかったのでわざわざそういうことを考えてきました。なぜ私に生きる意味があるのかというと黙ったままの人生でも人は希望を持って生きられるということを証明できたからです。なかなか信じられないかもしれませんが私は希望をなくしたことはありません。小さい時からずっと母さんにたくさん愛情を注いでもらいましたから私はとても幸せです。
彼女には、ずっと病院生活をしいられるくらい重い障害がありますが、その中で見出した自分の生きる意味というものについて、堂々と述べられています。よどみなく語られたその言葉には、彼女が長い思索の後にたどりついた結論というような決然とした響きがそなわっていました。そして、6月23日のことですが、再び病棟を訪問したところ、今回は、最初に数編の詩を聞かせていただいたのですが、その後、再び生きる意味についての言葉を次のように述べました。
私だって普通に生きたかったのにこんな状況はいやです。だけどそれはどうにもならないからあきらめたというと聞き違いが起こりそうですが、私はこの体でしか生きられないという現実からスタートするしかないのです。しかしそういうことに気づいたときに初めて私にも生きる意味があることに気づいたのです。
それは私が一人で考えたことです。誰に教わったわけではありません。じっと一人で考えてきたのですがやさしいかあさんにずっと支えられて来たから考えられたということを忘れるわけにはいきません。諦めずにすんだのはじっと側で見守ってくれた家族がいたからです。かあさんやとうさんたちの愛情のおかげで私は今の静かな心を取り戻すことができたのです。だからかあさんには感謝をしてもしきれません。
6月の言葉は、お母さんとのやりとりの中で語られたものですが、5月に述べられた思索が、どのような経緯から生まれたものであるかを明らかにしたものでした。
2009年、15才で亡くなった臼田輝(ひかる)さんは、
苦難それは希望への水路です。けっしてあきらめてはいけないということを教えてくれます。手の中に美しい諦念を握りしめて生きていこうと思う。美しい諦念は真実そのものです。苦しみの中で光り輝いています。手の中にある真実はさいわいそのものです。望めばいつでも手にはいりますが誰もこのことは知りません。なぜなら人間は常に楽な道のほうを好むからです。生きるということは苦難と仲良くしてゆくことなのです。
という言葉を残していましたが、☆☆さんによって語られた「あきらめた」という言葉も、単純なあきらめではないのでしょう。それは、容易に言葉にはなしえないものなのでしょうが、それをおそらく臼田君は、「美しい諦念を握りしめて」と表現したのだと思います。私たちが日常的に使うあきらめとははっきりと一線を画すものにちがいありません。
「私はこの体でしか生きられないという現実からスタートするしかない(…)ことに気づいたときに初めて私にも生きる意味があることに気づいたのです」という言葉は、おそらく私のようにそのような体験を持たない者には本当の意味はわからないかもしれませんが、その体験の輪郭を私たちにはっきりと教えてくれるものでした。
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