都内の特別支援学校にうかがった。午前中だけの短い日程だが、3人のお子さんとゆっくり関わることができた。ここでは、その中の一人の中学生の女の子について紹介したい。
この学校では、何人かの子どもたちの秘められた言葉の世界のことが明らかになって、主として手書きの援助によって子どもたちとのコミュニケーションが非常に豊かにとれるようになった。そして、授業は劇的に変化した。夏に、研究会の発表で、えら呼吸の話までする内容になったという話もうかがった。
そのような中で、先生たちから言葉の可能性を感じるので挑戦してほしいと言われて関わった生徒さんなので、私としてはその先生方の感性に身を委ねるだけでよかった。だから、迷わずワープロに挑んだ。
そして、お母さんが懸命に見守られる中で、すぐに文章が綴られ始めた。
おかあさんいつもありがとう
しあわせです
○○○のことをいつもかわいがってくれてかんしゃしています
これからもよろしくおねがいします
よろこびでむねがいっぱいです
てがつかえてうれしい
ねがっていました じぶんではなしができるようになることを
このすいっちすてきですね
すらすらとかける
ふしぎです きもちのとおりにじがかけていくので
ここで、どうして文字がわかるのと尋ねてみた。すると、
ちいさいときにかあさんがおしえてくれました
と答えが返ってきた。
彼女のこういう言葉を見ながら涙ぐんでおられたお母さんが幼少期のことを話された。話し始めて1ヶ月の間、よくしゃべっていたのだが、その時期におふろで50音表を見せていたというのである。そして、突然、彼女は話すことができなくなってしまい、表を見せるのもいつかやんでしまったそうだ。短いやりとりだったがそこにはお母さんのかつての無念の思いがにじんでいた。
ことばがなかなかはなせなくなってからとまどっていましたけれどずっとじのべんきょうはしてきたのでこのぐらいはかんたんです
いったん覚えてしまえば、日々、文字の学習は続く。なぜなら日本にいる限り、周りに文字はあふれているのだから。だから「これぐらいはかんたん」なのだそうだ。おそらく、障害者用に開発された様々な機器やソフトの存在も知っていたのだろう。スイッチに関する「すてき」という指摘も、いろいろなスイッチを経験してきたことが背景にありそうだ。
さらに、
それにせんせいがたのしくてほんとうにおもしろいです
という言葉が付け加えられた。これは、私がいつも、相手に対して、あなたが言葉を理解していることを私はわかっているつもりだということを伝えるために、いろいろなことを直接語りかけていること、そして、それが普通たわいもない冗談のかたちをとることが多いから、述べられたものだろう。こんなふうに言われると、子どものようにうれしくなってしまう。
てをつかえないきもちがわかってもらいたかったけどわかってもらえてうれしいです
これがこの日の最後の文だが、6文字目から8文字目までの3文字は、お母さんにスイッチの援助を代わってもらって書けたものである。初めての援助で、わからないことだらけだったのだろうけど、見事に読み取ることがおできになっていた。しかも、選択の際に、彼女と表情でもやりとりしておられたので確実さはいっそう増した。懸命に取り組まれる姿に、想像とはいえ、言葉を失ってからこれまでの日のお母さんの思いがおのずと重なり合ってきて、深く胸をうたれた。
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2008年10月21日 13時10分
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学校 |
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妻が参加している埼玉県内のグループがある。私はいつもスケジュールがあわず、うかがえないのだが、今回はたまたま参加でき、3人の方に関わった。
最初の方は、24歳の女性だった。このグループ自体への参加がまだ日が浅く、2スイッチワープロに挑戦するのは初めてとのことだったが、思いほか、スムーズに言葉が綴られていった。
まず自分の名前を練習として書き、スイッチのことに触れたあと、さっそく気持ちが表現され始めた。母への感謝の思い、なかなか理解されなかったこれまでの日々のこと、しかし、今が幸せであることが語られた。
これまでの、いろいろな方々の言葉と通じ合う内容も多く、この言葉を24年間の沈黙の末に綴ったことの重みをうまく伝えるのは、むずかしいかもしれない。しかし、息を詰めたような時間の流れの中で、ただただ驚いて見守るお母さんを前に、懸命に思いを伝えることの重さは、一言では言い表せないものがある。
すいっちがかるくてやりやすい
おかあさんさんざんめいわくかけてごめんなさい
なかなかいえずにいたけどやっといえた
かみさまくるしかったけどこれでねんがんがかないましてうれしいです
りそうはふたんをかけないでいきていくことです
しんじてくださってありがとうございます
さんざんごかいされてきましたがやっとわかってもらえてほっとしていますおかあさんいままでほんとうにありがとうございました
そのことばをずっといいたかった
うまれてくることができてほんとうによかったです
どんなにからだをつかうことができなくてもほんとうにしあわせです
ねがいはみんながずっとなかよくくらすことです
ありがとうございました
またよろしくおねがいします
二人目の方は、20代の小柄な男性だ。以前一度会ったことがある。茶目っ気あふれる方なので、まだ、少年のようでもあるが、大人としての文章が綴られた。すでに何度も2スイッチワープロには挑戦しているが、なかなかスイッチの介助がむずかしく、長い文章にならないとのことだったが、今回は、長い文章を綴ることができた。
最初は、まずあいさつから始まり、いつもとは違うスイッチの介助の方法に話題が及んだ。
ひさしぶりです
なんねんぶりでしょう
たいけんしたことのないかんかくです
とてもかのうせいをかんじます
どうやっているのですか
おしえてくださいなぜわかるのですかふしぎです
おもっただけでじになっていきます
ここで、ふだん仕事をしているお母さんから、仕事で忙しくて関われないことについてどう思っているのかという質問があった。それに対して彼はこう答えた。
しかたないとおもっています
だってしごとなんだからどうしようもないでしょう
かあさんのためにはそのほうがいいとおもいます
きっといつもきにかけてくれているのはわかってるからぼくはだいじょうぶです
とうさんもそうだとおもいます
しんじているのだからだいじょうぶです
この後、ご両親の仕事の内容にふれながら
とうさんがなまえがゆうめいになればぼくもうれしい
せかいいちになってほしい
と述べた。
おかあさんは、きっと翌日から安心して仕事に向かわれたことだろう。
時間が思わず経過して、もう一人の方と関わる時間がわずかになってしまったが、チャレンジした。30を過ぎたばかりの男性だが、相手の心を洗うような笑顔をもった方だ。「線路は続くよどこまでも」の歌が好きで、以前彼のためにその歌が流れるソフトを作ったこともある方だ。「テープ」という言葉で、歌をリクエストした。それを聞いたあと、2スイッチワープロに挑戦した。
うたすき
おかあさんすき
かけてうれしい
という言葉が綴られた。彼の場合、今、言葉として発せられている単語と、選ばれている言葉との対応が、私たちにはわかりにくいところがある。だから、まるで私たちが勝手に文字を選択しているようでもある。だが、「ん」を選ぶとき、確かに彼は、「ん」と発声した。発声とワープロの選択の表面的なずれは、別の方でも起こっていることだ。文字の選択が進む事の中で、いつか、この意味も明らかにされていくことだろう。
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2008年10月21日 09時26分
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すでに撮影は終わって、完成を待つばかりの映画「ぼくはうみがみたくなりました」に、出演した☆☆さんが久しぶりにやってきた。それまで、いろいろ悩みを綴っていた、1歳年下の○○君は、話を切り上げ、☆☆さんとのとの会話に移った。なお、いつも文字盤で話をする○○君は、この日、久しぶりにパソコンで話をしていた。私がだいぶスイッチの補助が速くなったので、試してみたら、なかなかいい感じだったからである。☆☆さんは、今年の3月、高等部を卒業し、○○君は現在高等部3年生。もう10年以上前からの友人である。
○○君は、☆☆さんが現れると、自分の文章はとりあえず終了して、☆☆さんに質問を投げかけた。2台のパソコンを駆使しての会話である。
「☆☆ちゃんひさしぶりだね えいがはどうでしたかすごいね のんちゃんのきもちはひょうげんできたの (私が物語だったんだよと説明)さくひんだったのか それならしかたないね でもでられてよかったね もうとりおわったの」
「かんどうしました」
「かんどうできてよかったね」
「えいがではしおりのやくをしました とてもむずかしいやくでした ねえさんの××さんがとてもかわいかったよ」(本当は☆☆さんがねえさん役でした。)
「ねえさんやくのこはどこのひとですか」
「ほかのひとはみんなはいゆうでした」
「じょゆうさんだったのか」
「すごくきんちょうしましたがかんどうしました」
「すごいね めぐりあえてよかったね ついてるね ふかいてーまのえいがですか」
「ふかいてーまでしたよ ☆☆もかんどうしました じへいしょうのしょうねんがおじいさんのためにがんばったところにかんどうしました」
「こんどしょうせつをよみたいです わかりやすいはなしですか」
「そうおもいます すばらしいものがたりです」
ここで、○○君は、表現手段を文字盤に変えた。正確な彼の言葉が手元にないが、おおよその内容を記すことにしよう。
「よかったね」
「はい よかったです」
「えいがにでてゆうめいになったからといってぼくをむししたりしないでね」
「むししたりしないわよ」
「また、いっしょにでーとしよう」
「はい またいっしょにでーとしましょう」
「こんど おかあさんがぼくにないしょでいっているれすとらんにいこう」
「そうしましょう たんじょうびはじゅういちがつじゅうろくにちです ☆☆はこんどじゅうくになります はたちももうすぐです」
ここで会話は終了。○○君は先に家に向かった。そのあと、☆☆さんは、最近の速い援助方法をめぐって次のような文章を綴った。
これすごいやりかたですね すいっちがかるくてらくです もっとゆっくりだったのにびっくりしました このやりかたをみんなができるようになるといいね むずかしいのですか このやりかたをみんなができるようになったらすばらしいですね きたいしています ねがいはみんながなんでもはなしあえるようになることです たくさんのひとがはなせるようになるといいね すばらしいことばをじゆうにつかえることは ずっとねがっていたことです ねがいがかなってうれしいです
そして、さらに、将来のことへと話はふくらんでいった。
けっこんのことがしんぱいです ねがいがののはなのようにはなひらくことをのぞんでいます でもなかなかむずかしいとおもいますがゆめだけはすてずにいきたいとねがっています ほんとうはねがいがかなわなくてもいいからこいがしたいです すてきなだんせいとめぐりあいたいです ねがいはうつくしいじょせいになることです ねがっています
そして、再び、スイッチのことへ。
すばらしいすいっちですね かるくてらくです とてもいいきもちです きもちをひょうげんしたいとずっとねがってきたのでうれしいです ふだんからねがってきました ほんとうのことはわからないのですがねがいはたいせつにしたいです ふだんすばらしいひとたちのなかにいないでわかってもらえなくてもったいないです ねがいはひとりでもおおくのひとにりかいしてもらうことです
4月に卒業して、社会人になり、映画への出演などを経て、いちだんと大人になった☆☆さんがいる。
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2008年10月19日 02時08分
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以前、「美しい諦念」という言葉を語った中学生の少年は、こんなことを語った。今回は、漢字まじりの文章として紹介することにする。
「幸せが希有なのでこの世界ではまちがって受け止められていてせっかくの言葉が言葉として効能書きのように受け止められてしまい残念です。せめて言葉がどうやって書かれたのか知ってもらえたらいいと思う。
元気な子どもは言葉を知ってからずっとしゃべり続けてきたけれど僕たちはけっして何もするわけでもなくただじっと言葉だけを使って生きてきた。しかも一度もその言葉を誰にも話さずに生きてきたので、ノンフィクションのドラマのような世界を過ごしてきた。だから、言葉が研ぎ澄まされてくるのは当たり前のことなのです。いちばん素晴らしいのは芸術家のようにたくさんの人に感動を与えることです。もっと自分のことをちゃんと理解していろいろな人たちにちゃんと伝えられるようになりたいと思う。でも自分の足で神様の言葉を確かめることができればいいと思っています。すばらしいのは、つらくても言葉があることです。言葉があれば話すことができなくても理解してくれればずいぶんと楽です。気持ちは伝えられなくてもたくさんの気持ちの入っている言葉を伝えてくれればそれを考えて一日を過ごすことができます。言葉こそ、ぼくたちにとって必要なものなのです。」
小学校時代、聖書の言葉を聞くのをことのほか喜んだという彼は、まさに、こうして一つ一つの言葉をかみしめながら生きてきたのである。
そして、彼は、次のような希望を語った。
「提案があります。この文章を手紙にして本を出している会社に送ってもらえませんか。発表したいですが、何とかなりませんか。」
そして、さらに、スイッチ操作については、次のようにつけくわえた。
「スイッチが軽くて不思議です。もっととてもゆっくりだったのにどうしたのですか。言葉の速さに近づくので楽です。もっと速くても大丈夫です。」
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2008年10月17日 10時05分
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通常学級で学び、ゆっくりとであれば話すこともできる小6の女の子が、最近、2スイッチワープロで、たくさん語るようになった。今回も、ひとしきり、いろいろな話をしたあと、学校のプリントに話が及び、算数の速度の問題や社会の江戸時代のことなどを一緒に解いていった。口述による筆記で、実力そのものをプリントに反映させるのは、けっこうむずかしそうだったが、実際に2スイッチワープロで語ってもらうと、スムーズに理解していることが語られ、よくわかっていることが伝わってきた。
そこで、次に国語のプリントをやった。そこには短歌や俳句が書いてある。プリントの設問は、字句を問うものがほとんどなので、いきなり説明を求めた。最初にのっていたのは、志貴皇子の有名な短歌、
「石(いわ)ばしる、垂水の上の、さわらびの、萌え出づる春になりにけるかも」だったが、彼女は、こう説明した。「はるになってわらびがはえてきた ぼくのこころにもはるがきた」。簡単な説明だが、後半が目をひいた。そして、それぞれの俳句や短歌に次々と気の利いた説明文がつけられていく。
「古池や蛙飛びこむ水の音」には、「ちいさないけでかえるがしずかにとびこんでとてもしずかさがふかまった」、「妹を泣かして上がる絵双六」には、「しょうがつにきょうだいですごろくをやっているといもうとがいつもまけてないてしまったようすをなつかしんでいる」、「卒業の兄と来てゐる堤かな」には、「そつぎょうのひにむかしきょうだいとあそんだつつみにきてなつかしんでいる」、最後に、「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」については、「なにかかなしいことがあってゆうがたさんぽをしていたらゆうやけがうつくしくていちょうのはっぱがとりのかたちをしてちっていくのをみてはげまされた」と、それぞれ短くても、その短歌や俳句にこめられた作者の感情が的確に表現されている。そこで、詩とはどういうものだと思っていますかと聞いたら、「なにかできもちがしずんでいたりうれしいときになにかをみたりきいたりしてこころがゆさぶられたときにつくられるものです」と返ってきた。これはきっと詩を作ったことがあるのだろうと思って聞くと「ある」という。じゃあ、作った作品を書いてみてと頼んだところ、驚くべき作品が書かれたのだ。全文ひらがなだが、漢字をあてて記しておこう。
すばらしい野良犬もねぐらに帰る夕暮れ時
静かに蝉が鳴いている
蝉の声の抜け殻に
一人暮れゆくその声の向こうに
秋が鳴いている
うちに帰る子どもたちの中から同じ匂いがして
得れない夢が消えていく
でもそこにはただ暮れてゆく姿のままの苦しみがあるだけ
すべて死を忘れた願いが明日を夢見ている
すべて罪を逃れられないとしても
美しい願いが輝いている
鳶の鳴き声に心が洗われ
すべてをゆるすばかりに羽を広げて
望みを捨てないことを誓った
一文字ずつワープロの画面にかなが綴られていく時、意外な言葉や重い言葉が繰り出されてくることに、ただただ、不思議な感動を覚えていた。目の前のまだあどけない少女の普段の姿からは、まったく想像もできない深い世界が誰にも知られずに、豊かに広がっていたのである。
最後に詩について、もう一度コメントを求めた。
ひとりでいつもしをつくっています
だれにもつたえたことはありません
こころのなかにしまっていました
きもちじたいをつたえるよりもいいとおもいます
詩を見て驚いたお父さんは、こう言った。「我が家に詩人が舞い降りた!」
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2008年10月15日 11時48分
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家庭訪問 |
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都内の研究所でのできごと。7月から文章を綴り始めている☆☆さんと関わった。残念ながら、1000字を越えるところでプログラムのミスが起きて、プログラムが終了してしまったので、記録にとどめることができなかった。もともと、1000字を越えることなど、想定せずに作ったものだったからだ。
はじめに、返事として使える体の部位について質問してみた。パソコン以外でも言葉を表現してもらう手段を考えるためである。すると、手については、特に指、口などをあげたが、なかなか自由に使えないということ、気持ちがいい時には声は出せることなどを書き、今日はのどがつらいけれど、書きたいことがいっぱいあるのでがんばるとも付け加えた。
続いて、いろいろな人と話せるようになりたいという願いを書き、どうやったらそうなるのか、スイッチの援助はむずかしいのかなど、いろいろと語った。ご両親にも、特殊な方法のように映るようで、さしあたり、生活の中にどうやって生かしていくか、とまどっておられるようだった。
そんなことをひとしきり書いた後、ご両親のことに話が及ぶ。世界一のとうさんとかあさんという言葉や、とうさんとかあさんがずっと元気で長生きをしてほしいということなどを書く。健康に不安をお持ちのお母さんだから、こうしたひとことひとことが、ずっしりと響いてくる。
そして、お父さんに対して、かあさんを大切にしてくださいとお願いをした。
彼女は、書いている内容がそのまま感情として体の動きに表れるので、家族の話に及んでからは、体中に力を入れたり、声を出したりして、気持ちがひときわ伝わってきた。
ワープロがエラーで終了してしまったので、1000字も書いたということで、休憩をした。そして、一つお願いをした。それは、国学院大学の学生で、彼女のことで卒論を書くために、毎週家庭訪問をしていた女性にメッセージを書いてほしいということだった。
卒業後も、☆☆さんの家族と親しくしている方で、先日、電話で☆☆さんが文章を綴るようになったらとても喜んでくれるということがあったからだ。
以下は、さらさらと書いた手紙である。しっとりとした文面に、☆☆さんの成熟した人柄がうかがえた。
◇◇◇せんせいおげんきですか
わたしはきもちをことばでいえるようになってとてもうれしいです
ねがってのぞんできたことだったのでかんげきしています
こんどおこさんをつれてあそびにきてください
しばたせんせいはずっとげんきです
なつかしいです わたしのいえにきてくれていたころいろいろべんきょうをおしえてくれたことが
めをつかうことはむずかしいですがせんせいのかおはよくおぼえています
ずっとわたしのことをきにかけてくれてありがとうございます
ほんとうにかんしゃしています
でんわでいつもはなしてくれてありがとうございます
またこえをきかせてください
それではさむくなるのでおからだにはおきをつけください
さようなら
「◇◇◇せんせい」にあてて、この初めての手紙を投函したところだ。
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2008年10月14日 08時43分
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研究所 |
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高校生の☆☆さんの文章は直前の大人たちの話題を受けて始まった。この会のメンバーの女性の○○先生のご主人が、☆☆さんのお母さんと同じ町の出身で、家も年代もそんなに離れていないということの話だった。
えんがあるのですねしらなかったです。すごいぐうぜんですね。○○せんせいのだんなさんとおかあさんがちかくにすんでいたそうでおどろきました。
そして、そのまま話題は先生の結婚へ。以下は、先生との対話の中での彼女の言葉である。
せんせいたちはどこでしりあったのですか。おしえてください。がっこうのどうりょうだったのですね。どうしてけっこんしようとおもったのですか。きもちがつうじあっていたのですね。
そして、そのまま、彼女の胸の奥底の思いへと発展していく。
けっこんもしてみたいです。うらやましくおもいます。けっこんできたらいいなとおもいますがなかなかむずかしいかもしれません。のぞみはまいにちいっしょうくらせるいいひとあえることです。けっこんできなくてもいいひとにはあいたいです。どうやればひとりぐらしができるのでしょうか。しりたいですわたしとおなじようなひとはどうやってくらしているのでしょうか。いちどみてみたいです。ねがいはどんなにまずしくてもじぶんのかんがえでじぶんのじんせいをきりひらいていきたいとおもいます。いちばんたいせつなことはつらくてもきぼうをすてないことです。でもりかいしてくれるひとがひつようなのでいつかそんなひとがあらわれるまでがんばりたいとおもいます。いいひとがあらわれたらけっこんしたいとおもいます。きっとそんなひとがあらわれるとしんじています。
いっきに綴られた結婚や自立生活への思い。それが、そんなに簡単な道のりではないことは、誰よりも本人がわかっているはずだ。決して、現実から遊離した夢を語っているのではなく、現実を見据えた上で語っているのである。そして、「いちばんたいせつなことはつらくてもきぼうをすてないこと」だと改めて述べているのである。
今は、まだ、彼女のこうした能力の存在を云々する段階であり、道は遠いが、手話通訳者のように、コミュニケーションの援助が当たり前に行われるようになった時、彼女は、自立生活を営む多くの障害者の仲間入りをすることができるはずである。
最近は、学校でも、「移行支援」などという言葉とともに、将来を見通した指導や援助の重要性が語られるようになった。彼女のこうした思いも、本来はそうした中で受け止められていくはずのものだろう。
自立への思いを強調したあと、彼女は最後に、こう付け加えた。
おかあさんにもかんしゃしています。おとうさんにもかんしゃしています。
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2008年10月12日 12時13分
