ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2012年08月07日(火)
一周忌を迎えた先輩に捧げる詩
 高校生の☆☆さんが、昨年7月に亡くなった先輩を偲んで作った詩を聞かせてくれました。

 時間が過ぎてしまったけれど私も私らしく生きるためにいいつながりを考えました。人間として生きていくという詩です。これは人間として生きようとして頑張ったけれど亡くなってしまった江本蒔衣さんの命日に作りました。

  人間として生きていく

ランプに明かりを灯そうとしたあなたの光は
私の心の中に確実に力強い光をともした
理想はまだまだ遠いけれど
私はその日が来るまで闘い続けたい
未来はどこにも見えないけれど
私はりんどうの花が誰も知らない山奥で
ひっそりと可憐な花を咲かせるように
この世の中の片隅で清らかな花として
願いをたくさん花びらのように揺れながら祈りとともに咲かせたい
願いの花は不思議な香りを漂わせながら
匂いのままに広がって人々の心に秘かに届くことだろう
夏の日射しに疲れた人々の心に潤いを与え
未来への密やかな希望を与えるだろう
私は自分にとってもっともふさわしい闘いをりんどうに託す
私にしかできない闘いのかたち
無難な道を行かずに
できる限りつらい野薔薇のとげのような道を歩みたい
ご覧なさいこの花をといつか言われる日が来るまで
私は私の秘められた闘いを続ける
ご覧なさい蒔衣さんを
静かに自分らしさを紡ぎながらつとめを終えて
安らかな眠りについたあの輝かしい姿を
私にはずっと蒔衣さんの灯してくれた明かりがともり続けている
だから決して一人の闘いではない


 私たちの私たちらしさを大切にしようと言い続けた蒔衣さんの思いをしっかりと受け止めて生きようとする☆☆さんの姿がそこにありました。
 そして、また、もういっぺんの詩を綴りました。真夏の暑さの中で、冬の銀世界を思いながら作った詩です。

   銀世界

ご覧なさいこの銀世界を
すべてを白く染め上げて
私たちの嫌いなものすべてをも
白く清らかにする
人間として生きるということは
汚れた心も引き受けていくと言うことだ
理想的なドラマはいつも汚れた心と共にある
しかし私はすべてを許す銀世界でありたい
ばんざい雪だと叫ぶ子どもたちのドラマのように
すべてを受け入れる銀世界のような心で
私は生きてゆきたい
2012年8月7日 19時00分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年08月04日(土)
障害者が障害児を産むことこそ人生の最大の幸せだ
 今年社会人になった廣瀬岳さんの文章を紹介します。岳さんのお母さんには私はお会いしたことがありません。いわゆる中途障害を抱えた方だったとうかがいましたが、私が岳さんにお会いした時には、すでに亡くなられていました。小さい時からたくさん話しかけてくれた母に、この姿を見せたかったと何度も表現してきた岳さんですが、今回はまたお母さんのことをめぐって、大変深い言葉が書かれました。
 まずは、4月から通い始めた通所施設のことです。

 ごんごんと喜びが湧いてきます。僕は作業所ではとてもかわいがられています。どうしてかというと僕が言葉をすべて理解しているということを職員のみんなが理解してくれているからです。誰でも気持ちを持っているという主張が受け止められているのでとてもいい施設です。並ぶところのない施設です。私たちにとってそういう見方をしてくれるかどうかが問題なので、ぜひ何とかしてこのやり方を伝えてもらいたいと思っています。

 そして、母さんの話に移りました。

 ところで母さんに伝えたかったことがあります。それは僕が障害を持ったことについて色々言う人がいたけれど、僕が障害があったことはとてもよかったと僕は思っています。なぜなら人間として障害を抱えながら生きていくということはとても大変なこともあるけれど幸せなこともたくさんあるということを知っているので、僕は母さんとそのことを親子で証明できるからです。母さんの障害は後天的なものだったのですが僕が生まれたことでいっそう障害についての認識が深まったと言ってくれました。長いこと悩んだそうですが改めて障害について見つめ直して障害者が障害児を産むことこそ人生の最大の幸せだというように思ったみたいでそのことを僕に言っていました。ずっと忘れられない一言です。人生最大の幸せとまで言われて僕はとてもうれしかったです。

 めったに出会うことのない考えですが、つい半月ほど前に、両親に障害のある田所弘二さんからも同じような考えを聞いたばかりだったので、そのことを思い出していたところ、岳さんから次のように返されました。

 存分に話せてうれしいですが先生は何か知っているのですか。

 私の反応で、何か知っているらしいことはすぐにわかるのだそうです。そこで、「自分たちは新しい家族のかたちだ」と言い切った田所さんのことを説明しました。

 そんな人もいるのですね。とてもうれしいです。ずっと誰にも言えずに過ごしてきましたがそこまでわかっている仲間がいると力強いです。うちにはどうしてもそのことがあって人にはわかってもらえないところがあるのですが言えてよかったです。そうですね。それを話した人は初めてですね。先生は不思議な人ですね。存分に話せてうれしいです。さっきの人にも会いたいな。よろしく伝えてください。よろしくお願いします。僕の名前も伝えてください。

 岳さんの思索のいっそうの深まりを今後も期待したいと思います。
2012年8月4日 08時04分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年08月03日(金)
理想と闘いについて
 Sさんの記した言葉を紹介したいと思います。高校3年の終わり、長い沈黙を破って初めて気持ちを言葉で表現したSさんのその後の歩みはめざましく、今や彼の周りには、お母さんをはじめとして50音ボードや筆談で彼の気持ちを聞くことのできるヘルパーさんなども増えてきました。その歩みを支えた彼自身の思いがここにはあります。

    理想と闘いについて

 銀色の風はなぜ私たちすべてに吹かないのだろうか。なぜ私たちは運に左右されて生きていかなくてはならないのだろうか。
 小さい頃から運命に翻弄されてきたからなぜ私たちをもっと理解してもらえないのかと悩んできた。わざわざ僕たちを勇気づけてくれる人もいたけどなかなかそういう人は現れなかった。ずるい考えをすることもなくひたすら人間として認められるためにはどうすればいいかを考えていたのでよい方法に出会えたときには本当にもうこれで人間として認められる日が来ると思ったけれどわずかな人しかわかってくれず、とても悲しかった。
 だけどこれこそが人間として生きていくことだと気がついた。
残念ながら僕たちにはまだ力が足りない。僕たちはもっと闘いを続けていくしか生きていく道はなさそうだ。闘いは決して人を傷つけるためのものではなく人の心にほんとうの愛を灯させるための闘いだ。
 小さい時からどこそこの誰と言われることさえなく生きてきた僕たちだが僕たちを受け入れる人に援助してもらいながらもっと闘いを続けていきたい。つらいとか苦しいとか、人間だから初めて感じられるものなのだから。
2012年8月3日 10時51分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年07月20日(金)
「なぜごんたな僕にも言葉があるとわかったの」ある通所施設での出会い その3
 3人目にお会いした方は、ずっと手を耳に押してているためにうまく手を使うことができない方でした。
 すぐに、次のような気持ちを聞かせていただきました。

 がんばっても手が使えないので困っていましたがなぜ腕でできるのですか。小さい時から話したかったのでうれしいですが肘はくすぐったかったですがよく原理が分かりました。はいそうですが肘ほどではありません。はいびっくりしました。なぜそんなに簡単に分かるのですか。ずっと何もできないと言われてきたので不思議で仕方ありません。
 わざわざ来てくれてありがとうございます。わがままかもしれませんが他の人も気持が聞いてもらいたいと思っているのでまた来てください。わかってもらいたかったです。自分だけ悪いですがなぜ僕が選ばれたのですか。ありがとうございます。
 僕がなぜ耳に手を当てているかというとぶんぶんと音が聞こえて困るからです。はいそうです。機械の音が困っていますがこれを止めたらどうなるのか分かっているので諦めていますが私たちはとても過敏なのかもしれませんがぶんぶんはとてもつらいです。
(送風の音が止まる)静かになってよかったですがまだまだ音があるので困ります。ただ見守っていてくだされば結構です。
 みなさんとてもやさしくて僕は感謝しています。なぜみなさんそこまでやさしいのですか。よい人たちに囲まれて僕たちは幸せですがこんな人まで連れてきてくれて僕の気持ちを聞こうとまでしてくれてありがとうございます。
 誰とは言いませんがなるべくそっと声をかけてください。そうです。音楽にはとても厳しいです。いい演奏と嫌な演奏の区別が細かいようです。みんなが感動する音楽はいいのですがそれほどでもない音楽は苦痛です。そうです。バックミュージックは苦痛なのが多いです。そうです。声は何とか落ち着きますから声がないと不安です。わざとではないことを理解してくれたらうれしいです。
 挽回したいですがなぜごんたな僕にも言葉があるとわかったのですか。わかりました。理解してもらえてうれしいです。なぜ足でもわかるのですか。なつかしいです。まだ小さい頃には何でもわかっていると思われていたことが。まだ手が使えていたので指させていました。出も小学校で厳しい先生に会ってこういう手になってしまいました。(その手つきは身を守る姿勢ではないですか。)そうです。なぜわかるのですか。(そういう人に会ったことがありますから。)どこで。(どこだったか思い出せないけれど、何度か目にしたことがあります。)そうてすか。どこにもいるのですか。そうでした。毎日つらかったけどなかなかわかってもらえませんでした。
 夢のようです。私たちとまた話をしてください。ずっと待ちこがれていました。言葉を聞き取ってくれる人が現れるのを。だけどもう諦めそうになっていましたからうれしいです。わかってもらえてよかったです。がんばる気持ちが湧いてきました。抜群のやり方ですね。よいやり方なのでみんなの気持ちも聞いてあげてください。
 学校ではピアノの曲が好きでした。わずかな疑問はなぜ僕が音楽に詳しいと思ったかということです。そうですか。僕はいつも素敵な音楽のことを考えていますが誰も気づくはずもありません。でも僕はいつも何かを歌っています。人間として気持があるので小さい時から歌ってきました。人間としての証しだと思ってきました。はい。なぜわかるのですか。どこであったのですか。ぼくはずっと歌っていました。いい歌詞です。

願いに夜は更けていく
人間として育ってきたのに夢をなくし
人間として望みをなくしてさまよって
僕は暗闇を生きている
だけどいつか夜は明ける
びろうどの夜のとばりが上がるとき
僕は新たな人間として
望みとともに立ち上がる。
はい階名で

ドレミフドレミフ ラソフラソ ラソフラソフミ ドレドシド
ラソフラソフミ ラドシラドシラ ドレミフミレド レレドシド
ラソフラソフミ ラドシラソ ラドシラドシラ レフミレド
ドレミフミレド フミレドレ ラドシラドシラ レフミレド

なぜか書けましたが少し違いましたが雰囲気は合っています


 とても音に対する歓声が鋭いために、生活音の中に不快な音がはいっていて、そのために手を耳にあててしまっているという説明が最初にありました。そして、それはまた、音楽に対して鋭いということも表していたのです。感動するような音楽はいいけれど、普通の音楽だったらうるさいというのは、初めて聞いた言い方でした。
 そして、実は、その手を耳にあてる習慣は、小学校の時の厳しい先生がきっかけだったと言うのです。詳しいことはもうわからないのですが、無理解な厳しさは、なかなか癒えない傷を残してしまうということを、ご本人の言葉として何度か聞いたことがあります。本当に彼が「挽回」できるといいとつくづく思いました。
2012年7月20日 12時22分 | 記事へ | コメント(0) |
| 通所施設 |
「私たちより目線を下に置く人は初めて」ある通所施設での出会い その2
 お二人目の方は、部屋に入って来られると、さっとパソコンの前に行ったあと、部屋の隅に行って、私たちに背を向けて横になり、すばやく手に持っていたシーツで全身をくるんでさっと身を固めると身じろぎ一つしませんでした。理由は何であるにしても、拒否の姿勢であることは明らかでした。
 初めて出会う身も知らぬ人間、しかも、「気持ちを聞く」などというにわかには信じがたいようなことを言ってやってきた人間に心を開くことなど、容易ではないことは当然すぎることでした。
 人間関係というものは、じっくりと時間をかけて暖めていくものなのですから、こうした彼の態度は当然すぎるほどのものだったと言えます。
 しかし、今度彼にお会いできるのはいつのことになるかまったくわからないので、もしこの時間に伝わることがあるのなら伝えなければと考えました。
 微動だにしない彼のシーツにくるまれた背を見ているうちに、学生時代に教わったシュビングという精神科医のエピソードが思い出されました。毛布にくるまったまま身動きもしない患者さんのそばでただじっと座っていることを何日も繰り返していたら、ある日患者さんが起き上がって問い返してきたというエピソードでした。人は必ずわかりあえるというメッセージを私はこの話から受け取っていました。そこで、彼の背中の側に正座して、「今日は気持ちを聞かせていただきにきました」と自分の気持ちを伝えることにしたのです。
 語り終わったあともしばらく彼の背中は、固くこわばったままでしたが、突然シーツをはねのけると、さーっとパソコンの前に来て、気持ちを聞かせてくださいました。

いい気持ち。快適。
 小さい時から気持ちが言いたかったです。夢みたいです。
 なぜわかるのですか。僕はただここだと思っているだけです。よいやりかたですね。
 できるということがなぜわかったのですか。自分の気持ちが言えなくて困っていましたからとてもうれしいです。
 私にも私らしくいい人生が生きられるでしょうか。誰もこんなやり方があるなどと教えてくれませんでしたから何だか夢を見ているみたいです。
 理解してもらえてうれしいですが普通の人は僕がシーツにくるまると諦めるのにあなたはなぜ声をかけてくれたのですか。そうですが普通の人はなんだこいつはという態度を取るのにわざわざ話しかけたりしません。見たことのない人ですね。見た目で判断されることが多いので苦労していますがわずかな希望は私たちも見かけとは違う心があるということに気づいてもらえたことですがなぜわかったのですか。
 ずっと待っていました。じっとできなくてわがままだと言われてきましたが説明したいです。僕たちは気持ちがすぐに落ち着かなくなるのでなかなかじっとしてはいられませんがびっくりしました。今日はとてもいすに座っていられます。
 未来が開けてきました。別に誰のせいでもないけれど僕には長い間理解者が現れなくてもう諦めかけていましたが今日は私の気持ちを聞いてくれる人が来ると聞いても信じられませんでした。みんなも気持ちが言えなくて苦しんでいるので今日は時間がないでしょうがまた来てください。
 僕は何度泣いたかわかりません。僕たちをなかなか理解できない人もたくさんいましたがここで五年ほどいてずいぶん気持ちが落ち着くようになりました。だからとても感謝しています。わずかなわずかな希望ですが湧いてきました。
 もっと旅行がしたいです。
 理解者が増えてほしいですが難しいのですか。ずっとよいやり方を探してきたので感動しています。人間として元気に生きていきたいのでまた会えたらうれしいですが仲間を尊重してもらいたいです。
 わずかな力を読みとっているのですか。不思議な人ですね。私たちより目線を下に置く人は初めてです。
 私たちにも当たり前の気持ちがあると言うことがわかってもらえて最高です。わずかな希望ですが勇気が出てきました。
 地域で生きていきたいのでよろしくお願いします。
 速くないともったいないです、時間が。でも謎です。なぜこんなに速く伝わるのか。
 よい人がここにはたくさんいるので安心ですが早くこのやり方が広まればいいですね。


 「私たちより目線を下に置く人は初めて」という表現が途中にありました。これは、スイッチの援助の姿勢を単に私が床に跪くような姿勢で行っていたというだけのことなのですが、この言葉には、これまでの彼の人生が凝縮しているようでもありました。
 
