私が青年学級に参加した30年前、確か私より1年遅れて青年学級に入ってきたえりさんは、最初は、専門学校に通えるほど日常生活をスムーズに送っていましたが、10数年後、進行性の障害のために、車いすの生活になり、併せて医者からは、脳の萎縮によって言葉も失ったように説明されるようになりました。はいといいえの応答もままならなくなった彼女を前に私たちもいったんは、その説明を受け入れないわけにはいきませんでした。それから、ALSという難病で母が亡くなって、彼女は当時できたばかりの施設で生活を始めるようになりました。そして、10年ほど前、先入観のまったくない若い学生のスタッフが自然に彼女に話しかける時の彼女の表情の変化から、彼女の言葉は実は失われていないのではないかと思えるようになりました。公式にそれが認められるということはありませんでしたが、少なくともスタッフや仲間の間では、彼女には言葉がきちんと理解できているとの認識が定着してきました。そんな中で、私がパソコンを持ち込んだのが2008年のことです。援助の方法も手慣れてきてスピードもあがってきたことから、青年学級でも使おうと考えたのです。そして、最初にパソコンで話をしたのがえりさんでした。言葉があることはわかっていても、それがどの程度なのかをまったく確かめる術がなかったのですが、具体的な言葉を通してえりさんの世界が明らかになっていったのです。そして、えりさんをモデルにして若葉とそよ風のハーモニーコンサートではミュージカルも作られ、彼女自身が作詞作曲をした歌もその中で歌われました。そして昨年のコンサートでは、津波をめぐってかかれた彼女の詩が朗読もされたのでした。しかし、その直後、えりさんは、私たちの前から姿を消したのでした。
最初は、何度も入院をしていた病院に入院をしたということだったのですが、そこから施設の戻れずに、別の病院に転院していたのですが、その病院がなかなかわからなかったのです。それでも、ようやく彼女のいる病院がわかり、徐々に私たちの仲間がお見舞いに行けるようになりました。そして、先日私も、彼女と深く関わっていた若い女性のスタッフからぜひ通訳として来てほしいと頼まれて、二人で彼女のもとを訪れたのです。
美しいフラワーガーデンが見える面会室で、たくさん話をしました。通訳はパソコンを使わずに行ったので、記録は残っていませんが、その中で、彼女がこれだけは書き留めておいてもらえるかしらとお願いされた詩がありました。それを紹介したいと思います。
夢の予感
私には夢の予感があふれている。
よい夢や悪い夢
どちらも私の本当の心だ
そしてよい夢の予感がする朝は
私は一日うれしくなって
みんなに笑顔をふりまいて
みんなを幸せな気持ちにする
みんなの気持ちが幸せになれば
私もまた幸せになる
悪い夢の予感がする朝は
私は一日暗くなる
暗くなった私はもんもんと一日悩みにくれる
私の悩みにくれた顔は
人々を苦しみにおとしいれる
苦しみにおとしいれられた人たちは
私の心にいっそう悩みを増やす
そして私が夢の予感に涙を流す日は
本当の幸せな一日がやってくる
それはなつかしい人たちが私のもとを訪れるとき
私のことを忘れずに
ずっと私に会いたくて
少しの時間をつくっては私に会いにきてくれる
今日も夢の予感がかなった日
私は喜びの涙に枕をぬらす
入院した直後は、もう死にたいくらいの思いにとらえられたそうです。しかし、少しずつ私たちが面会に訪れるようになり、今度は、いつ誰が来るだろうとか思い巡らしたり、この間の面会で話したことを思い出したりしながら、いつしか病室は豊かな場所になったというのです。そんな思いがこの詩にはあふれていました。
残念ながらまだえりさんははっきりとした意思を持っている患者としてはとらえられていません。しかし、えりさんはすべてわかっているし、しっかりと自分の気持ちを持って日々を暮らしているということを、少しでも早く病院のスタッフの方々にも理解していただかなければならないと思います。
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