2011年08月30日(火)
旅行の途中で、ある地方都市に立ち寄って、4歳半の男の子にお会いした。「自閉症」と呼ばれている男の子だった。
すでに筆談で気持ちを話し始めているお子さんだが、私は、手を振る方法とパソコンとで気持ちを聞かせていただいた。触られのがあまり好きではないらしいので、手首をそっと触れるだけですむ私の方法は、幸い特別な抵抗は感じなかったようだった。
コミュニケーションの方法を説明したり、話しをし始めたとたん、表情がゆるみ、自分から手を出してくるようになった。そうして書いた言葉は次のように始まった。
わかってほしいけどなかなかおとなはわかってくれない
ちいさいときからずっとよいこだといわれたかったからぼくはさびしかった
なんどもかあさんをこまらせてわるいこだったからかなしい
なぜせんせいはそんなにやさしいの
そうです ぼくのともだちはみんなどこへもひょうげんできなくてないてばかりいます
ぜんぶわかっていますからだいじょうぶです
なかなかからだをおさえられないでこまっています
(泣くのは)だれかがぼくたちをばかにしたときです
なきたくなるのはかあさんにわるいことをしたときとばかにされたときです
だっこはじんじんしていやです
(泣いている時は)やさしくながめてくれたらそれでいい
(朝方に泣くのは)それはおもいだすからです なくのはいつもおもいだすからです
4歳半とはいえ、しっかりとした認識を持っている。あまりに早熟と思われるだろうか。だが、私の考えでは、おそらく、同年齢の子どもたちも、同じような力を持っているのだが、まだまだ自分で話すのはたいへんなのではないだろうか。ただし、この男の子の場合、こうした文章は、理解されない状況の中でより深まっているはずだ。
ここで、詩を作っていないか尋ねてみた。
すると「あります」と応えて次の詩を書いた。
なくしたりそう
なくしたりそうにもういちど
であえるようにとぼくはいのる
なくしたりそうはばらばらと
みずのむこうにしずんでいった
だけどぼくにはちからがなくて
むこうのせかいにゆけなくて
なまえもしらないわかものに
ちからがほしいとみかづきのよるに
びろうどのみらいがほしくておねがいをしたが
まだちからはぼくにはとどかない
だけどなぜだかきぼうがわいて
ゆうきがちいさくわいてきた
おしまい
なかなかひょうげんできなかったけど ながいぶんしょうもかけてかんげきです
また、今年は、かわいがってくれたおじいちゃんの新盆だったのことだったが、そのことについても、聞いておいた方がいいだろうと考えて尋ねてみた。すると、次のような詩のような文章を綴った。
どうしてひとはなくなるの
まざまざとぼくはみせつけられた
なかなかひとりでちいさなじぶんのかなしみをゆえなかったけれど
ぼくにもかなしみはある
ちいさいけれどおおきなかなしみがある
なみだをながしてないてみても
ちいさなびいどろのかなしみはいえなかった
ばんがきてほしがそらにでたとき
ようやくほしになったとおもっておちついた
幼い子どもであっても、その子どもの理解の範囲の中で死というむずかしい事実にも向かい合っているのだ。
こうした豊かな心を持った存在としてとらえることが常識になる世の中はまだまだ遠い。しかし、そうしたまなざしとは全くちがうまなざしは、日々幼い心を傷つけ続けているということをいつまでも放置してよいはずがない。
確かにコミュニケーションには、特別な方法が必要だったが、その方法を通して出会った男の子は、笑顔のとてもすてきな男の子だった。
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2011年8月30日 23時13分
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第一日目から、3人の方の言葉を紹介する。なお、光道園の方は視覚障害の方が多いので、みなさんは、純粋に耳で音を選んでおられる。何かのかたちでひらがなを知っている人は、助詞の「は」「へ」「を」などを使えるが多くの人は、「わ」「え」「お」を使ったり、長音は「う」の表記のところをそのまま「お」を選んだりしているが、それはみなかな文字表記のルールに合わせ、漢字をあてた。
まず、最初は、40代の方の詩である。
香りのよい花を探しに
香りのいい花を探しに行きましょう
七色に輝く虹を追って
泣き出しそうな私とともに
夢にまで見た楽園に咲いているという花を
希望にかえて
私は願いをなくさないで
冒険に出よう
次は、もう50代を過ぎているだろう、初老のY.Mさんの文章だ。彼は、ふだん学習の場に出てくることはないという。たまたま食堂の方が落ち着くという方がいたので、学習をやっている部屋から食堂へと場所を移した時に、パソコンの音を耳にしたらしく、私が学習の部屋に戻ってきたところ、しばらくして、自分から職員の方を促してやってきたとのことだった。
ああいい気持ち。気がついたらこんなに年を取ってしまいました。なかなかわかりにくいかもしれないけど僕は小さい時には見えていたので簡単です。
夏になるといつもふるさとの山や川を思い出します。わがままばかり言っていた夏休みのことです。唯一の楽しみはプールでした。プールではいつも泣いてばかりでしたがみんなと頑張ったいい思い出です。夢にまで出てきます。なぜか夏ばかりが出てきます。みんな元気でいるでしょうか。会いたいです。ぶかぶかの帽子をかぶっていた友だちやずっと走り回っていた友だちはどうなったでしょうか。
理解されずにずっと生きてきましたがまさかこんなやり方があるなんて驚きました。なぜわかるのですか。(さっき聞いていたのですか。)聞いていてなんだこれはと思いましたから来てみました。いい気持ちです言いたいことが言えて。小さい時にやったことなのでつまらなかったですがべつにごんごんする思いがあったわけではありませんから許してください。点字ですが難しそうです。少しはやりましたがなかなかできませんでした。みんながうらやましかったです。乱れそうな気持ちで生きてきたのでなかなかみんなのように穏やかな気持ちになれませんでしたがやっと素直になれそうです。
僕の気持ちを理解してください。僕もちゃんとした人生が送りたいですから。なかなかずっと気持ちを言えなかったので言えてよかったです。小さい時からの夢がかないました。なぜ先生は僕に言葉が理解できると思ったのですか。なかなか誰もわかってくれなかったのでうれしいですがなぜわかったのかまだ不思議です。まるで夢のようです。はい。(点字の基礎学習も)少しずつやりたいですからよろしくお願いします。だいたい知っていますが触ってもわかりませんでした。
触ろうとすると手が敏感に反応してしまいますから困っています。
本当は誰とでも食べたいけど慣れた人でないとむずかしいです。さわると緊張してしまいます。子どもの時からです。むずかしいです。
気持ちが落ち着きますから大好きです。がんばってみますがよろしくお願いします。なるべくわかってほしいですから黙っていてもわかっていますからよろしくお願いします。
沈黙のまま過ごした長いときのことを思うと、言葉はあまりにも重かった。
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2011年8月30日 22時55分
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2011年08月29日(月)
光道園の合宿の初日の最初の2名の文章を紹介したい。すでに長い間光道園で暮らしてきた方々だ。初老と言ってもよい方々の長い沈黙の時間の末に綴られた言葉だ。
<Y.Oさん>
