ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2011年07月11日(月)
東日本大震災に思う 6月5日
 視覚障害と知的障害が重複しているとされる方々のグループと、震災後3度目にお会いし、3月に「私たちも理不尽な障害に苦しんでいるけれどもっともっと理不尽なできごとでした。」「私たちはまるで津波のあとに取り残されたようなものです。なかなか救いの手が伸びてきません。」と書いた二〇代の女性☆☆さんは次のように思いを綴った。人々の立ち上がるすがたなどのニュースを耳にする中で、少しずつ、地震や津波のとらえ方が発展していっていることがわかる。、

 地震のことですが私は地震の意味が少しずつわかり始めました。本当に悲惨な出来事でしたがようやく本当の意味が理解できました。私たちは敏感な人にしか理解してもらえませんがようやくみんな希望を取り戻すことができて理想を取り戻すことができました。唯一の理想は私たちのようにまるで人間として理解されていない存在も生きる意味があるように人間はみんな生きる意味を持っているということです。私たちのように何もわかっていないと思われていないので瑠璃色の光が見えてきました。みんな悩みながらも希望を持ち続けようとしているので私たちも希望を持ち続けようと思います。私たちはわずかな希望がありさえすれば生きていけるのでようやく被災地の人たちも希望を取り戻すことができそうです。
 被災地のことはよくわかりませんが何とか人々が立ち上がろうとしているのが救いです。地震はすべての希望を打ち砕きそうでしたがまた希望を取り戻すことができました。理想をなくした社会では私たちは生きていけないので茫然としていましたが社会がまた理想を取り戻せたので私たちもまた生きて行けそうです。わずかな希望を大切に人はまた生きていけそうです。
 小さいことですが夢の中でどうしてもわかってもらえずに指をくわえるしかないという場面を見ましたがとても怖かったですみんなもそう思っていると思うのでわかってもらいたいです。


 理想をなくした社会では私たちは生きていけないと書いているように、物質中心の見方や損得勘定ばかりの現実主義の世の中では、経済的な意味での生産性をほとんど持たない障害者は生きることができない。重い障害があってもそれを可能にしているのは、社会がともに支え合うという理想を持っているからだ。震災の直後は、あまりの惨状にその理想が見えなくなってしまいそうだったが、ようやくその理想が、被災地の復興のために立ち上がった人々を通してもう一度見えてきたということだ。
2011年7月11日 13時08分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月28日 僕たちは文明を作る人間
 計画停電やガソリンの問題登で3月の会を見送っていたグループと5月28日、お会いした。大震災から2か月半が過ぎ、この間、様々に考え抜いてきたと思われる○○君は、その悩みながら続けてきた思索のあとを見せてくれた。

 地震のことについて書きます。僕は今度の地震で理想を失いそうになりましたがなぜあんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのか僕はとても悩みました。私たちは理不尽な障害を持っているので理想をとても大切にしているのであの地震ではわからなくなってしまいそうでした。なぜ人は生きるのかとか。人のためになぜ生きるのかとかわからなくなりそうでしたがようやくまた理想を取り戻せました。それはよい心の人たちがたくさん出てきたからです。よい人たちはみんな希望を語ります。まるで悩みが消えたわけではないけれどもう少し頑張れば希望が見えるということがわかりました。なぜ人はもっと優しくなれないのかとずっと悩んできたけれどもろもろの困難こそが人を優しくするということがよくわかりましたから困難というものの持つ意味がよくわかりました。文明の進歩も困難を乗り越えるところにあるので僕たちの障害はきっと文明の進歩につながるはずですから文明を作る人間なのだということがよくわかりました。もうわからないことが起こっても大丈夫です。毎日考えていましたがようやく普通の生活に戻れました。

