ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2008年09月15日(月)
どんぐりころころ―「すきなりゆうはかしがすてきだからです」
 7月の終わり、お宅を訪問して、すっかりお酒をごちそうになったあと取り出したパソコンで思いを綴った20代の女性☆☆さんと、都内の研究所でお会いした。この研究所に彼女が通い始めてもう20年以上が過ぎた。
 この話をお伝えしておいた研究所の先生が、大変感激してくださり、たくさん質問を用意してお待ちになっていた。
 最初の問いは、小さい頃から今にいたるまでずっと「どんぐりころころ」が大好きな理由は何ですか、だった。

すきなりゆうはすてきなかしだからです
きくとむかしをおもいだします

 一瞬、歌詞?と思った。だが、あらためて歌詞を思い浮かべると、そこにはちょっと悲しい物語が埋め込まれている。どんぐりに大変なできごとがふりかかり、周囲の働きかけに半ば癒されるも、やはり悲しみは消えないという物語を彼女はどう受け止めているのだろうか。家に帰ってインターネットで検索をしてみると、後になって3番が加えられたという。そこでは、りすによってどんぐりは森に帰ることができるのだが…。その3番は、きっと☆☆さんには気休めの歌詞にしかすぎないのではないか。きっと、泣いても山には帰れないどんぐりの悲しみにこそ、☆☆さんの共感があったのではないか…。そんなことまで想像は広がっていく。
 次の問いは、未熟児網膜症でほとんど見えないといわれてきた目についてだ。 
 
ひだりです(左右のどちらで見ているかの答え)
めのまえならみえます
かおはよくわかります
よくにているひとはまちがえます

 さらに、文字はどうやって覚えたのかという問いに対しては次の答えが返ってきた。

じはじぶんでおぼえました
えほんでおぼえました
きになることばがあるとくりかえしおもいだしていました
けっこうたいへんでしたががんばっておぼえました

 学びへの渇望とでもいうべきものがここにある。おそらく限られたチャンスをしっかりとものにして、みずから文字を覚えてきたのだろう。しかも、くりかえし思い出していたというようなことが、私たちの知らないところで行われていたのだ。
 それでも彼女は、こう綴る。

わたしのことをたいせつにしてくれてありがとうございます
よくしてくれてかんしゃしています
ずっとつたえたかったです
しんじてくださってありがとうございます

 さらに、思いの吐露は続く。

つらいことはかんがえてもしかたないのでふかくはかんがえないようにしています
きもちをつたえられてしあわせです

 そして、当然の願いとして、次のように綴られる。

ぜひいえでもやりたいです
いえでやれるようにおねがいします
ふだんからいいたいことがたくさんあるのでいいたいです

 家の話は、また、両親への思いへと続いていった。ここのところ、体調がすぐれない母親のことを心から気遣う言葉を前回は書いていたが、今回もその気持ちの延長線上に気持ちが語られる。

ていねいにそだててくれてかんしゃしています
じぶんではなにもできないからくろうばかりかけてしまってごめんなさい
ねがいはとうさんとかあさんがいつまでもげんきにながいきをしてくれることです

 つらい言葉を綴る時は身をよじらせながら、感情を体に表しつつ文章を書き上げた時、彼女の顔には満面の笑みが浮かべられていた。
 
2008年9月15日 20時22分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 研究所 |
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「ともだにちにもしあわせになってもらいたい」
 高校2年になる☆☆さんが、見学に来られた自分の学校の他学部の先生を前にして、意を決したように次のような文章から綴り始めた。

××××(学校名)のせんせいがみにきてくれてうれしいです
なかなかすいっちのそうさがじょうずにできないのでこまっています
めんどうをかけてもうしわけないのだけどがっこうにきてくれませんか
まだほかにもはなしができるともだちがたくさんいるのでせんせいにあってもらいたいとおもいます
とおいかもしれませんがよろしくおねがいします

 控え目な☆☆さんだから、これだけのことを言うには強い思いがあったにちがいない。☆☆さんの学校の先生は彼女がワープロで文章を綴ることをわかってくれて学校でも取り組もうとしてくださっているが、なかなか操作がうまくいかないらしい。しかし本当に困っているのは自分がうまくいかないことではなく、仲間に広げることができないことなのだ。そこで、私に学校へ来てほしいと頼んできたのだろう。
 二つ返事で答えられればいのだが、学校にうかがうためには、いくつかの手続きがいる。あいまいな返事をしていたら、こう返ってきた。

わすれて 
すみません
わたしのたいせつなつまらないおねがいは。
とてもたいへんなおねがいをしてしまいました
すみません

 彼女のお願いが、単なる思いつきではなく、無理は承知ながら、それでも考え抜いた末のものであることがよくわかり、気持ちが痛いほど伝わってきた。それでもストレートな答えができず、いろいろ事情を説明したりしていると、 

どうしたらいいのでしょうか
おしえてくれませんか

と書き、さらに切々と思いが吐露されていった。

のぞみはともだちとはなしをすることです
ともだちもきっとはなしたいとおもうから
ともだちもたいへんなおもいをしています
やっとわたしのことばをなんでもきいてもらえるようになってしあわせになることができたからともだちにもしあわせになってもらいたい
(…)
けあるーむのともだちです
たくさんです
たくさんのともだちがはなせるとおもいます
はなしたいです
すいっちがあればはなせるとおもいます

 彼女は、目の前の子どもが言葉を理解しているかどうかについては、私たちよりもはるかに見抜く力を持っているのではないだろうか。だからいっそう思いは強いだろう。そして、私たちが知らない「たいへんなおもい」を彼女は身をもって味わい、そしてその「たいへんなおもい」を越えて今話せることの「しあわせ」を味わっている。当事者にしかわからない思いに裏打ちされた彼女の希望に私たちは、答える以外にとるべき道がありそうにも思えない。
 障害の重い子どもたちの言葉の問題について周りの私たちがあれこれ議論する時代はもう終わろうとしているのかもしれない。今回の彼女の言葉は、当事者からの正当な訴えである。このきわめて理にかなった訴えに真摯に答える以外に私たちがとるべき道は、ありえないだろう。
2008年9月15日 07時06分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 自主G埼玉2 |
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