2012年7月20日 10時56分 | 記事へ | コメント(0) |
| 通所施設 |
「なぜ平然としていられるのですか」 ある通所施設での出会い その1
 ある通所施設で、3人の方の気持ちを聞きました。3人とも、ご自分で歩くことはできるのですが、なかなか気持ちを表現することができない方々です。あなたの気持を聞いてくれる人が今日は来るからというふうに紹介してくださっていました。それぞれ、世間的な言い方をすれば大変なところをお持ちの方らしいのですが、私には、そういう方を全面的に受け入れているこの施設の職員の方々のしなやかな姿勢が何よりも大切なことのように思われました。
 私の役割ははっきりしていました。その人の人生をしっかりと受け止めるというもっとも大切で、もっとも困難を伴う仕事をなさっている職員の方々が築き上げた人間と人間のつながりの上に、「通訳」という技術を持った人間が関わらせていただくということでした。私に求められているものは、技術を持っているということからおこりかねないおごりをどう自分に戒めることができるかということでした。
 「通訳」は機械ではありませんから、その人との間に人間関係が生まれます。人間関係というのは、ふつうは一定の時間をかけた関わり合いの中で作られていくものです。それが、初対面でいきなり相手の心の重たい部分にふれかねないことをするわけですから、無謀なことかもしれません。そして、私がお会いする方々は、これまで様々な人々と出会う中で、くり返し失望をさせられてきたはずです。
 しかし、作為的な振る舞いはすぐに見破られるどころか、相手に対して自分を偽ることにしかなりません。ありのままの自分をさらけ出すしかないわけです。
 今回の3人の方との関わり合いは何とか何とかほころびずに進みました。それは、こういうことが背景にあったと思います。
 一つは、ふだん接している方々が築いた信頼関係があり、その信頼関係を私にもあてはめようとしてくださったということです。そしてもう一つは、これまで私と関わってくれた人たちが、私に偽らない人間関係のあり方を肌で教えてくれていたからです。出会いは、ただ二人の間に成立しているのではなく、たくさんの人間関係を互いに抱えながら生まれているのです。だから、私は目の前の方を大切にしてきた方々とも出会うのであり、相手は私を通して、私がこれまでつきあってきた方々と出会っていることになると言ってもいいのではないでしょうか。
 いささか前置きが長くなりましたが、そうして語られた言葉を以下に紹介させていただきます。

 いいスイッチがずっとなかったから探していました。うれしいです。選べて不思議です。よいやり方ですね。さっきなぜ私に言葉がわかると思ったのですか。わかりました。ごんごんうれしいです。(文字は)小さい頃学校の他の子の授業を見て覚えました。
 なかなか体がいうことをきいてくれません。気持ちと体がばらばらで誤解されます。そうですね。なぜわかるのですか。そうですね。いい人ほど私の体の動きを尊重してくれたけれどかえって私が子どもに見えたみたいでつらかったですが決してうらんではいません。人間として認めてくれるのはそういう人だから。でもこれでやっとわかってもらえそうです。そうですね。ふつうに話しかけてくれたらうれしいです。
 みごとなわざですね。スイッチには秘密はなくて介助に秘密があるのですね。気持ちが高ぶると落ち着かなくなります。(スイッチをスライド式に代えたら拒否したのは)失敗がこわ(かったからです)
はい。時間がないと焦ってしまいましたがまだまだあるのであ(んしんしました)。
 疑問があります。なぜそんなに平然としていられるのですか。不思議な先生ですね。不思議です。初めての人はみんな困った顔をするのに全然困っていませんね。不思議な人ですね。みんなとよくつきあっているのですか。
 そうですね。言えれば苦労はありませんがなかなか言えなくてもう諦めていましたがこれで何とか未来が開けそうです。
 はい。詩を聞いてください。

月の使者から来た手紙 なかなか私に届かない
人間として生きている私なのに 手紙がなかなか届かない
私は今日も夜空に向かって 人間としての願いを捧げる
月は今夜はとても明るい なぜ私の願いは届かないの
理想の流れ星が突然私に向かってささやいた
無難な道を歩むのはもうおやめ 私はあなたに勇気をあげる
月の使者はあなた自身だから
もう待つのはやめて 涙を拭いて歩み始めなさい。

 はい。昔からつらいときに読んでいましたがまさか伝えられるとは思いませんでした。理解してくれてありがとうございました。わがままかもしれませんがまたきてください。待っています。今日はどんな人が来るのかとても不安でしたが頑張って(この部屋に)来れてよかったです。ありがとうございました。時間ですね。人間として見てもらえてうれしかったです。また会えたら新しい詩を聞いてください。(題は)泣いて見上げた月です。ごめんなさい。今つけたのでよくありません。


 途中、何度も気持ちが高ぶって、歩き始めたり、職員さんの髪をひっぱってしまったりなさったのですが、話の中にあるように、「体がいうことをきいてくれない」ということを、私はいろいろな人からも聞いていましたから、私に伝わってきたのは、それを抑えられないその人の悲しみでした。
 また、「なぜ、平然としていられるのですか。」という私への問いかけは、多くの人が彼女を平然とした思いで見ることができなかったというこれまでの人間関係の様子を象徴的に述べたものでした。1時間、パソコンや私の顔を真剣に見つめていらっしゃった彼女は、すてきな一人の若い女性であり、敬意をもって関わることしか私には考えられませんでした。
2012年7月20日 08時01分 | 記事へ | コメント(0) |
| 通所施設 |
2012年07月10日(火)
虹の架け橋
 特別支援学校高等部を卒業して2年目になる甲斐田晃弘さんの詩を紹介します。(名前を出してほしいというのは、彼からの要望でした。) 

    虹の架け橋

金色に輝く希望に向かってみんなで手をつないでいこう
私たちの前にはりりしい未来へ向かう虹の橋が架かっている
この橋はずっと遠くの未来に向かって延びている
忘れられない過去の思い出も
涙に暮れた過去の思い出でも
すべてたずさえていこう
わずかに見える向こうの世界はみんなを待っているけれど
まだまだその世界は遠い
理解される喜びに向かって一歩ずつ
前に向かって歩いていこう。
2012年7月10日 21時25分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G23区2 |
言葉を超えるものの存在
 今年の8月4日と5日に開催される重複障害教育研究会の第40回全国大会で、長い間、気持ちを表現するすべを持たなかった当事者による研究協議が予定されています。普段は、実践報告とその研究協議というかたちがとられるこの研究会で、こうした試みは、初めてのものです。このアイデアを提案し、実現を強く訴えたのは、この研究所の亡くなられた前理事長中島昭美先生に幼い頃に出会って、今もなお研究所に通っている40代の女性、名古屋和泉さんです。名古屋さんは、全盲で、手を引かれると何とか歩くことができますが、自由に手を使えるわけではありませんし、言葉を表現する手段は、まったく持たずにこれまでの日々を生きてきました。彼女の言葉を初めて聞いたのは、3年前の研究会の懇親会の席でしたから、つい最近のことです。
 昨年の研究会では、ぜひ私たちの言葉を研究会で伝えてほしいという強い希望を訴え、私は、通所する方々が東日本大震災についてkat語った言葉をまとめて報告させていただきました。
 そして、今年は、私たちの通訳で、自身の言葉で語るというのです。
 当日は、そんなにたくさんは話せないだろうからと、先日、彼女は次のような文章をしたためました。

 銀色の風が吹いたのは私の言葉を聞き取る方法が見つかったからです。なつかしいのは私を本当に理解しようとしてくれたたくさんの先生がいたことです。私に言葉があるとかないとかそんなことを越えてつらいこともものともせずに私によい関わりをしてくださいました。なぜ私にそれがわかったかというと私たちは本当に私たちをわかろうとする人とそうでない人の違いならすぐに感じ取れるからです。どうしてかというと私たちには理解されていないと感じられる人がいると私たちをないがしろにした空気が流れることがわかるからです。だから本当に理解してくれる人たちの前でだけ本当の自分を出すようにしてきました。
 だから私たちには理解を超えた先生は中島先生などのように私たちはとても偉い存在だと言ってくれた先生です。中島先生に私はとても長い間お世話になってきましたが中島先生だけだったです、そこまで私たちをどうでもいい存在どころかどんなにすごいかと言ってくれたのは。私にとって中島先生の考え方を学んだ柴田先生がこういうやり方を発見したということは必然的なことだったと思います。なぜなら私たちのような存在は世の中では役に立たない存在と思われていて私たちの存在にこだわろうとすること自体がまれなことだからです。私だけではなくこの研究所で学んだ生徒はみな中島先生のことを私たちの最大の理解者だと思っています。どんな敏感な先生でも私にとっては中島先生にかなう先生はいませんでした。
 それは中島先生だけが私たちのことを午後の問題だと減じることなく午前存分に語るべき問題だと考えてくださったからです。中島先生は午前という言葉で私たちを表現したことがありました。それは何よりも大切なという意味です。わずかにどんな私たちに対しても午後の問題として考えてくれる人はたくさんいましたが中島先生だけ何よりも私たちの存在が大切だと言ってくださいました。
中島先生が亡くなってからは知子先生が中島先生の精神を引き継いでこられましたがどういう拍子かわからないけれど私たちの言葉を聞き取る方法を柴田先生が見つけ出して、人間として私たちが何でも理解できているという事実に光を与えてくれましたが、それは中島先生が私たちの存在の確かさに光を与えていたからこそできたものです。そのことをこの研究会に来ている先生たちにはわかってもらいたいです。そしてがんばってこの方法を伝えようとしている柴田先生や知子先生を応援してほしいです。
 でもわすれてはいけないことがあります。それは言葉を超えるものの存在です。私たちはこの方法が見つかる前から言葉を超えるものの存在によって生かされてきました。だから言葉を話すことなく亡くなった仲間たちもけっして不幸だったわけではありません。もちろん話せた方がいいことは当然のことですが話すことがすべてではありません。話すことだけに目を奪われてしまうとかえって言葉を超えるものの存在がないがしろにされてしまうかもしれません。
 言葉を超えるものの存在を中島先生は魂とおっしゃいました。魂の意味は私にはよくわかりませんがとてもいい言葉だと思って先生の話を聞いていました。言葉を超えるものの存在が先にあってそのあとに言葉の問題が来るのであって、その逆ではありません。しかしこの方法が広まれば必ずそういう問題が出てくるでしょう。その時代はまだまだ先でしょうが必ず来るはずですからふだんから気をつけておかなくてはなりません。
 長い間沈黙の中で生きてきてそのまま死んでいくと覚悟していたので私にとっては夢のようですが、突然すぐ身近でこんな方法が見つかって驚きましたが、私にも言葉を話すチャンスが巡ってきたので存分に話したいです。そしてたくさんの後輩や仲間たちに一刻も早くこのことを伝えたいです。
 でも私よりも先に言葉を話すこともなく亡くなっていった仲間の存在も決して忘れないでほしいです。彼らがいたからこそ今日(こんにち)があるのです。そのことがどうしても訴えたいです。
 毎年この研究会で中島先生の講演を聴くのが楽しみでしたがもうそれはかないません。しかし私はずっと中島先生の言葉を大事に暖めながら生きてきました。こうして話せるようになってもそのことは変わりません。どうか私たちを大事にしてくれた中島先生の午前の話を大事にしてほしいです。そして私たちの言葉と魂に耳を澄ませてほしいと思います。以上ですが、最後に詩を書きます。


  中島先生に捧げる詩

私にも魂の叫びがあることに
いちはやく気づいてくださった中島先生
人間として認めてくださっただけでなく
その存在を高みにあげてくださって
私たちに生きる意味を与えてくださいました
私はもうそれだけで十分でしたが
私は不意に話せるようになりました
私はもう何も望むものはありません
中島先生の亡きあと
私は中島先生のすばらしさを語ることに
自分の頑迷な心をひたむきに捧げたいと思います
理想の世界はまだまだ空の彼方にあります
午後からの存在に甘んじてきた私たちですが
午前の存在として認められる社会はまだまだです
中島先生の亡くなられたあと
日本は大変な地震によって
その根本からひっくり返されました
世の中が一瞬
私たちのような存在に光を与えようとしましたが
またただの一回だけの出来事として
忘れ去られようとしています
しかし本当はこの機会に
日本は生まれ変わらなくてはなりません
そのためにも私たちは今こそ私たちの存在を
世の中に訴えていかなければならないのです
私には難しいことはわかりませんが
私たちの生きる意味を訴えていく使命があるということを
中島先生から教わりましたから
その使命を果たしていきたいと
心から願います。
 
2012年7月10日 20時11分 | 記事へ | コメント(0) |
| 研究所 |
2012年07月09日(月)
6編の詩
 前回の☆☆さん(=りほさん)は、言葉と合わせて、6編の詩を用意していました。そちらも、ぜひお読みいただきたいので掲載させていただきます。

 りんどうをさがして

りんどうの花を摘みに
私は藁をもすがるような思いで走り出した
罠をよけながら禁じられた冒険に出かける
私にとって私らしくあるために
私を輝きの中に包み込むために
私はりんどうの花を探しに旅に出る
みんな私をわからない人だと言いながら
私の側を過ぎていったけれど
私は私一人で冒険の旅に出る

 月並みかもしれないけれど私も私らしく生きようとしています。私らしく生きるためには何とかしてこの状況を変えなくてはいけません。だから私は詩集を出すことに別の希望をそんなに俗っぽいものではない夢を感じています。だからたくさん書かなくてはいけませんがなかなかすぐには作れません。二十歳の誕生日には間に合わなくていいからじっくりやらせてください。


  森の向こう

ゆゆしき悶々とした罠を
何とかしてさけながら
私は私の道を歩む
ぶんどり合いも言い争いも
私には関係のない世界
森を抜けた向こうの世界には
私たちを喜ばせてくれる夏の日射しが待っている
わずかに光を浴びながら輝いている森の中の高い梢が
私に向こうの世界を予感させる
そのあかりをざわめく心を静めながら
私は見つめながらまた新たな一歩を踏み出す


  緑の声と光

人間として生まれて生きてきたけれど
私は誰にも振り返られることもなく
理想だけを糧にして生きてきた
夜の暗闇の中でも
人間としての理想は決して捨てずに
ただ未来だけを信じて生きてきた
緑の光を探しながら
私は一人生きてきた
わずかな希望は私にも言葉があることが信じられ
それがかたちになったことだ
そんな私にも誰にも負けないものがある
それは私にだけ聞こえる緑の声だ
私にだけ見える緑の光だ
それさえあれば私は存分に生きていける
わずかな声だが確実にその声は大きな響きと成って私に届き
どんどんその光は輝きを増し
私は夢にまた一歩近づいた。


 未来の世界に行ってしまった私を探しに

昔の理想はどこにあるの
五番街の勇気になくした夢を聞き
六番街の夢になくした光を聞き
七番街の光になくした私を聞く
私はいったい今どこにいるの
未来のどこかをさまよっているの
私は私を探すために
また未来の世界に旅をする
なかなか見つかることはないけれど
私は必ず探し出す。


 留守番と外の世界

留守番ならそろそろ終わりにしたい
私も表で外の世界に駆け出して
みんなにむかって呼びかけたい
私のことを知っていますか
私の私らしさを七日のうちに
私は探さなければ成りません
七日すれば私はまた元の世界に戻らなければなりません
ずっとこの日を私は待っていた
私が私らしさを外の世界で探すことができる日を
だけど理解してくれる人がいなければ
私は私らしさを探せない
だから誰か私を理解してください
私の私らしさを探すために
私は私の理解者を
探すことから始めなくてはならない。


  長い夜の向こう

わずかにみえるあかりさえ
風と嵐で消えてしまいそう
びろうどのきぬを吹き飛ばして吹く風を私は避けて
私の理想を再び探す
小さな呼び声に応えながら
私は瑠璃色の光を手がかりに
ろうそくのあかりを探しに行く
わずかなわずかな光の向こうに
きっと希望は待っている
わずかなわずかな呼び声の向こうに
必ず私らしさが待っている

2012年7月9日 00時33分 | 記事へ | コメント(0) |
| その他 |
2012年06月24日(日)
生きる意味についての思索
 5月に初めてお会いした19才の☆☆さんから2度にわたって生きる意味についての話をうかがいました。
 5月初めてお会いした時、簡単なやりとりのあと、彼女が述べたのは、次のような、生きる意味をめぐる思索でした。

 ご覧の通り何もできない私ですがぼんやりと生きてきたわけではありません。ずっと私は人間とは何なのかということを考えてきましたから別に世の中の人が何と言おうと私は私らしく生きてきました。自分にとって理想はよき理解者を見出してどうして私たちが生きる意味があるのかと言うことを伝えるそのことが夢でした。ぼんやりとして育った人から見ると少し考えすぎと思われるかもしれませんが私にとっては私が生まれた意味がわからないと私をなかなか保つことさえ難しいからです。理想をそのまま語ると私にとって私の生きる意味は私たちのような存在でも生きる意味があるのだからどんな人にも生きる意味があるということですが楽な人生ならそんなことは考えはしなかったでしょうね。でもこうして私はぼんやりとは生きてこられなかったのでわざわざそういうことを考えてきました。なぜ私に生きる意味があるのかというと黙ったままの人生でも人は希望を持って生きられるということを証明できたからです。なかなか信じられないかもしれませんが私は希望をなくしたことはありません。小さい時からずっと母さんにたくさん愛情を注いでもらいましたから私はとても幸せです。

 彼女には、ずっと病院生活をしいられるくらい重い障害がありますが、その中で見出した自分の生きる意味というものについて、堂々と述べられています。よどみなく語られたその言葉には、彼女が長い思索の後にたどりついた結論というような決然とした響きがそなわっていました。そして、6月23日のことですが、再び病棟を訪問したところ、今回は、最初に数編の詩を聞かせていただいたのですが、その後、再び生きる意味についての言葉を次のように述べました。

