ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2012年02月23日(木)
本が完成しました
 『みんな言葉を持っていた』(オクムラ書店刊;2400円)という本が完成しました。発売は3月に入ってからとのことですが、見本を届けていただきました。
 目次は以下の通りです。

第1章 秘かに紡がれた詩
第2章 障害の重い人たちの心の世界
第3章 言葉の世界の扉を開く―四人の歩み―
第4章 援助の実際

 第1章に32人の方の詩を収め、第2章で方法に関する様々な議論を行い、第3章で4人の事例をまとめ、第4章で具体的な援助の方法を解説しました。
 自分で宣伝をするのは、居心地が悪いですが、この事実を少しでも
多くの人たちに伝えていくためには、知っていただかなければなりません。よろしくお願いいたします。 

2012年2月23日 08時42分 | 記事へ |
僕の障害について 社会人になるにあたって
 3月に高等部を卒業し、新しく通う通所施設も決まった○○君は、高揚した気分の中で、力強い言葉を綴っていった。

 みんな悩んでばかりなので理解してもらいたいです。私たちはみんなで私の我慢を世の中に伝えていきたいです。みんながまんばかりして生きてきたのでそれをもっと世の中の人に伝えたいです。なぜなのかわからないのですが勇気が湧いてきました。

 ここで、新しい場所で彼のことをどうやってわかってもらうかということについて私が切り出し、スイッチの援助については、○○君が、手を触られたくないので、手以外の場所にスイッチを押しつけていく方法で読みとらなければならないので、むずかしい方だが、○○君の援助ができれば、ほとんどの人の援助が可能だということを語り、○○君と初めて文字が書けた頃のことを話した。○○君は、一人でスイッチを押せるが、一人だと連打してしまい、なかなか止められなくなる。そこで、ある時、彼の手をとって、こちらが主導的に動かしながら一緒にスイッチを押していったのである。すると、選びたいところ力が入って選択の意志が伝わってきたのである。それを受けてこう書いた。

 僕は触られるのがいやなのでやりにくいというわけですが僕ができれば誰でもできるということですね。がんばってきましたね。文字の勉強も頑張ってやりましたが本当はわかっていましたが誰にも伝えられなかっただけでした。先生だけでしたね、僕が文字がわかっているはずだということを信じていたのは。とてもうれしかったのですがうまく選べなくていらいらすることも多かったです。駄目かなと諦めかけていましたが先生が僕の手を動かしたときはびっくりしました。まさかそうすると選べるとは思ってもみなかったからです。それが選べたので本当にうれしかったです。

 こういう風に書いている間も、彼は、座っていられなくなって、何度も席を立ち上がって一歩きし、落ち着くと戻ってくる。ふと、彼に、今度の施設の職員に自分のことをわかってもらうための障害に関する自己紹介を書いたらどうかと提案した。そうしてできたのが、次の文章だ。

  僕の障害について

 僕の障害はなかなか思い通りに見たり書いたりできないことです。見ようとすると見えなくなったり手を伸ばしたくなくても手が出たり何にでも手を伸ばしたりしてしまうので誤解されてばかりです。
 こだわりとはそういういらだちを鎮めるためのもので、もし理解され続けていればなかったはずですがそれはもうどうしようもありません。だけどじぶんのことをわかってくれさえすればわずかずつでも消えるはずです。
 よいわかりかたさえしてもらえれば本当はこだわりなど生まれなかったはずですからこれから小さい子たちにはこだわりの少ない育て方をしてほしいです。
 敏感さも障害の一つです。触られるだけでびっくりしたり小さい音にでも驚いたりするのでとても困っていますが理解されさえすれば大丈夫です。
 だからそういう風に理解してください。わかってほしいのでよろしくお願いします。
 どうにもならない苦しみの中で生きている仲間がたくさんいるのでよろしくお願いします。
 誰が見てもわかるわけではないかもしれませんが僕のことを知りたいと思う人にはわかってもらいたいです。
 なぜ僕たちが何もわかっていないと言われてきたのかがこれでわかってもらえたでしょうか。なかなかうまく理解されてこなかったけれど僕たちにもようやく日が当たってきました。


 私たちが、その理由がわからないまま、まちがった理解をしてきてしまったいくつかの事柄がここにある。特にこだわりなど、私たちの誤解が作り出したものとさえ言えるのである。「小さい子たちにはこだわりのない育て方をしてほしい」という言葉がつきささってくるとともに、私たちがなすべきこともまた見えてきた。
2012年2月23日 00時30分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 |
2012年02月21日(火)
40年を振り返って
 私が30年来関わりのある40代の全盲の女性○○さんは、