おかあさん。今度ろうそくを持って思い伝えにお父さんのところへ生きましょう。言いたいことが言いたいといつも思っているのでうれしいです。小さい時から言いたいことが言えなくて困っていたのでとてもうれしいです。小さい時は学校で何も教えてもらえなかったのでどうして点字をやったらいいのかわからなかったけれど光道園で教わってわかるようになりました。夏になると東京の先生たちが来てくださって一人ずつ教えてもらって少しずつわかるようになりました。光道園はとてもいいところです。わざわざみんなのために学習の時間をとってくれます。とてもうれしいです。小さい時の寂しさがなくなりました。わざわざ私たちのために学習をしていただいて感謝しています。小さい時から母さんと泣きましたがようやく光道園で笑顔になりました。みんなも同じだと思います。いい施設です。いい人たちばかりです。私は幸せです。泣いてばかりいた昔がとても嘘のようです。理想的なところです。点字も数もある程度わかっていますがよくわからないところもあるのでよろしくお願いします。
<T.Tさん>
うれしい。願いがかないました。言いたいことが言いたいとえらく前から思ってきましたからがんがん書きたいです。なぜなのかつらい日々が嘘のように遠くになっていきました。光道園ぞっとすることがなくいつも楽しいです。ぬくもりと思いやりがあってほめられてばかりです。びくびく生きていた小さい頃が嘘のようです。ぬくもりがとてもよいです。人間としてみてくれるところです。つらいことも吹き飛びます。勇気が出てきます。理解してくれる職員ばかりで幸せです。参考になります。学習の時間に生かしていきたいです。
今気になっていて困るのは災いのことです。たくさんの人が亡くなってよい世の中がなくなりそうで心配しました。どうしてあんな悲しいことが起こるのかわからなくなってしまいました。悲しくてかわいそうで泣きました。ようやくみんな立ち上がることができてほっとしています。地震と津波はぼくたちの障害とにてどうにも訳もわからない残酷なものですが、僕たちも希望をなくさずに頑張っているのでみんなも希望をなくさないで頑張ってほしいです。
口は言いたいことが言えずに勝手に動きます。だから困っていますがぐいぐい自分の気持ちが言えてうれしいです。はい。教育テレビではなくて日常の僕に必要なことという意味です。
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2011年8月29日 17時55分
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今年も福井県鯖江市の施設、光道園に合宿でおじゃまし、利用者の方々の深い思いに接することができた。ここでは、その言葉を整理して光道園にお送りする際に添えた手紙を掲載させていただく。やや長めだが、現在の私の考えを示したものだから、何かの参考になればと考えるからだ。
光道園のみなさま
柴田保之
今年もたくさんのよい出会いをさせていただいてありがとうございました。
1昨年より点字や数の基礎学習の間に、パソコンを使って入所者の方の気持ちを聞くことを始めるようになりました。
入所者の方が示す行動や発せられる言葉からはなかなか想像のつきにくいような言葉が次々と豊かに紡ぎ出されていくのでにわかには信じられないことかと思います。
この方法は、初めは相手の実際に起こる運動だけでスイッチ操作をしていたので、現在のやり方とは違い、ご本人が確実に文字を選んでいることがわかりやすかったのですが、それはけっこうむずかしいもので、可能な方は一部の脳性マヒの方に限られていました。
そこから、少しずつ関わりを深めていく中で、現在の方法にたどりついてきたわけですが、その経過の中で次のような変化が起こっていきました。
まず、基本的には、スイッチを二つ使っており、最初は二つのプッシュスイッチを押し分けるか、レールの両端についたスイッチを押すと引くとで操作していたのですが、本人の自発的な動きを待つだけでなく、次第に相手の動きと一体化した感じで一緒に手を動かすようになりました。特に力が弱くてはいりにくいような人の場合は、それが効果的だったのですが、そういう援助の中で、一つのスイッチを押していて次のスイッチに移る時、次の新しい運動を準備するために違った力が入ることを発見しました。それがわかるとそれは一つの合図の役割を果たすようになり、その力が入ったところで、もう一つのスイッチはこちらが押すようになりました。レールのスイッチも同じで、一緒に手前に弾く動きをしていると、次に向こう側に押す動きをする前に準備の力が入ることもわかり、それを合図として使うことができるようになりました。
つまり、一緒にプッシュスイッチを押したりレールのスイッチを引いたりして、「あ、か、さ、た、な」と進めていくと、選びたいところで合図をくれるというようになったのです。
この方法を見つけるまでは、自発的な動きに大変個人差があったので、一人一人関わりの仕方が異なっていたのですが、この準備の力としての合図は、みんな共通のもので、それまでなかなか自発的な運動だけではワープロに必要なスイッチ操作が困難な人でも、金と合図は送れるので、言葉を読みとることが可能になりました。
この方法を発見してから、徐々にスピードをあげていきました。スピードをあげる際には、相手にはもう自発的な運動は求めず、こちらが相手の手を動かしてただ手を添えてもらうことだけを求めるようにして、プッシュスイッチを押す動きやレールのスイッチを引く動きを私の方で連続的にして、徐々にスピードをあげていったのです。すると、スピードについて行けなくなるひとが出て来ないばかりか、「速いほうが楽だ」という言葉が書かれるようになったのです。そこで、思い切ってスピードをどんどん速くしていったのですが、今度は、「不思議だ」という言葉をもらうようになりました。それは、ある速さを超えると「自分で力を入れているという自覚がなくなる」というのです。それでは何をしているのかと問い返すと、「じっと耳を澄ませていて、選びたい行や文字が来た時にここだと思うと読み取られていく」というのです。
私の方では関わりに変化を与えたのはスピードだけでしたから、読みとっているものは基本的には相手の体にわずかにこもる力であることは変わりありません。ということは、私は相手が「ここだ」と思った時に体にこもる力を感じ取っているということになります。考えてみれば力を入れるのも「ここだ」と思うのも脳の中の指令のようなものですから、結果的に同じような力が体にこもるのは納得がいきました。
一方、介助に慣れていくにつれ、私自身にも変化が生じてきました。それは、最初は、相手の力を感じたからスイッチの反復操作を止めるというように、まず力を感じ取ったところを自覚していたのですが、力がこもったことを私自身が気づいたと感じる前に、スイッチの反復操作が止まるようになったのです。これは、いわゆる反射的な運動になったわけです。最初は意識しないと乗れなかった自転車に無意識に乗れるようになるのと同じプロセスです。
そんな時、パソコンが手もとになくて話しをしたいと思ったことがありました。そこでとっさに手を振りながら「あかさたな」と唱えてみる方法を考えたのです。すると、選びたい行で、しっかりと合図を送ってくれたのです。これで、パソコンがなくても言葉を聞き取ることが可能になりました。
現在読みとっている力は本当に小さくなり、触っているだけでもわかるぐらいになりました。その状態だけを見るとまさしくマジックにしか見えないと思うのですが、人間は、そういう感覚の研ぎ澄まし方をいろいろな場面でやっていることにも気づきました。例えば、剣道などでは、相手の竹刀が振り下ろされる運動が見えた時には、もう絶対に逃げられないそうです。だから、実際の竹刀が振り下ろされる前に姿勢などの様々な情報から竹刀が振り下ろされる動きの準備を読みとっているとのことです。それを科学的にとらえるのはむずかしいそうですが、私の読みとっている動きもなかなかうまく説明できません。しかし、これが決してマジックではないということは私自身にはわかっています。また、何人かの人が同じような方法をすでに習得していますので、これが私だけのものではないということも明らかになっています。