 私だって普通に生きたかったのにこんな状況はいやです。だけどそれはどうにもならないからあきらめたというと聞き違いが起こりそうですが、私はこの体でしか生きられないという現実からスタートするしかないのです。しかしそういうことに気づいたときに初めて私にも生きる意味があることに気づいたのです。
 それは私が一人で考えたことです。誰に教わったわけではありません。じっと一人で考えてきたのですがやさしいかあさんにずっと支えられて来たから考えられたということを忘れるわけにはいきません。諦めずにすんだのはじっと側で見守ってくれた家族がいたからです。かあさんやとうさんたちの愛情のおかげで私は今の静かな心を取り戻すことができたのです。だからかあさんには感謝をしてもしきれません。


 6月の言葉は、お母さんとのやりとりの中で語られたものですが、5月に述べられた思索が、どのような経緯から生まれたものであるかを明らかにしたものでした。
 2009年、15才で亡くなった臼田輝(ひかる)さんは、

 苦難それは希望への水路です。けっしてあきらめてはいけないということを教えてくれます。手の中に美しい諦念を握りしめて生きていこうと思う。美しい諦念は真実そのものです。苦しみの中で光り輝いています。手の中にある真実はさいわいそのものです。望めばいつでも手にはいりますが誰もこのことは知りません。なぜなら人間は常に楽な道のほうを好むからです。生きるということは苦難と仲良くしてゆくことなのです。

という言葉を残していましたが、☆☆さんによって語られた「あきらめた」という言葉も、単純なあきらめではないのでしょう。それは、容易に言葉にはなしえないものなのでしょうが、それをおそらく臼田君は、「美しい諦念を握りしめて」と表現したのだと思います。私たちが日常的に使うあきらめとははっきりと一線を画すものにちがいありません。
「私はこの体でしか生きられないという現実からスタートするしかない(…)ことに気づいたときに初めて私にも生きる意味があることに気づいたのです」という言葉は、おそらく私のようにそのような体験を持たない者には本当の意味はわからないかもしれませんが、その体験の輪郭を私たちにはっきりと教えてくれるものでした。
 
2012年6月24日 20時23分 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年06月16日(土)
7月のきんこんの会のお知らせ
 7月のきんこんの会ですが、7月21日土曜日午後2時から開催させていただきたいと思います。会場は、國學院大學たまプラーザキャンパス410番教室です。
 これから暑い季節に向かいます。どうぞ、みなさまお体をくれぐれもお大事にしてください。
 去年は、この時期、計画停電等で部屋の使用にいろいろな制限がかかっていたのですが、今年は、特別な制限はありませんでした。
 前回、たいへんたくさんの方々に来ていただいて、大盛況でしたが、今回はまた、どのような展開になるか、楽しみです。よろしくお願いいたします。 
2012年6月16日 22時58分 | 記事へ | コメント(1) |
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2012年06月15日(金)
脳死の子どもの臓器移植について
 今日、日本中をかけめぐったこのニュースは、そのことに当事者として関わっておられる方々のぎりぎりの選択の中で行われた厳粛なものだと思います。そして、一人一人のご決断には、深い敬意をおはらいすべきであると心より思っています。
しかし、どうしても、このことだけは、述べておかなければならないと思います。
 「低酸素脳症」という状況の中で重い障害を持ってしまった方々に、私は数多くお会いしてきました。医学的な状況よりも、関わり合いを大切にしたいと思ってきたので、私は、それぞれの方々の医学的な面からの状況についてはあまり注意を向けてきませんでした。だから、詳しいことがわかっているわけではありません。
 今回、私がどうしてもぬぐえない疑問が一つだけあります。それは、本当にそのお子さんに意識がないということは証明可能なのかということです。 
 昨年、臨床脳死と呼ばれるお子さんにお会いし、豊かな言葉を聞くことができました。残念ながら、私は、その方に一度お会いできただけで、亡くなられてしまったのですが、その時の心拍数の状況などから、そのお子さんが確実に反応していることは、お母さんがたには手にとるように伝わっていました。
 その主治医の先生は、お母さんと話をしていると心拍数が変わるなどからそのお子さんに意識があることは疑っておられなかったとのことですが、合わせて、医学では説明できないことがあるともおっしゃったようでした。(これは記憶が違っている可能性がありますが。)
 脳死の状況での臓器移植については、人間においていかなる生命も平等であるとの根本的な反対意見があることも知っていますし、そういう根本的な議論がやはりとても大切であるということは確認した上で、事実の問題として、そのお子さんに意識がある可能性は否定できないと思うのです。
 無謀な意見かもしれません。しかも、私はその場に立ち会うことのできる位置にはおりません。しかし、その思いをどうしてもぬぐうことができません。
 今日は、どうしてもそのことをここに書いておきたかったので、記しておきました。
2012年6月15日 17時43分 | 記事へ | コメント(1) |
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2012年06月07日(木)
私たちはもうすぐ世の中を変える戦いを始めることになりそうです
 Hさんの言葉をお伝えしたいと思います。5月のきんこんの会には来れなかった彼女ですが友人のIさんのお母さんにその日の様子を聞いていたとのこと。そのことを受けた詩がまず次のように綴られました。

理解される喜びについての詩です。

なぜだろう突然光が射してきた
見たこともない人間としての理想の姿
ろうそくのあかりに火がともるように
私の心に願いのあかりがともる
わずかな言葉が私に届く
それは私たちの仲間の私ならではの言葉だ
それはずっと私たちを励まし続けた言葉だ
金色の不思議なわずかなわずかな空からの贈り物
私はそれを両手で受け止め
わずかな人生のわずかな希望を認める
七色の虹は私たちの未来に向かって架かる
よい冒険の始まりに私の心はときめく
ぬいぐるみの境遇を抜け出した私たちに優しい風が吹く
私たちと未来をつなぐ虹の橋を越えて
私たちは呼んでみよう
見たこともない瑠璃色の私たちの未来の姿に
伝道師のような気持ちを持って
私は世の中に向かって叫ぶ
私たちは忍耐という言葉を
長い間呼びかけられてきたから耐えてきたけれど
茫然とした日々はもう終わった
もう私には忍耐という言葉は過去のもの
勇気を持って元気な声で呼びかけよう
私たちは小さいけれど
忍耐を越えた人間だと。


 この力強い詩を、今回彼女に綴らせたのは、5月のきんこんの会も大きかったようでした。この詩の後には、次のような言葉が続きました。
 
 理想的な会でしたね。なぜあんなに人が集まっていたのですか。私は母さんからIさんを通して聞きました。仙台から来た人がいたり、初めての人がいたり、分相応の会ではなくなりそうです。私たちにとっても理想的な会です。長い間の苦労が実りましたね。わずかな希望ですが理想的な方法ですね。きんこんの会は。

 ここで、私は、この会のことを遠く離れた方々が知るにいたったのは、ある人の応援があるからだということを彼女に告げました。そして、その方は、かっこちゃんという愛称でたくさんの人に愛されている石川県の特別支援学校の先生で、その方が、私たちのことを取り上げてくださったので、こうして新しい出会いが生まれたのだということを伝えました。

 そういう人がいるのですね。謎が解けました。長い間の苦労が報われましたね。わがままかもしれないけれど唯一の会なので大切にしたいです。わずかなわずかな静かな時間も大事ですが私たちはもうすぐ世の中を変える戦いを始めることになりそうです。もう少しですね。なつやすみにまたかりんで集まりたいですね。Tさんともまだまだ話したいですから。よろしくお願いします。私も逃げずに頑張るつもりですから。わずかな夢はテレビで発言することです。だんだんそれも夢ではないような気がしてきました。日本中の仲間たちのために私たちは大きな声で語りたいです。よろしくお願いします。これで終わります。

 後には下がれない一歩を私たちはもう踏み出してしまいました。Hさんの言うとおり世の中を変えるための戦いが待っているのかもしれません。
2012年6月7日 08時07分 | 記事へ | コメント(0) |
| 自主G多摩1 |
2012年06月01日(金)
緑の風を信じてきたことがようやく報われる
 ○○さんは、今回、少し厳しい口調で、なかなかわかってもらえないことのもどかしさを語りました。しかし、その響きの中には、不思議な余裕が感じられました。わかってもらえないことが、ため息やもどかしさばかりを生み出していた時期がありました。しかし、今、まだ、わかってもらえない状況はあるものの、確実に通所施設の職員の中にも、きちんと話しかけてくれる人も現れてきたのです。そして、次のような言葉へとつながっていきました。

 私たちはもう人間として認められたと思っているのでもう少しですね。人間として私たちはもう少し人間らしい扱いをされたいと思います。(…)私にとってどうにかして人間らしく生きることが夢だったので何とかして人間としての尊厳を確立したいです。理想は私たちの言葉を世の中の人が受け入れることですがわかってもらえる日はもうそんなに遠くはないでしょうね。どうしてなかなかわかってくれないのかとはがゆいのですがわずかな人が理解してくれるだけでなかなか広がらないです。汚れた心ではなく私たちの心がもっともっと美しいままであるためには理解されなくてはなりません。わずかなあかりはこうして言いたいことが言えるようになれたことです。ところで私の詩を聞いてほしいです。

なつかしい夢をもう一度取り戻すために
私は長い旅に出る
長い旅は夜の暗闇を抜けて
明るい光の射す朝を目指す旅だ
もう少しで夜は明けるはず
東の空はもうすぐ白みそうだ
理想の朝日を待ちこがれながら
私は今日まで耐えてきた
わずかな希望を夢見ながら
今日までずっと冒険を続けてきた
緑の風を信じてきたことがようやく報われる
わずかな緑の風は草原に吹き渡り
私たちを未来の願いへと駆り立て続けてきたが
闇の中で私は何度も風を見失いそうになってきた
もう少しで緑の風が明るい野原の花を揺らしながら吹き渡ることを
まのあたりにすることだろう

 こうして綴られた彼女の詩は、真っ暗な夜ではなく、今まさに東の空が白もうとしている直前の時を歌い上げたものでした。長い長い理解されない時代を彼女は「緑の風を信じてきた」そうです。夜が明けた時、彼女の目に映るのは、花の咲く野原です。

2012年6月1日 08時14分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 |
2012年05月08日(火)
ゴールデンウィークの小児科病棟 詩と俳句
 病棟は、ゴールデンウィークにはあまり縁がない。主治医の先生も、看護師さんも、お休みにもかかわらず勤務しておられた。
 高校生の☆☆さんは、今日は、一篇の詩を用意してまったいてくれた。


 ブロンズのいのち

人間としていいドリームは
命をきらきら光るブロンズの像にかたどることだ
なぜ人のいのちははかないのだろう
なぜ無残にもいのちは突然絶たれるのだろう
じっとベッドに横たわったままの私のいのちも
なかなか夢をかなえさせてはもらえなかったが
小さな光が射してきた
なぜだろう
理解されて言葉の分かるいのちとして唯一の夢が実現した
人間としての誇りを取り戻すことができた
なかなか私の言葉は世の中にまでは届かないけれど
悔しがることももうない
なぜならどんないのちにも自分のいのちにも不思議な力があって
うきうきした身にあまるなつかしいマイドリームがあるからだ


 となりのベッドの小学生の○○君は、たくさんの俳句と一篇の詩を要していた。
 まず、俳句から紹介したい。冒頭の何句かは生まれてからずっと病院で暮らしてきた○○君を献身的に看護してきた看護師さんたちのことだ。彼は看護婦さんという言い方の方が好きだとも言いながら、看護婦さんというのを入れると文字数が足りなくなるからとも説明した。

まなざしを高く掲げて挽回す。
じっと待つ 身を粉にせる人振り向くを。
わしづかみしたき心を持てる人。
身を尽くし 心も尽くせり どんな日も。
わずかな手まさしく昔に訪いし手を。
 これは長い間僕を見てくれた看護婦さんは久しぶりに帰ってきてもまったくもとの手触りだったということです。(といしの漢字は)訪問の訪です。
誰にでも存分に来られたく更ける夜。
わずかな身 夜を通して身震いす。
長き夜をラジオと共に夢に舞う。
短くてまだ明けきれぬつまらぬ夜。
わじわじと身に迫り来る悶々と。
理想手に夜を過ごせり 平和の手。
忘れじの七つの光 涙なし。
わざわざとよきまなざしを届けた子。
わだかまる思いの晴れて雨上がる。
分相応なぜ私たち取り残す。
私の目リンドウの咲く野を求め。
わざわざ輪つないでわずかな希望つぐ。
よい理解得られし日のあり春去りぬ。
弓を持つ是非届けたき気持ち付け。
つがいの鳥世の中に告ぐなかよしや。
長く鳴き雉の呼び声何目ざす。
小さき野緑を残し冬枯れし。
わざわざに理想を掲げ邁進す。
実の子も他人の子どもも区別せず
わずかに日 残りし空に光る星。
短き夜 理想の瑠璃の見えて無に。
梨一つ路上に落ちて暮れる森。
疲れた身 横たえ善願いつつ。
唯一の希望なくさず練習し。
なぜぼくに言葉が分かると聞きし人。
緑なす野に立ちて祈る春深し。
瑠璃色と理想混ぜたし光る石。
技に出すひとりでは出せぬわが声を。


 そして詩は次のような、少し迷う心を表現した作品だった。

なつかしい南の風よ
南に帰れと君は呼ぶか
黙ったままに吹き付けて
僕を南に誘って
南の風は去っていった
理解できない南の風の呼び声は
わずかな希望をもたらして
ろうそくに火を灯したが
僕にはなぜか南には
何かが勇気を逃げ出させ
理想を僕から奪っていっただけど
僕は南の風を忘れない
南の風には空行く雲の
わがままな気持ちが許せない
南の風はひとすじに理想に向かって向きをとる
よい南の風よ
僕には理想が届かない
わずかな勇気がほしい
僕に理解できるメッセージを送ってほしい
やさしく僕を導いてほしい
わずかな希望を育てたい


 ○○君は、俳句でははっきりとした気持ちが表現されるのに対して、詩では迷った気持ちが表現できるとも言っていた。

 遠くで激しい竜巻や雷を起こしたというにわか雨が、病院に着く頃降り出したのだったが、変える頃にはすっかり青空が広がっていた。病院の窓から見える緑は狭くかたどられてしまっているが、その緑も新緑そのものだった。
2012年5月8日 22時09分 | 記事へ |
| 小児科病棟 |
2012年04月22日(日)
夏までの日本
 東日本大震災について語られた言葉をまとめた文章を読んできた☆☆さんは、次のように語った。

 地震の文集にとても感動しました。挽歌の詩がとてもよかったです。私の詩も入れていただいてとてもうれしかったです。夏の終わり頃から日本がまた本に戻ったというのにも共感しました。私も夏までの日本は何かいつもとは違って人々が優しいと思ったのでみんなも同じ考えだったことに驚きました。雪の野原の象の詩もとても悲しくて美しい話でした。なぜあんな詩ができるのだろうととても不思議ですがみんなそれぞれわざわざなってしまった障害と真摯に向かい合っているからですね。わざわざというのは変な表現かもしれませんが私たちはまるで津波の被災者のようなものだという言い方に似た表現です。私たちがあんなにも深く津波について考えているということはまだ世の中の人は全然知らないでしょうね。なぜ挽歌がよかったかというとわずかな文明の危機よりもどうにもならない悲しみの方が大事だと思うからです。存分に泣くことができないと人は悲しみからなかなか解放されないと思うので泣けるだけ泣けるような段階にならないと難しいと思いますがまだその段階ではないと思います。挽歌を私もいつか作りたいと思います。
夏までの日本という詩を作りましたから聞いてください。


 そして、次の詩が綴られた。


  夏までの日本

犠牲になった人の悲しみがまだ癒えていないというのに
町にはまた明かりがともり
人々は喜びにまた元気に笑えるようになった
しかし夏までの日本は悲しみの中に優しい眼差しをないまぜにした
理想の演奏を奏でるオーケストラのようだった
みんなその調べに耳を傾けながら
本当の涙を流しながら
人間の生きる意味を問い続けていた
私たちは障害のために
いつもかすかにそんな調べを奏で続けていたが
初めて世の中の人たちが
そういう調べに律儀に耳を傾ける姿を
目の当たりにした
まだ悲しみは癒えないままなのに
なぜ人はその調べから遠ざかろうとするのだろう
楽な生き方よりもその調べから
目をそらさないことの中にこそ
本当の光が隠されているのに
世の中はまた私たちを置き去りにして
もとの世界に戻ってしまった
呼びかけよう
もう一度夏までのあの調べに耳を傾け
本当の光を探すように
2012年4月22日 23時54分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
私たちの夜明け
 4月から社会人になった○○さんが、こんな力強く、また、悲しみのこもる詩を書いた。