 私たちをもっと理解してもらいたいので残りの人生は私は自分の考えを少しずつ伝えていきたいです。小さい時からのどうにもならない気持や茫然とした日々のことなどを語りたいです。

と述べて、長い回想の文章を綴った。

 私が生まれたのはもう40年も前に遡りますがその頃はまだ世の中は私たちのような子どもを受け入れるような時代ではありませんでした。残念ながら地域のどんな場所にも私たちの居場所はありませんでした。なつかしいのはそんなときに私たちを50年も前から理解しようとしていた先生たちがいて私たちを受け入れてくださったことです。わざわざ私たちを人間として認めてくれて何かできることがあったらしてあげようと色々な努力をしてくださいましたがまさか私たちに言葉があるとは思わなかったようでした。どんな小さなことにも喜んでくださって本当に幸せでした。どうして私たちのような存在に底まで心を向けてくださるのかとても不思議でしたがみんなほんとうに一生懸命でした。小さい理想の世界がそこにありました。小さいながら望みのかなう世界でした。私たちはなかなか理解されないので何でも喜んでくれる先生たちが最大の理解者でした。
 そんなところから始まった私の人生ですがみんなに比べて恵まれていたのは私が中島先生に出会えたことです。中島先生は特別な思想の持ち主で私たちが偉い存在であるとずっと言い続けてくださいました。何もできない私のことを偉いなどと言ってくださった人は初めてでしたからとてもうれしかったです。わずかな夢は中島先生の思想が広まることでしたがなかなか本気で先生の思想を受け止める人は少なかったです。中島先生は本気でおっしゃっているのにまるで冗談のようにとらえている人も少なくありませんでした。私たちのことを相手がどう考えているかはすぐにわかりますがほんのわずかの人しか私たちを本当に偉いとは考えていませんでした。
 わざわざ中島先生のことを否定する人も誰とは言いませんがいたのも事実です。学校では特に受け入れられなかったことを私は身を持って体験しました。
 それでも小数の心ある先生が中島先生に従って私たちのことを大切にしてくれました。どうして私たちのことをそこまで大切にしてくれたのか今でも不思議です。たまにそういう先生が現れるととても存分に誰にでも伝わるのかもしれないと期待に胸を膨らませていました。だけどなかなかそういう先生は現れませんでした。
 夏の全国大会はとても楽しみでした。私たちの話で持ちきりになるからです。私たちが主人公になれる唯一の機会でした。なぜ中島先生の話が好きだったかというとまるで私たちが何でもわかっていると言うかのように説明してくれたからです。私たちは何でもわかっているなどと言われることは絶対になかったので本当にうれしかったです。みんなもきっとそう叫びたかったと思いますしまさに私やK君は本当に叫び声を上げていました。すると必ず中島先生は必ず万歳というように返してくれていました。
 中島先生が今のこの姿を見たら何というかとても楽しみですがそれは永遠にかなわぬこととなってしまいました。人生の半ばを過ぎて始めて話すことができるようになって本当にうれしかったですが本当に中島先生には見せてあげたかったです。だれでも言葉があって何でもわかっていると言うことが証明されたのですから。誰よりも中島先生が喜んでくれたはずです。
 誰にでも言葉があるというならもう知恵遅れなどという言葉はごめんです。何度その言葉に傷ついてきたことでしょう。誰にでも言葉が備わっていて深い考えを持っていると言うことをわかったからには理想はその考えに従って福祉も教育も考えを改めなければみなりません。わずかな明かりですが確実に明かりはともり続けています。
 どうしてもなかなか信じられない人もいるかもしれませんがそんな人もしだいにいなくなるでしょう。残念ながらまだまだですが早くそういう時代が来ればいいなと思います。中島先生の思想を誰にもわかるようにはならなかったようにこの方法も簡単には伝わらないと思いますが何とかならないかと思います。たくさんの仲間が私のように話したがっているので早くそのことが伝わればいいと心から願っています。大事なことは私たちが人間として扱われることなのでよろしくお願いします。
 今日はたくさん書けてよかったです。私はまた自分の経験を語りたいと思いますのでよろしくお願いします。ありがとうございました。


