ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2012年08月31日(金)
新しい出生前診断をめぐる議論について
 今回の出生前診断をめぐる問題は、生命倫理の観点から本質的な議論がぜひ望まれるところです。
 しかし、それ以前に、確認しておかなければならないことがあります。それは、進歩しているのは医学だけではないということです。ダウン症と呼ばれる人も含めて、そういう障害のある方々が具体的にどういう存在であるかということも、医学にひけをとらないぐらいに進歩しています。多くの関係者がダウン症と呼ばれる人が、人間として当たり前に生きているという事実を日々実感しながら生活や仕事をしています。だから、出生前診断によって中絶の対象となるかいなかという問題の図式にダウン症と呼ばれる人たちが当てはまるという考え自体が乗り越えられてしまっている古い問題です。観念ではなく具体的な事実として同じ人間を、あるものは生まれるべき存在ではないとし、あるものは生まれるべき存在とするという図式にあてはめようもないことなのです。この図式にあてはめようとする人たちのダウン症者理解がすでに古い過去のものなのです。
 私は、さらに、私の学問として、きわめてシンプルな事実を明らかにしています。それは、どんな重度のダウン症者でも、豊かな言葉の世界を持って生きているという事実です。医学が出生前診断の確率を90パーセント以上と言うのであれば、私は、この確率については、同程度の確率でこれを言明できると思っています。これは、まだ、広く受け入れた事実ではありませんが、事実としてすでに私の前では明らかになっていることです。
 おそらく私が出会った中で最重度のダウン症の方の、東日本大震災をめぐる俳句をいくつか紹介しておきます。彼は、音声で表現できる言葉はまったく持たず、また、肢体不自由も重いため、ダウン症の方の中ではむしろ数少ない重症心身障害者です。その彼が、こうした世界を持っているのです。

夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
まだ波は 黙ったままで 答えなし
雪の舞う地震の朝の 鳥静か
涙枯れ 涙は出ずる 土用波
若き日の記念の写真 砂と空
ぶんどらず分かち合う手に 明日見え
唯一神持たぬわれらの神そこに
望みを背 また立ち上がる強き足
地震さえなければと泣く夏過ぎぬ


 また、障がい者青年学級で出会っている寡黙なダウン症の方も、震災に際して次のような詩を書きました。この詩が、彼自身の作品であるということは、私たちスタッフの間では自明の事実です。

津波よ なぜおまえはすべてを奪っていったのか
忘れられないのは悲しみに泣き叫ぶ人の声 忘れられないのは子どもを亡くした母さんの泣き声
なぜおまえはそんなに残酷なのか
わずかの希望はどんな苦しみの中からでも人は立ち上がると言うこと
もしぼくにも力があったらどんなことでもしてあげたい
もしぼくに声が出せたなら理想を声高く叫びたい
ぼくの障害も津波のように何でかという理由はわからないものだけど
ぼくも立ち上がろう 津波に負けない人間として


