ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2008年08月31日(日)
「ぼくもいいたいことはたくさんあって」
 ○○君は、1年ほど前に初めて出会い、言葉を綴る力に気づいたお子さんだ。運動の問題については、体が動かないのではなく、周囲からはいたずらのようにして手が出てくると見られやすいところがある。しかも、絵カードの選択などもできるように見えることもあるが、できないことも多く、その力もはっきりしない。そして、笑顔もあるのだが、それが、こちらの問いに即応して生まれるものでもないので、コミュニケーションにも使いにくい。それから4度の関わりをもった。
 文章がなめらかになったのは前回から。「ともだちがみんなことばがはなせることがわかってうれしかった ぼくたちはみんなりかいできていてなやみもたくさんもっています わかってもらいたいとこころからおもっています」と書いていた。
 担任の先生もお母さんも何とか同じように関わりたいとがんばっていらっしゃって、先生とは最近だいぶパソコンで文字を綴れるようになり始めたところだ。そんなところから、話は始まった。

やさしいほうほうがほしいです
このほうほうはかんたんです

 私の新しい方法、すなわち彼に力をできるだけ抜いてもらってこちらが手を添えて一緒に進めていき、彼がその動きを止めるというやり方で、そんなふうに書いた。
 そして、お母さんにも一度代わってもらう。しかし、さすがにいきなりではうまくいかない。するとこう書いてきた。

あまりきにしすぎないでいいよ
くろうしなくてできるまでちゃんとまてるから

 続いて、スイッチの方法については、多くの人たちと同様に「ふしぎ」と書いてきた。

ふしぎです てにちからがはいるまえからえらぶことがかんたんにできます
ねがいはだれとでもじがかけるようになることです

 なめらかに綴れることがわかって、彼はこれまで胸に秘めてきた思いを一気に表現することを思いつく。

ぼくもいいたいことはたくさんあってかあさんにはいつまでもげんきでいてほしいのです
とうさんにもげんきでながいきをしてほしいです
これまでそだててくれてかんしゃしています
もっとからだがつかえたらいろいろなことができてかあさんにせわをかけなくてすむのだけどせわをかけてばかりでごめんなさい
かあさんこれからもくろうをかけるけどよろしくおねがいします

 多くの子どもたちが等しくいだいてきた親への思いを、○○君も表現した。終始笑顔を浮かべながら、時おり手をひっこめてしばらく考えた後おもむろに手が伸びてくる姿が印象的だった。
 子どもたちはみんな両親の苦労をいちばん近くで見つめてきた。おそらく母たちは、目の前の子どもがすべての言葉に聞き耳を立てているとは思わずに、独り言のように様々な思いを語ってきたはず。そしてその中には、いつわりのない愛情に満ちた言葉もあったことだろう。
 そんな緊密な関係の中で醸成されてきた思いに、表現の形が与えられるとき、こういう言葉としてはとしてほとばしり出てくるのだろう。
 思いを表現し終わった○○君の文章は、こう結ばれた。

くたびれました

 全身に思いをこめて文字を綴ってきた○○君、最後はもうくたくたになっていた。
2008年8月31日 18時19分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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大粒の涙とともに ―姉さんへのメッセージ―
 お母さんとの会話のはしばしに登場していたお姉さんを伴って高校3年生の☆☆さんが見えた。お姉さんは大学生、これまで一緒に来たかったけれど、なかなか日程が合わなかったが、夏休み中ということで、何とか時間をやりくりしてくれたとのこと。
 そして、まず、

ねえさんがきてくれたのでずいぶんまえにかいたことだけどまたかきます。

と書いた。そして、目から大粒の涙をポロポロとこぼしながら、次のように続けた。

なかなかりかいしてもらえなくてくやしいとおもうけどやっとことばがつかえるようになったのでばかにされずにすみます。ふつうのがっこうにいきたかったけどねがいはかないませんでした。

 時折、姉の方を振り返って、涙を浮かべながらもにっこりと笑う。母とはちがう、感情をともにぶつけ合う関係の姉妹の姿がそこにあった。たとえ悲しい文章でも、こんなふうにポロポロと涙を流しながら文章を綴る姿に出会うことは、ほとんどといっていいほどない。姉に対しては、くやしい思いがそのままストレートに表現されていくのだろう。とても仲のいい姉妹なのに、姉の行く学校に妹は通えなかった。そんな思いも切なく伝わってくる。
 そして、「けっこん」という言葉をきっかけにして、文章はそのまま姉へ向けられたメッセージとなっていく。

けっこんだってしてみたいけどなかなかきぼうをじつげんさせることができそうもない。でもねえさんにはいいじんせいをすごしてもらいたいです。ふこうだとはおもってないのでしんぱいしないでください。わたしとねえさんはとてもなかがいいのでたすけあっていきたいとおもいます。うたがとてもじょうずなのでいつまでもうたをわすれないでください。すてきなひとができたらしょうかいしてください。

