ニックネーム:柴田保之
性別:男
年齢:56歳
障害の重い子どもとの関わりあいと障害者青年学級のスタッフとしての活動を行っています。連絡先は yshibata@kokugakuin.ac.jp です。

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2011年09月30日(金)
長かった時間の流れを越えて結婚する弟へ
 近々結婚する弟さんへのメッセージを聞き取ってほしいと依頼を受けて、9月の初め、○○さんとお約束の場所に向かった。スケジュールの調整の関係で、そのお約束の場とは、○○さんの通所施設で、その日はショートステイの泊まりの日だった。簡単な単語を発することでかろうじて気持ちの一端を伝えることのできる○○さんは、視覚にも障害のある方だが、これまでの長い弟との日々を振り返って、気持ちのこもったメッセージを書いた。

長かった時間の流れを越えて結婚する弟へ

 みんな結婚して小さい家庭を築いてもっともっと幸せになれるよう心から祈っています。ぼくが障害があったおかげで弟には十分にかあさんとふれあえる時間がとれなくて申し訳ありませんでした。人間としての秀でたものは僕にはなかったけれど理想だけは高く持ってきました。だからどうしても弟にはしあわせになってほしかったのでとても喜んでいます。勇気を出してお嫁さんにプロポーズできてよかったですね。もし勇気がなかったなら結婚もできませんでしたね。もっともっと勇気を出さなければならないときが結婚生活ではあると思うので、その時は結婚を申し込んだときのことを思い出してまた勇気をふるってください。
 ぼくの中では弟はいつも心のともしびでした。ぼくにできないことを弟がかわりに成し遂げることをいつも応援していましたので結婚は特にうれしいです。マイペースなぼくだけどこれからもよろしくお願いします。
 お嫁さんになる人に伝えたいことはぼくのことで迷惑がかかることがあるかもしれませんがどうかどうかお許しください。わかっていてもうまく話せないだけでなく何の意味かわからないような言葉しか話せない人間ですがよろしくお願いします。
 きょうは望み通りに話せる時間をいただき感謝しています。わかっていただけたらありがたいです。なかなかぼくたちのことは世間では理解されないけれどこうして話させていただいて感謝いたします。おわり。


 これまで○○さんへ向けられてきた家族の暖かい気持ちに呼応するように、○○さんもまた熱い気持ちを家族に向けている。そのことがふだんはなかなか気づかれにくいけれど、けっして思いやる気持ちは一方通行のものだけではないことを改めて感じさせられた。
 書き終えたあと、晴れやかな顔をして、彼は、少し遅れてしまった夕食に軽やかな足どりで向かっていった。
2011年9月30日 09時01分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) |
東日本大震災に思う 9月26日
 残暑がようやく勢いをなくし始めた9月の終わり、障害のある兄弟のあまりにも深い会話に私は接することができた。最初にまず、兄の○○君がこう語った。

 地震について書きます。犠牲になった人たちに捧げる詩です

小さな幸せ流していった
何もかも流していった
わずかに残った忘恩の声
和と和を大事にすることがとても大事だということを
僕はなぜか理解した
全然希望は見えないけれど
びっくりしたのは人々が助け合いの心をなくさなかったことだ
人間としての最後の証しなのだろう
わずかな希望はそこから生まれそうだ
よい知らせはまだ届かないけれど
茫然と立ちすくむわずかなぞろぞろと湧く悲しみを
どうにか癒やしてくれそうだ
ずっと前から願っていた夢をもう一度取り戻し
勇気を持って立ち上がれたら
ふたたび望みはかなうだろう
理解を超えた悲しみも理解を超えた煩悩も
理解を超えた汚れた未来も
すべてまたきれいによみがえるだろう
その日をぼくは静かに祈る
一人遠いこの場所で
よい願いの開く日まで。

 地震の後ずっと色々なことを考えていましたがなかなか夏を過ぎても本当の復興はやってきません。そのことを詩にしました。わずかな理解者しかいないのでぼくたちのこんな思いは伝わりませんが、とても悲しみと嘆きを持ってこの半年を生きてきました。理解されなくてもいいけれど世の中の人に私たちの思いは伝えたいです。深く見つめてきたので私たちのことがわかるのですね。ありがとうございます。(弟に)代わります


 私には、この詩が、これまで多くの障害のある人たちによって綴られてきた詩や言葉に比べてある重さを持っていることが印象的だった。大震災から半年を過ぎた時だからこそ繰り出されてきた言葉なのだろうと思わずにはいられなかったので、そのことを○○君に話した。
 すると、弟の◇◇君は、すぐにそれを受けて次のように綴った。

 いい詩でしたね。でも先生が言ったように僕の詩よりも重いですね。確かにまだまだ被災地には悲しみがあふれているみたいで悲しみから立ち上がれてはいない人も多いですね。でもわずかな希望に支えられて立ち上がろうとしている人たちもたくさんいてそれが救いです。夏を頑張って過ごした人たちもきっといることでしょう。わかってほしいです。ランプの明かりを灯していきたいので理想を大事に生きていきたいです。微妙なニュアンスの違いがあってもなろうとしてなったわけではない障害を持っている立場からの気持ちは共通ですね。僕の死はなかなかすてきだったと言ってくれましたが、ばらばらと涙をこぼしている人にはそんな僕の思いは届くでしょうか。わかりました。なかなか僕たちの言葉は届かないのでしょうがわずかな希望は僕たちのわずかな声を先生が聞き取ってくれていることです。僕たちの声がいつか世の中に届く日が来ることが楽しみです。まだまだ時間がかかるかと思いますがよろしくお願いします。ここで話はいったん理解されないもどかしさに移っていったがその中で、次のような言葉にたどり着く。

 僕たちの言葉は別に優れているとか関係ないのでよい悪いなどは言わないでください。

 ここで私は良い悪いとは別に端的によい言葉があると言い、それは悪いの反対語のよいとはちがうと言った。すると◇◇君はこう答える。

 わかります。悪いの反対語ではないよいは大事な言葉です。
 
 ここで話が一区切り着いたという思いがしたのだが、ここでもう一度何かを語り出そうとする気配を感じた時、私は彼がさらに重い話をするのではないかと一瞬たじろいでしまい、そのことを口にした。そして、次の言葉が繰り出されてきたのだ。

 ところで僕たちのような存在は津波の時には足手まといになってしまうのでそのことがとても気になっています。なぜなら僕たちのような存在を救おうとして何人もの人が亡くなったからです。僕のかあさんもたぶんもっとも僕たちから離れられない人間なので僕はそれを思うと胸が締め付けられる思いです。僕も兄も本当はどこにいても気持ちが通じているのでわかるのですが、僕たちはかあさんには僕たちを置いて逃げてほしいです。僕たちは覚悟ができていますから。かあさん係に僕たちを置いていっても決してうらむどころか、逃げてくれてありがとうと思います。別れはいつかやってくるものですから。かあさんだけには助かってほしいです。感謝の気持ちで僕たちは波にのまれることができますから。波にのまれるのは僕たちだけで十分ですから。きっとそんなできごともあったはずですから、どうにかして僕たちの気持ちを届けたいです。もしかしたら子どもを見殺しにして泣き続けている人がいたら、きっと感謝の気持ちで亡くなったと言ってあげたいです。泣くのはもうやめてくださいと言いたいです。わかってくれますか。さっき先生は僕がこの話をすることがわかったのですか。そうですか。僕たちはみんなたぶん同じ気持ちです。 

 この、あまりのも重い話に対して兄はすぐにこう答えた。

 まさか◇◇がその話までするとは思わなかったけど、僕ももちろん同じ気持ちです。だまっておこうかと思いましたが、僕はそのことをずっと考えて眠れませんでした。私たちのような存在でも犠牲になれることがあるとしたら、そういう場面しかないかもしれませんから、そんなことまで考えているとは誰も思わないでしょうね。だけど僕たちはみんな、ご覧なさい僕たちをという誇り高い生き方をしていますから大丈夫です。かあさんにも見せてください。僕たちの本当の気持ちですから。先生ぐらいですね、この話に驚かないのは。でもさすがに動揺は隠せませんでしたね。とても深い話をさせてもらえてありがとうございました。

 たまたまおかあさんはこの時所用で関を外しておられた。私は一瞬この文章をおかあさんに見せてよいのか迷ったのだ。それを独り言のように言うと、はっきりと見せてほしいと返してきたのである。もちろんこの文章は戻ってこられたお母さんに手渡した。さっと文章に目を通したお母さんは、これは、ゆっくり家で読まなきゃねと、二人におっしゃった。兄弟と母の間に存在するあまりにも深く美しい絆がそこにあった。

2011年9月30日 00時14分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
2011年09月20日(火)
きんこんの会 9月23日のお知らせ(続報)
 以前お知らせした9月のきんこんの会ですが、1時10分から2時40分まで「重度重複障害児の教育」の授業の中で受講者の学生たちをまじえていろいろな意見を聞かせていただき、授業後に2時40分から4時半頃まで通常のかたちできんこんの会を開きたいと思います。
 場所ですが、いつもの研究室の近くの部屋が使えないので、1号館(事務課等のある建物)の2階のAV1教室で授業を行った後、同じ階の410番教室に移る予定です。
 これだけでは場所はわかりにくいと思いますので不明な点は柴田の携帯に電話ください。
 よろしくお願いします。
2011年9月20日 23時27分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年08月30日(火)
4歳半の少年と
 旅行の途中で、ある地方都市に立ち寄って、4歳半の男の子にお会いした。「自閉症」と呼ばれている男の子だった。
 すでに筆談で気持ちを話し始めているお子さんだが、私は、手を振る方法とパソコンとで気持ちを聞かせていただいた。触られのがあまり好きではないらしいので、手首をそっと触れるだけですむ私の方法は、幸い特別な抵抗は感じなかったようだった。
 コミュニケーションの方法を説明したり、話しをし始めたとたん、表情がゆるみ、自分から手を出してくるようになった。そうして書いた言葉は次のように始まった。

わかってほしいけどなかなかおとなはわかってくれない
ちいさいときからずっとよいこだといわれたかったからぼくはさびしかった
なんどもかあさんをこまらせてわるいこだったからかなしい
なぜせんせいはそんなにやさしいの
そうです ぼくのともだちはみんなどこへもひょうげんできなくてないてばかりいます 
ぜんぶわかっていますからだいじょうぶです 
なかなかからだをおさえられないでこまっています 
(泣くのは)だれかがぼくたちをばかにしたときです 
なきたくなるのはかあさんにわるいことをしたときとばかにされたときです
だっこはじんじんしていやです 
(泣いている時は)やさしくながめてくれたらそれでいい
(朝方に泣くのは)それはおもいだすからです なくのはいつもおもいだすからです


 4歳半とはいえ、しっかりとした認識を持っている。あまりに早熟と思われるだろうか。だが、私の考えでは、おそらく、同年齢の子どもたちも、同じような力を持っているのだが、まだまだ自分で話すのはたいへんなのではないだろうか。ただし、この男の子の場合、こうした文章は、理解されない状況の中でより深まっているはずだ。
 ここで、詩を作っていないか尋ねてみた。
 すると「あります」と応えて次の詩を書いた。 

  なくしたりそう

なくしたりそうにもういちど
であえるようにとぼくはいのる
なくしたりそうはばらばらと
みずのむこうにしずんでいった
だけどぼくにはちからがなくて
むこうのせかいにゆけなくて
なまえもしらないわかものに
ちからがほしいとみかづきのよるに
びろうどのみらいがほしくておねがいをしたが
まだちからはぼくにはとどかない
だけどなぜだかきぼうがわいて
ゆうきがちいさくわいてきた

おしまい
なかなかひょうげんできなかったけど ながいぶんしょうもかけてかんげきです


 また、今年は、かわいがってくれたおじいちゃんの新盆だったのことだったが、そのことについても、聞いておいた方がいいだろうと考えて尋ねてみた。すると、次のような詩のような文章を綴った。

どうしてひとはなくなるの
まざまざとぼくはみせつけられた
なかなかひとりでちいさなじぶんのかなしみをゆえなかったけれど
ぼくにもかなしみはある
ちいさいけれどおおきなかなしみがある
なみだをながしてないてみても
ちいさなびいどろのかなしみはいえなかった
ばんがきてほしがそらにでたとき
ようやくほしになったとおもっておちついた


 幼い子どもであっても、その子どもの理解の範囲の中で死というむずかしい事実にも向かい合っているのだ。
 こうした豊かな心を持った存在としてとらえることが常識になる世の中はまだまだ遠い。しかし、そうしたまなざしとは全くちがうまなざしは、日々幼い心を傷つけ続けているということをいつまでも放置してよいはずがない。
 確かにコミュニケーションには、特別な方法が必要だったが、その方法を通して出会った男の子は、笑顔のとてもすてきな男の子だった。
2011年8月30日 23時13分 | 記事へ |
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光道園にて その2
 第一日目から、3人の方の言葉を紹介する。なお、光道園の方は視覚障害の方が多いので、みなさんは、純粋に耳で音を選んでおられる。何かのかたちでひらがなを知っている人は、助詞の「は」「へ」「を」などを使えるが多くの人は、「わ」「え」「お」を使ったり、長音は「う」の表記のところをそのまま「お」を選んだりしているが、それはみなかな文字表記のルールに合わせ、漢字をあてた。

 まず、最初は、40代の方の詩である。

 香りのよい花を探しに

香りのいい花を探しに行きましょう
七色に輝く虹を追って
泣き出しそうな私とともに
夢にまで見た楽園に咲いているという花を
希望にかえて
私は願いをなくさないで
冒険に出よう


 次は、もう50代を過ぎているだろう、初老のY.Mさんの文章だ。彼は、ふだん学習の場に出てくることはないという。たまたま食堂の方が落ち着くという方がいたので、学習をやっている部屋から食堂へと場所を移した時に、パソコンの音を耳にしたらしく、私が学習の部屋に戻ってきたところ、しばらくして、自分から職員の方を促してやってきたとのことだった。

 ああいい気持ち。気がついたらこんなに年を取ってしまいました。なかなかわかりにくいかもしれないけど僕は小さい時には見えていたので簡単です。
 夏になるといつもふるさとの山や川を思い出します。わがままばかり言っていた夏休みのことです。唯一の楽しみはプールでした。プールではいつも泣いてばかりでしたがみんなと頑張ったいい思い出です。夢にまで出てきます。なぜか夏ばかりが出てきます。みんな元気でいるでしょうか。会いたいです。ぶかぶかの帽子をかぶっていた友だちやずっと走り回っていた友だちはどうなったでしょうか。
 理解されずにずっと生きてきましたがまさかこんなやり方があるなんて驚きました。なぜわかるのですか。(さっき聞いていたのですか。)聞いていてなんだこれはと思いましたから来てみました。いい気持ちです言いたいことが言えて。小さい時にやったことなのでつまらなかったですがべつにごんごんする思いがあったわけではありませんから許してください。点字ですが難しそうです。少しはやりましたがなかなかできませんでした。みんながうらやましかったです。乱れそうな気持ちで生きてきたのでなかなかみんなのように穏やかな気持ちになれませんでしたがやっと素直になれそうです。
 僕の気持ちを理解してください。僕もちゃんとした人生が送りたいですから。なかなかずっと気持ちを言えなかったので言えてよかったです。小さい時からの夢がかないました。なぜ先生は僕に言葉が理解できると思ったのですか。なかなか誰もわかってくれなかったのでうれしいですがなぜわかったのかまだ不思議です。まるで夢のようです。はい。(点字の基礎学習も)少しずつやりたいですからよろしくお願いします。だいたい知っていますが触ってもわかりませんでした。
 触ろうとすると手が敏感に反応してしまいますから困っています。
 本当は誰とでも食べたいけど慣れた人でないとむずかしいです。さわると緊張してしまいます。子どもの時からです。むずかしいです。
 気持ちが落ち着きますから大好きです。がんばってみますがよろしくお願いします。なるべくわかってほしいですから黙っていてもわかっていますからよろしくお願いします。


 沈黙のまま過ごした長いときのことを思うと、言葉はあまりにも重かった。
2011年8月30日 22時55分 | 記事へ |
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2011年08月29日(月)
光道園にて 2,011年8月22日その1
 光道園の合宿の初日の最初の2名の文章を紹介したい。すでに長い間光道園で暮らしてきた方々だ。初老と言ってもよい方々の長い沈黙の時間の末に綴られた言葉だ。

<Y.Oさん>
 おかあさん。今度ろうそくを持って思い伝えにお父さんのところへ生きましょう。言いたいことが言いたいといつも思っているのでうれしいです。小さい時から言いたいことが言えなくて困っていたのでとてもうれしいです。小さい時は学校で何も教えてもらえなかったのでどうして点字をやったらいいのかわからなかったけれど光道園で教わってわかるようになりました。夏になると東京の先生たちが来てくださって一人ずつ教えてもらって少しずつわかるようになりました。光道園はとてもいいところです。わざわざみんなのために学習の時間をとってくれます。とてもうれしいです。小さい時の寂しさがなくなりました。わざわざ私たちのために学習をしていただいて感謝しています。小さい時から母さんと泣きましたがようやく光道園で笑顔になりました。みんなも同じだと思います。いい施設です。いい人たちばかりです。私は幸せです。泣いてばかりいた昔がとても嘘のようです。理想的なところです。点字も数もある程度わかっていますがよくわからないところもあるのでよろしくお願いします。

<T.Tさん>
 うれしい。願いがかないました。言いたいことが言いたいとえらく前から思ってきましたからがんがん書きたいです。なぜなのかつらい日々が嘘のように遠くになっていきました。光道園ぞっとすることがなくいつも楽しいです。ぬくもりと思いやりがあってほめられてばかりです。びくびく生きていた小さい頃が嘘のようです。ぬくもりがとてもよいです。人間としてみてくれるところです。つらいことも吹き飛びます。勇気が出てきます。理解してくれる職員ばかりで幸せです。参考になります。学習の時間に生かしていきたいです。
今気になっていて困るのは災いのことです。たくさんの人が亡くなってよい世の中がなくなりそうで心配しました。どうしてあんな悲しいことが起こるのかわからなくなってしまいました。悲しくてかわいそうで泣きました。ようやくみんな立ち上がることができてほっとしています。地震と津波はぼくたちの障害とにてどうにも訳もわからない残酷なものですが、僕たちも希望をなくさずに頑張っているのでみんなも希望をなくさないで頑張ってほしいです。
口は言いたいことが言えずに勝手に動きます。だから困っていますがぐいぐい自分の気持ちが言えてうれしいです。はい。教育テレビではなくて日常の僕に必要なことという意味です。

2011年8月29日 17時55分 | 記事へ |
光道園の職員の方々への手紙
 今年も福井県鯖江市の施設、光道園に合宿でおじゃまし、利用者の方々の深い思いに接することができた。ここでは、その言葉を整理して光道園にお送りする際に添えた手紙を掲載させていただく。やや長めだが、現在の私の考えを示したものだから、何かの参考になればと考えるからだ。