2012年2月21日 21時52分 | 記事へ |
| 研究所 |
3月のきんこんの会は3月30日の予定です
 厳しい寒さが続いており、なかなか春の兆しが見えてきません。
 3月のきんこんの会は、3月30日金曜日2時からたまプラーザキャンパスで開催させていただきます。
 会場は、前回、前々回使用した1号館410教室になるか、私の研究室の傍の部屋になるか、まだ未定ですが、近づいたらまたお知らせいたします。
 
 きんこんの会とは、障害が重いために、援助によって初めて気持ちを伝えることができる人たちが、ともに心を響き合わせるために集う会です。一昨年の1月、たまプラーザキャンパスの一室で数名の仲間が出会ったことから、この会が生まれ、4月から活動を始めました。
 参加は自由です。詳しいことをお知りになりたい方は柴田までご一報ください。
2012年2月21日 21時48分 | 記事へ |
| 大学 |
2012年02月15日(水)
津波の歌
 青年学級の学級生のKさんは、すでに両親を亡くし、今、都内のある病院に入院している。彼女は、昨年の5月に開かれた若葉とそよ風のハーモニーコンサートで、津波の詩を仲間に朗読してもらった。
 その当時、彼女は、町田市内の施設に入所していたのだが、その後、体調の変化などから、入院を余儀なくされた。
 もともと、しゃべることも文章を書くこともできた彼女は進行性の障害で、あるときから車いすになり、発話も不可能になった。医学的には言葉も失われたと考えられた。
 そのような状況で母親が亡くなり、当時の状況では、どこか離れた施設にはいらざるをえない状況にあったのだが、若い担当者たちが、アパートで共同生活をしながら、建設予定だった地元の施設ができるまで持ちこたえて、無事、地域の施設に入所を果たした。そして、青年学級には、毎回、スタッフの送迎によって参加していた。
 そんな彼女が豊かな言葉をきちんと持ち続けていたことが明らかになったのが、2008年の夏のこと。それから、パソコンを使った新しいコミュニケーションが開かれてきた。そうした状況にある人が歌を作っているということも、それを伝える手段を共同で考え出したのも、彼女を通してだった。
 2009年のわかそよでは、彼女をモデルにし、彼女の作った歌を劇中に使ってミュージカルが作られた。
 そんな彼女が、昨年の夏、私たちの前から姿を消した。
 そして、そんな彼女の元をスタッフの山之内さんととびたつ会の支援者である松田さんが、先日、訪問してきて、彼女の思いを聞き取ってきた。

 今日はよく来てくれました。なんだか夢のようです。山之内さんはお元気でしたか。私はさびしくすごしています。みんなと会って、また歌をうたったり、笑ったりしたいです。もっと会える時を大切にして過ごしたいです。私の願いは多くの人たちとはなしをして、楽しく充実した時間を過ごすことです。また青年学級にもぜひ参加したいです。
(山之内−神野さんの津波の詩がうたになりましたよ。)
 はい、参加しますから、お願いですからつれて行ってくれませんか。伝えたいことは私の本当の気持ちです。心の中にある気持ちをぶちまけたい気持ちです。理解してくれようとするやさしさは感じていますが、なかなか通じなくてつらいことがあります。とてもうれしいです。来てくれてありがとう。
(もうすぐあの地震から1年ですね。津波の詩を書いていてそれが歌になっていますが、津波と今の神野さんをどのように思っていますか)
 それはとても似ているところもあるかもしれません。地震の被害は津波もあって、とても大きなものでした。私は、わからないほどの大きな被害になんともいえない不安を感じました。私は病院に入院したあと、津波に巻き込まれたように何が何だかわからないまま過ご
してきました。それはそれはとても不安な気持ちでした。あの津波を経験した人たちは忘れない記憶として思いをはせるのでしようが、希望をもって立ち上がろうとしていることでしょう。私はまだ希望を持てずにいますが、きっと希望をみいだして、みんなのところにもどりたいと思います。

(青年学級はもうすぐ成果発表会ですが、ひとこと伝えたいことはありますか)
 成果発表会には参加したいと思っています。

 私の関わっているコースでは、Kさんの詩に曲をつけて、被災地のある施設に送ろうとこの間ビデオ撮影したところだ。歌詞は以下の通りである。

いつも穏やかだった海が突然きばをむいて
理想をすべてうちくだいた
私はわたしの大切な生きる意味を
失いそうになってしまったけれど
人々の立ち上がる姿に勇気づけられた
なぜだろう人は理想をうちくだかれても
再び立ち上がることができる
人間はなぜそんなに強いのか
私もこんな体で自分の気持ちさえ
うまく伝えることもできないけれど
私も勇気をもってまた立ち上がってゆこう
冒険をまた始めよう