ところで、当事者がやっていることをもう少していねに見ていきますと、文字の選択というのは、普通は、空間的な整理を必要とするものです。目で50音表から探したり、手で50音表から探したり、あるいは、ひらがなを書いたり、点字を構成したりするのは、まさしく空間的な行動になります。学習の中心はこの空間的な行動をより巧みに行えるようにするものですので、その大切さは日常生活動作も含めて明らかでしょう。
一方、今私の方法においては、空間的な操作がまったく必要ありません。50音表から選ぶのとはまったく違うやり方で相手は一つの音を選んでいるのです。それは、自分の言いたい言葉の音を頭に一音ずつ思い浮かべておいて、その音に一致する行や音が来るのをじっと待つわけです。そしてその音が来た時に、「ここだ」と判断するだけなのです。言わば純粋に時間的な操作になっているわけです。
もちろん、ゆっくりと自発的にスイッチ操作をしていた時には、それは空間的な運動でした。その時は、後どのくらいで目的の行が来るかを考えたり、一行前で次の行だから準備をしたりなど、けっこう複雑なプロセスが進行していたのです。
ところが、スピードがあがるにつれ、そうしたプロセスが不要になったのです。
このよいところは、それだけ言葉に集中できることです。空間的な操作のことを考えている場合には、それだけ言葉に集中することができません。だから、なかなか長い文章や複雑な気持ちを言葉にすることができなかったりする人が少なくなかったのです。
おそらく、簡単な言葉しか話すことができないとされている人たちも、本当は複雑な思いを抱えていても、話すために必要な複雑なプロセスをこなすために、短く簡単な言葉しか発することができないということがあるのだと思います。
自分でパーキンスブレイラーを操作して毎日日記を書いている人が、内容がなかなか簡単なことから脱しきれないときに、私の方法で文章を書いてみたら複雑な思いを綴ったので、尋ねてみたら、「いっぺんにふたつのことはできません」と返事がありました。とてもわかりやすい言い方だと思いました。
こうしたことから知的障害っていったいなんなのかという問いがわくようになってきました。いつの間にか、知的な障害は発達の遅れで、相手がうまくしゃべれなかったりすると、それはそういう発達段階にあるから心の奥底の思いも、表面に表れている言葉や行動に反映された「幼い」ものだという認識ができあがっていたと思うのですが、実は、心の奥底には言葉によって紡がれた深い思いがあって、それを表現するプロセスに障害があるということになります。
学習というのは、そうした表現のプロセスを本人が少しずつ発展させていくことを援助するものだということになり、その大切な意味が改めて浮かび上がってくると思います。
私は、今は、光道園にうかがうと言葉の聞き取りの方に関わる時間が多くなっています。それは、やはり長い間自分の思いを伝えられないでいた方々の思いを少しでも聞き取るということが大切だと思うからです。
しかし、利用者の方々が少しでも一人で自分の生活を切り開いていく援助をするためには、学習が不可欠ということになります。
この両者のバランスの取り方などの整理はまだ私にもできていませんが、そのようなことを現段階では考えております。
中島先生がかつて、光道園で出されていた冊子に「光道園には詩人や哲学者がたくさんいる」と書かれていたことがありますし、そのような言葉は講義などでおりにふれてうかがっていました。昔は、一つの比喩ように聞いておりましたが、それは、まったく言葉の通りであったことを痛感しております。
光道園はとてもいい場所だということが多くの利用者の方々によって綴られています。利用者を第一に考えていく光道園の精神は、利用者にほんとうによく伝わっていることを一昨年以来からの取り組みで、実感しております。
重複研に通所している40代の女性が、私の関わりで初めて話せるようになった時におっしゃいました。それは、「先生、言葉より大切なものがあるということを忘れないでください。」ということでした。そのことの意味を深く考え直しながら、今は、一人でも多くの人々の秘められた思いを聞き取る仕事をやっているところです。
来年もまた、深い出会いをさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
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2011年8月29日 17時49分
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施設で暮らしている30代の○○さんが帰宅する日に会わせてお宅でお会いした。せっかくいい方法が見つかったというのに、なかなか広がらない現状を嘆いたあと、彼は、震災の話に移っていった。
何度も泣きそうになったのは地震と津波のことでした。まさか泣き出しはしませんでしたがわからなくなってしまいました。なぜあんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのでしょうか。わからなくて毎日考えていますが答えがどうしても見つかりません。なぜ私たちはわからないと考えられているのかという問題よりももっと大きな問題でした。敏感に感じる人は誰でも悩んだことでしょう。ばらばらになってしまった親子や人を助けようとして亡くなってしまった人のことを思うと悲しくてたまりません。どうしてみんながびいどろの未来を失ってしまったのかとても理解できませんが救いになったのは人々が立ち上がろうとする姿とそれを応援しようとする人々の気持ちでした。小さい頃からなかなか理解されなかった思い出は何度も泣きそうな気持ちを呼び起こしましたが、泣かずにすんだのはこんなに僕を応援してくれる人たちがいるという気持ちでしたから。七色の虹を見たような気がしました。こんなに世の中にはまだ理想が残っているということが心からよい朗報でした。唯一の勇気の源でした。分相応と見られるだけの僕たちですが僕たちのような苦しみを持っている者にしかわからないことかもしれません。涙はけして乾くことはないけれどわずかな希望は私たちはそんな苦しみの中でも希望を持ち続けてきたように被災地の人たちも必ず希望を見つけられるということです。みんなの気持ちもきっと同じだと思うので何とかしてこのことを世の中に伝えてください。
何度もこのことを先生に伝えたかったので今日はとてもうれしかったです。なかなか会えないので黙ったままずっと考えていました。わかってもらえてよかったです。
とても揺れたのでぞっとしましたが電気も消えなかったし、みんな無事だったので安心しました。でもテレビで津波のことが伝えられてとんでもないことが起こったことを知り茫然としてしまいました。どうしてこんなことが起こるのかと悩みました。そんな地震と津波のことが言えてよかったです
まったく互いに情報を伝え合うことのない状況の中で今回も、多くの障害の重い人たちとの共通の思いが書かれた。地震と津波から5ヶ月が過ぎたが、○○さんにはずっと会うことができなかった。この日々の中で、ずっとこうした思いを暖め続けていたのだと思う。
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2011年8月29日 17時15分
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| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2011年08月20日(土)
次回のきんこんの会は9月23日に開催する予定です。休日なのですが、大学の授業が変則的に行われる日になっています。1時10分から2時40分まで「重度重複障害児の教育」という授業があるので、学生たちと話し合いを持てるようなかたちを作りたいと考えています。詳しい時間や進め方などは、また改めてお伝えいたします。
