ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2009年01月17日(土)
2編の詩 そして花と川、仏像のこと
 手書きで気持ちを伝える○○君は、2編の詩を携えてやってきた。
 最初の詩は、12月に亡くなった仲間のことを偲ぶものである。

 人はみな 光りにもどり ねむる
 人はみな 神のもと 光りのままで ねむる
 人を愛し 人に愛され 光り 成長をとげる
 君はまた そこへ もどっていったんだね


 2編目は、幼い少女を歌った小品だ。

 君は わらった
 ヒラヒラと キラキラと
 君は ないた
 ピチピチと キュッキュッと
 君は うごいた
 スイスイと
 スカートをヒラリなびかせて
 やさしい母の手をひっぱり
 もも色の風を感じ
 自由におよく魚のように


 詩について、話し合ったあと、少し彼は、今の自分の状況を嘆いた。
 そこで話を切り替えて、詩とは言わないまでも、なにげなく、いろいろなものを見て感じていることを話してというと、少し、気持ちを取り直して、花と川の話をした。そして、そんな時、生きていてよかったと感じ、その感動を母に伝えたいために詩を書くと語った。
 話は、さらに、仏像の話へと発展する。鎌倉時代の仏像が見たいと彼は言う。私は、仏像をじっくりながめてその感動を生に言葉にしたことはないが、その感動を記した他人の文章ならいろいろ読んだことがあると伝えた。そして、仏像には、たぶん、その時代を生きた人々の、苦しみや悲しみや願いがこもっていると伝えた。彼は、今度は、仏像の話をしたいと行って、さわやかな表情をして、帰っていった。
2009年1月17日 22時26分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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「ちいきでくらしていきたい」
 ○○さんは、知的障害の特別支援学校の高等部3年に在籍している。ワープロで気持ちを綴れるようなって今回が3度目だ。学校からの巣立ちを目前にして、「ちいきでくらしていく」ということを繰り返し語った。

いいきもちです
ちいさいころからはなしたかったけどなかなかいえなかった
きいてくれてありがとう
さみしかった
にんげんだからはなしがしたかった
ちいさいころからはなしたかった
ちいきでくらしていくためにゆめをなくさずにいきたい
ねがいはにんげんとしてみんなとなかよくしていくことです
ちいきでいきていくことができるようにみんなとなかよくしたい
ちゃんとしたかんがえをもってひとりぐらしをしたいです
ちいきでみんなとくらしたい
ちいきでにんげんとしていきていきたいです
ききたいこといっぱいあります
なぜひとりでくらすことはむずかしいのですかおしえてください
できるとおもいます
しんじてください
ちいきでいきていくことがゆめです
しんじてください
ちいきでくらしていきたいです
ちいきでくらしたい
みんなとくらしたい
ひとりでくらしたい
にんげんとしていきていきたい
じゆう
だいじょうぶです
ほんとうです
ちいさいときからはなしたかった

 願いの強さが、繰り返しの中に、にじみ出ているようだ。そんな彼女の気持ちが、高ぶっているところで、話を切りかえるように、詩を作っていませんかと聞いた。そして、書かれたのが次の詩だった。

ちいさなみがおちて はながさいた
ちいさなはなは ちいさなみをつけた
ちいさなみは ちいさなわたしのゆめ
たまのようなひかりがさして
にんげんを にんげんとしてみとめてくれた

ゆめのようですふしぎです
にんげんとしてみとめられてうれしいです
ちいさいころからのゆめでした

 詩を書き始めると、彼女の顔は、輝きを増した。小柄であどけなさが前面に出ている彼女が、そのときは、もう、りっぱな女性の顔をしていた。
2009年1月17日 22時24分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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「きたかぜとちいさなわたし」
 ○○さんは、冒頭から、次の言葉で始めた。