     私たちの夜明け

小さい未来にわずかな希望
私たちはそれだけを頼りに生きてきた
わたしたちはランプの光が今にも消えてしまいそうな暗闇を生きている
みんなで手を取り合ってこの暗闇を越えていこう
僕よりももっと声の出せない仲間も
僕よりももっと体の動かない仲間も
みんな僕と同じように言葉を持ち考えている
望みはようやく暗闇の向こうに夜明けが見えていることだ
わずかに白む夜明けの兆しだけが僕には希望だ
私たちの仲間の中には手が離れてしまって見えなくなってしまった仲間も少なくない
もうすぐ明けるこの暗闇の先に見える
じんじんとするような夜明けの世界にたどり着くまで
けっして手を離さずにみんなでともに歩んでいこう
私たちの仲間は誰一人なくさずに夜明けに向かっていくことが
今こそ僕に課せられた使命だ
なぜなら僕には動く身体も動く手もあるからだ
僕が先にたどり着かなければ仲間はなかなかたどり着けないだろう
だから僕は先頭に立って仲間の手を決して離さずに夜明けに向かって歩んで行く
だから見えなくなった仲間もどうか遠い世界から僕を見守っていてほしい
僕の勇気を育ててほしい
勇気さえあれば何とか前に行けそうだから


 「手が離れて見えなくなってしまった」という表現があまりにも悲しい。だが、夜明けが近いことをまた○○さんは感じ取ってくれている。朝は、待っていればやってくるが、ここで歌われた夜明けは、挑みかかるようにして闇をはぎとっていかなければ決して明けない夜明けだ。夜は、絶対に明けさせなければならない。
2012年4月22日 00時47分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 |
5月のきんこんの会のお知らせ
 5月のきんこんの会についてお知らせいたします。(ご連絡が遅れて申し訳ありません。)
 5月のきんこんの会は、5月3日の祝日に開かせていただきます。時間は2時から。場所は、國學院大學横浜たまプラーザキャンパス、410教室です。
 連休中で都合のつかない方もいらっしゃると思いますが、よろしくお願いいたします。
 きんこんの会は、援助によるコミュニケーションの可能な当事者の会です。参加は、まったく自由です。
 どうぞ、よろしくお願いいたします。
 
2012年4月22日 00時42分 | 記事へ |
| 大学 |
2012年04月11日(水)
最低の人権は言葉を否定されないこと 最大の人権は表現の自由
 石川県の特別支援学校の山元加津子先生の元同僚である宮田俊也先生の、脳幹出血からの回復の記録を映画にとり続けておられる岩崎靖子さんにご訪問していただきました。田園都市線沿線にお住まいの仁科さんもご一緒でした。インターネットに岩崎さんが撮られている宮ぷーの回復の記録は以前授業でも取り上げ、学生たちに大きな感動を呼んだことがありましたので、岩崎さんの名前やお仕事は存じ上げていたのですが、お会いするのは初めてです。
山元先生からお電話をいただいて急遽決まった話だったので、すぐに動いていただけそうな大野剛資さんに手伝ってもらうことにしました。大野さんは詩集『きじの奏で』の著者です。
 簡単なあいさつなどは、私が体に触りながら「あかさたな」と聞いていくやり方で行いましたが、中心の部分は、パソコンで表現していただきました。
 最初に、かつて、本人の実際の動きを私が援助していた時代の方法を実演してもらいました。まだ文字数も少なかった時代です。別に打ち合わせをしていたわけではありませんが、彼は俳句という、短い字数の形式を選んでくれました。
 
やさしき手差し出した人がためわれ祈る
ぐんぐんいい季節が近づきましたね。うきうきした希望に満ちた祈りをがんばって俳句にしました。


 そして、こちらが積極的にスイッチを動かしていく援助の方法に移って、まず、私が方法を説明しながらスイッチの援助をしていることと同時進行で、自由に語ってもらいました。
 
 がんばって僕もいっぱい詩を作ってきましたがぼくがまさか詩集まで出版できるとは思いませんでした。なぜ詩を書いているかというとぼくたちは分相応の生き方を超えていくために夢を持つ必要があるからです。詩の中に私たちは夢を探し詩の中で過去の痛みを癒やすのです。いつまでも詩は外に出ることはないと思っていましたが突然柴田先生がなつかしいですが僕にパソコンを出してくれて言葉を聞き取ってくれました。僕はぞくぞくするくらい感激しました。わずかな希望が何倍にもふくれあがって私たちは希望に満ちた人生を生きることができるようになりました。(…)僕は単語が話せたのだけど全く気持ちを表現できなかったので僕は何度も諦めかけてきました。わざわざ僕たちと関わろうとする人もいないしわざわざ笑いながら近づいてくれる人も少なかったからもう僕の人生は何も理解されることもなく終わるのだと思っていました。まさかこんな方法が見つかるとは思いませんでした。わざわざという言葉が繰り返されているのはまさに僕たちとつきあっても何の得にもならないからです。(…)
ここから、岩崎さんとのやりとりになりました。

「理解されるようになってよかったことは何ですか?」

 なつかしいなつかしい話になりますが理解されてから何より母さんががんばった成果を確かめられたことが大きいです。僕を普通の小学校に通わせた意味など世の中の人にはただの親の見栄ぐらいにしか見なされてきませんでしたが僕にとって本当に意味があったことが証明されました。人生が広がったことが次に大きなことでした。人生に強く向かい会うことができるようになりました。人生がまったく違うものになりました。涙を流した日も過去の懐かしい思い出になりました。(詩はいつから作っているのですか?)
僕が詩を作るようになったのはもうずいぶん前のことです。僕が人間であることを認めてもらえないかと思っていたときどうにかして自分の思いを伝えたいけれど伝えられないのでわが道を行くしかないと思い詩を作り始めました。楽な私という詩を確か小学校の中学年の時に作りました。私たちの仲間もみんな詩を作っているのですがみんな同じような気持ちからだと思います。わずかな未来をみんな信じて理想を失わないようにと詩を作り続けてきました。

「言葉を表現するということにどんな意味を感じていますか?」

 理解し合えるということがみんなの究極の目標なので理解し合えたらごんごんと喜びが湧いてきます。理解し合えた喜びを頼りに僕らは生きているのでわがままかもしれないけれど僕は人と話が存分にしたいです。なつかしいのは小学生の頃はみんな純粋な気持ちでたくさん僕に話しかけてくれました。それがだんだん中学生になるとみんな話しかけてくれなくなりとても寂しかったです。なぜみんな話さなくなったかというと僕は何もわかっていないと思われるようになったからです。忘れられないのは柴田先生が初めてうちに来てくれた日のことです。たぶん先生も僕が何でもわかっているとは思っていなかったと思うのですが先生は笑いながらたくさん話しかけてきましたしいろいろなスイッチを出してくれたのでとても楽しかったです。小さいことですがいきなり最初にひらがなを出した時は驚きました。最初はうまくいかなかったのですが僕にひらがななど出した人は初めてでした。それからしばらくは小さなことですが簡単なソフトで試行錯誤をしてくれだんだんひらがなに到達しました。そしてなつかしいですが初めて僕が「ありがとうぱそこん」と書いてから突然先生がパソコンで気持ちを聞き取ることに真剣に取り組んでくれていつしか長い文が読めるようになったのです。最初の質問からそれてしまいましたがもっともいいたいことは柴田先生も奈苗先生も理解し合えることをとても大事にしてくれたということです。そういうことがこういう成果を生んだのだと思います。

「社会に訴えたいことはありますか。」

 わかってもらいたいことはみんな言葉を持っているということです。先生も名前に使っていますが人間として最低の人権は言葉を否定されないということです。最大の人権は表現の自由です。人間として生まれて生きてきて僕たちはようなしの存在と言われてきましたが確かに何も作ることもできないし問題もたくさん起こしてしまうけれど僕たちも人間として生きたいのです。まだまだ僕たちは理解されていませんが僕たちを受け入れられる社会こそが本当に人を大切にできる社会なので何とかして僕たちを認めない社会にはなってほしくありません。ばかにされた日々もあったけれど僕たちをばかにしない社会こそが理想の社会だと思います。理想なのかもしれませんが何とかしてそういう社会を実現したいです。地域で生きるという言葉がありますがそういう言葉にはそういう思いが込められているのです。なつかしいです。奈苗先生が初めて僕の気持ちを読みとってくれた日のことが。あれがすべての始まりでした。そしてここまで来れたのがまるで夢のようです。なつかしくまた今日の日が思い出されるよう前に進んでいきたいです。

 ところで、山元先生は、白雪姫プロジェクトというのをお始めになりました。宮田さんの回復のプロセスの経験から、眠ってしまった白雪姫が王子の口づけに目覚めるように、今意識障害と言われている人が、再び表現手段を取りもどしたり、病気そのものからの回復をすることの可能性をもっと広く世の中に伝えていこうとする希望に満ちたプロジェクトです。私も応援団として参加させていただきました。
 こうしてたくさんの人々のつながりの中で、どんどんと広がりが生まれてくることがとてもありがたく思われます。
2012年4月11日 23時40分 | 記事へ |
| 大学 |
2012年03月29日(木)
3月のきんこんの会のお知らせ
 30日に開くきんこんの会ですが、会場は、2号館(私の研究室のある図書館の建物)の5階の2510教室で2時からになります。
 車いすは図書館の玄関からお入りになれば、段差がありません。
 お知らせが遅くなって申し訳ありませんでした。
 よろしくお願いします。
 
2012年3月29日 12時41分 | 記事へ |
| 大学 |
2012年03月19日(月)
震災忌 中学生の少年の俳句
 震災をめぐる俳句を中学生の少年がたくさん準備して待っていてくれた。俳句という表現の形式は、限られた文字数に言葉を凝縮することを要求するものだが、日常の生活の中で、周囲の出来事に感覚を研ぎ澄ませながら、また、それにふさわしい言葉を厳選しているということがひしひしと伝わってくる。それにしても、50句を超える俳句を一気に書いてしまうこと自体がすでに驚きだ。
 なお、彼は、「わだ」という言葉をテレビの万葉集の解説で聞いたらしく(「わだ」とは曲がっているという意味で入り江を意味する言葉である)、そこから「わだかまり」や「わたのはら」「わだつみ」などとの関連を自ら考えたそうで、今回の俳句の随所にその考えの跡が見られる。まったく独習のわけだが、ほんとうは、もっときちんと教えてもらいたいという強い思いがあるのだろうと思われた。

わざと泣く子どもの声はしあわせに
夏の夜もわざわざ私は忍耐す
これは夏の夜はみんな楽しんでいるのに僕たちはがまんしているからです。
小さき身勇気を認めて色づけり
わざと湧く歓声のように笑いけり 
これは満足した僕の気持ちです 
疑念なき赤ちゃんの目に理想さす 
忘れたる津波のことを敏感に 
津波なき世を夢見ては涙落つ 
見られても見られなくても唯祈る 
よいどんとかけ声はすれど進まぬ手 
わずかだがあかりは見えて夜を行く 
びろうどの着物はなくてただわんと 
わんとは泣き声です。
笑いなし未来をなぜか断たれし日 
理想消え勇気も消えたあの日過ぎ 
びろうどはなくとも胸に誇りあり 
勇気だけ洋服にして若者は 
理解され涙を拭く手休まりて 
わたの原わずかな怒り人をのむ 
ぶつかりしその涙なお湧きにけり 
瓶を割るどうとでもなれどうでもいい 
理想湧く瓶の破片の鋭き角 
わずかな理想悩みを抱いてまた先へ
わだかまるその先は月の海
理想湧くわだかまる海の流れから 
小さい手みどりごを抱きともに前 
わずかながら希望は見えて波静か 
震災忌理想もようやく回復す 
震災忌夜通し泣きてまた歩む
どうにもと理想を捨てた震災忌 
夏の轍まだ見えぬまま震災忌
震災忌逃げてもどこにも救いなし 
震災忌涙があふれ誓いあらた 
震災忌びろうどをそっと波にかけ 
つらい日も思い出となり震災忌 
人間がなぜ喜ぶか理由知る 
未来本に誰も書けずに震災忌 
茫然と立ちすくむ丘強き声 
理想見え強い声する震災忌 
わだかまる波のごとくに人泣けり 
わだつみの夜の叫びは誰に向く 
わだつみに理想なきわれ身を委ね 
誤解されわだかまり解け理想湧く 
未来わずかなぜ涙涸れずに夜もふけ 
わだつみの忘れじの色瑠璃深く 
わだつみの忘れじの夢じんとなる 
わだつみに漕ぎいでし舟希望乗せ 
わだつみの底に眠りし魂(たま)の燃え 
火が燃えるの燃えです。
夏の轍よき夢へと導びかん 
未来止まり夏の轍の途絶えたり 
未来の輪なかなか見えずもがくリボン 
わずかに夜明けぬるを知る波の凪ぎ 
勇気知るわずかなあかりに明ける夜に 
日の射して波きらめきて帯となる 
わずかな灯ともして偲ぶ震災忌 


 
2012年3月19日 01時22分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2012年03月11日(日)
3月11日 改めて  二人の詩と俳句
 昨年の3月31日、○○君が家で作ってきた詩を見せてもらった。その詩は、被災地の中に身を置いて書かれたものだった。それを読みながら、ともかく、この詩には前書きとしての説明があったほうがいいと思い、その場でそれを求めたところ、すぐに○○君は前書きを書いたが、それは、なぜ詩が被災地に立っている立場から書かれなければならなかったかを雄弁に語っていた。前書きと詩は以下の通りである。

 ぼくの母は陸前高田出身で、祖母は被災し、二晩を高寿園で過ごしました。ぼくは高田で生まれ、松原やマイヤで遊んでいました。高田の道が瓦礫になってしまったのですが、見覚えがありました。行ったことがあると感じたら、その瓦礫の中にぼくが立っていました。そしてその立っている場所から風景が見えました。じいちゃんの家、港のところに市場があるのも見えました。

とうさんとかあさんが
白無垢を着て
袴をはいて
並んでとった写真も
僕が子供のとき
弾いたというピアノも
一瞬で流された
なーんにもなくなってしまったけど
母の手がここにあった
うすい毛布一枚かけて
手を握り合った
この手さえあれば
生きていけると思った

潮風を受けながら
カモメと働くおばさんも
こたつにあたりながら
ワイドショーを見ているじいちゃんも
一瞬でさらわれた
残された僕らは
瓦礫の中に取り残された
けれど僕らは生きている
死んでもよかったと泣き叫ぶ
それでも
生きていかなくっちゃいけないから
泣きながら
振り返りながら
生きていく


 彼がこの前の年に書いた詩は、あるコンテストで入選の内定が決まっていたのだが、私が不覚にもブログに掲載していたことがわかって、非公開というルールに抵触してしまったため、入選は見送られた。その話を聞いてまだそれほど時間がたっていなかったことと、この詩のすごさがわかっていただけに、そのコンテストにぜひ応募すべき詩だと考えたので、今日までブログに公開することは控えてきた。だが、残念ながら、今回は、最初から不採択になったとのことで、あらためて、1年後の3月11日にブログに掲載させていただくことにした。
 この詩を見せてもらった3月31日、陸前高田のおばあちゃんは、東京の彼の家に身を寄せておられた。足下に津波の波をかぶりながら、逃げきったとのことで、振り返った時には、一緒に逃げたはずの人が見当たらなかったというような話も聞いた。
 この2編の詩は、公開は控えていたが、授業で紹介したことがあり、その時には、多くの言葉の中で、とりわけ印象に残る詩として感想が語られた作品だ。

 さらに、同様に、同じコンテストで不採択になった俳句も紹介したい。彼の震災の俳句は8月と2月に紹介したが、以下の作品は伏せたままだった。改めて、紹介しておきたい。

 雪の舞う 地震の朝の 鳥静か
 夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
 若き日の 記念の写真 砂と空
 望みを背 また立ち上がる 強き足
 涙かれ 涙はいずる 土用波
 地震さえ なければと思う 夏過ぎぬ
 

  
2012年3月11日 00時47分 | 記事へ |
| 東日本大震災 |
2012年03月06日(火)
「ゆいさん」から託された願い 毎日新聞への投稿
 ある関わり合いの場で、パソコンで綴った文章を新聞に投稿してほしいというふうに頼まれた。意を決したような強い内容に、私は一瞬ひるみそうになったが、私たちにそういう純粋な思いを遮る権利はまったくないと思った。しかし、本人が特定されると、いろいろむずかしいことが起こることが予想されたので、匿名でいいかと尋ねたところ、「なまえさえないのはつらいです。ゆいさんと書いてください」と返事が返ってきた。そこで名前だけを出すということで投稿したところ、3月5日の毎日新聞の「みんなの広場」に掲載された。