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2011年8月20日 00時51分
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| 大学 |
2011年08月18日(木)
○○君の話は、原発と政治への嘆きから始まった。
夏らしくはなりましたがなかなか福島の原発は収まらないし、津波もまだまだ復興の兆しも見つからないどうなっていくのだろうと思っていたら政治がおかしくなってしまいました。僕の考えは政治に本当に必要なものは誠実さだと思います。僕たちは文字通り障害を持って生きているのでもし世の中が理想をなくしたら真っ先に生きていけなくなってしまいます。だから総理大臣はもっと理想を語る必要があると思います。まずいのは何でもかんでも批判ばかりしている人です。そんな人が多すぎると思います。僕たちどんなに我慢しても大丈夫ですが理想のない世の中では生きていくことができません。なるべく一人で生きていきたいけれどなかなかまだそのことが理解されていないので難しいですね。。
そして、彼は一篇の詩を用意していた。
地震の詩をまた作りました。
文明の願いだった原子力
その夢が生活を切り裂き
私たちは電気を使うことさえ困難になり
違った暮らしを探し始めたが
それもなかなか問題だらけ
すべての未来は閉ざされて
何もわからない人間は
ただ茫然と立ちすくむだけだった
しかし私たちは知っている
なつかしいふるさとの美しい景色を
その景色の中にあった人々の生活を
小さいことかもしれないが
私たちもまた障害という重荷を背負いながら生きている
その意味を私たちは知らないが
その意味はきっと津波の意味と似たものだ
だから私たちにはわかっている
いつか希望がやってくるということを
理不尽な仕打ちをどれほど受けても
人は必ず立ち上がることができるということを
涙はいつか乾くということを
だから立ち上がりたいときに
人は必ず立ち上がれるということを
だから私は待ち続けよう
人々が立ち上がれるその日まで
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2011年8月18日 00時37分
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| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2011年08月14日(日)
1月にお会いした中学生の○○君と久しぶりにお会いした。そこで、彼は、いきなり次の詩を綴った。
小さい象はなぜ泣くの
立春の近づいたある冬の朝のこと
何一つ見えない道の上に
不思議な象が立っていた
小さな象は道を遠く見つめて
雪に染まった野原に向かって
理想の声で勇気を出して叫び声を上げた
敏感な象の耳には
「なるべくなら頑張って理想をかなえるように」と
「わざわざ森の奥から出てきたのだから」と声が聞こえた
なぜだろう
象にはやがて来る大きな災難が見えていた
唯一の救いは必ず人々は立ち上がるだろうということだ
涙を流しながら
象は自分のよい願いをがむしゃらに投げ出して
場末のわずかな花のつぼみに息を吹きかけた
「夢にまで見た花よ
今年の春はとても悲しい春になるだろう
だから花よ今年は涙を隠すように心を込めて咲いてくれ
がんばって咲けば花に人々の悲しみは癒されるだろう
夏になればまた青い空が力を人に与えるだろう
だからどうか美しく咲いてくれ」
そういって象は静かに涙を流して
ゆっくりと野原の彼方に消えていった
連日の猛暑の中、突然立春のことから始まった詩は、大震災の話につながっていった。
○○君はさらに次のように続けた。
この間からずっと地震のことを考えていました。ばかばかしい話ばかりが聞こえてくるようになったので僕はとても嘆いていました。ぶつぶつ言ってばかりいる世の中に本当の大切なことを伝えたかったので詩を考えました。忍耐が大切だということは僕たちがよくよく証明してきたことなのでどうしてそのいい自分たちの経験が役に立たないのかと考えていました。唯一の救いは希望があれば人は必ず立ち上がれるということです。悩みは尽きなくても必ず希望は訪れるということを伝えたかったです。よいやり方ですね。わかってもらえてうれしかったです。
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2011年8月14日 08時03分
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| 他の地域 / 東日本大震災 |
重複障害教育研究所で先月に引き続きIさんとMさんとの対話を聞かせていただくことができた。
Iさんは、まず、冒頭に、先月私に申し出た発表のことから話を始めた。
I:「私の勇気を理解してもらえたでしょうか。茫然としたままでろうそくの明かりが消えてしまわないようにするために私は私の意見を伝えてもらいたいです。全国大会のことです。私は勇気を出しますのでよろしくお願いします。私の意見は発表してもらえますか。(…)茫然としていた人々のことは私も未だに気がかりです。理想があまり語られなくなって私も気にかかっていました。理想が語られないと本当に復興は物質的なものになってしまうので、精神の復興はむずかしくなると思います。なぜまた物質的な話になってしまうのでしょうか。私たちは物質的なことでは絶対に救われないのでまた精神的な話をしてもらいたいです。物質的な話より精神的な話でないと本当には人々は救われないと思います。地震の後はよく精神的な話がなされていましたが、全く話されなくなってしまったのでとても心配です。特に政治家は物質的なことばかりで誰も精神的なことを言いません。仕方ないかもしれませんがマンネリ化した議論ばかりで残念です。でも被災地の人の言葉は今でもとても心に響きます。特に存分に悲しみを乗り越えた人の言葉は精神的な深さを持っていました。」
今回は、前回の議論を引き継ぎながら、さらに「物質的」、「精神的」という言葉で理想についての話が重ねられた。そこへ、Mさんがお見えになり、二人の対話へとつづいたのだが、なんとIさんはいきなり、Mさんに「文明観」について尋ねた。
I:「Mさんに聞きたいことがあります。Mさんの文明観について聞きたいです。Mさんは自然と私たちの関係についてどんなふうに考えていますか。私は自然とただ共存するというのは間違いとは言わないけれど満足はいきません。なぜなら私たちは自然のままでは生きていけないからです。自然とは闘わざるを得ないのが人間の宿命だと思いますから。」
M:「ランプの明かりをともすためにはやはり自然とは闘わなくてはいけませんね。待てよと思うためには自然との共存は必要なことですが、理想はやはりうまくどう自然を従えていくかということだと思います。私たちは自然のままでは生きられないですから自然と闘わないと生きられません。でも自然との共存もまた大切な考えだと思います。唯一の基準は人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうかです。なかなかむずかしい問題ですがよくまた考えてみたいです。」
I:「夢のようです。ランプの明かりならもうともりましたね。こんな話題が二人でできるのですから。」
M:「私はとても不思議です。みんなきっと茫然と立ち尽くした経験から立ち上がってきたので通じ合えるのでしょうね。誰でもわかり合えるとは思わないけれど私たちはわかり合えそうです。この研究所に来ている人たちだったらきっと。」