光道園のみなさま

                          柴田保之

 今年もたくさんのよい出会いをさせていただいてありがとうございました。
 1昨年より点字や数の基礎学習の間に、パソコンを使って入所者の方の気持ちを聞くことを始めるようになりました。
入所者の方が示す行動や発せられる言葉からはなかなか想像のつきにくいような言葉が次々と豊かに紡ぎ出されていくのでにわかには信じられないことかと思います。
 この方法は、初めは相手の実際に起こる運動だけでスイッチ操作をしていたので、現在のやり方とは違い、ご本人が確実に文字を選んでいることがわかりやすかったのですが、それはけっこうむずかしいもので、可能な方は一部の脳性マヒの方に限られていました。
そこから、少しずつ関わりを深めていく中で、現在の方法にたどりついてきたわけですが、その経過の中で次のような変化が起こっていきました。
 まず、基本的には、スイッチを二つ使っており、最初は二つのプッシュスイッチを押し分けるか、レールの両端についたスイッチを押すと引くとで操作していたのですが、本人の自発的な動きを待つだけでなく、次第に相手の動きと一体化した感じで一緒に手を動かすようになりました。特に力が弱くてはいりにくいような人の場合は、それが効果的だったのですが、そういう援助の中で、一つのスイッチを押していて次のスイッチに移る時、次の新しい運動を準備するために違った力が入ることを発見しました。それがわかるとそれは一つの合図の役割を果たすようになり、その力が入ったところで、もう一つのスイッチはこちらが押すようになりました。レールのスイッチも同じで、一緒に手前に弾く動きをしていると、次に向こう側に押す動きをする前に準備の力が入ることもわかり、それを合図として使うことができるようになりました。 
 つまり、一緒にプッシュスイッチを押したりレールのスイッチを引いたりして、「あ、か、さ、た、な」と進めていくと、選びたいところで合図をくれるというようになったのです。
この方法を見つけるまでは、自発的な動きに大変個人差があったので、一人一人関わりの仕方が異なっていたのですが、この準備の力としての合図は、みんな共通のもので、それまでなかなか自発的な運動だけではワープロに必要なスイッチ操作が困難な人でも、金と合図は送れるので、言葉を読みとることが可能になりました。
 この方法を発見してから、徐々にスピードをあげていきました。スピードをあげる際には、相手にはもう自発的な運動は求めず、こちらが相手の手を動かしてただ手を添えてもらうことだけを求めるようにして、プッシュスイッチを押す動きやレールのスイッチを引く動きを私の方で連続的にして、徐々にスピードをあげていったのです。すると、スピードについて行けなくなるひとが出て来ないばかりか、「速いほうが楽だ」という言葉が書かれるようになったのです。そこで、思い切ってスピードをどんどん速くしていったのですが、今度は、「不思議だ」という言葉をもらうようになりました。それは、ある速さを超えると「自分で力を入れているという自覚がなくなる」というのです。それでは何をしているのかと問い返すと、「じっと耳を澄ませていて、選びたい行や文字が来た時にここだと思うと読み取られていく」というのです。
 私の方では関わりに変化を与えたのはスピードだけでしたから、読みとっているものは基本的には相手の体にわずかにこもる力であることは変わりありません。ということは、私は相手が「ここだ」と思った時に体にこもる力を感じ取っているということになります。考えてみれば力を入れるのも「ここだ」と思うのも脳の中の指令のようなものですから、結果的に同じような力が体にこもるのは納得がいきました。
 一方、介助に慣れていくにつれ、私自身にも変化が生じてきました。それは、最初は、相手の力を感じたからスイッチの反復操作を止めるというように、まず力を感じ取ったところを自覚していたのですが、力がこもったことを私自身が気づいたと感じる前に、スイッチの反復操作が止まるようになったのです。これは、いわゆる反射的な運動になったわけです。最初は意識しないと乗れなかった自転車に無意識に乗れるようになるのと同じプロセスです。
 そんな時、パソコンが手もとになくて話しをしたいと思ったことがありました。そこでとっさに手を振りながら「あかさたな」と唱えてみる方法を考えたのです。すると、選びたい行で、しっかりと合図を送ってくれたのです。これで、パソコンがなくても言葉を聞き取ることが可能になりました。
 現在読みとっている力は本当に小さくなり、触っているだけでもわかるぐらいになりました。その状態だけを見るとまさしくマジックにしか見えないと思うのですが、人間は、そういう感覚の研ぎ澄まし方をいろいろな場面でやっていることにも気づきました。例えば、剣道などでは、相手の竹刀が振り下ろされる運動が見えた時には、もう絶対に逃げられないそうです。だから、実際の竹刀が振り下ろされる前に姿勢などの様々な情報から竹刀が振り下ろされる動きの準備を読みとっているとのことです。それを科学的にとらえるのはむずかしいそうですが、私の読みとっている動きもなかなかうまく説明できません。しかし、これが決してマジックではないということは私自身にはわかっています。また、何人かの人が同じような方法をすでに習得していますので、これが私だけのものではないということも明らかになっています。
 ところで、当事者がやっていることをもう少していねに見ていきますと、文字の選択というのは、普通は、空間的な整理を必要とするものです。目で50音表から探したり、手で50音表から探したり、あるいは、ひらがなを書いたり、点字を構成したりするのは、まさしく空間的な行動になります。学習の中心はこの空間的な行動をより巧みに行えるようにするものですので、その大切さは日常生活動作も含めて明らかでしょう。
 一方、今私の方法においては、空間的な操作がまったく必要ありません。50音表から選ぶのとはまったく違うやり方で相手は一つの音を選んでいるのです。それは、自分の言いたい言葉の音を頭に一音ずつ思い浮かべておいて、その音に一致する行や音が来るのをじっと待つわけです。そしてその音が来た時に、「ここだ」と判断するだけなのです。言わば純粋に時間的な操作になっているわけです。
もちろん、ゆっくりと自発的にスイッチ操作をしていた時には、それは空間的な運動でした。その時は、後どのくらいで目的の行が来るかを考えたり、一行前で次の行だから準備をしたりなど、けっこう複雑なプロセスが進行していたのです。
 ところが、スピードがあがるにつれ、そうしたプロセスが不要になったのです。
 このよいところは、それだけ言葉に集中できることです。空間的な操作のことを考えている場合には、それだけ言葉に集中することができません。だから、なかなか長い文章や複雑な気持ちを言葉にすることができなかったりする人が少なくなかったのです。
 おそらく、簡単な言葉しか話すことができないとされている人たちも、本当は複雑な思いを抱えていても、話すために必要な複雑なプロセスをこなすために、短く簡単な言葉しか発することができないということがあるのだと思います。
 自分でパーキンスブレイラーを操作して毎日日記を書いている人が、内容がなかなか簡単なことから脱しきれないときに、私の方法で文章を書いてみたら複雑な思いを綴ったので、尋ねてみたら、「いっぺんにふたつのことはできません」と返事がありました。とてもわかりやすい言い方だと思いました。
 こうしたことから知的障害っていったいなんなのかという問いがわくようになってきました。いつの間にか、知的な障害は発達の遅れで、相手がうまくしゃべれなかったりすると、それはそういう発達段階にあるから心の奥底の思いも、表面に表れている言葉や行動に反映された「幼い」ものだという認識ができあがっていたと思うのですが、実は、心の奥底には言葉によって紡がれた深い思いがあって、それを表現するプロセスに障害があるということになります。
学習というのは、そうした表現のプロセスを本人が少しずつ発展させていくことを援助するものだということになり、その大切な意味が改めて浮かび上がってくると思います。
 私は、今は、光道園にうかがうと言葉の聞き取りの方に関わる時間が多くなっています。それは、やはり長い間自分の思いを伝えられないでいた方々の思いを少しでも聞き取るということが大切だと思うからです。
 しかし、利用者の方々が少しでも一人で自分の生活を切り開いていく援助をするためには、学習が不可欠ということになります。
この両者のバランスの取り方などの整理はまだ私にもできていませんが、そのようなことを現段階では考えております。
中島先生がかつて、光道園で出されていた冊子に「光道園には詩人や哲学者がたくさんいる」と書かれていたことがありますし、そのような言葉は講義などでおりにふれてうかがっていました。昔は、一つの比喩ように聞いておりましたが、それは、まったく言葉の通りであったことを痛感しております。
 光道園はとてもいい場所だということが多くの利用者の方々によって綴られています。利用者を第一に考えていく光道園の精神は、利用者にほんとうによく伝わっていることを一昨年以来からの取り組みで、実感しております。 
 重複研に通所している40代の女性が、私の関わりで初めて話せるようになった時におっしゃいました。それは、「先生、言葉より大切なものがあるということを忘れないでください。」ということでした。そのことの意味を深く考え直しながら、今は、一人でも多くの人々の秘められた思いを聞き取る仕事をやっているところです。
来年もまた、深い出会いをさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。
2011年8月29日 17時49分 | 記事へ |
| 他の地域 |
東日本大震災に思う 8月19日
 施設で暮らしている30代の○○さんが帰宅する日に会わせてお宅でお会いした。せっかくいい方法が見つかったというのに、なかなか広がらない現状を嘆いたあと、彼は、震災の話に移っていった。

 何度も泣きそうになったのは地震と津波のことでした。まさか泣き出しはしませんでしたがわからなくなってしまいました。なぜあんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのでしょうか。わからなくて毎日考えていますが答えがどうしても見つかりません。なぜ私たちはわからないと考えられているのかという問題よりももっと大きな問題でした。敏感に感じる人は誰でも悩んだことでしょう。ばらばらになってしまった親子や人を助けようとして亡くなってしまった人のことを思うと悲しくてたまりません。どうしてみんながびいどろの未来を失ってしまったのかとても理解できませんが救いになったのは人々が立ち上がろうとする姿とそれを応援しようとする人々の気持ちでした。小さい頃からなかなか理解されなかった思い出は何度も泣きそうな気持ちを呼び起こしましたが、泣かずにすんだのはこんなに僕を応援してくれる人たちがいるという気持ちでしたから。七色の虹を見たような気がしました。こんなに世の中にはまだ理想が残っているということが心からよい朗報でした。唯一の勇気の源でした。分相応と見られるだけの僕たちですが僕たちのような苦しみを持っている者にしかわからないことかもしれません。涙はけして乾くことはないけれどわずかな希望は私たちはそんな苦しみの中でも希望を持ち続けてきたように被災地の人たちも必ず希望を見つけられるということです。みんなの気持ちもきっと同じだと思うので何とかしてこのことを世の中に伝えてください。
 何度もこのことを先生に伝えたかったので今日はとてもうれしかったです。なかなか会えないので黙ったままずっと考えていました。わかってもらえてよかったです。
 とても揺れたのでぞっとしましたが電気も消えなかったし、みんな無事だったので安心しました。でもテレビで津波のことが伝えられてとんでもないことが起こったことを知り茫然としてしまいました。どうしてこんなことが起こるのかと悩みました。そんな地震と津波のことが言えてよかったです


 まったく互いに情報を伝え合うことのない状況の中で今回も、多くの障害の重い人たちとの共通の思いが書かれた。地震と津波から5ヶ月が過ぎたが、○○さんにはずっと会うことができなかった。この日々の中で、ずっとこうした思いを暖め続けていたのだと思う。
2011年8月29日 17時15分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2011年08月20日(土)
きんこんの会のお知らせ 9月23日
 次回のきんこんの会は9月23日に開催する予定です。休日なのですが、大学の授業が変則的に行われる日になっています。1時10分から2時40分まで「重度重複障害児の教育」という授業があるので、学生たちと話し合いを持てるようなかたちを作りたいと考えています。詳しい時間や進め方などは、また改めてお伝えいたします。
2011年8月20日 00時51分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年08月18日(木)
東日本大震災に思う 7月9日
 ○○君の話は、原発と政治への嘆きから始まった。

 夏らしくはなりましたがなかなか福島の原発は収まらないし、津波もまだまだ復興の兆しも見つからないどうなっていくのだろうと思っていたら政治がおかしくなってしまいました。僕の考えは政治に本当に必要なものは誠実さだと思います。僕たちは文字通り障害を持って生きているのでもし世の中が理想をなくしたら真っ先に生きていけなくなってしまいます。だから総理大臣はもっと理想を語る必要があると思います。まずいのは何でもかんでも批判ばかりしている人です。そんな人が多すぎると思います。僕たちどんなに我慢しても大丈夫ですが理想のない世の中では生きていくことができません。なるべく一人で生きていきたいけれどなかなかまだそのことが理解されていないので難しいですね。。

 そして、彼は一篇の詩を用意していた。

地震の詩をまた作りました。

文明の願いだった原子力
その夢が生活を切り裂き
私たちは電気を使うことさえ困難になり
違った暮らしを探し始めたが
それもなかなか問題だらけ
すべての未来は閉ざされて
何もわからない人間は
ただ茫然と立ちすくむだけだった
しかし私たちは知っている
なつかしいふるさとの美しい景色を
その景色の中にあった人々の生活を
小さいことかもしれないが
私たちもまた障害という重荷を背負いながら生きている
その意味を私たちは知らないが
その意味はきっと津波の意味と似たものだ
だから私たちにはわかっている
いつか希望がやってくるということを
理不尽な仕打ちをどれほど受けても
人は必ず立ち上がることができるということを
涙はいつか乾くということを
だから立ち上がりたいときに
人は必ず立ち上がれるということを
だから私は待ち続けよう
人々が立ち上がれるその日まで


2011年8月18日 00時37分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2011年08月14日(日)
東日本大震災に思う 8月13日 小さい象はなぜ泣くの
 1月にお会いした中学生の○○君と久しぶりにお会いした。そこで、彼は、いきなり次の詩を綴った。

  小さい象はなぜ泣くの

立春の近づいたある冬の朝のこと
何一つ見えない道の上に
不思議な象が立っていた
小さな象は道を遠く見つめて
雪に染まった野原に向かって
理想の声で勇気を出して叫び声を上げた
敏感な象の耳には
「なるべくなら頑張って理想をかなえるように」と
「わざわざ森の奥から出てきたのだから」と声が聞こえた
なぜだろう
象にはやがて来る大きな災難が見えていた
唯一の救いは必ず人々は立ち上がるだろうということだ
涙を流しながら
象は自分のよい願いをがむしゃらに投げ出して
場末のわずかな花のつぼみに息を吹きかけた
「夢にまで見た花よ
今年の春はとても悲しい春になるだろう
だから花よ今年は涙を隠すように心を込めて咲いてくれ
がんばって咲けば花に人々の悲しみは癒されるだろう
夏になればまた青い空が力を人に与えるだろう
だからどうか美しく咲いてくれ」
そういって象は静かに涙を流して
ゆっくりと野原の彼方に消えていった


 連日の猛暑の中、突然立春のことから始まった詩は、大震災の話につながっていった。
 ○○君はさらに次のように続けた。

 この間からずっと地震のことを考えていました。ばかばかしい話ばかりが聞こえてくるようになったので僕はとても嘆いていました。ぶつぶつ言ってばかりいる世の中に本当の大切なことを伝えたかったので詩を考えました。忍耐が大切だということは僕たちがよくよく証明してきたことなのでどうしてそのいい自分たちの経験が役に立たないのかと考えていました。唯一の救いは希望があれば人は必ず立ち上がれるということです。悩みは尽きなくても必ず希望は訪れるということを伝えたかったです。よいやり方ですね。わかってもらえてうれしかったです。

2011年8月14日 08時03分 | 記事へ |
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東日本大震災に思う 7月24日 
 重複障害教育研究所で先月に引き続きIさんとMさんとの対話を聞かせていただくことができた。
 Iさんは、まず、冒頭に、先月私に申し出た発表のことから話を始めた。
I:「私の勇気を理解してもらえたでしょうか。茫然としたままでろうそくの明かりが消えてしまわないようにするために私は私の意見を伝えてもらいたいです。全国大会のことです。私は勇気を出しますのでよろしくお願いします。私の意見は発表してもらえますか。(…)茫然としていた人々のことは私も未だに気がかりです。理想があまり語られなくなって私も気にかかっていました。理想が語られないと本当に復興は物質的なものになってしまうので、精神の復興はむずかしくなると思います。なぜまた物質的な話になってしまうのでしょうか。私たちは物質的なことでは絶対に救われないのでまた精神的な話をしてもらいたいです。物質的な話より精神的な話でないと本当には人々は救われないと思います。地震の後はよく精神的な話がなされていましたが、全く話されなくなってしまったのでとても心配です。特に政治家は物質的なことばかりで誰も精神的なことを言いません。仕方ないかもしれませんがマンネリ化した議論ばかりで残念です。でも被災地の人の言葉は今でもとても心に響きます。特に存分に悲しみを乗り越えた人の言葉は精神的な深さを持っていました。」

 今回は、前回の議論を引き継ぎながら、さらに「物質的」、「精神的」という言葉で理想についての話が重ねられた。そこへ、Mさんがお見えになり、二人の対話へとつづいたのだが、なんとIさんはいきなり、Mさんに「文明観」について尋ねた。

I:「Mさんに聞きたいことがあります。Mさんの文明観について聞きたいです。Mさんは自然と私たちの関係についてどんなふうに考えていますか。私は自然とただ共存するというのは間違いとは言わないけれど満足はいきません。なぜなら私たちは自然のままでは生きていけないからです。自然とは闘わざるを得ないのが人間の宿命だと思いますから。」

M:「ランプの明かりをともすためにはやはり自然とは闘わなくてはいけませんね。待てよと思うためには自然との共存は必要なことですが、理想はやはりうまくどう自然を従えていくかということだと思います。私たちは自然のままでは生きられないですから自然と闘わないと生きられません。でも自然との共存もまた大切な考えだと思います。唯一の基準は人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうかです。なかなかむずかしい問題ですがよくまた考えてみたいです。」

I:「夢のようです。ランプの明かりならもうともりましたね。こんな話題が二人でできるのですから。」

M:「私はとても不思議です。みんなきっと茫然と立ち尽くした経験から立ち上がってきたので通じ合えるのでしょうね。誰でもわかり合えるとは思わないけれど私たちはわかり合えそうです。この研究所に来ている人たちだったらきっと。」