 自分の夢が実現しにくい悔しさを表しつつも、姉の幸せを願っていた。そして涙は、止まることはなかった。
 涙とともに綴られる文章は、しかし、とても力強さを秘めたものだ。「ふこうだとはおもっていない」「たすけあって」という表現には、けっして自分を失うことなく自分の今を見つめている☆☆さんがいる。
 もちろん☆☆さんの涙は、ねえさんとお母さんの涙も誘ったが、不思議と空気はある明るさを失わなかった。これまでのくやしかったことやこれからの不安などが言葉になっていても、それを分かり合えることのすばらしさが、底に流れていたからだろう。
 関わり合いをいつもサポートしてくれるこの学校の先生が、☆☆さんが使用しているスイッチ一式を用意してくださり、姉さんに手渡した。
 強い絆で結ばれている姉妹が、細やかな思いのひだを、日常生活の中で、伝え合えるようになればと心から願う。
2008年8月31日 01時57分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年08月28日(木)
「せかくうまれてきた」「せんひさ」夏の終わりの病室から
 ☆☆さんと○○さんが暮らす病室をひと月半ぶりに訪れた。
 最初に関わったのは☆☆さん。だいぶ文字を綴れるようになってきて、今日は何を綴るのだろうという期待と、今回もきちんと彼女の気持ちを読み取れるのだろうかという不安とが交錯する。
 試行錯誤の末、たどり着いた方法は、次のようなものだ。まず、彼女の右手の甲を下から包み込むように支えて、親指にスイッチの棒状の取っ手を軽く引っかける。そして、最小限の力で棒を上下にスライドさせて行や文字を送っていき、彼女の選択の意志を手の甲に加わる微妙な力の変化で読み取る。この力の変化とは、まったく体が動かない☆☆さんが、腕全体で言えば開く方向に、手で言えば握った手を開く方向に力を入れようとして生まれる変化のように思われる。実際には、指がかすかに動いたような気がしたり、私と☆☆さんの手の触れる面にもわもわっとした感覚が生まれるというもの。わかりやすいときには確実に感じ取れるが、非常に微妙なものだ。私の手の添え方しだいでも変わる。
 一方、軽いけいれんのようにたえず動いている口元の返事をお母さんが読み取る。相変わらず私は読み取れないが、お母さんと先生は、普段はこれでたくさんコミュニケーションをしておられる。ただ、今回、口元の動きはむしろ減ったように見え、その理由が手に集中していることのように思われたのである。
 また、心拍数も重要な手がかりで、特に行の選択の方では、手で読み取った動きと心拍数の低下は一致することが多い。
 まず、二文字の名前を練習でうつ。この時は、まったく読み取れない。私自身の感覚が手のひらに集中できておらず、また手の支え方も安定していないからだが、この操作の間に、徐々に整えていく。
 最初のふた文字は「せか」。比較的スムーズに選ばれた。ところが3文字目で難航する。「せか」が正しければ、「せかい」「せかす」「せかされる」というような単語が推測される。推測は当然あくまで彼女をの意志を追い越してはいけないが、推測しておくと、その行を彼女が選択するかどうかにより集中できるため、読み取りの精度はあがる(ここが非常に誤解を生みやすいところだが)。そして、いったんア行が選択されたかのように見えた。ここが、注意のしどころで、私たちの「せかい」の推測はここでより強まる。しかし、ここで先を急ぐことがもっとも危険なところである。実際、ア行でいいのかと聞いても、口元のサインは、明確な答えを返してこない。この時、お母さんが、☆☆さんの目が泳ぐような動きをして、困っているようだとおっしゃった。いったい何を意味するのか。そこで、大胆な一つの仮説を立てた。彼女の選択の意思表示の力は、明確な一行を示すよりも、その前の一行目から加えられることも多い。ア行が選択されるように見えたのは、カ行の選択の場合だってある。そして、私は、「せっかく」と書きたいのではないかと考えたのだ。そのことは伝えず、もし、「せ」と「か」の間に小さい「つ」を入れたかったのだったら、あとでわかるのでそのまま書いてほしいと伝えた。すると、今度は、カ行ではっきりとした手の動きがあり、さらに「く」が選ばれた。私はひそかにやっぱりそうかと思ったが、あえて口にせずに関わりを続けた。
 そういうふうにしてできた今回の文章は次の通りだ。煩雑になるので省略するが、こうしたぎりぎりのやりとりの結果生まれたものである。

☆☆せかくうまれてきた すきなゆめ かのうに

 誰もが一度しかない人生を生きている。常識的な意味では彼女の夢をかなえることなどどうすれば可能なのかと頭を抱え込んでしまうところだ。しかし。彼女は語る。「ゆめ かのうに」と。限られた病室の空間の中で、どのような夢が思い描かれているのか。
 隣のベッドの○○君は、今日は、表情はそんなに悪くもないのだが、口の動きがとても悪い。動き始めた首も、呼吸に同調した動きで、選びたい行が来ても、なかなか動きを止めたり、動きを変化させたりすることができない。そんな中で、かろうじて唇の動きを入れて、選択を伝えてきた。しかし、綴られた文字は、4文字。「せんひさ」。これは、たぶん、「せんせいひさしぶり」を略したものと思われる。
 先生とは私のことではたぶんない。訪問のやさしくて若い男の先生だ。学期中は週3度ある授業が、8月は夏休み。久しぶりに訪れた先生へのメッセージだろう。たった4文字を伝えるだけでも、2度眠くなってしまって、なかなかうまく書けなかったが、彼が時々見せる不安な表情や訴えるようなまなざしは見られない。先生の訪問で9月からまた授業が始まることが実感されて、穏やかな気持ちになったのかもしれない。
 なお、☆☆さんの文章は、最初に伝えた。このことについての○○君の感想は聞けなかったが、隣のベッドの様子をずっとうかがっていた○○君。☆☆さんの文章をしっかりと聞いていた。
 たぶん、この言葉にこめられた思いを本当に理解できるのは、誰よりもまず○○君であるはずだからだ。
 猛暑が一転して早々と涼しい風が吹き始めたが、病室にはそうした季節の移ろいは、気温に関する限り伝わってはこない。しかし、秋は、先生達の訪問とともに始まる。今日の訪問は、夏の終わりを告げる訪問になったことだろう。
 ☆☆さんのゆめについて、秋、また、○○君もまじえて語り合えればと思う。
2008年8月28日 09時58分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年08月25日(月)
光道園にて レオナルイスのファンの方と
 福井県鯖江市にある社会福祉法人光道園。創始者自身が視覚障害者であるこの施設には数多くの視覚障害者が暮らしている。この施設に、点字やその基礎学習のための合宿に行き始めて、20年以上が経過した。途中5年ばかりのブランクがあるが、毎年夏の恒例になっている。
 私たちが関わる方々は、多くが視覚障害に別の障害をあわせもったいわゆる重複障害のある方々である。
 生活を過ごしている施設で、こうした学習がなされているというのは、おそらく全国的にもきわめて珍しいはずだ。
 リベットの学習から点字の学習へと移行していくプロセスなど、私は、この合宿で繰り返し、学ぶ人たちの姿の中から教わってきた。
 中に、点字を完全にマスターしている方で、パソコンに接続する点字入力装置を以前お送りした方がいる。機器の関係でなかなか日常では使いこなすのはむずかしいとのことだが、合宿では、どんどんパソコンに点字入力装置を使って文字を入力していく。これだけ入力が巧みなのだが、彼女もまた重複障害者と呼ばれる。
 音楽にとてもすぐれた感性をもっている彼女は、いつも、その時に熱中しているアーティストがいる。今年は、レオナルイスというイギリス人の歌手だった。(なお、点字の表記では助詞の「は」は「わ」長音は「ー」となる。)