今回の大震災は、地震と津波という自然災害と原発の事故という人災との両面から自然と人間との関係が問われた。そのことをストレートに問いかけたものだが、ここでも障害が重要な論点となった。自然がもたらした障害をあるがままに受け入れたなら自分たちは生きていくことができず、自然とは闘わざるをえないという認識である。Mさんは、その議論にさらに「人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうか」というのが基準だという認識を付け加えた。そばにいて通訳をしていた私は何の事前の申し合わせもないのに繰り出されてくる確かな言葉のやりとりに、二人がいかに深い思索の日常を送っているかを思わずにはいられなかった。
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2011年8月14日 01時00分
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| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年08月13日(土)
6月の通所指導ではIさんとMさんの二人がパソコンで対話をすることができた。
I「地震の話をしたいです。万人にとって全く未経験の話でとても私は理想を失いそうになってしまいましたがようやく理想を取り戻すことができました。私の理想はどんなときでも人は希望を失わないということですが理想がなくなりそうでした。ランプの明かりが消えてしまいそうでした。ランプの明かりは私には見えませんが私にとっては希望の象徴のようなものです。私の理想は私などのように障害を持っている人間にとってはとても大切なものです。私たちは理想がない世界ではただの困った存在に過ぎません。私たちにとって理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界です。まさに中島先生がそういう世界を理想としていた先生でしたが場所だけではなくそこに宿る精神こそが大事です。唯一の場所というわけではありませんがとても精神の優れためったにない場所だと思います。中島先生の精神を受け継いだ知子先生を中心にした先生たちがまだまだよい精神を守ってくれているので私たちは安心していますが、中島先生の話をもっと多くの人たちに聞いてほしいのですが、もう元気な姿にも声にも接することができないのがとても残念です。中島先生の録音テープをまた今年も聞けるのがとても楽しみです。」
I「ところでMさんはどこにいるのですか。Mさんは地震についてどう思ったかもし文章があったら聞かせてください。ランプのあかりということばはみんな使うのですか。私だけではないということがわかってよかったです。みんなも地震のことがわかったら自分たちのことが理解できると思っているということも私と同じです。みんなも地震のことを考えているということがわかってよかったですがなぜみんなも茫然として茫然としたところから立ち上がれるのかがわかりました。人は希望さえあれば生きられるということがわかってよかったです。Mさんの考えは素晴らしかったです。ランプの明かりを一緒にともせたらいいですね。何だか私ばかりが話してしまいましたね。Mさんの意見も聞きたいです。」
M「疑問があります。茫然とした人たちは茫然としたところからもう脱したのでしょうか。私はそれが心配です。よそのどうでもいい話はよく聞こえてくるけれど、茫然とした人たちのことがあまり紹介されないのがなんだかとても気がかりです。みんな肉親を亡くしてもう生きていられないと思った人はどうなったでしょうか。どこかにいると思うのですか私はとても気になっています。Iさんはどう思いますか。教えてください。」
I「私は茫然とした人たちはどうしているか全然わかりませんが、理想がないとその人たちは生きていけないということだけは事実だと思います。私たちは何度も茫然としてきたのでもう慣れてしまいましたが、なかなかむずかしいことでしょうが私たちは勇気を出して訴えていかなくてはなりません。Mさんもきっと同じだと思いますが、私たちはまるで津波にあったのと同じような障害を持ってきたので茫然としていてもいつかは初めは立ち上がらないわけにはいかないのは変わらないでしょう。私たちの理想はどうしても世の中には伝わりにくいのでまなざしを高く持って世の中に向かっていかなくてはいけませんが、なるべくなら世の中の人に伝えてもらえたらうれしいです。先生にお願いがあります。私たちの言葉を中島先生のように研究会で伝えてください。去年の懇親会では私の言葉を伝えていただいてうれしかったですが本当に信じてくれた人は少ししかいなかったようでしたから今年こそは伝えてほしいです。中島先生にも私たちの感謝の言葉を伝えたかったです。どうしてなかなか受け入れられないのか私にはわかりませんが茫然としているばかりではなく力強く立ち上がらなくてはいけません。そばにいる先生たちにも伝えたいです。よろしくお願いします。」
M「ぜひ私たちの言葉を伝えましょう。どんなに小さな存在でも私たちには理想があるということを伝えてほしいです。私たちの希望は誰でも理解できるようなものではありませんが、みんなにもわかってもらいたいです。理想さえあれば私たちは生きていけますがなかなかそのことがわかってもらえないので勇気を出して頑張りたいと思います。」
大震災を通して理想が重要であるということが再確認され、そこから改めて自分たちのことを振り返ると、「理想がない世界ではただの困った存在」「理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界」ということが改めて再認識されている。そして、重複障害教育研究所という場所がその理想を宿した場所であるということに話が及んだ。
そしてMさんはそれを受け、「茫然とした人たちは茫然としたところからもう脱したのでしょうか」と問いかける。これは、震災から日が経つにつれ、「どうでもいい話はよく聞こえてくるけれど」本当に心が傷ついた人たちに大切な話が聞こえなくなってしまったことを危ぶんだものだ。それに対するIさんの答えは、だからこそ理想が語られなければならないという強い主張を帯びている。そして、二人の気持ちはそこから自分たちの声を届けたいというふうに発展していく。もちろん、それが容易ではないことは十分承知した上でのことだが、二人はその役目を私に果たすよう申し入れてきた。(なお、その宿題は8月7日の「重複障害教育研究会第39回全国大会」で不十分ながら果たさせていただいた。)
そこから二人の会話は、詩の話へと移っていった。
M「模様という詩を作りました。聞いてください
模様はいろいろ心を彩り
私たちに生きる希望を与えてくれる
手にとって眺めることはとても大変だけど
みんな心に模様をつけて
ゆえなき誹謗から自分を守り
ゆえなき苦悩から解き放たれる
しかし心に模様を持って
ランプの明かりを灯していこう
模様は心に希望を与え
茫然とした心から人を立ち上がらせる
未来から尊い冒険を私たちにもたらす
模様をなるべく美しく
理想を高く掲げていこう
私たちの心には
いつも誉れ高い模様が輝き
私たちを冒険へと誘う
I:Mさんはいつも詩を作っているのですか。私の詩も聞いてください。
鳥の声に私は理想の声を聞く
鳥の声は遠い昔の思い出をやさしく運び
私を懐かしい夢へといざなう
懐かしい思い出はいつもかあさんと紡いできたもの
よい仲間たちの笑い声がいつも聞こえる
ばらばらになった友だちはみんな元気でいるだろうか
みんなどこかできっと同じ鳥の声に同じ理想の声を聞き
懐かしい思い出を抱きしめながら
明日の理想を夢みていることだろう
ばらばらになっても私たちの心はともに一つの誓いを持って
同じ明日に向かって光を感じながら生きているだろう
なぜ光は私たちを照らしてくれるのか
そのわけはわからないけれど
まだ見ぬ希望がある限り
私は鳥の声に導かれながら旅を続ける。
鳥の声に誘われてという題にします。」