 今回の大震災は、地震と津波という自然災害と原発の事故という人災との両面から自然と人間との関係が問われた。そのことをストレートに問いかけたものだが、ここでも障害が重要な論点となった。自然がもたらした障害をあるがままに受け入れたなら自分たちは生きていくことができず、自然とは闘わざるをえないという認識である。Mさんは、その議論にさらに「人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうか」というのが基準だという認識を付け加えた。そばにいて通訳をしていた私は何の事前の申し合わせもないのに繰り出されてくる確かな言葉のやりとりに、二人がいかに深い思索の日常を送っているかを思わずにはいられなかった。
2011年8月14日 01時00分 | 記事へ |
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2011年08月13日(土)
東日本大震災に思う 6月26日 二人の女性の会話と詩
 6月の通所指導ではIさんとMさんの二人がパソコンで対話をすることができた。
I「地震の話をしたいです。万人にとって全く未経験の話でとても私は理想を失いそうになってしまいましたがようやく理想を取り戻すことができました。私の理想はどんなときでも人は希望を失わないということですが理想がなくなりそうでした。ランプの明かりが消えてしまいそうでした。ランプの明かりは私には見えませんが私にとっては希望の象徴のようなものです。私の理想は私などのように障害を持っている人間にとってはとても大切なものです。私たちは理想がない世界ではただの困った存在に過ぎません。私たちにとって理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界です。まさに中島先生がそういう世界を理想としていた先生でしたが場所だけではなくそこに宿る精神こそが大事です。唯一の場所というわけではありませんがとても精神の優れためったにない場所だと思います。中島先生の精神を受け継いだ知子先生を中心にした先生たちがまだまだよい精神を守ってくれているので私たちは安心していますが、中島先生の話をもっと多くの人たちに聞いてほしいのですが、もう元気な姿にも声にも接することができないのがとても残念です。中島先生の録音テープをまた今年も聞けるのがとても楽しみです。」
I「ところでMさんはどこにいるのですか。Mさんは地震についてどう思ったかもし文章があったら聞かせてください。ランプのあかりということばはみんな使うのですか。私だけではないということがわかってよかったです。みんなも地震のことがわかったら自分たちのことが理解できると思っているということも私と同じです。みんなも地震のことを考えているということがわかってよかったですがなぜみんなも茫然として茫然としたところから立ち上がれるのかがわかりました。人は希望さえあれば生きられるということがわかってよかったです。Mさんの考えは素晴らしかったです。ランプの明かりを一緒にともせたらいいですね。何だか私ばかりが話してしまいましたね。Mさんの意見も聞きたいです。」
M「疑問があります。茫然とした人たちは茫然としたところからもう脱したのでしょうか。私はそれが心配です。よそのどうでもいい話はよく聞こえてくるけれど、茫然とした人たちのことがあまり紹介されないのがなんだかとても気がかりです。みんな肉親を亡くしてもう生きていられないと思った人はどうなったでしょうか。どこかにいると思うのですか私はとても気になっています。Iさんはどう思いますか。教えてください。」
I「私は茫然とした人たちはどうしているか全然わかりませんが、理想がないとその人たちは生きていけないということだけは事実だと思います。私たちは何度も茫然としてきたのでもう慣れてしまいましたが、なかなかむずかしいことでしょうが私たちは勇気を出して訴えていかなくてはなりません。Mさんもきっと同じだと思いますが、私たちはまるで津波にあったのと同じような障害を持ってきたので茫然としていてもいつかは初めは立ち上がらないわけにはいかないのは変わらないでしょう。私たちの理想はどうしても世の中には伝わりにくいのでまなざしを高く持って世の中に向かっていかなくてはいけませんが、なるべくなら世の中の人に伝えてもらえたらうれしいです。先生にお願いがあります。私たちの言葉を中島先生のように研究会で伝えてください。去年の懇親会では私の言葉を伝えていただいてうれしかったですが本当に信じてくれた人は少ししかいなかったようでしたから今年こそは伝えてほしいです。中島先生にも私たちの感謝の言葉を伝えたかったです。どうしてなかなか受け入れられないのか私にはわかりませんが茫然としているばかりではなく力強く立ち上がらなくてはいけません。そばにいる先生たちにも伝えたいです。よろしくお願いします。」
M「ぜひ私たちの言葉を伝えましょう。どんなに小さな存在でも私たちには理想があるということを伝えてほしいです。私たちの希望は誰でも理解できるようなものではありませんが、みんなにもわかってもらいたいです。理想さえあれば私たちは生きていけますがなかなかそのことがわかってもらえないので勇気を出して頑張りたいと思います。」


 大震災を通して理想が重要であるということが再確認され、そこから改めて自分たちのことを振り返ると、「理想がない世界ではただの困った存在」「理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界」ということが改めて再認識されている。そして、重複障害教育研究所という場所がその理想を宿した場所であるということに話が及んだ。
 そしてMさんはそれを受け、「茫然とした人たちは茫然としたところからもう脱したのでしょうか」と問いかける。これは、震災から日が経つにつれ、「どうでもいい話はよく聞こえてくるけれど」本当に心が傷ついた人たちに大切な話が聞こえなくなってしまったことを危ぶんだものだ。それに対するIさんの答えは、だからこそ理想が語られなければならないという強い主張を帯びている。そして、二人の気持ちはそこから自分たちの声を届けたいというふうに発展していく。もちろん、それが容易ではないことは十分承知した上でのことだが、二人はその役目を私に果たすよう申し入れてきた。(なお、その宿題は8月7日の「重複障害教育研究会第39回全国大会」で不十分ながら果たさせていただいた。)

 そこから二人の会話は、詩の話へと移っていった。

M「模様という詩を作りました。聞いてください

模様はいろいろ心を彩り
私たちに生きる希望を与えてくれる
手にとって眺めることはとても大変だけど
みんな心に模様をつけて
ゆえなき誹謗から自分を守り
ゆえなき苦悩から解き放たれる
しかし心に模様を持って
ランプの明かりを灯していこう
模様は心に希望を与え
茫然とした心から人を立ち上がらせる
未来から尊い冒険を私たちにもたらす
模様をなるべく美しく
理想を高く掲げていこう
私たちの心には
いつも誉れ高い模様が輝き
私たちを冒険へと誘う

I:Mさんはいつも詩を作っているのですか。私の詩も聞いてください。

鳥の声に私は理想の声を聞く
鳥の声は遠い昔の思い出をやさしく運び
私を懐かしい夢へといざなう
懐かしい思い出はいつもかあさんと紡いできたもの
よい仲間たちの笑い声がいつも聞こえる
ばらばらになった友だちはみんな元気でいるだろうか
みんなどこかできっと同じ鳥の声に同じ理想の声を聞き
懐かしい思い出を抱きしめながら
明日の理想を夢みていることだろう
ばらばらになっても私たちの心はともに一つの誓いを持って
同じ明日に向かって光を感じながら生きているだろう
なぜ光は私たちを照らしてくれるのか
そのわけはわからないけれど
まだ見ぬ希望がある限り
私は鳥の声に導かれながら旅を続ける。

鳥の声に誘われてという題にします。」

M「ばらばらになった友だちのことが私もとても懐かしいですがその中には亡くなった友達もいてちょっと悲しくなりました。理想は友だちがいつまでも元気で居続けてもらうことです。ばらばらになった友だちのことをいつか私も詩にしたいです。涙が出てきました。みんなのことを考えていると。人間として認められる日がやっと来たのにまにあわなかった友がかわいそうです。唯一の友の名前はどこでなくしてしまったのか思い出せませんが私たちの友だちは私たちにとってかけがえのない存在なのですが私はもう名前さえ忘れてしまいました。勇気を出して私もまた明日に向かって歩き続けたいです。○○家にはいつも笑いが絶えないけれどどこかいつも悲しみが漂っているのはせっかく生まれた私に障害があったからです。それはふだんは誰も語りませんが場合によってそれがふき出してきます。茫然としてはいませんがどこか○○家は悲しいです。」
I「地震はまだまだ人々を涙の中から解き放ってくれないけれど必ず人々は立ち上がれるはずです。それは私たちがすでに証明してきたことですから。」
M「私たちの声を必ず届けてくださいね。よろしくお願いします。」

 最後に再び地震の話に戻り、二人は、自分たちの声をしっかりと届けてほしいと念を押して密度の濃い会話を終えた。
2011年8月13日 09時23分 | 記事へ |
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2011年08月12日(金)
東日本大震災に思う 7月10日
 7月、☆☆さんは震災後の政治の現状を嘆くところから話を始めた。 

 いい気持ちだったのにまたばかばかしい政治家の話で残念です。行き過ぎた政治家の言葉はよくないけれどなぜなのかわからないけれど名ほどある人がではどうしようもありません。満足のいく人はいないのかもしれないけれど何とかならないのかと思ってしまいます。

 もちろん彼女の嘆きは、テレビに登場するコメンテーターのそれとはまったく異なるものだ。彼女が嘆くのは、理想が語られなくなってしまったことだ。
 
 私たちにとってランプの明かりを灯してくれそうな人は被災地の人たちです。凡庸な人たちは何とか立ち上がろうとしているけれどなかなかわからないのは唯一の希望は私たちのような存在にとっては理想がないと何ともならないのにさっぱりわからないのは理想を語る人がいないことです。もっと高い理想がないと私たちまで生きる希望を失ってしまいそうです。ランプの灯りが消えてしまわないように私たちをもっともっと世の中で発言させてもらえたらと思ったりしています。なかなかむずかしいとは思いますが私たちにしかわからないことがあると思うので私たちにも今回だけは言わせてもらいたいです。私たちにとってわずかな希望は理想さえあれば人間は生きていけるということです。まだまだ復興には時間がかかるのかもしれないけれど私たちのようにずっと黙々と生きるしかなかった人間にとってはよい地域の絆や人々の理想こそが大切だということがよくわかっているので理想こそが今必要だということは自明の理です。悩みは尽きないかもしれないけれど理想さえあればろうそくに明かりはともるはずです。わかってほしいです。 

 大震災の後の思索の積み重ねから、理想がないところでは生きてゆくことがかなわないという自分たちの立っている場所をしっかりと見据えた上で、わずかな希望があれば人は生きてゆけるという思いと、地域の人々の理想こそが大切だという考えを、できれば声高に語りたいけれども、それがとうていかないそうにないはがゆさ。そういうものがあふれた彼女の言葉だった。
2011年8月12日 11時58分 | 記事へ |
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2011年08月11日(木)
『きじの奏で』の感想レポート
 大野さんに参加していただいた「発達と学習」では、学期末にレポートを課したが、その中にこの『きじの奏で』をとりあげたレポートが入っていた。
 以下のようなレポートである。


  「きじの奏で」について

 私は大野剛資さんが授業に来てくださり、そして文字をあらわすことのできる機械で“この今言っている声は、体から発してしまう声なのです。‥”という言葉を見て、衝撃を受けました。私は勝手に障害者の方は“自分が障害者ということも気付くことのない、幼い精神を持っている人”というようなレッテルを貼ってしまっていたので、なおさらでした。 
 そんな驚きのあった授業を終えて、「きじの奏で」を読んで、大野さんの今まで育ってきた環境や生い立ちから、人との出会いの大切さやまわりの環境の大切さについてとても考えさせられました。私も色々な人に出会うことで影響され、私自身も出会った人に対して何かしら影響しているのだなと思うと、本当に生きているうえで、無意味なことなんて何もないのだなと改めて思いました。
 そして読み進めていく中で、私は “静かに気付いた1歳”という詩に1番心打たれました。大野さんの中で形がつじつまをあわせることが出来ないという真実をつきつけられ、知識は十分にあり、表現したいのに出来ない苦しさの中、生きてきたのだなと素直に伝わるこの詩はとても印象に残ったものでした。
 私も“友達はこんな簡単に出来てしまうのになんで自分だけ‥”と自分を批判することが多いので、“出来ない苦しみ”という事がとても伝わってきました。その上、私の悩みはまだまだ小さいのだなと思いました。私の悩みならまだ、友達のように簡単に出来なくても、時間をかければ、少しずつ近づくことはできます。でも大野さんはいくら十分に“頑張ろう!”と思っても、体が自分の意思の言うことを聞いてくれることはないのだなと思うと、私は“出来ない!”と自分を否定していないで、もっと前に進んでいかなくてはいけないなと思いました。
 あと私は、まだまだ知識不足や詩から学ぶ能力がないため、全ての詩を理解することや考えることができませんでした。だからもっと何回も読むことによって深く理解できるようになりたいなと思います。そしてもっと内なる想いを障害者の方と直接関わることによって知っていきたいと思いました。そのためにも2日間連続で障害者の方のすぐそばで関わることができるという貴重な介護体験を有意義なものにしていきたいと思います。
 最後に、人間として初めて産まれてきた障害者の子はきっと“なんでこんなに変わっているのだろう”と周りから言われ続け、そこから“障害者”というくくりができ、差別されるようになり‥。しかし今障害者の気持ちを読み取ることが出来るようにまでなりました。全てが機械化されていく未来になってしまうのかという不安もありながら、このように機械によって障害者の方の中に秘める想いを表現できるようになったり、意思疎通できるようになったりして、機械や物理のような目に見える進歩ではないけれど、人間としての着実な進歩を今回感じることが出来ました。これからもっと人間の心も発展して、お互いに誰でも認めて、そして認められる世の中になっていければいいなと思いました。

2011年8月11日 10時24分 | 記事へ |
| 大学 |
大野剛資さんの講義2 「発達と学習」の講義にて
 「ボラティアと社会参加」の授業に続いて、「発達と学習」の授業にも大野さんに参加していただいた。
 「発達と学習」には初等教育学科の2年生と3年生がやり100名ほど受講している。この日は、大野さんが来ることと合わせて、茅ヶ崎の浜之郷小学校における「いのちの授業」をとりあげたが、最初に、大野さんにあいさつしていただいた。

 お疲れのところ失礼します。僕は大野と言います。今出ている声は勝手に動くからだが発しているものですがなかなか止められないものです。なぜ今日大学に来たかというと僕が出した詩集を宣伝してくれると言われたからです。この春に僕は『きじの奏で』という詩集を出しました。なるべく多くの人たちに読んでもらいたいと思います。地域で生きていくことはとても大事なことだということをさっきの授業で話しました。僕は地域の学校で小中学校を過ごさせていただきましたが理想的な時間でした。もっと地域で生きていきたいけれどなかなか難しいですが皆さんのような若者の皆さんに理解してもらえると未来が開けてきそうな気がします。また大学には時々来るので声をかけてくださいありがとうございました。

 「いのちの授業」では、江戸時代の浅間山噴火の際に発生した大火砕流によって一つの村がなくなってしまうということがあったが、その際に、高台に逃げる最中に年老いた女性を背負ったまま亡くなった若い女性のことが、発掘された遺骨とともに語られていく授業だ。今年は、東日本大震災のあとだけに、また新しい意味を持つと思われた。
 大野さんをまじえた授業は、いつも以上に熱く進めることができたように思う。
 時間がなかったので大野さんにもう一度感想を求めることはできなかったが、授業の後で、「僕に合わせた内容だったのですか」と大野さんに問いかけられた。もともと扱うつもりではあったが、すでに述べたように大野さんの来る日に合わせたのは事実だったが、大野さんの意見をまた機会があればうかがってみたいと思う。
 
 
2011年8月11日 10時10分 | 記事へ |
| 大学 |
大野剛資さんの大学の講義1 『きじの奏で』の著者として
 4月に詩集『きじの奏で』を出版した大野さんに講義に来ていただいた。プロジェクターでパソコンの画面を映し出してその場で話しをしていただいた。
 
 こんにちわ。僕は大野剛資と言います。誰にも言葉があると思われずにずっと生きてきましたが突然柴田先生が現れてこの取り組みを始めてくれて僕は言葉を話せるようになりました。なかなか簡単な方法ではないのですが勇気を出して今日は皆さんの前で何か話そうと思ってきましたがあまりに大勢の人なのでぞっとする思いがしましたが頑張って話したいと思います。

 初等教育学科の1年生100名あまりを前に、なめらかに講義は始まった。 

 夏休みになると僕は小学校のことを思い出します。夕涼み会や蝉捕りに友だちが連れて行ってくれたり摘んできた花を押し花にしたりしました。みんな僕のことを仲間として認めてくれてとてもすてきな小学生時代を過ごしました。分に応じた生活をしろと世の中の人は言いますが分不相応な生活をさせてもらいました。びっくりするかもしれませんがその当時は全く意思表示はできませんでした。なぜそれでも仲間と通じ合えたかというと敏感な感性の子どもが多かったからだと思います。なぜそんなにうまくいったかというと先生がとてもいい先生だったからです。未来の学校の先生になる人なのでぜひそのことはわかってほしいです。またなんでもよくどこに行きたいかとか何がほしいかとか仲間たちは聞いてくれました。忘れられないのはロードレースの時のことです。何もできない僕の車いすを仲間たちは押してりんどうの咲く山道を一緒に走ってくれました。まるで映画の中にいるようでした。みんなもきっと忘れられない思い出として心にとどめてくれていることでしょう。

 彼のような障害の重い人が地域の学校でともに学ぶことをめぐってはこれまでたくさんの議論が繰り返されてきた。彼のように言葉で十分に状況を理解することが困難とされていた方が、実はこのような体験をしていたということは、これまで十分に語ることはできなかったことだ。ドラマのような体験であり、ともに学んだクラスメートたちにも大切な体験として残っていることだろう。 

 地域で暮らすということがよく言われますが皆さんはどう思いますか。地域に障害者は必ずいるはずですが分相応の生き方を強いられている障害者にはなかなか会う機会さえないのではないでしょうか。何度となく僕もそういう立場に置かれてきたのでよくわかりますが忘れられないのは世の中の人たちから完全に忘れ去られたときのことです。なぜそんなことになったかというともっと僕が声が勝手に出ていたときのことですが何かのコンサートで係の人から出て行ってくださいと言われたことがあります。僕もその気持ちはよくわかったのですが何度も言われるうちに僕たちは社会の中では生きられないのだなと思いました。僕たちのように静かにできない人間には生きる場所はもうないのだと思いました。

 一転して、地域で生きることの厳しさに話が及ぶ。コンサートでのこうしたできごとは実は大変むずかしい問題だが、その例の引き方の中に、彼がこの問題をいかに深く考え抜いてきたかが表れていた。
 ここでずっとプロジェクターで映し出される文字に対する集中がとぎれたのか、一部の学生の私語が始まった。大野さんの言葉が耳障りがよい言葉だけではなかったことも関係していたかもしれない。私は、それを注意することで壊れてしまう関係性がいやだったので、特にうるさく注意はしなかった。大野さんには、それは、自分たちを排除してきた社会を彷彿とさせるものかもしれなかった。
 
 僕の目的はみんなに僕たちのことを聞いてもらうことでしたがなかなか難しいようですね。どうしても僕たちは理解されないので世の中ではそう簡単には理解が進まないのでろうそくの灯はようやくまだともっていますが僕たちの希望の火はなかなか燃え上がるほどにはなりませんが、こうしてこんな僕が大学で話せるようになったのは前進なのだとは思いますがどうにかしてみなさんにはわかってほしかったです、人間として生きているということを。だけどうまく伝わらなかったみたいで申し訳ありません。
これで終わります。


 もちろん大半の学生は終始集中をとぎらせることはなく、深い感銘を受けた1時間であったし、私語をしてしてしまった学生も、理解していないはずはなかった。
 いつになく深い感想が寄せられた1時間だった。
2011年8月11日 08時21分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年08月03日(水)
東日本大震災に思う 6月25日
 中学生の○○君は、地震について、こんなしっとりとした詩を書いた。

なぜだろう
地震はこんなにもたくさんの人々の
心と心の絆を流してしまった
海はどうして残酷にも
すべてを奪い取っていったのか
しきりに自らのためでなく
他人のために働こうとする人たちのおかげで
世の中は希望をつなぎ止めることができたけれど
もう少しで私たちの世界は
絶望に鬱々とした日々を過ごしていただろう
しかし私たちの希望は
世の中の人々の頑張る姿によって守られた
地震の滅亡から私たちを救い出せたのは
何よりも勇気あふれる姿だった