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土曜日に会った小学4年生の少年の気持ちを紹介したい。
といかけにこたえることができるようになりたい
ぼくのきもちにときどきそわないことをされてこつづいにしみることがあります(いえでおかあさんがいっていた)
()は、「こつづい」という言葉に私が驚いて、どうやってそんな言葉を知ったのか書いてほしいと頼んだものだ。気持ちがうまく伝えられない悔しさがこつづい(骨髄)という言葉にこめられている。
つきをねらっていますがそれだけではうまくつたわりません
けっかでちゃんとこたえられればいいのですがなかなかうまくいきません
私たちは、こちらの問いかけによるコミュニケーションの場合、相手は私たちが想定していることに大きくしばられる。私たちの推測が当たらない限り気持ちは伝わらない。そのあたりの思いが「つきをねらって」という言葉として表現されているのだろう。
その後、お母さんが、学校ではうまく成功するトイレがどうして家ではダメなのかと彼に質問したところ、
すべりやすいからです
くらいのもいやです
えきのといれもきらいです くらいから
と明確な答えが返ってきた。こんな日常生活の一つ一つにコミュニケーションは密接にからんでいるということだ。
その後、彼は、
ひとりでやりたい
と書いて、実際に何文字か挑戦した。少しずつならば選べそうで、今後の可能性を感じた。そして、次のような文章へと続いていった。
たくさんいいたいことがありますのでうちでもできるようになりたい
くやしいことがありました
となりのにいさんのことばでしんたいしょうがいしゃみたいといわれました
いえのことです
ぼくにむかってです
けんこうなこどもになりたいとおもうけどなかなかうまくいきません
むずかしいけどがんばりたい
ねがいはけっこんすることです
いいひとがみつかればいいなとおもうけどむずかしいかもしれないけどがんばりたいいいひとがみつかるまでまちつずけたい
ねがいがかなうようにがんばりたい
うつくしいひとでなくてもやさしいひとがいい
ことばでしゃべれなくてもきもちがつたわればいい
つらい思いを述べた後、そこにとどまることなく、将来の夢へと話は舵をきっていった。小学4年生とはいえ、この夢は、現実とかけ離れた夢想ではない。現実を十分すぎるほどに見すえた夢である。彼が二十歳を迎えるのは10年後。時代が彼にとってもっと暮らしやすいように大きく変わっていることを望むばかりだ。
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2008年10月11日 00時55分
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自主G23区1 |
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相撲ファンの高校生○○君は、秋場所の不祥事に胸を痛めていたらしく、次のような文章を書いた。
みんながねがっていることだからけっしてやおちょうはやらないでほしいとおもう
ねがっていますやおちょうをやっていないことを
すきなすもうがよごれるのがかなしいです
不随意運動が出たり力が入りすぎたりするので、できるだけ力を抜いてもらい、こちらの援助を増やして、よりスピードをあげていくと次のような感想をくれた。
すいっがかるくてやりやすいです
ふしぎですかんがえただけでかけていくのが
けっしてできないとおもっていましたこんなにらくにてをつかえるとは
すごいほうほうですね
つぎつぎにもじがかけていくのできもちがつたわります
すごいですね
つかれません
こんなやりとりをしていると、となりの部屋で、私の妻と手書き文字に取り組んでいた中学生の☆☆さんから、メッセージが投げかけれた。今、手元に正確な文章がないが、どんなことを書いてるのということだった。手を添えられて筆ペンで流れるようにひらがなが書かれていた。○○君の文章をまずは、音読して伝えたが、期せずして、仲間同士の初めての言葉によるコミュニケーションが成立した。先輩である○○君は、さらにこう書く。
せっかくことばをつかえるようになったのだからせいいっぱいきもちをつたえてくださいね
そして、また、☆☆さんからの流れるような筆跡の文が返ってくる。感情を率直に表現した言葉だったと思う。それに対して、○○君は、さらにこう返した。
てをつかわなくてもおかあさんはつよいみかたですよ
つぎもまたはなしをしましょうね
たのしみにしています
そして、☆☆さんの手書きという方法について、こう述べた。
てがつかえてすばらしいね
ぼくもちょうせんしてみたいです
じをかくことにむずかしいかもしれないけどがんばりたい
そういうふうに書いていると☆☆さんから、今度うちに遊びに来てというお誘いがあった。それに対する○○君の答え。
しょうたいしてくれてありがとう
きっといつかおじゃまします
おかあさんよろしくおねがいします
☆☆さんは、私たちと一緒に来たらと提案してきた。すると○○君は、次のように帰す。
しばたせんせいはいそがしそうですがだいじょうぶですか
これは、☆☆さんの文を一緒に見ていた私が、スケジュール表を思い浮かべながら即答できないでいるのを見て、配慮して書いた文章だと思う。
そんなところですでに時間を過ぎていたので○○君は
おわりにしましょう
といったんは書いた。しかし、心残りがあったらしく、さらに、こんなことを続けた。この日は、理解してくれる先生が来ていたので、その先生に向けた言葉だ。
せんせいにわかってもらえてがっこうでもよろしくおねがいします
なぜせんせいたちはしんじてくれないのですか
ねがいはおおくのひとがしんじてくれるようになるとうれしい
なかなか理解してくれない先生がいるということらしい。だが、少なくても理解してくれる先生がいるということは、すでに、大きな一歩が踏み出されているということだ。☆☆さんたちをはじめとする後輩たちがもっと歩きやすい道を○○君が切り開いてくれることを期待している。
先生たちの理解を超えて、生徒たちの間にこんな会話がすでに始まろうとしている。こうした声をかき消すなどということが教育の現場で起こっていいはずがない。
最後に、もう一度、○○君から、☆☆さんも含めたみんなに向けて
さようなら
と発せられた。
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2008年10月8日 18時29分
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サウンズアンドシンボルズと呼ばれているコミュニケーション手段(シンボルの絵を使って気持ちを表現するもの)を、目の合図で使って気持ちを表現してきたTさんが青年学級に現れたのは10年近く前のこと。しだいに帰りには飲み屋にも行くようになり、飲んだ席で、パソコンの練習をしないかと行ってパソコンの練習が始まった。足で二つのスイッチを操作して綴ることを始めたが、なかなか言葉が的確に選べず練習を続けてきて、少しずつ進歩してきていたが、長い文章にはならなかった。途中、シンボルをパソコンに組み込んだり、足でマウス操作ができるようにとスイッチを改良したりといろいろ取り組んできた。最初は、夜、8時過ぎにおじゃましていたのだが、だんだん忙しくなって、元公民館職員の松田さんが始めた「共同学習識字の会」での学習におまかせするようになっていった。Tさんが、「とびたつ会」に移るとなかなか会う機会も減ってしまっていた。松田さんとの学習もずっと継続されてきたが、最近、スイッチ操作がむずかしくなったとのメールをもらい、青年学級の後の時間に来てもらうことにした。そして、トマトハウスでさっそく新しい方法に挑戦してみた。上手に動く足ではなく、ほとんど自由のきかない手にスライドスイッチを握ってもらい、こちらがどんどんスイッチのオンオフを繰り返すという方法だ。すると、あんなに、足では選べなかった文字がすらすらと選べていった。
まずは、その感想である。
ふしぎです
きもちがそのままことばになっていきます
じをみつめつずけるのがたいへんです
なかなかのぞみどおりにいきません
てにちからをこめただけでえらべるのでらくです
すいっちがすむーずです
よくわかります
もっとはやくからやっていればよかったとおもう
らくなのでこっちのほうがいい
彼がうまく文字を選べない理由が、字を見つめ続けることのむずかしさにあったとは、まったく意外だった。
のぞみはぐるーぷではなしあうときにやれたらいいとおもう
せっかくのものだからとびたつかいでつかいたいとおもう
ねがいはてをつかってはなしをすることだったからかなってうれしい
なぜよみとることができるの
そのほうほうをみんなにもおしえてほしい
ほんとうにすばらしいやりかただとおもう
まつださんにもおしえてほしい
はやくできるようになってほしい
のぞみはなんにんもできるようになってぼくたちのつうやくをしてくれることです
ここで、誰かに変わろうかというと、すかさず彼は女性スタッフを指名。
◇◇さんこんにちはすんでいるのはどこですか
もしかしたらひとりぐらしですか
どうやってくらしているのですか
と、書く。まだ、◇◇さんとだけでは、うまくいかないが、結構何文字かは読み取れた。そして、最後にこんなことをちゃっかり付け加えた。
ぼくとくらしませんか
ここから場所を居酒屋に移す。飲み物や食べ物が並ぶテーブルの上にパソコンをおいて、飲みながら打ち始めた。その中の一部は以下の通りだ。
ひとりでくるしんできたことをことばでかたりたいとおもう
ほんとうのすがたをしってもらいたい
のにさくはなのようにのおんなのこもしゅつえんしてもらいたい
ぼくのきもちにはそんなひとたちのことがずっときにかかっています
ぼくのきもちしかひょうげんしていないのでほかのひとたちのきもちもひょうげんしてもらいたい
すぎたことをいってもしかたないけなどみらいにむかってぼくたちのきもちをつたえていくひつようがあるとおもう
ねがいはたくさんのひとにりかいしてもらうことです
けっしてまけられません
てをつかってはなせることをよのなかのひとにつたえたいとおもう
りかいしてくれるまでうったえつずけていきたいとおもう
くるしみやかなしみをつたえていかなければいけないとおもう
りかいしゃをふやしていかなけれびいけないとおもう
きっとわかってくれるひとがあらわれるとおもうのでがんばりたい
彼は、青年学級やとびたつ会に通う重度の障害のメンバーの中で、唯一シンボルを使って目で語れることができるので、いろいろな場所に積極的に参加し、シンボルで表現した気持ちをいろいろなかたちで訴えてきた。だが、やはり、うまく話せない仲間の気持ちが気になっていたというのである。
最後に文章はこう結ばれた。
このほうほうではなせるひとがたくさんいるかもしれないとおもうとむねがはりさけそうになる
ぼくはわかってもらっているからいい
でもたくさんのなかまがくるしんでいます
このことをつたえていかないといけないとおもう
ぼくはまけない
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2008年10月7日 15時41分
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前回、青年学級で文章を綴れるようになった▽▽さんが、今回も文章を綴った。午前中、コースに行くことができなくて、午後、時間を見つけて二度にわたった書いたものだ。
はやくかけるのできもちいい
もっといろんなひととやりたい
わたしのきもちのこえをきいてほしい
なかなかきもちをはなすことができないのできいてほしいの
ねがいはすいっちでみんなとはなすことです
ぜったいにできるようになりたい
ねがいはなんでもはなせるようになることです
(おかあさんは何と言っていた?という質問ををすると)
すごいわねふしぎですといっていました
でもしんじられないといっていました
いつおぼえたのといっていました
つらいけどなかなかしんじてもらえません
ほんとうにわたしがやっているのにざんねんです
くやしいけどみんないつかしんじてくれるとおもうからずっとあきらめないでがんばりたいです
ねがいはだれにでもわかってもらってみんなでいっしょにはなすことです
ねがいははやくおかあさんにしんじてもらうことです
ねがいはつらいことやくるしいことをともだちとはなしあうことです
ほんとうになるとうれしい
くるしいことやつらいことはたくさんあるけどそれをはなせばずっとらくになるとおもう
もっといろいろなことをかいてよんでもらいたい
ふしぎですなぜかきもちがことばになっていきます
はやくかけてうれしいです
のぞみはすきなひとといっしょにくらすことです
つまらないずっとかぞくとだけのすいかつは
とまとはうすにいきたいです
のぞみはそのままのみにいくことです
「くるしいことやつらいことはたくさんあるけどそれをはなせばずっとらくになるとおもう」「のぞみはすきなひとといっしょにくらすことです」と、切実な思いが表現されている。そして、そうした言葉の数々は、これまで青年学級でもみんなで語り合ってきたものだ。これまで言葉で表現することはできなかったが、みんなとともに同じ思いを共有してきたことが表現されている。
おかあさんは、信じていないというのではなく信じられないとおっしゃっているのだが、今回も、帰りのつどいの時に見てもらった。そして、無事トマトハウスには行くことができた。だが、強い発作の薬を飲んでいるので、さすがにアルコールはダメということになったが、言葉で表したからこそ、実現したものだ。
トマトハウスでは、いろいろな担当者がスイッチ操作にチャレンジした。早くみんなができるようになればと思う。
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2008年10月7日 15時31分
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青年学級 |
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○○さんがパソコンで言葉を表現し始めて3度目の学級日、さっそく朝から彼も話し合いに参加した。
おはようおひさしぶり
せいねんがっきゅうをたのしみにしていました
せっかくだからうたをうた
(ここでみんなが口々に歌のリクエストを言い始めたので彼も文章を中断して曲名を書いた)
ーともだちのうた
てをつかってはなせてうれしい
ねがいがかなってかんげきしています
ねがっていましたすいっちでなやみをいうことを
◇◇くんはすごいね
がんばっていますね
そんけいしています
りそうのだんせいです
でもなかなかしごとがたいへんそうてすね
このこーすのめんばーにはなぜじょせいがおおいのですか
むずかしいしつもんかもしれないけれどふしぎです
でもそのほうがいいです
うまくいえませんがなかまがだいすきです
そんなふうに綴っているとき、ひかり学級の☆☆さんが、突然入ってきた。ひかり公民館の青年の人数が増えたときに、分かれてできた学級だ。この日はコースの外出で公民館までやってきたらしい。学級の中でもとりわけ障害が重いとされる彼女が突然入ってきたのはわけがある。音楽コースで同じく障害の重い○○さんが、パソコンで言葉を表現するようになったのを知っていた援助者(とびたつ会の松田さん)が、彼女にも可能性を感じてともかくその現場を彼女に見せに来たのだ。たえず手をなめていて、視線の方向も読み取りづらい彼女が○○さんの姿をどうとらえのか。少なくとも外見からは特別な様子は見あたらない。しかし、今度いつ会えるか分からないし、外見にはもはやこだわっても意味がないことは痛烈に思い知らされているので、○○さんの文章が一段落したところでさっそく彼女にパソコンを試みた。まず、操作の説明ということで名前をいっしょに書くと手応えは十分だった。そして、次のような文章が綴られた。
☆☆(名前)
このすいっちはどうしたのですか
ちからがかるくてふしぎなきもちです
うれしいです
とてもむりかとおもってきました
なぜわたしがはなしがわかることがわかったのですか
とてもおどろいています
こどものころからべんきょうしてきましたからよくわかります
わたしのおかあさんにつたえてください
うれしいです
ねがってきました
ことばできもちをつたえることを
とてもかんげきしています
のぞみはすきなひとといっしょにくらすことです
またよろしくおねがいします
彼女が初めて学級に来た日のことを私はよく覚えている。ひかり学級の開級式の時のことだ。車いすで明確な表現手段を持たない方が学級に初めて入ってきた。受け入れ側にも様々な意見があったが、ともかく来ていただいた。ふだんは学級がちがうのでなかなか会うことができないが、わかそよのステージには必ず彼女の姿があった。ステージ上で友だちに囲まれて笑顔にあふれていた場面などが思い浮かぶ。その彼女の思いが十年あまりの時を経て、今私たちの目の前に明らかになった。新しい大きな始まりの予感がする。
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2008年10月7日 12時44分
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青年学級 |
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隔月で通う通所施設に、電動車イスを駆使して町中を巡り、数々の武勇伝を持つ方がいる。基本的なコミュニケーションは、指で丸を作って空中に差し上げる気持ちのいいイエスを初めとして、指さしなどの身振りを交え、ほぼスムーズにできる。もうこの施設に通い始めて数年になるが、世間話はするものの、あえてパソコンを介して関わる対象とは、お互いに考えてなかったように思う。そんな中、初めて、彼に2スイッチワープロを出した。2つ並べたスイッチをゆっくり押し分けることは十分に一人でできると思ったが、そのスピードで表現できることだと、身振りを越えることはないと思ったので、力をあえて抜いて、スライドスイッチの棒の取っ手に手をかけてもらい、こちらがリズミカルにオンオフを繰り返す中で、彼の微妙な力を読み取る方法で挑戦した。以下、彼の文章である。
すごいすいっちがすいすいうごく
うれしい ください
すいっちがこうなったのはどうして
(一人でスイッチを動かして試してもらうと滑りすぎてうまくいかなかったのを受けて)
つよくうごかすとうまくいかないのがふしぎです
つよいうごきのすいっちはありますか
(今は、持っていないということを告げ、続けてもらう)
ふしぎです
おもっただけでことばになっていくこのやりかたをだれがかんがえたの
すばらしい
(このスイッチで、この通所施設の障害の重い方々の言葉を聞き取っていることを説明すると)
かれらにことばがあるとはおもわなかった
このやりかたはすごい
すいっちをたくさんつくってください
つらいきもちでまいにちをすごしているひとがたくさんいるのでがんばってください
こんなことがみぢかでおこるとは
たくさんのコミュニケーション手段を持つ彼の言葉だからこそ、また貴重でもあった。そして、強い励ましの言葉がうれしかった。
いつも、どちらかと言えばいたずらっぽいおどけ役を演じている彼の、本当の心がかいま見えたように思えた。
「本当はまじめな人なんですよね」と声をかけると、空中に指で作った丸が高く差し上げられた。
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2008年10月5日 08時09分
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通所施設 |
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不思議な心象風景を語ってもらった。20歳を過ぎた☆☆さんの文章だ。
したいあそびがあります
とおいところにいって すなにもじやえをかいて においのいっぱいかおるはなをさかせたいのに いじわるなおばあさんがよこからやってきて すなをけちらしてしまった。
ないてばかりはいられないので こんどは においがしない さむいはなをじめんいっぱいにえがいていて ぬりえのようにさいたので うちゅうにらくえんをつくろうと めをみはるようなわたしのみらいにむかって がんばろうとおもった。
けちらされてもまた未来に向かってがんばろうという思いを、豊かなイメージで飾って描き出したものだ。お母さんは、しきりにどうしてこんなに息の長い文章が書けるのかとおっしゃる。しかし、彼女は小さいときからたくさん絵本を読んでもらってきた。私が絵本のソフトを作ったきっかけは、文字の学習にそっぽを向く彼女のためであった。彼女のイメージの世界を育んできたのは、こうしたご両親の働きかけによるところが多いことはまちがいない。
後半、☆☆さんは、こんなことも語った。嫌いな音楽があって、怒りだすとお母さんがおっしゃったので、そのことについて尋ねたのだ。
からだにちからがはいるのはつかれたときびっくりしたためです。
えんかはきらいです
いやなきもちになりますがおこっているのではありません
そしてお母さんについてこう付け加えた。
りかいしてくれているのでたすかります
とてもりそうてきなおかあさんです
プリントアウトしてお母さんにお渡しすると、これ、大切にしてがんばろうとおっしゃっていた。
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2008年10月5日 00時10分
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自主G23区1 |
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隔月でうかがっている通所施設で、○○さんに会った。休みのことも多いので、彼と関わり合いを持ったのは実に1年以上も前のことになる。ちょうどその頃、新しい通所施設が開設され、多くの仲間が、そちらに移るということがあった。それまで毎月通っていた私たちも、両方の施設に隔月でうかがうようになった。
あいさつの言葉を書いてくれたあと、すぐに彼が書いたのは、新しい施設に移って、この5月に亡くなってしまった☆☆さんのことだった。二人は、この施設の中でも格段に障害が重く、二人はよく並んで時間を過ごすことも多かった。
げんきでしたかなか
なかあえなかったけどげんきそうであんしんしました
くるしいこともありました
☆☆さんがしんだことです
☆☆さんがしんでからずっとかなしみがきえません
亡くなってもう5ヶ月が経過したけれど、彼の中では、悲しみが消えないのだという。先月うかがった新しい施設の方でもやはり、同じように重い障害をもった方が、同様の言葉を綴っていた。同じ状況にある者同士にしかわからない、深い絆がそこにあったのだろう。そして、さらに言葉は続く。
☆☆さんはことばがわかっていたのにはなせませんでした
なんでもよくわかっていたのにりかいしてもらえませんでした
このすいっちはできるとおもいます
彼女がこちらの施設にいる時には、私たちは、彼女の言葉を聞き取ることができなかった。まったく動かないその手から、力を読み取ることができなかったのだ。彼は、そういう状況を見ていたのだ。彼には、彼女が「なんでもよくわかっていた」のは自明のことだった。それは、自分自身に重ね合わせれば、疑いようのない事実だったことだろう。しかし、残念ながら、現在の常識では、そんなふうに思える人は、ほとんどいない。
そんな中で、彼は、自分と同じように彼女も言葉を語ることができたはずなのに、と無念の思いを綴った。
ここで、すぐに、彼女が新しい施設での関わり合いで文章を綴れたことを伝えた。すると、彼は次のように答えた。
よかったそのことがきけて
とてもうれしい
なくなってしまったことはざんねんですがことばをはなせてほんとうによかった
くよくよせずにぼくもがんばらなくてはいけない
彼女が一言も発することなく逝ってしまったのではないかと痛恨の思いを抱えていた○○さんにとって、彼女が言葉を話せたことはせめてもの慰めだった。ずっと言葉を話せずにいることや言葉を本当はすべて理解できていることを知られずにいる苦しみは、彼らにしかわからないものだろう。そんなぎりぎりの場所から発せられた言葉だった。
この後、彼は私の読み取りが以前よりも非常に速くなったことをめぐって次のように語った。
すいっちがなぜすいすいことばをしらせてくれるのかふしぎです
(ちゃんと読み取りはまちがってないですか?