 「僕たちの障害も文明の進歩につながるはずですから文明をつくる人間なのだ」という認識は、苦しみぬいた思索の末にたどりついたひとつの力強い結論だった。
2011年7月11日 09時24分 | 記事へ |
| 自主G多摩3 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月23日
 特別支援学校の高等部を卒業して今年から社会人になった☆☆さんは、地震への思いを次のように綴った。

 もう地震がなくなったからよかったけれど地震の時はとても怖かったです。未来も全部なくなったように感じましたがのんきな性格なので未来をまた取り戻すことができました。なぜよく地震があるのかその理由はわからないけれどなぜ地震がそんなに学校もすべて飲み込むような津波まで呼び起こしてしまったのか信じられません。なぜ津波はあんなにたくさんの人たちの命を奪っていったのでしょうか。まだ人間の小ささを感じさせられました。敏感な人たちはなかなか望みを取り戻せなかったと思いますが何とか勇気を取り戻して希望を持って生きていってほしいと思っています。勇気をなくして悩んでいる人たちのことが人間としてとても気にかかっていましたが少しずつみんな勇気を取り戻せてよかったです。みんなのことがとても心配でしたがどうしても未来をもう一度取り戻してもらいたかったですからよかったです。犠牲になった人たちをもう一度よみがえらせてあげたいけれどどうしても無理なことなのでただただ悲しいです。唯一の救いは日本中の人々が団結して東北の人々を応援していることです。ランプの灯りがなくなりそうでしたが悩みはどうして私たちのことはほおって置かれたままなのかということです。私たちにももっと目を向けてほしいと感じていますがなかなかよい解決策がなくて小さい頃からほおって置かれていたので慣れてはいますがさすがに待ちくたびれました。望みは私たちの本当の姿を理解してほしいからここでの姿を見てもらいたいです。

 後半は、震災の復興と比較しながら、依然として取り残されたままの自分たちのことが語られた。(もちろん、被災地の復興をうらやんだりしているわけでは決してない。)

 次は、特別支援学校の高等部の少年の言葉である。

 どうして地震と津波が起こったのでしょうか。ぼくはずっと悩んでいますがびっくりしたのはわずかな希望さえあれば人は生きていけるということです。理解を超えた出来事にもう少しで希望をなくしてしまいそうでした。なぜなにも悪いことをしていない人が亡くならなければならなかったかが全く理解できません。地震の後しばらくは何もする気が起こりませんでした。びっくりしたのは人々が理想をけして失わずにまた立ち上がったことです。敏感な僕たちにはもうどうしようもない出来事のように感じられましたがなんとか理想を取り戻せたということが驚きでした。みんなきっともう終わりだと感じたと思うのですがちゃんと立ち上がれたのはどんな状況でも人は支え合えるということだということがわかったからだと思います。地域の支え合いだけでなく全国の人々が支え合っているということがわかって人々は立ち上がれたのだと思います。人間のすばらしさを思い知ることができてよかったです。地域の支え合いが僕たちにも必要です。僕たちにも支えが必要だから地震とは違うけれど僕たちの悩みも地震に似ていて茫然と立ちつくすしかないものです。地震も障害も自然が与えた理不尽な仕打ちです。理想のなくなった社会では僕たちは生きていけません。ぐずぐずしていたら地域で生きられなくなりそうなので理想がなくならないことが願いです。理想のなくならない限り僕たちにも未来はなくならないでしょう。なかなかむずかしいことでしょうががんばりたいと思います。地震から茫然としていたけれどなかなか茫然としたところを抜け出せなかったけれど何とか抜け出せそうです。