 しかし、彼は、この詩の前に、次のような被災地の現実は別の社会の現実を嘆くところから始めた。

 言いたいことがあります。疑問なのは政治家がなかなか誤解されるようなことしかしないことです。ぶつぶつ言うよりも大事なことは被災地が早く復興することなのに私たちはわずかな希望だけをたよりに生きているので希望がなくなってしまうと生きられないことがわかっているので希望がない世の中になったらくれぐれも希望のない政治はやめさせてほしいです。話し合いは厳しいかしれないけれどいい政治をしてほしいです。理想はみんなで力を合わせていい社会を作ってほしいです。

 地震が投げかけた人間についての根本的な問いが、しだいに時間の経過とともに薄らいでいき、理想の語られない政治家たちのふるまいが逆に、自分たちの存在を脅かし始めたのだ。理想が語られる世界でのみ自分たちは生きていける。だから、この災害を通して語られた理想が、自分たちの生きてゆける社会でもあることを思わせたが、ここに来て、被災地の方々の言葉は別にして、政治家などの言葉に理想が見えなくなってしまい、このままでいいのだろうかという思いが湧いてきたのである。

 20代後半の◇◇さんも、また、同様のことを述べた。

 近年まれに見る政治の混乱に僕たちはとても絶望している。なぜなら何度もよくどんな場合でもどんな困難でもよい願いの平和な祈りで頑張ってきたのに、政治家はまるでそんなことを理解できずに自分たちの支持ばかりを求めてどうして大事なことは後回しにするのだろう。理想をなくしては生きられないのにどうしてそれがわからないのだろう。なぜ理想が理解できないのだろうか。僕たちは理想をなくしたら生きられないように被災地の人たちも理想がないとこれから前に向かって生きることが出来なくなってしまうのが心配です。僕は人々の絆を大切にすることが一番だと思います。わかっている人はたくさんいると思いますがまるで政治家には理解できないみたいです。夢のようなことかもしれませんがまだまだ政治が頑張るときなので政治家には頑張ってもらわなならばいけません。どうして世の中の人はわかっているのに政治家はわからないのでしょうか。どうして政治家はわからないのかはわからないのですがなるべく理解どういう形であっても、もうすぐよい未来が来るということを国民に心から伝えてほしいです。


 また、同じく20代後半の◎◎さんは、次のような詩を作ってきた。いのちの問題として代診足をとらえ、その思いを重い詩にしてきた。


津波に流されたはかなく刹那ないのちが
生きる絆を教えて
いのち危険な海岸に死屍累々と
瓦礫の中で進んでいく姿が
奇跡を残すようにも感じながらも
家族の意志が傷つかぬよう
過ぎていく時間とともに
進めていくしかないのだという
現実が危険とともに
明るく光の彼方を灯しながら
今精一杯に残された人ともに生き
そういう世界を進まずには
人間という地道な生き方の生物は
生き延びずにきただろう
しき(?)ずれながら一歩ずつ
死に際すさまじさと格闘しては
風にも負けずの生き方は出来ない
優しさ静かにほのかに漂い
望みのすべて世間にそこそこに
染め直す仕立ての布を着せるように
筋書きをのっけて進みたい
風阻害するのが季節ならば風起こすのも季節
意見違うもの存在もつじつま合わせとならず
望み世間に与えるため
2011年8月3日 00時10分 | 記事へ |
| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
2011年08月02日(火)
犠牲になった仲間たちへ
 なぜこの日だったのかはわからないが、○○君は、亡くなった仲間を偲ぶ詩を一編、用意していた。なお、犠牲という言い方は、早くなくなった仲間たちのことをそう呼んだものだ。
 
 聞いてほしいことがあります。犠牲になった仲間たちのことを詩にしました。Nくんのこともはいっています。

みんなまっすぐと生きて
ぼくを友だちとして認めてくれ
空の上から見守って
空高いところから応援の光を送ってくれる
なぜみんなを置いて先に空に行ってしまったの
望みのかなわないままどうしてここから旅立ったの
みんなどうして泣いてばかりいるの
もっと未来の夢を大切に生きていきたかったことだろう
なぜ涙は乾かないの
夢を持ち続けようとあんなに頑張ったのに
理解されないままなぜ逝ってしまったの
理解された喜びも知らなくて
なぜ私たちの前から去っていったの
街の明かりは見えますか
夏の暑さは洋服を通して伝わりますか
もうすぐ私たちを理解してくれる世界がようやくやってきます
その時をぼくは君たちとともに迎えたかった
その時を涙ではなく
笑顔で迎えたかった
夢をかなえるまでもう少し空の上から見守ってほしい。

 私たちのつらい気持ちを詩にしました。聞いてもらえてよかったですがみんな本当にどうして亡くなってしまったの。夜の暗闇がようやく光に満たされようとしているのに。そんなにみんな早く行かなくてもいいのに。夜はもう明けようとしているのに。もっと光が射してくるのに。


 彼は、歩くことはできないが、一人で車いすをこぎ、自分で食べることもでき、いくつかのサインで意思表示ができたりする。しかし、言葉を話すのは困難で、しかも、ここが大変理解されにくいことだが、こだわりが強いように見えたりする行動や、気持ちの高まりとともに物をたたいたりするような行動があり、それは、実は意図に反して起こっているものだと本人自身が説明している。勝手に起こしてしまういくつかの行動は、他人からは意図的な行動と見えるために、その行動を起こしてしまうことから認識の水準を不当に類推されてしまうのである。
 そんな彼がパソコンで気持ちを表現できるようになって、「私たちを理解してくれる世界がようやくやってきます」という実感を持つことができるようになったのだ。だからこそ、先に倒れた仲間の思いがつらくつきささってくるんだろう。不覚にも思わず涙ぐんでしまった私の顔を彼は手でそっとふこうとしてくれた。
2011年8月2日 13時08分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 |
東日本大震災に思う 6月19日
 青年学級でEさんは、この日は特に気持ちを落ち着かせることができなかった。その理由は本人にもはっきりわかっているのだが、どうにもならなかったようだ。そんな一日の活動のあと、学級でパソコンを開くとその落ち着けなかった自分の思いをぶつけるように深い集中をして言葉を紡ぎ出した。内容は、地震のことだった。

 地震さえなかったならみんな亡くならなかったのにとても悲しいです。なぜあんなにたくさんよい人たちが亡くなったのかわからなくてとても困りましたがおかあさんを見ているとなんとなくわかってきたことは被災地の人も何とか立ち上がろうとしていることです。なかなかわかってもらえないのはぼくたちと同じだと思うので人ごととは思えませんでした。まさかのんびり過ごしていたのに被害にあうとは思わなかった人たちが大津波に巻き込まれるとは夢にも思わなかったと思うと本当につらいです。なかなか復興が本格的に始まらないのがつらいですが理想を大切にこの困難に立ち向かってほしいです。勇気の見えなくなりそうな世の中が続いていますがよい時代が来ることが僕の願いです。みんなも同じ気持ちだということがわかそよでわかってよかったです。僕も津波の詩を作りました。

津波よ僕はわからない
わざわざ子どもを飲み込んで
わざわざ望みを打ち砕いて
おまえは何を望んだのか
ろうそくの火はもうどこにも見えないが
私たちは負けない
また私たちは立ち上がる
おまえが私たちの理想をすべて打ち砕くまで
だが私たちの理想は消して砕けることはない
私たちの理想は永遠に不滅だ


 Eさんのお母さんはふだんから関わっているNPOの関係で何度か被災地を訪れている。そんなことを背景にして綴られた言葉と詩である。
 この詩は、お母さんによって被災地にも届けられた。ご覧になった被災地の方々はとても好意的に受け取ってくださったとのことだった。
inihon daisinn
2011年8月2日 13時04分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
2011年07月12日(火)
東日本大震災に思う 6月7日
 研究室を訪れた☆☆さんは、お会いするのは2度目だが、今回は地震の話から始まった。

 聞いてほしいことがあります。なぜ地震で悲しいことがあんなにたくさん起こったのでしょうか。なぜというわけはないかもしれないけれど私はとても悩んでいます。
私たちは障害があることでとても苦しんできたのでよく苦しみのいやなことがわかるけれど私たちはどうにもならない悲しみもいつかはだんだん静まっていくことを知っているけれど被災地の人たちはどうにもならない悲しみと戦っていて大変ですから何とかしてあげたいです。人間としてのどうにもならない気持ちを何とかして静めてあげたいけれどなかなか難しいです。でも地域の支え合いや遠くからかけつけた人たちの行為(好意?)でみんな何とか希望を取り戻しつつあることが救いです。


 震災と自分との重ね合わせなど、支え合いに希望を見いだしているところなど、やはり、同じ立場の仲間たちと共通の心を持っていた。
2011年7月12日 21時48分 | 記事へ |
| 大学 / 東日本大震災 |
2011年07月11日(月)
東日本大震災に思う 6月5日
 視覚障害と知的障害が重複しているとされる方々のグループと、震災後3度目にお会いし、3月に「私たちも理不尽な障害に苦しんでいるけれどもっともっと理不尽なできごとでした。」「私たちはまるで津波のあとに取り残されたようなものです。なかなか救いの手が伸びてきません。」と書いた二〇代の女性☆☆さんは次のように思いを綴った。人々の立ち上がるすがたなどのニュースを耳にする中で、少しずつ、地震や津波のとらえ方が発展していっていることがわかる。、

 地震のことですが私は地震の意味が少しずつわかり始めました。本当に悲惨な出来事でしたがようやく本当の意味が理解できました。私たちは敏感な人にしか理解してもらえませんがようやくみんな希望を取り戻すことができて理想を取り戻すことができました。唯一の理想は私たちのようにまるで人間として理解されていない存在も生きる意味があるように人間はみんな生きる意味を持っているということです。私たちのように何もわかっていないと思われていないので瑠璃色の光が見えてきました。みんな悩みながらも希望を持ち続けようとしているので私たちも希望を持ち続けようと思います。私たちはわずかな希望がありさえすれば生きていけるのでようやく被災地の人たちも希望を取り戻すことができそうです。
 被災地のことはよくわかりませんが何とか人々が立ち上がろうとしているのが救いです。地震はすべての希望を打ち砕きそうでしたがまた希望を取り戻すことができました。理想をなくした社会では私たちは生きていけないので茫然としていましたが社会がまた理想を取り戻せたので私たちもまた生きて行けそうです。わずかな希望を大切に人はまた生きていけそうです。
 小さいことですが夢の中でどうしてもわかってもらえずに指をくわえるしかないという場面を見ましたがとても怖かったですみんなもそう思っていると思うのでわかってもらいたいです。


 理想をなくした社会では私たちは生きていけないと書いているように、物質中心の見方や損得勘定ばかりの現実主義の世の中では、経済的な意味での生産性をほとんど持たない障害者は生きることができない。重い障害があってもそれを可能にしているのは、社会がともに支え合うという理想を持っているからだ。震災の直後は、あまりの惨状にその理想が見えなくなってしまいそうだったが、ようやくその理想が、被災地の復興のために立ち上がった人々を通してもう一度見えてきたということだ。
2011年7月11日 13時08分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月28日 僕たちは文明を作る人間
 計画停電やガソリンの問題登で3月の会を見送っていたグループと5月28日、お会いした。大震災から2か月半が過ぎ、この間、様々に考え抜いてきたと思われる○○君は、その悩みながら続けてきた思索のあとを見せてくれた。

 地震のことについて書きます。僕は今度の地震で理想を失いそうになりましたがなぜあんなにたくさんの人が亡くならなければならなかったのか僕はとても悩みました。私たちは理不尽な障害を持っているので理想をとても大切にしているのであの地震ではわからなくなってしまいそうでした。なぜ人は生きるのかとか。人のためになぜ生きるのかとかわからなくなりそうでしたがようやくまた理想を取り戻せました。それはよい心の人たちがたくさん出てきたからです。よい人たちはみんな希望を語ります。まるで悩みが消えたわけではないけれどもう少し頑張れば希望が見えるということがわかりました。なぜ人はもっと優しくなれないのかとずっと悩んできたけれどもろもろの困難こそが人を優しくするということがよくわかりましたから困難というものの持つ意味がよくわかりました。文明の進歩も困難を乗り越えるところにあるので僕たちの障害はきっと文明の進歩につながるはずですから文明を作る人間なのだということがよくわかりました。もうわからないことが起こっても大丈夫です。毎日考えていましたがようやく普通の生活に戻れました。

 「僕たちの障害も文明の進歩につながるはずですから文明をつくる人間なのだ」という認識は、苦しみぬいた思索の末にたどりついたひとつの力強い結論だった。
2011年7月11日 09時24分 | 記事へ |
| 自主G多摩3 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月23日
 特別支援学校の高等部を卒業して今年から社会人になった☆☆さんは、地震への思いを次のように綴った。

 もう地震がなくなったからよかったけれど地震の時はとても怖かったです。未来も全部なくなったように感じましたがのんきな性格なので未来をまた取り戻すことができました。なぜよく地震があるのかその理由はわからないけれどなぜ地震がそんなに学校もすべて飲み込むような津波まで呼び起こしてしまったのか信じられません。なぜ津波はあんなにたくさんの人たちの命を奪っていったのでしょうか。まだ人間の小ささを感じさせられました。敏感な人たちはなかなか望みを取り戻せなかったと思いますが何とか勇気を取り戻して希望を持って生きていってほしいと思っています。勇気をなくして悩んでいる人たちのことが人間としてとても気にかかっていましたが少しずつみんな勇気を取り戻せてよかったです。みんなのことがとても心配でしたがどうしても未来をもう一度取り戻してもらいたかったですからよかったです。犠牲になった人たちをもう一度よみがえらせてあげたいけれどどうしても無理なことなのでただただ悲しいです。唯一の救いは日本中の人々が団結して東北の人々を応援していることです。ランプの灯りがなくなりそうでしたが悩みはどうして私たちのことはほおって置かれたままなのかということです。私たちにももっと目を向けてほしいと感じていますがなかなかよい解決策がなくて小さい頃からほおって置かれていたので慣れてはいますがさすがに待ちくたびれました。望みは私たちの本当の姿を理解してほしいからここでの姿を見てもらいたいです。

 後半は、震災の復興と比較しながら、依然として取り残されたままの自分たちのことが語られた。(もちろん、被災地の復興をうらやんだりしているわけでは決してない。)

 次は、特別支援学校の高等部の少年の言葉である。

 どうして地震と津波が起こったのでしょうか。ぼくはずっと悩んでいますがびっくりしたのはわずかな希望さえあれば人は生きていけるということです。理解を超えた出来事にもう少しで希望をなくしてしまいそうでした。なぜなにも悪いことをしていない人が亡くならなければならなかったかが全く理解できません。地震の後しばらくは何もする気が起こりませんでした。びっくりしたのは人々が理想をけして失わずにまた立ち上がったことです。敏感な僕たちにはもうどうしようもない出来事のように感じられましたがなんとか理想を取り戻せたということが驚きでした。みんなきっともう終わりだと感じたと思うのですがちゃんと立ち上がれたのはどんな状況でも人は支え合えるということだということがわかったからだと思います。地域の支え合いだけでなく全国の人々が支え合っているということがわかって人々は立ち上がれたのだと思います。人間のすばらしさを思い知ることができてよかったです。地域の支え合いが僕たちにも必要です。僕たちにも支えが必要だから地震とは違うけれど僕たちの悩みも地震に似ていて茫然と立ちつくすしかないものです。地震も障害も自然が与えた理不尽な仕打ちです。理想のなくなった社会では僕たちは生きていけません。ぐずぐずしていたら地域で生きられなくなりそうなので理想がなくならないことが願いです。理想のなくならない限り僕たちにも未来はなくならないでしょう。なかなかむずかしいことでしょうががんばりたいと思います。地震から茫然としていたけれどなかなか茫然としたところを抜け出せなかったけれど何とか抜け出せそうです。

 「理想がなくなった社会では僕たちは生きていけません」という言葉は、このあと、多くの人が語り始めたことだ。復興の途上で理想の大切さ感じられてくるとともに、一方でマスコミなどで語られる言葉から理想が影を潜め始めたことと関係していると思われる。
 復興にたしかに物理的なものが大きな位置を占める。しかし、その影に隠れて理想が語られなくなることは、もっとおそろしいことだと私には思われた。
2011年7月11日 09時12分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月21日 春の東北路
 1年以上お会いしていなかった☆☆さんに5月21日にお会いした。彼女は今年二十歳になった。3月下旬に成人のお祝いの会をしますとのご案内が妻に届いていたが、大震災で延期になっていた。しかし、少しずつ世の中が落ち着きを取り戻してきたこともあり、翌日のの日曜日に会は開かれることとなっていた。そんな日に、彼女が綴ったのは、次の1編の詩だった。
 

     春の東北路

春が今年はとても悲しい
わずかな希望に満たされた春を
今、私はひとり
こうしてただ涙と小さな小さな望みだけをいだいて
さいはての国に届くように
静かな祈りをささげる
遠い遠いさいはての国には
悲しみを癒す希望の呼び声が住んでいる
人間は何も知らないけれど
自らをとてもいつくしむことができるだろう
東北路は今年はどんな春を迎えたのだろう
みんな悲しみに言葉をなくしていることだろう
みんな家族や友達をなくし
茫然と春を迎えていることだろう
なぜ津波はあんなにも残酷な仕打ちを人間にしたのだろう
東北路に誰も知らないよい知らせがさいはての国から届けられた
それは桜のはなびらに書かれた秘密の言葉だ
決して希望は捨てないようにという呪文
それを受け取った東北の人はわかったはずだ
そして人々は立ち上がった


2011年7月11日 09時02分 | 記事へ |
| 自主G埼玉1 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 5月15日
 重複障害教育研究所でお二人の方の気持ちをパソコンで聞いた。4月10日(ブログ掲載の日付は4月15日)に引き続いての言葉となる。
 最初は、20代後半の☆☆さん。文中に登場するお父さんは、お仕事の人間関係のつながりから、被災地のボランティアにも出かけてきたとのことだった。

 ずっと考えているのは地震のことです。泣き虫のお父さんは毎日泣いています。もう少しで私も生きる希望をなくしてしまいそうでしたがろうそくの灯りがともったのは全国から支援が届いて被災地の人達も何とか望みをつなぐことができているからです。人間としてどうしても許せないのはそんなときでもよくないことをする人がいることです。誰かは知らないけれど留守の家に盗みに入るようなどうしようもない人がいるのは許せません。小さい私たちの存在ですが理想はとても高いので空高く昇ってゆけるように頑張りたいです。もう少しで被災地も落ち着くと思うので私たちもそろそろ涙を拭かなければなりません。みんなもどうにかしてもう一度希望を取り戻そうとしていると思うので私もまた元気に未来を願うのを日常にしたいです。わずかな希望でもあれば人は立ち上がることができると思うので何とかなるというそういう気持を取り戻したいです。夢を取り戻そうという気持ちがまた湧いてきてよかったです。私たちの友だちはみんな無事でしたが本当に被災地の障害者のことが心配です。人間の問題が突きつけられたので私も毎日そればかり考えてしまいます。問題をどうにかして乗り越えたいと思います。