れおなるいす
かのじょわえっくすふぁくたーのゆーしょーしゃ。
そのひとわぐらみーもしてますよ。

 まったく初耳の歌手名、いったい誰と尋ねると、どんどん説明が書かれていく。

れおなちゃんわびょーめいわしってるけれどどーしてなったかなどわわからん。せんせいせい(先天性)はくないしょー。れおなさんわひだりめをうしなってしもーた。

 どうやら、視覚障害者の歌手らしい。そして曲名として次のものが書かれた。

ぶりーびんぐらぶ。べたーいんたいむばらーどもあるよ

そして、年齢と出身地について、

23いぎりすろんどん れおなさんわとてもやさしいひとそうに

 その後、話は彼女がこの施設に来たという話に発展していく。

れおなさんわいちどここにきたときにわるいことをした。ひをついた。ぱんとじゅーでうたした
れおなさんわそのうたのとーりにならないひとがいるかられおなさんわこまっていますよ。。。
 
 真意はよくわからなかったが、とても愉快そうに語りながら書いていった。これは冗談ととっておけばよいのだろう。
 そして、最後は歌の魅力についてたたみかけるように書いていく。
 
(…)すこしかなしいかしがある(…)れおなさんわみんなをたのしましてくれる。うたをつくったりかばーうたもうたったり。こるよ。ひとりでうたうのじゃなくうしろでするひとがいるよよね。れおなさんわみんなのしらないうたをひとつづつうたうよ。(…)れおなさんわそのうたをきくちからがあるからみんなしるよ。そのうたのすがたがかわからないけれどすごいとおもうよ。そのひとたちやひとりのひとわそのうたをききこんでいそぐあしをとめてきくよ。そのうたがわくわくしないひとよりもわからないよ。そのひとがうたをうたうとそのみりょくがわかるよ。その12きょくよりもたくさんうたがつくられてそのうたらがいいから。(…)

 学習のあと、彼女の部屋の前を通ると、レオナルイスの歌がかかっていた。

 家に戻って、レオナルイスについて調べてみた。すると、なんと特に障害の事実は記されていない。
 その想像上の話にこめられたメッセージはいったい何だったのだろう。ご自分の視覚障害と重ね合わせていたのだろうか。ただ、心の底から楽しそうにタイプを打ち続けていたことだけは事実である。
 来年は、また、どんなアーティストの話が聞けるのだろうか。 

追記(8月27日):レオナルイスが、北京オリンピックの閉会式で歌っていた、次回の開催地ロンドンの代表として。とても有名な人だったのに、さぞ、彼女は、話し相手としてはりあいがなかったことだろう。
2008年8月25日 00時45分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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2008年08月24日(日)
きっといつかこのことがやくにたつひがくるとおもって―数の独学
 もっとむずかしいべんきょうがしたいと会うたびに言ってきた現在中3の○○君が、最近は、いろいろ教えてもらえるようになったと喜びを書く。

つかもうとしてもなかなかえられないきぼうがてにはいったみたいでほんとうにうれしいです。いいせんせいがいていっぱいおしえてくれます。いろいろがくしゅうをしてちしきがふえました。ねがいはうちでもくりかえしべんきょうをなんどもできるようになっていっぱいちしきがふえることです。

 そばにいたお母さんは、私がやらないといけないのかしらとおっしゃると、次のように書く。

おかあさんはふたんになるからいいです。こじんてきにおしえてくれるかたをさがしてほしいです。

 その後、夏休み明けの授業でやることをあらかじめ調べておきたいということを綴ったあと、話は、数学のことになった。「○○君が知っている数の計算で、自分で問題を作って答えが出せるものを自由に書いて」と頼むと、次ぎにような式と答えが書かれた。

254−253=1
2222÷2=1111

 単に計算を知っているかどうかを越えて、計算の中で起こる数のおもしろさを楽しんでいるように思える計算だ。そうして、こう綴る。

いつもひとりでかんがえています。きっといつかこのことがやくにたつひがくるとおもっているから。しんじてくれるひとがいつかあらわれるとおもっていたから。くくもしっています。ねがいはくのだんのさきをしることです。いつもねがっていますむずかしいくよくよせずわかってくれるひととかずのべんきょうをすることを。こんどはぶんすうについておしえてください。すうがくはだいすきです。いっぱいおしえてもらいたいです。

 文字だけでなく、意図的に教えられることなく学んでいること、そして、その動機がきちんと綴られている。全く体を動かすことができず過ごす時間の中で、教科書もなく、具体物もタイルやおはじきも使わず、どのようにして数を学んでいったのか、にわかには想像しにくいが、「いつかやくにたつひがくることを」夢見てひとりで学習したという姿は、学ぶことの原点をせつないまでに示してくれる。
 彼には、いろいろなことを教えてくれる先生がついている。彼の学習への情熱がよりいっそう満たされていくことを祈るばかりだ。
2008年8月24日 23時58分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年08月22日(金)
福井での再会
 福井で出会った20代後半の女性○○さん。全身を弓なりにそらせていた彼女に最初に出会ったのはもう25年も前だ。まだ学校に上がる前だった。小学校の頃には福井市内の福祉センターを借りて3年くらい一泊の合宿をしたこともある。その後、福井にうかがう際には、場所やかたちを変え、お会いしてきた。しかし今回は3年ほど間が空いていた。彼女とはまだ、ワープロに挑戦したことはなかったが、今年会えるとわかると、今年は彼女の思いを聞いてみたいという思いが強くわき起こった。
 そして彼女と再会すると、さっそくパソコンを開いた。使ったスイッチはスライドスイッチ。まず名前を綴ってもらい仕組みを説明した。するとさっそく言葉が綴られていった。

よくいらっしゃいましたうれしいです このすいっちすてきですね ください 
てがつかえるとはおもいませんでした このすいっちがあればきもちをつたえることができる 
ふしぎです きもちがすらすらことばになっていきます
せんせいはどうしてわたしがことばをりかいしているとわかったのですか
のぞんでもわたしにはむりかとおもってきました
せっかくはなすことができるとわかったのだからいっぱいはなしたい
りそうはともだちといろいろなことをはなしあうことですずっとちいさいときからはなしをしたかったけど えられないことだとおもってきました でもすいっちがあればはなせることがわかってうれしいです