)
かけています
うれしいです
このすいっちがほしいです
てがつかえるとすばらしいです
このことをかあさんにもしってもらいたい
かあさんにしらせてもらってとうさんにもしってもらいたい
りかいしてもらえてとてもうれしい
のぞみがかなってうれしい
「おかあさんにおしえたい ぼくがすきだということ めんどうみてくれてかんしゃしています。」という言葉を書いて、部屋中に響き渡る大きな喜びの叫び声をあげたのが、3年前の12月。
「かあさんにいいたい ちゃんとしたありがとうはいえないけどいきてることにかんしゃしています。あいしてくれてありがとう ぼくこどものころからだいすきだったかあさんのこと。かあさんいつまでもともにいつまでもささえあいがんばってりかいしていこう。あしたがあればしんぱいはいらないとおもう」と書いたのが昨年の6月。
彼の心は、いつも家族への思いであふれている。
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2008年10月4日 08時53分
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通所施設 |
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数学の大好きな小5の○○さんの気持ちをひとしきり聞いてから、今日はマイナスの数を勉強した。
つぎはすうがくのべんきょうをしたいです。すうがくならなんでもいいです。すうがくはだいすきですから。
という言葉を受けてのことだ。
マイナスの数が生まれてくるところから、マイナスの数を使った足し算、引き算。そして、かけ算へ。
数直線を使えば、マイナスの加減算の理解は比較的スムーズで、実際の例として温度計や氷点下の意味などを説明した。問題は、マイナスのかけ算。かけ算を累積していくイメージで考えれば、ある程度直線の世界で説明可能だが、やはり、二次元の平面上の面積にあたるものとしてのかけ算のイメージを大切にしたかったので、第1象限と第3象限がプラス、第2象限と第4象限とがマイナスになるイメージを図示した。これは、相当に難解そうだったが、懸命に説明に集中する姿が印象的だった。具体的な例としては、学生時代に勉強したトランプカードの例を出した。
黒いマークのカードは1枚につき2点が増え、赤いカードは数だけ1枚につき2点が減るとし、カードをもらったり渡したりする行為のうち渡すをマイナスもらうとして、もらうー渡すをプラスもらうーマイナスもらうという言葉で表現する。すると、黒いカードを3枚もらう場合、2×3、黒いカード3枚マイナス3枚もらう場合、2×(−3)、赤いカードを3枚もらう場合、(−2)×3、赤いカードを3枚マイナスもらう場合、(ー2)×(ー3)となる。マイナス×マイナスにあたるのは、赤いカードを3枚わたすわけだから6点の増加すなわちプラスになる、という説明だ。まったくの受け売りだが、何とかわかってもらえたようだった。
かけざんはわかりましたがわりざんはどうなりますか。
わりざんの説明はどうやったか、それは、さきほどの二次元の座標での説明をまず、行い、次に、わり算は逆数をかけるかたちにできるので、かけ算に統一できるということを説明した。
すこしむずかしいけどわかりました。とてもおもしろかった。なんでもりかいできたらうれしい。ねがいはがっこうでもやってもらうことです。
そのあと、前回やった☆☆先生とワープロに挑戦。
しばたせんせいいがいのひとともおはなしできてうれしいです。わたしがことばをりかいできることをしっているひとはほとんどいませんが。
短い時間だったが、確実にスピードも速まり、力も抜けてきた。
ところで、非常に興味深いことを今回うかがえた。それは、最初に書いた文章の中で、病院の訓練の先生のことを書いたのだが、その先生の名前がちがっていた。その理由を聞いてみると次のような答えが返ってきた。
なまえをおぼえるのはだいのにがてです。はっきりとききとれないからです。いつもこまっています。ふだんはききとれますがびょういんではききとりにくいです。○○○ちゃん(☆☆先生の赤ちゃん)はききとれました。つねにちゅういをしているわけではないのでむずかしいです。
名前を間違えるお子さんが結構いて、そのことが文章の信憑性に影響を及ぼすことがある。その理由がどうしてもわからなかったが、こうしたことがあるのだと、改めて知ることができた。
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2008年9月28日 22時52分
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研究所 |
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四国へ日帰りで出かけた。ある30代の女性に会うためだ。すでに数年前にお母さんを亡くし、現在、施設で生活をしている方だ。お母さんの生前は、ほとんど、まかせっきりだったというお父さんが現在は、頻繁に施設に通っておられる。お父さんと昼食をご一緒しながら、たくさんのこれまでのドラマをうかがった。とりわけ胸をうたれたのは、お母さんが亡くなる直前に、二首の短歌を残したということで、夫と娘を残していくことの無念さを歌った一首と、実の父母に先立つことをわびた一首だった。
施設について、彼女の居室で関わりをもった。たくさん教材を用意していたわけではないので、まず、「氷川きよし」が好きだというお話を受けて、さっそくパソコンを開き、スイッチ入力で「きよしのズンドコ節」の音楽と彼の顔写真が出てくるソフトを出した。すぐに満面の笑みに出会うことができたが、そのあとの曲の選択に苦労した。
悲しい歌は泣きそうになって、テレビだったらチャンネルを替えようとするともうかがっていたのだが、「なだそうそう」を出してみると、たちどころに悲しくしかもつらそうな顔になる。これはすぐにひっこめた。これまでの経験でけっこう好まれていたしっとりとした歌、たとえば「川の流れのように」「大きな古時計」「贈る言葉」なども悲しそうになるし、「水戸黄門のテーマ」も、ペギー葉山によるしっとりとした「ドレミの歌」も同様だった。そんな中で好まれた歌が「100%勇気」「世界に一つだけの花」「サザエさん」。本当に力強い歌だけが笑顔を呼んだ。
こうしたソフトを通してスイッチ操作に慣れてもらったので、曲名の一部や歌手名を2スイッチワープロで、一緒に書いてもらった。選択の手応えはない。ただスイッチを近づけると手が伸びてくること、手が離れないことが頼りだ。「ゆうき」「せかいに」「きよし」などを一緒に書き音楽をかけ、また名前も一緒に書いたりした。
もっと他に、彼女が好きな曲はないかと、あれこれ考えていると、同行した方が「365歩のマーチはどう?」とおっしゃった。幸いにも、パソコンに入っている。そこでさっそくソフトを出すと、流れ始めたとたんににこっとして、身を乗り出し、じっと画面を見ながら聞き入っている。その様子がこの歌を聞くのが初めてのような印象を与えた。
こうしたやりとりが、しだいに、彼女の感受性の豊かさを伝えてくる。私は、決してワープロにこだわっているわけではないが、ここで、一緒に言葉を綴ることにした。自分の名前を書いたが、あまり反応が芳しくないので、名前に続けて「おとうさん」と一緒に書いて、さらに、「だいすきと続けようか」と提案し。「○○○おとうさんだいすき」という言葉を書いた。すると、どのタイミングだったか、すぐ後ろにいた父を振り返り、すっと手が伸びたのである。とてもすてきな光景だった。
そして、「おとうさん」という言葉がよく分かっていますねという周りの声に、「わかっていなくてもいいぞ」とすかさずおっしゃったお父さんの言葉がずしんと響いた。私はわざわざ東京から彼女の言葉の有無を確かめにきたわけではない、ありのままの彼女と出会ために来たのだと言うことの再確認を迫る一言でもあった。
それでも、続けてにいちゃんと書こうと提案して続く言葉をいろいろ挙げてみた。これは、本当に印象に過ぎないが、「にいちゃんあいたい」に反応があったような気がしたので、そう書いた。
そして、その場に同行してくれていた「おばちゃん」と書くことを提案したが、続く言葉は、いろいろあげたがなかなか納得を得られなかった。
こうしたやりとりの中で、いつもなら当たり前のように書いてきた一つの言葉が使えないことの意味がしだいに重みを帯びて迫ってきた。それは「おかあさん」という言葉である。
彼女にとって、母親の死は、どのように感じられているのだろうか。母への深い追慕の思いは、はっきりとは表現されることなく、彼女の胸の中で静かにあるいは激しく渦を巻いているのではないか。
私がこれまで出会ったどの方よりも悲しい調べやしっとりした響きに、繊細な反応を示してきた方である。もしかしたら、その感性は、母への思いと固く結びついているのかもしれない、そんな思いがしだいに強まっていくのを感じながら、飛行機の時間にせかされるようにして彼女に別れを告げた。
日本列島全体が、一夜にして秋空に変わったすがすがしい一日の終わり、空港で車を降りて振り返るとまさに太陽が、沈んでいく瞬間だった。長い滞在を終えたような錯覚を覚えながら、飛行機に乗り込んだ。
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2008年9月27日 21時32分
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他の地域 |
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すなおにいきたいけどふまんがふんしゅつしてなかなかよくやれないでいる
どこか元気のない様子で現れた○○君が最初に書いた言葉だ。本当は素直な心で生きたいのに、自分のことをなかなか理解してもらえない思いが、自分から素直な気持ちを奪っていく。そんなことを言っているのだと思う。この日、最終的には1000文字を越える文章を綴った○○君だが、そんな力を持っていることがなかなかわかってもらえない。
でもてはもっとあるとおもうのでさいちょうせんしたいとおもう でももうつかれそうです
再挑戦しようというけなげな思いと、でももうつかれそう…という思いの交錯。私も思わず、「僕も疲れたなあ」と、嘆声をあげてしまった。私がこんなところで筋違いの共感をしても始まらないのだが、なかなか動かせない現実が思わずそんな声をあげさせてしまった。言おうと思ったらなんでも言える私と、気持ちを表すこと自体に大きな困難を抱えている○○君とは、全く立場は違っているのに。
そんな葛藤をさらに言葉を重ねて表現しているうちに、
なかなかしんじてくれないけどくやしくてもあきらめないことがたいせつです
という言葉で、ひとまず気持ちの整理をつけたようだった。
ここで、スイッチを持つ役割を別の仲間に交代した。スイッチの操作の援助法を練習させてもらうためである。
練習のために質問に答えてもらうということで、まず「好きな科目は?」という問いに対して「ほけんたいく」という答えをうまく援助することができた。そして「好きなテレビ番組は?」と尋ねられて、「そ」を選んだ後、ナ行でうまく読み取れず、書いては消すと言うことが起こってしまった。そこで、私がちょっと代わったところできた言葉は「そにんそのしとせい」だった。ここで再び交代した。私は密かにこれは「ソニンその死と生」かと思ったが、自信もなく、しばらく経過を見守っていると、また文字を消しては書くと言うことになって、困ってしまったようだった。そして再び代わったところ、突然次の言葉が語られる。
けっこんできたらいいなとおもう
でもなかなかむずかしいかもしれないとおもう
どうすればけっこんすることができるのだろうか
この重い問いにこちらも答える言葉をもたなかったが、何かさっきのテレビ番組と関係はないかと、さっきの「そにんそのしとせい」って何だったのかと尋ねてみた。そして次のような答えが返ってきた。
いいばんぐみはあまりないのでじぶんでつくろうとおもったけどむずかしかった
そにんはだいすきです
さんちゃんねるでいろいろなことをはなしているのをきいてすてきだとおもいます
みんなのことをうったえてくれるのでぼくはすきです
のぞみはそにんとはなすことです
まったくしらないけれどすすんでりかいしてくれるとおもいます
まいにちてれびをみているとときどきであいます
どうすればあえるかな
こんどのせいさくでとりあげてもらえないかな
やはり、あのソニンのことだった。若者の重い心の葛藤に真摯に向かい合うソニンが好きだという。おそらく、結婚の話題が出たのは、ソニンと無関係ではなかろう。自分の心に重く横たわる問いにきっとソニンなら向き合ってくれるだろうと思ったのではないだろうか。
のぞみはすてきなひととめぐりあっていっしょにせいかつすることです
めぐまれないからだでもそのからだでせいいっぱいがんばればかのうだとおもう
よくがんばってゆめをたいせつにしていきたいとおもう
この子に文章が書けるのだろうかと疑いのまなざしを向ける人には、人生を深く悩み抜いている青年の存在がそこにあるという事実は決して見えてこないだろう。11年前あどけない幼児だった彼は、もう立派な若者になった。表面的な知識ならまだまだたくさん教えることができるかもしれないが、一番大切な問いには、もう私たちは正解を用意することはできない。できることは、ただ、ともに彼の歩みに寄り添いながらともに考えていくことだけである。
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2008年9月27日 09時06分
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自主G多摩1 |
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「人間としての当然の願い」と書いた○○さんの文章に出てくる◇◇さんの文章を紹介したい。
▽▽さんの死をめぐる、切々とした文章だ。亡くなった▽▽さんは、生前の文章の中で、◇◇さんのことをこう書いていた。「いつもひとりきりで◇◇くんとめであいずやよろこびをつたえあっているだけです。」互いに、豊かな言葉を持っていながら、その言葉ではとうとう語り合うことができなかったが、いつも目と目で語り合っていた二人だった。▽▽さんが亡くなってから彼に会うのは初めてだ。あれから4ヶ月が過ぎたが、思いをずっと胸に秘めていたのだろう。パソコンを開くとあふれ出すように、言葉が綴られていった。
▽▽さんがなくなってとてもさびしいです
かなしくてしかたありません
つらいひびがつずいてなきたいきもちです
どうしてともだちをおいてさきにいってしまったのだろうか
こいしくてたまりません
うちにいてもそのことばかりかんがえています
くるしいときもさびしいときもいつもいっしょだったのにことばでいつかかいわしたいとおもってきたのにもうそれもかないません
このあいだくやしくてはきました
くつうです
▽▽さんがいない×××はさびしいです
どん底の思いが綴られていく。しかし、言葉は、少しずつ、明日に向かおうとその調子を変えていく。
×××につまらないときみんなでつまらなくならないように×××に▽▽さんをよびぼくたちずっとうちひしがれていないようにすごすことができるようにおねがいしたいです
うすいしあわせしかえられなかったかもしれないけどくいのないじんせいだったとおもいたいです
▽▽さんの人生を「悔いのない人生だった」だろうと思い、▽▽さんを失った思いに一つの区切りをつけ、さらに文章は、この悲しみを越えて強く生きる方へと向かう。
くるしいときのことをおもいだすとこんなことでないてばかりはいられないとおもうのでてんごくの▽▽さんにたすけてもらいながらつよくいきることにしたいです
うらやんでばかりはいられないのでこのからだでいることをほこりにしたい
自らの体を誇りにしたいという究極の自己肯定によってこの鎮魂の文章が結ばれたことによって、私もまた救われた思いがした。
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2008年9月26日 15時52分
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通所施設 |
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人間としての当然の権利と書いた男性の文章の中で触れられていた☆☆さんの文章を紹介したい。
前回6月に文章を書いてもらったとき、その場で手紙を書いて連絡帳にはさんでもらった。さっそく、お母様からごていねいなメールをいただき、次回はぜひ一緒に、ということで、3ヶ月も経ってしまったが、ようやくその日を迎えることができた。ご両親の見守る中で、さっそく文章が綴られる。前回の書き出しが「くやしいですきもちをおかあさんにつたえることができなくりかいしてもらえないです。」だったから、3ヶ月で状況が変わったことがわかる。ただし、「りかいしてもらえない」というのはあくまで文章を綴る力を秘めていたことである。
りかいしてもらえてうれしいです
てがつかえてわたしはそれもうれしいです
もっといろいろなことをはなしたいです
ぬいぐるみのようないきかたはしたくありません
ずっとかんじてきました
ねがいはつよいきもちでなんでもやることです
すぎたことはもどってこないからしかたないけれどみらいにむかってきぼうをもっていきていきたい
らくにできてうれしい
あまりにも多くの同じ境遇にある仲間たちと相通じる思いが、同じ言葉で語られている。感覚がマヒしてしまいそうな自分がこわいくらいだ。理解されること、手が使えることの喜び、ぬいぐるみという比喩、そして過去を食い入るのではなく未来に向かう強い意志…。
そしてさらに次のような美しい言葉に高まっていく。
のぞみはそらのようにすみわたるこころでいきていくことです
のぞみどおりのいきかたはむずかしいかもしれないけれどこどものようにきよらかなきもちでいきていきたい
このように高まった表現を一度自ら鎮めるように次のような言葉が続く。
はずかしいけれどくるしいときはなきたくなります
すてきなひとがすくいにやってこないかとおもいます
そして、目の前のご両親に向けられた次の言葉で、一段落した。
くるしいときはおかあさんとおとうさんがたよりです
これからもよろしくおねがいします
この後、見えないと言われていた目が見えていること、そのことがわかってもらえずくやしかったこと、姿勢のこと、寝る前に決まって手をかりかり動かして遊んでいるのは手が勝手に動くことなど、日常生活の様々なことを話し合った。
そして、もう一度切実な思いが綴られる。
なかなかわかってもらえずいつもくやしかったです
つらいのはがまんできますが
さびしいのはがまんできません
けっこうまいにちたのしくやっているけれどきもちがつたわらないとさびしいです
ねがいはみんなにりかいしてもらうことです
つらさはがまんできてもさびしさはがまんできないという言葉をもう一度かみしめながら、彼女の願いがかなう日に向かってがんばりたいと思う。ただ、もう、彼女は一人ではない。みんなで、つながりあって今を変えていきたいと思う。
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2008年9月23日 01時10分
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通所施設 |
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隔月で通う都内の通所施設で、3人の方とパソコンで関わった。8月時間が作れなかったので、今回は3ヶ月ぶりだった。この日3番目に関わった○○さんは、二人の文章を受けて綴り始めた。
最初は、2回前から文章を綴り始めた☆☆さんのことだ。この日は、ご両親も様子を見にいらしていた。
☆☆☆さんができないなんていがいなことですからぼくはかけるとしんじていました
おかあさんとおとうさんがおはなしをききにくるときいてうれしかった
えがおがきれいなふうふでした
となりでみてましたね
なかなかできないかもしれないけれどあきらないでさへいたらかならずできますからがんばってください
現在の常識では、言葉を綴ることを予測するのは容易ではない☆☆さんだが、○○さんの目には、当然書ける人だと映っていた。私たちが彼女にパソコンを出すまでには、だいぶ時間が経過したから、その間、○○さんはずっと、その日が来るのを待っていたのだろう。「がんばってください」とはご両親に向けられたもの。家でもやれるようにとおっしゃっていたご両親へのエールである。
次は、◇◇君の文章について。◇◇君は、5月に亡くなった女性への思いを切々と綴った。親しい友を亡くした絶望的な思いから始まり、最後は、自分自身が力強く生きていこうという言葉で結ばれる長い文章は、張り詰めた気持ちが一貫して流れる拡張高い文章だった。その文章を聞いて○○さんは、次のように綴る。
◇◇くんがかいていたのはすてき
いなくなってもにんきがあるなとおもう
▽▽さんはかわいいしみりょくてきだからさびしいとおもう