 次は、20代の男性○○さんの言葉だ。
 
 少しの時間ですが聞いてもらいたいことがあります。なぜこんなに津波で人が亡くなってしまったの。不思議で不思議で仕方ありません。みんなのことがかわいそうで、僕はいつも泣いています。でももう少しのしんぼうですね。もう少しで被災地の希望を取り戻せそうです。でも私の家や私の子どもを返してという人たちの声は消えませんがいつかそういう人たちも希望を取り戻せると思いますからいつかそういう日が来ることを信じています。こんなに悲しいことがたくさんあったので私たちのように苦しみを経験してきた者はいつかこの経験を生かしてみんなの役に立てればと思いますが、まだまだ僕たちのことは理解されないので残念ですがもう少しのしんぼうですね。

 自分たちの苦しみの経験を役立てたいとの強い思いが胸をうつ。私はこの声を届けることさえできていない。無力感に感じずにはいられない。

2011年7月11日 08時46分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年07月10日(日)
東日本大震災に思う 5月1日
 静岡に住む高校生の少年のもとを久しぶりに訪れた。今回は、まず、手を添えて行う筆談の練習から試みた。簡単な言葉の練習をしてから、私の手を振る方法を通して、「僕の好きな言葉はなんでしょう」という問いを筆談の援助の練習をしているお母さんに出した。そして、彼が書いた言葉は感謝だった。お母さんにはうまくこの言葉は伝わったのだが、この言葉は、春の選抜高校野球の選手宣誓のなかから選んだと私に伝えて来たのである。やはり、彼もまた、この大きな災害をめぐって、様々な思索をめぐらせていたのだ。
 そして、パソコンでは以下のように綴った。

 いつのまにか理想が消えてしまいそうでしたが世の中の人がみんな黙ってなくて被災地のことを考えていい言葉をたくさん伝えようとしていてそれが理想を取り戻させてくれました。人間の理想をもう一度取り戻せてろうそくにまた明かりがともりました。私たちはいつも伝えられない苦しさを感じているので被災地の人たちの悲しさがよくわかりますから地震のことは頭から離れません。小さい時からよく悲しい出来事があると一緒に悲しんでいましたがこんなに大きな悲しみは初めてで理想をなくしそうになっていましたがようやくまた取り戻せました。

 
2011年7月10日 23時38分 | 記事へ |
| 東日本大震災 / 他の地域 |
東日本大震災に思う 4月30日
 震災の後、このグループとの関わり合いは2度目となる。みんなこのひと月の間、胸を痛め続けていた。 
 最初は高校生の○○さんの言葉。

 聞いてほしいことがあります。地震の後どうしてこんなに悲しいことが起こるのかと思ってきたけれどばらばらになった家族がまた一つになったり茫然としていた人がまた元気になったり私たちのように絶望から立ち上がるのを見てまた希望が湧いてきました。わずかの希望さえあれば人は生きてゆけるということが証明されました。わずかの希望であっても私たちが生きてゆけたように元気になった人の笑顔がとても救いです。わずかの希望があれば人は生きてゆけるので悩みや苦しみがあっても人は生きられるのですね。みんなの気持ちを聞いてみたいです。みんなの文章が見たいです。
小さな僕たちの意見ですがわかってもらいたいと思ってい益す。私たちの私たちらしさを伝えたいです。地震のいいところが生まれたような気がします。みんなはまた立ち上がれるということがわかりました。聞いてよかったです。理想をまた取り戻せそうです。日本の残酷な災害がまた平和への少しずつの望みとして私たちにも歴史は刻まれていくのですね。瑠璃色の光が射してきました。地震を乗り越えるためにがんばれそうです。理想を再び取り戻して生きていけそうです。理想はなかなかかなわないけれどいつかかなうと期待しながら生きていきたいと思います。悩みはなくなることはないけれど悩みを乗り越えてゆかなくては未来は開けないということがよくわかりました。分相応の人生をもう乗り越えて生きてゆかなくてはいけないと思いますからよろしくお願いします。なぜ人はつらいことがあっても美しい心をなくさないのか不思議だったけれどどうしてなのかがわかりました。それは地震でそうだったように私たちを認めてもらいたいという気持ちと似ていて希望があるからです。わずかの希望さえあればなんとか生きていけるということがわかったのでよかったです。


 次は、同じく高校生の◇◇さんの言葉。 理想は楽な生き方をすることですが私たちはなかなかわかってもらえないので私たちはつらい生き方をするしかないのですが津波でなくなった人のことを考えるとつらい人生を生きなくてもよかった人までがつらい人生を強いられて僕はかわいそうでなりません。なぜそんな残酷なことが起こるのかと考えていますがその答えは見つかりません。なぜなのかと考えているうちに一つわかったことがあります。それは僕たちの苦しみにも意味があるように被災者の苦しみにも意味があるということです。私たちの苦しみの意味はなかなか伝えられないけれど私たちはもっと世の中に私たちの生きている意味を伝えなければなりません。なかなかわかってもらえないけれど理想はもっと私たちの言葉を届けて世の中の人にもっと私たちの悶々とした思いを伝えていくことです。私たちの悶々とした思いは理想をなかなかかなえられないことですが私たちをもっと輝かせなければいけません。そんなことを考えているとまたわからなくなったのは人々がなぜ私たちのことをなかなか理解してくれないのかということです。なかなかわかってもらえなくて私たちはもうどうにでも慣れという思いにとらえられそうになります。だけど私たちはまだ諦めるわけにはいきません。私たちの言葉を世の中に届けるためにはどうすればいいのかわかりませんが理想はこうやって気持ちを伝えられると言うことを世の中が認めることです。どうしてなかなか理解されないのかわかりませんがもう少しの辛抱ですね。

 △△さんのも高校生だが、だが、彼は今回、被災地をテーマにした詩を作ってきた。



 地震の話からします。なかなか涙は乾きませんがようやくわずかな希望が出てきました。なかなか理解されないけれど涙を流すことよりも立ち上がる人々の勇気の方が目立つようになりました。部分的なことなのですが文明の危機だと思われるのはどうにもならない原子力です。わかったようなことばかり言う学者ばかりの割にはどうにもならないのが問題です。私たちは別に原子力がなくても生きていけると思うので早く他のエネルギーに転換すべきだと思います。私たちはもうすぐ爆発的に人口が増えたり何度も困難なことに出会うと思うので早く新しいエネルギーを何とかして見つけないと行けません。それが今日いちばん気になっていたことです。勇気づけられたことは理想をなくさずに人々が立ち上がっていることです。なぜなのかはわからないけれど人は立ち上がる強さを持っているのですね。人間はとても小さいけれど強いと言うことがよくわかりました。文明もそうやってどうにか続いてきたのですね。早く元の生活に戻れる日が来ることを待ち望んでいます。小さな希望という詩を作りました。

小さな希望の小さな勇気
わずかなわずかなぼくの目指す理想の光
どうしてなのかわからないが
わずかな夢はここまでみんなを引っ張ってきた
浜から吹く風は
夕焼けを浴びて美しい空を染める
みんなは家路を急ぐけれど
夕日はなかなか沈まない
私たちは夕日の輝きのように力強く
また立ち上がろう
たとえ失われた命は返らなくても
涙は乾かなくても
夕日はそんな悲しみをすべて包み込んで沈んでゆく
水平線の向こうには誰も知らない未来が待っている
その空の向こうには夜の暗闇が待っているが
涙はろうそくの明かりを何度も何度も映し出し
明るい光を照らし出す
そんな未来がある限り
人間はまた立ち上がる
意地悪な自然と向かい合いながら
よくわからない明日に向かって


 最後は、この4月から社会人になった☆☆さんの言葉だ。

 こんにちは。とても悲しい出来事が続いていて私はとても悩んでいます。忘れたくても忘れられません。小さい子どもや仲間たちが亡くなってつらかったです。小さい子どもたちを助けようとしても助けられなかった母さんたちの悲しさが伝わってきました。強く結ばれた絆が一瞬で断ち切られて悲しかったです。なぜなんだろうと私なりに考えてみましたがとても難しくてわかりませんが唯一の希望はみんながまた希望を胸にして立ち上がったことです。私はなかなか気持ちが言えなくて苦労してきたので苦しみについてたくさん考えてきましたがよくわからなくなってしまいましたがまるで私たちも津波の被害者のようなものなので私たちも希望を大切に生きていこうと気づきました。まだまだ悲しみは癒えませんが早くまた元の平和な世の中に戻ってほしいです。なかなか言う機会がなかったので言えてほっとしました。
2011年7月10日 13時46分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 / 東日本大震災 |
東日本大震災に思う 4月29日
東日本大震災に思う 2011年4月29日
 視覚障害と知的障害の重複障害と呼ばれる○○さんは、1月前に続いkて、大震災をめぐる2度目の言葉を書いた。

 地震について書きます。とても大きな地震と津波が来てたくさんの人が亡くなりとても悲しいです。被害にあった人の中には小さい子どもも含まれていてそれが悲しかったです。どうしてなのかわからなかったけど唯一の救いは人々が涙を越えて立ち上がろうとしていることです。未来のために望みを失わないようにしていることですがなかなか僕たちのようにみんなから理解されなかった人間はその苦しみを理解できるのですが、地域の人たちはもう少しでわずかなずんずんとこみ上げてくる悲しみを耐えることのやり方を知らないと教えてあげたいです。悩みは乗り越えられるということを僕たちは知っていますから。絶対に悩みは消えていくと言うことを知っているのでわかってほしいです。小さいときからとてもぬいぐるみのようで困っていましたが。ようやく悩みを話せるようになったのでとてもうれしいです。苦心して覚えた悶々とした気持ちの伝え方は悶々とした気持ちだけではなくて喜びの気持ちを伝えるための方法でもあるのでこの方法が伝わるように地域の人とまた喜びを伝え会えるようになれればと願っています。なぜこんなに苦しみが続くのか僕たちにはよくわかりますのでみんなも大丈夫です。僕たちはそういうことには慣れていますからよくわかります。悩みは必ず取り除かれると言うことを理解していますのでよろしく心をどんな煩悩に平安を乱されても気持を静かにしていれば必ずわずかな希望であっても持っていれば必ず越えていければどうにかなるのだということを伝えたいです。

 また、同じく☆☆さんも震災について2度目の言葉を書いた。

 日本中の人が地震のことで困っているというのになぜ私たちは何もできないのだろうと考えてしまいます。悩みを聞いてあげることもできないし悩みを解決することもできないで本当に困っています。犠牲者の中に車いすの人もいたということを聞きましたが本当に残酷な話ですね。小さくてもいいから希望の火がほしいです。みんなも今度のことでよい心が育ってきたのでぜひ私たちにも明るい光が射してくることが願いです。

2011年7月10日 13時39分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) / 東日本大震災 |
2011年06月04日(土)
7月のきんこんの会のお知らせ 7月2日土曜日に開きます
 7月のきんこんの会のお知らせです。7月2日に國學院大学たまプラーザキャンパスで午後2時から行いたいと思います。
 部屋は、私の研究室の向かいの部屋(2号館2510教室)です。
 電力事情などで、なかなか日程調整が遅くなってしまいましたが、よろしくお願いします。
 前回は、大震災の話でたいへん深い議論をすることができました。今回もまた、様々な議論を期待しています。
 
2011年6月4日 11時16分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年05月16日(月)
大震災をめぐる言葉 4月25日その3
 4月25日の文章の中で、わかそよに参加する3人の言葉をまとめて紹介したい。この言葉は、何らかのかたちで、わかそよの当日、参加者にお伝えしたいと考えている。

 映画にも出演し、わかそよでは一昨年はミュージカルで準主役も経験した○○さんの言葉。もちろん今年もミュージカルに参加する。
 
 津波はなぜ私たちの大事な世の中を壊してしまったのでしょうか。早く元ののどかな世界に戻ってほしいです。分相応の生き方ではいやですが行き過ぎた生活はよくないと言うことがよくわかりました。なぜ人はどんな大変な状況でも挑戦を続けられるのでしょうか。みんなも同じですが私たちは私たちを表現することにも困難を抱えているので勇気を出さないと生きていけませんがそれは被災地の人の置かれた状況と同じです。私たちのことなど誰も振り返らないけれど私たちもまた被災者のようなものなのかもしれません。地震で色々なことを考えましたがもし私たちの言葉を世の中の人が聞いてくれるならもっと私たちはいい暮らしができるでしょう。なるべく世の中の人たちに伝えてください。名前もないようなものですが勇気を出して言っていきたいです。

 3年前は、観客席から、1昨年はステージ上で参加した◇◇さんは、「野に咲く花のように」の作詞者。津波について次のような言葉と詩を書いた。なお彼女のご両親は福島県の出身である。

 残念なことがあります。原発の事故がありました。福島がとてもつらい状況です。でもみんな大丈夫だから安心しました。避難はしなくてもよいということですが、福島全体がつらいです。原発があるからテレビで毎日やっていて私はとても心配しています。原発で働いている人々のことが心配です。被害にあっているのに毎日働いているのはかわいそうでたまりません。家もなくなって家族もいなくなってつらいと思います。どうしてつらいのにはたらいて。いえないのでしょうか。自分たちがやらなければいけないと思って毎日のぞんでいるのでしょうか。自分のことよりも原発を安定させるためにやってくださっているのだと思います。福島の人々を守るために頑張っておられるのだと思います。私は何もできないけれど祈って暮らしていますので人間がやるしかないので、みんなで考えて乗り越えていきましょう。少しずつでもいいから前に進んでいきましょう。それを言いたかったので今日は来ましたので、つらい今の状況をみんなと話し合いたいと思います。
 米のことを言っていましたね。つらいけどみんなで考えていきましょう。避難した人が疲れて倒れてしまわないうちに何とかなる方法を考えていかないと疲れて倒れてしまうからつらいです。
 
 津波の意味
私は勇気をもらおう
黙ったままで生きてきて何もわからないと言われてきたけれど
私もまた本当の希望の意味を知っている
黙ったままで理解されず小さな胸を痛めてきたけれど 私は理想を忘れない
悩み苦しむ私の姿を何度奮い立たせてきたことだろう
わかってほしい 私たちもまた被災者のように生きているということを
わかってほしい 私たちは黙々と希望を紡いでいるということを
小さな光かさしている ランプの明かりがともっている
人生は本当に残酷な試練を私たちに課すけれど
また私たちは立ち上がる
涙を越えてもう一度


 ☆☆さんも1昨年に引き続いての参加となる。彼女の言葉がわかそよで紹介されるのは、今回が初めてとなる。

 なぜなのだろう。津波であんなにたくさんの人が亡くなったのは理解することができない。涙ばかり流しています。万能な機械があれば人々をもっと助けられたのにみんながかわいそうでした。涙を流してばかりでなく人々の勇気にもすごく感動しました。地域で生きていくことの意味をまた考えさせられました。敏感な人たちが集まっている地域では私たちを本当の人間として受け入れてくれるだろうと思いました。誰でも支え合えれば生きていけると思いましたがなかなか難しいのでしょうか。もう少し私たちを認めてくれる世の中でないと難しいのでしょうか。名前も知られずに亡くなった人たちのように私たちもまた忘れられた存在です。望みは人間として私たちを認めてほしいということです。勇気を出して私たちも訴えていきたいです。わずかな希望でも人は生きていけることがわかりましたから私たちもがんばれると思いました。だから涙を流していただけではありません。涙と共に希望も感じていました。
 茫然としていましたがそろそろ立ち上がろうと思います。ゆゆしきことは原発です。理想のエネルギーと言われていたのに悪魔のエネルギーになってしまいました。ぞっとしています。なぜあんなにもろかったのでしょうか。何度となくみんなが考えを巡らしてきたのに残念です。地域の人たちがばらばらに避難させられて残念です。同じ地域の人は茫然としているでしょう。みんなが引き裂かれて。
2011年5月16日 07時20分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 青年学級 / 東日本大震災 |
大震災をめぐる言葉 4月25日その2
 小学生の○○君は、新学期の様子を、いい先生にまた担任をしてもらえた喜びとともに語ったあと、次のように語った。

 なぜ、どうしてという疑問が今僕を包んでいます。理想を見失いそうですが忘れられないのは人を助けようとして亡くなった人のことです。理解できないのは理想を大事にしている人が亡くなったことです。未来の日本はそういう人を大事にできることが肝心だと思うのですがどうしてそういう人まで亡くなるのかが理解できません。でも泣きながらでも地震と津波から立ち上がろうとする人を見ていたらわずかな希望を感じました。どんなにつらくても人間は生きる希望を失わないことが唯一の救いでした。私の未来という詩を聞いてください。

理想を掲げて僕は生きる
だけど理想はかなわないこともあることを
僕は地震で思い知らされた
なぜそんなに自然は残酷なのか
僕にはわからないけれど
なぜなのかということはわからなくても
わかっていることは未来は理想をなくしては絶対に作れないということだ
だから人は立ち上がる
悲しみを越えて立ち上がる
涙はかわくことはないけれど
必ず人は立ちあがる
涙を越えて立ち上がる
僕たちも残酷な自然のせいで障害を持っているけれど
僕たちもまた立ち上がる
どんな理不尽な自然であっても
僕たちもまた立ち上がる
未来のために立ち上がる
けして理想を失わず。

 なぜなのかわからなくても唯一の望みは勇気を人が失わないことです。なぜなのかはわからなくても勇気さえあれば人は生きていくことができますから。まことの勇気さえあればわずかな希望さえあれば生きていけますから。分相応はいやですが人間は分を少し忘れてしまったのかもしれません。でも長い時間がかかっても必ず人はまた前のような社会を作れるでしょう。だからもう少しの辛抱だと思います。でも新しい社会は僕たちを認める社会として再生してほしいです。


 語られる思いに、年齢はあまり関係ない。みんな等しく、胸を痛め、徹底的に考え抜いていることがひしひしと伝わってきた。
2011年5月16日 07時13分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
大震災をめぐる言葉 4月25日その1
 今年4月から社会人になった○○君と震災後初めてあった。彼もまた、この一月半の間、心を痛めていた。

 地震でたくさんの人たちが亡くなったことがとても悲しくてなぜそんなことが起こったのかと考えているうちに頑張る気持ちがなくなりそうになってしまいそうでしたが勇気が出たのはわずかな希望でも人々が立ち上がることができるという事実を目にしたからです。人間はどうしてそんなに強いのかと大変不思議な気持ちになりましたが僕たちのことを考えると僕たちの障害も理不尽なものだけど小さい希望さえあれば生きていけるのは同じだということに気付きました。わずかな希望しかなくても人は生きていけるのはなぜなのかなるべくよい私たちらしい答えを出したいけれどまだいい答えが見つかりません。だけどなぜかはわからないけれど勇気がなくなると人は生きていけないことだけは確かだと思いました。なぜかはわからないけれどなかなか忘れられないのは他の人を助けようとして亡くなった人のことです。なぜそんなことをどうしてそんなことがと考えてみても全く答えが見つかりません。わずかな隙間を縫うようにして光が射すのは未来のことです。被災地の人がみんなで力を合わせていい空の下でどんな世界を作るのかとても楽しみです。でもなかなかそううまくいかないのが原発です。未来のことですが原発に頼らないでご飯も炊けてお掃除もできて冷暖房も使える世の中が来ればいいなと思いますがとてもむずかしい問題ですね。ぼくにはよくわからないけれどすぐれた科学者が本気で考えれば簡単だと思います。だからそういう議論が速くされるようになることが僕の願いです。でもまだまだ原発も安心できない状態だからまだまだ先のことになりそうですね。

 ここで私たちの仲間が、1歳10ヶ月を過ぎた赤ちゃんをつれてやってきた。

 よいところでSくん(1歳のお子さん)がきました。Sくんが心の大きな人になれるよう僕は詩を作りました。聞いてください。

時間に流れがあるように
心にも遠く流れてたどり着く流れのあることを
僕たちは知っている
流れはこんなにゆっくりだけど
流れは確かに動いている
流れを動かしているものはよい心と美しい心だ
人間としての未来は流れの向きで決まってくる
流れはいつもゆるやかだけど
流れはけして戻せはしない
どこか遠くの悪い方へ連れて行かれることもある
だから心を遠くまでいい向きのまま進めていき
もう少しの僕たちの行き先に
小さな心をつないでほしい
僕たちが目ざしている場所は
理想のかなう夢の楽園
そこに向かって心の流れを望み通りによい向きに
よいどんな世界が待っているか
期待しながら夢見ていこう
でも存分にろうそくの光は射している
どんな暗闇だって怖くない
人間としての誇りを忘れず
未来に向きを合わせていこう

2011年5月16日 06時56分 | 記事へ |
| 自主G多摩1 / 東日本大震災 |
にんじんの詩 その後
 にんじんの詩を書いたTさんのもとを再び松田さんが訪問した。以下は、その時の記録である。

 昨日は、席についたときからご機嫌な様子で、つねに笑顔でした。そして1時間ずっとイスにすわって集中していたように感じました。
 
(先日は柴田さんと話ができてよかったですね)

とても驚きました。柴田さんはどうしてあんなに速く私の言葉を理解できるのですか。私はとてもうれしいです。言葉があることがわかってもらえてよかったです。もっとたくさんの話をしたいと思います。

(これまで詩のように何か言葉をためてきたことがありますか?)