 そして、

つかれました

と綴られたので、休憩してまたやりますかと聞くと

はい

と返事がかえってきた。
 しばらく休憩したあと、再び文章が綴られていく。

せんせいはしばたというなまえでしたか
くるしかったけどせっかくはなしができたのだからこれからはつよくいきていきたい

 ここで、質問をした。ほとんど耳を使って綴っているように見えるのだが、どこまで文ができあがっているかを確認しているようには見えない。それが、まわりには不思議なことと映るので、そのことについて聞いてみた。すると、

かんがえていることだからむずかしいことはありません

とのこと。そこで、さらにいつ字を覚えたのかと尋ねてみた。答えは、
  
がっこうでほかのともだちがやっているのをみておぼえました

というものだった。ここで、おかあさんにメッセージはないかと促した。そうして以下の文章が綴られた。
 
おかあさんいつもありがとうございます
からだがうごかないためにいちばんなんでもできるじだいをわたしのことばかりにいそがしくて
じぶんのことはなんにもできず ごめんなさい
(…)
ねがいはみんなとしんじあっていきていくことです
きぼうがわいてきました
これからのじんせいをのぞみをたいせつにいきていきたいとおもいます
くるしいこともあるかもしれないけどわたしのじんせいだからいっしょうけんめいいきていきたいです
てがつかえてとてもうれしいです
すてきなじかんをありがとうございました

 あまりにも自然に流れた時間に、私と彼女の間に流れた長い歳月のことを忘れてしまいそうだった。彼女は、きっと明日からでも語りたいと思っているだろう。残念ながら、そこまでの環境を整えることはできていない。それは、大きな大きな課題であるが、いつか絶対に越えていかなければならない。
2008年8月22日 17時31分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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魂と魂が対峙する光景
 ○○君の文章を綴る姿をぜひ見てみたいということで以前関わりの場にいらしてくださった先生に、学校へお招きを受けた。その学校は、彼が小学生の時代を過ごした学校である。お待ちいただいた先生の中には、すでの引退されていながら、○○君とは、ずっと関わりを持たれている著名な☆☆先生をはじめとして、幾人かの先生が待っておられた。
 ☆☆先生は、すでに故人となった私の先生と大学時代に同期であり、また、こちらも故人となられた私の大先輩の札幌の先生とも縁の深い先生である。この日、この場所に私がいることは、偶然でもあるし、また、そのつながりに導かれてということもあるかもしれない。本来なら、もっと以前に先生方の生前にお会いできていればとの思いも強かったが、やはり時は熟さなければならなかったのだろう。
 ○○君は、かつての先生方の前で、喜びに満ちた表情で綴り始めた。その表情は、大切な方々に自分のことをわかってもらえる喜びに満ちているように私には思えた。

☆☆せんせいしばたせんせいおあいできてうれしいです
かみさまのみちびきがあってきょうのひがおとずれたことをとてもかんしゃしています
くるしみのひびがきぼうのひびにかわってこのひびをしんじつのものとしてくぐりぬけていくことができます
すばらしいみらいがうつくしいえまきとしいかのようにひろがっています
きのうまでのくるしみはみんなうそのようにおわりとほうもないねがいとのぞみがせかいにみちあふれています
みらいもきっとすばらしいことでしょう
りかいしてもらえてほんとうにありがたいとおもいます
☆☆せんせいけんこうにはくれぐれもおきをつけください。

 どのくらい時間が経過したのだろうか。彼は一気にこれだけの文章を書き終えた。「すばらしい未来が美しい絵巻と詩歌のように」という表現など、ただただ驚くばかりだったが、これも、彼が、この日に備えてじっくりと紡ぎ出した言葉にちがいない。
 この後、☆☆先生が、いつものようにとおっしゃって、聖書の一節を彼に向かって、自然に語りかけた。彼は本物にしか耳を傾けないということで、小学生の時からこういう時間を作ってこられたとのことだ。その光景は、私の心を激しく揺さぶるものだった。先生は、彼が言葉を表現するずっと以前から、こんなふうにして、真っ正面から彼と対峙しておられたのだ。私は、ようやく、通訳者として子供にそばに立つことができるところまで来たにすぎず、とうてい対峙する域には達しえていないことが、自然に理解された。そう言えば、亡くなった私の先生は、よく「魂と魂の出会い」ということをおっしゃっていたが、その言葉が思い出された。
 この日、☆☆先生がお選びになったのは、ご自身が病床にあった時、繰り返し読んだ一節だとのこと。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」というような人間の肉体と魂との関係についてのことが語られていった。☆☆先生の魂から発せられる言葉が、○○君の魂によって確実に受け止められていくという厳粛な光景。
 今、私は、「通訳」に忙しい。それは私の目下の使命でもある。しかし、いつか私も、相手と本当に対峙することのできるところまでたどり着きたいと夢想した。
2008年8月22日 16時59分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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「苦悩は腕の中で砕けちっていった」―「地下にいた」少年の闘い
 もう数年前のことになるが、ある研修会で報告をしたあと、うちの学校に来てもらえないかと声をかけられた。そこで私は、不遜な申し出をした。見学して意見を言う授業研究だったら私にはそんな力はないので、具体的に子供に関わらせていただきたいと。そして、そのことが実現した。その中で○○君と出会う。担任の先生が私との関わりを希望したとのことだった。このお子さんが言葉をわかっているかどうか私にはよくわからないが、お母さんがそうおっしゃることと、一度だけそれを感じたことがあるということで、まず、ひらがなの学習をひたすら伝えるかたちでやっていることを見せていただいた。私だって、本当に彼がわかってるのかなど判断する根拠はなかなか見いだせない。ただ、その先生の熱意とわかりにくいけれども集中していることをうかがわせる彼の態度だけがその可能性を伝えてきた。そして、2度目の関わり合いで、彼の言葉をパソコンによって引き出すことができた。「おかあさんすき」というわずか7文字ではあるが、大きな一歩を踏み出すことができた。そこから家庭では、口頭で「あ、か、さ、た、な」と聞いていって、わずかな返事を読み取って行をしぼりこみ、さらにその行の文字をしぼりこむという方法での表現方法の追求が始まり、学校では、彼の力を信じて、学習の内容は、どんどんと複雑なものへと発展していった。その後、いろいろな経緯があって、保護者主催の自主的な学習グループとして大勢の生徒さんと出会う場所へと発展していって、今日にいたっている。
 彼はいろいろな意味でパイオニアであり、こうした動きを先導していったのは、まさしく彼の強い思いだった。しかし、大勢の人数なので、今回久しぶりに会ったのは、8ヶ月ぶりだった。
 そして、読み取りの方法が最近かわったことを伝えて、関わり合いが始まった。するとさっそく、

しばたせんせいすごいね くぐりぬけたんだね

と返ってくる。この日、全文で860文字を越えるものとなったが、最初の数文字で、彼は、新しい方法を理解してくれたのだ。彼は、なんと言っても力強さがその信条だ。

くるしかったけどねがいがかなってうれしいとおもう せっかくだからげんきにはなしたいとおもう

と前置きして、文章が綴られていく。

(…)くるしいときにはくなんのときをおもいだしてきもちをたてなおしている
いつもうらやんでいたおとうとのことをうらやむだけではなくげんめつしていた
しかしことばをはなせるようになってからおれのいきかたはかわっていき つよいきもちできをつかうことができるようになった
くのうは うでのなかでくだけちっていった
げんめつはきぼうへとかわっていった
すうがくのべんきょうやりかのべんきょうはなかなかやってもらえないけどつとめていおうとしてきた
えらぶことはむずかしいけれどいままでよりもずっとましなのでがんばるつもりだ
くなんのときをおもいだしながらきぶんをなおしながらがんばっている

 新しいスイッチ操作の方法については、

きもちがいいくらいすらすらとことばになっていくのでおどろいた いいほうほうにきがついたねせんせい
ふしぎでたまらないどうしてよみとれるのか
と書き、さらに
(…)ねがいはだれでもできるようになることだ
ずっとねがってきたけどなかなかかなわないでくやしい
うちでもできればいいけどとてもかないそうになくてざんねんでたまらない ついそうおもってしまう くつうではないけどくやしい(…)

と書いた。そして、前半はスライド式のスイッチと後半はプッシュ式のスイッチ(ビッグスイッチ)でやってみたのだが、プッシュ式のスイッチについて、
 
このすいっちのほうがかんたんです
ふしぎだどうしてわかるのか
ちからをいれるまえにつたわるのはどうして

と尋ねられたので、運動を実際に起こす前の準備のために加えられたわずかな力を読み取ることにしたことと、実際に運動を起こすといろいろなハンディがそれぞれの障害の状況に応じて起こるけれども、準備のところでは、みんなハンディがほとんどないということを伝えた。
 省略したところには、なかなかわかってもらえない悔しさも言葉を変えて繰り返し綴られていた。
 彼は、かつて、自分の理解されない状況を「ちかにいた」と表現したことがある。そして、別のともだちがようやく文章表現にたどり着いた時には、

☆☆☆さんのわかっていることをせんせいたちにりかいしてもらえてよかった。りかいしなければやきをいれてやるところだった。はずかしいとおもうべきだ。いままでかかるなんておそすぎたけどきづかれないよりはよかった。いがいせいこそのうりょくのひとつだとしるべきだ。ざのさめないうちにくもんにみちたときをよろこびのときにかえてしまおう。かこのくのうをみらいのかんきにたかめよう。

と書いたことがある。彼はその強い意志で、たくさんの現実を動かしてきた。もちろんまだまだ彼の納得する状況にあるわけではない。しかし、彼は、間違いなく、これからも、「ちかにいた」数多くの存在を世の中に認めさせていくたたかいの先頭に立っていくことだろう。
2008年8月22日 10時29分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年08月21日(木)
「つらいことはなんですか」
 夏休みの一日、ふだんの個別的な関わり合いの枠を外して、地域のセンターの小さな会議室を借り、数名の子どもたちが集まった。このグループでこうしたひとときを作るのは、かつては、親同士の交流の意味が大きかったが、今年は、子どもたちもともに語り合おうということを事前に伝えてあった。とはいえ、パソコンをそれぞれの子どもの前に並べて、私たちが子どもの援助を代わる代わるにしながらの、語り合いである。
 中学生のA君は、この試みについて、まず次のように感想を述べた。

A:いつもとちがってこどもどうしではなせるのがたのしみですりかいしてもらえてうれしいです

 そして、高校生のBさんが、みんなに聞きたいことと言って、口火を切った。

B:せっかくのきかいだからそれぞれのきもちをききたいです。きいてみたいことはつらいことはなんですかということです。
 
 初めての語り合いの機会に、いちばん聞いてみたい気持ちが「つらいこと」であるということは、非常に重い現実をつきつられる気がするが、その気持ちは痛いほどにわかる。
 そして、この問いかけに対して、さっきのA君と高校生のCさん、D君から答えが返ってきた。

A:くるしいのはべんきょうがしてもらえないことです がっこうじだいしかほんとうのべんきょうはできないのにざんねんです
C:つらいのはさようならをいいたくないともだちとわかれなければならないことです
D:つらいの なやむときは ちいさいときからさみしかった ことばでいいたくてもいえなかった

 短い言葉の中に、おそらくみんなに共通の思いがそれぞれの言葉で綴られている。もっともっと勉強がしたいこと、突然のつらい友だちとの別れのこと(この日は、3年半前に亡くなったお子さんの母親もひさしぶりに見えていた。)、長い間、言葉で表現できる力をもっていることを理解されずに寂しく過ごしてきたこと…。少しずつだが、仲間と共有していくことで、新しい世界が開かれて行けばと思う。
 このグループで3人以上で会話が成立したのは初めてのことだ。もっともっとこうしたやりとりが成立できる条件をいかに増やしていくか、これからの大きな課題でもある。
 


 
 