 歌は次のURLで聞くことが可能である。

http://douga.zaq.ne.jp/viewvideo.jspx?Movie=48444399/48444399peevee450767.flv
2012年2月15日 23時00分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
広がりつつあるコミュニケーション
 ☆☆さんの通所施設では、少しずつ、パソコンで単語を聞き取ることができはじめたという。お母さんのお話や連絡帳の記述から、すでに文字の読み取りはうまくいっているのだが、一文字読み違えると、その後が続きにくくなっていることがわかる。これは、一文字違ってしまうと、次の文字をどうするか☆☆さんの方に迷いが生じてしまうので、実は、読み取りは一気に困難になる。だから、読みとられた文字が少ないのは、読み取りそのものに問題があるのではなく、文字が間違えて読みとられた時の対応の問題になる。しかし、大切なのは、こうして一文字一文字読みとられていく時にそこにうまれている心と心の交流だと思う。たくさん読みとることができれば「便利」だけど、もっと大切なものがあり、☆☆さんのやりとりには、その一番大切な心と心の交流があるように思った。☆☆さんは、次のように書いた。

 ばらばらな体と心の私のためにいつもありがとうございます。私は先生たちがいつも真剣に時間をかけて聞いてくれるので心から感謝しています。人間として尊重されて何よりの幸せです。どうして先生たちはあんなにやさしいのかといつも不思議な気持ちになります。世の中の人たちは私たちのことなど全く気にも止めていないのになぜ先生たちは私たちに心から希望を与えてくださるのでしょうか。人間として認められてとても幸せです。パソコンはゆっくりでいいです。無理のない範囲で少しずつお願いします。もうしっかりと読みとってくださっているのでご安心ください。どうすればいいのか教えてほしいとおっしゃっているので一つだけ言うとわかっている言葉でもやって安心して練習できればずいぶん楽になると思います。でも私は先生方が思うとおりにやってくださってくださればそれでいいです。私でうまく行けるようになったらぜひほかの人の気持ちも聞いてほしいです。なぜならみんなもきっとわかっているはずだからです。ゆっくりでいいからよろしくお願いします。これからもどんな困難があっても乗り越えるつもりなのでよろしくお願いします。

 ☆☆さんのこのきめ細かな心遣いの向こうに、懸命に☆☆さんに寄り添おうとする職員の方々の姿がはっきりと見えてきた。
 この言葉と一緒に、この日は、こんな詩も書かれた。

小さな蜜のなる花に
私はとまり夢を見る
蜜の香りが体に満ちて
私は望みを叶えようと
静かに理解の旅に出る
敏感な体に出た苦しみは
きっと珍しい匂いがするはず
誰かその匂いに気がついて
私に声をかけてほしい
匂いのままに私はずっと
みずからのいい願いを大事にしながら
よちよちと歩き出そう
ランプの明かりが懐かしい願いを照らし
私は不思議な夜の深い闇に紛れて
私を何とか未来に向けて
つまらない悩みは消し去って
そんなよい世界を探しに行こう


 ☆☆さんの周りには、もう「よい世界」が広がっている。
2012年2月15日 06時28分 | 記事へ |
| 家庭訪問 |
震災俳句
 夏に、たくさんの震災の俳句を聞かせてくれた○○君のお宅を半年ぶりに訪問した。今回も、たくさんの俳句を作っていて、パソコンを開くといきなり、俳句から始まった。今回も40あまりの俳句が一気に綴られた。じっと暖めたれてきたものだ。難解なものにはその都度、説明を入れてもらった。

