数年にわたって通い続けた通所施設にお別れをすることになった日。文字盤や手の合図でコミュニケーションのとれる○○さんと、2スイッチワープロでゆっくりと会話できた。
いいすいっちですね ほしいです ひとりではむずかしいの
ねがいはじぶんひとりでやれるようになることです
ちいさいときからのゆめでした
きぼうがでてきました
じのべんきょうはちいさいときにしたのですが あとはふつうのがっこうにいけなかったのでべんきょうしていませんでしたから あまりむずかしいかんじはわからないけど だいたいのかんじはしっています
彼は、そのコミュニケーションの力によって障害は運動障害のみであると思われてきた人だが、勉強が十分にさせてもらえたわけではなさそうで、その無念の思いが伝わってくる。彼は、また、たくましい方で電動車いすで自在に行動している。そんな彼が次のような思いをしながら町中を移動しているとはなかなか気づきにくいことかもしれない。
きいてもらいたいことがある
きのうきんじょでちいさいこどもをつれたおとなにばかにされて くやしいきぶんになりました
きんじょのひとはみんなやさしいけど しらないひとはみんなつめたい
きんじょのひとたちとはうまくいっているけどくやしい
たたかってきたけどしらないひとはさべつてきです
さべつはとてもなくならない
そして、差別という言葉から、次のように話題が切り替わっていく。
きっとじぶんもさべつをしてきた
しょうがいのおもいなかまをりかいしてこなかった
いしがあるとはおもわなかった
ちいさいうちはりかいしていたけど だんだんそまってしまった
きたないこころになってしまったのがかなしい
さべつしてしまってもうしわけない
じぶんもしょうがいしゃなのにはずかしい
(○○さんを差別した人とはちがうのではないですか?)
ちがわないとおもう
きちんとあやまりたいとおもう
さべつてきだったじぶんをかえていきたいとおもう
この通所施設で、私たち夫婦は、多くの重度といわれる人たちの言葉の存在に気づかされてきた。それを見ていた彼が、率直に述べた言葉である。私もまた、差別してきたということを重く受け止めなければと思った。
この通所施設での関わり合いには、一区切りがこれでつく。障害の重い人や自閉と呼ばれる人たちの言葉の存在を明らかにしてきたとはいえ、その方法を必ずしも伝え切れているわけではない。関わり合いがとぎれることで、その方々は、再び、表現の機会を失うことになるかもしれない。それを思うと後ろ髪を引かれる思いだが、また、いつか再会する日もあることだろう。そして、○○さんが、きっと彼らのことをきちんと代弁してくれることだろう。
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2009年2月22日 14時36分
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通所施設 |
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つるつる、すべすべ、ざらざらなどの感触を学習の中に取り入れている○○さんは、いきなり、手をとって「あかさたな」と聞いていく方法で、「しばたしわしわ」と綴った。
そして、パソコンを出してみると、同じ言葉を書いてから、以下のような文章を綴った。
しばたしわしわ
ちいさいころにぶんをやりたかった
ねがいわはなせるようになることです
きいてくれてうれしい
くやしいちいさいころからはなせなくて
しばたふしぎ
ちいさいときからはなしたかった
きもちいいきいてくれてありがとう
ちいさいころからはなしたかった
きもちいい
ちいさいときからおかあさ
彼女は、視覚障害のある方で、高等部の重複障害学級に所属している。小さいときからの話したい思いがいやというほど伝わってくる。
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2009年2月22日 01時55分
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学校 |
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ある特別支援学校で、出会ったお子さんに、まず、「あかさたな」と聞いていく方法で話をした。そして、そのままパソコンに移っていいった。
このほうほうはだれがかんがえたの
かんたんです
ここで、詩を作ったことはないかと尋ねると、すっと、詩を綴ってくれた。
しみわたるきゃらめるのあまさ
くきょうのつづくぼくのじんせいのなかで
さいこうのあじだった
いつか
つぶくらいのぼくというそんざいが
ぬいぐるみのいのちとしてではなく
いちにんまえのいのちとして
せかいになにか
ちいさくてもいいあじわいを
もたらすことができたらいい
おしまい
彼は、最近、今流行の生キャラメルを食べたという。そしてそれが詩を生み出した。私は、そんなできごとを知らないから、このキャラメルという言葉が、期せずしてこの言葉が紛れもなく彼のものであることを証明することになった。日常の何気ないキャラメルの味ひとつから、世界を考える想像力の飛翔にただただおそれいるばかりだった。
そして、さらにこう続く。
きもちをしずめるためです
のぞみがかなってうれしいです
またあいたいです
ちかくにすんでいるのですか
しっています
さっかーのちーむがあります
ずっとはなしがしたかったのでうれしかったです
ちかくにきたらよってください
さようなら
ありがとうございました
たまたま、お母さん、学校の先生、訪問看護の方など、多くの方が見守る中で関わりが過ぎていった。初めて表現された彼の心の声を、みんな息をのむようにして、そして、時おり、涙を流しながら、聞いてくださった。
浦和には、サッカーチームがあることまで知っていた少年の心は、きっと大きく世界に開かれているにちがいない。
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2009年2月22日 01時44分
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