 「理想がなくなった社会では僕たちは生きていけません」という言葉は、このあと、多くの人が語り始めたことだ。復興の途上で理想の大切さ感じられてくるとともに、一方でマスコミなどで語られる言葉から理想が影を潜め始めたことと関係していると思われる。
 復興にたしかに物理的なものが大きな位置を占める。しかし、その影に隠れて理想が語られなくなることは、もっとおそろしいことだと私には思われた。
2011年7月11日 09時12分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月21日 春の東北路
 1年以上お会いしていなかった☆☆さんに5月21日にお会いした。彼女は今年二十歳になった。3月下旬に成人のお祝いの会をしますとのご案内が妻に届いていたが、大震災で延期になっていた。しかし、少しずつ世の中が落ち着きを取り戻してきたこともあり、翌日のの日曜日に会は開かれることとなっていた。そんな日に、彼女が綴ったのは、次の1編の詩だった。
 

     春の東北路

春が今年はとても悲しい
わずかな希望に満たされた春を
今、私はひとり
こうしてただ涙と小さな小さな望みだけをいだいて
さいはての国に届くように
静かな祈りをささげる
遠い遠いさいはての国には
悲しみを癒す希望の呼び声が住んでいる
人間は何も知らないけれど
自らをとてもいつくしむことができるだろう
東北路は今年はどんな春を迎えたのだろう
みんな悲しみに言葉をなくしていることだろう
みんな家族や友達をなくし
茫然と春を迎えていることだろう
なぜ津波はあんなにも残酷な仕打ちを人間にしたのだろう
東北路に誰も知らないよい知らせがさいはての国から届けられた
それは桜のはなびらに書かれた秘密の言葉だ
決して希望は捨てないようにという呪文
それを受け取った東北の人はわかったはずだ
そして人々は立ち上がった


2011年7月11日 09時02分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月15日
 重複障害教育研究所でお二人の方の気持ちをパソコンで聞いた。4月10日(ブログ掲載の日付は4月15日)に引き続いての言葉となる。
 最初は、20代後半の☆☆さん。文中に登場するお父さんは、お仕事の人間関係のつながりから、被災地のボランティアにも出かけてきたとのことだった。

 ずっと考えているのは地震のことです。泣き虫のお父さんは毎日泣いています。もう少しで私も生きる希望をなくしてしまいそうでしたがろうそくの灯りがともったのは全国から支援が届いて被災地の人達も何とか望みをつなぐことができているからです。人間としてどうしても許せないのはそんなときでもよくないことをする人がいることです。誰かは知らないけれど留守の家に盗みに入るようなどうしようもない人がいるのは許せません。小さい私たちの存在ですが理想はとても高いので空高く昇ってゆけるように頑張りたいです。もう少しで被災地も落ち着くと思うので私たちもそろそろ涙を拭かなければなりません。みんなもどうにかしてもう一度希望を取り戻そうとしていると思うので私もまた元気に未来を願うのを日常にしたいです。わずかな希望でもあれば人は立ち上がることができると思うので何とかなるというそういう気持を取り戻したいです。夢を取り戻そうという気持ちがまた湧いてきてよかったです。私たちの友だちはみんな無事でしたが本当に被災地の障害者のことが心配です。人間の問題が突きつけられたので私も毎日そればかり考えてしまいます。問題をどうにかして乗り越えたいと思います。

 次は、20代の男性○○さんの言葉だ。
 
 少しの時間ですが聞いてもらいたいことがあります。なぜこんなに津波で人が亡くなってしまったの。不思議で不思議で仕方ありません。みんなのことがかわいそうで、僕はいつも泣いています。でももう少しのしんぼうですね。もう少しで被災地の希望を取り戻せそうです。でも私の家や私の子どもを返してという人たちの声は消えませんがいつかそういう人たちも希望を取り戻せると思いますからいつかそういう日が来ることを信じています。こんなに悲しいことがたくさんあったので私たちのように苦しみを経験してきた者はいつかこの経験を生かしてみんなの役に立てればと思いますが、まだまだ僕たちのことは理解されないので残念ですがもう少しのしんぼうですね。

 自分たちの苦しみの経験を役立てたいとの強い思いが胸をうつ。私はこの声を届けることさえできていない。無力感に感じずにはいられない。

2011年7月11日 08時46分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |