言葉で気持ちを表現することを巡って、今日も、たくさんのことを考えさせられた。
高校生の○○さんは、「じのひょうげんのほうほうをおしえてもらってくのうのひびがよろこびのひびにかわりました」と綴ったあと、「すなおなじぶんになりたいとおもい がんばっていても なかなかみとめてもらえず だれかわかってくれるひとがほしいです」と思うように進まない理解にもどかしさを感じる気持ちを表した。彼女は、半年前の最初の出会いの日、「うれしいきもちです もうだめかとあきらめかけていたけれどきぼうがでてきました なぜわかってくださったのですか」と綴った方だ。そして「りかいがむずかしいのはなぜですかおしえてください」と私は問いを投げかけられた。答えに窮した私は、誤解されやすいからと説明をしたあと、率直に、手の運動やイエスとノーの答え方について、聞いてみた。すると、かりかりと頻繁に動く指の動きは、「かってにうごく」ということで、指をさかんに口にもっていく理由は「うごきをとめたいから」と明確な答えが返ってきた。そして、はいといいえについては、「めでうったえています なかなかうまくいきません」とのこと。「からだがうごかなくてもいろいろかんがえていてかんじています にんげんですから」と付け加えた。彼女のもつハンディの意味はなかなか理解されにくい。それが、いっそう彼女の理解を妨げているようだ。しかし、さらに、「でもわかってもらえてよかったです まだじかんがかかることはわかりました ねがっていればいつかかなうとしんじていきたいとおもいます」と結ばれた。
中学生の◇◇さんは、「てではなせてとてもかんげきしています ちいさいときからくだされたうんめいをどうしようもないとあきらめていましたが ねがいがかなってとてもくしんしてきたかいがありました」とどきっとするような言葉を綴ったあと、お父さんへの感謝の気持ちを綴り、「ふだんことばにできないのでやっといえました」とつけくわえた。そして、現在の心境として、「だれもわかってくれなかったからかなしかったけどいまはわかってもらえてごきげんです」と素直な思いを表した。
また、高校生の☆☆さんは、「りかいしていることがなかなかつたわらなくてこまっています」ともどかしさを表したあと、「ほんとうのきもちをわかってほしいほんとうのこころをわかってほしいゆめはきもちをみんなにわかってもらうことです」と綴った。○○さんと重なる思いである。ところで、☆☆さんは、文字を綴っている間に、何度か、パソコンのキーボードに手を伸ばした。残念ながら、彼女の現在の手の動きでは、キーを一つずつ区別して押すことはむずかしい。そして、大変申し訳ないことに、デリケートな機械だということで、その彼女の手を制してしまう。そこで、改めて、パソコンに手を伸ばした理由を尋ねてみた。そこで返ってきた答えは、「てがのびるのはぱそこんをやってみたいからです れんしゅうすればできるとおもっているから ぱそこんかってほしくてたまりません」であった。あまりにも当たり前のこの答えを、しかし、私は予想できなかった。○○さんのように、意図に反した動きではないかと思っていたからである。そこにパソコンがあれば誰だって手を伸ばしたいと思うはず。その当たり前のことさえ、見誤ってしまうほどに、私たちは、彼女たちのことをほんとうは理解できていないのである。
一つ一つの行動の意味も、また改めて私たちは問い直されているようだ。
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2008年6月28日 23時53分
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金曜日の関わりあいでのできごとから。
兄弟で関わっているお二人の男の子のうちの中学生の兄さんの方が母へ、次のような言葉を綴った。「にほんそばのおいしいみせをさがしていますが なかなかみつかりません。ねがいは おかあさんにおいしいそばをたべてもらうことです。くるしいときもかなしいときも いつもぼくたちのおせわでたいへんだから たのしんでもらいたいとおもいます。てがうまくつかうことができたら おかあさんにいろいろやってあげたいとおもうけど どうしてもうまくいかないのでかなしい。のぞみをかなえてもらえるとしたら おかあさんによゆうのあるせいかつをしてもらいたいし もっとたのしいことをいっぱいみつけてほしい。」中学になった兄さんの、母への思いは、深い。「おそば」というのはほほえましい感じだったけれど、それに続く言葉は、切実なものだった。母から兄弟へ向けられた深い思いと、それに劣らない兄さんから母へ向けられた思い。ただ感動させられるのみだった。
そして、さらに、兄さんは、「めをつぶるとよくみえるさんたのようなともだち」についても語った。そのともだちは「すてきなともだち」で「げんきなこどもにはみえません。ともだちにあえるのはともだちがみえるときだけです。」と説明をしてくれた。長い間、言葉によるコミュニケーションが閉ざされてきた子どもたちが、口々に語る想像上の友だち。「みえるとき」は限られているということのようで、想像上だからといって、いつでもあらわれるわけではないようだ。不思議なリアリティをもった存在のようだ。
高等部の○○君は、学校でのパソコンのことを綴った。最近、少しずつ、学校でパソコンを使い始めたということで、まだワープロはやっていないとのことだが、「すいっちがうまくできたら××××せんせいのじかんにできるかな。」とまず綴った。ワープロのスイッチの援助にはこつがいるので、そこをうまくクリアできたら、学校でもできるということだろう。ところで、学校には、みんなの仲間で亡くなってしまった◇◇◇さんのご両親が学校に寄贈したノートパソコンがある。10歳で亡くなる半年前から突然パソコンで語り始めた◇◇◇さんの思いを伝えていくためだ。○○君が使っているのは、まだ確かめていないが、もしかしたら、そのパソコンかもしれないとのこと。「◇◇◇さんものーとぱそこんおくってくれたのだからぼくねばりづよくがんばりたいとおもいます。」短い言葉だが、亡くなった友の思いを受け継いで、がんばらなければという熱い思いが伝わってきた。もう亡くなって3年あまりになるが、みんなの心の中に、◇◇◇さんは確実に生きている。
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2008年6月28日 01時13分
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