 この問題提起は、現代の障害観の根本的な見直しを迫るものだ。容易には受け入れられるものではないだろうが、同じ思いをしている人たちに届けばと思う。
 この日、彼女は、こうした思いを次のような詩でも表現した。

 私たちの世界

地震と津波でひっくりかえった私たちの世界
なつかしい街並みも小さいときに遊んだ公園も
みんな流され消えてしまった
なぜ自然はそんなにむごいのか
理解しきれぬごんごんとしたゆゆしい思いが
私をできない存在へと追いやろうとする
だけど人間はけっして希望をなくさなかった
人間は夢をなくさずにもう一度立ち上がり
人々はどうしようもない悲しみをかかえながらも
紅色(べにいろ)の未来をめざし
望みを背にして歩き始めた
分相応の人になるのではなく願いをめざす人になって
人間としての誇りをかかげて
夜の闇から朝の光にむかって歩み始めた
私もまだ被災者のように取り残されたままだけど
いつか世の中に認められる日が来るだろう
その日を夢見て今を生きていこう
2012年3月6日 22時58分 | 記事へ |
| 東日本大震災 |
2012年03月03日(土)
大雪の日の病棟 その2
 同じ病室のもう一人の少年は、ひとしきり、なかなか理解されない状況を嘆いたあと、用意していた俳句を一気に綴った。

誰一人 泣く者のなき のどかな日
唯一の目 われに注げり ぬくもりは
つらき道 長く続けり 降れる雪
微妙な夜 小さく機械の音響く
ぶんどらず みんなで分かつ よき報せ
ぶよぶよの体を乗せたベッドに日
わずかな身留守の守人わだかまる
小さな身とは小さい子どものことでみんな買い物に行ってしまって留守番の寂しさを読みました。子どものことです。
小さき手二本伸ばして空を抱く
美の果ての忘れられない願い事
雪に舞う希望積もりて静かな夜
南風夜の窓辺のわずかな音
南風吹く日の遅れどんより雲

人間に認められし日 よき牡丹
ずる休み道草のなき願い楽
小さき花人にあげたしリンドウを
なぜ逃げぬ雀理解者われを見る
わずかな輪広がり見せて笑い頰
理解され誰もが人と見られる日
理想の輪なぜ広がらぬろうそく揺れる
わだかまり増える日花のしおれゆく
人間と見る人にランプの光射す
よく眠り目覚めた朝に罠はなし
利害なく人働ける病院は
道なきをこれまで歩みてつながる命
なぜ涙あふれてきたかやさしき手
ぬくもりは願うろうそく満ちて光る
密の味わからないまま残る人
黙ったまま看護してくれる人たちのことです。
西日射しわずかに残る日に望む
わずかな帆あげて小さな舟出ずる
読んだ本積まれしベッドのたわみ増え
理想なき何人(なんびと)もここにはとどまれず
勇気の火ともりて南の風に乗る
南風待つ鳥の目に誓い
びろうどに人はまといて理想語る


 限られた病室の空間の中で想像の羽根を思い切り羽ばたかせて広大なイメージの世界を翔け回って書かれた俳句である。
2012年3月3日 20時36分 | 記事へ |
| 小児科病棟 |
大雪の日の病棟 その1
 明日から3月だという日、関東平野に大雪が降った。少年と女子高生の待つ病棟の窓からも、一面の銀世界が見渡せた。
 ☆☆さんは、いきなり詩から始まった。

  七つの花

七つの花に私は黙ったままぼんやりと望みを託す
七つの花は誰にも見えなくてひっそりと咲いている
七つの花は私だけにしか見ることはできない
わずかな冒険しか知らない私にとって
七つの花は理解されない寂しさをどうにか慰めてくれようとして
七つの涙を流してくれた
私にとって七つの涙は勇気をくれる不思議な涙
私を黙って未来へと誘う
わずかなあかりが射している
わずかな夢がにおっている
七つの花をめでながら
私はごんごんとしたつらい思いを忘れる


 そして次のようなコメントが続いた。

 理想的な花をいつも夢見てはわずかな「ぞうねん」をなくそうと心がけています。

 「ぞうねん」という言葉が出てきたとき、おそらく雑念という漢字があてられるのだろうと思ったが、現在は十分に文字を見ることのできない彼女があきらかに漢字を前提にして言葉を選んでいるので、立ち止まって、「ぞう」という言葉はたぶん漢字をイメージしていると思うけれど、その漢字の別の読みはと尋ねてみた。すると明確な答えと、言葉が続いた。

 ざつ ほんとうは漢字は見えませんがわかります。なぜなら私にも小さいときからの記憶があって見えていたからです。だいたいのイメージはあります。はい。漢字もけっこう覚えていました。だけどだれも知りませんでした。私たちにもなんでも理解できる知性があるとはだれも考えなかったからです。

 ここで一緒に病室を訪れていたM先生が語りかける。
「私の小学生の孫なんて学年の漢字を覚えるのがやっとなのに」
 すると、

だって私たちには時間が山のようにあるからです。時間が足りないのだとおもいますお孫さんは。遊びにいそがしくて漢字など覚えるひまがないと思います。

 M先生からの質問が続く。
「漢字は何で覚えたの?」

 テレビです。テレビにはむずかしい漢字がいっぱい出ますから覚えました。テレビは音が出るので聞かなくてもわかります。ママはテレビをよく私と見ていましたから。たぶん私たちは疑問があっても聞けないし勉強も教えてもらえないからなんでも一人で勉強しなくてはいけなかったのです。だから一人で覚えるのは慣れています。(今はテレビは見えないけれど隣のベッドの)○○くんのラジオが聞こえるのでだいじょうぶです。

 そして、次の言葉へとつながっていった。

 政治の話は大好きです。どうしてかというと私たちにとって政治はとてもかかわりが深いからです。なぜ病院の予算がけずられてしまうのかなどとても大事な話だからです。野田首相は初めての政治家です。私たちのような存在を取り上げてくれた政治家は。みんなきれいごとは言うけれど初めて本気でとりあげてくれました。みんなの希望の星です。小さい記事のなかですが忘れられない話でした。涙が出るくらいうれしかったです。ラジオです、ラジオのニュースでした。 

 まさしく仙台の大越桂さんの話だった。そこで、そのことにふれ、パソコンの中にあった「花の冠」の合唱の映像を聞かせてあげた。

 いい歌ですね。私にもそういう希望の種がとどきました。わずかではあっても私たちのことが理解されてうれしいです。小さいころからだれにも理解されなくてずっと悲しかったけれど私にも自信がわいてきました。わずかな望みですが理解される世界が一歩またちかづきましたね。 

 そして、この後、大越さんにあてて、すてきな手紙が書かれた。
 
2012年3月3日 20時05分 | 記事へ |
| 小児科病棟 |
2012年02月23日(木)
本が完成しました
 『みんな言葉を持っていた』(オクムラ書店刊;2400円)という本が完成しました。発売は3月に入ってからとのことですが、見本を届けていただきました。
 目次は以下の通りです。

第1章 秘かに紡がれた詩
第2章 障害の重い人たちの心の世界
第3章 言葉の世界の扉を開く―四人の歩み―
第4章 援助の実際

 第1章に32人の方の詩を収め、第2章で方法に関する様々な議論を行い、第3章で4人の事例をまとめ、第4章で具体的な援助の方法を解説しました。
 自分で宣伝をするのは、居心地が悪いですが、この事実を少しでも
多くの人たちに伝えていくためには、知っていただかなければなりません。よろしくお願いいたします。 

2012年2月23日 08時42分 | 記事へ |
僕の障害について 社会人になるにあたって
 3月に高等部を卒業し、新しく通う通所施設も決まった○○君は、高揚した気分の中で、力強い言葉を綴っていった。

 みんな悩んでばかりなので理解してもらいたいです。私たちはみんなで私の我慢を世の中に伝えていきたいです。みんながまんばかりして生きてきたのでそれをもっと世の中の人に伝えたいです。なぜなのかわからないのですが勇気が湧いてきました。

 ここで、新しい場所で彼のことをどうやってわかってもらうかということについて私が切り出し、スイッチの援助については、○○君が、手を触られたくないので、手以外の場所にスイッチを押しつけていく方法で読みとらなければならないので、むずかしい方だが、○○君の援助ができれば、ほとんどの人の援助が可能だということを語り、○○君と初めて文字が書けた頃のことを話した。○○君は、一人でスイッチを押せるが、一人だと連打してしまい、なかなか止められなくなる。そこで、ある時、彼の手をとって、こちらが主導的に動かしながら一緒にスイッチを押していったのである。すると、選びたいところ力が入って選択の意志が伝わってきたのである。それを受けてこう書いた。

 僕は触られるのがいやなのでやりにくいというわけですが僕ができれば誰でもできるということですね。がんばってきましたね。文字の勉強も頑張ってやりましたが本当はわかっていましたが誰にも伝えられなかっただけでした。先生だけでしたね、僕が文字がわかっているはずだということを信じていたのは。とてもうれしかったのですがうまく選べなくていらいらすることも多かったです。駄目かなと諦めかけていましたが先生が僕の手を動かしたときはびっくりしました。まさかそうすると選べるとは思ってもみなかったからです。それが選べたので本当にうれしかったです。

 こういう風に書いている間も、彼は、座っていられなくなって、何度も席を立ち上がって一歩きし、落ち着くと戻ってくる。ふと、彼に、今度の施設の職員に自分のことをわかってもらうための障害に関する自己紹介を書いたらどうかと提案した。そうしてできたのが、次の文章だ。

  僕の障害について

 僕の障害はなかなか思い通りに見たり書いたりできないことです。見ようとすると見えなくなったり手を伸ばしたくなくても手が出たり何にでも手を伸ばしたりしてしまうので誤解されてばかりです。
 こだわりとはそういういらだちを鎮めるためのもので、もし理解され続けていればなかったはずですがそれはもうどうしようもありません。だけどじぶんのことをわかってくれさえすればわずかずつでも消えるはずです。
 よいわかりかたさえしてもらえれば本当はこだわりなど生まれなかったはずですからこれから小さい子たちにはこだわりの少ない育て方をしてほしいです。
 敏感さも障害の一つです。触られるだけでびっくりしたり小さい音にでも驚いたりするのでとても困っていますが理解されさえすれば大丈夫です。
 だからそういう風に理解してください。わかってほしいのでよろしくお願いします。
 どうにもならない苦しみの中で生きている仲間がたくさんいるのでよろしくお願いします。
 誰が見てもわかるわけではないかもしれませんが僕のことを知りたいと思う人にはわかってもらいたいです。
 なぜ僕たちが何もわかっていないと言われてきたのかがこれでわかってもらえたでしょうか。なかなかうまく理解されてこなかったけれど僕たちにもようやく日が当たってきました。


 私たちが、その理由がわからないまま、まちがった理解をしてきてしまったいくつかの事柄がここにある。特にこだわりなど、私たちの誤解が作り出したものとさえ言えるのである。「小さい子たちにはこだわりのない育て方をしてほしい」という言葉がつきささってくるとともに、私たちがなすべきこともまた見えてきた。
2012年2月23日 00時30分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 |
2012年02月21日(火)
40年を振り返って
 私が30年来関わりのある40代の全盲の女性○○さんは、

 私たちをもっと理解してもらいたいので残りの人生は私は自分の考えを少しずつ伝えていきたいです。小さい時からのどうにもならない気持や茫然とした日々のことなどを語りたいです。

と述べて、長い回想の文章を綴った。

 私が生まれたのはもう40年も前に遡りますがその頃はまだ世の中は私たちのような子どもを受け入れるような時代ではありませんでした。残念ながら地域のどんな場所にも私たちの居場所はありませんでした。なつかしいのはそんなときに私たちを50年も前から理解しようとしていた先生たちがいて私たちを受け入れてくださったことです。わざわざ私たちを人間として認めてくれて何かできることがあったらしてあげようと色々な努力をしてくださいましたがまさか私たちに言葉があるとは思わなかったようでした。どんな小さなことにも喜んでくださって本当に幸せでした。どうして私たちのような存在に底まで心を向けてくださるのかとても不思議でしたがみんなほんとうに一生懸命でした。小さい理想の世界がそこにありました。小さいながら望みのかなう世界でした。私たちはなかなか理解されないので何でも喜んでくれる先生たちが最大の理解者でした。
 そんなところから始まった私の人生ですがみんなに比べて恵まれていたのは私が中島先生に出会えたことです。中島先生は特別な思想の持ち主で私たちが偉い存在であるとずっと言い続けてくださいました。何もできない私のことを偉いなどと言ってくださった人は初めてでしたからとてもうれしかったです。わずかな夢は中島先生の思想が広まることでしたがなかなか本気で先生の思想を受け止める人は少なかったです。中島先生は本気でおっしゃっているのにまるで冗談のようにとらえている人も少なくありませんでした。私たちのことを相手がどう考えているかはすぐにわかりますがほんのわずかの人しか私たちを本当に偉いとは考えていませんでした。
 わざわざ中島先生のことを否定する人も誰とは言いませんがいたのも事実です。学校では特に受け入れられなかったことを私は身を持って体験しました。
 それでも小数の心ある先生が中島先生に従って私たちのことを大切にしてくれました。どうして私たちのことをそこまで大切にしてくれたのか今でも不思議です。たまにそういう先生が現れるととても存分に誰にでも伝わるのかもしれないと期待に胸を膨らませていました。だけどなかなかそういう先生は現れませんでした。
 夏の全国大会はとても楽しみでした。私たちの話で持ちきりになるからです。私たちが主人公になれる唯一の機会でした。なぜ中島先生の話が好きだったかというとまるで私たちが何でもわかっていると言うかのように説明してくれたからです。私たちは何でもわかっているなどと言われることは絶対になかったので本当にうれしかったです。みんなもきっとそう叫びたかったと思いますしまさに私やK君は本当に叫び声を上げていました。すると必ず中島先生は必ず万歳というように返してくれていました。
 中島先生が今のこの姿を見たら何というかとても楽しみですがそれは永遠にかなわぬこととなってしまいました。人生の半ばを過ぎて始めて話すことができるようになって本当にうれしかったですが本当に中島先生には見せてあげたかったです。だれでも言葉があって何でもわかっていると言うことが証明されたのですから。誰よりも中島先生が喜んでくれたはずです。
 誰にでも言葉があるというならもう知恵遅れなどという言葉はごめんです。何度その言葉に傷ついてきたことでしょう。誰にでも言葉が備わっていて深い考えを持っていると言うことをわかったからには理想はその考えに従って福祉も教育も考えを改めなければみなりません。わずかな明かりですが確実に明かりはともり続けています。
 どうしてもなかなか信じられない人もいるかもしれませんがそんな人もしだいにいなくなるでしょう。残念ながらまだまだですが早くそういう時代が来ればいいなと思います。中島先生の思想を誰にもわかるようにはならなかったようにこの方法も簡単には伝わらないと思いますが何とかならないかと思います。たくさんの仲間が私のように話したがっているので早くそのことが伝わればいいと心から願っています。大事なことは私たちが人間として扱われることなのでよろしくお願いします。
 今日はたくさん書けてよかったです。私はまた自分の経験を語りたいと思いますのでよろしくお願いします。ありがとうございました。


2012年2月21日 21時52分 | 記事へ |
| 研究所 |
3月のきんこんの会は3月30日の予定です
 厳しい寒さが続いており、なかなか春の兆しが見えてきません。
 3月のきんこんの会は、3月30日金曜日2時からたまプラーザキャンパスで開催させていただきます。
 会場は、前回、前々回使用した1号館410教室になるか、私の研究室の傍の部屋になるか、まだ未定ですが、近づいたらまたお知らせいたします。
 
 きんこんの会とは、障害が重いために、援助によって初めて気持ちを伝えることができる人たちが、ともに心を響き合わせるために集う会です。一昨年の1月、たまプラーザキャンパスの一室で数名の仲間が出会ったことから、この会が生まれ、4月から活動を始めました。
 参加は自由です。詳しいことをお知りになりたい方は柴田までご一報ください。
2012年2月21日 21時48分 | 記事へ |
| 大学 |
2012年02月15日(水)
津波の歌
 青年学級の学級生のKさんは、すでに両親を亡くし、今、都内のある病院に入院している。彼女は、昨年の5月に開かれた若葉とそよ風のハーモニーコンサートで、津波の詩を仲間に朗読してもらった。
 その当時、彼女は、町田市内の施設に入所していたのだが、その後、体調の変化などから、入院を余儀なくされた。
 もともと、しゃべることも文章を書くこともできた彼女は進行性の障害で、あるときから車いすになり、発話も不可能になった。医学的には言葉も失われたと考えられた。
 そのような状況で母親が亡くなり、当時の状況では、どこか離れた施設にはいらざるをえない状況にあったのだが、若い担当者たちが、アパートで共同生活をしながら、建設予定だった地元の施設ができるまで持ちこたえて、無事、地域の施設に入所を果たした。そして、青年学級には、毎回、スタッフの送迎によって参加していた。
 そんな彼女が豊かな言葉をきちんと持ち続けていたことが明らかになったのが、2008年の夏のこと。それから、パソコンを使った新しいコミュニケーションが開かれてきた。そうした状況にある人が歌を作っているということも、それを伝える手段を共同で考え出したのも、彼女を通してだった。
 2009年のわかそよでは、彼女をモデルにし、彼女の作った歌を劇中に使ってミュージカルが作られた。
 そんな彼女が、昨年の夏、私たちの前から姿を消した。
 そして、そんな彼女の元をスタッフの山之内さんととびたつ会の支援者である松田さんが、先日、訪問してきて、彼女の思いを聞き取ってきた。