M「ばらばらになった友だちのことが私もとても懐かしいですがその中には亡くなった友達もいてちょっと悲しくなりました。理想は友だちがいつまでも元気で居続けてもらうことです。ばらばらになった友だちのことをいつか私も詩にしたいです。涙が出てきました。みんなのことを考えていると。人間として認められる日がやっと来たのにまにあわなかった友がかわいそうです。唯一の友の名前はどこでなくしてしまったのか思い出せませんが私たちの友だちは私たちにとってかけがえのない存在なのですが私はもう名前さえ忘れてしまいました。勇気を出して私もまた明日に向かって歩き続けたいです。○○家にはいつも笑いが絶えないけれどどこかいつも悲しみが漂っているのはせっかく生まれた私に障害があったからです。それはふだんは誰も語りませんが場合によってそれがふき出してきます。茫然としてはいませんがどこか○○家は悲しいです。」
I「地震はまだまだ人々を涙の中から解き放ってくれないけれど必ず人々は立ち上がれるはずです。それは私たちがすでに証明してきたことですから。」
M「私たちの声を必ず届けてくださいね。よろしくお願いします。」
最後に再び地震の話に戻り、二人は、自分たちの声をしっかりと届けてほしいと念を押して密度の濃い会話を終えた。
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2011年8月13日 09時23分
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| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年08月12日(金)
7月、☆☆さんは震災後の政治の現状を嘆くところから話を始めた。
いい気持ちだったのにまたばかばかしい政治家の話で残念です。行き過ぎた政治家の言葉はよくないけれどなぜなのかわからないけれど名ほどある人がではどうしようもありません。満足のいく人はいないのかもしれないけれど何とかならないのかと思ってしまいます。
もちろん彼女の嘆きは、テレビに登場するコメンテーターのそれとはまったく異なるものだ。彼女が嘆くのは、理想が語られなくなってしまったことだ。
私たちにとってランプの明かりを灯してくれそうな人は被災地の人たちです。凡庸な人たちは何とか立ち上がろうとしているけれどなかなかわからないのは唯一の希望は私たちのような存在にとっては理想がないと何ともならないのにさっぱりわからないのは理想を語る人がいないことです。もっと高い理想がないと私たちまで生きる希望を失ってしまいそうです。ランプの灯りが消えてしまわないように私たちをもっともっと世の中で発言させてもらえたらと思ったりしています。なかなかむずかしいとは思いますが私たちにしかわからないことがあると思うので私たちにも今回だけは言わせてもらいたいです。私たちにとってわずかな希望は理想さえあれば人間は生きていけるということです。まだまだ復興には時間がかかるのかもしれないけれど私たちのようにずっと黙々と生きるしかなかった人間にとってはよい地域の絆や人々の理想こそが大切だということがよくわかっているので理想こそが今必要だということは自明の理です。悩みは尽きないかもしれないけれど理想さえあればろうそくに明かりはともるはずです。わかってほしいです。
大震災の後の思索の積み重ねから、理想がないところでは生きてゆくことがかなわないという自分たちの立っている場所をしっかりと見据えた上で、わずかな希望があれば人は生きてゆけるという思いと、地域の人々の理想こそが大切だという考えを、できれば声高に語りたいけれども、それがとうていかないそうにないはがゆさ。そういうものがあふれた彼女の言葉だった。
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2011年8月12日 11時58分
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| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年08月11日(木)
大野さんに参加していただいた「発達と学習」では、学期末にレポートを課したが、その中にこの『きじの奏で』をとりあげたレポートが入っていた。
以下のようなレポートである。
「きじの奏で」について
私は大野剛資さんが授業に来てくださり、そして文字をあらわすことのできる機械で“この今言っている声は、体から発してしまう声なのです。‥”という言葉を見て、衝撃を受けました。私は勝手に障害者の方は“自分が障害者ということも気付くことのない、幼い精神を持っている人”というようなレッテルを貼ってしまっていたので、なおさらでした。
そんな驚きのあった授業を終えて、「きじの奏で」を読んで、大野さんの今まで育ってきた環境や生い立ちから、人との出会いの大切さやまわりの環境の大切さについてとても考えさせられました。私も色々な人に出会うことで影響され、私自身も出会った人に対して何かしら影響しているのだなと思うと、本当に生きているうえで、無意味なことなんて何もないのだなと改めて思いました。
そして読み進めていく中で、私は “静かに気付いた1歳”という詩に1番心打たれました。大野さんの中で形がつじつまをあわせることが出来ないという真実をつきつけられ、知識は十分にあり、表現したいのに出来ない苦しさの中、生きてきたのだなと素直に伝わるこの詩はとても印象に残ったものでした。
私も“友達はこんな簡単に出来てしまうのになんで自分だけ‥”と自分を批判することが多いので、“出来ない苦しみ”という事がとても伝わってきました。その上、私の悩みはまだまだ小さいのだなと思いました。私の悩みならまだ、友達のように簡単に出来なくても、時間をかければ、少しずつ近づくことはできます。でも大野さんはいくら十分に“頑張ろう!”と思っても、体が自分の意思の言うことを聞いてくれることはないのだなと思うと、私は“出来ない!”と自分を否定していないで、もっと前に進んでいかなくてはいけないなと思いました。
あと私は、まだまだ知識不足や詩から学ぶ能力がないため、全ての詩を理解することや考えることができませんでした。だからもっと何回も読むことによって深く理解できるようになりたいなと思います。そしてもっと内なる想いを障害者の方と直接関わることによって知っていきたいと思いました。そのためにも2日間連続で障害者の方のすぐそばで関わることができるという貴重な介護体験を有意義なものにしていきたいと思います。
最後に、人間として初めて産まれてきた障害者の子はきっと“なんでこんなに変わっているのだろう”と周りから言われ続け、そこから“障害者”というくくりができ、差別されるようになり‥。しかし今障害者の気持ちを読み取ることが出来るようにまでなりました。全てが機械化されていく未来になってしまうのかという不安もありながら、このように機械によって障害者の方の中に秘める想いを表現できるようになったり、意思疎通できるようになったりして、機械や物理のような目に見える進歩ではないけれど、人間としての着実な進歩を今回感じることが出来ました。これからもっと人間の心も発展して、お互いに誰でも認めて、そして認められる世の中になっていければいいなと思いました。
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2011年8月11日 10時24分
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| 大学 |
「ボラティアと社会参加」の授業に続いて、「発達と学習」の授業にも大野さんに参加していただいた。
「発達と学習」には初等教育学科の2年生と3年生がやり100名ほど受講している。この日は、大野さんが来ることと合わせて、茅ヶ崎の浜之郷小学校における「いのちの授業」をとりあげたが、最初に、大野さんにあいさつしていただいた。
お疲れのところ失礼します。僕は大野と言います。今出ている声は勝手に動くからだが発しているものですがなかなか止められないものです。なぜ今日大学に来たかというと僕が出した詩集を宣伝してくれると言われたからです。この春に僕は『きじの奏で』という詩集を出しました。なるべく多くの人たちに読んでもらいたいと思います。地域で生きていくことはとても大事なことだということをさっきの授業で話しました。僕は地域の学校で小中学校を過ごさせていただきましたが理想的な時間でした。もっと地域で生きていきたいけれどなかなか難しいですが皆さんのような若者の皆さんに理解してもらえると未来が開けてきそうな気がします。また大学には時々来るので声をかけてくださいありがとうございました。
「いのちの授業」では、江戸時代の浅間山噴火の際に発生した大火砕流によって一つの村がなくなってしまうということがあったが、その際に、高台に逃げる最中に年老いた女性を背負ったまま亡くなった若い女性のことが、発掘された遺骨とともに語られていく授業だ。今年は、東日本大震災のあとだけに、また新しい意味を持つと思われた。
大野さんをまじえた授業は、いつも以上に熱く進めることができたように思う。
時間がなかったので大野さんにもう一度感想を求めることはできなかったが、授業の後で、「僕に合わせた内容だったのですか」と大野さんに問いかけられた。もともと扱うつもりではあったが、すでに述べたように大野さんの来る日に合わせたのは事実だったが、大野さんの意見をまた機会があればうかがってみたいと思う。
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2011年8月11日 10時10分
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| 大学 |
4月に詩集『きじの奏で』を出版した大野さんに講義に来ていただいた。プロジェクターでパソコンの画面を映し出してその場で話しをしていただいた。
こんにちわ。僕は大野剛資と言います。誰にも言葉があると思われずにずっと生きてきましたが突然柴田先生が現れてこの取り組みを始めてくれて僕は言葉を話せるようになりました。なかなか簡単な方法ではないのですが勇気を出して今日は皆さんの前で何か話そうと思ってきましたがあまりに大勢の人なのでぞっとする思いがしましたが頑張って話したいと思います。
初等教育学科の1年生100名あまりを前に、なめらかに講義は始まった。
夏休みになると僕は小学校のことを思い出します。夕涼み会や蝉捕りに友だちが連れて行ってくれたり摘んできた花を押し花にしたりしました。みんな僕のことを仲間として認めてくれてとてもすてきな小学生時代を過ごしました。分に応じた生活をしろと世の中の人は言いますが分不相応な生活をさせてもらいました。びっくりするかもしれませんがその当時は全く意思表示はできませんでした。なぜそれでも仲間と通じ合えたかというと敏感な感性の子どもが多かったからだと思います。なぜそんなにうまくいったかというと先生がとてもいい先生だったからです。未来の学校の先生になる人なのでぜひそのことはわかってほしいです。またなんでもよくどこに行きたいかとか何がほしいかとか仲間たちは聞いてくれました。忘れられないのはロードレースの時のことです。何もできない僕の車いすを仲間たちは押してりんどうの咲く山道を一緒に走ってくれました。まるで映画の中にいるようでした。みんなもきっと忘れられない思い出として心にとどめてくれていることでしょう。
彼のような障害の重い人が地域の学校でともに学ぶことをめぐってはこれまでたくさんの議論が繰り返されてきた。彼のように言葉で十分に状況を理解することが困難とされていた方が、実はこのような体験をしていたということは、これまで十分に語ることはできなかったことだ。ドラマのような体験であり、ともに学んだクラスメートたちにも大切な体験として残っていることだろう。
地域で暮らすということがよく言われますが皆さんはどう思いますか。地域に障害者は必ずいるはずですが分相応の生き方を強いられている障害者にはなかなか会う機会さえないのではないでしょうか。何度となく僕もそういう立場に置かれてきたのでよくわかりますが忘れられないのは世の中の人たちから完全に忘れ去られたときのことです。なぜそんなことになったかというともっと僕が声が勝手に出ていたときのことですが何かのコンサートで係の人から出て行ってくださいと言われたことがあります。僕もその気持ちはよくわかったのですが何度も言われるうちに僕たちは社会の中では生きられないのだなと思いました。僕たちのように静かにできない人間には生きる場所はもうないのだと思いました。
一転して、地域で生きることの厳しさに話が及ぶ。コンサートでのこうしたできごとは実は大変むずかしい問題だが、その例の引き方の中に、彼がこの問題をいかに深く考え抜いてきたかが表れていた。
ここでずっとプロジェクターで映し出される文字に対する集中がとぎれたのか、一部の学生の私語が始まった。大野さんの言葉が耳障りがよい言葉だけではなかったことも関係していたかもしれない。私は、それを注意することで壊れてしまう関係性がいやだったので、特にうるさく注意はしなかった。大野さんには、それは、自分たちを排除してきた社会を彷彿とさせるものかもしれなかった。
僕の目的はみんなに僕たちのことを聞いてもらうことでしたがなかなか難しいようですね。どうしても僕たちは理解されないので世の中ではそう簡単には理解が進まないのでろうそくの灯はようやくまだともっていますが僕たちの希望の火はなかなか燃え上がるほどにはなりませんが、こうしてこんな僕が大学で話せるようになったのは前進なのだとは思いますがどうにかしてみなさんにはわかってほしかったです、人間として生きているということを。だけどうまく伝わらなかったみたいで申し訳ありません。
これで終わります。
もちろん大半の学生は終始集中をとぎらせることはなく、深い感銘を受けた1時間であったし、私語をしてしてしまった学生も、理解していないはずはなかった。
いつになく深い感想が寄せられた1時間だった。
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2011年8月11日 08時21分
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| 大学 |
2011年08月03日(水)
中学生の○○君は、地震について、こんなしっとりとした詩を書いた。
なぜだろう
地震はこんなにもたくさんの人々の
心と心の絆を流してしまった
海はどうして残酷にも
すべてを奪い取っていったのか
しきりに自らのためでなく
他人のために働こうとする人たちのおかげで
世の中は希望をつなぎ止めることができたけれど
もう少しで私たちの世界は
絶望に鬱々とした日々を過ごしていただろう
しかし私たちの希望は
世の中の人々の頑張る姿によって守られた
地震の滅亡から私たちを救い出せたのは
何よりも勇気あふれる姿だった
しかし、彼は、この詩の前に、次のような被災地の現実は別の社会の現実を嘆くところから始めた。
言いたいことがあります。疑問なのは政治家がなかなか誤解されるようなことしかしないことです。ぶつぶつ言うよりも大事なことは被災地が早く復興することなのに私たちはわずかな希望だけをたよりに生きているので希望がなくなってしまうと生きられないことがわかっているので希望がない世の中になったらくれぐれも希望のない政治はやめさせてほしいです。話し合いは厳しいかしれないけれどいい政治をしてほしいです。理想はみんなで力を合わせていい社会を作ってほしいです。