2008年8月21日 22時42分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年08月15日(金)
「むずかしいもんだいもふしぎとできたのでかんげき」
 すでに言葉もゆっくりとだが話し、地域の学校にも通っている○○さんと、スライドスイッチによる2スイッチワープロに挑戦した。以前にも何度かやってきたが、これまでは、できるだけ本人の実際の動きをもとに綴ったので、短い文章で終わっていた。しかし、今回は、最近私が、もっと障害の重い方々と長い文章を綴るためにとっている方法、すなわち、実際の自発的な運動が起こる前に、運動を起こすための準備として腕に加わったわずかな緊張を積極的に拾っていく方法をとった。もう少し具体的に紹介すると、私が小さな動きで引っ張る方のスイッチが入ったり切れたりするようにカチカチとスイッチを前後に小さく動かしていくと、選びたいところで押そうとしてその準備のための力が腕にこもるとそのカチカチという動きが止まるので、そこで、一緒に押す方のスイッチを押して決定するというものである。
 そうやってできた文章はこれまでになく長いものだったが、それだけでなく、本人の秘められた思いがあふれた文章だった。

くるしいことがありましたいつもげんきなおじいちゃんがにゅういんしてこのあいだしゅじゅつをしてくすりをいっぱいのまなくてはならなくなりました。たいへんしんぱいしています。

 おじいちゃんの病気のことで、私は知らなかったが、こんなふうに綴られて、初めておじいちゃんの病気のことを知った。

すなおすぎてくつうね このあいだがっこうでぞろりのをしっていて○○ちゃんのくちまねがおかしいといわれてみんなにわらわれてくやしかった。

 「ぞろり」のところは私の読み違えかもしれないが、何か、いつも素直にふるまっている彼女の本音が初めてちらりとのぞいたように思えた。彼女の口調をからかわれて悔しかったことがあったということだろう。しかし、すぐに、彼女は、こう付け加える。

けっしていじわるではないとはおもうけどなぜぶうたはくだらないことをいうのだろう。

 6年生だがもう大人の○○さんは、むしろぷうた君のことを気遣っているのだ。しかも、「ぷうた」は、偽名で、本当の名前をとっさに隠したとのことだった。
 そして、文章は方向を変えて、内なる世界に向かっていく。

かえれるばしょがあったらかえりたいとおもうけどくるしさのなかできぼうをすてずにがんばろうとおもう。

 そこからならばもう一度やり直せるような「かえれるばしょ」はもうないことを知ってしまった。しかし、「がんばろうとおもう」。

いますてきなひとがめのまえにあらわれたらうんめいがかわるかもしれない。あいがほしいです。あなたをあいするといってくれるひとがあらわれないかなとまちつづけていますがなかなかあらわれません。すてきなひとにであえたらたのみたいことがあります。すぐにわたしをわるいひとのいないところにつれていってくださいおねがいします。

 いつも大切にしながらしかしけっして語ったことのない夢見る少女の世界が突然かたちをとって表れた。

ふしぎですかんがえたことがそのままぶんしょうになっていきます。

 自発的な運動を実際に起こす前の動きを拾っていくという方法は、こうした実感をもたらすことのようだ。こうした方法をとってから「ふしぎ」というふうに問い返されることが増えてきた。
 もしかしたら、彼女の心の世界に、ほんの少し踏み込みすぎているのかもしれない。本当は思っていても寸前で言わずにおこうとしたことまで、言葉として引き出してしまったら、それは、本人の意に反したものになってしまうことだってありそうだ。そうしたことについては、これから、じっくり考えていかなければならない。
 次に、気になっていた算数について尋ねてみた。

5+8=13 23+12=35 

 これだけでも、ふだん以上の実力が発揮されている。そこでさらに、

100+3=103 1.2+0.1=1.3 6×8=48
15÷3=5 12×3=36 80−72=8 25×3=75

 驚くばかりだったが、そこで、「100円の品物にかかる5%の消費税はいくらか」と聞くと 
100×0.05=5
「10%の食塩水30グラムの中には何グラム食塩が溶けていますか」には、
30×0.1=3
「100キロメートルの距離を時速20キロメートルで走ると何時間かかりますか」には、
100÷20=5

 そして感想として、

かんたんにかけてむずかしいもんだいもふしぎとできたのでかんげきしています。

 私も起こっているできごとの意味をどうとらえていいのか、とまどいつつも、これが○○さんの本当の姿だったのだと、あらためて自分の見方の浅さを反省した。
 そして、行ってきたばかりの修学旅行の感想に。詳細は省くが、こんな一文が含まれていた。

きっとうつくしいけしきだったとおもうけどせっかくいったのにけしきをみるよゆうはありませんでした。くやしかったけどからだがうごかないのはだれのせきにんでもないのでしかたありません。けっしてだれかをうらんでいるわけではありません。

 さらに、

ゆめはけっこんしてこどもをうむことです。うつくしいはなよめいしょうをきてうつくしいくるまでりょこうにでかけたいです。けっこんするのはむずかしいかもしれないけどねがいはもちつづけたいです。すてきなひとがあらわれたらうれしいです。

 と再び、夢を綴った。夢を現実にするためには、強く道を切り開く生き方が求められるかもしれない。しかし、彼女ならできそうな気がするという思いが、ふと頭をよぎった。

2008年8月15日 00時39分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年08月13日(水)
「ねがいどおりのじんせいをいきていこうね」
 小学5年生の○○君と◇◇君は、それぞれに伝えたいことを語ったあと、対話を始めた。学校に上がる前からずっと一緒だった二人は、ようやく言葉を使って会話をすることができるようになった。しかしまだ、スイッチ操作ができる場面は私と出会うときだけなので、二人の間で思いはいっぱい高まっていた。
 まず、二人のそれぞれの思いが綴られる。
○○君。「きてくれてありがとう ずっとまっていました つまらないです がっこうがなかなかことばをしんじてもらえません くやしいです きもちを つたえることができたらどんなにすばらしいでしょう。」
◇◇君。「くやしいことがあった みんながことばではなせることをがっこうのせんせいがわかってくれようとしてくれない いいたいことはたくさんあるけどしんじてもらえないとむずかしい なぜせんせいはしんじてくれないのだろうか のぞみはことばでもっときもちをつたえあうようになれることです てをつかってはなせることをはやくわかってもらいたい りかいしゃがほしい べんきょうをしてなんでもしりたい のぞみはことばでみんなとはなすことです。(…)◇◇くんとはなしたい」
 そして、二人で一台のパソコンを囲み、スイッチを交代しながら話が始まった。
◇◇君:りかいしてくれるひとがいなくてさびしいね
○○君:くやしいねなかなかわかってもらえなくて 
    てがつかえるのにだれもてをとってくれないね 
    すいっちがあればだいじょうぶかな 
    のぞみはみんながてではなしができるようになることです 
    よくりかいしてほんとうのきもちがわかってもらえるとうれしい 
    べんきょうのないようもやさしすぎてつまらないね
◇◇君:すいっちがあってもしんじてもらえないとむずかしいね
    しんじてもらえないとてをとってもらうこともできないね
    ふしぎだね
    ねがいがかなったのにりかいしてくれるおとながすくないなんて
    りかいしてくれればおもいをつたえられるのに
    (…)    
    くなんのじんせいですががんばっていこうね
○○君:むずかしいけどなんとかがんばっていこう
    なかなかべんきょうもしてもらえないけど
    しんじてもらえるようがんばろうね
    ゆいいつのゆうじんだからね
    ねがいどおりのじんせいになるよういのっていこうね
    ずっといつまでもともだちだからね
◇◇君:くるしいときもたのしいときもずっといっしょだったからね
    ともだちだからずっとこのままいっしょにいきてゆこうね
○○君:ちいさいときからずっとともだちだからね
    よくきもちがわかります
    よくよくかんがえてねがいどおりのじんせいをいきてゆこうね