 私は、ダウン症と呼ばれる人の中に、特別な才能がある人がいるという古い図式を持ち出すために彼を紹介したわけではありません。みんな当たり前にこうした世界を有しているということです。もし、彼の世界が秀でているように見えたとすれば、それは、ただ彼が、誰からも理解されないという厳しい現実の中で、自らの感性を研ぎ澄ませたのだということだけのことです。
 冒頭に、生命倫理からの本質的な議論が望まれると書いたのは、私たちと何ら変わりない存在であるという「わかりやすい事実」が認められない場合でも、その生命は私たちと同じだということが語られなければならないということですが、その本質的な議論の手前で、シンプルな事実してこういうことがあるということです。
 重度のダウン症の人にそんな言葉があるということはありえないという立場も、現在の学問の水準では、当然成り立つものです。この議論の決着は、これから時間をかけてじっくりやられていくしかありません。
 しかし、医学だけが進歩しているわけではないということを、私はこの時点で、述べておく必要があると考えました。
2012年8月31日 01時20分 | 記事へ | コメント(0) |
| その他 / 出生前診断 |
2012年08月27日(月)
えりさんのお見舞い 
 私が青年学級に参加した30年前、確か私より1年遅れて青年学級に入ってきたえりさんは、最初は、専門学校に通えるほど日常生活をスムーズに送っていましたが、10数年後、進行性の障害のために、車いすの生活になり、併せて医者からは、脳の萎縮によって言葉も失ったように説明されるようになりました。はいといいえの応答もままならなくなった彼女を前に私たちもいったんは、その説明を受け入れないわけにはいきませんでした。それから、ALSという難病で母が亡くなって、彼女は当時できたばかりの施設で生活を始めるようになりました。そして、10年ほど前、先入観のまったくない若い学生のスタッフが自然に彼女に話しかける時の彼女の表情の変化から、彼女の言葉は実は失われていないのではないかと思えるようになりました。公式にそれが認められるということはありませんでしたが、少なくともスタッフや仲間の間では、彼女には言葉がきちんと理解できているとの認識が定着してきました。そんな中で、私がパソコンを持ち込んだのが2008年のことです。援助の方法も手慣れてきてスピードもあがってきたことから、青年学級でも使おうと考えたのです。そして、最初にパソコンで話をしたのがえりさんでした。言葉があることはわかっていても、それがどの程度なのかをまったく確かめる術がなかったのですが、具体的な言葉を通してえりさんの世界が明らかになっていったのです。そして、えりさんをモデルにして若葉とそよ風のハーモニーコンサートではミュージカルも作られ、彼女自身が作詞作曲をした歌もその中で歌われました。そして昨年のコンサートでは、津波をめぐってかかれた彼女の詩が朗読もされたのでした。しかし、その直後、えりさんは、私たちの前から姿を消したのでした。
 最初は、何度も入院をしていた病院に入院をしたということだったのですが、そこから施設の戻れずに、別の病院に転院していたのですが、その病院がなかなかわからなかったのです。それでも、ようやく彼女のいる病院がわかり、徐々に私たちの仲間がお見舞いに行けるようになりました。そして、先日私も、彼女と深く関わっていた若い女性のスタッフからぜひ通訳として来てほしいと頼まれて、二人で彼女のもとを訪れたのです。
 美しいフラワーガーデンが見える面会室で、たくさん話をしました。通訳はパソコンを使わずに行ったので、記録は残っていませんが、その中で、彼女がこれだけは書き留めておいてもらえるかしらとお願いされた詩がありました。それを紹介したいと思います。


  夢の予感

私には夢の予感があふれている。
よい夢や悪い夢
どちらも私の本当の心だ
そしてよい夢の予感がする朝は
私は一日うれしくなって
みんなに笑顔をふりまいて
みんなを幸せな気持ちにする
みんなの気持ちが幸せになれば
私もまた幸せになる
悪い夢の予感がする朝は
私は一日暗くなる
暗くなった私はもんもんと一日悩みにくれる
私の悩みにくれた顔は
人々を苦しみにおとしいれる
苦しみにおとしいれられた人たちは
私の心にいっそう悩みを増やす
そして私が夢の予感に涙を流す日は
本当の幸せな一日がやってくる
それはなつかしい人たちが私のもとを訪れるとき
私のことを忘れずに
ずっと私に会いたくて
少しの時間をつくっては私に会いにきてくれる
今日も夢の予感がかなった日
私は喜びの涙に枕をぬらす


 入院した直後は、もう死にたいくらいの思いにとらえられたそうです。しかし、少しずつ私たちが面会に訪れるようになり、今度は、いつ誰が来るだろうとか思い巡らしたり、この間の面会で話したことを思い出したりしながら、いつしか病室は豊かな場所になったというのです。そんな思いがこの詩にはあふれていました。
 残念ながらまだえりさんははっきりとした意思を持っている患者としてはとらえられていません。しかし、えりさんはすべてわかっているし、しっかりと自分の気持ちを持って日々を暮らしているということを、少しでも早く病院のスタッフの方々にも理解していただかなければならないと思います。
2012年8月27日 00時26分 | 記事へ | コメント(0) |
| 青年学級 |
きんこんの会のお知らせ 10月6日です
 きんこんの会のお知らせです。本来なら9月に行いたいところでしたが、日程の関係等で、次回のきんこんの会は、10月6日土曜日2時から国学院大学たまプラーザキャンパス410教室にて開催させていただきたいと思います。
 よろしくお願いいたします。
2012年8月27日 00時16分 | 記事へ | コメント(0) |
| 大学 |
2012年08月17日(金)
新しい家族のかたち
 重複障害教育研究会の全国大会に向けて文章を書いてもらった日、印刷用の文章をかきおえたあと、田所君は、自由に次のような話をしました。