 今日はよく来てくれました。なんだか夢のようです。山之内さんはお元気でしたか。私はさびしくすごしています。みんなと会って、また歌をうたったり、笑ったりしたいです。もっと会える時を大切にして過ごしたいです。私の願いは多くの人たちとはなしをして、楽しく充実した時間を過ごすことです。また青年学級にもぜひ参加したいです。
(山之内−神野さんの津波の詩がうたになりましたよ。)
 はい、参加しますから、お願いですからつれて行ってくれませんか。伝えたいことは私の本当の気持ちです。心の中にある気持ちをぶちまけたい気持ちです。理解してくれようとするやさしさは感じていますが、なかなか通じなくてつらいことがあります。とてもうれしいです。来てくれてありがとう。
(もうすぐあの地震から1年ですね。津波の詩を書いていてそれが歌になっていますが、津波と今の神野さんをどのように思っていますか)
 それはとても似ているところもあるかもしれません。地震の被害は津波もあって、とても大きなものでした。私は、わからないほどの大きな被害になんともいえない不安を感じました。私は病院に入院したあと、津波に巻き込まれたように何が何だかわからないまま過ご
してきました。それはそれはとても不安な気持ちでした。あの津波を経験した人たちは忘れない記憶として思いをはせるのでしようが、希望をもって立ち上がろうとしていることでしょう。私はまだ希望を持てずにいますが、きっと希望をみいだして、みんなのところにもどりたいと思います。

(青年学級はもうすぐ成果発表会ですが、ひとこと伝えたいことはありますか)
 成果発表会には参加したいと思っています。

 私の関わっているコースでは、Kさんの詩に曲をつけて、被災地のある施設に送ろうとこの間ビデオ撮影したところだ。歌詞は以下の通りである。

いつも穏やかだった海が突然きばをむいて
理想をすべてうちくだいた
私はわたしの大切な生きる意味を
失いそうになってしまったけれど
人々の立ち上がる姿に勇気づけられた
なぜだろう人は理想をうちくだかれても
再び立ち上がることができる
人間はなぜそんなに強いのか
私もこんな体で自分の気持ちさえ
うまく伝えることもできないけれど
私も勇気をもってまた立ち上がってゆこう
冒険をまた始めよう


 歌は次のURLで聞くことが可能である。

http://douga.zaq.ne.jp/viewvideo.jspx?Movie=48444399/48444399peevee450767.flv
2012年2月15日 23時00分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
広がりつつあるコミュニケーション
 ☆☆さんの通所施設では、少しずつ、パソコンで単語を聞き取ることができはじめたという。お母さんのお話や連絡帳の記述から、すでに文字の読み取りはうまくいっているのだが、一文字読み違えると、その後が続きにくくなっていることがわかる。これは、一文字違ってしまうと、次の文字をどうするか☆☆さんの方に迷いが生じてしまうので、実は、読み取りは一気に困難になる。だから、読みとられた文字が少ないのは、読み取りそのものに問題があるのではなく、文字が間違えて読みとられた時の対応の問題になる。しかし、大切なのは、こうして一文字一文字読みとられていく時にそこにうまれている心と心の交流だと思う。たくさん読みとることができれば「便利」だけど、もっと大切なものがあり、☆☆さんのやりとりには、その一番大切な心と心の交流があるように思った。☆☆さんは、次のように書いた。

 ばらばらな体と心の私のためにいつもありがとうございます。私は先生たちがいつも真剣に時間をかけて聞いてくれるので心から感謝しています。人間として尊重されて何よりの幸せです。どうして先生たちはあんなにやさしいのかといつも不思議な気持ちになります。世の中の人たちは私たちのことなど全く気にも止めていないのになぜ先生たちは私たちに心から希望を与えてくださるのでしょうか。人間として認められてとても幸せです。パソコンはゆっくりでいいです。無理のない範囲で少しずつお願いします。もうしっかりと読みとってくださっているのでご安心ください。どうすればいいのか教えてほしいとおっしゃっているので一つだけ言うとわかっている言葉でもやって安心して練習できればずいぶん楽になると思います。でも私は先生方が思うとおりにやってくださってくださればそれでいいです。私でうまく行けるようになったらぜひほかの人の気持ちも聞いてほしいです。なぜならみんなもきっとわかっているはずだからです。ゆっくりでいいからよろしくお願いします。これからもどんな困難があっても乗り越えるつもりなのでよろしくお願いします。

 ☆☆さんのこのきめ細かな心遣いの向こうに、懸命に☆☆さんに寄り添おうとする職員の方々の姿がはっきりと見えてきた。
 この言葉と一緒に、この日は、こんな詩も書かれた。

小さな蜜のなる花に
私はとまり夢を見る
蜜の香りが体に満ちて
私は望みを叶えようと
静かに理解の旅に出る
敏感な体に出た苦しみは
きっと珍しい匂いがするはず
誰かその匂いに気がついて
私に声をかけてほしい
匂いのままに私はずっと
みずからのいい願いを大事にしながら
よちよちと歩き出そう
ランプの明かりが懐かしい願いを照らし
私は不思議な夜の深い闇に紛れて
私を何とか未来に向けて
つまらない悩みは消し去って
そんなよい世界を探しに行こう


 ☆☆さんの周りには、もう「よい世界」が広がっている。
2012年2月15日 06時28分 | 記事へ |
| 家庭訪問 |
震災俳句
 夏に、たくさんの震災の俳句を聞かせてくれた○○君のお宅を半年ぶりに訪問した。今回も、たくさんの俳句を作っていて、パソコンを開くといきなり、俳句から始まった。今回も40あまりの俳句が一気に綴られた。じっと暖めたれてきたものだ。難解なものにはその都度、説明を入れてもらった。

抜群の力を出して復興す
小さい目懐かしき野をふと見つめ
被災地の緑を夏が深めゆく
ランプの灯待つ人によい願いほめ
若い日の夢も破れた深い海
夕焼けの磨かれた空ぼろの底
 「ぼろ」とは涙が流れたことを言ったものです。正確ではないけれど書きました。唯一の理解者は自分だからこれでいいです。
小さい目罪なく輝きどこ目ざす
未来の手心に触れて隅々に
未来の手理想をつかみ僕をさす
ごみの先道は望みにつながりて
強く握る手は冒険の揺れるまま
楽な日を取りもどし櫓が揺れる
ずんずんと逃げ出さないで積まれた和
理知的な瞳は何に愚を感ず
 なかなか復興が進まないのは理知的な目には愚かに映っているはずなのできっと何かを罪深く感じているはずだから書きました。
ずっと沖 涙の船が遠ざかる
理想の世なかなか来ずに復興す
地位賭けて闘う人のない日本
日本の夢理想を賭けて和をつなぐ
夜ずっと夢にうなされふと目覚め
忘られた歴史に瑠璃の光さし
 昔から津波は何度も襲いかかってきたのにみんなそのことを忘れてしまっているのだけどまた改めて思い出されたということです。
夢の先不気味な声にゴンゴンと
 なつかしい町並みの彼方に新しい街並みをまた作り直してもまた津波に破壊されるかもしれないということです。それ(ゴンゴン)はずっとさいなまれることの表現です。
夜の闇強い笑いを盛り上げず
理解されず夜の暗さに森を行く
被災地に行けば涙のろうそくも
自らの力のなさに轍踏む
 自らの力のなさを嘆きながら轍を追えずに踏んでいる様子です。車は被災地の復興の象徴です。 夏も過ぎまた世は戻り秋刀魚せる
日の当たる轍もまっすぐ未来さす
唯一見た空の果てなる南星
 南の空に一瞬見えた星に未来を願ったということです。
日が沈み波の音のみ休みなし
理想さえろうそくと光れば綿々と
綿々と願いを紡ぐということです。
若き日の忘られぬ道流されず
分相応自らに課さず道を行く
実る穂にセシウムの付き虚しさよ
わずかでもセシウム付けば捨てられて
わずかな音 聞こえることなき悶々と
ビルを支えし原発は惨めな姿をさらし泣く
昔には戻れないとはおかしき世
わずかな灯 分捕らず共に分かち合う
水のゆき轍に残る夢の跡
ランプの灯ともりし道に咲く花を
 わずかな理解者しかなかなか増えないのですがこうして俳句を作っているととても気持ちが落ち着きます。俳句はおしまいです。


 なお、夏の彼の俳句のうち、いくつかをある詩のコンテストに出していた。残念ながら、入選することはなかったが、未発表という条件だったので、このブログでの公表も避けていたので、改めて紹介する。

夜の闇 瓦礫もおおい 月冴える
雪の舞う地震の朝の 鳥静か 
涙枯れ 涙は出ずる 土用波
若き日の記念の写真 砂と空
望みを背 また立ち上がる強き足
地震さえなければと泣く夏過ぎぬ 
     

2012年2月15日 00時35分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2012年02月06日(月)
2月5日は筆談の記念日になりそう…
 2008年の夏から町田の青年学級にパソコンを持ち込んで3年半が経過した。その間、いろいろな人が2スイッチワープロに挑戦してきたが、残念ながら、これが修得できたのは、とびたつ会の松田さんと、若い担当者の2人に限られていた。なかなか活動の中で純粋な練習の時間というのもとれず、伝えきれないまま時だけが経過していた。
 そんな中、山之内さんが、先日のきんこんの会で、青年学級にも参加しているSさんの筆談に挑戦して何とか読みとることができた。Sさんは、なかなか体に力が入らずふわふわとした動きになってしまう特徴のある方だが、Sさんの指を持って関わり手の手のひらの上に文字を書いてもらうと、小さい動きの中に文字が読み取れるのである。私は、2スイッチワープロか、手を振りながら「あかさたな」という方法しかなかなかむずかしく、Sさんの筆談には成功していないのだが、山之内さんが、活動後の喫茶店で、Sさんに練習台になっていもらい、若いスタッフに伝えたところ、たちどころに3名ほどのスタッフが字を読みとることができたのである。ようやく長いトンネルを抜けたという思いがした。複数のスタッフが通訳になって会話がはずむということが、夢ではなくなりそうだ。
 次の文章は、この日の活動の中で山之内さんといろいろ筆談で話せたHさんの感想である。山之内さんと若いスタッフがSさんと練習をしている横で私がパソコンで聞き取ったものだ。Hさんは、自閉症と呼ばれていて、字の読み書きはできるのだが、気持が表現できない方である。

 字を書くのは簡単ですが気持はなかなか言えないになぜか手をそえられると気持が書けます。たぶん字を書くのにもそうとうなエネルギーを使っているからだと思います。スイッチのほうが楽なのですがそれは触られるのが抵抗があるからですが慣れると思います。たぶんだまっているとつらいので話したいと思いますので慣れると思います。ばらばらな体と心を何とかしたいのでよろしくおねがいします。なぜ山之内さんは字の方法ができるようになったのですか。わかりましたよかったですね。誰でもできるやりかたがいいのでよろしくおねがいします。そうです、抜群な感じがしたからです。やっと広がってきましたね。どうにかして広めたいです。はいありがとうございました。

 ところで、活動では、私のコースでは、岩手県のある施設にメッセージを送ろうということで、東日本大震災に関連した歌を3曲録音したところだった。「津波」「ランプのあかり」がオリジナルの歌、それに、無謀なことながら、アジアンカンフージェネレーションの震災に関連した歌「ひかり」をみんなで歌い、それをビデオカメラで撮影したのである。こちらは、また改めて紹介したいが、夜、居酒屋では、この筆談と歌のことで、大変もりあがった。
 大きな大きな一歩を踏み出した一日だった。 
2012年2月6日 22時56分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2012年02月01日(水)
夏の轍(わだち)
 最近、俳句に真剣に取り組み始めた○○君は、また、秀逸な句を用意してきた。結構難解な俳句も少なくなかったので、その場で解説をしてもらった。

長き夜 淡々と煩悩 どこでそぐ
 煩悩をどこか理解される場所でそぎ落としたいけれどなかなか見つからないということです。

強き藁 縄となわれて炭を包む
 なぜ縄を使うのですか。理想的な包み方なのですか。なぜなのだろうと思っている内に浮かびました。

鍋をなぜ瑠璃色にして血わく ふと。
 鍋には頑張ってもきれいな色には鳴らないので瑠璃色に塗ってあげたくなりました。血わくとは血が騒ぐという意味です。謎めいた俳句です。

虹の夢疲れた涙の空に架かる。
 疲れた涙の水蒸気だから虹が架かりました。

楽な道 自分の前に道のなき。
わが理想 人間となり輝く日。
 障害の俳句です。

見られても誰に恥じるところなし。
理想とはわずかに見えて遠きもの。
人間で敏感に見える道の前。
 道は道路で道の前には誰かが立っていて僕らを見つめているということです。僕たちはどうしても人間として認められにくいので敏感な人が必要なのになかなかそういう人が現れないと言うことです。

実の母つらく中あたるは強き愛。
 はいだいじょうぶです。フィクションですから。障害がある子どもに厳しくする母親がいるので作りました。

力ほしい なぜ見えないの夜明け星。
夕月のわずかな明かりに櫓をこげり。
湯を沸かすやかんの煙しんしんと。

夏に見し轍(わだち)の消えて 迷い道。
 震災のことです。夏まではみんな理想を語っていたけれど秋になると全く語られなくなりました。そのことですが誰か同じことを言っているのですか。

誰が泣く すすり泣く声 乗せし風。
轍が冬見えし時あり 除夜の鐘。
 紅白の中ではみんな理想を語っていました。それが良かったです。長渕剛の歌がよかったです。地震をきっかけに昔の長渕に戻った気がしたということをお母さんが言っていました。長渕剛のことを先生が知っているとは思いませんでした。長渕剛だけではなくみんないい歌を真剣に歌っていました。よい元日が迎えられました。なぜ先生はわかるのか不思議ですがたくさんの仲間の言葉を聞いているからなのですね。よくわかりましたが夏の轍は残念でした。できるならそのまま小さくてもいいから消えないでほしかったです。夏の轍という言葉はとても気に入っている言葉です。(轍の数は)二本です。車いすの轍のイメージです。そうですか、轍という言葉を使っている人がいるのですか。それを教えてください。

罪の泣き嬰児の泣き力湧く。
 なかなか泣き止まない子どもを見て作りました。はい泣く子は育つということをばらばらにして作り直したものです。

どこまでも何艘の船続く海。
小さい目なぜ光るのか理想知り。

夏の轍未来に続け 戻らずに。
夏の轍日本を強く導けと。
敏感な動物のごとく無我の我。


 夏までの日本の特別な空気、それは、○○君にとって、日本が理想に向かってひたむきに進んでいるように見え、そこには、まっすぐ理想に向かう日本の足跡としての轍が見えていた。それを彼は夏の轍と名付けた。秋以降は、その轍が消えて、また元に戻ってしまったかのように見えてしまった。しかし、大晦日の紅白歌合戦の歌の中に、あの夏の轍がまた見えたというのである。
 
2012年2月1日 21時29分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
2012年01月18日(水)
紅白のこと、野田総理のこと、足手まといになること
 7月の終わりにだんだんと震災のことが語られなくなっていく状況を「なんなのこれは」と危惧していた○○君が、年明けに次のような文章を書いた。

 いい疑問が解けました。それは世の中の人がみんな被災地のことを忘れていなかったことです。良い時間を過ごせたのは紅白歌合戦でした。日本中の人がどよめきと共に被災地の人の声を聞こうとしていたのがゴンゴン伝わってきました。だからとても安心しました。まざまざと被災地の大変な様子を映し出していて茫然とする番組もありましたが僕には紅白歌合戦が何よりも救いでした。
 夏の頃はとても失望していました。世の中の人が何も努力してくれないように思えたからです。そうでした。ほんとうにそんな感じでした。夏も終わって秋になっても政治家は馬鹿みたいなことばかり言ってましたが野田総理が僕たちのような障害者の言葉を使って演説をしたからとてもうれしかったです。先生も知っていましたか。どうして知っているのですか。
紅白に救われたこと、そして大越桂さんが野田総理によって紹介されたことがうれしかったということだった。ここで私が12月に大越さんのもとを訪問し、石巻にも足を伸ばしたことを告げた。そこから、話はまた、まったく別の話に展開していった。