 二人のことを学校の先生にわかってもらうためにはどうしたらいいのだろうか。二人が示している外見上の様子は、こうした会話をすることができる子どもたちにはとうてい見えない。現在の常識では、理解されにくいのは無理もないことかもしれない。二人は、自分たちの体の問題についても、次のように語ってくれた。

◇◇君:じっとしていることがむずかしいので からだがいつもうごいてしまうのが りかいされないでこまっています
    せんせいにそれをつたえてほしいです
    てがいつもくちにはいっているのは すっていないとからだがとまらないからです
    きもちとはちがったうごきをするのでこまっています
○○君:いつもからだをうごかしていないとじっとしていられないのでこまります
    すこしのじかんならじっとできるけどながいじかんはむりです
    つらいりかいされなくて
    のむときもすこししかのみこめないのでこまっています
    なかなかわかってもらえなくてくやしい

 私は、こうした体の動きを何か意味のあるものとしてこれまで様々な考察をくわえてきた。体の動きを止めること、姿勢を作ることとの関係で考えてきたことは、かなりあたっていたとは思う。しかし、当事者からじかに語られると、そこに、自らの体がままならないつらさと、誤解される無念さとがひしひしと伝わってくる。現に私自身も、こうした行動に意味があると考えつつも、それは、言葉を獲得する以前の段階に特有のものと考えてきたのだから。
 彼らがのぞむみんなからの理解を得るためにも、こうしたことを一つずつ明らかにしていかなければならないのだと思う。

2008年8月13日 09時20分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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2008年08月11日(月)
「のぞみどおりにはなせるようになりましたか」
 子どもの頃から言葉を話したかったということを切々と訴え、友達が亡くなったときも何も言葉にして言うことができなかったということを切々と語った小5の○○さん。これで、3度目の関わりとなる。2月に大切な友達を亡くしたという。そこで、そのお友達にあてた文章を書いてみたらと提案した。
 そして書かれた言葉は次のようなものだった。

 ○○○ちゃんへ
 そちらでもげんきですか
 のぞみどおりにはなせるようになりましたか
 もしはなせていたら こんどいっしょにはなそうね
 どうして○○○ちゃんはわたしをおいてさきにいってしまったの
 わたしはとてもさびしいです
 めのまえのなやみはたくさんあるけど
 わたしはまだげんきだから 
 ○○○ちゃんのぶんまでがんばりたいです
 のぞみどおりのじんせいをいきられるように
 がんばりたいとおもいます
 
 彼女が初めて言葉で気持ちを話せたのは、友だちが亡くなった翌月の3月のこと。ともに、小さい頃から言葉を話せずにいて、はなせるようになることをともに夢見てきた。しかし、自分は願いがかない、友だちはかなわずに逝ってしまった。
 私も、もう少し早く出会えていたら…と思うけれども、そこが出会いの偶然の非情だ。せめて与えられた機会を無駄にしたり逃したりしないということだけが、私たちのできることだ。
   
2008年8月11日 23時41分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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「てんごくにのぼるふね」
 研究会の発表で、ある女の子の勉強の様子と言葉とが紹介された。私も関わったことのあるお子さんだ。その言葉の中から、いくつか紹介したい。
「ままそだてありがと」。先生との試行錯誤の中から生まれた言葉だ。小2で初めて開かれた言葉の世界は、こんなふうにして始まった。
 一度会ってみたいという思いで、九州に住む彼女の家を訪れた。
そして、そのとき綴った言葉の中に、こんな表現が含まれていた。「かあさんずっとあいしあっていこう はつのねがいです ねがいはいっぱいあるけどかなえられないことがたくさんあるから のぞんでもえられないことはのぞまないことにしている」「ふしぎですもうだめかとおもっていたけどのぞみがかなえられました」と。
 「はつのねがい」は母さんとのこと。「もうだめかとおもっていた」という言葉が胸につきささってくる。
 そして、先生と、国語の教材で、かわいがっていた犬が亡くなる話を受けて、こんな文章を書いた。
 わたしもいぬおみてみたい
 かわいい
 うれしいきもちになります
 しんだらどうなるだろう
 きっとてんごくへいくんだろう
 またいっしょにあそべるかな
 のはらできっとあそべるだろう
 ゆめでもあそべるからなにもしんぱいしないからさみしくない
 ふねがしずまないといいな
 てんごくにのぼるふね
 せかいじゅうどこでもあるけどにんげんにはみえない
 いきているから
 けどそこにはわたしはまだいかない
  
 死というめぐって思いめぐらしてきたことが、犬の話に触発されて一気に生み出された言葉だろう。
 「てんごくにのぼるふね」の不思議なイメージとと「けど そこにはわたしはまだいかない」という表現が、この文章に深い響きを与え、一篇の詩にまで高まっている。2月にかかれたもので、私はメールでいただいたが、非常に感銘を受けるとともに、命と向き合う彼女の世界を改めて知ることができた。
 そして、5月になって、詩として次のものを作った。