抜群の力を出して復興す
小さい目懐かしき野をふと見つめ
被災地の緑を夏が深めゆく
ランプの灯待つ人によい願いほめ
若い日の夢も破れた深い海
夕焼けの磨かれた空ぼろの底
 「ぼろ」とは涙が流れたことを言ったものです。正確ではないけれど書きました。唯一の理解者は自分だからこれでいいです。
小さい目罪なく輝きどこ目ざす
未来の手心に触れて隅々に
未来の手理想をつかみ僕をさす
ごみの先道は望みにつながりて
強く握る手は冒険の揺れるまま
楽な日を取りもどし櫓が揺れる
ずんずんと逃げ出さないで積まれた和
理知的な瞳は何に愚を感ず
 なかなか復興が進まないのは理知的な目には愚かに映っているはずなのできっと何かを罪深く感じているはずだから書きました。
ずっと沖 涙の船が遠ざかる
理想の世なかなか来ずに復興す
地位賭けて闘う人のない日本
日本の夢理想を賭けて和をつなぐ
夜ずっと夢にうなされふと目覚め
忘られた歴史に瑠璃の光さし
 昔から津波は何度も襲いかかってきたのにみんなそのことを忘れてしまっているのだけどまた改めて思い出されたということです。
夢の先不気味な声にゴンゴンと
 なつかしい町並みの彼方に新しい街並みをまた作り直してもまた津波に破壊されるかもしれないということです。それ(ゴンゴン)はずっとさいなまれることの表現です。
夜の闇強い笑いを盛り上げず
理解されず夜の暗さに森を行く
被災地に行けば涙のろうそくも
自らの力のなさに轍踏む
 自らの力のなさを嘆きながら轍を追えずに踏んでいる様子です。車は被災地の復興の象徴です。 夏も過ぎまた世は戻り秋刀魚せる
日の当たる轍もまっすぐ未来さす
唯一見た空の果てなる南星
 南の空に一瞬見えた星に未来を願ったということです。
日が沈み波の音のみ休みなし
理想さえろうそくと光れば綿々と
綿々と願いを紡ぐということです。
若き日の忘られぬ道流されず
分相応自らに課さず道を行く
実る穂にセシウムの付き虚しさよ
わずかでもセシウム付けば捨てられて
わずかな音 聞こえることなき悶々と
ビルを支えし原発は惨めな姿をさらし泣く
昔には戻れないとはおかしき世
わずかな灯 分捕らず共に分かち合う
水のゆき轍に残る夢の跡
ランプの灯ともりし道に咲く花を
 わずかな理解者しかなかなか増えないのですがこうして俳句を作っているととても気持ちが落ち着きます。俳句はおしまいです。


 なお、夏の彼の俳句のうち、いくつかをある詩のコンテストに出していた。残念ながら、入選することはなかったが、未発表という条件だったので、このブログでの公表も避けていたので、改めて紹介する。

夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
雪の舞う地震の朝の 鳥静か 
涙枯れ 涙は出ずる 土用波
若き日の記念の写真 砂と空
望みを背 また立ち上がる強き足
地震さえなければと泣く夏過ぎぬ 
     

2012年2月15日 00時35分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2012年02月06日(月)
2月5日は筆談の記念日になりそう…
 2008年の夏から町田の青年学級にパソコンを持ち込んで3年半が経過した。その間、いろいろな人が2スイッチワープロに挑戦してきたが、残念ながら、これが修得できたのは、とびたつ会の松田さんと、若い担当者の2人に限られていた。なかなか活動の中で純粋な練習の時間というのもとれず、伝えきれないまま時だけが経過していた。
 そんな中、山之内さんが、先日のきんこんの会で、青年学級にも参加しているSさんの筆談に挑戦して何とか読みとることができた。Sさんは、なかなか体に力が入らずふわふわとした動きになってしまう特徴のある方だが、Sさんの指を持って関わり手の手のひらの上に文字を書いてもらうと、小さい動きの中に文字が読み取れるのである。私は、2スイッチワープロか、手を振りながら「あかさたな」という方法しかなかなかむずかしく、Sさんの筆談には成功していないのだが、山之内さんが、活動後の喫茶店で、Sさんに練習台になっていもらい、若いスタッフに伝えたところ、たちどころに3名ほどのスタッフが字を読みとることができたのである。ようやく長いトンネルを抜けたという思いがした。複数のスタッフが通訳になって会話がはずむということが、夢ではなくなりそうだ。
 次の文章は、この日の活動の中で山之内さんといろいろ筆談で話せたHさんの感想である。山之内さんと若いスタッフがSさんと練習をしている横で私がパソコンで聞き取ったものだ。Hさんは、自閉症と呼ばれていて、字の読み書きはできるのだが、気持が表現できない方である。