彼もまた、昨年12月に彼女が初めて文字を綴った日に、「▽▽さんはのぞみをかなえられてよかった。てがつかうことができなくてもわかっているひとがたくさんいるけどなかなかいいたくてもいえなくてかなしい。このことはりかいされにくいけれどさんぴめぐるぎろんよりもだいじなのはなかなかはなせないひとのきもちです。」と綴り、5月には、「▽▽さんがなくなってさみしさがつのりかなしみがふえてつらいひがつづいています あうことがかなわなくなってしまいなんとなくくやしい あいたかった とつぜんのことで(…)」と書いていた。
亡くなった方も含めて、○○さんの通う施設には、言葉でのコミュニケーションは難しいと思われながら、パソコンで気持ちを表現できる人が4名いることになる。初めは、何よりも表現することが先だったが、こうして、少しずつ互いに書かれた言葉をやりとりできるようになり、○○さんの中に新しい願いが生まれつつある。それは、次のようなことだ。
ねがいはみんながねがっていることをなんでもいえるようになることです
ねがいはかんたんにきもちをひょうげんできるようになることです
ともだちとどんなことでもはなしたい
もっとかんたんにはなせるといいとおもう
とてものぞめないとおもっていたけどすいっちがみつかってよかったです
このすいっちをなんこもつくってみんなとはなしたい
なんこもあればみんなではなしができます
にんげんとしてのとうぜんのねがいです
すばらしい
ほんとうのすばらしさはみんなとはなしができることです
ねがいをかなえるためにがんばりたい
そのひがくることをゆめみてがんばりたい
人間としての当然の願いがかなえられる日が、まだ、夢見る先のできごとである。「すいっちをなんこもつく」り、「みんなではなしができるひ」の夢を実現すること、あちこちで語られ始めたこの思いがかたちになるために、具体的な一歩を前に向かって出し続けていかなければならない。
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2008年9月20日 13時13分
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通所施設 |
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○○君と☆☆さんが待つ小児科病棟を訪問した。
☆☆さんは、上を向いて開いた私の手のひらの上に☆☆さんの手のひらを重ねるようにして、その親指に軽くひっかけたスイッチを動かしながら、選択の場所に来たら、☆☆さんの親指と手の甲にわずかにこもる力を、私が手のひらで感じ取ることによって選択を読み取っているが、いつものお母さんによる口の読み取りや訪問学級の先生による心拍数の読み取りは、より補助的なものにして、できるだけ手で読み取ろうとした。間に◇◇君との学習をはさむが、2時間近い時間をかけて、つぎのような文ができた。
すばらしいゆめをみてるような
きもちをじでいえました
続けて一文として読むのか、このように区切りを入れるのかはわからないが、とりあえず、このように表現した。前半が「じ」までで、後半がそれ以降である。
訪問の先生は、前回の文章とつながっているのではとおっしゃった。前回は、「せかく(せっかく)うまれてきたすきなゆめかのうに」だったから、気持ちを字で言うことが夢だったかもしれない。
手のひらにじわっと暖かいような感じがわくというふうに表現した方がいいくらいの感覚を拾うのだが、確実に、選択していない時としている時との対比ははっきりしてきた。関わりのたびに☆☆さんの文章のストックが一文ずつ増えていく中で、少しずつ、☆☆さんらしさが、かたちを取り始めている。
○○君は、ここのところ、少し口の動きが悪かったので、読み取りがむずかしかった。今回も、薬の関係で、動きは少し悪いかもしれないとのお話を主治医の先生から事前にうかがっていた。
呼吸に関わる処置を頻繁にはさみながらなので、スムーズに進んだわけではないが、いったんリズムにのると、久しぶりに、明確な選択の意志が伝わってきた。
そして、できた文章。
よどおしねられなくて はゃぬてえ よわくして むり
「はゃぬてえ」という不思議な文字が挟まった文だ。彼は、医療機器や薬の名などを書く時、なかなかうまく書けないことが多い。それは複雑なカタカナの言葉だから当然なのだが、それでも何とか、文字を選んでくる。今回も、何か、そういう言葉を言いたいのだろうということははっきりしていたが、もちろん何のことか私にはわからない。
「むり」については、「むり?」というニュアンスなのかと尋ねると、「そうだ」という合図の口を動かした。
彼は、いのちと向き合ってこの病棟で生きている。一つ一つの医療的な処置は、そういう意味合いを持ったものだ。そういうことをわかった上で「むり?」と聞いているにちがいない。
程なくして、主治医の先生が現れた。文章を報告すると、さっそく、いろいろと彼に問いかけを始められた。やはり、呼吸にまつわる処置のことらしい。そして、先生の問いかけは、さらに、細かな調整の問題へと移っていく。私には、とてもわからない細かな調整だが、彼は、懸命にそれに答えようとする。前にも書いたが、このやりとりは、彼を大人の患者さんのようにきちんと向かい合うやりとりで、主治医の先生の彼への思いがどれだけ深いものであるかを語っている。
私のつたない聞き取りが、彼の生活に直結していくことに、ある厳粛な思いを感じずにはいられない。
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2008年9月17日 00時23分
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小児科病棟 |
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1年ぶりに静岡県に住む少年のもとを訪れた。彼は今年中学3年生。初めてうかがったのは彼が小学4年生の時だった。今回は、やり方を変えたこともあって、全文で1400字ほどに及ぶ長い文章となった。その方法とは、こちらが行や列を進めるスイッチをリズミカルにオンーオフしていく中で、本人の力でオフの動きが遮られることで選択の意志を読み取るという方法である。その文章ので中心的に語られたことは、3つで、まず、体が大きくなってご両親に迷惑をかけていることをめぐる思い、二つ目は、将来のこと、三つめは友だちのことである。それぞれのテーマに沿って整理すると次のようになる。
◆体のこと
前回もこのことに触れていたが、今回は、こんな文章が並ぶ。そして感謝の言葉もたくさん述べられた。ここに掲げたのはその一部だ。
さくねんおあいしてからいろいろなことがありましてえがおがへりました
かるかったからだがおもくなってせがのびてとにかくせわがたいへんになりました
ふたんばかりかけてわるいからとてももうしわけないとおもっています
なみたいていのことではつとまらないとおもいますぼくのせわは
おかあさんやおとうさんいつもありがとう
ねがいはいつまでもながいきしてもらうことです
きもちをつたえられてよかった
きっといつかかなえたいことがあります
これまでのじんせいにこれまでぼくがしてもらったことにたいしておかえしをすることをなんとかしてしとげたいとおもいます
◆将来のこと
自分の体が大きくなっていくことは、大人になっていくことである。将来については、次のように語られた。
じぶんだけではなくねえさんたちにもしあわせになってほしいからぼくはどこかのしせつでくらします
たくさんかんしゃしています
おかあさんとおとうさんがきにかけていることにたいするぼくのいけんです
しらないひととくらしていくのはふあんだけどどうにかなるとおもいます
ずるいかんがえかもしれないけどがっこうをそつぎょうするまでにどうにかなればいいとおもいます
すくなくてもしんじてくれるひとたちのあいだでいきていけたらいいようにおもいます
ねえさんたちにもはやくけっこんしてもらいたいとおもう
ぼくのことはしんぱいしないでいいから
二人の姉の結婚のことは二年前にも語られたものだ。彼は、優しい二人の姉が、自分のことで結婚が遅れたりしたら大変なことだと心から心配している。
卒業後の進路については、ご両親は、もっともっと手元で育てるご方針で、まずは、通所する場所を何とかしようと努力されているとのことだ。それでも彼は彼として、こういう覚悟はあるということを伝えたのであろう。ただ、どこかあきらめた響きがあることが寂しい。大人になるということは、もっともっと夢に満ちたことなのではないだろうか。私がその夢を語り合う存在となりえていないことがもどかしい。
◆ともだちのこと
話は「なぜぼくはりかいしてもらえないのだろうか よくことばがわかっているのにことばをしんじてください」という言葉から一気に友達の事へと展開した。こんなにも言葉を操れる人間であることが、実は学校などには理解されていないようだ。そのことのはがゆさを述べようとして、おそらく彼は、全く表現する機会を持ち得ていない仲間のことに思いが及んだのだろう。自分のことはそこそこに、友達のことが綴られる。
ともだちもみんなりかいしているのになかなかわかってもらえないでいます
はやくみんなにもおしえてあげたいとおもいます
なんとかなりませんか
なんとかしてこのすいっちそうそ(操作)をおしえてあげたいみんなとはなしがしたいとおもいます
たくさんいます でもみんなはなしができません きいてもらえるとうれしいです
そして、友達が言葉を理解していることはよくわかるんだねと問いかけると
よくわかります でもことばではなしたいです どうにかならないですか
と返ってきた。土曜日に埼玉で交わされたやりとりと同じだった。考えてみればきわめて当たり前のこと。権利が平等に保障されていないのだから、この事態が実に理不尽な状態であることは論を待たない。それでも。今はまだ決定的な解決法を私は持ち得ていないのだ。
そんな友達とも出会える可能性をご両親と相談しながら、この場では、スイッチ操作をご両親にも練習していただいて、誰にでも出来るようになれば友達も出来るようになるのではなかと提案し、練習してもらった。以前のほ方法ではむずかしかったが今回の方法ではかなり手応えが得られた。こんなところから突破口が得られたらと、思った。
最後に彼は、今回の方法について感想を述べてくれた。
ふしぎです かんがえただけでことばになっていきます
そこで、考えたけど書きたくはなかったことまで言葉になったということはないかと尋ねると
だいじょうぶです じぶんでやっているきがしない
自分がやっている気がしないということで気味が悪いということはないかと尋ねると
すばらしいです ふしぎですがひとりでやっているかんじです
てがつかえないとおもってきたけどつかえてうれしいです
というように答えてくれた。自分でやっている気がしないけれども、一人でやっている感じがするという感想は、私には心強かった。
そして、最後の最後に、彼はこう付け加えることを忘れなかった。
ともだちのことをまたよろしくおねがいします
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2008年9月16日 22時47分
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7月の終わり、お宅を訪問して、すっかりお酒をごちそうになったあと取り出したパソコンで思いを綴った20代の女性☆☆さんと、都内の研究所でお会いした。この研究所に彼女が通い始めてもう20年以上が過ぎた。
この話をお伝えしておいた研究所の先生が、大変感激してくださり、たくさん質問を用意してお待ちになっていた。
最初の問いは、小さい頃から今にいたるまでずっと「どんぐりころころ」が大好きな理由は何ですか、だった。
すきなりゆうはすてきなかしだからです
きくとむかしをおもいだします
一瞬、歌詞?と思った。だが、あらためて歌詞を思い浮かべると、そこにはちょっと悲しい物語が埋め込まれている。どんぐりに大変なできごとがふりかかり、周囲の働きかけに半ば癒されるも、やはり悲しみは消えないという物語を彼女はどう受け止めているのだろうか。家に帰ってインターネットで検索をしてみると、後になって3番が加えられたという。そこでは、りすによってどんぐりは森に帰ることができるのだが…。その3番は、きっと☆☆さんには気休めの歌詞にしかすぎないのではないか。きっと、泣いても山には帰れないどんぐりの悲しみにこそ、☆☆さんの共感があったのではないか…。そんなことまで想像は広がっていく。
次の問いは、未熟児網膜症でほとんど見えないといわれてきた目についてだ。
ひだりです(左右のどちらで見ているかの答え)
めのまえならみえます
かおはよくわかります
よくにているひとはまちがえます
さらに、文字はどうやって覚えたのかという問いに対しては次の答えが返ってきた。
じはじぶんでおぼえました
えほんでおぼえました
きになることばがあるとくりかえしおもいだしていました
けっこうたいへんでしたががんばっておぼえました
学びへの渇望とでもいうべきものがここにある。おそらく限られたチャンスをしっかりとものにして、みずから文字を覚えてきたのだろう。しかも、くりかえし思い出していたというようなことが、私たちの知らないところで行われていたのだ。
それでも彼女は、こう綴る。
わたしのことをたいせつにしてくれてありがとうございます
よくしてくれてかんしゃしています
ずっとつたえたかったです
しんじてくださってありがとうございます
さらに、思いの吐露は続く。
つらいことはかんがえてもしかたないのでふかくはかんがえないようにしています
きもちをつたえられてしあわせです
そして、当然の願いとして、次のように綴られる。
ぜひいえでもやりたいです
いえでやれるようにおねがいします
ふだんからいいたいことがたくさんあるのでいいたいです
家の話は、また、両親への思いへと続いていった。ここのところ、体調がすぐれない母親のことを心から気遣う言葉を前回は書いていたが、今回もその気持ちの延長線上に気持ちが語られる。
ていねいにそだててくれてかんしゃしています
じぶんではなにもできないからくろうばかりかけてしまってごめんなさい
ねがいはとうさんとかあさんがいつまでもげんきにながいきをしてくれることです
つらい言葉を綴る時は身をよじらせながら、感情を体に表しつつ文章を書き上げた時、彼女の顔には満面の笑みが浮かべられていた。
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2008年9月15日 20時22分
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研究所 |
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高校2年になる☆☆さんが、見学に来られた自分の学校の他学部の先生を前にして、意を決したように次のような文章から綴り始めた。
××××(学校名)のせんせいがみにきてくれてうれしいです
なかなかすいっちのそうさがじょうずにできないのでこまっています
めんどうをかけてもうしわけないのだけどがっこうにきてくれませんか
まだほかにもはなしができるともだちがたくさんいるのでせんせいにあってもらいたいとおもいます
とおいかもしれませんがよろしくおねがいします
控え目な☆☆さんだから、これだけのことを言うには強い思いがあったにちがいない。☆☆さんの学校の先生は彼女がワープロで文章を綴ることをわかってくれて学校でも取り組もうとしてくださっているが、なかなか操作がうまくいかないらしい。しかし本当に困っているのは自分がうまくいかないことではなく、仲間に広げることができないことなのだ。そこで、私に学校へ来てほしいと頼んできたのだろう。
二つ返事で答えられればいのだが、学校にうかがうためには、いくつかの手続きがいる。あいまいな返事をしていたら、こう返ってきた。
わすれて
すみません
わたしのたいせつなつまらないおねがいは。
とてもたいへんなおねがいをしてしまいました
すみません
彼女のお願いが、単なる思いつきではなく、無理は承知ながら、それでも考え抜いた末のものであることがよくわかり、気持ちが痛いほど伝わってきた。それでもストレートな答えができず、いろいろ事情を説明したりしていると、
どうしたらいいのでしょうか
おしえてくれませんか
と書き、さらに切々と思いが吐露されていった。
のぞみはともだちとはなしをすることです
ともだちもきっとはなしたいとおもうから
ともだちもたいへんなおもいをしています
やっとわたしのことばをなんでもきいてもらえるようになってしあわせになることができたからともだちにもしあわせになってもらいたい
(…)
けあるーむのともだちです
たくさんです
たくさんのともだちがはなせるとおもいます
はなしたいです
すいっちがあればはなせるとおもいます
彼女は、目の前の子どもが言葉を理解しているかどうかについては、私たちよりもはるかに見抜く力を持っているのではないだろうか。だからいっそう思いは強いだろう。そして、私たちが知らない「たいへんなおもい」を彼女は身をもって味わい、そしてその「たいへんなおもい」を越えて今話せることの「しあわせ」を味わっている。当事者にしかわからない思いに裏打ちされた彼女の希望に私たちは、答える以外にとるべき道がありそうにも思えない。
障害の重い子どもたちの言葉の問題について周りの私たちがあれこれ議論する時代はもう終わろうとしているのかもしれない。今回の彼女の言葉は、当事者からの正当な訴えである。このきわめて理にかなった訴えに真摯に答える以外に私たちがとるべき道は、ありえないだろう。
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2008年9月15日 07時06分
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自主G埼玉2 |
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夏休みに、仲間たちと話し合いをした時に、みんなに「つらいことはなんですか」と問いかけた○○さんとひと月ぶりに会った。そして、その時のことについての感想を次のように語った。
このあいだのおはなしとてもすごかったです
つよいきもちでないとわたしたちはくらしていかれないとおもう
にんげんとしてかのうせいをしんじてもらいたいとおもいます
もっといろいろなひととやりたいです
彼女たちがおかれている状況には、「つよいきもち」が必要だという。もちろんもっと楽に生きられたらと願わないではないが、彼女は、もっとしっかりと現実を見すえているということなのだろう。そして、その気持ちをいちばんわかり合えるのは何よりも同じ立場にいる仲間たちということになる。
また、この日は、私たち関わり手は4人いたので、かわるがわるスイッチの援助をした。「もっといろいろなひととやりたい」という言葉はその中から生まれてきた言葉だ。まだ、限られた人との限られた場所でのコミュニケーションに閉ざされているが、いろいろな人といろいろな場所で、当たり前に話せること、その可能性を信じて、もっともっと前に進んでいかなければならない。
また、この時一緒にいた学生に、こうも問いかけ、お願いもした。
よくきましたね なにをべんきょうしているのですか
くるまでおねえさんはきたの
べんきょうをときどきおしえてもらいたい おねえさんに
よろしくおねがいします
彼女もまた、学びへの強い渇望を持っていた。
時として、幻想的な物語を綴る☆☆さんは、今回、また、不思議な書き出しから始まった。
えすがたとみまちがうほどすてきでかれんなそのもようをよくみてほしいけど
もようをなんかいもかきかえてしまってとてもこまってしまい
じぶんがさがしていたすてきなねがいがかなえられ
ねがいどおりのほんとうのすがたになることができました
とてもよくなったのでねがったことをわすれてしまうほどでした
ほんとうのものをみつけることができたのでのぞみがかなえられました
でもりそうはまだまだたかくかかげていきたいとおもいます
不思議なイメージだが、今、満たされた状態にあること、そして、もちろんもっともっと理想を高く掲げていきたいということが、伝わってくる。そして、謎解きのように次の文が綴られた。
ほんとうのじぶんにであえるまでけっしてあきらめずにいきたい
せっかくのきかいだからふしぎなことばをかいてみました
どうでしたか
「もよう」とは、自分のこと。多様な自分の姿の中に、ほんとうに自分らしいと感じられる自分がある。移り変わる「もよう=自分」の中に、ようやく自分らしい自分が見え始めてきたということだろう。しかし、本当の自分に出会う旅はこれで終わるわけではなく、もっともっと自分らしい自分に出会うために旅は続けられる。
ふと、絵本「わたしのワンピース」を思い出した。
ところで、彼女もまた、夏休みの集まりのことを語る。その時、ある学校の先生が来られていて、その先生の、空中に描く文字を読み取るという方法で、彼女は自分の気持ちを表現することができた。
このあいだのせんせいはどうしてあのやりかたをはっけんしたのですか
とてもよいやりかただとおもいました
いつかかけるようになりたいです
彼女もまた、いろいろな方法でいろいろな人といろいろな場所で気持ちを表現する事を望んでいる。
そこで、また、かわるがわる彼女の手をとってみることにした。その結果、得られた文章は以下の通りである。
おかあさん
かしすのぷりん(カシスのプリン)
あかさぬ(あかさない)
かかえねる(楽な姿勢についての質問に対する答え)
つき(?)
