ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2008年06月24日(火)
自分との戦いと「くるしさからかいほうされたとき」:二人の少年の思い
 火曜日、二人の小学2年生の少年と会った。
 パソコンでの関わり合いが3度目になる◇◇君は、まず、「きてくれてありがとうすいっちがじぶんでやれるようになりたい」と手をしっかり支えられた状態で、2スイッチワープロとスライドスイッチを使用してすばやく綴った。彼にとっては、独力で文章を綴ることが自分で作った目標になっている。もう少し、この状態で気持ちを聞いておけばと思ったのは後の祭りで、彼の気迫に押されて、思わず、一人でやれる状況にした。今日用意した2つのプッシュスイッチは比較的よかったのだが、タイミングよく頷いたりするので、オートスキャン方式の1スイッチのワープロを見せてみたところ、俄然こちらが気に入った。残念ながら、スイッチ操作がまだうまくいかないので、なかなか単語を作るのもむずかしい。ちょっと手首を介助すればずいぶんと改善されるはずであることはわかるのだが、誇り高い彼は、そうした援助をきっぱりと拒否する。それは、幼い雰囲気をその表情に漂わせながらも、自分と勝負しているたくましい姿だ。「はいーといいえ」が明確に表現できる彼には、日常生活におけるコミュニケーションは、かなり円滑に進めることができるので、さしあたり、パソコンで何かを表現することよりも、一人で成し遂げることの方が、圧倒的に重要なのだ。今は、ただ、彼の誇り高い戦いを応援し続けることが、大切なのだと思った。
 昨日、大学の授業に二人の障害者がゲストで見えた。彼らは戦う障害者だが、私には、もっと大人になって、たくましく自己を主張していける彼の姿が、彼らの姿に重なった。
 パソコンでの関わり合いが2度目になる○○君からは、いきなり「くるしかったけどはなせることができてきもちがらくになりました。」という文章が出てきた。前回「ねがってきたきもちをつたえること うれしい ずっとまってきた」という思いと符合する。そして、悲しそうな表情をしながら次の言葉を綴った。「くるしいのはよくめがみえないことです。」4歳までは見えていたという。短い時間だったろうが、目でたくさんのものをとらえてきたにちがいない。その目が光を奪われた。
 助詞の「は」の使用や促音の使用など、見えなければ、学べないものも彼はしっかり理解しているようだ。そこで、どうやって覚えたのと尋ねてみた。すると、「かあさんがえほんでおしえてくれた。ちいさいもじのえほんがべんきょうになりました。」という答えが返ってきた。
 そこで、おかあさんにメッセージがあればと促したところ、「かあさんいつもありがとう。いつかしあわせにしてあげよう。ほんとうにかんしゃしています。」と綴られた。
 さらに、彼の言葉はこう続く。「さみしいときにいつもおもいだしていますくるしさからかいほうされたときのこと。くるしさのみのじんせいはいやです。」「くるしさからかいほうされたとき」とは、初めて文字が綴れた時のことを指しているのだろうか。その時を思い出している彼を想像すると、私もまた胸がしめつけられた。
2008年6月24日 23時40分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 家庭訪問 |
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関わりあいの見直し:青年学級にて
 障害が重いとされ、一見私たちの言葉を解さないように見える人との関わりにおいて、そういう人が実は豊かな言葉の世界を持っているかもしれないと考えて関わるようになったと、私はあちこちで公言してきた。そして、それは、私が参加している障害者青年学級でも例外であってはならない。しかし、これまでそのことを実践してこなかった方が一人、青年学級にいる。
 新しい年度が始まって、久しぶりに彼と再会した。これまでの、本気で語りかけることをしなかった関わり合いを改めなければと、会った瞬間に思った。
 彼は歩いて移動できるが車いすにのってやってくる。ほんとんど目が合わないため、意識しなければ語りかけのタイミングをつかむことがむずかしい。好きな物をいつも手に握りしめていて、部屋の中を歩いて、好きな物を、時には人の鞄の中からでも探し出す。まったく自分のペースで動いているように見えるので、それが、問題と感じられることも少なくない。実際、何度、彼の後を追い回って、その行動を制止してきたことだろう。
 「今日はティッシュにこだわりがある」とのご家族の言葉通り、手にはウェットティッシュと香りのよい除光液(?)のびんが握りしめられていた。
 朝の集いは、元気のよいマイクを使った司会者の声と大音量のギターやピアノの伴奏でみちあふれている。彼は、そんな時、よく不快そうな声をだし、腕をかんだりする。ギターの音は私の立てる音だが、ギターをかき鳴らしながらちらちら彼の方に目をやると、この日も、彼は不快そうな声を出していた。
 集いの後、今年度のコースを選ぶ時間があったが、その時間、床に座り込んでいる彼に、ずっと語りかけた。目立った反応があるわけではなく、これまでなら、途中であきらめていたところだが、語り続けた。そうしていると少しずつでもいつもとは違う間が生まれてきたような気がした。
 おもむろに、彼が自分の車いすの背もたれにかけた荷物をあけようとする。目的は、たぶんウェットティッシュ。これまでは、止めようとしてすったもんだして、結局負けてしまっていたが、今日は、一緒にチャックを開けてウェットティッシュを取り出した。いきなりわしづかみしそうになった彼に、一枚ずつとれるようにしたら、なんと、ていねいに3枚ほど取り出して、やめた。そしてその後もよく見ていると、ティッシュで手を拭いているようにも見えた。実際、香りのよい除光液は手につくとべたべたする。彼はただ手をきれいにしたかっただけなのかもしれない。はたしてこれを「こだわり」と見てきたのは正しかったのだろうか、そんな疑問がふとよぎる。
 コースに分かれてからも、彼に寄り添い続けたが、うつむきがちになるので、後ろから膝に抱えるようにすると背中を私にぴったり押しつけて穏やかにすわって、仲間を見渡した。ちょうど自己紹介のタイミングで、私が彼の名前と通っているところを紹介したが、彼の体はみんなに向かって開かれているように感じられた。
 別の方のトイレのために彼のもとを離れるとき、入り口で振り返ると彼の視線がこちらに注がれていて、どきっとするというようなこともあった。
 そんなふうに静かに流れた午前中の時間のあと、お昼ご飯の時、彼は、怒り出して、どうしようもなくなってしまった。せっかくうまくいっていたのにと、めげそうになったところで、仲間の女性が彼のコップにすっとコーラを注いだ。すると、それまでとはうって変わったような穏やかさでコーラを飲み干した。おいしい飲み物がほしかったことと、その差し出し方の自然さとが彼の心を和らげたのだろう。青年学級では、こういうことがよく起こる。本当の意味での対等ということが、私たちにはまだまだできていないようだ。
 午後、ひとときトイレで二人になった。3月でやめた所長さんのことや、お母さんの病気のことなどを語りかけると、彼は、低いうなり声をあげた。やはり話が通じているのかもと、思った瞬間だった。そして、トイレも彼自身のペースですませることができた。
 午後の活動の後半は歌をたくさん歌ったので、ギター担当の私は彼のそばを離れたが、歌っている間中、彼は穏やかに仲間の中に座っていた。
 そして帰りの集い、朝、あれほど不快そうにしていた彼が、がんがんとスピーカーから歌声や伴奏の音が鳴り響いていても、穏やかに車いすに座り続けていた。
 降り出した雨の中を迎えに来られたお父さんと交代して、彼と別れた。私は強く、また、次の学級日に会いたいと思えた。これが、彼との新しい始まりの一日になれば、と心から祈る。
 
 

 
 
2008年6月24日 22時33分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 青年学級 |
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