 字を書くのは簡単ですが気持はなかなか言えないになぜか手をそえられると気持が書けます。たぶん字を書くのにもそうとうなエネルギーを使っているからだと思います。スイッチのほうが楽なのですがそれは触られるのが抵抗があるからですが慣れると思います。たぶんだまっているとつらいので話したいと思いますので慣れると思います。ばらばらな体と心を何とかしたいのでよろしくおねがいします。なぜ山之内さんは字の方法ができるようになったのですか。わかりましたよかったですね。誰でもできるやりかたがいいのでよろしくおねがいします。そうです、抜群な感じがしたからです。やっと広がってきましたね。どうにかして広めたいです。はいありがとうございました。

 ところで、活動では、私のコースでは、岩手県のある施設にメッセージを送ろうということで、東日本大震災に関連した歌を3曲録音したところだった。「津波」「ランプのあかり」がオリジナルの歌、それに、無謀なことながら、アジアンカンフージェネレーションの震災に関連した歌「ひかり」をみんなで歌い、それをビデオカメラで撮影したのである。こちらは、また改めて紹介したいが、夜、居酒屋では、この筆談と歌のことで、大変もりあがった。
 大きな大きな一歩を踏み出した一日だった。 
2012年2月6日 22時56分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2012年02月01日(水)
夏の轍(わだち)
 最近、俳句に真剣に取り組み始めた○○君は、また、秀逸な句を用意してきた。結構難解な俳句も少なくなかったので、その場で解説をしてもらった。

長き夜 淡々と煩悩 どこでそぐ
 煩悩をどこか理解される場所でそぎ落としたいけれどなかなか見つからないということです。

強き藁 縄となわれて炭を包む
 なぜ縄を使うのですか。理想的な包み方なのですか。なぜなのだろうと思っている内に浮かびました。

鍋をなぜ瑠璃色にして血わく ふと。
 鍋には頑張ってもきれいな色には鳴らないので瑠璃色に塗ってあげたくなりました。血わくとは血が騒ぐという意味です。謎めいた俳句です。

虹の夢疲れた涙の空に架かる。
 疲れた涙の水蒸気だから虹が架かりました。

楽な道 自分の前に道のなき。
わが理想 人間となり輝く日。
 障害の俳句です。

見られても誰に恥じるところなし。
理想とはわずかに見えて遠きもの。
人間で敏感に見える道の前。
 道は道路で道の前には誰かが立っていて僕らを見つめているということです。僕たちはどうしても人間として認められにくいので敏感な人が必要なのになかなかそういう人が現れないと言うことです。

実の母つらく中あたるは強き愛。
 はいだいじょうぶです。フィクションですから。障害がある子どもに厳しくする母親がいるので作りました。

力ほしい なぜ見えないの夜明け星。
夕月のわずかな明かりに櫓をこげり。
湯を沸かすやかんの煙しんしんと。

夏に見し轍(わだち)の消えて 迷い道。
 震災のことです。夏まではみんな理想を語っていたけれど秋になると全く語られなくなりました。そのことですが誰か同じことを言っているのですか。

誰が泣く すすり泣く声 乗せし風。
轍が冬見えし時あり 除夜の鐘。
 紅白の中ではみんな理想を語っていました。それが良かったです。長渕剛の歌がよかったです。地震をきっかけに昔の長渕に戻った気がしたということをお母さんが言っていました。長渕剛のことを先生が知っているとは思いませんでした。長渕剛だけではなくみんないい歌を真剣に歌っていました。よい元日が迎えられました。なぜ先生はわかるのか不思議ですがたくさんの仲間の言葉を聞いているからなのですね。よくわかりましたが夏の轍は残念でした。できるならそのまま小さくてもいいから消えないでほしかったです。夏の轍という言葉はとても気に入っている言葉です。(轍の数は)二本です。車いすの轍のイメージです。そうですか、轍という言葉を使っている人がいるのですか。それを教えてください。

罪の泣き嬰児の泣き力湧く。
 なかなか泣き止まない子どもを見て作りました。はい泣く子は育つということをばらばらにして作り直したものです。

どこまでも何艘の船続く海。
小さい目なぜ光るのか理想知り。

夏の轍未来に続け 戻らずに。
夏の轍日本を強く導けと。
敏感な動物のごとく無我の我。


 夏までの日本の特別な空気、それは、○○君にとって、日本が理想に向かってひたむきに進んでいるように見え、そこには、まっすぐ理想に向かう日本の足跡としての轍が見えていた。それを彼は夏の轍と名付けた。秋以降は、その轍が消えて、また元に戻ってしまったかのように見えてしまった。しかし、大晦日の紅白歌合戦の歌の中に、あの夏の轍がまた見えたというのである。
 
2012年2月1日 21時29分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |