ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2011年08月11日(木)
『きじの奏で』の感想レポート
 大野さんに参加していただいた「発達と学習」では、学期末にレポートを課したが、その中にこの『きじの奏で』をとりあげたレポートが入っていた。
 以下のようなレポートである。


  「きじの奏で」について

 私は大野剛資さんが授業に来てくださり、そして文字をあらわすことのできる機械で“この今言っている声は、体から発してしまう声なのです。‥”という言葉を見て、衝撃を受けました。私は勝手に障害者の方は“自分が障害者ということも気付くことのない、幼い精神を持っている人”というようなレッテルを貼ってしまっていたので、なおさらでした。 
 そんな驚きのあった授業を終えて、「きじの奏で」を読んで、大野さんの今まで育ってきた環境や生い立ちから、人との出会いの大切さやまわりの環境の大切さについてとても考えさせられました。私も色々な人に出会うことで影響され、私自身も出会った人に対して何かしら影響しているのだなと思うと、本当に生きているうえで、無意味なことなんて何もないのだなと改めて思いました。
 そして読み進めていく中で、私は “静かに気付いた1歳”という詩に1番心打たれました。大野さんの中で形がつじつまをあわせることが出来ないという真実をつきつけられ、知識は十分にあり、表現したいのに出来ない苦しさの中、生きてきたのだなと素直に伝わるこの詩はとても印象に残ったものでした。
 私も“友達はこんな簡単に出来てしまうのになんで自分だけ‥”と自分を批判することが多いので、“出来ない苦しみ”という事がとても伝わってきました。その上、私の悩みはまだまだ小さいのだなと思いました。私の悩みならまだ、友達のように簡単に出来なくても、時間をかければ、少しずつ近づくことはできます。でも大野さんはいくら十分に“頑張ろう!”と思っても、体が自分の意思の言うことを聞いてくれることはないのだなと思うと、私は“出来ない!”と自分を否定していないで、もっと前に進んでいかなくてはいけないなと思いました。
 あと私は、まだまだ知識不足や詩から学ぶ能力がないため、全ての詩を理解することや考えることができませんでした。だからもっと何回も読むことによって深く理解できるようになりたいなと思います。そしてもっと内なる想いを障害者の方と直接関わることによって知っていきたいと思いました。そのためにも2日間連続で障害者の方のすぐそばで関わることができるという貴重な介護体験を有意義なものにしていきたいと思います。
 最後に、人間として初めて産まれてきた障害者の子はきっと“なんでこんなに変わっているのだろう”と周りから言われ続け、そこから“障害者”というくくりができ、差別されるようになり‥。しかし今障害者の気持ちを読み取ることが出来るようにまでなりました。全てが機械化されていく未来になってしまうのかという不安もありながら、このように機械によって障害者の方の中に秘める想いを表現できるようになったり、意思疎通できるようになったりして、機械や物理のような目に見える進歩ではないけれど、人間としての着実な進歩を今回感じることが出来ました。これからもっと人間の心も発展して、お互いに誰でも認めて、そして認められる世の中になっていければいいなと思いました。

2011年8月11日 10時24分 | 記事へ |
| 大学 |
大野剛資さんの講義2 「発達と学習」の講義にて
 「ボラティアと社会参加」の授業に続いて、「発達と学習」の授業にも大野さんに参加していただいた。
 「発達と学習」には初等教育学科の2年生と3年生がやり100名ほど受講している。この日は、大野さんが来ることと合わせて、茅ヶ崎の浜之郷小学校における「いのちの授業」をとりあげたが、最初に、大野さんにあいさつしていただいた。

 お疲れのところ失礼します。僕は大野と言います。今出ている声は勝手に動くからだが発しているものですがなかなか止められないものです。なぜ今日大学に来たかというと僕が出した詩集を宣伝してくれると言われたからです。この春に僕は『きじの奏で』という詩集を出しました。なるべく多くの人たちに読んでもらいたいと思います。地域で生きていくことはとても大事なことだということをさっきの授業で話しました。僕は地域の学校で小中学校を過ごさせていただきましたが理想的な時間でした。もっと地域で生きていきたいけれどなかなか難しいですが皆さんのような若者の皆さんに理解してもらえると未来が開けてきそうな気がします。また大学には時々来るので声をかけてくださいありがとうございました。

 「いのちの授業」では、江戸時代の浅間山噴火の際に発生した大火砕流によって一つの村がなくなってしまうということがあったが、その際に、高台に逃げる最中に年老いた女性を背負ったまま亡くなった若い女性のことが、発掘された遺骨とともに語られていく授業だ。今年は、東日本大震災のあとだけに、また新しい意味を持つと思われた。
 大野さんをまじえた授業は、いつも以上に熱く進めることができたように思う。
 時間がなかったので大野さんにもう一度感想を求めることはできなかったが、授業の後で、「僕に合わせた内容だったのですか」と大野さんに問いかけられた。もともと扱うつもりではあったが、すでに述べたように大野さんの来る日に合わせたのは事実だったが、大野さんの意見をまた機会があればうかがってみたいと思う。
 