きたかぜとわたしというしをつくりましたきいてください

 そういえば、彼女が「のにさくはなのように」という詩を書いて私たちを驚かせたのは、2年前の1月のことだった。


ちいさなわたしにきたかぜがふく
にんたいしてきたわたしにとって
きたかぜはしんじつをつたえるかぜです
ちいさいわたしをつつみこみ
ちいさいわたしはちいさくわらう
みみをすますときこえるのは
みみのきこえないひとのねがいだ
ちいさいわたしはいちずに
きのうのさわることのできないゆめをおいもとめる
ちいさいわたしはねがいをねがったにんげんや
ねがいをわすれたにんげんたちに
にんたいのすばらしさをしずかにつたえる
ちいさいわたしはしずかにきたかぜのこえをききながら
ひとりにんたいをつずける
きたかぜはゆきとともにやってきて
ゆきのちいさなつぶでにんげんとちいさいわたしを
ひっそりしろいねがいにかえる
ちいさいわたしは
ちいさいころのちいさなねがいをしずかにしのびながら
しろいみみをつけたしろいきたのくにのしかに
ひとりねがいをたくす
ひっそりとしずまりかえったゆきときたかぜのなかで
いいちいさいわたしは
しろいゆきとともにきぼうのきたかぜのおとをきいている
いいちいさいわたしは
ねがいのみちあふれたくうきのなかで
しろいゆきをみつめながら
にびいろのそらからおちてくるひとひらのゆきをみている
りんとしたくうきのなかで
ちいさいわたしは ゆめとねがいにみたされて
にんげんのしあわせをもとめる
ちいさいわたしは
しずかににんげんのひとりとして
しずかにゆめをみている
ひとりのわたしはねがいをねがいながら
ちいさなゆめをつむぐ。

 「にんたい」について、友とリレーのようにして意見を交わし合ったのは、先月のことだった。そして、多くの同じような状況ある人たちのように、彼女もまた「きたかぜ」と「きぼう」、そして「ちいさいわたし」について語る。この冬はまだみぞれ程度しか降っていない。本当に雪がふりつもる時、彼女は、願いを願いながら夢を紡ぐことだろう。

2009年1月17日 22時00分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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十字架のペンダントから
 高校1年生の○○さんは、楽しげに、会話をするようにワープロで文章を綴り始めた。

あけましておめでとうございます
しつれいしてしまいました
ひきしまったすがたでおあいしたかった
ぜひこのからだをじきにほそくしてみたいとおもいます
きりすときょうのじゅうじかのぺんだんとがほしい

 お正月で1sふとってしまったらしく、そのことをめぐる話と、ほしいペンダントの話。ずっと、けらけらと言っていいような笑いを浮かべながら書いていた。
 そして、突然、こんな質問が私に向けられた。

じゅうじかはなぜきりすときょうにかんけいあるのですか

 直感的に本人はある程度知っているはずだと思ったので、知っているのではないですかと問い返すと、次のような答えが返ってきたのだが、表情はいっきにまじめになり、何度も何度も手を止めて、今までになく長考する様子がうかがえた。そして、次のような文章が書かれた。

たぶんきりすとがはりつけになったときしんでからふっかつしてじんるいをすくったといわれていますがほんとうですか
にんげんはくるしみをにんたいすることがおおくてきりすとがいうみたいにはすくわれていないとおもいます
にんげんにとってくるしみはひつようなものなのでしょうか
ちいさいときからずっとからだがうごかないでにんたいしてきたわたしはずっとくるしくかんじていましたが すくわれたのはしんじつのことばをしったからです
にんたいこそしんじつにいちばんちかいということにきがついたからです
ひかりをもとめてきぼうをいのりつずけるということがとてもたいせつだとおもいます
にんたいこそがだいじで しんじつはほんとうのにんたいをしっているひとにしかわかりません

 さらに熟考している様子がうかがえたが、もう時間だったので、いったんワープロを終えた。そして、もしかしたら、ここから、詩みたいなイメージが広がっていくのと聞くと、そうだと言っているような気がしたので、どんな花が出てくるのと尋ね、手を握って、軽く動かしながら「アカサタナ」と聞いてみた。すると、力を入れて送ってきた合図によって得られた答えは、「ゆり」。残念ながら、そのイメージを書いてもらうことはできなかった。
 十字架のペンダントから思わぬ深い方向へと発展していった、今回の文章だが、彼女が発見したことは、十字架のペンダントの世界に限りなく近いということを、彼女自身は知らない。
2009年1月17日 00時53分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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