地震が投げかけた人間についての根本的な問いが、しだいに時間の経過とともに薄らいでいき、理想の語られない政治家たちのふるまいが逆に、自分たちの存在を脅かし始めたのだ。理想が語られる世界でのみ自分たちは生きていける。だから、この災害を通して語られた理想が、自分たちの生きてゆける社会でもあることを思わせたが、ここに来て、被災地の方々の言葉は別にして、政治家などの言葉に理想が見えなくなってしまい、このままでいいのだろうかという思いが湧いてきたのである。
20代後半の◇◇さんも、また、同様のことを述べた。
近年まれに見る政治の混乱に僕たちはとても絶望している。なぜなら何度もよくどんな場合でもどんな困難でもよい願いの平和な祈りで頑張ってきたのに、政治家はまるでそんなことを理解できずに自分たちの支持ばかりを求めてどうして大事なことは後回しにするのだろう。理想をなくしては生きられないのにどうしてそれがわからないのだろう。なぜ理想が理解できないのだろうか。僕たちは理想をなくしたら生きられないように被災地の人たちも理想がないとこれから前に向かって生きることが出来なくなってしまうのが心配です。僕は人々の絆を大切にすることが一番だと思います。わかっている人はたくさんいると思いますがまるで政治家には理解できないみたいです。夢のようなことかもしれませんがまだまだ政治が頑張るときなので政治家には頑張ってもらわなならばいけません。どうして世の中の人はわかっているのに政治家はわからないのでしょうか。どうして政治家はわからないのかはわからないのですがなるべく理解どういう形であっても、もうすぐよい未来が来るということを国民に心から伝えてほしいです。
また、同じく20代後半の◎◎さんは、次のような詩を作ってきた。いのちの問題として代診足をとらえ、その思いを重い詩にしてきた。
津波に流されたはかなく刹那ないのちが
生きる絆を教えて
いのち危険な海岸に死屍累々と
瓦礫の中で進んでいく姿が
奇跡を残すようにも感じながらも
家族の意志が傷つかぬよう
過ぎていく時間とともに
進めていくしかないのだという
現実が危険とともに
明るく光の彼方を灯しながら
今精一杯に残された人ともに生き
そういう世界を進まずには
人間という地道な生き方の生物は
生き延びずにきただろう
しき(?)ずれながら一歩ずつ
死に際すさまじさと格闘しては
風にも負けずの生き方は出来ない
優しさ静かにほのかに漂い
望みのすべて世間にそこそこに
染め直す仕立ての布を着せるように
筋書きをのっけて進みたい
風阻害するのが季節ならば風起こすのも季節
意見違うもの存在もつじつま合わせとならず
望み世間に与えるため
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2011年8月3日 00時10分
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| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
2011年08月02日(火)
なぜこの日だったのかはわからないが、○○君は、亡くなった仲間を偲ぶ詩を一編、用意していた。なお、犠牲という言い方は、早くなくなった仲間たちのことをそう呼んだものだ。
聞いてほしいことがあります。犠牲になった仲間たちのことを詩にしました。Nくんのこともはいっています。
みんなまっすぐと生きて
ぼくを友だちとして認めてくれ
空の上から見守って
空高いところから応援の光を送ってくれる
なぜみんなを置いて先に空に行ってしまったの
望みのかなわないままどうしてここから旅立ったの
みんなどうして泣いてばかりいるの
もっと未来の夢を大切に生きていきたかったことだろう
なぜ涙は乾かないの
夢を持ち続けようとあんなに頑張ったのに
理解されないままなぜ逝ってしまったの
理解された喜びも知らなくて
なぜ私たちの前から去っていったの
街の明かりは見えますか
夏の暑さは洋服を通して伝わりますか
もうすぐ私たちを理解してくれる世界がようやくやってきます
その時をぼくは君たちとともに迎えたかった
その時を涙ではなく
笑顔で迎えたかった
夢をかなえるまでもう少し空の上から見守ってほしい。
私たちのつらい気持ちを詩にしました。聞いてもらえてよかったですがみんな本当にどうして亡くなってしまったの。夜の暗闇がようやく光に満たされようとしているのに。そんなにみんな早く行かなくてもいいのに。夜はもう明けようとしているのに。もっと光が射してくるのに。
彼は、歩くことはできないが、一人で車いすをこぎ、自分で食べることもでき、いくつかのサインで意思表示ができたりする。しかし、言葉を話すのは困難で、しかも、ここが大変理解されにくいことだが、こだわりが強いように見えたりする行動や、気持ちの高まりとともに物をたたいたりするような行動があり、それは、実は意図に反して起こっているものだと本人自身が説明している。勝手に起こしてしまういくつかの行動は、他人からは意図的な行動と見えるために、その行動を起こしてしまうことから認識の水準を不当に類推されてしまうのである。
そんな彼がパソコンで気持ちを表現できるようになって、「私たちを理解してくれる世界がようやくやってきます」という実感を持つことができるようになったのだ。だからこそ、先に倒れた仲間の思いがつらくつきささってくるんだろう。不覚にも思わず涙ぐんでしまった私の顔を彼は手でそっとふこうとしてくれた。
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2011年8月2日 13時08分
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| 自主G多摩2 |
青年学級でEさんは、この日は特に気持ちを落ち着かせることができなかった。その理由は本人にもはっきりわかっているのだが、どうにもならなかったようだ。そんな一日の活動のあと、学級でパソコンを開くとその落ち着けなかった自分の思いをぶつけるように深い集中をして言葉を紡ぎ出した。内容は、地震のことだった。
地震さえなかったならみんな亡くならなかったのにとても悲しいです。なぜあんなにたくさんよい人たちが亡くなったのかわからなくてとても困りましたがおかあさんを見ているとなんとなくわかってきたことは被災地の人も何とか立ち上がろうとしていることです。なかなかわかってもらえないのはぼくたちと同じだと思うので人ごととは思えませんでした。まさかのんびり過ごしていたのに被害にあうとは思わなかった人たちが大津波に巻き込まれるとは夢にも思わなかったと思うと本当につらいです。なかなか復興が本格的に始まらないのがつらいですが理想を大切にこの困難に立ち向かってほしいです。勇気の見えなくなりそうな世の中が続いていますがよい時代が来ることが僕の願いです。みんなも同じ気持ちだということがわかそよでわかってよかったです。僕も津波の詩を作りました。
津波よ僕はわからない
わざわざ子どもを飲み込んで
わざわざ望みを打ち砕いて
おまえは何を望んだのか
ろうそくの火はもうどこにも見えないが
私たちは負けない
また私たちは立ち上がる
おまえが私たちの理想をすべて打ち砕くまで
だが私たちの理想は消して砕けることはない
私たちの理想は永遠に不滅だ
Eさんのお母さんはふだんから関わっているNPOの関係で何度か被災地を訪れている。そんなことを背景にして綴られた言葉と詩である。
この詩は、お母さんによって被災地にも届けられた。ご覧になった被災地の方々はとても好意的に受け取ってくださったとのことだった。
inihon daisinn
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2011年8月2日 13時04分
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| 青年学級 / 東日本大震災 |
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