 
2011年8月11日 10時10分 | 記事へ |
| 大学 |
大野剛資さんの大学の講義1 『きじの奏で』の著者として
 4月に詩集『きじの奏で』を出版した大野さんに講義に来ていただいた。プロジェクターでパソコンの画面を映し出してその場で話しをしていただいた。
 
 こんにちわ。僕は大野剛資と言います。誰にも言葉があると思われずにずっと生きてきましたが突然柴田先生が現れてこの取り組みを始めてくれて僕は言葉を話せるようになりました。なかなか簡単な方法ではないのですが勇気を出して今日は皆さんの前で何か話そうと思ってきましたがあまりに大勢の人なのでぞっとする思いがしましたが頑張って話したいと思います。

 初等教育学科の1年生100名あまりを前に、なめらかに講義は始まった。 

 夏休みになると僕は小学校のことを思い出します。夕涼み会や蝉捕りに友だちが連れて行ってくれたり摘んできた花を押し花にしたりしました。みんな僕のことを仲間として認めてくれてとてもすてきな小学生時代を過ごしました。分に応じた生活をしろと世の中の人は言いますが分不相応な生活をさせてもらいました。びっくりするかもしれませんがその当時は全く意思表示はできませんでした。なぜそれでも仲間と通じ合えたかというと敏感な感性の子どもが多かったからだと思います。なぜそんなにうまくいったかというと先生がとてもいい先生だったからです。未来の学校の先生になる人なのでぜひそのことはわかってほしいです。またなんでもよくどこに行きたいかとか何がほしいかとか仲間たちは聞いてくれました。忘れられないのはロードレースの時のことです。何もできない僕の車いすを仲間たちは押してりんどうの咲く山道を一緒に走ってくれました。まるで映画の中にいるようでした。みんなもきっと忘れられない思い出として心にとどめてくれていることでしょう。

 彼のような障害の重い人が地域の学校でともに学ぶことをめぐってはこれまでたくさんの議論が繰り返されてきた。彼のように言葉で十分に状況を理解することが困難とされていた方が、実はこのような体験をしていたということは、これまで十分に語ることはできなかったことだ。ドラマのような体験であり、ともに学んだクラスメートたちにも大切な体験として残っていることだろう。 

 地域で暮らすということがよく言われますが皆さんはどう思いますか。地域に障害者は必ずいるはずですが分相応の生き方を強いられている障害者にはなかなか会う機会さえないのではないでしょうか。何度となく僕もそういう立場に置かれてきたのでよくわかりますが忘れられないのは世の中の人たちから完全に忘れ去られたときのことです。なぜそんなことになったかというともっと僕が声が勝手に出ていたときのことですが何かのコンサートで係の人から出て行ってくださいと言われたことがあります。僕もその気持ちはよくわかったのですが何度も言われるうちに僕たちは社会の中では生きられないのだなと思いました。僕たちのように静かにできない人間には生きる場所はもうないのだと思いました。

 一転して、地域で生きることの厳しさに話が及ぶ。コンサートでのこうしたできごとは実は大変むずかしい問題だが、その例の引き方の中に、彼がこの問題をいかに深く考え抜いてきたかが表れていた。
 ここでずっとプロジェクターで映し出される文字に対する集中がとぎれたのか、一部の学生の私語が始まった。大野さんの言葉が耳障りがよい言葉だけではなかったことも関係していたかもしれない。私は、それを注意することで壊れてしまう関係性がいやだったので、特にうるさく注意はしなかった。大野さんには、それは、自分たちを排除してきた社会を彷彿とさせるものかもしれなかった。
 
 僕の目的はみんなに僕たちのことを聞いてもらうことでしたがなかなか難しいようですね。どうしても僕たちは理解されないので世の中ではそう簡単には理解が進まないのでろうそくの灯はようやくまだともっていますが僕たちの希望の火はなかなか燃え上がるほどにはなりませんが、こうしてこんな僕が大学で話せるようになったのは前進なのだとは思いますがどうにかしてみなさんにはわかってほしかったです、人間として生きているということを。だけどうまく伝わらなかったみたいで申し訳ありません。
これで終わります。


 もちろん大半の学生は終始集中をとぎらせることはなく、深い感銘を受けた1時間であったし、私語をしてしてしまった学生も、理解していないはずはなかった。
 いつになく深い感想が寄せられた1時間だった。
2011年8月11日 08時21分 | 記事へ |
| 大学 |