広がりが楽しみだ。
◇◇さんは、いつもこのブログで紹介する多くの方々とは、ちょっとちがうタイプの方である。それは、彼女が自分一人でいろいろな物を操作できたり、ひらがなを書くことができたりするということだ。小さい時からずっと、文字や数に関する学習を続けてきて、着実に、一歩ずつ力をつけてきた。その◇◇さんも、たいへん小柄ながら高校3年生になった。文字を書く時は、いろいろ対話をしながら言葉を決めて練習することが常なので、この間の夏休みの仲間たちの話し合いの時は、その場に手伝いにきていた学生たちの名前を書いて楽しんだりして、結果的に話し合いに書き言葉で参加することはできなかった。
これまでは、ゆっくりと一文字一文字ペンをもって綴っていくことを大切にしてきたが、もしかしたら、みんなと同じような方法でちがった表現ができるかもしれないと、今回は、2スイッチワープロに挑戦してみた。これまでは、トーキングエイドや50音表のタッチパネルなどにも挑戦してきたが、2スイッチワープロは初めてである。
まず、練習として「おかあさんおとうさんおじいさんおばあさん」と書いてから、本人に任せてみた。すると、ゆっくりゆっくり、選んでいき、次の文章が書けた。
たのしみ かくれんしゅうする うれしい
それぞれ一文字ずつは、ペンで書けるけれども、気持ちの表現してこうした文章をペンで書くのはなかなか大変だ。しかし、音声のガイドがあったり、スイッチを押すだけでいいこうした設定では、気持ちの表現が可能となった。
このことの持つ意味をどう考えていくか、これからの課題だが、一つ、新しい世界が開けたような気がする。
私はパソコンや2スイッチワープロが万能だとはつゆほどにも思ってはいないが、可能性はいつも自由に開いていなければならないと思う。
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2008年9月13日 11時17分
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自主G多摩1 |
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8月の夏休みがあって、町田の青年学級が再び始まった。夏前にパソコンで綴れるようになった二人のことが大変きにかかっていた。7月の1回目の学級日に初めてパソコンが成功したのだが、2回目は私が休まざるを得なかったので、その日は綴れず、9月を迎えたわけだが、女性の方は、残念ながら入院のためお休みだった。
私と同じコースの男性とは、活動が始まるとさっそくパソコンを開いた。活動は、まず、見学の方がいるので自己紹介を含めながら、夏のできごとを語るということで始まった。みんながそれぞれ、話していくのを聞きながら、パソコンでどんどん文章を綴っていった。
つまらなかったこのまえのがっきゅうびは
しばたさんがいなかったのでなにもはなせなかった
くやしかった
このすいっちをだれでもできるようにして
そしてだれとでもはなせるようになりたい
まったくもっともな話だ。だれとでも話せるようになった時、本当に彼のコミュニケーションの障害は取り払われる。
十分その気持ちを受け止めた上で、夏はどうしていたかを尋ねた。すると次のような答え。
ずっといえにいておりんぴっくをみていました
すいえいのきたじまこうすけせんしゅがすばらしかったです
くやしかったのはやきゅうです
せっかくぜいたくなせんしゅをあつめたのに。
自己紹介もお願いした。
ぼくは○○○○○○○です
わさびだりょういくえんでしごとをしています
すいっちではなせるようになってむかしのじぶんとはまったくかわりました
つねにみんなのあとからしかさんかできなかったけど
これからはさきにたってがんばりたいとおもいます
がんばりたいけどのけものにしないでください
つきにかいしかあえないのでざんねんです
初めて彼自身の言葉で表現された自己紹介である。この辺まで綴ったところで、彼自身に順番がまわってきたので、自己紹介と夏の出来事とを音声読み上げソフトで読み上げた。仲間たちも彼自身の言葉による報告を、心から喜んでいた。
さらに、コースで作ろうとしている歌の歌詞のことについても聞いてみた。
ともだちのことについてのうたをつくりたい
ひとりではなにもできないのだけど
ともだちがいればなんでもできる
ともだちのことをおもうとげんきがでてくる
今年度のコース活動に大きな影響を与えるひとことになっていくだろう。
ところで、欠席した女性のコースにはもう一人車いすの女性がいる。単語で意志表意をしたり、手をあげたりできるので、コミュニケーションはある程度とれるのだが、単語も「げんきー」など、限られていたので、複雑な文章を綴るというようなイメージはもたずに、もう10年以上関わってきた。しかし、もはやためらう理由などなかった。
私はコースがちがうので、昼食の時間を利用して、彼女のもとへでかけた。そして、簡単に説明してパソコンを開いて練習をすると、さっそく次のような文章が綴られた。
このすいっちやりやすい
のぞんでいました
もうできないかとおもっていました
うれしい
そこで、食事のあとにまた来ますと約束して、その場を離れた。食事が終わって行ってみると、いつになく早く食べたとのことで、ちょうど終わるところだった。そこで再開する。
とてもむりとおもってきたけどできてうれしい
ともだちとはなしたいとおもってきました
このすいっちはどうしたの ほしい
この様子を、この3月まで学生だった女性が見守っていた。学級には久しぶりの参加だった。
ひさしぶりですねあいたかった
どこにすんでいますか
かいしゃはどこですか
でんしゃでとおったことがあります
何か気持ちで書きたいことはと尋ねると、
ともだちがしんでかなしいです
○○(通所施設)のひとです
ずっとまえです
と綴られ、さらにこう続いた。
ねがいはりかいしてもらうことです
わかってもらいたい
発作が起きてしまったので、ここで中断し、最後、つどいでみんなが歌っている横で、次の文章を綴った。
このすいっちがほしい
○○○さんはやさしいとおもいます りかいしてもらえてうれしい
○○○さんはかわいい ○○○○さんはさっそうとしています
○○○さんはまたきてください
ふしぎですことばがすらすらでてきます
いいきぶんです ねがいがかなってうれしいです
おかあさんにもしらせてください
つねにわたしをしんぱいしてくれているから
ねがいがかなってうれしい
そこで迎えに来たお母さんに文章を見せた。突然のことに驚きを隠せないお母さんだったが、どこで文字を覚えたのという質問をして、実際に書くところを見ていただいた。
がっこうでようごでともだちがおぼえているのをみておぼえた
と答えが返ってきた。
次回がまた楽しみだ。
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2008年9月8日 12時32分
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青年学級 |
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今日、すてきな2編の詩が届いた。○○君の表現手段は、支えられての手がきだが、先日の関わりあいで2編の詩を書き出した。
いつもなら、そのまま受け取るところだが、今回は、意見を求められたので、率直にいくつかの意見を述べた。これだけ立ち入った意見を言ったのは初めてかもしれない。ただ、あくまで私の言葉が詩の中に入ってしまうことは慎重に避けて意見を述べた。
私に詩の素養があるわけではない。ただ、青年学級で歌を作り続けてきたことを便りにしながらの意見である。
だが、彼は真剣に受け止めてくれた。そして、その場で何度か遂行を重ねたけれども、もう一度家で考えてくるからということだった。
そうやって届けられた詩は、2編目が、最後の1ページが抜けていたので、まだ、完成形ではないが、あまりにもすてきなので、紹介することにした。
雨ふりの朝
ぼくがおきると母は長そでをもってきた
「今日は雨でさむいの」
やさしくわらった
ぼくはえがおにつられて笑った
みそ汁のにおいと玉子焼きのにおい
とうめいのグラスがカチカチなった
やさしい時間が今ある
あたりまえの時間がある
それなのにぼくは早く早くとわがままいって
母をあわてさせた
二人だけの朝
にじが出た日
ぼくはおばさんと車イスに乗って出かけた
母でない人と出かけたのは初めてだ。
ぼくが草や花が好きなことに気ずいて声をかける。
「君はみどりの好きな子ですか。私も大好き。」
おばさんの声ははずんでいた。
「いいえ、ぼくは母さんの好きな草や花が好きなんです。」
こころの中でつぶやいた。
おばさんはしらないだろうな、
花の中に母が笑い、
草の中に母が泣いていることを。
ゆっくりと頭を上げると
にじが見えた
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2008年9月7日 01時05分
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2003年秋から、パソコンで少しずつ文章を書くようになり、ほどなく、お母さんと家でも綴れるようになった☆☆さん。私たちとの関わり合いの場では、この2年ほどは、必ず、○○君とパソコンで会話をしてきた。何よりも二人はこの会話を楽しみにしていたので、二人に任せて、いつのまにか時間が流れてきた。
だが、半年くらい前からだろうか、あまり、家でパソコンを開くことを喜ばなくなってきたとお母さんがおっしゃり始めた。たいていのことならば通じるし、わざわざ言葉でなくてもということらしいとお母さんはおっしゃった。
高等部3年を迎え、いよいよ学校生活も残り少なくなってきて、きっと様々な思いをかかえているのだろうにと、二人のやりとりを見ながら、なかなか彼女の世界に踏み込んでいけなかったというのが実際だ。
7月、この関わりの会で、小さな研修会を開き、みんなが通っている養護学校の大先輩の話を聞くことができた。もう40を過ぎた先輩は、卒業してからの様々なドラマを語ってくれたが、それは、少なからず、☆☆さんに影響を与えるに違いないと思っていたが、そのことをきっかけに、少しずつ彼女は家でもパソコンに向かう時間が増えてきた。
そして、次のような彼女の思いが表現された文章が、ファックスで届けられた。
「私、いろんな人と関わって豊かに生きたい。からだがきついときもあるけれどわたしらしくいきたい!」(これは2月1日)
「◇◇さん(大先輩)のように、がんばって夢をかなえよう。」(8月1日)
「私の夢はみんなと旅行に行ったり、なんでもないことで笑いあっていたい!!▽▽では、メンバーの人たちとたくさんおしゃべりしたい。××ではいろんな人に元気と笑顔をたくさんわけてあげたいと思う!」(8月6日)
そして、今日、○○君との会話の合間に、速く綴れる方法として、最近私がやっている方法を紹介した。何か、気持ちを引き出せるのではないかと考えたからである。
まず、この方法への感想については、
「このほうほうをやってみたい どうしてわかるの じぶんでかんがえただけで じがかけるのがすごい ふしぎなきもちです」
と書き、あとは思いを一気に綴った。
「ねがいはがっこうのせんせいにわかってもらうことです どうでもいいようなことはりかいしてもらえるけどほんとうにだいじなことはわかってもらえない (だいじなこととは)じぶんのゆめやたいせつなきもちです ただのうけみのじんせいはいやです ふこうにおもっているわけではないけどちゃんとしたじんせいをいきたい うちではだいじにされてしあわせだけど いつかうちをでるひがくるときにはつねにまえをむきいきていきたい」
社会人になる日が少しずつ近づいていく中で、やはり懸命に、彼女は自分の人生と向かい合おうしていた。しっかりと彼女の思いに向かい合っていかなければならないことを、改めて感じた。
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2008年9月7日 00時33分
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北海道からうれしい便りをいただいた。私がうかがって言葉が綴れたお子さんと、北海道の先生ご自身が、簡単な単語だけれども綴れたということについてのメールだった。
客観性は主観性の向こう岸にあるのではない。主観性が集まるこちら岸に生まれるものだ。
私だけでない人間が関わって、言葉が綴られ、それが二人三人と増えていけば、そこにおのずと客観性が生まれ、そして、いつか、それは当たり前になり、そのうちにそのことの真偽を問う人さえいなくなるはずだ。
自分の気持ちを表現するという人間の最低の権利さえ、まだ実現していない存在が、この現代の日本にいるということ。そのことが明らかになれば、おのずと課題は見えてくるはずだ。
そして、その時、一人一人の言葉の意味が真に問題になってくるだろう。厳しい条件の中を生きてきた人間の研ぎ澄まされた言葉の重さに正しい光があてられるならば、そこに本当の尊厳が見えてくるにちがいない。
今はまだ、夜明け前。しかし、確実に空は白んで来ている。
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2008年9月6日 00時07分
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北海道に来た。8月に開かれた研究会で後先を顧みず、宴会の席で手帳を開き、「この日に行きます」と北海道の先生に押しつけるようにして約束したからだ。
2日間の滞在で、たくさんの生徒さんに出会った。2スイッチワープロを介して関わった生徒さんが9名。いろいろな生徒さんがいた。
1名を除いて、あとは高等部の生徒さん。ぎりぎりの状況から発せられる様々な言葉は、言葉で気持ちを伝えたかったことをめぐる切実な思いを伝えてくる。
その中で目立ったのは、私がどうして初対面の、しかもすらすらと言葉を綴ることができるとはとうてい見なされてこなかった自分に言葉があるとわかったのかという問いかけだった。
私の答えは、明確だ。私だって、目の前の障害の重い方が言葉をすらすらと綴れるということを、出会った印象からは、ほとんど感じ取ることはできない。それでも、これまで出会ってきた多くの方々から、自分の印象はまったくあてにならないこと、相手の可能性は、確かめてみることでしかわからないということを教わってきた。だから、いきなりどの生徒さんにもワープロで挑戦したということだ。生徒のみなさんの問いかけには、ここにいない多くの同じような状況にある方々のおかげであると誰にも答えた。
障害の重い人たちは、みずからあちこちをかけずり回ることは、現状ではむずかしい。まして、遠い北海道に来るなど、そんなに簡単なことではない。
私は、ただ、そんな人たちの思いをつなげに来ただけだと思う。伝えたい思いを胸にいっぱい秘めながら、なかなか言葉で表せない人たちが、まだ、互いの思いをつなげられずにいる。
いつかその思いが互いにつながりあった時、障害の重い人をとりまく状況は変わるにちがいない。
細い糸かもしれないが、また一つつながった。
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2008年9月4日 10時00分
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○○君の文章は、いきない「くやしいこと」から始まった。「くるまででかけたときのこと」「しんごうでとまっているとき」「うしろからいわれた」とのこと。さらに「でんしゃでこのまえむかいのひとにへんなめでみられました」と、言葉をたくさん重ねながら表現した。
彼が何を言いたいか、それは、ふつにこの社会の中を生きていれば、容易に察しのつくことだ。しかし、「つまらないことをいってもむだなのでうまくかわしました」というような表現もあり、○○君自身はそんなにめそめそしているわけではないように見える。それを伝え、それで、君はどう考えるのですかと尋ねてみた。すると、
ねがいはみんなによくわかってもらうことです。てもつかえないしきもちもひょうげんできないのでずいぶんごかいされるけどほんとうはなんでもわかっているのでふゆかいです。
と返ってくる。そこで、さらにその誤解のことについてお母さんから、電車の中で声を出していることや、口を手に入れることなどのことを指摘されたので、さらにその意味を尋ねてみると、
こえはなかなかとめられません。ゆびはかってにてがうごくのをとめるためですからしかたありません。かってにうごくのはなかなかとめられません。しせいをあんていさせるいみもあります。きいてもらえてうれしいです。
という返事。「奇声」とか「常同行動」などと不当に言われるこうした行動の意味を、きちんと解き明かしてくれた。そういうことを綴りながらも、彼の手は、時々私の髪の毛をぐっと握りしめてひっぱったり、指に爪が立ったりもする。これらも、私たちの距離が近いために、手が触れて起こっているにすぎないことを、私は迷いなく理解することができた。○○君たちが解かなければならない誤解は、単に、「文章を書ける力があるとは思えない」というものだけでなく、こうした、意図とは別に起こってしまう動きや体を安定させるために起こしている動きのために、なされている誤解をも含んでいることになる。こうした誤解は、そのまま差別と呼んでもよいものだ。だから、彼らの誤解とのたたかいは、そのまま差別とのたたかいでもある。
ここで、最近よくみんなに尋ねる数の問題について、彼にも聞いてみた。彼が自分で作って答えた問題は、
54−6=48 62÷2=31
そして、それについてのコメント、
けいさんはひとりでべんきょうした
すうがくもおしえてもらいたいといつもおもっている。
さらに、勉強への思いはあふれ出す。
うけられるのだったらだいがくだってうけたい。いまはむりかもしれないけどいつかかなうならうれしい。ゆめはいつももちつづけたい。いってみたいです。
いつか、彼にも、大学で話してもらいたいと思わず、提案した。「いってみたいです」は、そのことに対する答えだ。必ず、約束は果たさなければならない。
このあと、一緒に手をとってカチカチとスイッチの入力を繰り返す方法について尋ねてみた。
くうきのようです。(…)このほうほうはかんたんです。いい。とてもかんたんなやりかたです。
さらに、どうしてこんなに速いスピードでほとんど見て確かめたりしないで正確に綴れるか尋ねてみると、
じぶんのかんがえていることだからまちがうはずがありません
すぴいどがはやいほうがかんたんです。ことばをしぜんにはなすことにちかいからです。
というのが答えだった。実に論理的である。
彼からは、これからも多くのことを教えてもらえそうだ。そして、きっとそれは、私の中にいまだにこびりついている、様々な誤解や偏見を一つずつ取り除いてくれることだろう。
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2008年9月1日 00時19分
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○○君は、1年ほど前に初めて出会い、言葉を綴る力に気づいたお子さんだ。運動の問題については、体が動かないのではなく、周囲からはいたずらのようにして手が出てくると見られやすいところがある。しかも、絵カードの選択などもできるように見えることもあるが、できないことも多く、その力もはっきりしない。そして、笑顔もあるのだが、それが、こちらの問いに即応して生まれるものでもないので、コミュニケーションにも使いにくい。それから4度の関わりをもった。
文章がなめらかになったのは前回から。「ともだちがみんなことばがはなせることがわかってうれしかった ぼくたちはみんなりかいできていてなやみもたくさんもっています わかってもらいたいとこころからおもっています」と書いていた。
担任の先生もお母さんも何とか同じように関わりたいとがんばっていらっしゃって、先生とは最近だいぶパソコンで文字を綴れるようになり始めたところだ。そんなところから、話は始まった。
やさしいほうほうがほしいです
このほうほうはかんたんです
私の新しい方法、すなわち彼に力をできるだけ抜いてもらってこちらが手を添えて一緒に進めていき、彼がその動きを止めるというやり方で、そんなふうに書いた。
そして、お母さんにも一度代わってもらう。しかし、さすがにいきなりではうまくいかない。するとこう書いてきた。
あまりきにしすぎないでいいよ
くろうしなくてできるまでちゃんとまてるから
続いて、スイッチの方法については、多くの人たちと同様に「ふしぎ」と書いてきた。
ふしぎです てにちからがはいるまえからえらぶことがかんたんにできます
ねがいはだれとでもじがかけるようになることです
なめらかに綴れることがわかって、彼はこれまで胸に秘めてきた思いを一気に表現することを思いつく。
ぼくもいいたいことはたくさんあってかあさんにはいつまでもげんきでいてほしいのです
とうさんにもげんきでながいきをしてほしいです
これまでそだててくれてかんしゃしています