 ぼくたちはいつか必ず施設に入るということを覚悟してきたので、ぼくもいつ施設に入ってもいいと思っています。おかあさんはいつまでも手元に置きたいと考えているので、ぼくは、可能な限り家にいるつもりですが、創輔君の話を聞いてさすがに創輔君の家はうちとは違うのだと思いましたけど、これはどちらがいいとか悪いとかではないので、うちのやり方と吉田さんのやり方があるだけのことです。どちらもすばらしいと思います。
 ぼくの家はおかあさんもおとうさんも障害があるので、ほかの家とはずいぶん違いますが、そのおかげでぼくの家では、障害ということについての理解がほかの家よりは進んでいるはずです。だからぼくの家には、いろんな障害のある方がいろいろ訪ねて来ますし、その人たちは、ぼくに言葉があったことを誰も疑いません。なぜなら、その人たちはぼくの顔を見てればわかると言います。
 その言葉がぼくにはとても意外でした。なぜ、みんなは疑うのかというと、その人たちは、柴田先生の方を見ているからです。だから、みんな疑うのだと思いますが、ぼくたちの仲間の障害のある方々は、柴田先生の方を見たりすることはないと思います。みんなぼくの方を見るから、ぼくがほんとうに語っているかを見るのは簡単らしいです。そのようなことがあるなんて当たり前のことだと思っていたのですが、柴田先生を見ている人は、あまりにもこの方法がすごすぎて、疑うのでしょうが、ぼくたちの仲間は、方法はどうでもいいと思っています。方法よりも大事なのは、ぼくのことなので、ぼくの顔を見て喜んでくれてそれで終わりです。だからほんとうは簡単なことなのではないでしょうか。
 もし柴田先生がぼくたちの言葉でないものを言ったら、ぼくたちがとんでもない顔をするのは見えているし、たぶん大きな声で拒否するでしょう。だって自分の言葉でもないものをすらすらと嘘の言葉として言われたら、そんなたまらないことはないからです。だからぼくたちの言葉があっているというのはそれだけでも当たり前のことです。疑う人は障害者のことが何もわかっていないということです。ぼくたちのことを見ていれば、人間だから、自分の気持ちに反したことを言われたら拒否するし、自分の言葉通りだったらそれらしい顔をするということは、あまりにも当たり前のことなのに、世の中の人はそのことにさえ気がつかないみたいです。
 だから、うちではぼくはもう言葉を理解している存在としておかあさんの友だちから思われていて、おかあさんも、その人たちとの間では、弘二ががね、弘二がねと言っています。だから、弘二の言葉は誰も疑わないのが、障害者の間での理解ですが、健常者はやはり障害者のことがわからないということなのでしょうね。
 いつかぼくたちの代わりに闘ってくれる人も出てくるかもしれませんし、ぼくたちは体が弱いので闘えないけれど、元気な障害者はすぐに闘うから、ぼくたちのことでいつか闘ってくれる日が来るだろうとぼくは思っています。まだ、そういう人たちに声が届いていないのが残念ですが、きっとぼくたちの言葉のことが問題となった時に、力のある障害者が必ず立ち上がってくれて、ぼくたちを守ってくれるというのをぼくは知っています。ぼくたちの仲間は、障害の程度にかかわりなく、障害者として連帯しているので、ぼくたちのことがもう少し世界に伝われば、必ず、元気な障害者が立ち上がるはずですから、そのときは先生のことをきっと守ってくれると思います。その人たちは先生を守るのではなく、ぼくたちを守るためだから、先生のことなどはっきり言ってどうでもいいはずですから、ぼくたちのために立ち上がるし、その時に先生のこともあわせて守ろうと思うのでよろしくお願いします。
 ぼくは、今日は少し興奮して、ふだんは絶対に言わないだろうというようなことを言ってしまいましたが、ふだん言ってないから別にいいのだと思いますが、ふだんはお互いに穏やかな気持ちでつきあいたいと思っているのですが、今日は、思わず言いたいことを言ってしまいましたが、うちの家庭は障害者の家族なので、実は、それに関しておかあさんはそうとう苦労してきました。障害のあるおかあさんが、障害のある子どもを産んだからなんということはないのに、そのことでいろいろ言われたこともあるし、障害のある人間同士が結婚したこともいろいろ言われたみたいだし、そういう社会の中でうちの家族は生きてきたので、とても強い面と、人からいろいろ言われると弱い面も持っていますが、こうしてぼくも話せるようになったので、うちの家族を堂々と誇りにしたいと思います。障害者が障害者を産んだというのは、実は悲劇ではなくてとても誇るべきことです。実は障害者の間にはそういう考えがあるのを先生は知っていますか。障害者はほんとうは障害者を産みたいと思っているという考えがあるのを先生は知っているのですね。そういう人たちは健常者が産まれたということを悲しむということは別にありませんが、障害者が産まれるととても喜ぶと聞いたことがあります。なぜなら私たちの考えを理解する子どもが一人家族の一員となったからだと聞いたことがありますが、その人たちもきっと同じ考えだと思います。
 これはほとんど誰も言うことのない話なので、ぼくが代わりに言いましたが、だから、ぼくが産まれたことは、まちがいなのではなくて、ぼくが産まれたことが、一つの新しい家族のかたちだったと思ってきたので、そのことも言えてよかったです。新しい家族のかたちという言葉はまた改めて文章にしたいので、先生、よろしくお願いします。このような話までできるとは思わなかったので、驚いていますが、ぼくたちにとて、まさしく、このようなやり方が新しい人生の始まりなので、ぼくも、あとわずかの人生なのか、もっと長く生きられるかわからないけれど、残された時間は、新しい家族のかたちを考えながら、新しい人生を始めたいと思います。おかあさんとおとうさんのこともぼくはとても誇りに思っているので、その言葉をぜひ一度、かたちにしたいです。今日の文章には間に合いませんでしたが、ぼくにとって新しい家族のかたちという新しい言葉が今生まれたので、新しい家族のかたちというのをぜひ文章にしたいと思うし、先生はぜひあちらこちらでそれを言っていただきたいと思います。
 先生の声を聞いているだいたい先生の気持ちはわかるのですが、相当に感動してくれたことはわかりましたので、ぜひあちこちで言っていだだきたいと思います。そこに学生さんがいるのですか。たぶん新しい授業の内容になると思うので、聞いてあげてください。先生が新しい家族のかたちと言い出したら、あああれは田所君のところで聞いた話だということで聞いてもらいたいと思います。新しい家族のかたちについて少し長く話させていただいたので、ぼくの話はこれで終わります。