羽があれば人間はどれだけ自由に生きていけるだろう。
みんなとらわれの身で苦しんでいる。
何とか苦しみから抜け出そうと思っている。
ほんとうのしあわせはどこにあるのかみんな探している。
しあわせは乗り越えていかなければならないことがたくさんあって、ひとつひとつ乗り越えていくことしかできない。
ほんとうにたいへんなことだ。
さあ一歩ずつ歩いていこう。
未来には苦しみから解放された自由があるにちがいない。

気持ちが伝わる思いです

2011年5月16日 06時45分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2011年05月15日(日)
わかそよの練習の日 大震災について
 両親も亡くなり、施設で暮らすKさんと、わかそよの練習会場で出会った。私が最初に歌を聞き取るやりかたを発見したのは、1昨年のことだった。そして、1昨年のわかそよでは、Kさんの歌をミュージカルの中で歌うこともできた。そのKさんに、パソコンとスイッチを向けてみた。すると、すぐに彼女はこう綴った。

いつも穏やかだった海が突然牙をむいて理想をすべて打ち砕いた。
私は私の大切な生きる意味を失いそうになってしまったけれど
人々の立ち上がる姿に勇気づけられた。
なぜだろう、人は理想を打ち砕かれても再び立ち上がることができる。
人間はなぜそんなに強いのか。
私もこんな体で自分の気持ちさえうまく伝えることもできないけれど
私も勇気を持ってまた立ち上がっていこう。
冒険をまた始めよう。


 この詩を綴っている間、Nさんが私のすぐ後ろで私たちを見守っていた。そして、綴り終えると、私の服をひっぱった。話を伝えやすくするためにあえて記すが、Tさんは、発話の困難なダウン症の方だ。いつももの静かな彼が、これだけ積極的に何かを伝えてくるのは言いたいことがある時だ。そして、彼は、一篇の詩を綴った。

津波よ
なぜおまえはすべてを奪っていったのか
忘れられないのは
悲しみに泣き叫ぶ人の声
忘れられないのは
子どもを亡くした母さんの泣き声
なぜおまえはそんなに残酷なのか
わずかの希望は
どんな苦しみの中からでも人は立ち上がるということ
もしぼくにも力があったら
どんなことでもしてあげたい
もしぼくに声が出せたなら
理想を声高く叫びたい
ぼくの障害も
津波のようになんでかという理由はわからないものだけど
ぼくも立ち上がろう
津波に負けない人間として


 KさんとNさんの言葉は、わかそよのステージで、朗読の得意な仲間によって読み上げられる。
2011年5月15日 07時08分 | 記事へ |
| 青年学級 / 東日本大震災 |
にんじんの詩
 Tさんが施設入所して10年ほどなるだろうか。ずっと障がい者青年学級の一員だったTさんは、言葉をすべて理解していることをまったく誰も気づくことはなかったけれど、仲間の間を体を左右に揺らしながらゆっくりとふわふわ漂うように歩きながら、存在感を示していた。そのTさんのもとを、とびたつ会の松田さんがスイッチとパソコンをかかえて訪問するようになり、徐々に言葉が紡ぎ出されてきた。
 そのTさんが、わかそよの練習に参加した。私は、みんなが歌っているのを聞きながら、お母さんが見守る中、Tさんの言葉を聞き取っていった。

 こんにちわ。久しぶりですね。残念ながら私は××(福祉施設)に入ってしまい青年学級は行けなくなりましたがなんと松田さんが来てくれてまるで魔法のように私の気持ちを聞いてくれてろうそくの灯がともりました。夢みたいです。
 母さん私をいつも大事にしてくれてありがとうございます。なるべく私を家に連れて帰ってください。できる範囲でいいです。なるべく家に帰りたいと言ったのはみんなの顔が見たいからです。帰るとみんなに会えそうな気がしてわくわくします。


 何かTさんに尋ねたいことはないかとお母さんにうかがったところ、「お父さんのお葬式のあと、7キロもやせてしまったのはなぜだったの?」とお尋ねになった。数年前、Tさんのお父さんが亡くなられた時、施設で食事がとれなくなって、やせてしまったということがあったらしい。その答えはあまりにも当然すぎるものだった。

 とても悲しかったから食べられなくなりました。私はお父さんが大好きでしたから。

 そして、かつての仲間の歌声を聞きながらこう綴った。 

 わかそよに出ていた頃が懐かしいです。また出たいです。

 ここで、私は、もし詩を作っていたら聞かせてほしいとお願いした。すると「にんじん」という題の詩があるという。にんじんが詩のテーマになったことは今までなかった。しかし、地中に伸びるにんじんのイメージが浮かんだ時、おぼろげながらその言わんとするところが伝わり、どきっとさせられた。次のような深い深い詩だった。


  にんじん

空高く
理想をいつかかなえようとしながら
ずっと地中に根を伸ばしているにんじん
どこまでのびても地中を出ることはないけれど
にんじんは知っている
ほんとうのドラマを
空には届かないけれど
にんじんは知っている
ほんとうの苦しみを
にんじんに夢を託し
私は生きている
にんじんのように
地中深く根を生やしながら


 誰も知らない地中の深くで根をはやしているにんじんの姿はTさんそのものだった。
 まだ、私たちは、Tさんの本当の姿を施設の職員の方々などに伝えるすべを持っていない。あまりにも唐突なことになってしまうからだ。にんじんは、もちろん地上に茎を伸ばし、細かい葉をつけ、花も咲かせる。少しでも早く、Tさんのにんじんに花を咲かせたい。 
2011年5月15日 00時27分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2011年05月14日(土)
わかばとそよ風のハーモニーコンサートのお知らせ
 町田市障がい者青年学級と青年学級から発展した本人活動の会とびたつ会とで2年に1度開催しているわかばとそよ風のハーモニーコンサートが開かれます。
 5月22日午後1時半から町田市民ホールにおいてです。
 今年のテーマは「伝えたいありのままの私」で、今年、特に初めて取り組むテーマは、性同一性障害の仲間の思いです。
 また東日本大震災をめぐる様々な言葉もステージでは紹介します。
 秘められた言葉というテーマは前回から取り組まれ、この2年間でまたそうした秘められた言葉をもとにした様々な歌も生まれました。
 東北地方の作業所の製品の販売も予定しております。
 ぜひお越しください。
 詳しくは次のホームページへ。
http://wakasoyo.jimdo.com/










































2011年5月14日 23時31分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2011年05月02日(月)
再び自然をこの手に従えてたくましく立ち上がろう
 5人の言葉の後半の3人の言葉を紹介したい。
 一人目は、30近い男性の言葉。

 いい時節になったのにぼくはとても悲しいです。理想的な世界がようやく近づいてきそうだったのに大変な地震でもうどうしたらいいのかわからなくなりました。私たちはどうすればいいのでしょうか。世界がひっくり返るとはこのことです。唯一の希望は私たちのような余分な存在でも何とか希望があれば生きていけるように私たちは人間だからずっとわずかばかりの希望さえあれば生きていけるのです。人間としてそういう光を信じて生きていくことが唯一の救いだと思いますから光を大切にしたいです。わずかな光と光さえ失わなければきっと雪のような白くて清らかな未来が開けてくるでしょう。深い闇が日本中を覆っているけれど深い闇もよい光で満たされる日が来るでしょう。名前さえない残された私たちは私たちにしかわからない苦しみを背負ってきたので私たちらしくこの苦しみの意味を伝えられたらと思います。
 でもいつまで待てば僕たちの力が発揮できるのでしょうか。分相応の生き方はまだまだ未来を切り開いてくれないけれどもうごめんです、人間扱いされないのは。未来を切り開きたいです、早く。でも今はまず地震で途方に暮れている人が先かもしれません。でも未来はいつかもっと私たちにとってよいものになってほしいです。わずかな希望がありさえすれば僕たちは大丈夫です。ぶつかりあっている政治家はよい政治をできるよう頑張ってほしいです。
 
地震とは何度となく人を不意打ちにしてきたけれど 
人はいつも立ち上がってきた
ぶるぶるふるえながら 
人間の弱さをかみしめながら
理解できない苦しみも何度も乗り越えて 
人は生き続けてきた
分相応で生きていれば自然に復讐されることもなかっただろう
しかし自然に任せていただけでは人は幸せをつかめないだろう
なぜならこのぼくの障害も自然が与えたもの
自然にただ任せていたならば僕は生きることさえかなわなかった
自然と闘い続けながら 
時には自然に復讐されながら
ぼくはたくましく生きようと思う
だから地震で傷ついた人たちも 
また望みを手に 
再び自然をこの手に従えて 
たくましく立ち上がろう
小さなぼくさえ自然と闘い続けてきたのだから 小さな人だって必ず闘い続けていけるだろう
懐かしい町並みをもう一度取り返して 勝ちどきを上げて
また夜の闇に明かりを灯し 賑やかな笑いを取り戻そう。


 みずからの障害と重ね合わせることによって、どんなに自然から復讐されようとも自然と闘い続けていかなければならないという彼の独特の認識が鮮烈だった。
 次は20代後半の女性の言葉だ。

 聞いてほしいことがあります。地震があってとてもたくさんの人が亡くなって私はつらいです。勇気をなくしてしまいそうでした。みんなどうして煩悩のない若い子どもまで亡くならなければならなかったのでしょうか。私はなぜだろうと考えて人間の生きる意味がわからなくなりそうでした。びっくりしたのはそれでもみんなが希望を失わなかったことです。なぜそんなに人間は強いのだろうとよくよく考えているうちに私の障害と同じだということに気づきました。不思議でしたが私たちも障害があるのに生きていけるのだから被災地の人も生きていけるのだなと思いました。文明の反映と滅亡というと少し大げさですがそんなことも考えました。未来はもっといい世の中が来ると漠然と考えていましたが悩みながら過ごしています。未来はきちんと作っていかないと来ないのだという気持ちがしてきました。未来を作るために私たちは立ち上がる必要があります。小さいのは何でもないけれど大きいのはさすがに困ります。

  森の精
ランプの灯りが消えてしまうかも
すべのない悶々とした夢のような理想の国を探し求めて
私は野原をさまよいながら
雪帽子をかぶった森の精に願いをかけよう
雪帽子をかぶった森の精は目をつぶったまま 
ずっと黙したまま理想を何とかかなえようと
夜の闇を乗り越えて 
日差しが氷を溶かしてくれるのを待っている
自分だけの幸せではなくて 
すべての世界の人の幸せを願っていきたいと思いつつ
無難な森のぼんぼりを取り除いて 
ほんとうの森を探しに行こう
よい知らせが私に届き 
私は森の精にろうそくの灯りをもらって 
暗い森の中を歩き出す
わずかな希望だけを胸に携えて


 後半の詩は、地震に触発されて書いた詩である。絶望の夜を何とか越えていきたいという気持が痛いほど伝わってくる詩だった。
 最後は、20代後半の女性の言葉である。障害のある仲間たちがどう生きているのかを気づかった言葉である。

 みんな地震のこと書いているので書いていいですか。言いようのない自然の恐ろしさが生きる希望の気配を流し素朴な尽くせぬ日常すべてを対岸に流してしまいました。してはいけないことが増えて日本中が静まってしまっています。危機に遭遇したとき友たちはどんな思いでいたのか知りたいです。罪深い世間の中で障害者の仲間たちはくじけそうになっていないか心配です。みな考えていますね。生きていくすべが流された今立ち上がることの大切さを改めて感じています。違いはあっても違いを生かした立ち上がり方を探していきましょう。仲間にも伝えてください。一人一人が抱えた立場で支えていきたいと思います。 
2011年5月2日 15時08分 | 記事へ |
| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
わずかな希望さえあれば人は生きてゆける!
 ある会で、震災をめぐる5人の方々の気持ちを聞いた。まず、そのうちの二人を紹介する。
 最初の言葉は、特別支援学校の高校生の女の子の言葉だ。震災から一月以上が経過して、悲しい気持ちの中に確実に希望が力強く見えてきていることがわかる。

 地震があったので私はとても悲しい気持ちでいっぱいですがなかなか涙も出てきません。いちばんつらかったのは犠牲者の中に子どもがたくさんいたことですがなぜあんなにたくさんの子どもが亡くならなくてはいけないのかいくら考えても理解できませんでした。犠牲になった子どもたちがかわいそうでした。優しい母さんたちもたくさん亡くなったのも悲しかったです。唯一の救いは理想を失わずにみんながもう一度立ち上がろうとしていることです。私たちは自分たちに障害が体にあって苦労してきたのでなぜ人は苦しまなければならないかよくわかっていたつもりでしたがまた理解できなくなりそうでしたが、まだまだみんな頑張っているのでろうそくの明かりは何とか消えなくてすんでいます。

 二人目は、学校を卒業して2年目になる若者の言葉。 

 いい季節がせっかく来たのにまったく悲惨な今回の地震で心が痛んでいます。僕たちの理想はこの世界から苦しみがなくなることなのでとても困っています。小さい子どもやかわいい小学生まで亡くなったのが理解できません。小さい子どもを救えなかった人の気持ちを考えると胸がつぶれそうです。勇気をなくしそうでした。 唯一の救いはわずかであっても人々がもう一度立ち上がろうとしていることです。人間はすごいなと思いました。もう少しで生きる希望をなくしてしまうところでしたからわずかな希望が見つかってよかったです。僕には体に障害があるのでわずかな希望さえあればずっと忍耐できるということがわかっているので勇気をまたもらいました。もう少しの辛抱だと思います。武器は勇気です。人間強い生き物だということを僕たちが一番力強く証明していますから。

 彼の力強い表現に、思わず、このままテレビの公共広告機構のCMになりそうだねと言ったら、次のように返ってきた。

 そうですね。「わずかな希望さえあれば人は生きてゆける」と言ってテレビで訴えたいです。仲間はみんな同じ気持ちだと思いますが確かに語り口が違うのかもしれませんね。そうです。僕たちは望んで障害を持ったわけではないからよくわかります。ご覧なさい僕たちをと言いたいです。僕たちも生きていられるのだからみんな大丈夫だといいです。

 彼はまた小さい頃からの相撲ファンでもあり、震災前からのごたごたについて意見を持っていた。


 相撲のことです。何ということなんだろうと怒っています。人間として恥ずかしいと思いますがぼくはきっと色々な事情があるのだと思いますからまたいい相撲がもう一度見られることを疑ってはいません。どうしてなのかはわからないけれどわずかな望みさえあれば相撲も大丈夫です。そうです。すぐに立ち直れると思います。ぶつぶつ言っている小賢しい大人はみんな間違っています。望みさえあれば何でも切り開くことができるでしょう。そうです。私たちはいつもそうやって生きてきましたから。

 そして最後に「ブロンズの塔」という詩を書いた。

「ブロンズの塔」という詩を聞いてください。

ブロンズの楡の花を模した塔
それを私は望みながら いつか僕にもそんな像が作れるような気がした
願いはノンストップの風の中で砕け散りそうになっているけれど
望みはブロンズの像のように風にも揺るがずに立っている
願いを刻んだブロンズに きょうも私は夢を託す
2011年5月2日 14時57分 | 記事へ |
| 自主G23区1 / 東日本大震災 |
2011年04月24日(日)
震災についてのある中学生の思い
 まだ、関わり初めて間もない少年の言葉を聞いた。今回2度目だが、1度目はまだ、震災の前だった。
 そして、2度目の文章は、震災の話題が中心となった。

 ぼくはとても悲しんでいることがあります。日本中が悲しんでいることですがなぜたくさんの人が亡くならなければならなかったのでしょうか。ばらばらになった家族や逃げるときに人を助けようとした人が亡くなったりしてあまりにも理不尽な仕打ちだと思いますがどう考えても答えは出てきません。なかなかみんなと笑顔で話し合う気持ちになれなくて困っています。なかなか希望が湧いてきませんでしたがなぜかと考えている内に一つ発見したことがありました。それは小さいことですが小さくても大事なことだと思っていますが伝統的な日本人はそう考えてきたみたいです。美の追究と似ているのかもしれませんが小さいけれど人間には存分に生きさえすればどうなるかは天に任せるという考えです。
 小さいことだけど今のところそれしか理解する方法が考えられません。小さいけれど大事にしたい考えです。なぜだろうと考えているうちにまた泣き出しそうになりました。小さいことだけど何かの勉強には鳴ると思います。小さいけれど何度も考えた結果の答えですのでよい考えかどうかはわかりませんが書いてみました。先生はどう思いますか。