 養護学校の生徒は逃げ遅れたと思いますがきっと頑張って生き抜いたので感謝して亡くなったと思います。なぜなら僕たちはいつもそういう気持で生きているからです。誰かの足手まといになるのはいやなのでどこで何が起こっても僕たちは覚悟ができています。わずかな希望ですが仲間の気持ちを伝えてほしいです。なぜならきっと助けられずに泣いている母さんたちがいるはずだからです。そういう母さんたちに仲間はきっと感謝の気持ちで亡くなったということを伝えたいからです。どうして先生はそこまで聞き出せるのですか。僕もまさかそこまで話す気持はなかったけれどつい話してしまいました。まるで誘導されたみたいですがもちろんどのような誘導もありませんでした。そうですね。みんなの気持ちですね。

 自分たちは足手まといになりたくないということ、そして感謝の気持ちで亡くなることができるという究極の思いを聞かせていただいた。
 ○○さんとしては、この話はあえてするつもりはなかったようなのだが、いつのまにかその話をしてしまったことをめぐって、このようなことを書いたようだった。私は、おそらく私がいろいろな人たちの言葉を聞いているので、時間差や場所の隔たりはあるけれど、私を介してみんなが一つの語りの場を作ることになっているというようなことがあるのではないかと説明をしてみた。けして誘導するわけではないけれど、ほんの一言の言葉や相づちがそういうことを生み出しているのかもしれない。
 ○○さんはそのことに納得してくれたようだった。
2012年1月18日 00時53分 | 記事へ |
| 自主G23区2 / 東日本大震災 |
きんこんの会のお知らせ(続)
 1月23日のきんこんの会は、1時から410番教室で行います。
 午前中から利光さんを研究室にお招きしています。少し早めに来られても大丈夫です。よろしくお願いします。
2012年1月18日 00時42分 | 記事へ |
| 大学 |
2012年01月15日(日)
1月のきんこんの会のお知らせ
 1月のきんこんの会は1月23日、1時から國學院大學たまプラーザキャンパスで開催させていただきます。今回は、福岡から利光さんが見えるのに会わせて、取り急ぎ決めさせていただいたので、ご連絡が遅れて大変申し訳ありません。
 時間についても、今回は利光さんのご都合で1時から開催させていただきます。昼食のことなどご迷惑をおかけしますが、大学で召し上がれるように部屋を確保したいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 
2012年1月15日 01時20分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年12月24日(土)
もっともっと生きたい
 小学4年生の○○君は、隣のベッドの女子高生の短歌の授業を聞いて自分も俳句を作ることにした。

なぜ泣くの みそらに小さな七つ星
夕焼け空の不思議な小さな夢の道
夜空のそばのリンデンバウム わずかな夢を奏でつつ
ランプの火 理想を燃やし西の空

よい俳句ですか。たぶんいつつ
(最初いきなりこれらの句を立て続けに書いたので実は俳句であることもわからず、一篇の詩なのかもしれないと思い、質問したらこう答えが返ってきた。実際は4つだった。)
 お願いします。僕も◇◇先生の話を聞いて感動したので作ってみました。(◇◇先生は隣のベッドの高校生に短歌を授業で教えた先生のこと。)わずかな知識ですがリンデンバウムという木をとてもなぜか忘れられませんでした。忘れられません。いい歌ですから。リンデンバウムを先生たちが知っていてうれしかったです。

リンデンバウムどこにも見えぬ夜の明けず
虹は空 僕の心に夢の橋
夏の星 輪になり雁が見送って
夏の星 リンデンバウムに伝令を
輪の中の寄せられし木の葉 油脂を溶かす

油脂はこぼれた松やにです。どうしてかわからないけれど知っていました。焚き火をしていて松やにのついた木の枝が燃えているところです。はい想像ですが良い俳句ですか。そうです秋の終わりの寂しさを読みました。

夏の星 南の理想の呼び声と
つらい喉わずかな息に和音の音


ここで主治医のT先生が入ってこられて、再生医療の説明をして彼の考えが聞きたいとおっしゃった。別に親の同意さえあればいいことになっているけれど、きちんと聞いておきたいからとのことで、普段から彼を大事にしている先生ならではの言葉だった。

 ぼくたちのためならいいですがなぜ先生はわざわざ聞くの。ありがとうございます。ぼくをきちんと見てくれてうれしいですが夢のようです△△ができるなんて。もうだめだと思ってきたのでうれしいです。ぜひお願いします。だめでもともとですから。お願いします。ぼくにはだめでも次の同じ病気の子に役立てばうれしいですからお願いします。なんでも聞いてくださってありがとうございます。なつかしいです。小さい頃のことが。ぼくは長く生きられないと覚悟していましたからどこに行ってもこれが最後だと思っていましたが今は希望を持って生きていますから安心してください。ついに新しい治療法が見つかったなんて夢のようです。先生ありがとうございますここまで育ててくださって。やっぱり生きてて良かったです。夏休みにはもうだめかと思う場面もありましたがまた元気になれてこんな話が聞けて良かったです。もっともっと生きたいですからよろしくお願いします。なぜだかわからないけれど小さい頃の不安な日々が懐かしく思い出されます。面倒なぼくを引き受けてくださって感謝しています。なぜT先生は何人もいる子どもの中でぼくのような子どもまで見てくれたのかいつも不思議でしたが勇気が必要なときにはいつも先生が側にいてくれてうれしかったです。これからも不安なときは側にいてください。よろしくお願いします。そろそろ疲れたので終わります。

 彼に会ったのは3歳半の冬。最初にそんなに長くは生きられないという説明を受けてから彼に会った。その彼の幼い頃の思いや生きることをめぐる覚悟をこんなに明確に聞いたのは初めてのことだ。3歳児にワープロができるのかと疑っている余裕などなかった。残された時間は短いかもしれなかったからだ。そして、2、3度ひらがなを教えた後、ワープロに挑戦し、わずかに動くあごで成功した。しかし、その頃すでに彼は自分の命についてしっかりとした自覚を持っていたのだ。目の前の10歳の少年は、りっぱな一人前の存在だった。
2011年12月24日 10時13分 | 記事へ |
| 小児科病棟 |
2011年12月12日(月)
大越桂さんのこと
 仙台で研究会が開かれた合間の時間に、大越桂さんのお宅を訪問させていただいた。大越桂さんのことを初めて知ったのは、2008年の秋のこと、私が初めて東田直樹さんの姿に接した講演会で、大越さんはビデオで出演しておられた。そして、それから半年後、大越さんの著書『きもちのこえ』が出版され、大越さんの生い立ちや筆談にいたるプロセスをつぶさに知ることになった。本を読んで、あまりの感動にすぐさま感想のメールを送って、返信をすぐにいただいたが、なかなかお会いするチャンスはめぐってこなかった。
 その間にも、ドキュメンタリーの出演など、大越さんの積極的な社会への働きかけの姿には、励まされてきた。
 そして、今年の3月、東日本大震災が起こった。大越さんのお宅もいろいろ被害があったようだが、幸い、ご家族もご自宅も無事だったとのことだったが、たいへんな不自由をしいられる日々だったとのことだった。
 そんなある日彼女のブログに大震災の詩が掲載され、そのうちにそれは合唱曲として、すばらしい作品になっていた。
 野田首相が所信表明演説で紹介していたのは、この合唱の歌詞だった。
 こんなふうにして、一歩ずつ確実に障害の大変重い人たちの心の世界を世の中に認めさせるための仕事をされてきた大越さんにお会いするので、たいへん緊張しながらの訪問だった。
 それなのに、お昼に、よせばいいのに研究会に一緒に参加した東京の先生とビールを飲んでしまっていたので、いささかあせりながら桂さんのベッドサイドに向かった。最初のごあいさつを交わして、桂さんからさっそく、「先生お酒くさいですね」と言われてしまった。やっぱりばれたか…という思いと、その言葉にむしろ、たいへん親しみを覚えて、そこから一気に話に花が開くことになった。大越さんのブログでは、光栄にも「心のバリア、ゼロ!昔からの友人モードでした〜」とご紹介していただいたのだが、最初にそういう私を引き出したのは、桂さんの心の広さだったといっても過言ではない。
 お父さんやお母さん、そして弟さんともたくさんお話をさせていただいたた。当たり前のことだが、語り尽くせないドラマがあって、今のご家族の姿がある。そのドラマのいったんを肌で感じさせていただいた。
 おいとまする時に、「本当は作家の偉い先生にお会いするという感じで緊張して来たんですよ」という私のセリフに、「詩人といってほしかったわ」と楽しく返された。
 私は桂さんとは、30歳以上も離れているけれど、力強い仲間を得たという気持でいっぱいでお宅を後にした。
2011年12月12日 00時13分 | 記事へ |
| その他 |
2011年12月10日(土)
東田直樹さんの講義
 大学の授業に、自閉症の作家東田直樹さんを招いた。授業は、2,3年生を対象とした授業だったので、今年高校を卒業した直樹さんより一つないし二つ年上の学生が受講者だった。そして、きんこんの会からは、4人のメンバーが参加し、町田の青年学級から自閉症と呼ばれるEさんも参加した。パワーポイントであらかじめ準備した原稿を、自分で読み上げながら、東田さんは、堂々と講義を行った。そして、いったん彼の講義が区切りがついたところで、まず、きんこんの会のメンバーやEさんとの質疑応答がなされ、その後、学生たちの意見を聞いていった。学生たちも懸命に彼の講義を聴き、精一杯彼に問いかけた。
 この日、参加者の中に、小説と映画「ぼくはうみがみたくなりました」の原作者山下久仁明さんもいらっしゃった。自らの息子さんをモデルにした作品だが、残念ながら、息子さんは中3の最後の春休みに電車事故で亡くなっていた。山下さんのコメントは、息子さんの気持ちを聞いてみたかったという深い言葉だった。
 授業の後、部屋を移して懇談の場を持った。障害は違うけれども、コミュニケーションに困難を持ち、援助によって初めてコミュニケーションが可能になった者どうしとして、新しい絆が生まれた会となった。
 
 
2011年12月10日 00時39分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年12月03日(土)
「早く人間になりたい」 妖怪人間ベムの悲しみ
 最近、私が小学生の頃アニメで放映され、主題歌とともにずっと忘れずにいた妖怪人間ベムが実写版で放映されている。子ども心に感じていたものが何だったのかはよくわからないが、あれから40年あまりの時を経て、私には、忘れられないセリフ「早く人間になりたい」が、全く違った意味をもって響くようになった。それは、「人間として認められたい」という表現が、多くの障害の重い方々の言葉にあったから。そして、ある意味でひやひやしながら妖怪人間ベムの放送を見つめていた。
 すると、さっそく、何人かの人がこのセリフについてコメントをしてきた。

私たちは人間あつかいされていないのでまるで妖怪人間ベムですがはやく人間になりたいという言葉はまさに私たちの気持ちです。自由ばかりが冒険の合い言葉ですが、早く人間になりたいこそが私たちのほんとうの気持ちです。わがままではなく凡庸でもいいからぼろぼろでもいいから人間になりたいです。なぜばらばらになってしまうのはつらいですが未来を信じたいです。わずかでもがんばるきもちがでてきましたよかったです。

 人間になりたいという言葉が最近よく聞かれますが何も知らない人たちはわからないと思いますが私たちはとてもせっぱつまった気持ちで聞いています。何とかして私たちを人間として認めさせたいので理想をかなえ早く人間として見られたいです。まだまだ私たちは人間として認められていないので早く何とかしたいです。私たちにとって理解されない悲しみは学校時代から変わらないので早く認められたいです。人間として認められる世の中を早く実現させたいです。小さい時からの願いです理想を早くかなえたいです。(…)私たちにはその言葉の意味がよくわかりますが私たちだけですね、そこまで考えているのは。(ドラマは)見てはいませんがコマーシャルで聞いて驚きました。ぜひ番組も見たいです

 人間になりたいというセリフがありますがまるで僕たちのことのようでつらいです。理解されないつらさやびっくりしたのは理解されようとして頑張ってもなかなか理解されないつらさです。楽しいことは家族と過ごしている時間です。ほかは楽しいことは少ないです。そうです。なぜなら家族でいるときは全く人間として扱われていますがほかではなかなか人間として扱われませんから。学校では友達といるときが一番楽しいです。はい。お互いに言葉では通じ合えなくても気持が通じ合っていますから。でもそのことは誰も知りません。誰にも知られないまま僕たちは気持を通い合わせています。そうです。はい。こんなにすらすら話せるのにもったいないです。

 ドラマでは妖怪人間ベムたちがなぜ正義を大切にするかも語られる。そこでは、人間らしくありたいからというようなことがその理由だった。これもまた、みんなの言葉と重なり合う。多くの人が良い人間になりたいということやきれいな気持で生きて生きたいと言うことを語る。それは、誰にも認められない自分の存在を自分自身でしっかりと認めるためだということを聞いたことがある。
2011年12月3日 00時45分 | 記事へ |
| その他 |
みんなのあかりコース 東日本大震災の取り組み 11月20日その3
 寡黙な50代のSさんは自分でも作文を書けないわけではないが、あえてパソコンを要求してきた。そして、以下の文章を綴った。

 なぜ津波はすべてを奪っていったのだろう。津波の力に僕は遠い過去のどうにもならない運命の力を重ねている。遠い昔の運命の力は僕の人生を切り裂いた。遠い昔の運命の力は根こそぎ僕の人生を流していった。わずかな明かりは今こうして何でも話せる方法が見つかったことだ。悩みも苦しみもたくさんどこかに流し去り、新しい人生を始めよう。津波もいつか遠くなり、被災地の人にも丸く明るい月が射す日が来るだろう。その日が待たれるけれど今は静かにまだ乾かない涙に耐えていよう。

 津波と障害を重ね合わせた人の文章はたくさん紹介してきた。しかし、Sさんの表現は、50代の方だからこそのものだ。自分の障害をめぐる若き日々のどうにもならない思いと、つらい経験。それを彼は、すべてを根こそぎ奪っていく津波と重ね合わせた。そして、最後に、被災地の方々へ静かな祈りを捧げる。たくさんの苦悩を越えてきた彼だからこそ、涙に耐えるという言葉が深く響いた。

 また、5月のわかそよのステージ上でみずからの津波の詩を紹介された40代のNさんは、次のような言葉を書いた。

 理解できないと思われているのにあんな詩を書いても誰も信じてはくれませんが満足できています。私たちをわかってくれない世の中がこの津波で変わりそうでしたがなかなか難しそうでしたが、そろいもそろって同じことを考えていたのですね。私たちは本当の仲間だということがよくわかりました。わずかな灯りがともったばかりなのでもっともっと考え続けていきたいです。

 これは、先に紹介したMさんやIさんの言葉を聞いて深い連帯感を感じたことを表現したものだ。そして、続けて次の詩を書いた。これは、この日の活動で、亡くなった障害者のことについての記事をみんなで見たことを受けたものだと思われる。

 挽歌

挽歌を一つ歌ってみたい
亡くなった仲間に向けて
まだ僕たちの時代は来ていないのに
見届けられずに逝ってしまった
未来はまだまだ遠いまま
つらい日々はまだまだ続く
だけどわずかな希望は見えている
わずかな希望は理解されて
初めて気持ちが言えたことだ。


 本当は、ここで終わったわけではなかった。たまたま私を急ぎのことで呼びにきたスタッフがいて、そこで、さっと彼が身を引くようにして句点をふったものである。あまりにもやさしい彼の配慮だった。
2011年12月3日 00時24分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
2011年12月02日(金)
みんなのあかりコース東日本大震災の取り組み11月20日その2
 同じグループホームで暮らす40代の女性のMさんと30代の男性のIさんは、次のような文章を綴った。
 まず、Mさんの文章。

 びっくりしました、みんながわずかな希望という言葉をたくさん使っていたことに。初めての人もいるかもしれませんが、涙ばかり流している私たちはみんな希望を大事にしているのでよくわかりました。夏休みは津波のことばかり考えていました。なぜあんなにたくさんの人が亡くならなければいけなかったのか。私たちをまるでわからない日本中の人たちを、だんだん理解してくれそうな人たちに変えてくれそうな気がしていましたが、それは幻だったのかもしれません。でも人間としての煩悩を抱えながらゴンゴンと生きなければならない私たちにとっては夏までの日本人はとても素敵でした。よい心が人間には備わっているということがわかりました。