 この間、廣瀬岳さんの文章を紹介しましたが、これは、それに先だった語られたもので、廣瀬さんとも話題にしたものでした。
 障害のあるお母さんから障害のある子どもが産まれるということは、新しい家族のかたちだと言い切る田所弘二さんの考えは、私自身、ほんとうにわかっているとは言えないかもしれません。しかし、そこには、根本的な鋭い問が横たわっていることだけは確かです。3才になる前から関わりを始めた田所さんも、もう30を迎えます。これまでの長い時間を経て、今、こうしたことが語りあえているということに、ただただ、敬服するのみです。
2012年8月17日 01時45分 | 記事へ | コメント(0) |
| 研究所 |
2012年08月07日(火)
一周忌を迎えた先輩に捧げる詩
 高校生の☆☆さんが、昨年7月に亡くなった先輩を偲んで作った詩を聞かせてくれました。

 時間が過ぎてしまったけれど私も私らしく生きるためにいいつながりを考えました。人間として生きていくという詩です。これは人間として生きようとして頑張ったけれど亡くなってしまった江本蒔衣さんの命日に作りました。

  人間として生きていく

ランプに明かりを灯そうとしたあなたの光は
私の心の中に確実に力強い光をともした
理想はまだまだ遠いけれど
私はその日が来るまで闘い続けたい
未来はどこにも見えないけれど
私はりんどうの花が誰も知らない山奥で
ひっそりと可憐な花を咲かせるように
この世の中の片隅で清らかな花として
願いをたくさん花びらのように揺れながら祈りとともに咲かせたい
願いの花は不思議な香りを漂わせながら
匂いのままに広がって人々の心に秘かに届くことだろう
夏の日射しに疲れた人々の心に潤いを与え
未来への密やかな希望を与えるだろう
私は自分にとってもっともふさわしい闘いをりんどうに託す
私にしかできない闘いのかたち
無難な道を行かずに
できる限りつらい野薔薇のとげのような道を歩みたい
ご覧なさいこの花をといつか言われる日が来るまで
私は私の秘められた闘いを続ける
ご覧なさい蒔衣さんを
静かに自分らしさを紡ぎながらつとめを終えて
安らかな眠りについたあの輝かしい姿を
私にはずっと蒔衣さんの灯してくれた明かりがともり続けている
だから決して一人の闘いではない


 私たちの私たちらしさを大切にしようと言い続けた蒔衣さんの思いをしっかりと受け止めて生きようとする☆☆さんの姿がそこにありました。
 そして、また、もういっぺんの詩を綴りました。真夏の暑さの中で、冬の銀世界を思いながら作った詩です。