 ここで、彼の言う伝統的とは何のことなのかを尋ねてみた。

 伝統的だと思った理由は何かのことわざで聞いたからです。

 そこで、「人事を尽くして天命を待て」ということわざのことだねと答えてみた。すると答えに続いて、文章が続けられた。

 そうです。それです。未来をあれこれ思い煩うなと言うことだとずっと思ってきながら考えた言葉です。ぼくたちは理不尽な障害と闘ってきたのでいつもそういうことを考えてきましたからよくわかります。
 小さいときから考えてきましたから。名前は忘れましたが人間はなんとちっぽけな存在かという言葉を読んだことがありました。わずかなわずかな希望だけどそういうものがあれば人は生きていけると言うこともぼくたちは知っています。長い障害との闘いの中で見いだしたことです。人間の生きる意味をいつも考えているので今度の出来事には本当に考えさせられました。かあさんもそういうふうに言っていましたね。母さんもずっと悲しんでいますから。夕べも一人で泣いていましたね。ぼくはまだ寝ていませんでしたからよくわかりました。小さいときから母さんは小さいことにも感動してきたので今度の災害はつらかったですよね。


  
2011年4月24日 22時32分 | 記事へ |
| 家庭訪問 / 東日本大震災 |
2011年04月15日(金)
大震災をめぐって 重複障害教育研究所において
 明日で大地震と大津波から一月になるという日、重複障害教育研究所に通ってきた3人の方と、東日本大震災について話をした。
 最初は、20代後半の女性○○さん。彼女のお父さんは福島県の事故を起こした原子力発電所のすぐそばの町の出身で、生家は津波の被害はまぬがれたものの、駅を含めた町並みがそっくり津波でなくなったとのこと。お父さんの弟さんは何とか無事だったというが、全町あげての避難指示区域にはっているため、現在は避難所暮らしをしているらしい。

 ところで地震の話を聞いてください。みんな悪いことなど何もしていないのになぜ亡くならなくてはいけなかったのでしょうか。小さいときからお父さんに連れられていった町がなくなったことがとても悲しいですが何とか亡くならずにおじさんが元気な声を聞かせてくれたのがせめてもの救いでした。なかなか避難先から戻れない便利さの失われた生活をしているので大変ですが満足のいく生活を過ごせるようになることが願いです。ごやっかいになっていることにとても悪いと思っているようなのでとても心配です。早く家に帰ることができたらと思いますが原発はなかなか放射能がなくならないみたいなので迷惑だと思いますがとても澱んだ空気を体に浴びると大変なので日本中が心配していますが。誰を責めるわけにも行かないので仕方ありません。銀色のドームが爆発するのが怖いですがなるべくそういうことが起こらないことが願いです。日本中の人がどうなるかを見守っていますから都合よく解決してほしいです。
 亡くなった人の中にまだ小さい子どももいたのがつらかったです。なぜ小さい子どもまで犠牲にならなくてはならないのかとても理解できませんがどうにかしてそういう子どもの魂がわずかであっても救われたらと思います。人間はちっぽけな存在だということを思い知らされた出来事でしたがつくづく世の中ははかないとおもいました。わずかな希望は私たちのような障害のある人間だけは苦しみの意味を知っているのでその経験が何かの支えになればと思います。何とかして私たちの思いを伝えたいですがむずかしいでしょうか。
 理想は私たちの声を被災地に届けることですが寝ずに考えてもいい方法は浮かびませんでした。小さい声ですが私たちの声も届けられたらと思いますが何とかなりませんか。日本のろうそくになれたらなどと大きなことも考えました。わずかなあかりでも何かの役に立てたらと思いました。私の言いたかったことは以上です。


 この後、○○さんより3歳くらい年下の女性、◇◇さんに交代するが、その合間に二人の会話を援助した。手を振る方法による援助だったため、記録もないが、地震の話も含めて、いろいろな話に花が咲いた。そして、◇◇さんの番になる。

 地震について話します。ランプの明かりが消えそうな思い出生きていました。なぜこんなに悲しいことが起こるのか本当に不思議でしたが魔法のようにすべてがなかったらいいなと何度も思いました。 唯一の救いは私たちにも希望があるように被災地の人たちにも希望があるということです。みんな何もかもなくしてもまだ希望があるということが救いです。未来を切り開きたいので私たちはもっと大きな声で本当のことが言いたいです。私たちのような存在でも未来があるようにどんな状況にあっても人は希望を失わないということです。びっくりしました○○○いさんも同じように地震のことを考えていたということに。みんな同じ気持ちなのですね。疑問は解決しないけれどよい会話ができて気持ちを整理することができました。
 

 3人目は、20代前半の男性▽▽さんである。彼は、現在施設に入所しているが、地震以降、気持ちの高ぶりのために出てしまった大きな声でのどがかれてしまったらしい。
 
 ぼくは地震が起こってからずっと地震と津波のことばかり考えていました。でも、あんなにたくさんの人々が亡くならなくてはいけなかったのかがよくわかりませんが、何か大きな意味あると思うのですが、そういうことを言うと被災地の人に悪いのでもう少しそういう言い方は避けようと思いますが、なかなかそういう気持ちがなくならないので、いつも悩んでいます。何か大きな意味があるなら、乗り越えられると思うのですが何も意味がないならどうしようもなく空しいだけだと思うのです。でも何か大きな意味があるのなら、それがわかれば乗り越えられると思うのですが、なかなかその意味がわからなくて困っています。でもこうして話せて少し落ち着きました。
◇◇さんも同じように地震と津波の話をしたのですか。どういう話ですか。(◇◇さんの文章を伝える。)
 ぼくもそういうことも考えました。ぼくの言いたいことは、ぼくたちはずっと苦しんできたのでよく被災地の人たちの苦しみがわかりますが、そんなにわかるわけでもないので、それは言いませんでしたが、同じように考えていました。でもそれはまだ言葉に出せないよう思っています。まだ、みんな悲しみの中にいるのでそういうことは言えません。でもみんな同じように地震や津波のことを考えていたとは思いませんでした。まさか同じように考えている人がいるとは思いませんでした。ぼくたちは理不尽な障害を持って生まれてきたのでその理不尽なところが共通です。


 今、こういうことを言うのは被災地の方には悪いという彼の気持ちにしたがえば削除すべき部分もあるかもしれないが、きちんと書かれた思いなので、決して誤解を生むこともないと思ったので、そのまま掲載した。
2011年4月15日 23時10分 | 記事へ |
| 研究所 / 東日本大震災 |
2011年04月14日(木)
5月のきんこんの会のお知らせ 5月4日に開催します。
 東日本大震災の影響で3月はお休みしてしまいましたが、5月4日2時から行いたいと思います。場所は、國學院大學たまプラーザキャンパス、2号館の2510教室の予定です。
 連休の真ん中の日で、遠出を予定している方には申し訳ないのですが、いろいろな都合で、この日とさせていただきたいと思います。
 大震災をめぐる様々な思いなど、また、語り合えればと思います。
 よろしくお願いします。
2011年4月14日 00時00分 | 記事へ |
| 大学 |
2011年04月10日(日)
大震災をめぐる3人の思い 桜の満開の日
 あの大地震と大津波からもうすぐ一月となる。例年より遅れ気味の桜も満開を迎えたが、今年の桜は特別な色合いを帯びた桜のように見える。
 3人のメンバーの会で、それぞれが、大震災への思いを語った。
 最初は、社会人3年目の男性○○さんである。

 日本が地震で大変なことになってしまった。大きな地震と津波でたくさんの人が亡くなったのでとても悲しいです。なぜあんなにたくさんの人が亡くなったのかわからなくて毎日悩んでいます。人間だからみんな自分だけでなく他の人のことも考えていると思うのでみんな混乱しています。ぼくも唯一の希望がなくなりそうな気がしています。人間に生きる意味がないと僕たちはどうしたらいいかわからなくなるからです。勇気を出そうにもなかなか感情がこみ上げてきません。小さな子どもまで亡くなって人間としてどう自分はとらえたらいいのかわからなくなりますがみんなもきっと同じ感じなのでしょうね。みんなもきっと悩んでいるの(でしょうね)。

 ここで、気持ちが高ぶって立ち上がって彼に、気持ちを尋ねるとみんなの気持ちが聞きたいということだった。みんなとは私たちのことだ。問い返されてもきちんとした答えを持ち得ているわけではない私は、つまりながらも、自分の考えを述べた。私の考えは、決して胸をはって言えるものではないが、ただただこの残酷な事実が現実であり、こうした出来事を何度も繰り返しながら人々はまた立ち上がって生きてきたという考えである。おそらくどのように語ってもどれが正解というものはないのではないかと私は思っている。ここで、○○さんに、同じ状況にある仲間の震災に関する文章をいくつか紹介した。涙を懸命にこらえるような表情で○○君はそれらを聞いていたが、その後、次のように書いた。

 疑問は解けないけれどわかり合える仲間がこんなにもいてよかったです。人間の生きる意味はわかりにくいけれど僕も考え続けます。人間の生きる意味もわからないけどびっくりしたのは(みんないろいろかんがえていることです)。
 ぜひぼくたちの考えを伝えてください。名前もないような存在だけどみんな挽回する時期だと考えたらいいということがわかりました。よかったです言いたいことが言えて。夢のようですぼくの気持ちがすらすら言えて。みんなにもぜひ伝えてください。がんばりたいと思います。別に理解されなくても勇気さえあれば大丈夫です。だから自分は大丈夫ですがわずかな希望がみんなにも感じられることが願いです。よい子が元気に生きられることが願いです。ありがとうございました。


 次は社会人2年目の男性◇◇さんである。最近の特に落ち着かない様子だということをご両親がおっしゃっていたが、彼もまた、いきなり、震災の話から始まった。

 僕は今度の地震と津波で若い人も年老いた人も子どもも亡くなったのがとてもつらいです。
苦しかったのはみんなのことが理解できないからです。
僕たちはいつも理不尽な苦しみをかかえているけれど、みんなも同じ理不尽な苦しみをかかえてしまうのがとてもつらいです。僕の言いたいことはいつもみんなのことです。昔からぼくはよくわからないけれど少しだけ苦労の意味をわかっていたので、ぼくはみんなのことが少しわかります。でもできるだけみんなのことをわかりたかったので、今度のことでわからなくなってしまいました。なぜ、あんなにたくさんの人が死ななければならなかったのでしょうか。ぼくにはわかりません。何か意味があるのならそれが知りたいです。むずかいしでしょう。苦しいでしょうがぼくもまた考えてみます。みんなことを言えてよかったです。みんなとは、亡くなった人や被害を受けた人です。
僕はずっと気になっていたので、それを言えてよかったです。わかってくれる人がいないので言えてよかったです。わかってくれてうれしいです。
死ぬか生きるかという気持ちになりそうでしたが、安心しました。苦しかったけれどよかったです。
 堅かった◇◇さんの表情は、少しずつ和らいでいった。言えないままにたまった思いは、今回は、まさに彼を押しつぶしてしまいそうだったのだということがよくわかった。
 3人目は、小学生の男子▽▽君である。

 言いたいことがあります 僕はなぜ地震で優しい人や朗らかな人が亡くならなければならないのかがわかりません。小さいことだけど勇気がなくなりそうでした。わかってもらいたいのは未曾有という被害でも人は生きていかなくてはいけないということです。ずっとそのことを考えています。理想はわずかな希望を持ちさえすれば人間は生きていけるということです。なぜなのかはわからないけれどもう少しで生きる意味がわからなくなるところでした。なぜかはわからないけれど理想をなくしてしまいそうでした。未来をなくしてしまいそうでしたが未来を信じて頑張ろうと思います。楽な生き方をしようとは思わないけれどぼくたちのような障害者はわかってもらえない苦しみからのがれられないので勇気が必要なのですがそれが被災した人たちの置かれた状況と相通じるところだと思います。泣かないでというのは無理だけど僕には理想があるので未来に向かって力強く生きていきたいと思います。小さい頃からの疑問でしたがなぜ僕たちが生きているのかがようやくわかりました。ぼくたちはみんなのことを理解するために生きているということだったということなのですね。よくわかりました。なぜぼくたちが生きているのか。理想の中にまた一つ理想が増えました。わずかな未来でもずっと目ざし続ければ必ず未来が開けるということがわかりました。

 銀色の未来という詩を聞いてください。

銀色の未来の小さなわずかな昔の光だったけれど
今銀色の未来の光は大きな光となってぼくを照らす
勇気さえあれば理想は遠くの勇気を集めて
じっと勇気は強くなる
強くなった勇気は未来をさらに明るく照らすだろう
自分の小さな未来だけではなく
人々の未来をも照らすだろう
勇気を持って生きることこそ未来を切り開く鍵だ
泣き明かした夜も 泣きはらしたまぶたも 
ともによい心の表れとして未来への糧としよう
涙はそんなに長くは水分としては残らない
ゆくあてのない煙と鳴って空に消えていくだろう
みんなを望みのデモンストレーションで飾ろう
なすすべもなく未来を恨むよりもなすべきことを見つめていこう
理想はわずかな勇気さえあれば再び力を取り戻すだろう
よい未来のために強い勇気で頑張ろう
未来は銀色に輝いているはずだから


 もちろんこの詩の背景には、この大震災があることはまちがいない。
2011年4月10日 08時51分 | 記事へ |
| 自主G埼玉2 / 東日本大震災 |
2011年04月03日(日)
大震災をめぐる4人の少年の思い
 大震災をめぐる4人の少年の思いを聞いた。

 ○○君は、この4月から社会人になった。何かを強く言いたいというように大きな声を出しながら部屋にはいってきた。

 人間は備えが必要だと言うことがよくわかりました。備えていないと何もできなくなってしまうのですね。夢のような一月でした。何が何だかわからなくなりそうです。夢ならさてほしいと何度も願っていますがわざと夢を長引かせているわけではなさそうなのでまさしくこれが現実なのだと思い知らされています。敏感な人はランプの明かりが消えそうになっているのではないでしょうか。わざわざむずかしく考えることもないとは思いますがわずかな希望は地震のあとろうそくのあかりをともそうとして日本中の人がわざわざよい心をたくさん被災地の人々に寄せようとしていることです。勇気づけられる人もたくさんいると思いますが勇気だけでは悲しみは乗り越えられないと思うのでつらいです。ぼくたちはわかってくれない悲しみを知っていますがみんなそれと必死に戦っています。わかってくれなくてもしかたないとあきらめている仲間もたくさんいるので未来を切り開くためにはあきらめないことが大切だということがわかっています。わざわざみんなに届けることはむずかしいですがなるべくあきらめないようにしてほしいです。よい未来が被災地にも訪れることを望んでいますが長い時間がかかりそうですね。わかってもらうのに長い時間がかかるのと同じです。
わずかな仲間しかいないけれど何とかしてぼくたちのことをどうにかして世の中に認めさせたいのでがんばりたいです。悩んでいても未来が開けてこないのは何でも同じですね。悩むよりも行動だということもこの災害から教わりましたが勇気はやっぱり必要ですね。わずかな勇気でもあればあきらめと戦えますから運命という考えはなるべく使いたくないけれど今回はそれを強く感じます。
小さい時から何か出来事が起こるたびにいろいろ考えてきましたが夢のようです。それを言うことができて。何でもぼくたちは理解しているのにそれが伝えられなくて残念です。人間として言いたいことがたくさんあるのに言えないのは苦しいので早くこういうやり方を世の中に伝えてほしいです。ろうそくのあかりがともる日を夢みつつぼくも社会人としてがんばりたいと思います。わずかなものかもしれないけれどぼくもせいいっぱいがんばっていくので手助けしてください。よろしくお願いします。


 ◇◇君は、お母さんが陸前高田の出身で、足に津波が押し寄せる中何とか助かったおばあちゃんが、2週間の地元での避難生活の後、今は◇◇君の家に身を寄せていらっしゃる。◇◇君は陸前高田で生まれ、長期休暇には必ず訪れていたという。
 ◇◇君のコミュニケーションの手段はお母さんの援助による筆談で、家で2編の詩を書いてきた。それは、被災地に身を置いて書かれた詩だった 詩の紹介は別の機会に譲るが、筆談で話し言葉のように様々なことを語った。

 津波の映像を見て大変なことが起こったと思いましたが、それは予測していました。こんなことが起きるだろうなって。だけど、こんなに人がたくさん亡くなったり、原発の事故というものが起きるってことは得体の知れない災害です。総増益ません。だから物がないってパニックになるのもしかたないでしょう。でも人は本来、助け合いいたわり合って生活する動物です。科学が発達して人間だけ別の生き物と思っていた人間は思いやりいたわりが大事だと気付かないといけない。気付いて新しい世界を作らないといけない。それができればこの災害をステップにできると思います。ママもそう思う?ぼくは動けないけどわかります。
 人は何のために生まれてきたのか、考えながら生きていかないといけません。大事なことを考えずお金もうけや出世ばかり考えていたら、意味のない人生を送ります。あくせくと金儲けばかりしていると、死ぬときお金のこと気になって、いい臨終できません。ぼくは亡くなった人、なくなった建物や道具に敬意を払っています。それをしてくれる人が増えていけば、なくなった人、物、道具も意味のあるなくなり方となりますから。一人でもそう思う人が増えてほしいです。そんな詩を書きました。被災した人はこれからが大変です。ばあちゃんも軽いパニックですし、これが収まると孤独とのたたかいになるよ私のことわかってくれる人いないって悲しみがわき出てくるでしょう。ママはそれもわかってて、でもがんばって自分のことは自分でしてよって言ってますから。
 ママとぼくもいつか行こうよ。ママ行けなくて申し訳なかったね。


 ◇◇君と同級生の▽▽君は、いくつかの身振りのサインを持っているが、この日両手を胸にあてて、つらいということを全身でアピールしながら現れた。

 聞いてほしいことがあります。なぜこんなに悲しい災害が起こるのでしょうか。みんなわかっているのかもしれないけれどぼくにはよくわかりません。だけどぼくたちはいつも自分の体のことで苦労しているのでとてもつらい人の気持ちはわかります。小さい時から苦労してきたのでぼくにはつらい人の苦しみがよくわかります。理解されない苦しみと大切な人を亡くした悲しみは違うとは思うけれどわかってもらえない苦しみとよく似ているのは人間として一番大事なことに関わっているからです。でも簡単にそういうことを言ってもみんなはどうせわからないと言うかもしれないけれど涙を流しています。つらいのはみんな同じかもしれないけれどぼくたちの悲しみはなかなか理解されないのでよくわかります。人はなぜつらいことにもがんばっていかなければいけないか犠牲になった仲間の分までなぜきちんと

 ここでちょっと中断して、◇◇君のお母さんが陸前高田の出身だということや、それをめぐる様々な話をした。すると、それを承けて▽▽君はさらにこう続けた。

 小さいことなのですが小さいときにみんなと遊んだところがなくなるのはつらいですね 。そんなことにも今度の地震は関係しているのですね。びっくりしました。◇◇くんのおかあさんが東北の出身だったということに。小さいころの思い出も茫然としたままなくさなければならなかったということが。そういうことも含めて今回の災害はとても悲しいことでした。