もっとからだがつかえたらいろいろなことができてかあさんにせわをかけなくてすむのだけどせわをかけてばかりでごめんなさい
かあさんこれからもくろうをかけるけどよろしくおねがいします
多くの子どもたちが等しくいだいてきた親への思いを、○○君も表現した。終始笑顔を浮かべながら、時おり手をひっこめてしばらく考えた後おもむろに手が伸びてくる姿が印象的だった。
子どもたちはみんな両親の苦労をいちばん近くで見つめてきた。おそらく母たちは、目の前の子どもがすべての言葉に聞き耳を立てているとは思わずに、独り言のように様々な思いを語ってきたはず。そしてその中には、いつわりのない愛情に満ちた言葉もあったことだろう。
そんな緊密な関係の中で醸成されてきた思いに、表現の形が与えられるとき、こういう言葉としてはとしてほとばしり出てくるのだろう。
思いを表現し終わった○○君の文章は、こう結ばれた。
くたびれました
全身に思いをこめて文字を綴ってきた○○君、最後はもうくたくたになっていた。
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2008年8月31日 18時19分
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お母さんとの会話のはしばしに登場していたお姉さんを伴って高校3年生の☆☆さんが見えた。お姉さんは大学生、これまで一緒に来たかったけれど、なかなか日程が合わなかったが、夏休み中ということで、何とか時間をやりくりしてくれたとのこと。
そして、まず、
ねえさんがきてくれたのでずいぶんまえにかいたことだけどまたかきます。
と書いた。そして、目から大粒の涙をポロポロとこぼしながら、次のように続けた。
なかなかりかいしてもらえなくてくやしいとおもうけどやっとことばがつかえるようになったのでばかにされずにすみます。ふつうのがっこうにいきたかったけどねがいはかないませんでした。
時折、姉の方を振り返って、涙を浮かべながらもにっこりと笑う。母とはちがう、感情をともにぶつけ合う関係の姉妹の姿がそこにあった。たとえ悲しい文章でも、こんなふうにポロポロと涙を流しながら文章を綴る姿に出会うことは、ほとんどといっていいほどない。姉に対しては、くやしい思いがそのままストレートに表現されていくのだろう。とても仲のいい姉妹なのに、姉の行く学校に妹は通えなかった。そんな思いも切なく伝わってくる。
そして、「けっこん」という言葉をきっかけにして、文章はそのまま姉へ向けられたメッセージとなっていく。
けっこんだってしてみたいけどなかなかきぼうをじつげんさせることができそうもない。でもねえさんにはいいじんせいをすごしてもらいたいです。ふこうだとはおもってないのでしんぱいしないでください。わたしとねえさんはとてもなかがいいのでたすけあっていきたいとおもいます。うたがとてもじょうずなのでいつまでもうたをわすれないでください。すてきなひとができたらしょうかいしてください。
自分の夢が実現しにくい悔しさを表しつつも、姉の幸せを願っていた。そして涙は、止まることはなかった。
涙とともに綴られる文章は、しかし、とても力強さを秘めたものだ。「ふこうだとはおもっていない」「たすけあって」という表現には、けっして自分を失うことなく自分の今を見つめている☆☆さんがいる。
もちろん☆☆さんの涙は、ねえさんとお母さんの涙も誘ったが、不思議と空気はある明るさを失わなかった。これまでのくやしかったことやこれからの不安などが言葉になっていても、それを分かり合えることのすばらしさが、底に流れていたからだろう。
関わり合いをいつもサポートしてくれるこの学校の先生が、☆☆さんが使用しているスイッチ一式を用意してくださり、姉さんに手渡した。
強い絆で結ばれている姉妹が、細やかな思いのひだを、日常生活の中で、伝え合えるようになればと心から願う。
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2008年8月31日 01時57分
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☆☆さんと○○さんが暮らす病室をひと月半ぶりに訪れた。
最初に関わったのは☆☆さん。だいぶ文字を綴れるようになってきて、今日は何を綴るのだろうという期待と、今回もきちんと彼女の気持ちを読み取れるのだろうかという不安とが交錯する。
試行錯誤の末、たどり着いた方法は、次のようなものだ。まず、彼女の右手の甲を下から包み込むように支えて、親指にスイッチの棒状の取っ手を軽く引っかける。そして、最小限の力で棒を上下にスライドさせて行や文字を送っていき、彼女の選択の意志を手の甲に加わる微妙な力の変化で読み取る。この力の変化とは、まったく体が動かない☆☆さんが、腕全体で言えば開く方向に、手で言えば握った手を開く方向に力を入れようとして生まれる変化のように思われる。実際には、指がかすかに動いたような気がしたり、私と☆☆さんの手の触れる面にもわもわっとした感覚が生まれるというもの。わかりやすいときには確実に感じ取れるが、非常に微妙なものだ。私の手の添え方しだいでも変わる。
一方、軽いけいれんのようにたえず動いている口元の返事をお母さんが読み取る。相変わらず私は読み取れないが、お母さんと先生は、普段はこれでたくさんコミュニケーションをしておられる。ただ、今回、口元の動きはむしろ減ったように見え、その理由が手に集中していることのように思われたのである。
また、心拍数も重要な手がかりで、特に行の選択の方では、手で読み取った動きと心拍数の低下は一致することが多い。
まず、二文字の名前を練習でうつ。この時は、まったく読み取れない。私自身の感覚が手のひらに集中できておらず、また手の支え方も安定していないからだが、この操作の間に、徐々に整えていく。
最初のふた文字は「せか」。比較的スムーズに選ばれた。ところが3文字目で難航する。「せか」が正しければ、「せかい」「せかす」「せかされる」というような単語が推測される。推測は当然あくまで彼女をの意志を追い越してはいけないが、推測しておくと、その行を彼女が選択するかどうかにより集中できるため、読み取りの精度はあがる(ここが非常に誤解を生みやすいところだが)。そして、いったんア行が選択されたかのように見えた。ここが、注意のしどころで、私たちの「せかい」の推測はここでより強まる。しかし、ここで先を急ぐことがもっとも危険なところである。実際、ア行でいいのかと聞いても、口元のサインは、明確な答えを返してこない。この時、お母さんが、☆☆さんの目が泳ぐような動きをして、困っているようだとおっしゃった。いったい何を意味するのか。そこで、大胆な一つの仮説を立てた。彼女の選択の意思表示の力は、明確な一行を示すよりも、その前の一行目から加えられることも多い。ア行が選択されるように見えたのは、カ行の選択の場合だってある。そして、私は、「せっかく」と書きたいのではないかと考えたのだ。そのことは伝えず、もし、「せ」と「か」の間に小さい「つ」を入れたかったのだったら、あとでわかるのでそのまま書いてほしいと伝えた。すると、今度は、カ行ではっきりとした手の動きがあり、さらに「く」が選ばれた。私はひそかにやっぱりそうかと思ったが、あえて口にせずに関わりを続けた。
そういうふうにしてできた今回の文章は次の通りだ。煩雑になるので省略するが、こうしたぎりぎりのやりとりの結果生まれたものである。
☆☆せかくうまれてきた すきなゆめ かのうに
誰もが一度しかない人生を生きている。常識的な意味では彼女の夢をかなえることなどどうすれば可能なのかと頭を抱え込んでしまうところだ。しかし。彼女は語る。「ゆめ かのうに」と。限られた病室の空間の中で、どのような夢が思い描かれているのか。
隣のベッドの○○君は、今日は、表情はそんなに悪くもないのだが、口の動きがとても悪い。動き始めた首も、呼吸に同調した動きで、選びたい行が来ても、なかなか動きを止めたり、動きを変化させたりすることができない。そんな中で、かろうじて唇の動きを入れて、選択を伝えてきた。しかし、綴られた文字は、4文字。「せんひさ」。これは、たぶん、「せんせいひさしぶり」を略したものと思われる。
先生とは私のことではたぶんない。訪問のやさしくて若い男の先生だ。学期中は週3度ある授業が、8月は夏休み。久しぶりに訪れた先生へのメッセージだろう。たった4文字を伝えるだけでも、2度眠くなってしまって、なかなかうまく書けなかったが、彼が時々見せる不安な表情や訴えるようなまなざしは見られない。先生の訪問で9月からまた授業が始まることが実感されて、穏やかな気持ちになったのかもしれない。
なお、☆☆さんの文章は、最初に伝えた。このことについての○○君の感想は聞けなかったが、隣のベッドの様子をずっとうかがっていた○○君。☆☆さんの文章をしっかりと聞いていた。
たぶん、この言葉にこめられた思いを本当に理解できるのは、誰よりもまず○○君であるはずだからだ。
猛暑が一転して早々と涼しい風が吹き始めたが、病室にはそうした季節の移ろいは、気温に関する限り伝わってはこない。しかし、秋は、先生達の訪問とともに始まる。今日の訪問は、夏の終わりを告げる訪問になったことだろう。
☆☆さんのゆめについて、秋、また、○○君もまじえて語り合えればと思う。
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2008年8月28日 09時58分
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小児科病棟 |
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福井県鯖江市にある社会福祉法人光道園。創始者自身が視覚障害者であるこの施設には数多くの視覚障害者が暮らしている。この施設に、点字やその基礎学習のための合宿に行き始めて、20年以上が経過した。途中5年ばかりのブランクがあるが、毎年夏の恒例になっている。
私たちが関わる方々は、多くが視覚障害に別の障害をあわせもったいわゆる重複障害のある方々である。
生活を過ごしている施設で、こうした学習がなされているというのは、おそらく全国的にもきわめて珍しいはずだ。
リベットの学習から点字の学習へと移行していくプロセスなど、私は、この合宿で繰り返し、学ぶ人たちの姿の中から教わってきた。
中に、点字を完全にマスターしている方で、パソコンに接続する点字入力装置を以前お送りした方がいる。機器の関係でなかなか日常では使いこなすのはむずかしいとのことだが、合宿では、どんどんパソコンに点字入力装置を使って文字を入力していく。これだけ入力が巧みなのだが、彼女もまた重複障害者と呼ばれる。
音楽にとてもすぐれた感性をもっている彼女は、いつも、その時に熱中しているアーティストがいる。今年は、レオナルイスというイギリス人の歌手だった。(なお、点字の表記では助詞の「は」は「わ」長音は「ー」となる。)
れおなるいす
かのじょわえっくすふぁくたーのゆーしょーしゃ。
そのひとわぐらみーもしてますよ。
まったく初耳の歌手名、いったい誰と尋ねると、どんどん説明が書かれていく。
れおなちゃんわびょーめいわしってるけれどどーしてなったかなどわわからん。せんせいせい(先天性)はくないしょー。れおなさんわひだりめをうしなってしもーた。
どうやら、視覚障害者の歌手らしい。そして曲名として次のものが書かれた。
ぶりーびんぐらぶ。べたーいんたいむばらーどもあるよ
そして、年齢と出身地について、
23いぎりすろんどん れおなさんわとてもやさしいひとそうに
その後、話は彼女がこの施設に来たという話に発展していく。
れおなさんわいちどここにきたときにわるいことをした。ひをついた。ぱんとじゅーでうたした
れおなさんわそのうたのとーりにならないひとがいるかられおなさんわこまっていますよ。。。
真意はよくわからなかったが、とても愉快そうに語りながら書いていった。これは冗談ととっておけばよいのだろう。
そして、最後は歌の魅力についてたたみかけるように書いていく。
(…)すこしかなしいかしがある(…)れおなさんわみんなをたのしましてくれる。うたをつくったりかばーうたもうたったり。こるよ。ひとりでうたうのじゃなくうしろでするひとがいるよよね。れおなさんわみんなのしらないうたをひとつづつうたうよ。(…)れおなさんわそのうたをきくちからがあるからみんなしるよ。そのうたのすがたがかわからないけれどすごいとおもうよ。そのひとたちやひとりのひとわそのうたをききこんでいそぐあしをとめてきくよ。そのうたがわくわくしないひとよりもわからないよ。そのひとがうたをうたうとそのみりょくがわかるよ。その12きょくよりもたくさんうたがつくられてそのうたらがいいから。(…)
学習のあと、彼女の部屋の前を通ると、レオナルイスの歌がかかっていた。
家に戻って、レオナルイスについて調べてみた。すると、なんと特に障害の事実は記されていない。
その想像上の話にこめられたメッセージはいったい何だったのだろう。ご自分の視覚障害と重ね合わせていたのだろうか。ただ、心の底から楽しそうにタイプを打ち続けていたことだけは事実である。
来年は、また、どんなアーティストの話が聞けるのだろうか。
追記(8月27日):レオナルイスが、北京オリンピックの閉会式で歌っていた、次回の開催地ロンドンの代表として。とても有名な人だったのに、さぞ、彼女は、話し相手としてはりあいがなかったことだろう。
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2008年8月25日 00時45分
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もっとむずかしいべんきょうがしたいと会うたびに言ってきた現在中3の○○君が、最近は、いろいろ教えてもらえるようになったと喜びを書く。
つかもうとしてもなかなかえられないきぼうがてにはいったみたいでほんとうにうれしいです。いいせんせいがいていっぱいおしえてくれます。いろいろがくしゅうをしてちしきがふえました。ねがいはうちでもくりかえしべんきょうをなんどもできるようになっていっぱいちしきがふえることです。
そばにいたお母さんは、私がやらないといけないのかしらとおっしゃると、次のように書く。
おかあさんはふたんになるからいいです。こじんてきにおしえてくれるかたをさがしてほしいです。
その後、夏休み明けの授業でやることをあらかじめ調べておきたいということを綴ったあと、話は、数学のことになった。「○○君が知っている数の計算で、自分で問題を作って答えが出せるものを自由に書いて」と頼むと、次ぎにような式と答えが書かれた。
254−253=1
2222÷2=1111
単に計算を知っているかどうかを越えて、計算の中で起こる数のおもしろさを楽しんでいるように思える計算だ。そうして、こう綴る。
いつもひとりでかんがえています。きっといつかこのことがやくにたつひがくるとおもっているから。しんじてくれるひとがいつかあらわれるとおもっていたから。くくもしっています。ねがいはくのだんのさきをしることです。いつもねがっていますむずかしいくよくよせずわかってくれるひととかずのべんきょうをすることを。こんどはぶんすうについておしえてください。すうがくはだいすきです。いっぱいおしえてもらいたいです。
文字だけでなく、意図的に教えられることなく学んでいること、そして、その動機がきちんと綴られている。全く体を動かすことができず過ごす時間の中で、教科書もなく、具体物もタイルやおはじきも使わず、どのようにして数を学んでいったのか、にわかには想像しにくいが、「いつかやくにたつひがくることを」夢見てひとりで学習したという姿は、学ぶことの原点をせつないまでに示してくれる。
彼には、いろいろなことを教えてくれる先生がついている。彼の学習への情熱がよりいっそう満たされていくことを祈るばかりだ。
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2008年8月24日 23時58分
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福井で出会った20代後半の女性○○さん。全身を弓なりにそらせていた彼女に最初に出会ったのはもう25年も前だ。まだ学校に上がる前だった。小学校の頃には福井市内の福祉センターを借りて3年くらい一泊の合宿をしたこともある。その後、福井にうかがう際には、場所やかたちを変え、お会いしてきた。しかし今回は3年ほど間が空いていた。彼女とはまだ、ワープロに挑戦したことはなかったが、今年会えるとわかると、今年は彼女の思いを聞いてみたいという思いが強くわき起こった。
そして彼女と再会すると、さっそくパソコンを開いた。使ったスイッチはスライドスイッチ。まず名前を綴ってもらい仕組みを説明した。するとさっそく言葉が綴られていった。
よくいらっしゃいましたうれしいです このすいっちすてきですね ください
てがつかえるとはおもいませんでした このすいっちがあればきもちをつたえることができる
ふしぎです きもちがすらすらことばになっていきます
せんせいはどうしてわたしがことばをりかいしているとわかったのですか
のぞんでもわたしにはむりかとおもってきました
せっかくはなすことができるとわかったのだからいっぱいはなしたい
りそうはともだちといろいろなことをはなしあうことですずっとちいさいときからはなしをしたかったけど えられないことだとおもってきました でもすいっちがあればはなせることがわかってうれしいです
そして、
つかれました
と綴られたので、休憩してまたやりますかと聞くと
はい
と返事がかえってきた。
しばらく休憩したあと、再び文章が綴られていく。
せんせいはしばたというなまえでしたか
くるしかったけどせっかくはなしができたのだからこれからはつよくいきていきたい
ここで、質問をした。ほとんど耳を使って綴っているように見えるのだが、どこまで文ができあがっているかを確認しているようには見えない。それが、まわりには不思議なことと映るので、そのことについて聞いてみた。すると、
かんがえていることだからむずかしいことはありません
とのこと。そこで、さらにいつ字を覚えたのかと尋ねてみた。答えは、
がっこうでほかのともだちがやっているのをみておぼえました
というものだった。ここで、おかあさんにメッセージはないかと促した。そうして以下の文章が綴られた。
おかあさんいつもありがとうございます
からだがうごかないためにいちばんなんでもできるじだいをわたしのことばかりにいそがしくて
じぶんのことはなんにもできず ごめんなさい
(…)
ねがいはみんなとしんじあっていきていくことです
きぼうがわいてきました
これからのじんせいをのぞみをたいせつにいきていきたいとおもいます
くるしいこともあるかもしれないけどわたしのじんせいだからいっしょうけんめいいきていきたいです
てがつかえてとてもうれしいです
すてきなじかんをありがとうございました
あまりにも自然に流れた時間に、私と彼女の間に流れた長い歳月のことを忘れてしまいそうだった。彼女は、きっと明日からでも語りたいと思っているだろう。残念ながら、そこまでの環境を整えることはできていない。それは、大きな大きな課題であるが、いつか絶対に越えていかなければならない。
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2008年8月22日 17時31分
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○○君の文章を綴る姿をぜひ見てみたいということで以前関わりの場にいらしてくださった先生に、学校へお招きを受けた。その学校は、彼が小学生の時代を過ごした学校である。お待ちいただいた先生の中には、すでの引退されていながら、○○君とは、ずっと関わりを持たれている著名な☆☆先生をはじめとして、幾人かの先生が待っておられた。
☆☆先生は、すでに故人となった私の先生と大学時代に同期であり、また、こちらも故人となられた私の大先輩の札幌の先生とも縁の深い先生である。この日、この場所に私がいることは、偶然でもあるし、また、そのつながりに導かれてということもあるかもしれない。本来なら、もっと以前に先生方の生前にお会いできていればとの思いも強かったが、やはり時は熟さなければならなかったのだろう。
○○君は、かつての先生方の前で、喜びに満ちた表情で綴り始めた。その表情は、大切な方々に自分のことをわかってもらえる喜びに満ちているように私には思えた。
☆☆せんせいしばたせんせいおあいできてうれしいです
かみさまのみちびきがあってきょうのひがおとずれたことをとてもかんしゃしています
くるしみのひびがきぼうのひびにかわってこのひびをしんじつのものとしてくぐりぬけていくことができます
すばらしいみらいがうつくしいえまきとしいかのようにひろがっています
きのうまでのくるしみはみんなうそのようにおわりとほうもないねがいとのぞみがせかいにみちあふれています
みらいもきっとすばらしいことでしょう
りかいしてもらえてほんとうにありがたいとおもいます
☆☆せんせいけんこうにはくれぐれもおきをつけください。
どのくらい時間が経過したのだろうか。彼は一気にこれだけの文章を書き終えた。「すばらしい未来が美しい絵巻と詩歌のように」という表現など、ただただ驚くばかりだったが、これも、彼が、この日に備えてじっくりと紡ぎ出した言葉にちがいない。
この後、☆☆先生が、いつものようにとおっしゃって、聖書の一節を彼に向かって、自然に語りかけた。彼は本物にしか耳を傾けないということで、小学生の時からこういう時間を作ってこられたとのことだ。その光景は、私の心を激しく揺さぶるものだった。先生は、彼が言葉を表現するずっと以前から、こんなふうにして、真っ正面から彼と対峙しておられたのだ。私は、ようやく、通訳者として子供にそばに立つことができるところまで来たにすぎず、とうてい対峙する域には達しえていないことが、自然に理解された。そう言えば、亡くなった私の先生は、よく「魂と魂の出会い」ということをおっしゃっていたが、その言葉が思い出された。
この日、☆☆先生がお選びになったのは、ご自身が病床にあった時、繰り返し読んだ一節だとのこと。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」というような人間の肉体と魂との関係についてのことが語られていった。☆☆先生の魂から発せられる言葉が、○○君の魂によって確実に受け止められていくという厳粛な光景。
今、私は、「通訳」に忙しい。それは私の目下の使命でもある。しかし、いつか私も、相手と本当に対峙することのできるところまでたどり着きたいと夢想した。
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2008年8月22日 16時59分
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もう数年前のことになるが、ある研修会で報告をしたあと、うちの学校に来てもらえないかと声をかけられた。そこで私は、不遜な申し出をした。見学して意見を言う授業研究だったら私にはそんな力はないので、具体的に子供に関わらせていただきたいと。そして、そのことが実現した。その中で○○君と出会う。担任の先生が私との関わりを希望したとのことだった。このお子さんが言葉をわかっているかどうか私にはよくわからないが、お母さんがそうおっしゃることと、一度だけそれを感じたことがあるということで、まず、ひらがなの学習をひたすら伝えるかたちでやっていることを見せていただいた。私だって、本当に彼がわかってるのかなど判断する根拠はなかなか見いだせない。ただ、その先生の熱意とわかりにくいけれども集中していることをうかがわせる彼の態度だけがその可能性を伝えてきた。そして、2度目の関わり合いで、彼の言葉をパソコンによって引き出すことができた。「おかあさんすき」というわずか7文字ではあるが、大きな一歩を踏み出すことができた。そこから家庭では、口頭で「あ、か、さ、た、な」と聞いていって、わずかな返事を読み取って行をしぼりこみ、さらにその行の文字をしぼりこむという方法での表現方法の追求が始まり、学校では、彼の力を信じて、学習の内容は、どんどんと複雑なものへと発展していった。その後、いろいろな経緯があって、保護者主催の自主的な学習グループとして大勢の生徒さんと出会う場所へと発展していって、今日にいたっている。
彼はいろいろな意味でパイオニアであり、こうした動きを先導していったのは、まさしく彼の強い思いだった。しかし、大勢の人数なので、今回久しぶりに会ったのは、8ヶ月ぶりだった。
そして、読み取りの方法が最近かわったことを伝えて、関わり合いが始まった。するとさっそく、
しばたせんせいすごいね くぐりぬけたんだね
と返ってくる。この日、全文で860文字を越えるものとなったが、最初の数文字で、彼は、新しい方法を理解してくれたのだ。彼は、なんと言っても力強さがその信条だ。
くるしかったけどねがいがかなってうれしいとおもう せっかくだからげんきにはなしたいとおもう
と前置きして、文章が綴られていく。
(…)くるしいときにはくなんのときをおもいだしてきもちをたてなおしている
いつもうらやんでいたおとうとのことをうらやむだけではなくげんめつしていた
しかしことばをはなせるようになってからおれのいきかたはかわっていき つよいきもちできをつかうことができるようになった
くのうは うでのなかでくだけちっていった
げんめつはきぼうへとかわっていった
すうがくのべんきょうやりかのべんきょうはなかなかやってもらえないけどつとめていおうとしてきた
えらぶことはむずかしいけれどいままでよりもずっとましなのでがんばるつもりだ
くなんのときをおもいだしながらきぶんをなおしながらがんばっている
新しいスイッチ操作の方法については、
きもちがいいくらいすらすらとことばになっていくのでおどろいた いいほうほうにきがついたねせんせい
ふしぎでたまらないどうしてよみとれるのか
と書き、さらに
(…)ねがいはだれでもできるようになることだ
ずっとねがってきたけどなかなかかなわないでくやしい
うちでもできればいいけどとてもかないそうになくてざんねんでたまらない ついそうおもってしまう くつうではないけどくやしい(…)
と書いた。そして、前半はスライド式のスイッチと後半はプッシュ式のスイッチ(ビッグスイッチ)でやってみたのだが、プッシュ式のスイッチについて、
このすいっちのほうがかんたんです
ふしぎだどうしてわかるのか
ちからをいれるまえにつたわるのはどうして
と尋ねられたので、運動を実際に起こす前の準備のために加えられたわずかな力を読み取ることにしたことと、実際に運動を起こすといろいろなハンディがそれぞれの障害の状況に応じて起こるけれども、準備のところでは、みんなハンディがほとんどないということを伝えた。
省略したところには、なかなかわかってもらえない悔しさも言葉を変えて繰り返し綴られていた。
彼は、かつて、自分の理解されない状況を「ちかにいた」と表現したことがある。そして、別のともだちがようやく文章表現にたどり着いた時には、
☆☆☆さんのわかっていることをせんせいたちにりかいしてもらえてよかった。りかいしなければやきをいれてやるところだった。はずかしいとおもうべきだ。いままでかかるなんておそすぎたけどきづかれないよりはよかった。いがいせいこそのうりょくのひとつだとしるべきだ。ざのさめないうちにくもんにみちたときをよろこびのときにかえてしまおう。かこのくのうをみらいのかんきにたかめよう。
と書いたことがある。彼はその強い意志で、たくさんの現実を動かしてきた。もちろんまだまだ彼の納得する状況にあるわけではない。しかし、彼は、間違いなく、これからも、「ちかにいた」数多くの存在を世の中に認めさせていくたたかいの先頭に立っていくことだろう。
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2008年8月22日 10時29分
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夏休みの一日、ふだんの個別的な関わり合いの枠を外して、地域のセンターの小さな会議室を借り、数名の子どもたちが集まった。このグループでこうしたひとときを作るのは、かつては、親同士の交流の意味が大きかったが、今年は、子どもたちもともに語り合おうということを事前に伝えてあった。とはいえ、パソコンをそれぞれの子どもの前に並べて、私たちが子どもの援助を代わる代わるにしながらの、語り合いである。
中学生のA君は、この試みについて、まず次のように感想を述べた。
A:いつもとちがってこどもどうしではなせるのがたのしみですりかいしてもらえてうれしいです
そして、高校生のBさんが、みんなに聞きたいことと言って、口火を切った。
B:せっかくのきかいだからそれぞれのきもちをききたいです。きいてみたいことはつらいことはなんですかということです。
初めての語り合いの機会に、いちばん聞いてみたい気持ちが「つらいこと」であるということは、非常に重い現実をつきつられる気がするが、その気持ちは痛いほどにわかる。
そして、この問いかけに対して、さっきのA君と高校生のCさん、D君から答えが返ってきた。
A:くるしいのはべんきょうがしてもらえないことです がっこうじだいしかほんとうのべんきょうはできないのにざんねんです
C:つらいのはさようならをいいたくないともだちとわかれなければならないことです
D:つらいの なやむときは ちいさいときからさみしかった ことばでいいたくてもいえなかった
短い言葉の中に、おそらくみんなに共通の思いがそれぞれの言葉で綴られている。もっともっと勉強がしたいこと、突然のつらい友だちとの別れのこと(この日は、3年半前に亡くなったお子さんの母親もひさしぶりに見えていた。)、長い間、言葉で表現できる力をもっていることを理解されずに寂しく過ごしてきたこと…。少しずつだが、仲間と共有していくことで、新しい世界が開かれて行けばと思う。
このグループで3人以上で会話が成立したのは初めてのことだ。もっともっとこうしたやりとりが成立できる条件をいかに増やしていくか、これからの大きな課題でもある。
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2008年8月21日 22時42分
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すでに言葉もゆっくりとだが話し、地域の学校にも通っている○○さんと、スライドスイッチによる2スイッチワープロに挑戦した。以前にも何度かやってきたが、これまでは、できるだけ本人の実際の動きをもとに綴ったので、短い文章で終わっていた。しかし、今回は、最近私が、もっと障害の重い方々と長い文章を綴るためにとっている方法、すなわち、実際の自発的な運動が起こる前に、運動を起こすための準備として腕に加わったわずかな緊張を積極的に拾っていく方法をとった。もう少し具体的に紹介すると、私が小さな動きで引っ張る方のスイッチが入ったり切れたりするようにカチカチとスイッチを前後に小さく動かしていくと、選びたいところで押そうとしてその準備のための力が腕にこもるとそのカチカチという動きが止まるので、そこで、一緒に押す方のスイッチを押して決定するというものである。
そうやってできた文章はこれまでになく長いものだったが、それだけでなく、本人の秘められた思いがあふれた文章だった。
くるしいことがありましたいつもげんきなおじいちゃんがにゅういんしてこのあいだしゅじゅつをしてくすりをいっぱいのまなくてはならなくなりました。たいへんしんぱいしています。
おじいちゃんの病気のことで、私は知らなかったが、こんなふうに綴られて、初めておじいちゃんの病気のことを知った。
すなおすぎてくつうね このあいだがっこうでぞろりのをしっていて○○ちゃんのくちまねがおかしいといわれてみんなにわらわれてくやしかった。
「ぞろり」のところは私の読み違えかもしれないが、何か、いつも素直にふるまっている彼女の本音が初めてちらりとのぞいたように思えた。彼女の口調をからかわれて悔しかったことがあったということだろう。しかし、すぐに、彼女は、こう付け加える。
けっしていじわるではないとはおもうけどなぜぶうたはくだらないことをいうのだろう。
6年生だがもう大人の○○さんは、むしろぷうた君のことを気遣っているのだ。しかも、「ぷうた」は、偽名で、本当の名前をとっさに隠したとのことだった。
そして、文章は方向を変えて、内なる世界に向かっていく。
かえれるばしょがあったらかえりたいとおもうけどくるしさのなかできぼうをすてずにがんばろうとおもう。
そこからならばもう一度やり直せるような「かえれるばしょ」はもうないことを知ってしまった。しかし、「がんばろうとおもう」。
いますてきなひとがめのまえにあらわれたらうんめいがかわるかもしれない。あいがほしいです。あなたをあいするといってくれるひとがあらわれないかなとまちつづけていますがなかなかあらわれません。すてきなひとにであえたらたのみたいことがあります。すぐにわたしをわるいひとのいないところにつれていってくださいおねがいします。
いつも大切にしながらしかしけっして語ったことのない夢見る少女の世界が突然かたちをとって表れた。
ふしぎですかんがえたことがそのままぶんしょうになっていきます。
自発的な運動を実際に起こす前の動きを拾っていくという方法は、こうした実感をもたらすことのようだ。こうした方法をとってから「ふしぎ」というふうに問い返されることが増えてきた。
もしかしたら、彼女の心の世界に、ほんの少し踏み込みすぎているのかもしれない。本当は思っていても寸前で言わずにおこうとしたことまで、言葉として引き出してしまったら、それは、本人の意に反したものになってしまうことだってありそうだ。そうしたことについては、これから、じっくり考えていかなければならない。
次に、気になっていた算数について尋ねてみた。
5+8=13 23+12=35
これだけでも、ふだん以上の実力が発揮されている。そこでさらに、
100+3=103 1.2+0.1=1.3 6×8=48
15÷3=5 12×3=36 80−72=8 25×3=75
驚くばかりだったが、そこで、「100円の品物にかかる5%の消費税はいくらか」と聞くと
100×0.05=5
「10%の食塩水30グラムの中には何グラム食塩が溶けていますか」には、
30×0.1=3
「100キロメートルの距離を時速20キロメートルで走ると何時間かかりますか」には、
100÷20=5
そして感想として、
かんたんにかけてむずかしいもんだいもふしぎとできたのでかんげきしています。
私も起こっているできごとの意味をどうとらえていいのか、とまどいつつも、これが○○さんの本当の姿だったのだと、あらためて自分の見方の浅さを反省した。
そして、行ってきたばかりの修学旅行の感想に。詳細は省くが、こんな一文が含まれていた。
きっとうつくしいけしきだったとおもうけどせっかくいったのにけしきをみるよゆうはありませんでした。くやしかったけどからだがうごかないのはだれのせきにんでもないのでしかたありません。けっしてだれかをうらんでいるわけではありません。
さらに、
ゆめはけっこんしてこどもをうむことです。うつくしいはなよめいしょうをきてうつくしいくるまでりょこうにでかけたいです。けっこんするのはむずかしいかもしれないけどねがいはもちつづけたいです。すてきなひとがあらわれたらうれしいです。
と再び、夢を綴った。夢を現実にするためには、強く道を切り開く生き方が求められるかもしれない。しかし、彼女ならできそうな気がするという思いが、ふと頭をよぎった。
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2008年8月15日 00時39分
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家庭訪問 |
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小学5年生の○○君と◇◇君は、それぞれに伝えたいことを語ったあと、対話を始めた。学校に上がる前からずっと一緒だった二人は、ようやく言葉を使って会話をすることができるようになった。しかしまだ、スイッチ操作ができる場面は私と出会うときだけなので、二人の間で思いはいっぱい高まっていた。
まず、二人のそれぞれの思いが綴られる。
○○君。「きてくれてありがとう ずっとまっていました つまらないです がっこうがなかなかことばをしんじてもらえません くやしいです きもちを つたえることができたらどんなにすばらしいでしょう。」
◇◇君。「くやしいことがあった みんながことばではなせることをがっこうのせんせいがわかってくれようとしてくれない いいたいことはたくさんあるけどしんじてもらえないとむずかしい なぜせんせいはしんじてくれないのだろうか のぞみはことばでもっときもちをつたえあうようになれることです てをつかってはなせることをはやくわかってもらいたい りかいしゃがほしい べんきょうをしてなんでもしりたい のぞみはことばでみんなとはなすことです。(…)◇◇くんとはなしたい」
そして、二人で一台のパソコンを囲み、スイッチを交代しながら話が始まった。
◇◇君:りかいしてくれるひとがいなくてさびしいね
○○君:くやしいねなかなかわかってもらえなくて
てがつかえるのにだれもてをとってくれないね
すいっちがあればだいじょうぶかな
のぞみはみんながてではなしができるようになることです
よくりかいしてほんとうのきもちがわかってもらえるとうれしい
べんきょうのないようもやさしすぎてつまらないね
◇◇君:すいっちがあってもしんじてもらえないとむずかしいね
しんじてもらえないとてをとってもらうこともできないね
ふしぎだね
ねがいがかなったのにりかいしてくれるおとながすくないなんて
りかいしてくれればおもいをつたえられるのに
(…)
くなんのじんせいですががんばっていこうね
○○君:むずかしいけどなんとかがんばっていこう
なかなかべんきょうもしてもらえないけど
しんじてもらえるようがんばろうね
ゆいいつのゆうじんだからね
ねがいどおりのじんせいになるよういのっていこうね
ずっといつまでもともだちだからね
◇◇君:くるしいときもたのしいときもずっといっしょだったからね
ともだちだからずっとこのままいっしょにいきてゆこうね
○○君:ちいさいときからずっとともだちだからね
よくきもちがわかります
よくよくかんがえてねがいどおりのじんせいをいきてゆこうね
二人のことを学校の先生にわかってもらうためにはどうしたらいいのだろうか。二人が示している外見上の様子は、こうした会話をすることができる子どもたちにはとうてい見えない。現在の常識では、理解されにくいのは無理もないことかもしれない。二人は、自分たちの体の問題についても、次のように語ってくれた。
◇◇君:じっとしていることがむずかしいので からだがいつもうごいてしまうのが りかいされないでこまっています
せんせいにそれをつたえてほしいです
てがいつもくちにはいっているのは すっていないとからだがとまらないからです
きもちとはちがったうごきをするのでこまっています
○○君:いつもからだをうごかしていないとじっとしていられないのでこまります
すこしのじかんならじっとできるけどながいじかんはむりです
つらいりかいされなくて
のむときもすこししかのみこめないのでこまっています
なかなかわかってもらえなくてくやしい
私は、こうした体の動きを何か意味のあるものとしてこれまで様々な考察をくわえてきた。体の動きを止めること、姿勢を作ることとの関係で考えてきたことは、かなりあたっていたとは思う。しかし、当事者からじかに語られると、そこに、自らの体がままならないつらさと、誤解される無念さとがひしひしと伝わってくる。現に私自身も、こうした行動に意味があると考えつつも、それは、言葉を獲得する以前の段階に特有のものと考えてきたのだから。
彼らがのぞむみんなからの理解を得るためにも、こうしたことを一つずつ明らかにしていかなければならないのだと思う。
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2008年8月13日 09時20分
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子どもの頃から言葉を話したかったということを切々と訴え、友達が亡くなったときも何も言葉にして言うことができなかったということを切々と語った小5の○○さん。これで、3度目の関わりとなる。2月に大切な友達を亡くしたという。そこで、そのお友達にあてた文章を書いてみたらと提案した。
そして書かれた言葉は次のようなものだった。
○○○ちゃんへ
そちらでもげんきですか
のぞみどおりにはなせるようになりましたか
もしはなせていたら こんどいっしょにはなそうね
どうして○○○ちゃんはわたしをおいてさきにいってしまったの
わたしはとてもさびしいです
めのまえのなやみはたくさんあるけど
わたしはまだげんきだから
○○○ちゃんのぶんまでがんばりたいです
のぞみどおりのじんせいをいきられるように
がんばりたいとおもいます
彼女が初めて言葉で気持ちを話せたのは、友だちが亡くなった翌月の3月のこと。ともに、小さい頃から言葉を話せずにいて、はなせるようになることをともに夢見てきた。しかし、自分は願いがかない、友だちはかなわずに逝ってしまった。
私も、もう少し早く出会えていたら…と思うけれども、そこが出会いの偶然の非情だ。せめて与えられた機会を無駄にしたり逃したりしないということだけが、私たちのできることだ。
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2008年8月11日 23時41分
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研究会の発表で、ある女の子の勉強の様子と言葉とが紹介された。私も関わったことのあるお子さんだ。その言葉の中から、いくつか紹介したい。