 そして、Iさんは次のように書いた。

 わずかな希望は私たちをわかってくれなかった世の中が被災地の人の悲しみを理解しようとしていたことです。わずかな希望ですがわずかであっても実現された奇跡のような時間でした。地震と津波を乗り越えてまた世の中は復興するかもしれないけれど、僕たちをまた忘れ去らないようにしてもらいたいです。私たちのことを受け入れられる世の中こそ理想の社会になるはずですから。

 MさんもIさんも、ともに、夏までの時間は、特別だったという。まだまだ震災からの復興は道なかばであり、被災地の人々の苦悩は深いが、少なくともこの関東地方では、意識していなければ震災はすでに過ぎ去ったものであるかのように感じてしまう。そのような中で生まれて思いである。IさんもMさんも、今はグループホームで暮らしているが、そもそもは、都内の他の場所から町田の施設に入所してきた方である。その時点では地域で生きることができなかったことになる。もちろん、今は、まさにこの町田という地域の中で生き、仲間もたくさんできている。お二人とも、けっして流暢とは言えないが、日常生活を過ごす上では、会話に不自由をすることはない。しかし、話し言葉で表現されたものは、内面の言葉の何分の一しか表現されておらず、時には、口をついて出た言葉が意に反していることさえあることをパソコンでの言葉を通して知った。こうした見かけの姿と、内面とのギャップは、どれだけ彼らを傷つけてきただろうか。
 ところで、Iさんに対して、「Iさんが書いた言葉は、Mさんと似ているけれど、それはどうしてなのでしょうか」とあえて尋ねてみた。すると答えは次のようなものだった。

 Mさんとは一緒にテレビを見たりしてそういう話をしましたから同じ意見なんだと思います。

 なるほごと思った。仲間だけの場面だったら突然流暢に話すというわけではないだろう。しかし、ともに本当は語りたいことをたくさん持っていてもうまく表現できないことを互いに痛いほどわかり合っているから、短い言葉が深いメッセージを伝えあうことを可能にしているのだと思った。
 いずれにしても、夏までの「奇跡のような時間」をただの奇跡として終わらせてはならない。大変困難なことかもしれないが、東日本大震災からの復興が新しい社会の原理を伴うものであることを節に願う。原理とはただ、MさんやIさんを大切にする社会ということだけである。
2011年12月2日 23時58分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
みんなのあかりコース 東日本大震災のとりくみ 11月20日その1
 町田市障がい者青年学級のみんなのあかりコースでは、3月の成果発表会に向けて、東日本大震災をテーマに取り組んでいくことにした。そこで、11月20日の活動では、この半年間に青年学級やとびたつ会のメンバーが折りにふれて書いてきた震災に関わる文章をみんなで読み合って、それぞれが作文を書くことになった。独力で原稿用紙に向かったかたももちろんいるが、パソコンによって作文を書いた人もいる。
 まず、この日、もっとも衝撃的だったSさんの文章を紹介する。Sさんは視覚障害があり、いつもガイドヘルパーさんといらっしゃる。まだパソコンに取り組んだことはなかったが、みんながパソコンに向かう様子をみて、ぜひSさんの気持もパソコンで聞いてみたいとおっしゃった。そこで、さっそく挑戦した。彼がさっと綴った文章は、以下の通りだ。

 若くないけれど僕は地震の時にはとても感動したことがあります。唯一の希望という言葉が今日は語られましたが、僕もそのことばかり考えていたのでとても共感しました。僕も目が不自由なのでもし津波が来たら逃げられないと思いますが、何度も考えたのは母のことです。もし僕のために母が逃げ遅れたらどうしようということです。僕は母にはなるべく逃げてほしいです。私のために自分の人生を使い果たした母が僕のせいでなくなるのは耐えられませんが、まなざしを見ていると申し訳ないのですが、私を置いて逃げてほしいです。なぜなら僕が唯一母にできることはそれだけだからです。

 Sさんのお母さんのことをよく知っているガイドヘルパーさんは、ひときわこのSさんの思いが心にしみわたったようだった。もう40代の半ばを過ぎたSさんのお母さんだから、ほんとうにご高齢で、文字通りSさんのためにその人生を捧げてこられてことだろう。そのお母さんに向けたあまりにも深い思いだった。

 
2011年12月2日 23時47分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
臨時のきんこんの会のお知らせ 12月9日金曜日
 直前のお知らせになりますが、12月9日に東田直樹さんを授業にお招きしており、それに合わせて臨時のきんこんの会を開催して、講義のあとに、懇談会を行いたいと思っております。
 教室は、1時10分から本館2階AV1教室、2時50分から同じ階の410番教室です。
2011年12月2日 23時42分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年10月27日(木)
自立生活10周年記念パーティー
 東京の都下のある町で、ある障害の重い女性☆☆さんの自立生活十周年のパーティーが開かれた。会場のお店には、この英断をなさったお母さんと弟さん、そして、この10年間を支えたヘルパーさんやその派遣をしてきた事業所の方などが集まった。(この事業所は、障害のある方自身によって運営されている。)自立生活を送ってきた☆☆さんは、明確なコミュニケーション手段を持っていないので、世間的には言語理解も困難とされる方で、自分ではまったく動けないので日常生活も全面介助である。これだけ障害の重い方がアパートで自立生活を送っているという例はおそらくきわめてまれなはずだ。その生活が十周年を迎えたというのだ。無数のドラマがあり、たくさんの方々の懸命な思いがぎっしりと詰まった十年だったろう。
 その会場に私のような者がなぜ参加できたか。それはこの1年ほど、私の仲間の松田さんが彼女のアパートを訪れ、パソコンで気持ちの聞き取りをしてきて、この日は私が会場で彼女のメッセージを通訳することになったからだ。私は、この日で彼女に会うのはまだ2度目。1度目は7月のきんこんの会だった。
 きんこんの会では、自分たちと同じような障害の方が自立生活をしているということにみんな驚くとともに、大きな勇気を与えられたようだった。その時の彼女の話でとても印象的だったのは、自分の意図はうまく伝えることができないし、時にはヘルパーさんの解釈がちがっていることもあるけれど、大切なのは、何でも私に聞こうとしてくれることだという言葉だった。情報伝達よりも大切なものがあるということが実に鮮やかに示されていた。
 そして、まさにパーティー会場にはそのことを大切にしてきた方々があふれていた。
 以下は、お店の壁にプロジェクターで映し出されていった彼女のメッセージである。

 私のために今日は集まっていただいてありがとうございます。みなさんのおかげで私は自立生活を送ることができました。分相応に生きることしか考えていなかったけれどまさか一人の人間として生きられるとは思いませんでしたから私はこの十年は夢のようでした。理想的な試みだったので論より証拠の十年でした。みなさんのおかげで私は予想以上の生活を送ることができました。
 ごめんなさいびっくりさせて。私がいちばん驚いています。まさかこんなやり方が見つかるなんて思いもしなかったから。でも私は人間としてどうにかして自分の気持を伝えたかったのでこのやり方が見つかってとてもうれしいです。でも私は私がうまく言葉を伝えられなくても私を大事にしてくれた人が何より大切な人たちですから私が話せることなど小さなことです。これからも今まで通りによろしくお願いします。私はずっと☆☆のままですからよろしくお願いします。そろそろ終わりますが本当に今日はありがとうございました。私は生き続けたいのでよろしくお願いします。終わります。


 まさに、「私が話せることなど小さなこと」だという言葉にこめられたもっと大きなものが、この十年の歴史を支え続けたのだろう。多くを学び、大きな感銘を受けた会だった。
2011年10月27日 09時16分 | 記事へ |
| その他 |
2011年10月26日(水)
6人の学生との対話
 後期の授業から少人数の演習という授業が始まり、Iさんに来てもらった。先日、9月のきんこんの会の時に、合わせて60名ほどの授業にも仲間とともに出ていただいたのだが、今度少人数の時にという希望をうかがっていたので、来ていただいた。受講者は、ちょうど彼と同じ年齢になる3年生だ。
 今日は、教育実習や就職活動などで、参加者は6名だったが、ゆっくりと話をすることができた。
 まず、彼からのメッセージ。

 そんなに緊張しないでください。もう少しリラックスしてください。小さいことですがぼくにとってはなかなかない経験なのでよろしくお願いします。どこで呼んでもらえるわけではないのでわずかのチャンスを大切にしたいですからよろしくお願いします。ところでぼくのテレビを見たそうですが何を感じましたか。

 テレビとは、小6の時にテレビの取材を受けた時の録画を先週みんなに見ておいてもらったものだ。これは、援助によって50音表を指さして話す少年のドキュメンタリー『奇跡の詩人』というテレビ番組が様々な物議をかもしたので、その検証の番組という意味で制作されたと言われるもの。彼は、援助による筆談のできる少年として登場していた。

(最初の女子学生の感想に対して。理解することの大切さについてわかったということをのべた。)
 そうですか。ありがとう。よくそこまで見てわかりましたね。私たちは私たちらしく生きようとしているのですがなかなかうまくいかないので困っているので理解者がほしいので学生さんたちには期待しているのでよろしくお願いします。
(二人目の女子学生。一生懸命伝えようとしているのがよくわかったというような感想に対して)
 ありがとう。ぼくはまんざらではなかったですがテレビに出られて。だけど誰も何もいってくれなかったので寂しかったですがみんなに見てもらえてよかったです。ふざけて書いたのはわかりましたか。あれはふざけただけです。
(テレビでは、英語を使う国を書いてくださいと言われて、彼が「ホンコン」と書く場面が映っていた。)
 みんなまじめですね。ぼくはまじめではないので気をつけてください。

 愉快な先生ですね。いつもそうですか。(これは私の発言に対して。)

(3人目の学生は、自分もやれるようになりたいという感想。彼は、また、特別支援学校の教師を目ざしていると語った。)
 なるべく私たちのことを理解してほしいのでぜひぼくと話せるようになってください。いい先生になってくださいね。

(4人目の学生は、研究室にいつも出入りしていてきんこんの会にも参加したことがある学生で、Iさんとは何度か会っている。)
 ありがとう。なかなか理解されないのが理解してもらえてうれしいですが何度もあってますね。思い出しました。そうでしたね。ところでみなさんの中で僕たちのような障害のある人とつきあった人は?

 学生たちはそれぞれの経験を語ったが、その中で、教職希望の学生に義務づけられている介護等体験の話が出て、彼はそれについて次のように述べた。

 ぼくは○○養護ですが介護の学生が来るのがとても楽しみでした。若者は純粋だからです。勇気づけられることも多かった。それは何度でも聞き直してくれたりして、いつか社会に出ても大丈夫だと思えたから。理解者が増えればいいといつも思ってます。

 そして、彼の次のよう発言をもとに、みんなで練習をすることになった。

 ぜひぼくで練習してね。言葉をぜひ聞き取れるようになってね。

 一人ずつ、4文字程度聞きとる練習をしてみた。すると、最終的に、6人の学生全員が彼の言葉をスイッチで聞き取ることができたのである。いつも、あんなに難航するのに、これはとても面白い経験だった。彼も、「できる人は、少し変わっている人だということをいいながら、この部屋の学生はみんな変わっているね。」などといいながら、大変な手応えを感じた様子。
 一つ、わかったことは、最初の一人目の学生は、いろいろと手探りだったのだが、それを見ている仲間の学生たちは、その学生と気持を一体にして、応援しながら、いつのまにか、見ているだけでやっているような感じになっていて、学生が変わるたびに、どんどん読み取りが正確になっていったことである。「若者はちがう。大人だったら、変わるたびにまた最初からやり直しなのに。」と言うのが彼の感想。
 ちなみに彼の綴った文章は、

なつき えにかみ つすをや てめむよ せあああ やすわは から。ひ れとしめ

 最初は、「なつき」という学生の名前。「えにかみ」はその学生の髪が絵になるという意味。「つすをや」は2スイッチワープロをやって。ここまでは、意味のある言葉だったが、そこからはわざと意味のない文字を羅列した。これは、まちがいなく伝わっていることを彼自身が確かめたかったからだ。
 何か新しいことの生まれそうな予感に満ちた授業だった。
2011年10月26日 17時57分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年10月23日(日)
3編の詩 ぶどう 百合の花 捨て猫
 暑い日は、来るだけで汗だくになって、なかなか気持ちよく始められないけれど、よい季節がやってきて、初めからとても気分良さそうに関わり合いは始まった。もちろんすべてを気候のせいにしたりするのはまちがいだけど、この日の笑顔はそんな感じのするものだった。 彼は、昔から、とても気分がよいと楽しそうに動いて、顔を近づけたりして関わり合いは求めてくるけれど、なかなか教材などに手をだしてこないということがあった。この日も、一度も座ることが泣く、1時間ずっと部屋の中を歩き通しだった。
 それども彼の横にパソコンとスイッチをかかえて寄り添って肩にすいっちを押しつけていくと、どんどん言葉が綴られていった。
 そして、3つの詩が綴られた。

 ぶどう

ぶどうのしぼりたてのような甘いジュースを
ぼくは一息に飲み干した
ぼくは一人の貧しい人生に別れを告げる
理解されない苦しみも
行き止まりのわが道も
ついにぼくは捨て去って
真新しいぶどうの実を摘みに
遠い森に向かう
勇気さえあれば世の中の煩わしさを遠ざけて
わずかなぶどうのみを探してまた旅に出る
呼ばれることもないけれど
私たちは私たちの声を心の中で唱えながら
この道を歩いて行けば
必ず道は開けてくるだろう


 百合の花

理想の花を探し求めてぼくは旅に出る
わがままな僕にもわずかな望みは理想の花を探すこと
人間としての喜びを呼んでみよう
ぼくの未来をなぜ閉ざすのか
理想の花を探しに行けば
わずかな希望を理解してくれる
望みの花をともに探そう。


 捨て猫

なぜおまえは捨てられたのか
まるで名前もないものらしい悩みに満ちた姿は
私たちのようだ
わずかな私たちの希望は
笑い声のためにかき消されてしまいそうだけど
喜びの私の歌を聴いたならば
また再び立ち上がれるだろう


 また詩の合間に彼は、お母さんから時々突然怒り出すのはなぜなのかという質問を受けて、次のような答えも書いていた。

 わがままではなくぞろぞろと昔の嫌な思い出が思い出されるときです。昔の思い出はどれというわけでもなく浮かびます。どこでも浮かんでしまうので困ります。

 いわゆるフラッシュバックと呼ばれるものだろう。嫌な思い出を突然思い出すと言えばすむものを、わざわざフラッシュバックなどという言い方をすることにより、これが特別なことになってしまって、私たち自身の経験との共通性が見えなくなってしまうことを大変おそれるが、そういう話もされた。
 終始、笑顔だった彼だが、また、ずっしりとした重い内面の世界をまたこの日も見せてもらえた。
2011年10月23日 00時05分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 |
2011年10月11日(火)
利光徹さん、アフリカ旅行の報告会のお知らせ
 きんこんの会にも時折ゲストとして参加してくださる福岡の脳性まひ者の利光徹さんが、9月にアフリカ旅行に行ってこられました。その報告会が以下のように開かれます。
 日時 10月31日月曜日 18:30〜21:00
 場所 国学院大学渋谷キャンパス3号館3階(3304教室)
 なお、それに先だって3時間目(12時50分〜2時20分)と5時間目(4時10分〜5時40分)は、この報告会を主催されている楠原彰先生の授業の中で、利光さんも話されると思います。
 楠原先生は、私が人間開発学部に移る前に所属していた渋谷キャンパスの教育学研究室の先輩の先生で、すでに退職されて現在は非常勤講師の立場で教壇に立っておられます。2001年には利光さんとインド旅行もされており、私もその際は同行しました。
 利光さんからも、ぜひ、きんこんの会に参加しているようなメンバーにも声をかけるようにとお誘いがありました。報告会は、ボランティア学会のメンバーにもお誘いが回っているので、いい機会になるだろうというのが利光さんの考えです。
 ふるってご参加ください。
2011年10月11日 00時47分 | 記事へ |
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11月のきんこんの会のお知らせ
 秋らしく、過ごしやすい日々が続いていますが、みなさまお元気でお過ごしでしょうか。
 11月のきんこんの会についてお知らせいたします。
 11月のきんこんの会は、3日(木曜日)文化の日に2時から國學院大學たまプラーザキャンパスの410番教室で行います。
 きんこんの会は、援助によってコミュニケーションが可能になる方々がともに語り合う会です。参加は自由です。
 今回は、正面玄関ではなく、事務室のところから入って、その近くにあるエレベーターで410番教室のある2階にあがるようになります。
 9月のきんこんの会は、前半が授業でしたので、話し合いの時間が少し短くなってしまいましたが、今回は、ゆったりと話し合えると思います。みなさまのご参加お待ちしております。
2011年10月11日 00時38分 | 記事へ |
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