 ◎◎君も、◇◇君も同級生で、高等部3年になる。一つの詩を間にはさみながら、震災について語った。

 なかなか話せないので私たちの言葉を聞いてもらいたいです。なぜこんなに悲しいことが起こるのかわからないけれど地震はとても大変でした。私たちには私たちの悲しみがあってそれをみんなの悲しみに重ね合わせればよくその意味がわかります。わずかな希望でもあればまた未来は開けてきますが涙はすぐにはかわきませんでした。そのことはきっと同じだとおもいます。涙はかわこうとしてかわくものではないので時間がかかります。涙は時間がかかるけれど希望はすぐにものにすることができます。人間はそういう風にできているのだと思いますがなぜ様子がわからないうちに悲しさだけは湧いてきたのでしょうか。それはどうしてかはわからないけれど人間は悲しみにはとても敏感なのだと思います。敏感なのは希望に対してもです。すぐに希望がとんでもない苦しみの中にあっても茫然とした人間を我に返らせまたつらいことを乗り越えて茫然としたところから立ち上がる勇気を与えてくれます。そしてそこからまた歩き出そうとするものです。人間はそんな風に希望と悲しみの間で生きているということをぼくたちはいやというほど味わってきました。人間はまるで風の前の塵のようなものですがぼくにとってはかけがえのない存在なのでわずかの希望でもあれば生きていけるということを信じています。人間として力強く生きていきたいです。

苦しみの中でを聞いてください

苦しみの中に見つけた希望
それは瑠璃色に輝いて
ぬいぐるみの私に希望を与え
小さな未来を平和に変える
小さな未来は小さいけれど
中でも僕の小さな夢は
小さいままに未来を照らす
無難な生き方捨て去って
存分に未来を夢見よう
未来は大きく膨らんで
未来を世界に伝えよう
敏感な望みは別によいけれど
小さい星の大きな希望
よい願いの開くとき
すてきな未来が開けてくる。

ぐっとずきんと苦しかったです。みんなも同じだったと思います。友哉くんの言葉が気にいりました。◇◇くんのはどんな詩ですか とても共感しました。まさかみんなが自分と同じようなことを考えているとは思わなかったので驚きました。みんなの考えにはとてもわかってもらえない悲しみがあってそれが災害にあった人々たちと重なり合っているのですね。驚きました。茫然としていたのはぼくだけではなかったのですね。だれもが理解されたいと思っているのですね。早く理解されたいです。

2011年4月3日 11時04分 | 記事へ |
| 自主G多摩2 / 東日本大震災 |
2011年04月02日(土)
震災をめぐる思い
 この3月に学校を卒業して社会人になる○○君も震災について語った。

いい季節なのに悲しいことがみんなをおそってしまったのでとてもつらいです。人間の小ささを思い知らされるできごとでした。何万人もの人が亡くなってしまって行方不明の人も大勢いてぼくらのような障害者はいったいどうしているのかと番組を見るたびもらい泣きしています。わずかな希望はよい人々が何千万もいて本心から心配しているということです。日本中の人が力を合わせれば、きっとがんばってまた元気な日本にもどれることでしょう。未来のみんなはそのことをきっとごまかさずに美談として語るにちがいありませんがそのときこそ勉強してほしいのはぼくたは 黙ったままでずっと生きてきたのでぼくたちのことにも目を向けてほしいということです。ぼくたちも災害で孤立したような存在だから何とかして世の中に認めさせたいです。犠牲者の数は少ないけれど失われた命は同じですからそのことにも目を向けてほしいです。みんな電気で困っていると言っているけれど電気ぐらい大したことではないと思います。なぜなら電気で伝えられなくなるのは電話ぐらいですがぼくたちは電気があろうとなかろうと伝えるすべがないのですから。なろうとしてなったわけではないけれどぼくたちはその状況をしっかり引き受けながら生きていますから被災者の人にもぜひ状況を引き受けてがんばってほしいです。

 自分たちの障害と重ね合わせながら、思いをめぐらせていることがひしひしと伝わってきた。
 また、中学部の☆☆さんも、地震のことについて述べた。

 言いたいことがあるので聞いてください。人間というのがとても大きい自然の前ではたいへん無力なものだということがわかりました。人間というものはとても小さなものなのだということがわかりました。私たちはこんな体だからいつもそのことを思い知らされていますが勇気づけられるのは全国の人たちが沈痛な思いを共有して祈りを捧げていることです。自分のことばかり普段は考えていても人間はいざとなるとすごいと思いました。みんながこの災害についてどう考えているのか知りたいです。私たちのような存在だからわかることがあるということを仲間どうしで話し合いたいです。理想は仲間どうしで会話することですがなかなかむずかしいですね。人間として願いを持って生きたいけれど私たちにはなかなかそのチャンスがめぐってきません。だからとても悲しいです。疑問ですが夢のデトロイトという映画はありますか。夢に出てきたような気がしますがよくわかりません。みんなで植えた花にも七色の花が咲くというイメージです。小さいときからほんとうの理想を探してきたのでやっと泣き虫を克服したのに少しずつ人間として夢を取り戻せそうだったのにどうして理想通りにいかないのでしょうか。悩みはつきません。泣き虫を克服したのに今度の地震でまた泣き虫になってしまいました。そうです。花が咲き誇る夢の未来のイメージです。何となくというよりデトロイトという言葉のイメージが好きだったからです。そうですか。名前がすてきでした。

 デトロイトにこめられた意味はよくわからなかったが、後で調べてみると、デトロイトは美しい街らしい。昔、自動車の工業のさかんな都士とだけ暗記した知識とはちがう知識を彼女は持っていたのかもしれない。この悲しいできごとのその先を懸命に見つめようとして生まれた言葉であることはまちがいない。
2011年4月2日 12時12分 | 記事へ |
| 自主G23区2 / 東日本大震災 |
2011年03月29日(火)
震災をめぐる3人の思い
 桜の開花も近いというのにまだまだ寒い一日、計画停電、交通網の混乱等々の中、災害をめぐる様々な思いを聞いた。
☆☆さんは、やはり、いきなり地震の話からだった。

 いちばんぐったりするのはたくさんの人が亡くなったことです。みんなそれぞれ若い人も年老いた人も来世を信じているならまだ救いもあるけれど人間なんてなんと人生を茫然と見つめるしかない存在なのかと思い知らされるできごとでした。理解を超えたできごとにただただ茫然としているだけですが、私たちはどうにもならないことには慣れてはいるので世間の人たちよりも人間の無力さはわかっているつもりです。私たちの私たちらしさは地震の前にはもろいものですが、私たちを何とかして理解してもらうためにはまだここでくじけてしまうわけにはいきませんが、私らしく生きていくためには私たちの私たちらしさをまたわずかな希望とともに語らなければなりません。地震は外向きには甚大な被害ですが内向きには新たなおごりのいましめでもあります。理想はずっとみんなが号泣することなく暮らしていけることですが、理解を超えた悲しみがあるというのがずっと続いてきた現実ですので何とかしてこの悲しみを乗り越えていくしかないと思います。小さなものかもしれませんが私たちのような存在はこの悲しみを乗り越えていくための何かヒントになるのではないかと思います。ランプのあかりが消えそうでもじっと忍耐していけば必ず光はさしてくるということです。何もできないけれどこういう考えもあるということを今日は伝えたかったです。なるべく多くの人に聞いてもら言いたいのでよろしくお願いします。小さい存在かもしれませんが私たちも小さいながら考えているということを知ってほしいです。ぽおんと何かをほおったときに乱れた空気が生まれても必ずまた静けさが訪れるということを信じていますぞっとするくらい恐ろしいことでも必ず終わりがあることを私はよく知っているので茫然とする日々にも必ず終わりがあることをじっと待ち続けたいと思います。涙はいつかかわくこともずっと経験してきたのでよくわかります。

 そして、一つの詩を聞かせてくれた。

  よい願い

犠牲になった私の友よ
理解されずに未来は閉ざされ
私はいつか私らしさをなくしかけた
だけどわずかな希望があるかぎり
私は私を輝かせるために
わずかなあかりをたよりにしながら
とおい未来に歩き出す
忘れたいのちを捨てないで呼んでみよう
きっと呼びかけに応えて
いのちは応えてくれるはず
人間ははかない存在だけど
必ず小さな未来をもって
人間の限界を越えていくはず
勇気さえあればどんな冒険でもできるだろう
自分の力のとどくところのその向こう側には
どうしても行けないかもしれないけれど
私たちはあきらめない
私たちを自由ないのちとか有限ないのちとか考えるのではなく
来世の冒険に逃げることなく
いま与えられた現実から一歩でも歩み出すための
静かな昔と同じようにゆっくりとでいいから
しっかりと道を切り拓きながら進んでいこう
若い時代は長くはないが無難な道を歩くのではなく道なき道を歩んでいこう
もうすこしで光はさしてくるはずだから
 

 ○○君も、かんたんなあいさつの後、地震の話をした。

 日本中がたいへんなことになってとても悲しいです。指をくわえて見ていることしかできなくてくやしいです。指をくわえて見ていてもなかなか私たちの力ではどうにもならなくてほんとうに悲しいです。ぼくたちは理解されないことでたいへんな悲しみを感じてきたので今度のことはとてもよくわかりますがあまりにも理解を超える悲しみでやっと地震が通り過ぎたと思ったら今度は大津波でどうして神様はそんな苦しみを人間に与えるのかわかりませんが何か意味があるのだろうと思います。地震のことの意味はよくわからないけど何か意味があるとしても悲しすぎると思います。人間にはまるで何もできないというみたいに見えますが人間にも知恵があるので人間として知恵を出すときだと思います。地球規模の異変が起こっているのではないかと心配ですが何万年もぼくは生られるわけではないのどほんとうのことはわかりませんが先生は何か知っていますか。

 もちろん、私に答えられることは、この地震と同じような規模の地震が起こったのは、1000年も前の平安時代であるということと、こうしたことが長い長い地球の歴史が繰り返されて、あの三陸のリアス式海岸の独特の地形も生まれてきたということぐらいだった。
 そして、自分のことに話は向かった。

 小さいときからぼくは何もわからないと言われてきたけどこうしてわかってもらえてほんとうによかったけど勇気を必要としています。なぜならどうしてもぞんぶんに生きるという気持ちになれなくなることがあるからです。でもこうして気持ちが言えると勇気が湧いてきますからまた会いたいですのでよろしくお願いします。

 ◇◇君は、冒頭に、明らかにこの大震災のことを言っているにちがいない一文を書いたあと、話がまた別の方向へと切り替わっていった。

 聞いてもらいたいことがあります。万人にいいおつかいの天使はいないのでしょうか。理想は理解者を増やすことですがなかなかうまくいきません。満足のいくような私たちのわかりかたはないのでしょうか。わずかなあかりしか世の中にはさしていません。部分的なものにとどまって私たちをそれなりに迷いから解き放ってくれますが本格的な理解はほど遠いものです。夢の中にいるみたいです。未来がまだまだぼくたちには遠いものになっています。みんなも悩んでいることでしょうね。人間はなぜ何においても理解を超えたことがあるということに気がつかないのでしょうか。ぼくたちのような用なしのような存在にも心があるということにもっと気づいてほしいです。人間として認められたいですがなかなかぼくたちのことには目が向かないようです。だからぼくたちも世の中に気持ちを訴えていきたいです。春しか待てないのは寂しいです。理解される日を待ち続けたいです。ぼくの言いたいことは以上です。

 ここで、お母さんが、理解してあげられていないのは家族のことなのかしらと尋ねると、

 家族では思いません。闘いの文章です。世の中です。世の中を感じるのはテレビなどです。ぼくたちなどいないかのように話が進むことです。地震がまさにそうです。ぼくたちの仲間のことなど出てきません。福祉ネットワークは特別ですがぼくたちのような障害の人は出てきません。

 ここで、話が地震のことへと一巡して戻ってきた。そこで、最初は地震のことから始まったのに、なぜ話が変わったのかを尋ねてみた。

 それは悲しさだけだから書く言葉が見つからないからです。神様のことは真剣に考えると信じられなくなります。なぜならあまりにも理不尽だからです。ぼくたちの障害もそうですが理不尽なことがあればあるほど神様なんていないという気持ちになってしまいますから何も言えませんがそれでも何かの違う意味でもあるのかとぼくなりに考えていますがそんなふうに思うことが被災した人に悪くて何も言えなくなりますから困っています。よくわからないけど神様よりもいつかわかると信じてきました、ぼくの障害の意味が。選んだわけではありません。何かの意味があると何度も信じようとして少しずつわかり始めたところでしたがよくわからなくなりそうです、この地震で。

 この大きな理解を超えた大きな災害の前に、自分の障害の意味がまたわからなくなりそうだという沈痛な思いが語られた。そして、彼が、この地震の意味を問うということ自体が、苦しみのさなかにある被災者に対して悪いと述べていることも決して見落としてはいけないところだ。
 そして最後に、桜の花の詩を聞かせてくれた。

いつか桜の木の下で
ぼくは疲れた体を横たえて 花びらにうもれてしまいたい
桜の花を待ちながら 今年もぼくはそう願う
桜といえばにおいのように 思い出が静かに浮かんでくる
桜の花と聞くたびに 心は春につつまれる
桜咲く日という言葉 だれかが口にするたびに 勇気がぼくに湧いてくる
ぼくにも心があるように きっと桜も心を持って
みんなのしあわせ願いつつ 静かに生を終えていく
ぼくにもどんなによい花が咲いてくれるか知らないけれど
ぼくもいつか桜のように幸せを祈りながら咲いて
人間として理想の花を咲かせたい
見渡す限りの春がすみ いつ桜は咲くのだろう
それを祈って春を待つ
2011年3月29日 16時00分 | 記事へ |
| 自主G23区2 / 東日本大震災 |
2011年03月28日(月)
きじの奏で
 大野剛資さんが、詩集「きじの奏で」を出版しました。4月1日発売です。
 次のようなチラシができました。
 大野剛資さんの独特の世界がつまった、すてきな詩集です。ぜひ、お読みください。

 
2011年3月28日 00時47分 | 記事へ |
わかそよ結団式の会場で
 5月22日、第15回若葉とそよ風のハーモニーコンサートが開催される。その結団式が開かれた。その会場で、ひさしぶりにYさんに出会った。2年前、やはり同じ練習会場で深い詩を聞かせてくれたYさんに新しいはありますかとたずねると、かすかにうんとうなづいた。そこで、休憩の時間を利用して、パソコンを開くことにした。そして次のような詩がつづられた。

 勇気が出そうです。新しい詩ができました。

微妙な力を人間として 私はきっと身につけて
よい未来に向かって 人間らしく生きていこう
私の夢はろうそくのろうのように 溶け出して
もうそんなに残っていないけれど
光はまだ消えていない
勇気さえあれば私もきっとほんとうの夢をつかめるだろう
人間として理想を持って
よい霊魂を大切に ここから再び立ち上がろう
人間として瑠璃色の頭巾をかぶり
小さな瑠璃色の私の瞳を大切に
どこまでも


 ろうそくという表現をする人は多いが、夢がろうのように溶け出すという切ない表現は、Yさんの独特の悲しい表現だが、それを見すえるまなざしの強さも感じられる。
 また、素晴らしい詩が一つ生まれた。
2011年3月28日 00時32分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2011年03月25日(金)
Tさんからのメール 大震災のこと
 地震後にTさんから届いたメールを紹介したい。今、みんなで5月22日に開催する若葉とそよ風のハーモニーに向かった取り組みを開始している。今年のコンサートは、特別なものになりそうだ。

 今日はとても寒くて何もする気がしませんでした。友だちは手も寒いので手を組んでいました。
 日本は地震で大変なことになってしまいました。とてもたくさんのひどい目にあった。とてもたくさんの人がなくなりました。おそろしいことが起こってしまった。とんでもない被害が出てどうしようもできない状況になっている。なかよしのおばさんの家も被害にあった。ひどいことになった。何でこんな災害が起こるのだろうか。明日になればすべてがうそだっとなっていればいいのにと本当に思う。みんなが元気に会えればいいのにと思う。お友だちに会えるとどんなにかいいのにと思う。本当にひどいできごとでした。
2011年3月25日 23時48分 | 記事へ |
| 青年学級 |
2011年03月23日(水)
大震災をめぐる思い 
 日本中が悲しみに包まれている中、視覚障害の重複した人たちと、何とかいつもの関わり合いを持つことができた。計画停電やガソリンの事情などで定例の会もいくつか開けなくなっているが、こんな時、うまくお会いできた方々の言葉は、おそらく同じ立場の多くの人たちの思いをどこかで代弁しているはずだ。
 最初は、まだ10代半ばの少年の言葉だ。長い文章のなかに次のような一節があった。

 災害のことがとても気になっています。みんなほんとうにかわいそうです。みんないつまで避難生活をしなければいけないのでしょうか。早くもとの生活にもどれるよう祈っています。なんとか早くわずかな希望でもみつけられたらと思います。

 この「希望」という言葉は、平穏無事に生きなおこの状況の中においても特別の困難を抱えずに生きている私たちがこの災害をきかっけに思い出した言葉としての「希望」ではない。彼が日々切実に抱き続けてきた「希望」を今被災地の方々に共感的に感じつつ語っている「希望」だと思う。
 二人目は20代の女性だ。彼女は冒頭からこのように始めた。もちろん、一人目の少年の文章をじっと耳をすませて聞いていて、それを引き取るように始めたものだろう。

 いい天気だけどゆいつ今悲しいのは地震です。 なぜ悲惨なことが起こるのでしょうか 。私たちも理不尽な障害に苦しんでいるけれどもっともっと理不尽なできごとでした。 私は悲しくて毎日泣いています。 ずっとどうしてこんな災害が起こるのかわからなくて悩んでいます。夢ならさめてもらいたいです。わずかな希望は私たちと同じでろうそくのあかりが何とか輝いていることです。勇気がほしいのも同じです。私たちを何とかして理解してほしいということです。私たちはまるで津波のあとに取り残されたようなものです。なかなか救いの手が伸びてきません。どうしてなのかわからないけれど私たちも救いの手を待っています。じっとしているだけしかできないけれど早く救われたいです。
 理不尽さに耐えるというところに共感の根拠があるということになるのだろう。この後、自分をもっと理解してもらいたいという思いへと文章は続いていった。
 3人目は、同じく20代前半の女性である。

 みんなもやはり地震のことを考えていたのですね。私も毎日考えていました。

 このように書いたあと、彼女のは理解されない自分の状況の話へと移っていき、力強く「分相応の人生は絶対にいやです。」と書いた後、次の文章へと移っていった。

 茫然としていました。どうして私たちだけでなくあんなにたくさんの人が亡くなったのか。小さい子どもまで亡くなったなんて人生をまだ全然楽しんでもいないのにどうしてなのかわからないけれど何か意味があるのではないかと思っていますがなかなかよくわかりません。

 こうした茫然と立ちすくむしかないような出来事を前に、懸命にその意味が何なのかを問おうとしている。この問いにはおそらく普通の意味での正解はないと思う。この悲しい出来事の後、その人が生きることによって作り出していったものが一つの答えとして、ずっと先になって意味としてもたらされるのではないかと私は思う。しかし、こうした問いはとても大切にちがいない。そして、彼女は、この問いは、初めて抱いた問いではない。まさに自分の障害に対して繰り返し抱いてきた問いだったのだと思う。
2011年3月23日 19時22分 | 記事へ |
| 自主グループ(視覚障害) |
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