「ままそだてありがと」。先生との試行錯誤の中から生まれた言葉だ。小2で初めて開かれた言葉の世界は、こんなふうにして始まった。
一度会ってみたいという思いで、九州に住む彼女の家を訪れた。
そして、そのとき綴った言葉の中に、こんな表現が含まれていた。「かあさんずっとあいしあっていこう はつのねがいです ねがいはいっぱいあるけどかなえられないことがたくさんあるから のぞんでもえられないことはのぞまないことにしている」「ふしぎですもうだめかとおもっていたけどのぞみがかなえられました」と。
「はつのねがい」は母さんとのこと。「もうだめかとおもっていた」という言葉が胸につきささってくる。
そして、先生と、国語の教材で、かわいがっていた犬が亡くなる話を受けて、こんな文章を書いた。
わたしもいぬおみてみたい
かわいい
うれしいきもちになります
しんだらどうなるだろう
きっとてんごくへいくんだろう
またいっしょにあそべるかな
のはらできっとあそべるだろう
ゆめでもあそべるからなにもしんぱいしないからさみしくない
ふねがしずまないといいな
てんごくにのぼるふね
せかいじゅうどこでもあるけどにんげんにはみえない
いきているから
けどそこにはわたしはまだいかない
死というめぐって思いめぐらしてきたことが、犬の話に触発されて一気に生み出された言葉だろう。
「てんごくにのぼるふね」の不思議なイメージとと「けど そこにはわたしはまだいかない」という表現が、この文章に深い響きを与え、一篇の詩にまで高まっている。2月にかかれたもので、私はメールでいただいたが、非常に感銘を受けるとともに、命と向き合う彼女の世界を改めて知ることができた。
そして、5月になって、詩として次のものを作った。
まいにちめんどうみてくれてありがとうかあさん
そしていままでくろうばかりかけてごめんなさい
もうだめかとおもったこともあるでしょうが
わたしのことをあいしてくれて
あきらめないでなんでもしてくれて
なんにもできなくてごめんなさい
おとなになってもかあさんにめいわくをかけそうだけど
どうかよろしくおねがいします
わたしはかあさんとあいしあっていけさえすればきっとしあわせになれるとおもう
たいへんだけどよろしくおねがいします
れんしゅうします
ぱそこんできもちをつたえたい
うきうきしてきます
きっときっと
できるとしんじています
かあさんやとうさんおとうとたちみんなで
げんきにてをつないでいきたいです
懸命に生きようとするこの小さな少女の気持ちに、少しでも寄り添えていけたらと思う。
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2008年8月11日 23時14分
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あるグループでお会いした○○君は、この世界では著名な先生のもとで小学校時代を過ごしてきた。今度、○○君のおかげでその先生とお会いする機会を作っていただくことができた。今日の言葉は、そのことから始まった。
しばたせんせいと○○○せんせいがあたらしいみらいをおおきくたくましくきりひらいてくださることがたのしみです。
新しい未来を大きくたくましく切り拓くということが私にできるかどうかわからない。しかし、○○君の熱い思いには、精一杯答えていかなくてはならない。
そして、○○君は、さらに自らの深い心の境地について語る。中学生ではあるが、置かれた状況の中で、彼の心は、すでに大人の世界の中にある。ひらがなだけの文章だが、必要な文字を漢字に置き換えると次のようになる。
けっして諦めないで願いがかなえられることができて本当によかったです。最高に幸せです。望めば必ず扉は開かれるということが証明されました。失われた過去は戻ってはきませんが望みにあふれた未来があることが素晴らしいです。苦難それは希望への水路です。決して諦めてはいけないということを教えてくれます。手の中に美しい諦念を握りしめて生きていこうと思う。美しい諦念は真実そのものです。苦しみの中で光り輝いています。手の中にある真実は幸いそのものです。望めばいつでも手に入りますが誰もこのことは知りません。なぜなら人間は常に楽な道のほうを好むからです。生きるということは苦難となかよくしてゆくことなのです。
「苦難それは希望への水路」「美しい諦念を握りしめて」という言葉、あまりにも研ぎ澄まされた至高の言葉だ。
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2008年8月6日 13時07分
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盲学校に通う○○君は、弱視と肢体不自由が重複したお子さんだ。ゆっくりと一音ずつ確かめるようにしゃべる○○君は、必要最小限のコミュニケーションは声でとれ、また、大きな文字なら読むこともできる。その彼の言語表現を助けるために、いいソフトはないかと尋ねられ、2スイッチワープロとスイッチ接続用のマウスを差し上げた。スイッチは、他の先生がお持ちになっていたフィルムケースで作ったスイッチを使った。彼は、翌日には、もうしくみを理解し、ゆっくりゆっくりと文字をパソコンに入力することができた。先生のご希望で、いくつかソフトも改良した。それから、国語や自立活動の時間などにパソコンが取り組まれてきた。
そんな彼に、私が直接関わらせてほしいとお願いしたのは、2週間ほど前のことだ。最近自分が身につけてきたスピードで彼と文章を綴ったら、もっといろいろなことを語るのではないかと思ったからである。
それは、さっそく夏休みのある一日に実現した。
自分でていねいにゆっくりと二つのスイッチを押し分けながら操作することは熟知している○○君に、今日は、ちょっと違うやり方でやらせてほしいと言って、前後のスライドスイッチを提示した。引くと押すとで二つのスイッチを操作し分けるわけだが、引く方は力をできるだけぬいて私がカチカチと進めていくので、それに手の動きをゆだねてもらい、選びたいところで、ここだと思うと手に力が入って、スイッチのカチカチという音が止まって、そこを選ぼうとしていることがわかるということを伝えた。一緒に名前を書いてみると、すぐにお互いに要領が飲み込めたので、夏休みについて何か書いてみてと頼むと、
「なつやすみどこかへいきたいのだけどいきたいところがきまらないのでこまっています。」とさっと書いた。そして、次のような文章が綴られた。「しばたせんせいのすいっちください。すいっちがあったらいいとおもいます。ねがいはうちでできるようになることです。くうきのようなかるさです。うれしいです。」
一つ一つの動作をゆっくり行う彼は、それぞれの動作にたくさんの力を入れている。その力がいらずに軽やかに動くので、そんな表現をしたようだ。
はにかみやの彼に、すぐ横におられたお母さんについてどう思っているか書いてくれると頼むと、とてもてれるようにして、「よくめんどうをみてくれてかんしゃしていますつかれがたまったときははゆっくりやすんでくださいね。」と書く。
なかなかすぐには書く内容が決まらないようなので、将来の夢は、と聞くと、「ひとりでくらしていくことができたらいいなとおもいます。くるしいこともあるかもしれないけどいっしょうけんめいがんばればできるとおもいます。まけずにいきていきたいです。しっかりかんがえていこうとおもいます。」と流れるように綴ったあと、「みんなとなかよくしていつまでもともだちでいたいとおもう。くらすのなかまたちです。」と付け加えた。彼のクラスメートは、彼を入れて、3人。幼稚部からずっと一緒に過ごしてきた。
そして、「くなんのひびでしたがのぞみがかなってうれしいです。」続く。「くなん」という難しそうな言葉が、なぜか、よく子どもたちから出てくるが、彼もまた、そうだった。普段の彼からはうかがい知れない心の奥底が一瞬だけ、顔を出したように思えた。いつか自由に言葉を使いたいというのぞみがかなったと読めばいいのだろうか。ふと、まわりに沈黙が流れた。
そこで、横にいた担任の先生についても、どう思うかと聞いてみたところ、「×××せんせいはとてもこころのやさしいひとですこれからもよろしくおねがいします。」と綴り、その時には、もう、ふだんの、やさしい○○君の姿がそこにはあった。
秋になったら、スイッチをもって、また、来なければ、と思った。
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2008年8月3日 01時34分
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学校 |
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就学前から関わり、手の運動と姿勢の問題について、数々のことを私に教えてくれ、研究発表や授業などで何度も紹介してきた20代後半の女性○○さんが、やはり文字を綴る力を秘めていた。
毎日、早朝から現場に出るお父さんは、休日など仕事の合間をぬって家のそばに借りた畑で、野菜を育てている。とれた野菜をあげるからと誘いを受けてうかがった。もともとは家内に声がかかったのだったが、たまたま早く帰宅した私は、くっついていくことにした。ちょっとひっかかっていたことがあったからだ。
6月の関わりで、私はパソコンで文字を綴ることに挑戦した。そして、確信のないまま彼女の力を拾っていくと。「ちいさいときからはな」という文字が並んだ。だが、そこで、彼女は泣き出してしまったのだ。私は、経験から、うれし泣きもあり得ると思っていたが、ふつうに見れば、わからないことを強要されていやがっているように見える。そして、見かねたお父さんは、「せっかく先生ががんばっているのにそんなにいやがるんじゃしょうがないね」と○○さんに声をかけて、「こんなにさわいでいるんで無理ですね」とおっしゃった。さすがにここで無理をしてもと思ったので、そこでパソコンはやめた。
そして、7月は、自信が持てず、ついにパソコンを開くこともなかった。
だが、どうしても「ちいさいころからはな」という文字が頭から離れない。野菜をいただきにあがるだけだったのだが、もし、チャンスがあればと鞄にはパソコンを入れて、お宅へ向かった。野菜をいただくはずだけだったが、私もいるということで、招き入れられ、まあいっぱいやりましょうと言って、ウィスキーのボトルが出てきた。○○さんが横になっているすぐ脇で、さっそくグラスにウィスキーが注がれた。
話題はすぐにお母さんの健康のことになる。お父さんは、宝くじがあたったら、家のローンを払って、楽な仕事にかわって、自分の臓器をあげるというふうにおっしゃる。○○さんのためには、二人そろって長生きしないといけないということだ。その後話はあちこちに飛び、私もお父さんもすっかり酔いがまわってしまった。朝の早いお父さんは、ここで、悪いけど寝ますということで寝室に移られた。常識的にはそこでおいとまするのが当然だが、酔っていたこともあったと思うが、お母さんに、ちょっと、パソコンを出してみたいと伝えた。
そして、1時間半ほどかけて次のような文章が綴られた。
やはり最初はお母さんの体調と、お父さんについての思いだった。
かあさんがげんきでいつまでもながいきしてもらいたい
めんどうをみてくれてかんしゃしています
とうさんにはとてもいつもわるいとおもっています
しっかりいきてみたいけれどなかなかおもうようにならないのでくるしいけどがんばります
きもちをことばであらわしたかった
じはしっていたけどてをつかってかけるとはおもわなかった
彼女は、未熟児網膜症でほとんど見えていないと言われていたので、この言葉には驚いた。そこで、見えているのと尋ねたところ次のような答えが返ってきた。
みえています じはちかいところならみえます
かんじもわかります
そして、6月の関わりのことに話が及んだ。
くやしかったことがありました あんなにきもちをひょうげんしたのにつたわらなかったとです
りかいしてもらえてうれしかったからないただけです
ねがいはしんじてらうことです
ここで、これまでの私の関わり合いについてどう思ってきたかと聞いたところ、
よくわたしのことをきにかけてくれてうれしいです
と、答えが返ってきた。さらに、文章は続く。
せかいいちのおとうさんです
くるしみのひびがこれでよろこびのじんせいにかわります
「じんせい」という言葉は○○さんのの大好きな「水戸黄門」の主題歌に頻繁に出てくる言葉だ。彼女は、この歌が流れると全身に力を入れて喜ぶ。○○さんと未熟児で弱視というような点で共通している大越桂さんは、その著書『きもちのこえ』の中で、水戸黄門の歌についてふれてあるが、実は、その部分を読んだとき、○○さんと重なって、そのページから先に進めなくなってしまった。「人生楽ありゃ苦もあるさ」という何気ない歌詞が、言葉として○○さんにも届いているのではないか。そうすると私たちは大きな見落としをしていることになる…と。
とうさんにはやくほんとうのすがたわたしをつたえたい
ここで、失礼を顧みず、いつもタオルを握って口でかんでいることについてその理由を尋ねた。
からだがうごかないからいちばんつかえるところをつかっているだけです
そうだったのかと、納得した。
かあさんいつもありがとう
わたしのことにいそがしくてからだをこわしてしまって
ねがっていますかあさんがながいきをすることを
ねがっていますおとうさんがいつまでもげんきではたらけることを
○○さんの心からの願いである。そして最後に一言と尋ねたところ、次の言葉が返ってきた。
てがつかえてうれしい
酔いは幸い、手もとをくるわせることはなかったが、目の前のできごとは、本当にまるで、夢のようなできごとだった。
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2008年7月31日 09時03分
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先週のこと、都内で、10代の若者たちと出会った。もちろんみんな障害は重い。今日、私は、一つわがままな申し出をした。3人の方に出会うことになっていたが、順番に一人ずつではなく、最初から3人にいてほしいと。それは、ぎりぎりの言葉を本当に聞いてくれわかってくれるのは仲間に違いないと思ったからだ。
最初に綴ったのは、男子生徒で、いきなり重い表現から始まった。「くやしかった がっこうでしんじてもらえず(…)わらわれた」と。いったい何があったと言うのだろう。そしてなかなかスイッチ操作に集中しにくくなったように思われた。そこで、もう一人の男子生徒◇◇君に変わった。すると、「○○くんが じがわかるりかいりょくがあるとはおもえないといってばかにしていたのをみました ほんとうにゆるせないとおもいました そのことがかきたかったのだとおもいます」とみごとな説明をくわえてくれた。言葉だけでも二人の絆は伝わってくるが、言葉には表していない数々の思いが二人の間にはあるはずだ。そして、さらに、「がっこうのせんせいというのはこどものおせわをするだけではだめだとおもいます こどものかのうせいをしんじてみらいをきりひらいていくのがしごとなのではないでしょうか」と綴る。もはやわれわれに返す言葉はない。彼は自分のことについてはついに語らず「つかれたのでかわりましょう」と、女子生徒の☆☆さんにパソコンをゆずった。
☆☆さんは、二人のやりとりを遠巻きに聞いていたが、きっとこの日のために考えてきていたと思われる言葉を一気に綴っていった。「けっこんしたいとおもっていますがどうしたらいいかなやんでいます まねがしたいというのではなく つまとしていきていきたいからです」。結婚という人生の大きな問題に正面から向かい合おうとしている☆☆さん、さらに、「ぬいぐるみのようなじゆうのないじかんだけをすごしているのではなく じゆうなじかんをすごしていきたいです とてもこのままではがまんすることができません」と綴った。そして、「そつぎょうしたかったけど ねがいごとのかなうしゃかいではないのでそつぎょうしたくありません」と、いささか将来を悲観した言葉が続く。しかし、また、彼女は、「くなんをいしきすると いきれなくてこまりますが きぼうをうしなわずにがんばりたいとおもいます きぼうがこんなふうにかたれることを こころのよりどころとしてがんばりたいです みらいをしんじてがんばりたいです」と、もう一度、心を希望に向けて立て直して文章を終えた。様々な葛藤をかかえながら、懸命に自らを鼓舞しようとする力強い姿がそこにあった。
そして、再び、最初の男子生徒に戻る。「ねることしかできないといわれてゆるせなかった ただしせいをつくることがたいへんだっただけなのに」「どうしてみんなぼくのことをりかいしてくれないのだろう くやしい」という胸にたまった思いをはき出したのち、彼もまた、次のように綴る。「のぞみはくやしさのないがっこうになることですてがつかえるようにがんばったけどなかなかうまくいかなかったけどじをかくことができてほんとうにもっとがんばろうとおもう」「「けっしてかのうせいをあきらめたくはないのでよろしくおねがいします」と。
自由に語り合うことがむずかしい仲間たちだが、いろいろな思いを抱えながら生きていることを、ともに理解し合いながら青春の時を生きている。短い時間だったが、ともに語り合うことの大切さを感じさせられたひとときとなった。
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2008年7月27日 13時11分
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ある学習グループで、実践を報告し合う会を持った。今回はそこにスペシャルゲストとして43歳の重度の身体障害を持つ男性が参加した。男性は、かつて、私たちの仲間のH先生が、新任の時に担任した。養護学校義務制の実施によって初めて中学生になった彼は、見た目の障害の重さにもかかわらず、文字を知っていた。NHKの教育テレビを見て覚えたという。当時かなタイプをがんばっていたという彼は、現在、トーキングエイドを使って話をする。彼は、手を使うためには、首をそらさなければならないため、手元を見ながらうつことができないので、手探りでキーを選んでいく。
このトーキングエイドは、卒業後彼が通うようになった作業所の職員と、大阪の集会に出かけていって見つけ、使うようになったものとのことで、この機械によって、自分が生きていてよかったと感じられるようになったと語られた。彼が作業所で取り組んだことは、武勇伝がたくさんあるようで、病院の一角を借りて古本屋を営業してきたことや、シドニーのパラリンピックを見にいくためにわかめ販売をして、その収益金でオーストラリアに行けたということなど、話はつきなかった。
その彼の話にとても悲しいことがあった。彼よりもさらに障害の重い昔の仲間が、入所している施設から一時的に帰宅した際に、彼に会いたがってるというので訪問したところ、言葉の表現手段がないとされる仲間が、彼のトーキングエイドによる問いかけに対して、わずかに動く手を動かして意志を伝えてきたというのだ。その内容は、自分の施設できちんと薬を飲ませてもらえていないということとそのために自分の健康状態は非常に悪く、もう死んでしまうかもしれないというものだったという。そして、悲しいことに、半年後その仲間は亡くなったというのだ。H先生は実際に亡くなった彼のことも知っていて、信じられないような話に、大変ショックを受けておられた。信じられないような悲しい話である。
また、そのコミュニケーションの方法についても、いったい具体的にどうやってそんなに重い障害をかかえたお二人が、言葉を通じ合わせられたのか、イメージができなかった。もちろんそれは信じられないということでは、まったくない。私たちがイメージできないのは、私たちが、そういうかすかな動きに対する感受性を磨いていないからである。しかし、あらゆる専門家がかかわってもなしえなかったことを、自ら大変な障害を持つ彼が、成し遂げたのだ。それは、一方で驚異であるけれども、やはり、当事者同士にしかわからないことがあるということなのだ。私たちは、そこから、多くを学ぶべきであることはまちがいない。
私は、彼の前で、彼の後輩たちの言葉を報告した。いつもなら長々と説明をするが、この日は、「朗読」に徹した。伝えなければならないのは、私がどう関わったかなどではなく、後輩たちの言葉そのものだと思ったからだ。
彼は、とりわけ、私との27年間のおつきあいの末に、34歳になって言葉を綴った男性の言葉のところで全身で共感を表明しておられたように感じられた。
会場には、高校生の女子学生もいた。彼女は、両手の介助を受けてパソコンで語る少女である。彼女がパソコンで語れる準備がなかったのでその場で感想を求めることはできなかったが、たくさんのことを感じ取ったようだった。
ふと、言葉を持っていながら理解されていないという私の周りで起こっている状況も、結局は、当事者が切り開いていくものだという思いがよぎった。
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2008年7月22日 21時21分
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