 まいにちめんどうみてくれてありがとうかあさん
 そしていままでくろうばかりかけてごめんなさい
 もうだめかとおもったこともあるでしょうが
 わたしのことをあいしてくれて
 あきらめないでなんでもしてくれて
 なんにもできなくてごめんなさい
 おとなになってもかあさんにめいわくをかけそうだけど
 どうかよろしくおねがいします
 わたしはかあさんとあいしあっていけさえすればきっとしあわせになれるとおもう
 たいへんだけどよろしくおねがいします
 れんしゅうします
 ぱそこんできもちをつたえたい
 うきうきしてきます
 きっときっと
 できるとしんじています
 かあさんやとうさんおとうとたちみんなで
 げんきにてをつないでいきたいです

 懸命に生きようとするこの小さな少女の気持ちに、少しでも寄り添えていけたらと思う。
2008年8月11日 23時14分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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2008年08月06日(水)
「苦難それは希望への水路」、「美しい諦念を握りしめて」
 あるグループでお会いした○○君は、この世界では著名な先生のもとで小学校時代を過ごしてきた。今度、○○君のおかげでその先生とお会いする機会を作っていただくことができた。今日の言葉は、そのことから始まった。

しばたせんせいと○○○せんせいがあたらしいみらいをおおきくたくましくきりひらいてくださることがたのしみです。

 新しい未来を大きくたくましく切り拓くということが私にできるかどうかわからない。しかし、○○君の熱い思いには、精一杯答えていかなくてはならない。
 そして、○○君は、さらに自らの深い心の境地について語る。中学生ではあるが、置かれた状況の中で、彼の心は、すでに大人の世界の中にある。ひらがなだけの文章だが、必要な文字を漢字に置き換えると次のようになる。

 けっして諦めないで願いがかなえられることができて本当によかったです。最高に幸せです。望めば必ず扉は開かれるということが証明されました。失われた過去は戻ってはきませんが望みにあふれた未来があることが素晴らしいです。苦難それは希望への水路です。決して諦めてはいけないということを教えてくれます。手の中に美しい諦念を握りしめて生きていこうと思う。美しい諦念は真実そのものです。苦しみの中で光り輝いています。手の中にある真実は幸いそのものです。望めばいつでも手に入りますが誰もこのことは知りません。なぜなら人間は常に楽な道のほうを好むからです。生きるということは苦難となかよくしてゆくことなのです。
 
 「苦難それは希望への水路」「美しい諦念を握りしめて」という言葉、あまりにも研ぎ澄まされた至高の言葉だ。


2008年8月6日 13時07分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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2008年08月03日(日)
「くうきのようなかるさ」のスイッチ
 盲学校に通う○○君は、弱視と肢体不自由が重複したお子さんだ。ゆっくりと一音ずつ確かめるようにしゃべる○○君は、必要最小限のコミュニケーションは声でとれ、また、大きな文字なら読むこともできる。その彼の言語表現を助けるために、いいソフトはないかと尋ねられ、2スイッチワープロとスイッチ接続用のマウスを差し上げた。スイッチは、他の先生がお持ちになっていたフィルムケースで作ったスイッチを使った。彼は、翌日には、もうしくみを理解し、ゆっくりゆっくりと文字をパソコンに入力することができた。先生のご希望で、いくつかソフトも改良した。それから、国語や自立活動の時間などにパソコンが取り組まれてきた。
 そんな彼に、私が直接関わらせてほしいとお願いしたのは、2週間ほど前のことだ。最近自分が身につけてきたスピードで彼と文章を綴ったら、もっといろいろなことを語るのではないかと思ったからである。
 それは、さっそく夏休みのある一日に実現した。
 自分でていねいにゆっくりと二つのスイッチを押し分けながら操作することは熟知している○○君に、今日は、ちょっと違うやり方でやらせてほしいと言って、前後のスライドスイッチを提示した。引くと押すとで二つのスイッチを操作し分けるわけだが、引く方は力をできるだけぬいて私がカチカチと進めていくので、それに手の動きをゆだねてもらい、選びたいところで、ここだと思うと手に力が入って、スイッチのカチカチという音が止まって、そこを選ぼうとしていることがわかるということを伝えた。一緒に名前を書いてみると、すぐにお互いに要領が飲み込めたので、夏休みについて何か書いてみてと頼むと、
「なつやすみどこかへいきたいのだけどいきたいところがきまらないのでこまっています。」とさっと書いた。そして、次のような文章が綴られた。「しばたせんせいのすいっちください。すいっちがあったらいいとおもいます。ねがいはうちでできるようになることです。くうきのようなかるさです。うれしいです。」
 一つ一つの動作をゆっくり行う彼は、それぞれの動作にたくさんの力を入れている。その力がいらずに軽やかに動くので、そんな表現をしたようだ。
 はにかみやの彼に、すぐ横におられたお母さんについてどう思っているか書いてくれると頼むと、とてもてれるようにして、「よくめんどうをみてくれてかんしゃしていますつかれがたまったときははゆっくりやすんでくださいね。」と書く。
 なかなかすぐには書く内容が決まらないようなので、将来の夢は、と聞くと、「ひとりでくらしていくことができたらいいなとおもいます。くるしいこともあるかもしれないけどいっしょうけんめいがんばればできるとおもいます。まけずにいきていきたいです。しっかりかんがえていこうとおもいます。」と流れるように綴ったあと、「みんなとなかよくしていつまでもともだちでいたいとおもう。くらすのなかまたちです。」と付け加えた。彼のクラスメートは、彼を入れて、3人。幼稚部からずっと一緒に過ごしてきた。
 そして、「くなんのひびでしたがのぞみがかなってうれしいです。」続く。「くなん」という難しそうな言葉が、なぜか、よく子どもたちから出てくるが、彼もまた、そうだった。普段の彼からはうかがい知れない心の奥底が一瞬だけ、顔を出したように思えた。いつか自由に言葉を使いたいというのぞみがかなったと読めばいいのだろうか。ふと、まわりに沈黙が流れた。
 そこで、横にいた担任の先生についても、どう思うかと聞いてみたところ、「×××せんせいはとてもこころのやさしいひとですこれからもよろしくおねがいします。」と綴り、その時には、もう、ふだんの、やさしい○○君の姿がそこにはあった。
 秋になったら、スイッチをもって、また、来なければ、と思った。
2008年8月3日 01時34分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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