   銀世界

ご覧なさいこの銀世界を
すべてを白く染め上げて
私たちの嫌いなものすべてをも
白く清らかにする
人間として生きるということは
汚れた心も引き受けていくと言うことだ
理想的なドラマはいつも汚れた心と共にある
しかし私はすべてを許す銀世界でありたい
ばんざい雪だと叫ぶ子どもたちのドラマのように
すべてを受け入れる銀世界のような心で
私は生きてゆきたい
2012年8月7日 19時00分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G23区2 |
2012年08月04日(土)
障害者が障害児を産むことこそ人生の最大の幸せだ
 今年社会人になった廣瀬岳さんの文章を紹介します。岳さんのお母さんには私はお会いしたことがありません。いわゆる中途障害を抱えた方だったとうかがいましたが、私が岳さんにお会いした時には、すでに亡くなられていました。小さい時からたくさん話しかけてくれた母に、この姿を見せたかったと何度も表現してきた岳さんですが、今回はまたお母さんのことをめぐって、大変深い言葉が書かれました。
 まずは、4月から通い始めた通所施設のことです。

 ごんごんと喜びが湧いてきます。僕は作業所ではとてもかわいがられています。どうしてかというと僕が言葉をすべて理解しているということを職員のみんなが理解してくれているからです。誰でも気持ちを持っているという主張が受け止められているのでとてもいい施設です。並ぶところのない施設です。私たちにとってそういう見方をしてくれるかどうかが問題なので、ぜひ何とかしてこのやり方を伝えてもらいたいと思っています。

 そして、母さんの話に移りました。

 ところで母さんに伝えたかったことがあります。それは僕が障害を持ったことについて色々言う人がいたけれど、僕が障害があったことはとてもよかったと僕は思っています。なぜなら人間として障害を抱えながら生きていくということはとても大変なこともあるけれど幸せなこともたくさんあるということを知っているので、僕は母さんとそのことを親子で証明できるからです。母さんの障害は後天的なものだったのですが僕が生まれたことでいっそう障害についての認識が深まったと言ってくれました。長いこと悩んだそうですが改めて障害について見つめ直して障害者が障害児を産むことこそ人生の最大の幸せだというように思ったみたいでそのことを僕に言っていました。ずっと忘れられない一言です。人生最大の幸せとまで言われて僕はとてもうれしかったです。

 めったに出会うことのない考えですが、つい半月ほど前に、両親に障害のある田所弘二さんからも同じような考えを聞いたばかりだったので、そのことを思い出していたところ、岳さんから次のように返されました。

 存分に話せてうれしいですが先生は何か知っているのですか。

 私の反応で、何か知っているらしいことはすぐにわかるのだそうです。そこで、「自分たちは新しい家族のかたちだ」と言い切った田所さんのことを説明しました。

 そんな人もいるのですね。とてもうれしいです。ずっと誰にも言えずに過ごしてきましたがそこまでわかっている仲間がいると力強いです。うちにはどうしてもそのことがあって人にはわかってもらえないところがあるのですが言えてよかったです。そうですね。それを話した人は初めてですね。先生は不思議な人ですね。存分に話せてうれしいです。さっきの人にも会いたいな。よろしく伝えてください。よろしくお願いします。僕の名前も伝えてください。

 岳さんの思索のいっそうの深まりを今後も期待したいと思います。
2012年8月4日 08時04分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G23区2 |
2012年08月03日(金)
理想と闘いについて
 Sさんの記した言葉を紹介したいと思います。高校3年の終わり、長い沈黙を破って初めて気持ちを言葉で表現したSさんのその後の歩みはめざましく、今や彼の周りには、お母さんをはじめとして50音ボードや筆談で彼の気持ちを聞くことのできるヘルパーさんなども増えてきました。その歩みを支えた彼自身の思いがここにはあります。

    理想と闘いについて

 銀色の風はなぜ私たちすべてに吹かないのだろうか。なぜ私たちは運に左右されて生きていかなくてはならないのだろうか。
 小さい頃から運命に翻弄されてきたからなぜ私たちをもっと理解してもらえないのかと悩んできた。わざわざ僕たちを勇気づけてくれる人もいたけどなかなかそういう人は現れなかった。ずるい考えをすることもなくひたすら人間として認められるためにはどうすればいいかを考えていたのでよい方法に出会えたときには本当にもうこれで人間として認められる日が来ると思ったけれどわずかな人しかわかってくれず、とても悲しかった。
 だけどこれこそが人間として生きていくことだと気がついた。
残念ながら僕たちにはまだ力が足りない。僕たちはもっと闘いを続けていくしか生きていく道はなさそうだ。闘いは決して人を傷つけるためのものではなく人の心にほんとうの愛を灯させるための闘いだ。
 小さい時からどこそこの誰と言われることさえなく生きてきた僕たちだが僕たちを受け入れる人に援助してもらいながらもっと闘いを続けていきたい。つらいとか苦しいとか、人間だから初めて感じられるものなのだから。
2012年8月3日 10時51分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G23区2 |